はてなキーワード: 突撃とは
「もうずっと戦前」というレトリック、というかロマン、はもうアレなんじゃない。
塹壕でタバコを吸いながらずっと突撃命令を引き伸ばされている歩兵としての生、という気だるいロマン。
そんなの司令部はとっくに解散して顔の見えない株主会になっちゃってるのに。
「勝負を求める我ら」ってそんな勝ちも負けもねー。ねーからロマンなんだ。きっと。
ずるずる気づいたら景気は後退して回復して後退して、緊張も後退して回復して後退して、気づいたらバカにしてた中国人観光客のファッションセンスは上がってて、気づいたらサムソンは世界のTV屋になってて、ピクサーはジブリをはるかに追い越してて、ただそれはショウダウン! フェイスオフ! の「勝負」ではなく世界のいろんな国と企業と人がずるずるやってきた総体の中で、「にほん」に主体を置いて見た時にそう見える、ってだけの話だ。
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。
(右京と紅つばさについて)
いただいたコメントを参考にしています。ありがとうございます。大変嬉しかった。
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右京は、登場こそ遅くて、良牙、シャンプー、ムースときてその次だろうか、九能兄妹は外様という感じがするんで数えないけど。だけど相当に重要なキャラクターで、キャラクターとしての彼女は竜之介の子孫なのはやっぱり間違いなくて、ああ、思い入れ深い人たくさんいるだろうから釈迦に説法するはめになるところ多々あるじゃろうと思うと恥ずかしいが続けるけど、しかし竜之介が背負っていた因業を下ろして軽やかになってる感じする。竜之介は社会的な知識が無かったから親父と暮らさざるを得なかったと言えないことない。常に親父と組み合わされていて、そうじゃなければキャラクターとして駆動しづらいがためにその状況に作者によって留め置かれたようなところきっとある。それに対して右京は手に職を持っていて、親父の影もなくて子供の頃を回想する場面に出てきたきりだったろう。
その親父というのがそもそもまだ未就学児らしき右京を、あるいは葛藤の末かもわからん、のっぴきならんかったのかもわからん、描かれてないから知らんが、乱馬の嫁として乱馬の親父に渡さんとするような人物で、しかし許嫁という、なんだろう、制度と言うんだろうか、を駆使する物語である以上はそうした人物も出て来ざるを得んし、こうした状況に自身の人生を投影する人は必ずいるだろうしそうじゃない人は遠くのこととして可笑しみ感じるなり同 情するなりすれば済むんで文学娯楽どちらとしても間違っていないと思うが、ともかくそうした娘への癒着の弱い父であってその点竜之介の親父とは真逆に設定されてるんではある。やっぱり竜之介の不幸は親父からの支配によってのものだもの、竜之介への償いを果たそうとして右京を造形するならばそうなるのだなと、てめえの勝手な思い込みなれど合点のいくところ。
とは言え、父からの支配を右京が受けてないかといえばそうじゃないかもしれん。右京は乱馬に執着があるからこそこの物語に登場する。初めに持っていた憎しみと、それをネガティブとしたら転じてポジティブなしかし恋情とかと一口に表わせん感じする思いとをひっくるめて、執着って言い方してる。その乱馬への執着っていうのは親父から与えられたものだと思えなくもなく、それっていうのは右京自身の能動性みたいなものをなめた見方だとは思うけどとりあえずそうとして、だとしたら竜之介が背負っていたものからまるっきり軽やかになってはないのかもしれない。
しかし、乱馬への執着は断たざるを得ないのだ。この漫画はやはり乱馬とあかねが結ばれて終わるしかないんで、右京はキャラクターとして作られた初めからの宿命として乱馬と結ばれない。でもそれは同時に親父から与えられたものから解かれる、背負っていたもの下ろして軽やかになるってことでもあるんで、竜之介から右京へと受け継がれた不幸をこの物語の結末において返上できるように作者によって仕組まれていたんじゃないだろうか。返上を受けたのは他ならぬ作者だ。
それを裏として、竜之介のもうひとりの子孫であるあかねが乱馬と結ばれるのを表としたら、竜之介に有り得たふたつの道はふたりの子孫が完遂したぜみたいな言い方ができる、かも。
ただこの話から抜け落ちてるのはあかねと結ばれた乱馬を右京が思い続けるのではないかという想像で、しかし話が進まなくなるから無しにしてしまった。
