はてなキーワード: 理解力とは
これに対する対応が、その人自身の知識、政治的立場、現実理解や対応方法の様々なレベルに対応する構図となっていて、とても興味深い。
もともとのモネの絵に、ジャポニスムを諷刺する意図があったかどうか=定かではない…(1)
裾を引きずりドレスのように着こなす仕方は、まさに「ジャポニスム」であり、「日本文化への理解」に基づいてはいない=事実…(2)
これを踏まえて、
今回の件の問題提起を行った人は、背後に反日的な意図をもっているかどうか=分からない…(4)
『批判は正当であり、中止はやむを得ない派』Iwa Taka氏、関裕子氏ほか
『今回の抗議は反日的意図によるものであり、不当である派』守谷知氏、望月鎌足氏ほか
を左右両極として、相互に噛み合わない意見表出が行われており興味深い。
個人的には、
前者に対しては、批判者の論理への理解力は高いことはよいとして、批判自体への批判が欠けている点は問題だと思う。たとえば、余りにこの意見を厳格に適用すれば、異文化を紹介するあらゆる試みは事実上不可能となること、そして、オリジナルを過剰に尊重する態度こそがかえって現実に生きている人間の文化を貶める働きもする、という知見こそがポストコロニアリズムの重要な成果の一つであったこと(つまり「『ジャポニスム』自体もまた一つの『文化』である」といった見方)に、もう少し思いを馳せるべきだと思う。
後者に対しては……まあ、いつものようにいつものごとく、なわけで、もう少し勉強してください、というか、何で批判されているのか分からないならせめて黙っててくださいという。いたずらに議論を感情論とか陰謀論に落とし込んで混乱させるし、かつ、分かった上で反論してる人までがバカみたいに見えて困るので。
結論は題に書いたことほぼそのままである。「Twitter等に投稿されたテキスト実況のみをソースにし、あれこれ断定的に語るのはやめよう」という話だ。
その一 会話をテキスト化したものはその場で喋ったことの「全て」を伝えることはできない、一つ一つの喋りのトーンや話者のしぐさ、文字にしにくい口の音や息遣い…などの様々な情報はどうしても削がれてしまう。
その二 そもそも実況でテキスト化できるのはどうしてもそこで話された内容の一部に限られ、また実況者の勘違いや理解力不足からテキストでの再現を失敗することもままある。
要するに情報の質というものを考えたときテキスト実況の中で出されたものの質は低い、なのでそんなものだけをソースに使ってああだのこうだのと、しかも断定的に何かを語るのはやめるべきではないか?ということだ。
…別にこれは新しい話ではない、昔からある実況のみをソースとする際の問題点だ。
なぜこんなことを今書く気持ちになったのかといえば最近、まあ大体この数ヶ月~半年ぐらいだろうか、たまたまあるシンポジウムやトークイベントの実況ツイートのみをまとめたページ(togetterまとめ)を目にしてしまう機会が続き、そのたびに現場にいなかったであろう人達がああだのこうだのと、それも断定的な表現を使いそれについて語っているのを見てしまい、とてもばかばかしい気持ち…いやある種の危機感すらをも覚えたからである。
なぜか?それは多くのブクマやツイートがなされているのにも関わらず、そうした情報のみをソースに使うことを咎めたり注意するようなコメント、またはテキスト実況であることを留意していることを明らかにしながら書かれているコメント…などが全くと言っていいほどなかったからだ。
そしてまた最近、しかも自分が生で見ていたトークの場がTwitterで実況され、その実況ツイートを元にまとめが作られ、実際に見ていた者としては話されたことを把握しているとは思えないような反応が続々と付く光景を見てしまい、とても嫌な気持ちになったのだ。そして「こんな情報のみを依拠して何を言っても、それはもう『語られた』ことへの反応とはとても呼べないではないか。しかもそういう情報だと意識している人がほとんど見られないときた…」と呆れ、失望してしまい、それからずっともやもやしていたのである。そしてあまりにも気持ちに収まりがつかないため、今回このようなエントリを書いたというわけだ。
限られた場で話されたことをネット上に出すことによって新たな議論が巻き起こる可能性もあるだろう、それがなければ起こることのなかった多くの人々への刺激が最終的に何か大きなムーブメントに繋がることも時にはあるだろう。
だがしかしテキスト実況というものを元に何かを語る…という行為は語りの前提となるソースすら怪しいいい加減な議論や語りを生み出し、それがあまり疑われることなくネットに流通していき、ひいてはある種の歪んだ言説を誕生させる、ということが起きるかもしれないデメリットが付きまとう。そしてそうしたデメリットを前にした時、上記のようなメリットはほとんど問題にならなくなるのではないか。
こういうの最後は感覚であって理屈ではないんだろうけど、そう思う人が多いのなら何かしら理屈で説明できるかもしれないよなー。
SAOの例でおおざっぱに考えて見た。
・ゲームなんだから、現実世界よりははやく強くなるんだろうけど(リアルではどんだけがんばっても剣でモンスターを倒せるようにはなりそうにないって意味で)、確かにゲーム特有の反復練習での強くなり方って経験者かそうでないかで感想に違いが大きいかも
しんない
・SAOの場合、単に時間を過ごせばいいってわけじゃなくて、失敗したら死ぬんだぜ。そのリスクを負って死ぬほど努力するって相当じゃね?
