はてなキーワード: バイアスとは
超長文に付き、最初に結論を書いておく。
・あまり1人旅には向かない。4人くらいで行くべし。 飯の選択肢やコスパが圧倒的に変わる。 1人で食べれるような飯は基本不味い。フィリピンクオリティ。
・かかる金額としてはマニラから4人で二泊三日で行く場合は貧乏旅行の場合に移動費等全部混みで一人あたり最大1万ペソ程度(3万円弱)、ある程度宿や飯にお金を使う場合でも2万ペソ前後(6万円弱)を見ておけばOK。
・旅のコスパはフィリピンの中でも上のほう。ただし、時間対効率は並程度。 もしも乾季中に三連休があれば是非行って欲しい。
・トップ10に選ばれただけあって景色の美しさは保証出来る。 が、ダイビングやシュノーケルが主目的だったらもっと良いお手軽な島が比国内に多々あるのでそちらへ。
・2015年4月現在、混雑は全く心配しなくて良い。
・ネット環境は思ったよりずっとずっと良い。SmartのPocket wi-fiを持って行こう。 なお市街地、北端の港近く、パラウイ島の主要地 どこでも電話が通じる。
・タガログ語は問題なく通じる。 英語もまぁ田舎の割に思ってたよりは多くの人に通じる。
・港近くの中華系リゾートの中にCityBankのATMアリ。 MEGALINK対応カードであればBDO等他銀行のカードでも現金を下ろす事が可能 *1
2009年末からメトロマニラに住み始めたアラサー男性。 日本に行ったり帰ったりもあってフィリピン滞在歴は合計4年弱。
12歳時にタイのプーケットでダイビング免許取得。モルディブ、パラオ、沖縄、サイパン、ロタ 等世界各国の海に加え、 エルニドやボホール、パラワン等フィリピンのリゾートを多々経験しており海やビーチに対して目は肥えている・・・つもりだが、欧米に行ったことがない。 *2
2013年5月にCNNが世界のトップ100ビーチを発表した。(下記日本語記事は7月の日付)
今年こそ行きたい、世界の厳選ビーチ100
この結果が在比邦人(フィリピン在住の日本人)の一部界隈で密かに話題になった。
他にフィリピンからランクインしたボラカイやエルニドは在比邦人にとって非常に有名である。
また海外ではあるが、19位に入ったタイのピピ島なんかも レオナルド・ディカプリオ主演の映画「ザ・ビーチ」の舞台になったので知ってる人は知ってるだろう。
しかし、このランキングにアジアで唯一トップ10に入ったパラウイ島は旅好きな日本人の誰もが知らなかったのである。(なおCNNはアメリカの放送局なので、ランキングに欧米系のバイアスがかかり上位に大西洋や地中海近辺のビーチが多くなるのは納得行く。)
さらに日本人の間だけではなかった。 なんと各々の職場の同僚のフィリピン人に聞いても誰も知らなかったのだ。
果たして一体どんな島なんだろうとずっと恋焦がれていた。
パラウイ島についてはネットにおける日本語における情報が完全に不足しており、9割が英語の情報、1割が中国語及びタガログ語である。
おそらくだが行ったことがある日本人は私を除いて2,3人しかいないのではないだろうか。 *3
更にいうとトリップアドバイザーやGoogleMap等における近辺のレストランや宿についてのレビュー情報も圧倒的に不足している。存在する情報はパラウイ島が観光地として素晴らしいということだけである。
そんなわけで最近行った私が知っていること全てをアウトプットすることにした。 今回一人旅をしたことで色々な地雷も踏み抜いたし、世界一詳しい日本語でのパラウイ島旅行解説を目指している。
おそらくこの日記を見る人の中で実際にパラウイ島に行く人は1万人に1人以下、フィリピンに住んでいたとしても100人に1人というレベルの場所だが、将来パラウイ島に行く日本人の変わり者の君のために文を綴ろうと思う。
超マイナー観光地かつ残念糞長文ゆえ、ブコメやスターが集まるとはあまり思っていないが、願わくばグーグルで「パラウイ 行ってきた」と検索した時に1ページ目に出るようになることを切実に願っている。
初日にまずマニラからトゥゲガラオまで飛行機で移動することになる、基本的には。 *4
セブパシフィック航空(セブパシ)とフィリピン航空(PAL)でマニラ発トゥゲガラオ行きがある。どうしてもPALが好きなんだ、という人でなければニノイ・アキノ国際空港(NAIA)のターミナル3(T3)を使えるセブパシを選ぼう。 *5
チケットを取るタイミングやプロモの有無にもよるが、11時15分発、12時15分着でだいたい2000ペソ弱(5000円くらい) 帰りは14時発、15時着で1000ペソ強(3000円くらい) +空港使用税などもろもろでチケット代は往復1万円前後と考えておこう。
なおマニラ発トゥゲガラオ行きの飛行機は左側の窓際の指定席が個人的にオススメ。 *6
飛行機の搭乗時間は1時間弱。 そこからバン乗り場まで移動する。
距離にして1キロ程度、歩いて15分程度だが、トゥゲガラオはフィリピンの最高気温の記録がある街。
標高が低く周囲が山に囲まれている盆地のため、気候は暑くなりやすい。3月の平均気温は38℃である。フィリピンで記録された最高気温は1912年4月29日のトゥゲガラオ市で42.2℃である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B2%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%AA
