はてなキーワード: ラストとは
僕ヤバを考える上で避けて通れない「山田はいつ市川を好きになったのか」問題。
twitter から入るとかなり初期から好意があるような気がしてしまうが、実際どうなのだろうか?
検討してみた。
個人的には「karte.22:僕はずぶ濡れた」が「異性としての好き」の始まりではないかと思う。
それまでの山田の市川に対する感情は「友達としての好感」ではあっても「異性への好意」ではなかった。
という事で、山田が自分の恋心を自覚する2巻ラスト karte.30 までを読み返して、山田の市川観を確認。
6話(ナンパイセン回)にて、市川は自分から行動した事により傍観者の立場を脱却。
14話は市川にとっては大事な回だが、山田が市川を見る目が変わるようなことは特に起こっていない。
山田が鼻を負傷している時期。
この時期の山田は鼻の事に加えバスケ部退部などもあって珍しく弱っている。
しかもそれを(バスケ部員である)ちい達にも出し切れていない。
15話(ご自由にお使いくださいティッシュ)で市川の不器用な優しさを知った山田。
16話(自転車二人乗り&パピコ)では弱気な自分の出しどころとして市川の優しさに甘えている。
この事が大きく打ち解けるきっかけになった。
自転車パピコ以降の山田は市川に心を開いていて、交流もそれまでより踏み込んだものになっている。
問題の雨降り回。
ここまでが友人としての交流なのだとすると何故、山田は傘を隠して市川にカッパを借りたのだろう??
個人的には市川のモノローグにある通り「イベントを楽しんでいる」のじゃないだろうかと思う。
突然の雨にリア充たちが相合傘を楽しむ様子を見て、自分も仲の良い男友達を巻き込んで「恋愛ごっこ」してみた、というような。
その結果、意外とドキドキした事で市川の事を意識するようになった。
続く23話では原さんと恋バナ、24話では神崎君をサポートしたり、市川をからかったり。
山田は「恋愛のある日常」を無邪気に楽しんでいるように見える。
職業見学のあれこれで市川を好きになると同時に、市川が自分をいつも見ている事にも気づく。
お菓子バレの危機に市川が見せた山田への真っすぐな想いを受けて、自分も市川に心奪われていると自覚。
やっぱり結論としては、好きになり出したのは22話で、それより前はお友達、としたい。
以上。
うーーーーん…
ヒナ姉が目を覚ました時はうるっと
それ関係者みんな読むわけでしょ。
娘ちゃん、グレない?
一途で純な愛情が勝つ、ってこと?
主人公!
どんなに深く愛しても叶わないことも多い。
逆に重いていわれたり、こじらせて
ストーカーになったり。
子育てもして、人としてすごく成長した。
中盤からの男運のなさは同情しきり
だけど、ラストそれでいいの?
事故ったのは気の毒だけど、その原因は
身からでたサビを回収しただけだし。
それが愛っつわれてもな…
んじゃない?
初めっから。
そこ抑えられないの?
まあ、妹ちゃんみたいな強い子には
同じ道を歩む料理長があうよ、きっと。
感じに別な愛も見た。
(まだ未練あったの…?逆に怖い部分もあるが)
どう思うか…
パパ不潔言われても仕方ないかもね。
結婚式の感動もなくなったわ。
前回で最終話でよかったんじゃない?