ところで竜之介自身はどうだったのだったか。巻が尽きんとする頃に親の決めたフィアンセである渚という自身とは対称的な女装の男の子が出てきて、仲たがいして仲直りして何か落ち着きどころという感を読者は与えられる。ただ行く末はほのめかされたとすら言えないんで、それは読者それぞれの想像を豊かにするためでもあろうがあるいは作者自身決めかねたのかもしれない。竜之介が幼少から好きになるのは女の子ばかりだったと描いてもいるのだしさ。だから、恋人や伴侶とも親友や理解者とも好敵手ともなり得る可能性を持った渚の造形はすげえ見事なんだって今思った。
紅つばさ、あの、右京の通ってた高校の同級生で、右京を追っかけて来る子、ポストや自販機の扮装して「突撃ーっ!」って叫んではどこやらにぶつかってる子。種を明かせば女装した男の子で、高校っていうのは男子校だったのだけど男装して通っていた右京が女だということには気づいていて、あくまで女の子として好きだったということで、やはり異性愛者だ。ただ読者がどう思わされるかは二転三転するんで、順に、女性異性愛者、女性同性愛者、男性異性愛者、という具合、何か明かす度に変態とか変態野郎とかオカマとかとあかねや乱馬の言で発されるのは、彼がへこたれないふうだからそう見えないが気の毒なんだぜ。ただ、そうした呼ばれ方する人物があの明るく楽しい話 に出てることはやっぱりきっとすごくいい面があったろうし、まだこれからしばらくもあるかもしれない。いや、どうだろう。 さて、それで、その彼は乱馬と共に渚の子孫だと言えるかと思う。乱馬はこの際はどうでもよいのだけど。では紅つばさと右京とが結ばれるのでもよかっただろうか。いや、その結び付きが果たす役割は乱馬とあかねが果たすだろう。右京には右京の役割があるのだから、紅つばさはそれを守るためにどうなるべきか。
この漫画のキャラクターはおしなべて一途だ。おもな人物はもちろん、九能ですらあかねと女の乱馬というふたりに対してだけど一途なのだし、パンスト太郎も八宝斉に一途と言える。一途でなければキャラクターとして力を失ってしまい補填が要るようになりその如何は書き手読み手どちらにとっても難しく子供向けではないはずで、知識としてか思考の結果かおそらくどちらもあってのことと思うけど作者はそれを分かっているのでしっかりと倣う。
右京への一途な思い、強い執着を持って登場したかに見えた紅つばさは、早々に女の乱馬に惚れあかねに惚れキャラクターとして死にその後はもう登場しない。その死はしかし先に書いた右京のキャラクターとしての出自や来たるべき解放を思えば無ければならないものだ。しかし誰なら殺してもよいかと選択した結果があのように造形された紅つばさであることはあるいは差別意識の発露と言って言えんことはないだろうが、おのれをよく省みてからそのようなこと強く言える人どれだけいるのかと言えばわずかだろうし、その時代の特に少年誌の内にいる者としてまっとうなバランス感覚だったんだろうとも思われ、現在から裁くのはおそらくよくない。でも話し合いはしたい。
ソートしてみた。
なんとなくhttp://anond.hatelabo.jp/20140527121719に乗じて。
※はてなidで書き込まれていないものもあるので騙りが混じっている可能性があります。
※http://anond.hatelabo.jp/20140527121719とそのブックマーク・トラックバックで言及されているものは除外しました(多分)。
こちらからは以上です。
知り合いの雑誌記者に牛丼チェーン店の食べ比べの手伝いを頼まれる山岡。
山岡「そんなこと言われたってね、なにせあの値段だぜ? 材料の調達先も自然と絞られちまう。どれも似たり寄ったりだよ」
栗田「そうかしら。限られた予算の中で、どんな工夫をしているか知ることも大事だと思うわ」
牛丼食べ比べの記事に上物ウイスキーの価値があるかどうかは謎だが、
雑誌記者が急に玉葱アレルギーになったから、とか適当な理由で話は進む。
近場の大手牛丼チェーン店を巡る一行(何故か自然な流れでついてきている栗田)だったが、
最後の店はやたらと混んでいる。
栗田「これだけ混んでいるということは、やっぱり人気があるのかしら」
山岡「どうせまた安売りキャンペーンでもやってるんじゃないのか?」
適当な席につく一行。店内は青息吐息の店員一人でやりくりしているようだ。
栗田「まあひどい! いくら仕事の簡略化が進んでいるといっても、たった一人で切り盛りするなんて無理だわ!」