日本で言う埼玉県熊谷や岐阜県多治見のような内陸部の盆地に付き、3~5月の乾季の一番暑い時期の昼下がりは晴れてれば40度近く軽く行く。
無謀に歩こうとせずに、是非トライシクル(二輪車にサイドカーが付いた三輪車風の乗り物。タイ等でいうトゥクトゥク)を利用することを勧めたい。
値段もたったの15ペソ(40円程度)なのでケチらないほうが良い。 *6
バン乗り場ではトゥゲガラオ発、サンタアナ行きのバンが30分~40分に1本出ている。 地元住民の需要もかなりあるらしくすぐに次の便が出る。 人数が揃い次第or次のバンが来次第出発な感じなので時刻表なんてものは勿論存在しない。
11人乗りのバンに15人とか16人とか詰め込まれ3時間の行程を行くことになる。値段は行き帰りともに180ペソ(500円弱)
もし可能ならば1本遅らせても良いから助手席に座るべき。値段は同じなのにも関わらず後部座席とは快適さが全く違う。 特に帰りは前半右側に海の景色が見えて綺麗なので是非。
道はデコボコじゃなくて案外乗りやすい。あと窓を開けっ放しでスピード飛ばすので意外と暑くない。
サンタアナに付いたらバンの運転手さんにお願いして先端の先端のサンヴィンセンテポートまで行ってもらうように。(20ペソ程プラスしてチップを渡すと良いでしょう)
もしもサンタアナの市街地に降ろされてしまった場合はトライシクルを捕まえて15ペソ程度で港まで行ける。 市街地から港まで4キロ以上あるので歩いて行こうと思わないように。
先端の港では翌日のパラウイ島の入島許可証を買ったり、ボートの手配。 宿のチェックインより先にやってしまいたい。
基本着いて翌日の朝6時に港集合なので、徒歩で港まで行ける上二箇所が安全だと思う。
勿論もっと南のサンタアナの市街まで候補地を広げれば相当宿の数は多くなるが、早朝にもしトライシクルが捕まらないと詰む可能性があるのがちょっと怖い所。
今回筆者が利用した格安宿。GoogleMapに載っていない、やばい。(同じような名前のCostales Lodgeがもっと東のほうにあるが、そこではない)
場所的には先端の港から1本道のDugo-San Vicenteロードをまっすぐ南下。 途中それなりに曲がりつつも道なりに進んで10分弱で見えてくる右側のガソリンスタンド(PETRON)の手前を右。 明らかに1本道で迷わない。
前述の通り港まで徒歩で10分程度。 朝は5時45分に宿を出れば6時の船に乗れる。
水シャワーだが1泊800ペソ程度。 一番安い部屋だと二段ベッド×2なので4人で行けば1人あたり200ペソ(500円強)で泊まれる。
とにかく旅にお金を掛けたくない人向け。 夜の娯楽等については後編にて。
Cagayan Holiday & Leisure Resort 北端の町の西側の海岸一体がリゾートな感じ。中華資本だが、普通に超綺麗だった。
港まで徒歩で15分程度。 先述の安宿よりやや南下するが、港までは十分徒歩圏内。
一番安い部屋で1泊3000ペソ前後(1万円弱)。コテージの中は見ていないが複数人で旅するならアリな選択肢だと思う。
なお、ホテルのフロントのあんちゃん曰く、中国人が泊まるのは2割程度とのこと。
後編の飯の所でも書くが、北端の港町でまともといえる料理があるのはこのリゾートの敷地内(厳密には同じ資本でオーナーは違うらしい)にある中華料理レストラン1軒のみ。
筆者は貧乏旅かつ1人なので食べに行かなかったが、メニューを見たところお値段は普通にマニラ首都圏と変わらないくらいする。(おそらく1人1000ペソ前後行くのではないだろうか) 中華料理の性質ゆえ、ここで食事するときは複数人で行くことを進めたい。
またこれは完全に未確定情報だが、おそらく リゾート所有の送迎のバンが存在する。 町を歩きまわっている時にリゾートの中に入っていくバンを何度か見たので。
ただそのバンが一体トゥゲガラオからなのかサンタアナなのかはわからなかった。 また、早朝や昼の港への送迎をやっているかどうかもわからなかった(≒聞くのを忘れた)
電話で予約した時に是非送迎について聞いてみて欲しい。
"世界一詳しい日本語でのパラウイ島旅行解説を目指している。"と最初に宣言しつつも、この項だけは非常に非常に信頼度が怪しいので眉唾ものとして聞いていただきたい。
だいたいが現地民の話を継ぎ接ぎで作り合わせた推論(及び自分が実際に訪れた場所の感想)なので、前者2つの選択肢に比べてハイリスクである。ご了承頂きたく。
まず、Anguib Beachという非常に綺麗なビーチが東のほうにある。実際に筆者は船で訪れた。
ここにあるFirst Cagayan Leisure & Resortは浜にコテージがあるタイプのビーチリゾートで、1泊2300ペソ(6000円くらい)で泊まれる。
いかにもコテージといった感じの宿で、可も不可もなくといったところ。
https://plus.google.com/102147166564377320070/about?hl=ja&gl=jp
ここには筆者は訪れていないので何も言えない。
これらビーチリゾートに於ける疑問点としては
1.おそらくリゾートから港はトライシクルで行けるような距離ではない。 バン等の交通機関が早朝からあるのだろうか。
2.リゾート所有の船が砂浜に何艘かあったが、もしかしたら港を使わずあの船を使ってそのままパラウイ島へ行って帰ってこれるかもしれない・・・・?
