はてなキーワード: 無神論者とは
「キリスト教入門」としてこういう聖書のエピソードを並べるのは間違ってる(誤解される)と思うんだよな。この科学の時代にこんな神話めいた話されてもこの増田みたいな反応されるのがオチでしょ。
大事なのは、このエピソードを受け入れたとすると、生き方・世界観がどう変わるかってところだと思うんだよね。その辺が分からないと、アメリカで貧困層を中心に福音派がガンガン勢力を伸ばしてる理由とか、ニュートン・パスカル・ドストエフスキー・トルストイみたいな大天才が何でキリスト教を信仰していたのかとか、欧米で無神論者はちょっと・・・ってなる理由とか、全然分からないんじゃねぇかな。
Should be thankful that there was no damage.
これは直訳すると、
となる。
しかし、正確には
と翻訳する方がよいのだろうか?
文中には神という対象が明示されてないから、翻訳にわざわざそのニュアンスを入れるのは違和感がある。
ここで感謝を向けるべき対象は、せいぜい「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」ではないか。
オスプレイ事故でデマ、「朝日新聞が意図的な誤訳」にソースなし 米軍司令官「感謝されるべき」発言
https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/osprey-crash-in-okinawa-debunking
追記
今回のオスプレイ事故で、米軍の司令官の発言とされた"should be thankful that there was no damage"にはソースがなかった。Calci氏は一応謝罪ツイートを出していたが、デマを飛ばした動機・経緯を全く説明していないから、いろいろと謎が残る。
今回彼がおかした問題行動は、ソースがない英文を事実だと偽って流布したというだけではない。この英文を翻訳するときに「神に感謝」というニュアンスが正しいと主張したのである。しかもそのことについて、"ネイティブの翻訳チーム"に確認を取ったとも主張していた。
そうというわけなので、ここではただ純粋に、"should be thankful that there was no damage"という英語を読解していきたい。ネイティブがこの言い回しをつかった場合、神に感謝というニュアンスは自明なのかどうか。
追記2
キリスト教的な価値観に従えば、すべての幸運・結果は神のおかげということになるかもしれない。
そういう意味では、アメリカ人が「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」に感謝するというのは、結局は神への感謝ということにつながっているのだろう。
とはいえ、もし「神への感謝」というニュアンスが明確なのだとすれば、これはすごく宗教的で信仰のための言葉だということになる。
アメリカの無神論者や異教徒たちは、この言葉をわざわざ避けたりしているのか。ポリコレ的な問題にもなったりしているんだろうか。
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。
が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)
一方で「民法研究とキリスト教は無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学の研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。
ぜんぜん関係も文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。
どういうことかというと、民法はちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業をします。
(1) 事案をよく見る。
(2) 適用条文を探す。
(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。
(4) 過去の判例・裁判例から重要と思しき事実をピックアップしてマトリクスを作る。
(5) マトリクスを作る過程で過去の裁判所の判断を分けた重要な事実が炙り出される。
(6) 本件に戻ってその重要な事実の有無・相違を確かめる(自然と結論も出る)。
(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。
ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。
(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去の判例・裁判例の結論と平仄を合わせるものでしかありません。
また、こうして出された結論が「国民の常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者で資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります。
他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察の捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます。