山岡「だがこれも俺たちがそう望んだからなんだぜ。企業の側も、安さと味の両立を求められたら、人件費を削るしかない」
いつものように脊椎反射で反論する山岡。『俺たち』と言うことで自分も反省しているように見えるが、見えるだけである。
その後、なかなか注文が来ないので、ずかずかと厨房に入って行ってしまう山岡。
そこには、うつぶせに倒れる店員の姿が。
栗田「きゃっ!」
病院で意識が戻った店員に話を聞くと、昨夜からずっとワンオペで、
交替の店員が急に休んだ為、休憩もできずに働き通しだったようだ。
社長「なんだ!? マスコミか! このハイエナどもめ! 一体いくら欲しいんだ!?」
うまい料理で大臣の気をひき(3話分くらい)、政界の雰囲気が労働者をこき使う企業に対して厳しくなる。
海原雄山も、気分次第で料理人を解雇する自分を棚に上げ、人を大事にしてこそなんとやらとTVでコメント。
TVの雄山に厳しい視線を向ける山岡だったが、一転してもらったウイスキーに舌なめずり。
そこへ、山岡らが病院へ連れて行った元店員から、ウイスキーのつまみによさそうな食べ物が届く。
栗田「仕事が山ほど溜まっているのに、昼間っからお酒なんてダメです!」
山岡「おいおい、こんなにたくさんの仕事を俺一人でやれってのかい!?」
栗田「ほったらかして競馬に行ったからでしょう!? 完全に山岡さんの自業自得です!
ちゃんと仕事しないようなら、これは今度のビンゴ大会の景品にしますからね」
山岡「くっそー! やればいいんだろ! やれば!!」
イベント終わってるけど、このE-5の試行錯誤が楽しかったので書き留めておく。
メンバー(赤城改74・榛名改70・比叡改二78・金剛改二80・陸奥改77・加賀改75)
高レベルの空母が3つ揃わず、烈風を持ってなかったので空母2の制空権優勢が取れない状況。
初め、加賀と赤城に艦戦ガン積みや航戦入れたりしてみたが優勢を取れず、
加賀(零式62/紫電改二/烈風改/ダメコン) 赤城(彗星一二/零式52/紫電改二/ダメコン)
これで、道中に艦攻+ダメコンでガン積みよりは道中の大破率は下がったけど、ボス戦では制空権拮抗。
そこでボスには夜間連撃が大ダメージを狙えたのでレベルの高い金剛80と陸奥78に2つある46を積んで,
夜戦連撃の順番が最後になるように4,5においた。これで昼にボスを少し削って
この2人のどちらかの夜間連撃が入れば撃沈できたけど、ほかの2人だと倒しきれないことも。
ようするにスナイプ頼みです。S勝利なんてありません><。
最後は大天使金剛でしたが、愛しのむっちゃんがとても頑張ってくれました。大好きです。
このときボス戦で昼連撃できないのに偵察機を戦艦に積むか迷いましたが、道中では昼連撃するのでそのままにすることに。
キラキラは3重つけててたんだけど、朝からはキラ付けする余裕がなくなったので
徐々に消えていって最後はみんなキラ無しの状態のまま出撃してました。
キラキラが消えてから命中が1〜2割減ったような体感はあったけど、労力に見合ってるか微妙な気がします。
最後はキラ無しで倒せてしまったので必要だったかどうかもよくわかりません。
陣形は道中・ボス戦全て単縦陣
今回、縦だと道中で1発大破がぎりぎり中破に収まって、撤退率が下がった気はする。
(レベル次第だし、攻略中にレベルがあがったからかもしれない)
道中支援はお守り程度。朝からは余裕がなかったのでやめて決戦のみ
決戦支援の調子がいいときは浮遊要塞x2を沈めてくれたけど 悪い時はカスダメ。
キラキラは朝まではつけてたけど、なくなっても決戦はきてくれたしあんまりわからなかった。
このあと遠征隊が帰ってきたりしたので3重キラとかせずに出撃してみたら
ボスを撃沈したのでそれから必死にオリョクル回しと、補欠の艦を補給しないように
とっかえひっかえして任務をこなし、最後はチョコを解体して出撃してました。
595+4 :名無しさん@お腹いっぱい。@転載禁止 [] :2014/05/08(木) 16:00:15.17 ID:kl6RyplG
E5 @4.5メモリ バケツ80 資源12919/11307/21798/3920
↓(zzz)
126+7 :名無しさん@お腹いっぱい。@転載禁止 [] :2014/05/09(金) 10:38:27.66 ID:RecWXGYm (9/11)
http://mmoloda-kancolle.x0.com/image/76132.jpg