3.飯についての情報が完全に不明。 北端の港町だと南へトライシクルで10分行けば市街地にそこそこ食べられる料理があるのだが、(市街地から離れている)リゾートの場合、リゾート内の料理が不味かったら逃げられない可能性が微レ存。
普通に人が大勢泊まっている時点で船や車については大丈夫だとは思うのだが、是非電話で予約するときに確認して欲しい。
なお、パラウイ島自体にはホテルやリゾートは存在しないのでどうしても泊まりたければ砂浜にテントを張ってキャンプするか地元住民の掘っ立て小屋のようなところにホームステイすることになるらしい。
テントの貸出しサービスがAnguib Beachにあった。 アクティブな人は是非キャンプして見て欲しい。
⑤CNNの”ベスト・ビーチ100”に ボラカイ、エル・ニド、パラウィ 掲載日 5 31
CNNは、ボラカイ島プカ・ビーチ、パラワン島エル・ニド、カガヤン州パラウィ島を世界でも最高のビーチにリストアップした。 中でもパラウィ島は第10位に
ランクされ、トップ10では唯一の東南アジアのビーチとされた。 白砂・溶岩・青緑の海水・珊瑚礁に恵まれたダイバーの天国で”未開発の美”と絶賛する同島
には、アクセスも開拓されず リゾートもホテルも無いが、星空の下でのキャンプと民宿が素晴らしいとしている。
→ パラウィ島はルソン島北部のカガヤン州サンタ・アナ町にあり、バブヤン水道沖にある。 94年に国立海洋公園に指定。 エル・ニドは 14位、プカ
"リゾートもホテルも無いが、星空の下でのキャンプと民宿が素晴らしい"
とあるので、タガログ語の交渉が得意な方は是非現地住民と交渉して、ホームステイをトライして頂きたい。
飯や買い物、パラウイ島の素晴らしさ等は明日の後編に続く。
驚くことにここまで肝心のパラウイ島の旅行記について全く書いていない。
*2 いつか紅の豚に出てきたギリシャ・ザキントス島のナヴァイオビーチ行ってみたいなぁ・・・。
*3 なお、2年弱前の時点で相当探したが0人だったと私の中では確信している。CNNの結果を受けてようやく知ったという人ばかりだろう。
*4 帰り道に台風4号の影響もあって、トゥゲガラオからマニラまでバスで移動したが非常に大変だった。値段は700ペソで12時間程度かかる。 マニラ市内のバス停の位置も不便だしそこをお金ケチる必要は無いので行き帰り共に飛行機を使うのを強く強く推奨したい。
*5 使用する滑走路や当日の風向きにも寄るだろうが、晴れていればマカティ、ボニファシオ、オルティガス、ケソンシティあたりまで綺麗に上空の景色が見ることが出来るだろう。
*6 もしフィリピンについて全く詳しくない人がいたとしたらT3はめっちゃ便利でT1とT2は若干使いにくいと覚えておこう。極端な話だと中心地からの移動時間的にT3が羽田空港で、T1とT2が伊丹空港と関空を足して二で割ったくらいな感じ。
最近まで男性と女性の間には越えがたいギャップがあって(少なくとも)それぞれが考えていることをお互いに理解することは完全に不可能じゃないかと思っていた
が最近この考えを少し改めた
まず考えるべきは性による考え方のギャップではなく(性を区別しない)個人間の考え方のギャップである
そもそも他人がなにをかんがえているかはたとえ親兄弟であっても完全に理解するのは不可能である
どこかの小説家何かに書いてあったが個人の一生は彗星みたいなもので他の彗星と交わる(すなわち他人の事が完全に理解できる)確率は限りなく0に近いだろう
さてこの考えを男女間に導入すると
ある男性とある女性の思考差=個人の思考差+性別による思考差 ...(1)
に分けることができるだろう
「性別による思考差」とはいったいなにかと考えると先天的なものと後天的なものに分けられそうな気がする すなわち
性別による思考差=物理的な男女の機能差に基づく違い(ホルモンバランス・生理のありなしなど)+社会的なジェンダーバイアス ...(2)
「地図が読めない女」のような例を持ち出すまでもなく前者の違いは確実にあるだろう
人間のように男女がペアとなって生活するような種族だと性別間で得意能力が違った方が生存には確率に有利なはずでそれにともなって脳の機能もことなるように進化してきたと思える
がこの機能差が男女間で越えられないような思考差を築くだろうか?
例えば自分は男性で理屈っぽいことが好きだが(数学とか)仮に自分が女性に生まれたとしてもこの趣向が変わるとは一切思えない
しかしながらこの直観は現実に反しているように見える すなわち大学の工学部をみてみると男子学生の数が圧倒的であり女子学生の数は1割にもみたないではないか
自分はこの違いの大多数は(2)の第二項である「社会的なジェンダーバイアス」にもとづくものではないかと疑っている
つまり「女性は家庭的なことをやったほうが幸せになれる」「女性は論理的ではない」といった世間の常識(あるいは空気)によるある種の抑圧のため生来数学が好きであってもただ女性というだけでその趣向を意識的あるいは無意識的に変更させられているのではないだろうか
実際自分の経験を顧みても高校までは例えば数学の成績にはそこまで男女差はなかったように思う
しかし大学の学部でその差が出てくるということは「将来の職業の選択」への第一歩である大学を選ぶにあたり上記のソーシャルバイアスが働いているんじゃないだろうか
日本よりも抑圧が低そうなアメリカだと学部の男女差はもうちょいましだと聞いたことがあることからソーシャルバイアスは文化的背景によっても異なると考えられる(人種による差がないと仮定)