かな~
女読者にゃ白けるだけだわ
ラスト1発やりたい
ざっと眺めてみた限り三大都市圏ならスペックだけなら普通オブ普通。
もちろん世代の平均値なり中央値を取れば上位にいるのはその通りなのだが
例えば君が20代後半~同い年くらいの人と婚活で出会おうとした場合に、
そこそこ容姿も整って社会的ステータスもあって「あ、好ましいな」と思う人がいたら
その人には何百ものイイねが来るわけだ。
婚活アプリとかの自己申告が本当に正しいかは置いといての話だけど、
あなたみたいにある程度の自信がある人しか婚活の場には出てこないからね。
容姿なり年収なり若さなり、ある程度の勝算がある人を奪い合う場なんだよ。
もちろん、年収や容姿が平均に満たないような人も結婚はしているんだろうけど
社長や弁護士や外資勤務みたいなのがうごめく中で選んでもらえるのか?という一点に尽きる。
あなたのスペックならイイね押したらそれなりにマッチングするだろうし、向こうからもイイねは来る。
でもそれは足切りであって本選じゃない。
観たら絶対に自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作の小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。
しかし最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画の存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。
観た後では感情が大きく動いて今の気持ちを100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。
(ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメントを映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)
映画のタイトルは『悪童日記』と言う。原作の小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。
十年以上前、私は好きな作家がたまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校の夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。
しかしそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画を映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。
(このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品は映画→原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作→映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画を100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画をメチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作の小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画と原作では構成も人物もかなり別物だからだ。原作ではティムとレックスはティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラント博士は最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)
改変箇所について書いていきたい。
映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親の存在」「日記帳というアイテムの出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。
原作の小説は主人公(双子の少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記の形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作のwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。
父親云々の話に戻ろう。
主人公の家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。
描写があるという事は、書き手である主人公の双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要なものだけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争中なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号や国名、地名や人名などの固有名詞はほとんど出てこない。<大きな町><小さな町><解放者たち>などの言葉でしか分からない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞や役職やあだ名などでしか呼ばれない。双子自身の名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。
「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフの作品はわりとどれも)に通底するテーマのひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢で主人公たちの無関心を示しているのだから、映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しかも作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファンの気持ちを言わせてもらうならば。
以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。
原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子はその男が自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。
亡命決行の日、父親は国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷は国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷と国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全な亡命のやり方だ。
原作の小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子の別離が同時に強く印象づけられて終わる。
それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子は自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷や感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくその日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから、日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要な位置を占めるはずだ。
それが映画ではいきなり、別れる父親からの最後のプレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。
日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公の双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親や教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語だからだ。
「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷は双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。
「彼らが巻き込まれるしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。
そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女の作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女の作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。
とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものにすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。
観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳にパラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作の文体、淡々と事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。
もちろん、映画化された事によって現代日本の読者からは想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らしの風土や感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。
主人公の双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。
私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさらな気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。
だから私はこれから記憶も思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義なことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう。
せめて映画ではラスト、父親はちゃんと地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。
☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説『悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたりの証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。
主人公はカメラマンの夢を挫折して家電量販店で販売員をしているアラサーの男性。
カメラ売り場担当として、そして写真撮影を趣味として夢と折り合いをつけようとしている。同僚とも良好な関係を保っているつもり。
そんな彼は自分とそっくりな人間と出会い彼と交流を重ねていったことでアイデンティティがどんどん揺らいでいく。そして更に自分のドッペルゲンガーが次々と出現し、次第に彼らと主人公の自我が溶け合わさり事態はどんどんカオスになっていく…
とまあこういう筋書きなんだけど、
大なり小なりみんな考えることは似通っていて本当は個性なんてものはない。そんなの個体差でしかない。
それでもあらゆるものががちがちにシステム化されゆく現代社会において一個人としての尊重を守ろうとするならば、椅子取りゲームみたいに誰かを足蹴にしなければならない。
今作は皆が見ないようにしているその鬱憤と暴力性をシュールかつシニカルに描いた作品で、増田みたいな人にとって少しは慰めになるかもしれない。
最初はワクワクしていた。ゲームの制作が発表した段階で公式アカウントをフォローしたし、LINEも追加した。
「ぜって〜やりこむかんな!」とケツイを固めていた。ほぼ最速ぐらいのタイミングでDLして、まずは「チュートリアル長ぇな……」と感じた。約20分かけて最初の10連って流石に長くない?戦略性が問われるような難しいゲームでもないし、女性向けゲームなんてなんとなく触ってるうちにわかるものだし、なんとなく始まるんだと思ってたよ。「プロローグ長ぇ〜〜やべぇ〜〜もう飽きてるまである……もしかしてこのゲーム、私に向いてないのでは!?!?!?」と思いつつ始めた。1章の内容は今特に覚えてない。あー、なんか爆発したな家庭環境が可哀想なんだな……まぁ1章だし今後面白くなるだろ!ぐらいのものだった。
2章までは初日時点で配信されていた筈なので、ストーリーの戦闘やらクソリズミックなどで経験値が貰えないことに微妙さを感じつつくっそゲロつまんないランク上げをしてクソ渋い育成アイテムをつぎ込んで2章を読み進めていた。
2章、サバナクロー。ライオンキング……ライオンキングとても好きな映画なので期待していた。スカー様はシンバも殺そうとしてたけど最終的におじたんとチェカくんになってなんか仲良しこよししていた。あれ?ヴィランズとは?おじたん20歳て……高校で留年すな!!!