(クリア後の興奮と勢いで書いた長文)
僕はネットの人たちが「社畜になるな」「休んでいいんだよ」というアドバイスをしているのをみるたびに「でも、誰かが休むっていうのは、その分の仕事のしわ寄せが、誰かに来るってことなんだよな……」と考え込んでしまうんですよね。
戦場で、皆で銃もって突撃してるのをイメージする。隣の兵士が敵弾を受けて負傷し倒れてゆく。
”「犬死にするな」「離脱して手当てを受けろ」というアドバイスをしているのをみるたびに「でも、誰かが離脱するっていうのは、その分の作戦のしわ寄せが、誰かに来るってことなんだよな……」と考え込んでしまうんですよね。”
なんていわねえだろ?
非難すべきは倒れた兵士ではなく、離脱を予期せず全員生還前提で作戦たてた上官であり、そんな戦いしてること自体じゃないのか?
友達が欲しい。
まず女子だが、大抵連絡先すら交換できずに終わる。すいっすいっと避けられる。もしくはブチ切れられて終わる。
周りからあの子はいい子だねって言われるような人に、失礼にならないように接してても、遠巻きにヒソヒソされる。
既婚女子はそれに輪をかけてヒステリックにしたような感じになる。
次に1人身男性。
これはまだ大丈夫。
大概「あの子にはもうあわないで!」となる。それならまだいい。Facebookに突撃メッセージがくる。
それならまだいい。別れ話になっていたりする。
なあ、わたし、何が悪いの?
なんでこんなに女性に嫌われるの?
道ですれ違ったら思わず二度見するひとが結構いるレベルのブサイクなデブ地味腐女子だよ?
化粧もちゃんとしてる、挨拶もできる、仕事柄無愛想ってこともない。
なんでこんなに嫌われてるのかがわからない。
何故かブコメでもやたらとこの文章を増田本人が書いたものだと勘違いされており、いい加減生温かい気分になってきたのでここで改めて書いておくが
です。
元増田にhtmlリンク張ってなかったり中途半端な位置に書いたのがいけなかったようですまんかった。反省。
なんか同じgoogleで検索しても環境によってうまく元記事が出てこない(元増田がトップに来るようになっちまった)みたいなので、h抜いて元記事のアドレス置いておくよ。
トップページの最終更新が2009年になってるからリンク先の人が突撃されてgkbrみたいなことは起きないと思うんだけど念のため。↓
今ネットで大手まとめサイトと言われている「保守速報」と「ソニック速報」の個人情報が流出し、大騒ぎとなっております。
詳しいフローはさておき、毎年恒例行事となりつつある「まとめサイト炎上」記憶している炎上でいえば、2004年ぐらいの「VIPPER vs VIPブログ連合(ニャー速)」のころから毎年どこかのタイミングでゲリラ的に発生しているわけですが、この件さっさと元締めである「ライブドアブログ」にクレームを投げかければ済む話なのですが、そういう流れにはならないようです。
炎上をサポートしている方々たちの一部は同じくまとめサイトを運営されている方で、当然ライバルまとめサイトを閉鎖に追い込むことができれば大量のPVを獲得できる。
とはいえ、ライブドアが死んでしまえばサポートが受けられずアフィリエイトも貼れません。体外の大手まとめサイトはライブドアのPBPというサポートを利用しアフィリエイトを張っております。
http://blog.livedoor.com/lp/pbp
つまり、グーグルに通報しても全くお門違いになるのでご注意を。
じゃあどおすりゃいいんだよ!って話ですが、ライブドアがまとめサイトのサポートを打ち切ればいいわけです。
サポートを打ち切るのは並大抵のクレームが押し寄せても歯が立ちませんが、まとめサイトがある種の社会問題化し、それを管理しているライブドアが指摘されたとすれば、立場的に切らざるを得ないでしょうね。
熱血スポ根がウケなくなって久しい今日、世代間における努力の意味に大きな溝が生まれているような気がする。
古い世代は理不尽だろうがなんだろうが、自分の欲を殺して苦労することを努力と呼んでいる。
苦労とは、苦労しないで目的を達成できる良い環境にいる人に、一方的に差を付けられるということでしかない。
必要なのは目標達成まで最短で効率よくたどり着ける方法であって、スタート地点付近で右往左往することではない。
そうやって苦労しているわずかな時間に、あっという間にライバル達は先に行く。
そして自分の苦労は全く報われること無く、苦労していない奴が世間でもてはやされる。