とここまで考えると男女の思考差(1)は個人差というどうしようもないものを除くとほぼジェンダーバイアスのみに依存していると考えられる
なので例えば日本人の男性である自分が日本人の女性の心理を知りたい場合日本社会における男女間にどのような利害関係・力学構造が働いてるかを知るだけで十分なはずである
この考え方から行くと世間一般でよくいわれる「男女の間には永遠に理解しえない何かがある」はただ単に個人間のどうしようもなく埋めがたいギャップのことを針小棒大にいっただけではないだろうか
かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日にTwitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217
2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性だからなんだろうか。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288
親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336
ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480
@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷を罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷の時間と定め、一斉に行うという行為に、国家の共同体意識形成の問題を感じたからだ、と理由を説明しております。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728
いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間に代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式だから、決まってるから、という理屈はわかる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392
それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192
なぜ、黙祷の時間は地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776
で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456
死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664
死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在の感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032
土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417
だから、儀式が、生者の世界でどのような機能を果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的な儀式を根拠なく反復することそのものが生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464
福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体に意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情の真実性」を保証する、と
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528
俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実の感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実の感情」を作るということでもあるよね。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408
だから、集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情がセレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニーが感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。
順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである。
藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家の共同体意識形成の問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。
……え? 藤田氏って追悼式が政治家が政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?
