最近まで男性と女性の間には越えがたいギャップがあって(少なくとも)それぞれが考えていることをお互いに理解することは完全に不可能じゃないかと思っていた
が最近この考えを少し改めた
まず考えるべきは性による考え方のギャップではなく(性を区別しない)個人間の考え方のギャップである
そもそも他人がなにをかんがえているかはたとえ親兄弟であっても完全に理解するのは不可能である
どこかの小説家何かに書いてあったが個人の一生は彗星みたいなもので他の彗星と交わる(すなわち他人の事が完全に理解できる)確率は限りなく0に近いだろう
さてこの考えを男女間に導入すると
ある男性とある女性の思考差=個人の思考差+性別による思考差 ...(1)
に分けることができるだろう
「性別による思考差」とはいったいなにかと考えると先天的なものと後天的なものに分けられそうな気がする すなわち
性別による思考差=物理的な男女の機能差に基づく違い(ホルモンバランス・生理のありなしなど)+社会的なジェンダーバイアス ...(2)
「地図が読めない女」のような例を持ち出すまでもなく前者の違いは確実にあるだろう
人間のように男女がペアとなって生活するような種族だと性別間で得意能力が違った方が生存には確率に有利なはずでそれにともなって脳の機能もことなるように進化してきたと思える
がこの機能差が男女間で越えられないような思考差を築くだろうか?
例えば自分は男性で理屈っぽいことが好きだが(数学とか)仮に自分が女性に生まれたとしてもこの趣向が変わるとは一切思えない
しかしながらこの直観は現実に反しているように見える すなわち大学の工学部をみてみると男子学生の数が圧倒的であり女子学生の数は1割にもみたないではないか
自分はこの違いの大多数は(2)の第二項である「社会的なジェンダーバイアス」にもとづくものではないかと疑っている
つまり「女性は家庭的なことをやったほうが幸せになれる」「女性は論理的ではない」といった世間の常識(あるいは空気)によるある種の抑圧のため生来数学が好きであってもただ女性というだけでその趣向を意識的あるいは無意識的に変更させられているのではないだろうか
実際自分の経験を顧みても高校までは例えば数学の成績にはそこまで男女差はなかったように思う
しかし大学の学部でその差が出てくるということは「将来の職業の選択」への第一歩である大学を選ぶにあたり上記のソーシャルバイアスが働いているんじゃないだろうか
日本よりも抑圧が低そうなアメリカだと学部の男女差はもうちょいましだと聞いたことがあることからソーシャルバイアスは文化的背景によっても異なると考えられる(人種による差がないと仮定)
とここまで考えると男女の思考差(1)は個人差というどうしようもないものを除くとほぼジェンダーバイアスのみに依存していると考えられる
なので例えば日本人の男性である自分が日本人の女性の心理を知りたい場合日本社会における男女間にどのような利害関係・力学構造が働いてるかを知るだけで十分なはずである
この考え方から行くと世間一般でよくいわれる「男女の間には永遠に理解しえない何かがある」はただ単に個人間のどうしようもなく埋めがたいギャップのことを針小棒大にいっただけではないだろうか