「無神論者」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 無神論者とは

2015-03-30

あなた方たいていの日本人無宗教でも無神論者でもありません。

無知」です。

2015-02-08

イスラム教がなんであんなに信者を獲得できるのかわからん

無神論者なので神も仏も天使も死後の世界輪廻転生存在しないと思ってるが

それ抜きにしても内容読む限りクルアーン神の言葉とはとても思えない

神様がわざわざアラビア語六法全書みたいなもんまで啓示として与えんのかよ(しかもそれが最後で千年以上音沙汰なし)って思う

世界創造できるほど全知全能なら全人類に常時直接伝えることも簡単なはず

なぜ特定時代特定地域にいた一人だけを預言者にするのかわからん

2014-09-21

伝統保守派で共産主義者信仰心のない有神論者という立場が誤解されてばかりで悲しい。

右翼には共産主義者として嫌がられ、共産主義者には右翼として嫌がられ、有神論者には無神論者と誤解されるし、無神論者には有神論者と誤解される。

日本の文化伝統を維持発展させたいと思ってる共産主義者だっているし、神の存在を認めても畏れ敬うつもりが全くない人だっているのに。

文化伝統に対して保守的なら政治に対しても保守的であるべき」とか「神を知ったなら崇拝するべき」とか、どうして二つの物事抱き合わせしか考えられないのか。

2014-09-20

[]キリスト紀元

参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います

 この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております日本元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人元号だけは朝廷公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合象徴というような意義も感ぜられるのでございます英国におきましては、公文書エドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制本質的には同様のものであろうと思われるのであります英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います外交文書には現在でも公式キリスト紀元が用いられておりますキリスト紀元採用せねばならんからといつて必ずしも日本式元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます

 我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法外交文書で用いられようと、学校教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合キリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございますキリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います政教分離米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチスドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本国民感情を考えますと、決してドイツソ連と同様には行かないと思うのでありますドイツソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化伝統がありましたので、国民キリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教特殊関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民圧倒的多数神道仏教に属しておりますキリスト教徒全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情問題と申すべきでございましようが、政教分離憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます

 今日では国家公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家キリスト紀元一本で行くことになりますと、神道仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております過去東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化伝統が浅く、神道仏教徒の多い日本世論としては当然のことであろうと存じます元号キリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題議論は多いここと存じますが、私は全国の神社神道人を代表する宗教人立場といたしまして、神道人も仏教徒キリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております

第007回国会 文部委員会 第8号

昭和二十五年三月二日(木曜日

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html

2014-08-29

日本人西洋人無宗教の違い

無宗教日本人:「あー神様ね。そんなん多分いないっしょw」→神がいようがいまいがどうでもいい(消極的

無宗教無神論者)の西洋人:「神などいない。」→神の存在否定している(積極的

2014-08-27

自分にぴったりとハマるパズルピースみたいな人と出会うってマジ?

なんだか、世の中的には、ビビビッとくるとか、パズルピースみたいにピッタリ合うみたいな

そういう神話があるみたいなんだけど、あれって本当なんすかね?

実際、結婚した人的にはそんなの2割切る程度でしかないし、

自分に関して言うとそんなのまったくなくて、だから未婚なわけでもあるんだが

それって理想っていうか、なんていうか最強みたいな感じがして羨ましい。

だって運命を感じた、みたいな理由結婚できたら

たとえ別れたってある種満足でしょ。

まぁとにかくだ、そういう、出会った瞬間に「こいつと結婚するわ、俺」みたいな

そういうの待って生きているんだけど、全くそういう気配がない。

ある程度無神論者だけど、いるなら、神様さんよ、俺にそういう出会いを与えてくれ。

2014-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20140429220949

日本を愛する=国体を愛する

国体天皇家

 