「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情が統一的に形成される」という仕組みが、国家が国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈でしかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為の儀式性と政治性を混同してない?
……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家が政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である(根拠がないという意味で)。
また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。
その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田氏自身のバイアスが満載である。
「3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観が存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれる感情は実際にそのひとのなかにある感情である。
ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間の能力には限界があるのだ。
だが、上記のようなバイアスに藤田氏が無自覚ななか他人を攻撃し始めるのなら話は別だ。
追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。
そして、その暴力を振るう対象である、今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。
藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである。
藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアスに無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。
でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家を自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。
いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人の感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。
あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事を擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。
良かったね。外面が優先される諸外国ではホモ婚(Same-Sex Marrige)なんぞ認めるのが進歩的もしくはリベラルにみられる理由で次々とホモ婚が制度化されてるけど、日本ではタイトルのとおり、婚約にしろ結婚にしろ婚という文字が女篇に含まれている。つまり、女性が介在しない男性同士の配偶者制度、戸籍の更新を認めるかどうかの議論は、漢字圏の使用者が内在する無意識的的な反発を押し切って、ホモ婚容認側がホモ婚の圧倒的な正しさ・メリット・普遍性を多数派に説得しなければ進展のしようがないのだ。
この点、アルファベット圏ではmarrigeにしろmatrimonyにしろ文化的には女性との結婚が普通ではあるものの、漢字圏の結婚や婚約から感じられるような女性が介在しなければ結婚もくそもないだろという感覚が薄く中立的だ。語源的には、marrigeラテン語のmaritareに以来し、maritareとは女神アプロディーテー-マリの庇護の下に結合すること、とちょこっとだけ調べたら出てきたが、日本語のようなへばり付くような感覚はmarrigeからないだろうと思うのだ。
よってホモ婚推奨精力がどれだけ水面下で努力しようが、ホモ婚に違和感を持つ人間が圧倒的で、かつまともに機能している限り日本ではホモ婚は永久に制度化されない。制度化されるとすれば、国民のほとんどが違和感をおぼえつつも国連加盟国でホモ婚制度化が支配的な版面をホモ婚推進精力が形成してしまってやむを得ず日本国も追随にまわる、これくらいしかホモ婚が国会で審議されれ両院を通過するとは思えないし思いたくない。