この辺りで若干展開の危うさというか杜撰さがチラチラしていた。
(私の推しはスカラビア寮だったのでこの時点ではまだちょっと期待を抱いていた。)
暫くあとに3章が実装された。双子の魚人形態のことしか記憶にない。Twitterでは絶賛の声も沢山見たけど、あれ魚人じゃない?モブ人魚がリトルマーメイドだったからあまりにも魚人でびっくりした。オープンアカウントで文句言ったら袋叩きにされそうだったから言わなかったし、辞めたのにも関わらずオクタヴィネルに対してはいまだにあまり良い感情がない。アズールがなんか赤ちゃんみたいになって泣き喚いていた。しかも過去太ってたのがコンプレックスとかアースラ様のことちゃんと見て。それから物言って。
ハッピービーンズデーとかいうイベントも挟まった。うっすいシナリオを10倍に希釈したみたいなストーリー、何故か連勤のオクタヴィネル寮。メインストーリーに出てきた寮しかイベントにも出てこないの?顔見せくらいしとけば?未実装寮に推しがいる人間はパーソナルストーリーくらいしか推しに関しての情報がない状態で待たされるの?てかそもそも初期段階でSSRが実装されてないキャラが多過ぎない?おかしいだろこのゲーム!スカラビア寮きたら引退ですわ〜!
ついに推しのメインストーリーが実装された。とりあえずカリムを引いて、一安心して読み始めた。まぁ3章ラストの伏線通りの展開。pixivとかTwitterで見たことある。言ってしまえば既視感の塊だった。アラジンも大好きなので前編、中編ぐらいまではあーオマージュっていうかアラジン劇中のセリフ多いなーとか思いつつ後編を待っていた。後編が実装されると、それまで抱いていた淡い期待とか、ワクワクする気持ちとか、そういうものは吹っ飛んだ。クソリプおじさんみたいなセリフをほぼ変わらない2択で推しに突きつけなきゃいけなくなり、なんだかメインをオクタヴィネルに食われまくり、いいところも全部持っていかれて信頼していた従者に裏切られてそれを許す。ほんとなに?ドッカーンじゃないんだよ。物語が盛り上がっていくはずの後編に行くにつれて、私のテンションは下がっていった。最後にあのネズミさんが出てきていたけど、次のイベントにもスカラビアの2人が出るらしいけど、アラジンっていう物語をこんな風に消費されるんだと思ったら、このゲームに時間を費やすべきではないと感じた。
最後の意地というか、ジャミルのSSRも一応引いた。なんか、普通に主従の影を見てたかった。
というかメインストーリーであんなラストにしておいて次イベに普通に出てくるってどういうこと?なかよぴ〜されても冷めるだけなのでは……?