たとえば警察に捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意の認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。
他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います。
真理というものが普遍的なものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。
そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中で受刑者が思うことの多くは安部譲二『塀の中の懲りない面々』や堀江貴文『刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。
そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。
◇ 『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和夫の本がなぜか図書館にあって、面白くて読みふけってしまった。
曰く、『仁義なき戦い』のテーマの1つは、日本は戦争に負け、経済戦争にも負けたのに、またカネを巡って同じことをやっている。アホばっかりだ。ばーかばーか。ということだと。
時代は違うが内村鑑三も似たようなことを言っていて、曰く、日本は戦争向きの国ではないし、文化もモノマネしかできない。経済もそんな強くない。と。
じゃあどうすればいいかというと、内村は「日本の目指す道は宗教しかない」と言う。
ぜったい無理だけど、そうなったらいいなぁとは思う。
◇ キリスト教関連のエッセイに「フォイエルバッハはいいぞ」みたいなことが書いてあったので入門書を買ってきた。
めっちゃむずかしい。なんだこれ。
入門書の筆者曰く「フォイエルバッハはその主張から無神論者だと思われがちだけど、実はそうでもないよ」とのことなのだが、完全にキリスト教徒を殺しにかかってて笑える。痛いところ突かれまくり。だがそれがいい。
てかマルクスの思想の元ネタの1つがフォイエルバッハらしく、時折マルクスっぽいことを言うのでおおっ!てなる。
これ理解出来たらキリスト教とマルクス主義が頭の中できれいに整理されるんだけどなぁ。なんかもう1冊買うか。
内村鑑三の注釈は聖書の部分によって明らかに筆のノリが違っていて、自身の実生活で慰めを得たところだと熱くなる。
具体的には、貧乏生活を慰める規定や、人を裁くことを諫める規定は熱い。熱すぎる。
たまらずコレヘトの言葉に移ると、地上の快楽を追及するのは虚しいだけだよ、みたいな話なので熱気がすごい。おもしろい。
作者がソロモン(と言われているが実際には違う)ってのもロマンを感じる。
とりとめないが以上
http://anond.hatelabo.jp/20160917091613
これ読んで、そういや聖書は葬式について何を言ってるんだろうと思った(俺はクリスチャン)が、とりあえず葬式はしないといけないみたいだな。
人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう(コレヘトの言葉6-3)
葬式しなきゃいけないっていうか、葬式をされるような(愛された)人間になりなさいってことかもしれんが。
んで、そのやり方を土葬でやるべきか火葬でやるべきか争いがあって、
戦士たちは皆立って、夜通し歩き、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬に付し[た](サムエル記上31-12)
言いたいのは、「お前ら普段無神論者のくせにこういうときだけ宗教・倫理を持ち出してんじゃねぇ」ってこと。もう少し踏み込んで言えば「無神論の不合理性を自覚しろよお前ら」ってこと。
俺自身はメシ残しちゃだめだと思ってるよ。
なんか真意が伝わってないようなので改めて書くと、言いたいのは「お前ら普段無神論者のくせにこういうときだけ倫理・宗教持ち出してんじゃねぇ」もしくは「無神論の帰結の不合理性を自覚しろ」ってこと。俺自身はメシを残すべきではないと思ってるよ。
横だけどそれも問題は同根な気がするなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20160910185500
メシを残すな論争について書く。
法的観点、資本主義的な観点から考えれば、メシを残すのは全くの自由だ。
出された食事の所有権は食う側に帰属することから、それを残そうがどうしようが食う側の勝手(民法206条)。
また、レストランで注文者が食いきれない量を注文することは、資本の回転を加速させ、店の利潤を増加させる。したがって資本の増加という観点からみれば、食いきれない量を注文すること(=飯を残すこと)はむしろ望ましいと言える。
そうなると、メシを残してはならないとする理由は、宗教上・倫理上の問題にならざるを得ない。
食材はもともと生物なんだからその命を大切にしろ、というのはその極地だ。家畜なら屠殺された時点で命は無くなっている(野菜・穀物についてはいつが死期なのかちょっと分からんが)。大切にするもクソもない。
また、生産者の気持ちを考えろ論も倫理。一個人が飯を残していることなんざ生産者は知りようがない。また、この論理によれば生産者が気にしないと言えばメシを残していいことになるのだが、それでいいのだろうか。
んで問題は、普段無神論者を自覚し、そのように振る舞っている奴らが、この件に関してだけ急に倫理やら宗教を持ち出してくるのは何なの?という点。徹底してないんだよね。それ言うなら普段から信仰を持てよ。
独身の人って生きがい何なの?