なんてことを考えながらみている人なんてあんまりいないっぽいけど、無意識にどんだけ想像するかは経験とかの差はあるかもしんない。
ホワイトカラーの仕事柄か、社会人数年目までは、会話や議論がまったく成り立たない、
という人にはあまり出会ったことがなかった。その1点のみで自分のキャリアパスに自信を
持っていたが、今考えればラッキーだったと思う。
年次があがり様々な人と接するようになって見えてきたが、リーダーを負かされていても
認識力や理解力が異常に低かったり、幼稚な性格のまま大人になった人が1顧客のメイン担当
だったりということがざらだった。だから世の中はストレスフルだったわけだ。
はっきり言って「頭の弱い人」に仕切られるのなんてたまったもんじゃない。
世の中そういう人たちにイライラすることは日常茶飯事だ。そんな時、つい耐え切れ
なくなって私がやってしまうのが「煽り」。普段から、やまもといちろう氏をTwitterで
ウォッチしている自分としては、その鮮やかな煽りを見るにつけ「いつかやってみたい」
「相手を混乱させてみたい」と思ってやまない。そんな気持ちをぶつける相手として
そんな "頭の弱い人" は格好の相手となる。
"頭の弱い人" は物事をちゃんと認識することが苦手なので、ちょっとした勘違いに
軽くふれてあげるだけであっという間に怒り心頭。やまもといちろう氏の口調を真似すれば
とはいえ、"頭の悪い人" は煽られている状態も認識できないらしく、意味不明のロジックで
反論してくる。理解できない絡み方をされると超面倒くさいし、周りから心配されるのも嫌になる。
煽ったはいいが、煽られた奴の後始末なんて反吐が出る。「ちゃんと文章読めやクソ」なんて
思っても後の祭り。イライラは結局自分に戻ってきてしまうのだ。
そんな訳で "頭の悪い人" は調子に乗らせず、かといって怒らせもせず、クールに最低限の
自分に溢れ出る才能がある事に気づいたのは、小学校に入る前だ。
主に兄弟としか、遊んでいなかったため、自分がどれほどの才能を秘めていたのかそれまではよく理解していなかった。
しかし、小学校というそれまでと違う環境に放り込まれる事で、自分の理解力のスピードの差、他人と自分がどれだけ違う人種なのかというのをはっきりと理解するようになった。
もちろん、全員が全員馬鹿だったとは言わないがそれでも、そのほとんどは自分よりも「出来ない」奴が多かった。
そういう嫌な子どもだった。
子どもというのは残酷だから、自分より能力が高い奴を優先的に叩き潰そうとする。
言葉の暴力、身体的な暴力、精神的な暴力。自分は身体が小さかった為に、そう言った理不尽な暴力を多く受けた。
だが、同時に、とても聡い子どもであり、尚且つ狡猾で、精神的にタフであった。
生まれ持ってそう言った能力を与えられていた。まさに、ギフテッドだった。
故に、いじめられても凹まず、自分の能力を全く隠さず、常に全開で才能を振りまいていた。
狭い小学校では、常に一番になれた。
中学生の時も同じだった。同級生の数が増えたがそれでも一番をキープするのは片手間でできる事だった。
高校に上がり、やはりその中での一番を保ち続けた。
その頃には暴力による影響はほぼ皆無になっていて、むしろ多くの友人から慕われる程度には成長していた。
まあ、実際の所彼らは僕の才能を利用したいだけだというのは分かってたけれど、それに気づいていない振りをしてやり過ごしてた。
今思えば、幼稚な考えだと失笑してしまうのだが、当時の自分としては最高のやり方だと信じていた。
そいつ(以降、Aとする)は、思考の深さ、広さ、速度、濃度で全て自分を上回っていた。