SSRを引くためのコストが初期実装とその後に追加されるキャラ達で違い過ぎる。最初は引き直し可能なのに、100連でSSR確定もすり抜けるし。実質青天井やめろや。
これ、お気持ちっていうか辞めた理由にしかなってないな。まぁいいや、しらね。吐き捨てだ吐き捨て。
強いてお気持ちを言うなら、Twitterで使われるタグ多すぎ。
願わくば、今後実装される寮のストーリーが少しでもマトモに、普通に面白くて特定のキャラクターにヘイトが溜まらないようなものでありますように。
さよなら。もうインストールすることはないでしょう。ツイステッドワンダーランド。カウントダウンイラストの時が一番楽しかった唯一のゲーム。
気になるものがあったら手にとって買う。
そして、ほんの世界に足を踏み入れるのだ。
紙の本を手にとった時の高揚感、紙独特の香りを感じながら最初のページを開く瞬間が好きなのだ。
このような感じで、紙の本でしか感じることしかできないものもある。
しかし、そこで避けて通れないのが今回のテーマとなっている『本との別れ』だ。
少し大きめの本棚がある、いたって平凡な自室があるだけだ。
そのため、本を購入し続けていると単純に本が入りきらなくなるのだ。
そこで、本と共に生きていくためのいくつかの方法を考えた。
→ついつい購入しすぎてしまうし、かさばって見た目が悪くなる。
②大きな本棚を購入する
③本用に貸倉庫を借りる
→さすがにやりすぎだと周りに止められる
…と色々考えた結果、自室の本棚や押入れなどのできる限りのところに本を収納して、入り切らなかった本とは別れることになった。
大切にしてきた比較的新しくて綺麗な本だ。
いつもは宅配買取を利用しているが、今回は買い物ついでに、家族に協力して貰って古本の買取をしている店舗まで持っていった。
今回持っていったのは、漫画の買取に特化したいわゆるオタクのためにあるようなお店だ。
その店を選んだのは、その道のプロに査定して貰うと安心だったからだ。
③買取用の札を貰う
といった感じで手続きを済ませる。
あとは、店内で待つだけだ。
店員さんが、買取価格が書かれた紙を渡し、さらっと次の手続きにいこうとするので『それぞれの本の買取価格を教えて貰えますか?』と聞いた。
ここでそれぞれの本の値段を聞いて少し驚いたのが。
①新しい作品・アニメ化する作品であっても在庫が沢山あるものは買取価格がかなり安くなる。
④話をよくよく聞いているとセットで持っていった少女漫画のラストあたりの巻だけさりげなく5円や10円で買取ろうとする(それだけスーッと後ろに下げようとする)
…中でも④にはさすがに『うーん』となったので、それだけキャンセルして買取不可の本と一緒に持って帰ることに。
(※ちなみに、少女漫画は完結している場合セット買取が多いため、巻数が欠けると困る)
大半の本は買取してもらえると思っていたのに、無理だった。
買取してもらった値段は概ね満足だが、しんどい帰り道となった。
ちなみに買取価格で一番高かったのが大判新刊コミックス200円で、逆に一番安かったのが少女漫画の5円だ。
①アニメ化しているコミックスは買取価格が確定しているところにいこう。
②それ以外のコミックスもだいたいの買取価格を調べてから売りにいこう。
③近くに古本屋が集まったところで売りにいくと楽(※そこで買取不可がでても次の店に売りにいけるので)
FFがムービーゲーとして舵を切った時期は意外と早かった。それは4(IV)。
4からキャラクターが強制的に会話するシーンが増え、キャラ名も任意の名前はつけられるものの、実質固定イメージで攻略本などが表記するようになった。
もちろんIIあたりでもフリオニールなどの名前で雑誌に書かれていることはあったが、IIIまでのFFはドラクエと同じく素材としてのキャラに名前をつけて楽しむものだった。そこに重厚な裏設定なども存在しない。あくまでもキャラを自由に育ててそこに没入してほしいという立ち位置でしかなかった。