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
について
追記前の記事を見て「自分は意図するところを理解できたがこれは荒れるだろうな」と思っていたら案の定
予想通りのコメントも多くついていた。
追記も言いたいことを補完するのではなくどちらかというとオッカムの剃刀で除外されるような内容だったのも良くないのかも。
元増田が言いたいことはこうだ
・何が何でも生きていたい、生きていきたいと言う強い信念、生への執着が生じてこない事への事漠然とした不安(消極的自殺願望)
・それが結婚を、そして出産をきっかけに大きく変貌した(強い生への執着が産まれた事への喜び)
・目からウロコの経験をしたことで自己の大きな変化があったが、自分とは別のケースを知りたくなった。
→多分訊き方が悪い
追記部分で気になった、-というか確信に触れたと思った- 部分はここだ。
でも家族が出来て生まれたことに心の底から感謝できるようになった。小学生のころから持ってた上記の”消極的な自殺願望”が消失したのを発見して、ものすご~く嬉しくなった
これ本人はサラリと書いているが、心の奥底、魂の願望、-上手に表現できないが- に「生への執着、基礎的な産まれてきた事への感謝、消極的自殺願望の消失」を願っている自分が潜んでいて、
それが昇華された事に対する純粋な喜びを表現している。元増田が持つ奥深い根本的な願いが成就した幸福感が書かれている。
そして、みんなに訊きたいのは
・同じような境遇(消極的自殺願望を持っていて)で、それが解消されたような事柄が自分に起きたような事例を知りたい。
・そして出来れば結婚や出産をきっかけとしないもの(他例)を知りたい。
無意味に長くなったけれど私の例を。
・それでもちっとも不安(不満)を感じない、焦りを感じない。
・独身38歳、男性、女性にも縁はない、結婚の予定も候補パートナーもいない。
・年収は800~1000万(比較的多いのか少ないのかという知識はない、そもそも金銭にあまり興味がない)
・博愛主義で全くの他人、他国、他生物であっても幸せに暮らしている様子を知り、感情を同化させるような所がある。
・同等に悲しみにも同情してしまう。憎しみは遠ざけよとするタイプ
・解消されていないと書いたものの、それでも焦らない、不満・不安をそれほど感じないのはどこかで自分の命を燃やす日が来ると漠然と考えていて、それを信じているから(多分)
そこまで単純な話だったっけ。
あの小説のキーワードは「対立」「矛盾」「葛藤」にこそあるんだと自分は感じたけど。
ドストエフスキーの小説に出てくる無神論者はほとんど必ず悲劇的な結末を迎えているけど、だからといって「だから無神論者はダメなんだよ」って結論は出してなくね?
終わりのない葛藤だけがある、すなわち、ひとつだけの答えはない。
登場人物たちが、それぞれの立場でそれぞれの考えに従って生きているだけ。
登場人物たちが奏でるポリフォニーを、ただ現象を描いているだけで、「これが答えだ!」ってものをドストエフスキーは提示していないように思う。
宗教とはなんなのかというか、信仰とはなんなのだろうかよくわからない
私は無神論者であるとも言い切れないし、日本人的にいろんなものに神は宿る気がするし占いは適当に信じたり信じなかったり
旅行の日の天気が悪かったり、何かツイてないこととかがあれば「日頃の行いが悪いからかも」とか思ったりもする
欧米の映画とか見ていると日常的な考えにキリスト教的考えが含まれていてなるほどと思う
多分日本の文化や習慣にも仏教とかの考えに基づいた習慣というものがあるのだろうし、
クリスマスとかそもそもキリストの誕生日だし、ごちゃまぜになってるし
そこから信仰だけがすっぽり抜けてしまっているという気がするので、なんなんだ?と思うんだろうな
そもそも国家自体共同幻想の上に成り立っているものだと思うし宗教もそんなものなんだろうか
宗教を信仰するというのは、共同幻想の上にルール付け、国で言うところの法律のような決まり事=戒律を作って
そのルールの中で生きていることを課している人々だと思っているけど
自らの宗教においての決まり=戒律を守って暮らさないといけなくなるよね
戒律を破ったから死ぬわけではないじゃない、心の問題しか無いのになぜ守ろうと思えるのか
神の素晴らしさを知れば違うんですかね
でも道徳に置き換えて考えればまぁルールを破った時、道徳的問題を犯した時に心の居心地の悪さというものはあるし
一般的に言う「作ってくれた人や農家の人とか命を与えてくれた動物たちに対する感謝の気持ちを込めてやっている」
という事は説明できるけれど、別にいつも意識して言っているわけでもないし形骸化しているとも思うわけで、
宗教的に食事の前のお祈りだとか断食だとかそういうものに対して特定の”神様”に向けての感情というやつがよくわからないという事なんだと思うけど
想像できないこともないけど、どういうものなのかいまいちピンと来ない
私は無宗教だから祈る対象はその時々によって変わるけど、何がしかの信仰がある人はそれがすべて同じ神様に向けられるものなんだな
親の代からとか先祖代々とか同じ宗派というならそのままの流れで入信しててもおかしくはないけど
神を信じるために生きて行くうえでのルールまで変わるとはどういうことなんだ?
どこぞの宗教の勧誘で勧誘されたとして信仰は生まれるものなのか?
■2016/05/11 9:35追記
思いのほかたくさん反応があってびっくりです。
こういったことを追及する学問があるだろうけどどういうジャンルになるのかいまいちよくわからず、
うまく調べられなかったのでとりあえず書いてみたんですが、ブコメなどに記載されていた本など読んでみようと思います。
ありがとうございました。