なおホモ婚の賛否についてWikipediaどのような議論があるか調べ直してみるのは真っ当ではあるが、「同性結婚」の記事については「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。」と提起がなされるとおり中立的どころかホモ婚推進精力によるバイアスがかかっていると注記させてもらう。
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追記)
http://sirabee.com/2015/02/18/18706/
読んだ。驚異的な糞記事だった。
こんなものにとりあうのは労力の無駄だとかそういう意見もありうるだろうが、あまりにひどすぎる。いったい何重のバイアスがかかってるのかわからないくらいだ。
まず、選択肢がこれであることによって「アホらし」と思う層はまったく答えないっていうバイアスがかかってる。しかしアンケートであるからには「幅広く募った」という前提はいちおう通用するので、これが男性の一般的な傾向だと思わせることができる。
さらに選択肢自体である。これがおかしいのはいうまでもない。つまり筆者にとっては女性の重要な機能はセックスと料理であるということになる。
最後にこの記事を書いたのが女性であるということだ。女性の側からもこういう見方は肯定されうる、という可能性をにおわすことができる。もちろん実際は一個人の意見だったとしても、そこになんらかの許しがあるように感じる人間は決してゼロではない。
強面のフェミニストががっちりと理論武装して書くようなものなら、読む人にもそれなりの心構えができている。反論もツッコミもありえよう。しかしこの記事の場合、アンケートという手法といい、旦那様を喜ばせるといういっけん特に問題がないと思われるような記述といい「ふつう」を装って、強度に思考を一定の方向に強いるような構成になっている。無批判に読めば「そういうものなのかな」と思わせるようにできている(実際に騙される人が多数派ということを言っているのではない)。
俺自身は男女平等というのは不自然なことだと思っている。なぜなら出産というかなり負担の大きいことができるのは女性だけだからだ。そして肉体も、一般的には男性のほうが力が強く、体格もいい。なので、男女平等というのは「なるほど、現実はそのようであるか、ならばどうしていくか」とひたすら考えつづけ、疑いつづけていくことだと思う。
そうした不自然な「平等」になんらかの賛意を示した人間にとって、いちばんの敵は、一般論や本能、肉体なんかを無根拠に参照して「ね、こういうふうにできてるでしょう?」と言い出すたぐいの人間だ。そこに作為がなければないほど、知性が感じられなければ感じられないほど、その言葉は自然に響く。
その意味でこの記事は最悪なものの一例だと思う。内容の巧拙、説得力の有無などが問題なのではない。こうしたものこそが性差別を助長するにあたって、非常に有効な手段だということだ。
逆にいえば、女性の機能をこうしたものだけに限定したい人間はこの手法を参考にするとよい。由来、すべての人間は平等ではない。「だから」前提条件として平等であるべきなのだし、しょせんそれがべき論である以上は、人はずっと考えつづけるしかない。「べき」であるということは、永遠に理想には到達しないということだ。
昨年末に雀荘で酒飲みながら打ってた時にぶっ倒れて、俺に電話がかかってきて某大学病院へ救急搬送された。
脳の画像診断、心電図、腕や足のレントゲン、血液検査、どれも症状の特定に至るようなことはなかった。
で、何か飲んでいる薬は?と聞かれて、バイアスピリン飲んでたなと思って、バイアスピリンを、
と言おうとしたら、母がもう一つ飲んでるけど、名前わからないから家に電話して聞いて、というので、
自宅にいる姪に電話して、薬の名前を読んでもらったところ、なんとジェイゾロフト(SSRI)だと・・・
抗うつ薬飲んで、酒飲んだりしてりゃ、そりゃ眠気の服作用にも強い影響でるわ・・・
それ以前にも味覚がおかしくて、何食べても味がしない、変な感じがするというのも、この系統の薬の副作用。
まぁ、メンタル系の薬飲んでるのに酒なんか飲んで、ソリャ意識失うのもありえますわな・・・
医者や薬剤師の説明なんてろくに聞いてない母が悪いんだけど、飲み合わせの説明も少ししててくれたらな・・・
で、いったんジェイゾロフトはそういうトラブルもあったから、かかりつけ医に説明して使用は中止、
バイアスピリンだけでやっていくようになっていると思っていたが。
バイアスピリンに加えて未だにもう一種類なんかのでいるようなので見てみたら、メイラックスのジェネリック飲んでやがった・・・・
というか、どういう経緯でメンタル系の薬処方してやがんだよあの内科医!