天皇を頂点とした人間上下関係の秩序を無視して、すべての人には人権があり、平等であるという信念を持つサヨク必然的反日になる。

欧米を引き合いに出すなら「無神論者教会に敬意を払わないイメージがある」なんて言ってるようなもんだよ。

2013-11-02

彼女ハムスターを生ゴミに捨てるのを嫌がる

例の宗教の話題で思い出した。

俺と彼女ガチ無神論者カップルなんだけど、飼ってるハムスターが死んだのでゴミ箱に捨てようとしたら彼女が泣いて嫌がったことがあった。

俺「え?なんでダメなの?」

彼女だって可哀想なんだもん」

俺「でも死んでるんだよ?」

彼女「死んでても生ゴミと一緒に燃やされるなんて可哀想」

俺「ハム太郎はもう死んでるんだから何も感じないよ。もしかして魂とか信じてる?」

彼女「そんなのは信じてないけどダメものダメ!」

俺「なんでダメなの?合理的に説明して」

彼女感情ダメなの。分からないの?」

俺「それって普段馬鹿にしてる宗教と同じなんじゃないの?」

彼女感情宗教は違う」

俺「何が違うの?」

彼女宗教ってのは馬鹿教義を守ってるようなことで」

俺「死んだペットゴミ箱に捨てないってのも教義でしょ」

彼女「それは教義じゃなくてマナーみたいなものでしょ!!」

俺「???」

結局近くの公園に行って埋めてきたらしい。公園に埋めるのはマナー違反だと指摘したが、それとこれとは違うとか言われた。

お守りをハサミで切れないと宗教を信じてることになるらしいが、俺にはこの件も同じに見える。

宗教の発生って、死体ゴミ同然に捨てるのが感情的に無理ってところと、キリストみたいに特異的な統合失調症患者との出会いなんじゃないか

そうすると感情がある限り宗教はなくならないんじゃないかと思った。

http://anond.hatelabo.jp/20131031224610

2013-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20131031224610

あのな









人が嫌って思うことなんていくらでもあるんだよ

虫が嫌いとかきゅうりがきらいとか前髪が目にかかるのが嫌いとかよ

その自分が行動したくないっていう感覚喚起される理由が




”この世の法則定義されている以外の、何かの存在がある可能性がありますよね?”




って言い出すのがウザいんだよ

それは自分が嫌だって理由だけでいいだろ





それをな、生理学的なものとして分類するなら当然かもしんねえよ




なんでいきなり限定的に「宗教」という共同共有観念体系にするんだよ






”おまえがたまねぎ嫌いなのは前世で罪を犯したからで現世でしっかりお布施をしなければ”






ここまでの思考造形は宗教って商売の範疇に入れてもいいだろうよ




”しなければ恐怖を体験します”