ところがFF4は違った。暗黒剣で苦しみ、苦闘の果にパラディンへとクラスチェンジするセシルと、仲間を不本意にも裏切り続けるカイン、という対象的なキャラが設定された。主人公たちは主観的な没入型から客観的なムービー型へと変わった。端的には会話数が増えて、伊集院の言うところの「クラウドが勝手に自分にできない技をガンガンきめて置き去り感がある」状態を当作より現出させたのだ(伊集院の深夜の馬鹿力 2020/5月中のもの)。物語はドラマチックになったが、その反面終盤までストーリーに沿って強制的に進行するきらいが強くなり、浮遊大陸を抜けてすぐに広い世界が広がったIIIとは真反対のアプローチをとったといえる。上の伊集院氏の言ではないが、ラスト付近ではキャラを操作してもいないのにWメテオなる技をかましてくれたりする。あの演出には感動した人と白けた人に別れたのではないか。何しろ上限9999の技でしかないWメテオを決死の覚悟で繰り出すのだが、その後主人公たちがフレアなどで容易に9999を出してしまえるのだ。決死のWメテオは全くの無駄である。
ネットもないこの頃の全国的な風評は定かではない。しかし個人的には手狭になったな、と感じたことを覚えている。そしてFF5でジョブチェンジシステム復活とキャラ性を押し出さない、良い意味で無個性なパーティーメンバーによりユーザービリティの回帰を狙ったが、FF6(VI)では再びムービー寄りのゲームになってしまい、7以降はこの路線をついに変えることがなくなってしまった。最近では毎作ごとのにーちゃんのホスト化を止めることができないらしい。
ムービーを大胆に挟むといえば、他にもストライダー飛竜や忍者龍剣伝が思い浮かぶ。しかし両者はアクションであり、RPGムービーの先駆はやはりFFなのだろう。
実はFFシリーズは6付近までは死に泣きゲーだった。IIでのミンウは仲間をかばって死に(実はヨーゼフも味方をかばって石の下敷きになるが、何故かあまり語られない)、IIIの不幸な巫女のエリアは水中に没して死亡。IVはカインとの決別、シドの自爆。Vではギルガメッシュが主人公たちをかばって自爆する。VIのティナは不幸から生まれてきたような少女で、子どもたちを支えるために立ち上がる。
この泣きゲーの伝統は7から大きく崩れる。というより7から徐々に痕跡を消していった、というべきか。かろうじて残っているのはFF10でユウナの人身御供が発覚するあたりだろう。何れにせよ、グラフィックスの進化と共にFFがハリウッド化してゆくのはやむを得ないことだったのかもしれない。
今わりかし酔っているのでついでにこのブログを書くことにした。酔ってるときはろくなことしないなと改めて実感している。
私の推しは去年の末に芸能界を引退した。元々いたグループからも卒業した。
この半年、彼のことを考えない日はなかったと思う。毎日毎日「今日は何してるのかな」とか「生きてるかな」とか「大学頑張ってるのかな」とか何かと考えてた。
私は芸能活動している彼にいつの間にか本気で恋してしまった。オタクとアイドルの恋で、オタクが一方的に好きになって、正直言って報われない恋だったしそもそも恋と言えるのかすら怪しいものだった。
それでも私は彼のことが世界で一番好きだった。別に報われたいとかそういうものじゃなく、ただ好きだった。アイドルとしてじゃなくて一人の人間として。
彼が卒業すると、学業に専念すると、そう発表されたとき、私はただ泣いた。悲しい気持ちでいっぱいだった。
ちゃんと彼のラストライブにも行った。もうこれが終わったら死んでもいい、そう思いながら東京行きの夜行バスに飛び乗った。
悲しく、でも楽しい推しのラストライブから半年経とうとしている今、私は一年弱推してきた彼から別の人に推し変しようとしている。というか推し変した。