とりあえずは、本人が旅行から帰ってきたら問い詰めるかな・・・
どうしてもメンタルの薬ないとやってけないなら、さっさと障碍者手帳とらせて医療費抑えてほしい、
でもって、後見制度で被保佐人認定とって、死んだ父の資産を勝手に処分させないようにしたい。
本格的にボケたりされる前に準備を進めておきたいな
なるほど、大体納得したぜ。
で、増田はなんで「性差」と「ジェンダーバイアス」を区別したいの?差別問題を考えるときでも、「性差」を基準に差別するのも「ジェンダーバイアス」を基準に差別するのもどっちにしろ駄目なんだから、「性差」と「ジェンダーバイアス」を区別する実益は薄いよ。
社会や集団への性別の影響(あなたの言う通り本来性差とジェンダーバイアス含めてだね)とか、性別による行動の傾向を取りあげて、それに対する適切な対策みたいなのを考える……
というのを、自分でもやるし他の人がやってるのも見る。
「男性が嫌う女の子の仕草は?」とか「女にはマカロン食わせとけ」式のクソみたいな話から、
「このジャンルは女性人気が高いが、その理由は女性は○○したがるからではないか。××要素をつければ更に人気が出るだろう」みたいなのも。
でも大体どんなのにも「男性/女性が○○したがるというのはジェンダーバイアスにすぎない」っていうツッコミがきて、
それは大抵「ジェンダーバイアスはただの偏見だから○○したがるなんて傾向はない。この分析は無意味」だとか、それか
「○○したがるという傾向はジェンダーバイアスだからその存在をなくすべき、そんなものに基づいて対策を考えるのはよくない」などと続く。
んで、ネットではそっから性差別云々に議論が脱線していくし、俺もそっちに意識が向いちゃう。
このパターンを見すぎたので、何とかここから抜けて、本筋の社会や集団の効率的な扱い方についての話を回す方法が欲しいなと思ったの。
つまり、「ジェンダーバイアスだからそんな影響は存在しない」「ジェンダーバイアスの影響を所与として考えるのはよくない」で話が止められるのを回避したいわけだが、
俺が考えた解決策が「じゃあバイアスじゃなくてちゃんと性差と言えるものに基づけばいいのだな」だったから、性差とジェンダーバイアスを区別したかった。
そっから更に思考を回したら、「社会や集団を論じる対象にする時は何に基づけば差別でなく、何に基づけば差別なのか」辺りでグルグルすることになって、
「差別問題について考える時つっかかる」という、元々欲していた「集団の扱い方をスムーズに論じる方法が欲しい」からずれた書き方をしてしまった。
だから、あなたの「社会や集団には元々の性差とジェンダーバイアスが混ざって影響を与えてる」というのはかなりハッとしました。
集団の行動を論じるにおいて、バイアスを除去した部分だけについて清く正しく語るのはほぼ不可能というわけだ。
踏まえて私の今の感想を書くと、
ジェンダーバイアスがよいものだとは思わないのだけど、それが集団の振舞いに影響を与えてるのであれば、
集団について即物的に論じるときにバイアスの要素を入れるなというのは話が進まなくなる、という感じ。
犯罪はよくないのだけれども、それが存在すべきでない要素だからって、
犯罪の存在を前提とした社会論を止めるのはよろしくないよね、というのに似てる。
もちろんこれは即物的な話に限るので、もうちょっと階層のあがった話をする場なら、
ジェンダーバイアスをなくすには、犯罪を減らすには、という議論をすべきだと思う。
あともしかしたら、ジェンダーバイアスについてのツッコミを入れる人たちは、
高浜寛の「蝶のみちゆき」がkindle化されていたので読んだ。
素晴らしい作品だと思ったので、感じたことを書いておきたい。
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こんなにダイレクトに"悲しい"という感情をもったのは久しぶりだ。
最近のマンガは良くできていて、いろいろな形で読者の心にリーチできる作家がとても多いと感じている。素晴らしい。
でも、"悲しい"という感情は久しぶりに味わった気がする。
物語の中に選択的な場面や、想像可能な分岐的な要素が無く、やたら自然で固定的に話が流れていくように見える。
運命とかいう話とも違う。物語における運命は外部からの予想外のバイアスであることが多いと思う。この作品にもそうした要素がなくはないが、サプライズ的に扱われてはいない。不幸な出来事や過酷な環境も、読者が自然に受け入れられるよう細心の注意と一体感で描かれている。作家の表現手法の"美しさ"と、丸山という場所が持つ一面の"美しさ"がそれを大いに助けていると思う。
そして、あらゆる要素が物語の中にかっちり収まっていることに驚く。舞台装置も登場人物も無駄なく重要な役割を担っている。
これが完成されているということなのかと改めて認識させられた。