って付けるのは作為的利益誘導をして平等性も欠いて倫理的にも人道的にも社会的にも反するもんだろ

現実的に発生することを予測してコンサルタントするならそれはそういう商売があるから人間の法に則った根拠を商品正当性として認められれば営業ができるだろうけどよ





天国にいけますって投資を募るのは期待値または元本の保障をしない契約として契約書なんかに記載があれば

常識的に死んだらどうなるの範疇人間にはない、法的に取扱がないところから問題ないだろうよ



しか現実問題として発生する事象危惧させ利用して現世で法的に対応範囲な事柄を誘導するのは宗教関係ないだろ

投資物件としての宗教かいう範囲を超えてるだろ




あの人があの世にいったら待遇よくしてくれるって言ったんです とか本気でいってたらそれはそれでいいだろうしだれも責めねえよ

けどな、呪いを解いて災厄を解決するために現金いくらはらったとかになったら「宗教なんで非課税です」とか言わねえよ





まりな、この世に無いものいくら語ってもそりゃぜんぶ宗教でいいと思うよ

みんな神様のおかげだよな




けどな、宗教がこの世の何かを動かすってなったら、そりゃこの世の法則に縛られるべきなんだよ


人間座禅くんだまま宙にも浮かないし 祈願で病気は治らないんだよ

人間裁量範疇外、コントロールできない運がめぐってくるチャンスを獲得する方法なんて人間にはないんだよ

から運任せや神頼みって 存在するかしないかからないしアプローチのしかたも無いものについて

自分なりにアプローチ」するのはありだとおもうよ みんながやってることだったら安心感も増すだろうよ

なにか良くわかんないけど祈りますってよりは祈りを受け取る相手を具体的にしたほうがそれっぽいだろ

とりあえず「おねがいします」と祈って神やらなにやら対象を特定しない日本人ですら一応「八百万」って

祈っとけばどこかに受け取り先がいるって事にしてるんだぜ



いままで存在する祈りの方法で祈った人数と達成できた人数は たぶん宝くじ当選確率よりも低いんじゃねえの?


宝くじに当たったのが「神様のおかげなので寄付しなさい」っていきなり来るのと「宝くじがあたりますように」って無神論者が祈るのは

「同じ」か?







おまもりは神の国からきた異次元物質じゃねえだろ



人間の気持ちはどこからたかわかんねえから法律定義もないから、「神の国からきたもの」とか魂とかいものとして非常時の投資材としてあるってのもまあいいだろ


その気持ちが神の世界と繋がってるからかどうかはしらんが、現実のものをどうにかするなら一旦神の国にもってってからしろって話だ


日本犯罪を犯したら日本法律で裁かれろって話だよ

治外法権うったえるなら、大使館に連れ込んでからしろって話だよ




神の国との引き渡し条例とか組んでるならどっちかの法則が相手のエリアに介入してこないと意味ないんだよ




宗教会館みたいなテーマパークとかで神秘体験したとかそれは大事にしとけばいいよ

それテーマパークから持ち出したら魔法がとけてんだよ






もういっかい言うが


おまえがキモデブオッサンで引きこもりなのは前世で悪さをしたからだ


とかあるかないかわからんがあってもなくても真実かもしれないし嘘でも空想でもかまわんよ


アニメDVD再生中なら30分間だけ異次元世界で夢をかなえても問題ねえよ


メイド喫茶にいったら女子が心から愛してくれるとかそういうのでもいいよ





「だから現実にあるそこのお守り切りなさい」




ってのはただの嫌がらせなんだよ ただ嫌って気持ちをおこさせるだけなんだよ


メイド喫茶の会員券を切りなさい でも アニメDVDを切りなさい でもいいんだよ


ただ 嫌な気分になるだけなんだよ


DVD再生できなくなったのは 天罰だ とか

メイド喫茶にいけなくなるのは 天罰だ とか


その嫌な結果を 天罰 と称する方法宗教だとかいうのはただの自分ルールじゃねえか

メイド喫茶にいきたければ宗教に入りなさい とか言うならそれは宗教だろうよ

アニメショップの会員制度は たぶん宗教だろうよ





宗教ってのは 嫌って感覚をまとめて共同体として回避解決しようという集まり 組合みたいなもんだろ








改めて聞くが その嫌ってのと 一般的宗教って名称のもの



なんか関係あんの?

2013-10-09

無神論者が神の存在を求める時

僕は無神論者だけど、この世に神様がいてくれたらいいのにと今切実に思う

何かをしてくれる存在として願っているのではなく、ただ真実を知ってくれている存在

この世にいると思えるだけで、どれだけ心が救われる人間がいることだろうか

2013-07-14

http://anond.hatelabo.jp/20130714220324

でも、宗教って、要するに『価値観の統一』的な事だと俺は思うんだよ。

で、それ(宗教)は人を幸せにしてるんじゃねえの?って。

あ、ちなみに俺自身は無神論者なんだけどね。

2013-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20130708175342

すごい回答を見てしまった、、、

生活規範とその成り立ちが"宗教"によって成り立っているとのこと、、、



自分たちの宗教が一番で、自分たちの宗教を否定する人間は信じられん、というのに、

自分自分と違った人(無神論者や他宗教者)を区別は当たり前の様にするという、、、

のしきたりで行われている会においてそれに従わないことは

否定しているのと同じことで無神論者が批判することと同意であるということを理解できないのだろうか?