何をさせても、Aは予想の全て上を軽々と超えていた。
それまで自分には才能があると自惚れていたが、夢から醒めた、とても残酷な方法で。
それから、色々出来たであろう可能性を一つ一つ捨てていった。
自分も、それなりにそつなくこなしていたが、Aに比べたら全て雑であるのは明白だった。
一応、負けっぱなしではない。
Aは自分よりも酒に弱いという弱点があるが、それは単なる体質の話だし、能力的な物でも何でもないのでそれを誇ったとしても空しいだけだ。
博士課程を修了した後、Aが何をしているか知らないが、きっとその才能を存分に何処かで発揮していると自分は思う。
自分の才能の限界が見えてしまい、多くの可能性を捨ててきて、十年程になる。
いい年をしたオッサンがこういうくだらない文章を書くのは恥ずかしいとは思う。
だが、それでもどこかに書きたかったので、増田に書くことにした。
だが、それでも、毎日がそれなりに充実しているし、楽しみはある。
彼は、自分のように、他人との差異に不必要に自惚れないかどうか、親として少し不安ではある。
親の目から見ても、まあ、息子は利発な方だが(親馬鹿丸出しでスマン)、それでもAには匹敵しない。
http://prehyou.blog.so-net.ne.jp/hapiness
ハピネスチャージプリキュアは視聴率は悪くないのにキャラクター商品の売り上げも映画動員数も激減、って話だけど、
元々コレシカナイ需要で売れてたのに、アイカツだのアナ雪だの妖怪だのそれ以外の選択肢が出てきたら客が減って当たり前。
「アンパンマンは赤ちゃんみたいで恥ずかしい」という幼稚園児が対象で、小学生になると「小学生にもなってプリキュアなんて恥ずかしい」と卒業する。
(http://b.hatena.ne.jp/gurutakezawa/20150217#bookmark-241901704なんかは恐らく小学生の話だろうから、元々プリキュアなんて出てくる訳がない)。
んでこの年齢層の女児向けってのは、少し前まで事実上プリキュア一択だった。
というと「トイザらスでも行けば他の女児向けおもちゃも山ほど売ってるだろ」と言い出す人がいるかもしれないが、
キャラクター商品と言うのはクリスマスか誕生日にしか買わないような高額玩具だけじゃない。食品だの日用品だの文房具だの衣類だのそういうものもある。
一つ一つの金額は低いかもしれないが、何せ日常的に買うものなのでこちらの利益も相当多いと思われる。
そしてこういうものは玩具屋と違い元々棚(置き場)が少ないスーパーで売られることが多いものだから種類が少ない。
それでも男児向けであれば同じアサイチでも特撮が二種類あるし他にもポケモンなんかもあったけど、女児だとほぼプリキュアしかなかった。
だから女児は「子供向けのかわいいキャラもの商品」が欲しければプリキュアを買うしかなかった。一昨年までは。
でも今やこの手の商品はどこもかしこも妖怪だらけ。それまでキャラものの商品なんて無かった商品にも妖怪が採用されている。皆流行りものに乗っかり過ぎだろ。
妖怪以外に女児向け棚がある場合も、アイカツだのアナ雪だのに棚を取られてプリキュアが無い場合も多い。
あっても他に選択肢があればプリキュアを選ばない子も当然多いだろう。
視聴率はそうでもないのに映画の動員数が激減ってのも当たり前。
自宅のテレビでタダで見せられて、その間子供を放置して親は他の用事をこなせるテレビアニメと
わざわざ子を休日に連れて行き、親と子の二人分&兄弟がいればその分の金を払って親も付き合って見なければならない映画は全く違う。