本気で恋していた人からそんな簡単に鞍替えすんのかよって言われたらまあ何も言えない、だってその通りだもん。
でもそれでも、彼がいたグループのことを嫌いになんてなれなかった。だって彼がラストライブで「僕と一緒に応援してあげてください」って言うんだもん。彼の言うことにはできるだけ従順でいたかった。
だし、自分がそのグループのこと嫌いになんてなれそうにないなって思っていたから。好きな人がそこからいなくなっても好きだったから。
別にこんな宣言をわざわざ書かなくてもいいんだろうけど、自分の気持ちを整理するため、あと自分と彼への決意表明としてこれを書いてる。ただの自己満。
私は彼への最初で最後の手紙の中に「これからも一緒に応援しようね」って書いた。この(独りよがりな)約束を自分から破るなんてことはしたくなかった。
でも私はいない人を応援しているのがとても嫌だった。いつまでも過去に縋りつくなよって思うタイプの人間だった。だからこの中途半端な自分が嫌いだった。
これからも応援するならちゃんとケジメをつけたかった。だから今回推し変することにした。
今回これを書いた理由は二つ。一つは推し変したことを自分に言い聞かせるため。もう一つは推し変してしまう私を許してほしい、そんな理由で書き始めた。
そこまで重く考えなくてもいいじゃないっ思う人もいると思う。でもそれは私が許さない、自分が自分でかけた呪いに苦しんでいる。
早くこの呪いを解いてほしい、そんな気持ちで推し変したのだ。こんな弱いオタクでごめん。
実際推し変した彼のことはとても好きである。でももう恋はしないと思う。普通のオタクとして推したい、そんな感情である。
こんな感情になるのはもっと先だと思っていたから、意外と早く訪れてびっくりしている。時間が解決するなんて言われたが、本当にその通りだと思っている。
このグループに出会えたことは最高だと思っているし、好きにさせてくれた彼のこともとても愛している。でももう私は彼に会う術はない。だからこそこの綺麗な記憶のまま次に進みたいと思った。
やっとバビロン見終わった。
終わり数話で「またあくびが出る展開に…」と思ったが、ラストに向けての演出だった。
あくびが出るまま軟着陸したらどうしようかと思ったわ。
しかし緩急があり過ぎるので見ている者がついていけない。というかつまらなくて途中で離脱しそうになる。
この話の中の合衆国大統領ほど悩むまでもなく(普通に生きていれば考えるまでもなく)社会的に「善」と言えば「持続可能であること」に他ならない
(個人のそれは議論しても仕方ない。100人居れば100人分の善悪がある)
それをここまでグダグダと…。
「自殺法」なんてゲスな名称を使っている時点で、見ている者に嫌悪感をわざと与えている辺りも。
そして「これを見て嫌悪感を感じるなら、そういうことだ(お前は「自殺は忌むべきもの」と考えているんだ)」と思わせるのも。
見ている者に対し考えさせる風を装って、その実全く考えさせる余地を与えない。
それと気付かない内に導かれるなら作り手の手腕は素晴らしいと言えるんだけど。
予定調和を逆手に取ってる積りなのかもしれないけど、こちらとしてはただ胸糞を煽り続けられただけって感じだ。
フィクションの中での「死」や「自死」については、否定ばかりが先行するなんてこと無い。
見ている者はそこに哀しさや虚しさ、又はその反対といった感情を惹起されるので、「死」や「自死」が軽んじられたりはしない。
しかしこの作品の中ではそれらが「駄目、絶対」「忌避されるもの」として全面に押し出されて、
「よく考えろ。本当に自殺は悪なのか」と物語の中で語っていながら、見ている者には全く考えさせない。
主人公が最後に取った行動についての衝撃も「あーあ」という気持ちに塗り潰される。