そうか、これが宗教による生活規範なのか。

自分が絶対、それが宗教

http://anond.hatelabo.jp/20130708153935

無神論者、っていうか自分宗教を否定する人間はそりゃ嫌うだろ。

一方で一概に無神論者を否定する人間は他の宗教も否定することが多いか

それはそれで自分コミュニティー以外では嫌われる。

2013-07-08

http://anond.hatelabo.jp/20130708133350

ひどい話だな。

無神論者ならもっと、ましな説明すればいいのに。

これを聞いた子供が可愛そうだ。

まだ、アメリカにいる無神論者の方がましだな。

「多くの日本人無宗教≒凡神論」なのだから

宗教自体を否定するにしても、言い方がひどいな。

2013-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20130516210212

精神論とまで大層な論ではないけれど、何か挫折経験した時に這い上がるための肥料を一つ多く持っていると思うと、

無神論者よりも強みがあると思っていいのかもしれない…気がする

2013-01-21

http://anond.hatelabo.jp/20130121001007

よくわかりますよ、あなたの気持ち。自分も似た様な感情に悩んだ経験があります


自分は、西洋古典的な小説に感銘をうけて、もっと知りたいと思うと同時に

日本の土着の信仰につても魅力的に感じて、これは両立できないなぁ…と困っておりました。


そんな感情を背景に持った状態で、ある時、人生に大きな困難が降り掛かりまして

この状況には宗教的な支えがないと乗り越えられないと悟り

変な新興宗教に掴まる前に、自分が納得する宗教宗派を選ぼうと思い立ちました。

せっかくなので、かねてより興味のあったキリスト教にしようと決め

宗派による違いを調べ、教会が近くにある場合は足を運び、最後に一つの宗派を選びました。

日曜のミサにしばらく通い、その後に洗礼の準備のための聖書勉強会にも通いました。

その後、人生の困難が落ち着くにつれ、教会からは足が遠のいてしまい、

結局洗礼は受けませんでしたが、今でも良い経験だったと思います


以上のような経験をふまえ、増田に伝えたいことは、以下の通りです。


日本におけるキリスト教コミュニティ西洋のそれとは大きく異なる

日本には、全宗派合計で人口1%しかキリスト教徒がいません。

お互い助け合う文化は確かにあり美しいものですが、

宗教である以前にマイノリティ団体としての側面を強く感じます

都心部なら、まだ増田イメージに少しは近いところもあるかもしれませんが

少し郊外田舎になると、老人ホームボランティアのような雰囲気も珍しくありません。


あなたキリスト教徒として育ったわけではない

これは宗派によっていくらかの差があります

教会コミュニティは代々キリスト教徒として育った人が大半を占めます

大人になってから自ら門を叩く人は、大変珍しいです。

あなた教会で仲間として認められるためには、洗礼をうける必要があります

洗礼をうけた後も、教会員としての役割人一倍こなすことが求められるでしょう。


教会無神論者が来ることには慣れている

キリスト教的には、私のような日本の伝統宗教価値を持ってる人も無神論者のようなものです。

それでも、事情を話して知りたいと言って訪ねて行けば、みなさん丁寧に対応してくれました。

そして、だんだんと足が遠のいても、ほっといてくれました。

時間のある学生のうちに、実際に自分の目で見て確かめてみるのも悪くないと思います


ブコメ等で指摘されてる、恋人ができれば解決する、ってのもまた事実しょうが

知的好奇心の強い増田なら、キリスト教についてより深く知ることは

今後の人生西洋文化を楽しむことにも、大変役立つと思いますよ。

2012-12-31

日常底」について

こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。

  • 仏教学関連の論文で「日常底」という語が用いられている例がある。

仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学研究所1992年、108頁)

日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教キリスト教との出会い: 根源的いのち経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会2003年、219頁)

即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事実験無神論者唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践筑摩書房1967年、185-186頁)

さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。

2012-05-18

挫折で人は強くなる。人みな師なり。 (吉川英治)