多くの場合、完成された物語は長い年月をかけて多くの制作者達の努力によって積み上げられたものであり、悪く言えばありきたりだったりするものだが、「蝶のみちゆき」はそうした退屈さは見当たらない。完成された物語は見せ方で面白い作品にできる?。いや、この作品は逆ではないか?。完成された物語を見せ方で面白くしているのではなく、各種の要素をゼロベースで組み上げたら完成された物語になったのではないのか?。と思わせる力強さすら感じる(いまどきゼロベースで作品ができるなんてことはありえないので、先行する多くの作品から要素を得ているんだろうけど、比喩として)。マンガ、小説、映画などに類似の作品があるハズなのだが、それらを霞ませている。
主人公である几帳(人の名前)は多方向に要素の線を伸ばしており、その線の先にいる(ある)要素同士が有機的に絡み合う。と書くと珍しくもない構図なのだが、その関係性が高密度かつ自然に描かれている。そして何より几帳は多くの要素を持ちつつもフリーダムな人にならずに統一されたキャラクターを強く保っている。そうした丁寧な描き方から感じるダイナミクスは、線と点のそれではなく面のダイナミクスだ。
読者は、無駄なく高密度に流れていく物語に自然に飲み込まれ(怒涛の!とかじゃなくてあくまで自然に)、気が付くと悲しい終着点に立ち会っている。何の議論も寄せ付けない、ゆるぎなく悲しい終着点だ。
最初に書いたように、最近のマンガは表現が高度になってきており、多くの作家が読者の心にリーチする手法を確立していると思う。
にもかかわらず「蝶のみちゆき」がユニークなのは、ダイレクトな悲しさで読者にリーチしているところではないかと思う。
ストレートな悲しさの表現型は昔の小説や漫画、映画にはよくあったかもしれない。ただ、最近はあまり取り上げられない表現型ではないかと思う。高浜寛はそれを現代的な感覚と、高浜寛自身の持つ細やかさと高度な表現手法によって類のない完成度でリメイクしたといえると思う。
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面白い作品なので紹介したいと思ったのですが、訳の分からないことを吐き出しただけでした。
とりあえず、高浜寛を読んでる人はこれもすぐ読んでー。知らない人は上の感想などは気にせず、検索するなどして興味あればどうぞ。
★自分はダイヤモンド・東洋経済が好きだが、ニッセイ基礎研究所のレポートも好きだ。
生保系の研究所なので、人口・出産・老後といった厚労省的レポートが多いのが特色
そのニッセイ基礎研のレポートで、「一般市民が、社会統計データを脳内でどう想像してるか?」の話があって面白かった。
★一般市民に「日本の高齢者人口比率(65歳以上比率)は何%と思いますか?」
と尋ねたら、実際の高齢者比率(25%)より高い回答結果になった。
(全回答者の平均数値は「44%」)
つまり一般市民は実態以上に「高齢化は深刻」と悲観バイアスを感じている。
★「一般市民の、脳内社会データ」を測定すると、日本市民の「悲観バイアス」がいろいろ確認できそうな気がする。
例えば「老後に何万円貯金が必要ですか?」と質問したら、多分実際必要額より多額の資金が必要と回答あるだろう
また、「日本社会に凶悪犯罪が増えてますか?」と脳内治安レベルの質問をしたら、
多分過半数は「治安が悪化したと思う」と回答するだろう。実際は減少してるのだが
★「誤った常識が定着しているのではないか?」の事実確認も、このニッセイ基礎研流の市民脳内調査で確認したい。
例えば、「家庭でCO2排出が増える、エネルギー使用が増える季節」は「夏」と誤解している人が多いが、実は「冬」だったりする。
★例えば「日本の都市の中で、若者人口比率が高い都市はどこだと思いますか?」と脳内人口統計テストをしたら、
多分大多数は「そりゃ東京でしょ?」と回答するだろう。
大学が多数な京都はわからなくもないが、「福岡の若年比率が東京より多い」という統計事実を認識している一般市民はほとんどいない。
★恐らく、今後東京23区の高齢者比率は恐ろしく急増するだろう。
⇒多分、あと10年もすれば、全国10大都市の中で、東京は「高齢者比率が多い方の都市」になると思われるが、
仮にそうなっても、日本人の脳内では「東京は若者が多い都市」のママになってるんだろうなあ。
「東アジア若者調査」として、若者に年収や欲しいもの、「生活に余裕があるかどうか」質問しているのだが、
東京の若者とソウルの若者の収入比較で、円安効果もあるのだろうが、「ソウルの若者の方が収入高い」
シンガポールには抜かされたとは知っていたが、まさかソウルに抜かされているとは・・・
卒後20年以上経ってるだろうに、高校の同級生45人の消息を知ってる時点で驚く。
同じ学年全体(数百人)のうち同窓会に出た45人だけ、とかだろうか。