結論は題に書いたことほぼそのままである。「Twitter等に投稿されたテキスト実況のみをソースにし、あれこれ断定的に語るのはやめよう」という話だ。
その一 会話をテキスト化したものはその場で喋ったことの「全て」を伝えることはできない、一つ一つの喋りのトーンや話者のしぐさ、文字にしにくい口の音や息遣い…などの様々な情報はどうしても削がれてしまう。
その二 そもそも実況でテキスト化できるのはどうしてもそこで話された内容の一部に限られ、また実況者の勘違いや理解力不足からテキストでの再現を失敗することもままある。
要するに情報の質というものを考えたときテキスト実況の中で出されたものの質は低い、なのでそんなものだけをソースに使ってああだのこうだのと、しかも断定的に何かを語るのはやめるべきではないか?ということだ。
…別にこれは新しい話ではない、昔からある実況のみをソースとする際の問題点だ。
なぜこんなことを今書く気持ちになったのかといえば最近、まあ大体この数ヶ月~半年ぐらいだろうか、たまたまあるシンポジウムやトークイベントの実況ツイートのみをまとめたページ(togetterまとめ)を目にしてしまう機会が続き、そのたびに現場にいなかったであろう人達がああだのこうだのと、それも断定的な表現を使いそれについて語っているのを見てしまい、とてもばかばかしい気持ち…いやある種の危機感すらをも覚えたからである。
なぜか?それは多くのブクマやツイートがなされているのにも関わらず、そうした情報のみをソースに使うことを咎めたり注意するようなコメント、またはテキスト実況であることを留意していることを明らかにしながら書かれているコメント…などが全くと言っていいほどなかったからだ。
そしてまた最近、しかも自分が生で見ていたトークの場がTwitterで実況され、その実況ツイートを元にまとめが作られ、実際に見ていた者としては話されたことを把握しているとは思えないような反応が続々と付く光景を見てしまい、とても嫌な気持ちになったのだ。そして「こんな情報のみを依拠して何を言っても、それはもう『語られた』ことへの反応とはとても呼べないではないか。しかもそういう情報だと意識している人がほとんど見られないときた…」と呆れ、失望してしまい、それからずっともやもやしていたのである。そしてあまりにも気持ちに収まりがつかないため、今回このようなエントリを書いたというわけだ。
限られた場で話されたことをネット上に出すことによって新たな議論が巻き起こる可能性もあるだろう、それがなければ起こることのなかった多くの人々への刺激が最終的に何か大きなムーブメントに繋がることも時にはあるだろう。
だがしかしテキスト実況というものを元に何かを語る…という行為は語りの前提となるソースすら怪しいいい加減な議論や語りを生み出し、それがあまり疑われることなくネットに流通していき、ひいてはある種の歪んだ言説を誕生させる、ということが起きるかもしれないデメリットが付きまとう。そしてそうしたデメリットを前にした時、上記のようなメリットはほとんど問題にならなくなるのではないか。