っていうことは今強くなってる真っ最中なんだろうな。

もうだめだよ。疲れたよ。助けてよ。なんかいい事起きてくれよ。

我慢してるけど一瞬気が抜けたら涙が出そうだ。

このまま何も起きないならいっそのことって毎日思ってるよ。

無神論者だったころが信じられない位に祈ってる。毎日

2012-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20120103122913

彼らは"異性愛教"の信者であって、"家族愛"や"同僚愛"は異教の教えだからどうでもいいんだよ。

不思議なのは家族愛教徒や同僚愛教徒自分信仰が絶対と思っていないし、異教徒迫害もしないのに、

異性愛教の信者けが異常に異教徒無神論者不寛容で過干渉で攻撃的なところ。

猫教の信者にも猫原理主義者が居て、異教徒無神論者尋常じゃなく不寛容だったりする。

異性愛」や「猫」は不寛容人間の支持を集めやすいということ?

2011-12-07

田舎葬式マジすごい

親戚に不幸があって、約一年ぶりに帰省したんだけどさ、田舎葬式マジすごい。

なにがって、とにかくデカい。

だいたい、220~250人くらい来てるの。

政治家かよ!って感じだが、故人は一介の農夫である

そういや、昔うちで葬式やったときもこれでもかってくらい人が来たが、そのときは驚きはしなかった。

びっくりしたのはセレモニーホールでやったせいかもしれない。

椅子の数でだいたい人の数がわかるし、故郷を離れてから出席したほかの葬式セレモニーホールだったんで、それらと比べることが出来るしで。

よくもまあ、ほぼみな通夜葬式皆勤賞だ。

平日だってのに。

始まる前に腹ごしらえして「気合入れていくぞー!エイエイオー!」じゃないけど、そんな感じのノリでみな戦闘モード

終わったら終わったで、祭りの後の打ち上げのような感じで。

それが、通夜の日と葬儀の日の2日にわたって続く。

なんなんだろうな、この壮大なムダは。

僧侶に払うお金が勿体ないって言うつもりはない。

最近、「坊主はボリすぎ」って意見ネットで散見されるけど、個人的にはそうは思わない。

むしろ、都会の葬式と同じ料金だったら割りに合わないと思う。

人が多けりゃ焼香の時間も長いし、部屋が大きければ声も上げないといけない。

読経だって大変だ。

今回なんか納棺前に「和尚さんどうぞどうぞ通夜が始まる前に「どうぞどうぞ」終わったあとに「どうぞどうぞ」、葬儀前にry,葬儀後にry

といろんな人にひっぱられ、飲まされ、とまあそんな感じだし。

なにより、200人以上いる前で説法だし。

まあ、それよりお金の問題じゃない。

どうせ故人が生前貯めた金だ。

どう使おうが構わないと思う。

なにが無駄って、平日だってのに、みんなそんなに暇なの?ってとこだ。

野菜もってけーれ、スーパーだとお金だして買わないとだけど、もってけばタダだべ。コメ用意してやるから、またけーってこい」

おいババァ、葬式の後の会話がそれかよ。

タダってあんた、ガソリン代いくら使ってきてると思ってんだ。

ちなみに、この地域では町内会草刈りのため息子(といってももうすっかり中年だが)が有給とって東京からやってくる、などということがザラである

町長、ちっぽけな一人の町人葬式に出たりしてないで仕事しろよ。平日だろ?

まったくもう、イライラする。

無神論者なんで、故人を偲ぶとかそういうのはどうでもいいけど、どうなんだろうなぁ、このドタバタ感。

でも逆に、忙しいくらいのほうが遺族は悲しみに沈まなくていいのかななんて思ったりする。

それでもなお、やだ。

いつか自分喪主になって切り盛りする日も来るのだろうか。

お願いだから自分の親には、葬式はしないでくれという遺書でも残して欲しい。

250人っていったら、一人と2分ずつ挨拶したって500分だろ?