女児持ちかつ子供を映画に連れていく気のある家庭の殆どは、昨年は春~夏の間にアナ雪見てるし、
冬に妖怪を見に行く予定もあったら更に10月にプリキュアなんて行かないよ。年3回も行ってられない。
そもそも子よりむしろ親が行きたがるパターンも多かったアナ雪と違い、プリキュアは大多数の親からしたら別に金払ってまで見たいもんじゃないわけで。
ちなみに大友は「ストーリーがつまらなかったから」と言いたがるけど、恐らくそれは関係ない。
妖怪の狙いの一つとして「子供の集中力理解力は30分も続かないから、30分で1話ではなく2,3話の短編を組み合わせた」というのを聞いたけど
(そして実際成功したし、ドラやサザエなど昔からある子供アニメもそういう構成だよね)
妖怪より年齢の低い子対象なのに30分1話のプリキュアは、そもそも制作側もストーリーを理解させようなんて思ってないんだろう。
特撮見る男児の大半が変身とバトルしか見てないように、プリキュア見る女児の大半も変身とEDのダンスしか見てないと思われる。
内容でマズかったのは精々絵柄くらいじゃないかな。絵が古臭くて可愛くないから。
アナ雪はそろそろオワコンだし妖怪ブームもひと段落するだろうから、次のプリキュアは多少は盛り返すかもしれない(でもあれも絵可愛くないよな…)
でもアイカツは定番化しつつある上にプリパラも出てきた事だし、コレシカナイ状態には今更戻らないだろうから最盛期並みにはもうならないと思われる。
それでもだらだら続けるのか、仕切り直しするのかは知らんけど。
具体的に言うとだ、ケンカを売らなくなった。
揚げ足を取らなくなった。馬鹿にしなくなった。指摘すら最近はしない。
「それ文中に予想されて既に書かれてるじゃん」とか
「性格と言葉遣いしか批判するとこ無いのか」とか言うとこから、
ブコメにすら書かずに心の中で、
とだけ呟いて、世の中には幼稚園児みたいな馬鹿が多いなーとスルーするようになった。
とかしか感じられなくなった。
だってさ、まともに大学行ってりゃ、引用の作法はみっちり叩き込まれるじゃん。
多少面倒でも孫引きせずに1次データないか観に行ったりさ、分野はどうあれ史料精査はするだろうしさ、
邪推して相手をくさしても良いこと無いとか、大人になったらある程度わかるじゃない。
ある程度のことはやってみる前に判って、その上でやってみるわけじゃない。大人なら。
んでさ、ネットには言葉が通じる理解力のある大人が多いと思うわけだよ。最初はさ。
触っちゃヤバイ人も居るけど、大抵は、まあ、勢いでつい書いちゃうとか、情報が足りないだけとか、思うじゃん。
聖人じゃないんだから、いきおい暴言も吐くだろうし、一旦振り上げた拳は降ろすの難しかろうし、恥もあるから間違いを認めたくないとかも判るよ。
だからさ、炎上狙って書くのあざといな、コメントすんの止めとこ、みたいなのはまだ良いんだよ。判ってやってんだから。
ワザと棒グラフの足下省略したな、みたいなのは、ヒデえな、とは思っても、意図したとおりなわけだよ。3D円グラフとか。
でもさ、わりと本気の馬鹿も多いじゃない。
ここで言う馬鹿は、悪い意味の馬鹿ね。DPZには載らないタイプの馬鹿。ジャッカスとも方向性の違う馬鹿。
ああ、何言っても疲れだけが蓄積するんだろうな、みたいなやつ。
だから、ちゃんと啓蒙みたいにデータ引っ張ってきて丁寧に論述してるのを見かけると、本当に尊敬する。
で、振り返って自分は何やってるかって言うと、何もしてない。
絡んでも何の特もないなと思ってスルーするだけ。
わざわざ非を指摘する熱量を持てなくなった。
嫌な大人になったな、と自分で思う。どうすれば良いだろうね?