思うに、古い世代は戦後の焼け野原から復興するのを原体験としている。
守備力だとか、耐性だとかは、モンスターの属性なので、影響はモンスター側で面倒見てもらいたいから、
攻撃でHPを減らすのは、モンスターのメソッド経由になると思う。
結局、
class 勇者 : method attack(モンスター: monster): monster.attackedBy(self.attackPower)みたいなコードになると思うんだけど。
ぐうの音もでません、その通りですね。
攻撃方法の実装もわかりました。
遅延攻撃や即死攻撃に対応したい場合、例えば次のように変更すればよいでしょうか。
interface 攻撃方法: /** 対称を攻撃 */ method apply(攻撃対象: atackee);
それで、その他のクラスは下記のような感じに。
class 勇者 : // 中略 method attack(モンスター: monster): self.currentAttackMethod.apply(monster) class 即死攻撃 : implements 攻撃方法 method apply(攻撃対象: atackee): atackee.kill class 通常攻撃 : implements 攻撃方法 // 中略 method apply(攻撃対象: atackee): atackee.attackedBy(self.getAttackPower)
小一時間考えてみましたが、通常攻撃は
new 通常攻撃(player)
より
new 通常攻撃(player.getAttackPower)
の方が良いかもしれませんね。攻撃が放たれたら、その攻撃を誰が行ったかは関係なくなる、とした方が情報の流れがすっきりすると思います。
攻撃者 → 攻撃方法(突撃・斬撃・ジャンプ・即死攻撃) → 攻撃対象
わかりやすさについてとやかく言わないけどさ、攻撃するってことは、モンスターのHPだとかが減るんだよね?
勇者.attack(モンスター)
って書いたとしてもさ、勇者.attackメソッドの中で、モンスターのHPを直接書き換えるわけじゃないでしょ?
直接書き換えてたら、モンスターに守備力だとか、耐性追加した時に、勇者側を書き換えないといけなくなる。
守備力だとか、耐性だとかは、モンスターの属性なので、影響はモンスター側で面倒見てもらいたいから、
攻撃でHPを減らすのは、モンスターのメソッド経由になると思う。
結局、
class 勇者 : method attack(モンスター: monster): monster.attackedBy(self.attackPower)
みたいなコードになると思うんだけど。
例えば、攻撃力取得メソッド。
interface 攻撃方法: /** 攻撃力取得 */ method getAttackPower();
フィールドは、攻撃方法によって違うかもしれないが、攻撃者を持っとけば汎用的かな。
/** 通常攻撃は力=攻撃力 */ class 通常攻撃 implements 攻撃方法: field _attacker constructor(攻撃者: attacker): self._attacker = attacker method getAttackPower(): return self._attacker.strength
/** 突撃は力*すばやさ=攻撃力 */ class 突撃 implements 攻撃方法: field _attacker constructor(攻撃者: attacker): self._attacker = attacker method getAttackPower(): return self._attacker.strength * self._attacker.agility
そうすると、攻撃方法が違っても、モンスターのattackedByメソッドの処理は共通
class モンスター: method attackedBy(攻撃方法: attackMethod): self._hp = self._hp - attackMethod.getAttackPower()
monster.attackedBy(new 通常攻撃(player)); monster.attackedBy(new 突撃(player));
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。