死ねるわ。

2011-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20110725004759

はてな民は無神論者が多いようだが、こういう話題になると本質的な弱点を露呈する。

こういう連中に「道義的」とか言っても無意味だし、「違法」とかいってもあまり意味はない。

かれらは単に功利主義からリスクの低いほうに、楽なほうへとなびくだけで、そこに道徳やら、思想やら微塵もない。はてサが、時に平和主義的な主張をするのも、命が大切だからとかでなくて、たんにそっちの方が楽だからであり誤解してはいけない。ナチズムに反対するのも、たまたま周りが幸いにもそういう環境からなだけ。こんなお気楽な「思想」などあったものではない。こういう連中に、一族皆殺しにされて自分も殺られるとなっても反ナチを唱えるだけの気概などないだろう。そもそもたかが障害児一人かかえるくらいで(それは並大抵のことではないことは分かったうえでいうが)安易な人殺しに走るという発想が軟弱この上ない。そんな奴は、たかだか千万くらい借金かかえたぐらいで人殺ししかねない脆弱な連中だ。ちなみにここでいう人殺しというのは自殺も含む。

中絶は親の権利」という主張はまったく論外。おいおい、そんなカスみたいな理由で人殺しする権利をいつ神がお前に与えたと言うのか?

そんな輩には、お前は、一体どの面さげて神の前に立つつもりだ!と叱り飛ばせば片付く話のはずだ。

もしそいつらがそれでもまだリチャード・ドーキンス片手に適者生存!とかほざいていたら、その時は全くお手上げなので、もう神の憐れみを願うしかないな。

2011-04-30

門前の坊主無神論者になった

→に染まった親父がうるさい。

どうせキムヨナがワイロで勝つから見る価値ないとか

在日資本に取り込まれたテレビなんて有害なだけだとか

 

イデオロギーを持つのは構わん。

だが家でやるな。他所でやれ。

からず黒い車に乗るんだろうが、町で見かけても温情で無視してやるから

 

って安藤美姫勝ったし。ざまあみ

2010-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20100906005115

こちらこそ、ありがとう。

無神論だった人間宗教に傾倒していく課程の生の声って、すごく興味深い。

(大概もう倒れ臥しちゃった後の、いい事尽くめマンセー!って声しか出ないから)

どこの世界に属していても「同じ程度の悪」からは逃れられないし、逃れられていると思っていてもそれは気のせいで目をつむっているだけだと思うようになった。テロ行為そのものは何を信じていようがあるだろうし多分、水で水死する人がいるから水が悪いんだと言うようなものなのかなあ、と思うようになってきた。

個人的には現在日本が諸外国よりもそうした宗教がらみの悪業から逃れているのって

無神論者が多いからだと思っているので、

目をつぶっているだけで同じ程度の悪が存在している、という考えは面白かった。

具体的に何を持ってそう考えてるんだろう。

一神教という思想があるから人が死ぬんだ、一神教が悪い」というのが

「水で水死する人がいるから水が悪いんだ」に変化したのって、

宗教が(扱いによっては凶器だが)必要不可欠だという認識が生まれたからだよな。

けどその場合の死というのは自らの行為で水死という結果がでただけなんだから

水死しても自業自得だよ、という事でもあるよな。

そこまでの覚悟が生まれたのはすごいと思う。

「だから同じ水でも、水死するような水には近づかない」にはならず

むしろその水に突っ込んでいこうとしてるんだもんな。

それって自殺願望…じゃないよな?

(水死することもあれば、させる事もあるんだから、自殺とは限らないけど)

悲劇をもたらす思想は追い詰められた人や自然現象が厳しい世界の人たちに根ざしている気がする。目の前のつらいことから救いを求める際には厳しい内容が含まれざるを得ないのではないかと。そういうものにすがりたい気持ちなんだ

「悲劇をもたらす思想」の構造については全く持って同感なんだけど、

そこから「そういうものにすがりたい」ってどう繋がってるのかな。

例えば、貧困や、弾圧家族が殺される、ってのが「追い詰められた厳しい世界」で

「厳しい内容が含まれざるを得ない」ってのは、相手の思想の攻撃的な否定や報復の事だよな。

それらにすがりたいというのは…何を求めているんだろ?