リアルなら良識ある大人の態度なんだろうけど、ネットでそれだからさ。
変に嫌みを言わないだけ、マシなのかね。
http://blog.hatenadiary.jp/entry/20150119/1421676908
これ
これらの設定が
思考停止してあひゃひゃひゃと笑いながら観ていたとはいえ、2話とも実況に貼りついていたのにまったく理解できてませんでした。
って言ってるけど理解力なさすぎじゃないかな。
前世が2つある人がいてもおかしくないって2話の冒頭で説明してるし、主人公がそうなのでは?って言われてる。
その上、第3階梯闇術使ってましたよって言われてる。
まぁ音声情報だけで第3階梯闇術って言われて、字面が浮かぶかは微妙だけど。暗術に反応して魔法と認識するのはそれ系のアニメみてればできるレベルだと思う。
そうなると1と3は説明されたことになる。
正確には
の説明にはならないけど。
3に関しては悠木碧のキャラに「もう一つの力がある」って言われてるし
2話の最後のやりとりからいって悠木碧キャラと前世でなにか因縁があるのは理解できる。
とにかく全部説明されてる。
理解できない人は理解できる人と比較して経験か脳が劣ってるかしかないから、
理解できるできない争ってもしょうがないと思うけど十分な描写はちゃんとされてる。
本題はここからで理解力なさすぎなのは個人の問題だからどうでもいいんだけど敬意なさすぎでは?
この人まじめに見てないじゃん。
思考停止で見てるって自分で言ってる上で理解できなかったって、完全にこの人の責任じゃん。
そういう自分の落ち度や無能力さを理解できなかったの一言で製作者側の責任にするのはホント卑しいと思う。
この人の場合、思考停止とか理解力なくて申し訳ありませんみたいな言葉はただの皮肉なんだろうけど、
そういうことを恥ずかしげもなく書ける神経もまた疑う。敬意がなさすぎる。応援ってなんだ。死ぬことが一番の応援だろ。
原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿の執筆と推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。
さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているものも存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダを偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。
文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダと感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである。
とはいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。
よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。
水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。
具体例として次の例を挙げている。
「すごい美少女だ!」
俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、
――ドカーン
背後で、謎の爆発が!
なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生は学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである。
何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である。
とはいえ学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲームや携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。
読者はバカだからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験的小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島の姿勢はいささか理解に苦しむところである。
クーンツは作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。
一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公の描写、自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るものを描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。
また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。
人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。
しかしながら、これも絶対的に忌避されるべきかといえば難しい。
例えば名作と名高い「猫の地球儀」は
と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続の接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自の専門用語を第二文目で出すなど言語道断である。
しかし筆者は、上述の水島のドカーンをはるかに凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。
作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっとも妥当であるように思われる。
従って、アクションから入ろうが主人公の身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。
頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。
また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物の存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果的であると主張する。
こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写の臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。
止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定の時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家は西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。
仮に作家が自分の想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家の想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画が再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂いも付与されているのであれば、臨場感はさらに高くなるだろう。
絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークのセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法の類似点、相違点については十分な調査と検討が必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。
より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校でテストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。
これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット上必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車でヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである。
クーンツは会話は全体の20~30パーセントは必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるがバランスが必要である。
その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツは発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語と日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。
ヒックスは会話の機能として、「ストーリーを前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。
このようにクーンツ、ヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家陣からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。
この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本や筒井の批判するところと言いうるだろう。
説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報を記述してしまう、という点がよく指摘されるところである。
一方で三人称体は登場人物の知りえない情報を記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。
このことから水島は、「楽しさ重視のコメディは一人称」が望ましく、「複雑なストーリーは三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。
一方で飯田は三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田は一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公の一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。
とはいえ三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。
一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法は自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称のメリットと、感情移入を容易にする一人称のメリットを同時に享受できる極めて強力な技法である。
なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロの作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。
他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家が登場人物を批評したり意見を述べるのは19世紀の時代遅れな手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。
端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。
筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論が必要であることから本稿では割愛する。
水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリーの情報を提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックはドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。
一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述はある意味でこのフラッシュバックの効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである。特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。
クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。
推敲の重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定の時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。
冲方は推敲の要点として、「冒頭とラストにインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件(物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。
最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディア、プロット、原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。
日経が伝えている。
日本の労働者は他国よりも長時間働いている半面、1時間あたりの生産量は非常に少ない――。先進諸国と日本の労働実態を比較すると、働く現場での非効率性が浮かび上がる。
経済協力開発機構(OECD)の調べによると、日本では1人あたりの総実労働時間は2011年で平均1728時間。統計をとり始めた1970年の2243時間がピークで、高度経済成長 期に比べてサービス残業の見直しなどで減少傾向が続くものの、英国(1625時間)やドイツ(1413時間)、オランダ(1379時間)など欧州諸国に比 べると、長時間労働が依然続いている。
一方、同じくOECDによる労働生産性の国際比較(11年)を見ると、日本の労働時間1時間あたりの生産性は41.6ドル。米国(60.2ドル)やフランス(57.7ドル)、ドイツ(55.8ドル)に比べて日本は生産性が著しく低い。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG1800X_Q3A620C1SHA000/
(関係ないが何故日本のマスメディアは記事を消すのだろうか?BBC等の海外メディアはかなり長期間残しているが、日本のマスメディアはやましい事でもあるのだろうか?)
やっと、この国でも「生産性」について最近考えられるようになってきた。
「生産性」と言う「率」に換算して考えると、日本人の水準は低い。
その事自体はこちらに帰ってきた頃から気が付いていた。ただ、そう言う事を訴えても、この国では新参者や部外者の意見は取り入れられないらしく、叩かれて終る。
(常にそうだったし、恐らく大多数の人間はこれからもそうであろう。)
生産性とは特段指定が無ければ基本的には「生産率」の事と言える。
この国で重要視される、或いは重宝されるのは「労働時間が如何に長いか」と言う量的問題であり、「率」ではない。そしてそれ以上に価値として重きが置かれている要素が「根性論」と言う悪しき風土である。(要は入力しか見ておらず、出力や全体の式を見ていない。)
そしてそれが齎す文化が、「自分を捨てて死ぬ気で頑張ったものが偉い。」「体を壊してまで労働に自己をそそいだ者程偉い。」と言う悪しき風潮である。
だからマスメディア(増すゴミ)ではそう言った物語が大々的に取り上げられ、賞賛される。
「長く労働した方が偉い。」「(効率はともかく)会社に長時間残っている奴が偉い。」と言う暗黙の了解とその悪しき労働文化。
(そして、「効率」を本当の意味で理解している人間の少なさ、、、口では「**してると効率悪いからね」などと言うが本当に理解している奴は極端に少ない。)
その為、「最終的な生産量」のみが重視され、その間の「生産工程」・「生産過程」・「率」が考えに入れられる事は無い。
労働量や最終的な「出力量だけ」が重視され、「その過程」が全く考えられていないのである。
そして、その「率」を上げよう物ならば、必然的に労働時間は短くなる。
何故かこの「労働時間が短くなる」と言う事が日本人にとってはたまらなく嫌な事であるらしいのだ。
そもそもその思考回路自体俺には理解できないし、馬鹿馬鹿しいと思うが、しかし彼ら彼女らが事実上重要視するのはその「時間長」であり、単位時間当たりの生産「率」ではない。
勤務時間が減って労働時間が短くなれば自分の生活に費やす時間が相対的に(その差分として)長くなる。
そうすれば趣味に余った時間を使う事もできるし、そもそも休息時間が長くなるので次の勤務に備えやすくなる。
「次」に備えやすくなれば人間の動機は回復するし、体力的にも回復する為、更に生産性は増す。
この一連の連鎖を日本人は理解していないようだ。(と言う事に、最近気が付いた。以前までは理解しているのだろうと勝手に思い込んでいた。ところが理解力のある人間が全てではないと最近になって気付いた。)
しかし、「生産効率」を謳おうものなら、単に「でしゃばるな」「生意気だ」の一言で一蹴され、社会の中でそう言った意見はかき消されてしまう。
特に、日本に帰ってきた当時はまだ20代前半で、その上見た目も実年齢より低く見積もられてしまうので特に扱いは酷いものだった。
普通に(論理的に・理論的にと言う意味で)考えれば当たり前の話である。
だからこそそれを調整して「生産性」を上げるべきなのであり、単に時間を延ばすとは愚の骨頂である。
そしてそれをこの国の人民は出来ていない。
「その能力が伴っていない」と言う事もそうだが、文化がない風潮が全く進むべき道と真逆を行っていると言う事が最大の要因だ。
それを無視して労働者を酷使しているのがこの国の現状であり、特に大きなしわ寄せはある世代に特に酷く押し付けられている。
基本的な傾向としてはある世代以下の人口層である事は、解る人間には解るだろう。
そしてその結果は現状を見れば言わずとも解るだろう。
メディアでも時々騒いでいる事と同じ。
衰退の一途を辿っているに過ぎない。