はてなキーワード: 四谷区とは
http://anond.hatelabo.jp/20150913161839
東京市15区、つまり「江戸」以外は東京を名乗るのをやめてほしい。
15区とは具体的にいうと、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区を指す。いまの行政区画だと、千代田区、中央区、港区、台東区、文京区の全域および江東区、墨田区の西半分、新宿区の東半分あたりだ。
新宿や渋谷、品川あたりは江戸から外にお出かけするときの「宿」だったわけで、「江戸」ではない。さいたま市民の愛する池袋なんて単なる農村だった。
「東京で住みたい街 ベスト10」みたいなテレビ・雑誌の特集で吉祥寺や中目黒や二子玉川が取り上げられることがあるけど、東京15区在住の人間からすると失笑するしかない。「それ、東京じゃないじゃん」って。
高浜寛の「蝶のみちゆき」がkindle化されていたので読んだ。
素晴らしい作品だと思ったので、感じたことを書いておきたい。
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こんなにダイレクトに"悲しい"という感情をもったのは久しぶりだ。
最近のマンガは良くできていて、いろいろな形で読者の心にリーチできる作家がとても多いと感じている。素晴らしい。
でも、"悲しい"という感情は久しぶりに味わった気がする。
物語の中に選択的な場面や、想像可能な分岐的な要素が無く、やたら自然で固定的に話が流れていくように見える。
運命とかいう話とも違う。物語における運命は外部からの予想外のバイアスであることが多いと思う。この作品にもそうした要素がなくはないが、サプライズ的に扱われてはいない。不幸な出来事や過酷な環境も、読者が自然に受け入れられるよう細心の注意と一体感で描かれている。作家の表現手法の"美しさ"と、丸山という場所が持つ一面の"美しさ"がそれを大いに助けていると思う。
そして、あらゆる要素が物語の中にかっちり収まっていることに驚く。舞台装置も登場人物も無駄なく重要な役割を担っている。
これが完成されているということなのかと改めて認識させられた。
多くの場合、完成された物語は長い年月をかけて多くの制作者達の努力によって積み上げられたものであり、悪く言えばありきたりだったりするものだが、「蝶のみちゆき」はそうした退屈さは見当たらない。完成された物語は見せ方で面白い作品にできる?。いや、この作品は逆ではないか?。完成された物語を見せ方で面白くしているのではなく、各種の要素をゼロベースで組み上げたら完成された物語になったのではないのか?。と思わせる力強さすら感じる(いまどきゼロベースで作品ができるなんてことはありえないので、先行する多くの作品から要素を得ているんだろうけど、比喩として)。マンガ、小説、映画などに類似の作品があるハズなのだが、それらを霞ませている。
主人公である几帳(人の名前)は多方向に要素の線を伸ばしており、その線の先にいる(ある)要素同士が有機的に絡み合う。と書くと珍しくもない構図なのだが、その関係性が高密度かつ自然に描かれている。そして何より几帳は多くの要素を持ちつつもフリーダムな人にならずに統一されたキャラクターを強く保っている。そうした丁寧な描き方から感じるダイナミクスは、線と点のそれではなく面のダイナミクスだ。
読者は、無駄なく高密度に流れていく物語に自然に飲み込まれ(怒涛の!とかじゃなくてあくまで自然に)、気が付くと悲しい終着点に立ち会っている。何の議論も寄せ付けない、ゆるぎなく悲しい終着点だ。
最初に書いたように、最近のマンガは表現が高度になってきており、多くの作家が読者の心にリーチする手法を確立していると思う。
にもかかわらず「蝶のみちゆき」がユニークなのは、ダイレクトな悲しさで読者にリーチしているところではないかと思う。
ストレートな悲しさの表現型は昔の小説や漫画、映画にはよくあったかもしれない。ただ、最近はあまり取り上げられない表現型ではないかと思う。高浜寛はそれを現代的な感覚と、高浜寛自身の持つ細やかさと高度な表現手法によって類のない完成度でリメイクしたといえると思う。
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面白い作品なので紹介したいと思ったのですが、訳の分からないことを吐き出しただけでした。
とりあえず、高浜寛を読んでる人はこれもすぐ読んでー。知らない人は上の感想などは気にせず、検索するなどして興味あればどうぞ。