結局心のどこかで「フィクションの中では悪は滅びる」という予定調和を期待している部分があるので
それを裏切られて胸糞ってのもあるだろう。
ずっと胸糞。それが狙いなのか。
余韻のあるモヤモヤじゃなくて、最初から最後までモヤモヤしっぱなしで終わってしまう。
完全悪はあるんだよ。そして人間はそれに負けるんだよ。そう言いたいのかもしれないが。
女も齋もバックボーンが殆ど語られないせいか。それぞれエピソードがあっても、全くピンとこない。
女の叔父の精神科医が言う「悪い子」というのが端的に表してるんだろうけど。
悪い子というよりも「悪魔」と言うべきなんだろう。
話の救いとしては、ラスト、バス停でのシーンで主人公の息子と女が会うところ。
これから女がこの子を殺すのか、それとも女の様な怪物に仕立て上げるのか…
物語として「今後」を想起させる部分が、せめてもの面白さを与えたことだ。
原作はどんななのかな?と思うが、到底読む気にはならん。
私が違和感を覚えたのは、こんなに重たいシーンを描きながら、物語のラストにほとんど関係ないことだった。
例えば、「この世界の片隅に」の場合は、天真爛漫なすずさんが…となるのをターゲットにしてその伏線として話が進んでいくが、「若女将は小学生!」では、ラストが成仏する前の幽霊と一緒に舞うというシーンなので、小学生が親が死んだ事故の加害者を赦すというあの重たいシーンは、単なる成長の一挿話としてしか機能していない。つまり、あの重すぎる赦しは、なぜ物語に必要だったかわからない幽霊以下の扱いになってしまっている。
だから私の場合、赦しのシーンそのものよりも、単なる挿話としてあんなに重たいシーンを描いてしまう、そのこと自体に強い衝撃を受けたのだった。「オッカムの剃刀」的に不適切というか、重要度に比して内容が重すぎる。
私も似たような感想を持った。
概ね絶賛の評価が多かったので、???となったのが正直なところだ。
全編通して、良作だとは思うのですよ。
作画はいい。今どきの評価の高いアニメ映画を見ると、場面場面で「おおっ」てなるショットがあってそれだけで楽しい。
物語のテンポも良く、作画の良さも相まって退屈することなく最後まで楽しく見ることはできた。
小学生キャラの造形がいわゆる「萌え」系に寄りすぎかなとも思ったが、今どきはこれがスタンダードな少女の表現なのかな、とも。
いくらなんでもご都合主義が過ぎるだろうなストーリー展開とか、この内容で小学生設定は無理がないか?せめて高校生だろうリアリティ的に考えて…とか、意味深に現れたわりには賑やかしとしかストーリーに絡んでない幽霊たちとか、幽霊以外は比較的リアリティのあるキャラ設定なのになんでピンふりさんだけこんなアニメチックな造形なんだ、とかいろいろ引っかかるところはあるんだけど、そのへんはまあ細部だ。
少女は悲しみを乗り越えて一歩成長しました、というのがストーリー上の帰着点なんだろうけど。
肉親の死に直接関わった人物と対峙して、即座に気持ちを切り替えて受け入れる、というのは無理だ。説得力がなさすぎる。
相手男性も悪い人とは描画されてないので、すべての事情を知った少女が散々涙するのを見たうえで、受け入れました。残ってください。と伝えられるのホラー以外の何者でもない。さらに事情を察せず無邪気にここに残りたいという男児。地獄じゃないの。
こんなエグいエピソードを一番の山場に持ってきて、サラリと感動話として展開するのに心がついていかなかった。
このテーマにするにも違うエピソードにするか、少女男性双方が受け入れていくさまをもう少し丁寧に描画してくれないと、物語が腑に落ちんのよ。
このように心が明後日の方向に揺さぶられたまま、感動した、泣ける、美しい、尊いっていう多数の感想を眺めながら、バグっているのは私だけなのか、と惑っていたらトラバブコメ含め似たような感想を持っている人も多く、ちょっと救われた。ありがとう。