仏教でも神教でもホメオパシーでもいいんだと思うよ。ただ、区切りとしてきっぱりとしたものを求めたいと思うと洗礼だとかの形がはっきりしているものがいいと思ってる

イニシエーションはいわば信者釣りと確保だから、これは納得できる。

会員様だけ10%割引でお得ですよ!って会員証みたいなモンだからな。

敷居の低さと間口の広さは、元増田にとってはイコール魅力の低さって事かぁ。

2010-09-06

日本人家族観

国柄探訪: 日本人家族観

 先祖から子孫への連綿たる生命リレー

中間走者として自分がいる。

転送歓迎■ H20.07.13 ■ 38,373 Copies ■ 2,891,505 Views■

無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

  • ■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」■

 秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ土下座するような形でそのまま動けなくなった。

 両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人常識的な感覚であろう。

 かつて神戸中学生小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家加地伸行大阪大学名誉教授は、こう書いている。

 ・・・もし私が加害者中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]

 殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。

 加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚意識」だとする。

 こんな所からも、日本人家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。

 日本欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。

 たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人普通感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。

 欧米キリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。

 また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフ日本人では思いつかないな、と感じたことがある。

 当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。

 実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代日本も同じであり、現代日本人家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。

  • ■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている■

 古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。

 「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。

 また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。

 先祖祭祀というのは、先祖キリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。

 キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

 よくキリスト教仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。

 魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。

 インド人にとって見れば、魂は他の人間動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。

 日本火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。

 これと同様の感覚日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後アジア太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。

 これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航よど号ハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。

 共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人死生観が根づいている証左である。

 輪廻転生を信ずるインド仏教中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。

 そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。

 わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。

 それでも日本にも仏教輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞阿弥陀仏衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。

 しかし、親鸞弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀先祖供養を行っている。

 今日日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。

  • ■6.仏壇に向かう■

 仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。

 日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]

 仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。

 そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。

 今日自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。

 核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。

 もう一つ、インド仏教中国日本先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。

 しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。

 そこで中国日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。

 前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。

 オウム真理教インド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。

 「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。

 しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。

 さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分利益しか考えない利己主義者になってしまう。

 西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。

 わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。

 しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。

  • ■9.「なぜ生命は大切なのか」■

 こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。

 それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。

 先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命リレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。

 その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。

 これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。

(文責:伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  →アドレスクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 加地伸行家族の思想』★★、PHP新書、H10

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22

2010-09-01

GOD Great Of DQNについて


神様なんて信じない、そういう人は多い。

神を否定する時、頭の中に神を浮かべて、その存在を否定するわけだけれど、その刹那、ほんの一瞬、自分の中に、神が存在することになる。

と、するのなら、あなたが神を信じようがいまいが、神は、あなたや私の中にいるわけだ。

「否定する事により神が存在する」という、奇妙な状態でも、神を否定して心が落ち着くのなら、神を罵るなり嫌うなりしてもいいと、私は思う。

ただ、仏教には「ブッダに会ったらブッダを殺せ」という言葉があって、仏教に神は出てこないそうだけれど、現代日本を生きようとすると、自分の中に神が出てきたら、殺す事が必要…… な気がする。なんとなくだけど。

とはいえ、「ブッダはともかく、神様って殺せるの? 死ぬの?」という疑問も出てくる。

なので、自分の中に神様が出てきたらスルーする、スルー力を身につけたいと思う。


「『熱狂的な信者』の反対は『熱狂的な無神論者』ではなく、神がいようといまいと気にしない『穏便な皮肉屋』である」


エリック・ホッファー

あろうことか… 祈ってしまった…!

何も考えず… 神頼み…

救ってくれ…

オレを助けてくれ… だっ…!

もう自分以外… 頼るものなどない… と

骨身に染みて…

知っていたはずなのにっ…!


伊藤開司

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん