「無神論者」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 無神論者とは

2017-07-28

https://anond.hatelabo.jp/20170728001654

いるともいないとも言えないんだから騙したとはいえんだろ

科学批判者が全部無神論者だと思ってたから頓珍漢なことかいてたのか

2017-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20170526135052

色々あるだろうけど、日本人は何らかの信仰を持ってる人に出会うと結構人生観が変わると思う。

観光海外行くとき都市部に行くことが多くて(特にアメリカ)、そこだと無神論者同然の拝金主義者(つまりどこにでもいる日本人と同じ思想の持ち主)ばかりなので、「なあん外人日本人と変わらんな」となりがちになる。

田舎に住んでる貧乏人なんかは、金・社会的成功美人の奥さん・完璧子どもよりも大事ものがあると本気で信じていたりするので、結構びっくりすると思う。

2017-02-15

売春ツアーは国の恥?個人権利侵害は国の恥では無いのか?

売春に対する忌避感ってのはやはり宗教的なところに端を発するところがあり、

むやみに売春非難することは、特定宗教的立場をもとにした、異教徒ないし無神論者批判になりかねない。

そういった意味でポリティカリーインコレクトだし、

アメリカリバータリアン的に言えば神聖個人権利侵害していることになる。

売春ツアーがもし企業主体となってやっているのであれば、ある程度の公共性を持った主体としての役割上、

特定宗教的バックグラウンドを持った人を不快にするようなことは慎むべきだろう。

しかしながら個人的信条として売春を良しとしている人が、

そういったものに参加することに非を唱えることは、浅薄すぎの感がある。

2017-02-07

http://anond.hatelabo.jp/20170207075243

キリスト教入門」としてこういう聖書エピソードを並べるのは間違ってる(誤解される)と思うんだよな。この科学時代にこんな神話めいた話されてもこの増田みたいな反応されるのがオチでしょ。

大事なのは、このエピソードを受け入れたとすると、生き方世界観がどう変わるかってところだと思うんだよね。その辺が分からないと、アメリカ貧困層を中心に福音派ガンガン勢力を伸ばしてる理由とか、ニュートンパスカルドストエフスキートルストイみたいな大天才が何でキリスト教信仰していたのかとか、欧米無神論者ちょっと・・・ってなる理由とか、全然からないんじゃねぇかな。

結果、宗教のカネや戦争の面しか見えなくなって、不信感だけが強まる。かなりろくでもない。

2016-12-16

thankfulには「神に感謝」というニュアンスがある単語なの?

Should be thankful that there was no damage.

  

これは直訳すると、

被害が無かったことに感謝するべきだ」

となる。

  

しかし、正確には

被害が無かったことについて、神に対して感謝するべきだ」

翻訳する方がよいのだろうか?

  

文中には神という対象が明示されてないから、翻訳にわざわざそのニュアンスを入れるのは違和感がある。

ここで感謝を向けるべき対象は、せいぜい「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」ではないか

  

英語に詳しい人がいましたら、解説をお願いします。

 

朝日新聞は信用できないから、ネットで流れてきた情報を信じる(?)

http://togetter.com/li/1059478

オスプレイ事故デマ、「朝日新聞意図的誤訳」にソースなし 米軍司令官感謝されるべき」発言

https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/osprey-crash-in-okinawa-debunking



追記

今回のオスプレイ事故で、米軍司令官発言とされた"should be thankful that there was no damage"にはソースがなかった。Calci氏は一応謝罪ツイートを出していたが、デマ飛ばし動機・経緯を全く説明していないから、いろいろと謎が残る。

今回彼がおかし問題行動は、ソースがない英文事実だと偽って流布したというだけではない。この英文翻訳するときに「神に感謝」というニュアンスが正しいと主張したのであるしかもそのことについて、"ネイティブ翻訳チーム"に確認を取ったとも主張していた。

そうというわけなので、ここではただ純粋に、"should be thankful that there was no damage"という英語を読解していきたい。ネイティブがこの言い回しをつかった場合、神に感謝というニュアンス自明なのかどうか。

  

追記2

キリスト教的な価値観に従えば、すべての幸運・結果は神のおかげということになるかもしれない。

そういう意味では、アメリカ人が「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」に感謝するというのは、結局は神への感謝ということにつながっているのだろう。

  

はいえ、もし「神への感謝」というニュアンスが明確なのだとすれば、これはすごく宗教的信仰のための言葉だということになる。

アメリカ無神論者や異教徒たちは、この言葉をわざわざ避けたりしているのか。ポリコレ的な問題にもなったりしているんだろうか。

私はそうは思えなくて、Calci氏が主張していた英文解釈トンチンカンだと思うんだが、どうなんだろうか。

2016-12-15

[]

前回、民法の偉い先生が、自身キリスト教信仰民法研究無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。

が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。

まず問題になるのが以下の2つの命題です。

(1) 民法研究キリスト教無関係だよ

「〔私にとってキリスト教信仰民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」

「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)

「人を裁くな」(ルカ伝6-37)


(2) キリスト教における真理はイエスその人だよ

イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命であるわたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)



一方で「民法研究キリスト教無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。

ぜんぜん関係文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。

どういうことかというと、民法ちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業します。

(1) 事案をよく見る。

(2) 適用条文を探す。

(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。

(4) 過去判例裁判から重要と思しき事実ピックアップしてマトリクスを作る。

(5) マトリクスを作る過程過去裁判所判断を分けた重要事実が炙り出される。

(6) 本件に戻ってその重要事実の有無・相違を確かめる(自然結論も出る)。

(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。

さらに学究肌の人であれば、以下の作業も行います

(8) ①罪刑法定主義、②結果無価値論、③責任主義観点から以上の作業特に(3))に問題がないか検証する。

ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。

(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去判例裁判例の結論平仄を合わせるものしかありません。

また、こうして出された結論が「国民常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります

他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます

たとえば警察捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。

他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います

真理というもの普遍的ものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。

そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中受刑者が思うことの多くは安部譲二塀の中の懲りない面々』や堀江貴文刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。

そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。

これっていったい何なのだろう。キリスト教圏の法律家はどう考えているのだろう。

2016-11-22

[]

◇ 『仁義なき戦い』の脚本家笠原和夫の本がなぜか図書館にあって、面白くて読みふけってしまった。

曰く、『仁義なき戦い』のテーマの1つは、日本戦争に負け、経済戦争にも負けたのに、またカネを巡って同じことをやっている。アホばっかりだ。ばーかばーか。ということだと。

時代は違うが内村鑑三も似たようなことを言っていて、曰く、日本戦争向きの国ではないし、文化モノマネしかできない。経済もそんな強くない。と。

じゃあどうすればいいかというと、内村は「日本の目指す道は宗教しかない」と言う。

ぜったい無理だけど、そうなったらいいなぁとは思う。


キリスト教関連のエッセイに「フォイエルバッハはいいぞ」みたいなことが書いてあったので入門書を買ってきた。

めっちゃむずかしい。なんだこれ。

入門書の筆者曰く「フォイエルバッハはその主張から無神論者だと思われがちだけど、実はそうでもないよ」とのことなのだが、完全にキリスト教徒を殺しにかかってて笑える。痛いところ突かれまくりだがそれがいい

てかマルクス思想元ネタの1つがフォイエルバッハらしく、時折マルクスっぽいことを言うのでおおっ!てなる。

これ理解出来たらキリスト教マルクス主義が頭の中できれいに整理されるんだけどなぁ。なんかもう1冊買うか。


聖書詩篇(の注釈)が意外とつまらない。

内村鑑三注釈聖書の部分によって明らかに筆のノリが違っていて、自身の実生活で慰めを得たところだと熱くなる。

具体的には、貧乏生活を慰める規定や、人を裁くことを諫める規定は熱い。熱すぎる。

その点詩篇はなんだかまったりしていて精彩を欠く。

まらずコレヘトの言葉に移ると、地上の快楽を追及するのは虚しいだけだよ、みたいな話なので熱気がすごい。おもしろい。

作者がソロモン(と言われているが実際には違う)ってのもロマンを感じる。


とりとめないが以上

2016-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20161120172319

主張が超ふわっとしてるから論じづらいんだけど、その前提には「プアホワイト層=オシマイ」って考えがあるんだよね?(違ったらすまん)

けどさっきも書いたけど、キリスト教徒にとって経済的に困窮していることは不幸ではないんだろ?じゃあ「オシマイ」ってのは無神論者から価値判断なんじゃないの?噛み合ってんのその議論は。

あと、高潔さ=「求めるな」なの?それも含まれるだろうけど、それだけなの?

さらにいえば、プロテスタントキリスト教一種なんだから高潔さを求めるのはいっしょなんじゃないの?

2016-11-07

http://anond.hatelabo.jp/20161107035644

一切悟られず死ぬまで隠し通せたとしたら一体誰がそれを責めるのだろう。だれも認知してない罪は存在していないのと同じでは。

無神論者ならそうなる。キリスト教では高潔さが失われるからやめろとか言うが。

あと西郷隆盛は「天」との関係で、たとえバレなくても罪を犯すべきではないと言っていたらしい(『南洲翁遺訓』)が、これもキリスト教の考えに近い。

2016-10-01

努力たから強くなったなんて誤った理解をしてるから

とりあえず自分を苦しめとけば強くなるというゆがんだ行動に走り出す。

物語提示しているのは努力でも精神論でもない。

しかしそのような理解に走ってしまうのは仕方ない。

なぜなら日本人無神論者圧倒的多数を占めているからだ。

神を否定し、全てを自己努力によって解決しようという傲慢姿勢こそが問題なのだ

我々は今一度歩みを止めて、謙虚気持ち物事に向き合うべきである

努力精神論で何でも思い通りにしてはならない。

孫悟空が強いのは彼が努力たからではなく主人公補正だ!

2016-09-17

葬儀に関する聖書見解

http://anond.hatelabo.jp/20160917091613

これ読んで、そういや聖書葬式について何を言ってるんだろうと思った(俺はクリスチャン)が、とりあえず葬式はしないといけないみたいだな。

人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう(コレヘトの言葉6-3)

葬式しなきゃいけないっていうか、葬式をされるような(愛された)人間になりなさいってことかもしれんが。

んで、そのやり方を土葬でやるべきか火葬でやるべきか争いがあって、

戦士たちは皆立って、夜通し歩き、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬に付し[た](サムエル記上31-12

サウルは神に背いた人間

という記述根拠火葬否定的見解があるらしい。

元増田無神論者いからアレなんだけど。

2016-09-12

http://anond.hatelabo.jp/20160912114130

元増田だけど、若干真意が伝わってないので改めて書く。

言いたいのは、「お前ら普段無神論者のくせにこういうときだけ宗教倫理を持ち出してんじゃねぇ」ってこと。もう少し踏み込んで言えば「無神論の不合理性自覚しろよお前ら」ってこと。

自身はメシ残しちゃだめだと思ってるよ。

http://anond.hatelabo.jp/20160912113526

なんか真意が伝わってないようなので改めて書くと、言いたいのは「お前ら普段無神論者のくせにこういうときだけ倫理宗教持ち出してんじゃねぇ」もしくは「無神論帰結の不合理性自覚しろ」ってこと。俺自身はメシを残すべきではないと思ってるよ。

あとその例は動物愛護法とかがかかわってくるから、今回の件を論じるについてはあんま適切じゃないような・・・。

http://anond.hatelabo.jp/20160912110623

無神論者から食べ物残しても平気と言うんなら、実験マウスを買ってきて地面に投げつけて遊ぶのも賞賛してくれよな。

資本の増加という観点からは、褒められる行為からね。

http://anond.hatelabo.jp/20160912111752

横だけどそれも問題は同根な気がするなぁ。

増田からしたら普段無神論者のくせにクリスマス正月葬式ときだけ宗教持ち出してんじゃねぇってことになるんじゃないの。

お前ら無神論者ならそれ貫けよ

http://anond.hatelabo.jp/20160910185500

メシを残すな論争について書く。

法的観点資本主義的な観点から考えれば、メシを残すのは全くの自由だ。

出された食事所有権は食う側に帰属することから、それを残そうがどうしようが食う側の勝手民法206条)。

また、レストラン注文者が食いきれない量を注文することは、資本の回転を加速させ、店の利潤を増加させる。したがって資本の増加という観点からみれば、食いきれない量を注文すること(=飯を残すこと)はむしろ望ましいと言える。

そうなると、メシを残してはならないとする理由は、宗教上・倫理上の問題にならざるを得ない。

食材はもともと生物なんだからその命を大切にしろ、というのはその極地だ。家畜なら屠殺された時点で命は無くなっている(野菜穀物についてはいつが死期なのかちょっと分からんが)。大切にするもクソもない。

森羅万象には神が宿るから~論も同様。

また、生産者気持ちを考えろ論も倫理。一個人が飯を残していることなんざ生産者は知りようがない。また、この論理によれば生産者が気にしないと言えばメシを残していいことになるのだが、それでいいのだろうか。

んで問題は、普段無神論者自覚し、そのように振る舞っている奴らが、この件に関してだけ急に倫理やら宗教を持ち出してくるのは何なの?という点。徹底してないんだよね。それ言うなら普段から信仰を持てよ。

2016-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20160905182746

最初の10行ぐらいしか読んでないけど、無神論者ならその通りなんじゃない?

俺はクリスチャンからアレだが。

2016-08-21

http://anond.hatelabo.jp/20160821074057

安楽死を入れるとややこしくなるので、議論自殺限定する)

結局無神論を突き詰めていくと増田の言う通りになるんだろうな。無神論者自殺否定する人はその態度を徹底できていないような気がする。

俺はこの辺の矛盾が嫌でクリスチャンになったが。

2016-07-28

みんな読み違えているようだ

独身の人って生きがい何なの?

http://anond.hatelabo.jp/20160728000910

について

追記前の記事を見て「自分意図するところを理解できたがこれは荒れるだろうな」と思っていたら案の定

予想通りのコメントも多くついていた。

追記も言いたいことを補完するのではなくどちらかというとオッカムの剃刀で除外されるような内容だったのも良くないのかも。

元増田が言いたいことはこうだ

・何が何でも生きていたい、生きていきたいと言う強い信念、生への執着が生じてこない事への事漠然とした不安(消極的自殺願望)

・それが結婚を、そして出産きっかけに大きく変貌した(強い生への執着が産まれた事への喜び)

目からウロコ経験をしたことで自己の大きな変化があったが、自分とは別のケースを知りたくなった。

→多分訊き方が悪い

追記部分で気になった、-というか確信に触れたと思った- 部分はここだ。

でも家族が出来て生まれたことに心の底から感謝できるようになった。小学生のころから持ってた上記の”消極的自殺願望”が消失したのを発見して、ものすご~く嬉しくなった

これ本人はサラリと書いているが、心の奥底、魂の願望、-上手に表現できないが- に「生への執着、基礎的な産まれてきた事への感謝消極的自殺願望消失」を願っている自分が潜んでいて、

それが昇華された事に対する純粋な喜びを表現している。元増田が持つ奥深い根本的な願いが成就した幸福感が書かれている。

そして、みんなに訊きたいのは

・他にもこんな経験をしたひとはいませんか。

・同じような境遇(消極的自殺願望を持っていて)で、それが解消されたような事柄自分に起きたような事例を知りたい。

・そして出来れば結婚出産きっかけとしないもの(他例)を知りたい。

といった好奇心から増田であろうと思われる。

無意味に長くなったけれど私の例を。

・私の場合はそれが"解消されてはいない"状態

・それでもちっとも不安(不満)を感じない、焦りを感じない。

独身38歳、男性女性にも縁はない、結婚の予定も候補パートナーもいない。

年収は800~1000万(比較的多いのか少ないのかという知識はない、そもそも金銭にあまり興味がない)

博愛主義で全くの他人他国、他生物であっても幸せ暮らしている様子を知り、感情同化させるような所がある。

・同等に悲しみにも同情してしまう。憎しみは遠ざけよとするタイプ

・解消されていないと書いたものの、それでも焦らない、不満・不安をそれほど感じないのはどこかで自分の命を燃やす日が来ると漠然と考えていて、それを信じているから(多分)

・この日のために産まれたのだ。という事があるとどこかで無神論者のクセに信じ崇めている。

過ぎ去った元増田気持ちを抱えたままもっと遠くまで来てしまったおっさんの戯れ言ここに記す。

2016-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20160717110344

そこまで単純な話だったっけ。

あの小説キーワードは「対立」「矛盾」「葛藤」にこそあるんだと自分は感じたけど。

ドストエフスキー小説に出てくる無神論者ほとんど必ず悲劇的な結末を迎えているけど、だからといって「だから無神論者ダメなんだよ」って結論は出してなくね?

終わりのない葛藤けがある、すなわち、ひとつだけの答えはない。

登場人物たちが、それぞれの立場でそれぞれの考えに従って生きているだけ。

登場人物たちが奏でるポリフォニーを、ただ現象を描いているだけで、「これが答えだ!」ってものドストエフスキー提示していないように思う。

カラマーゾフの兄弟読んだけどよく分かんなかった

カラマーゾフ読んだけど、よく分からんかった。

(1) 大審問官の話 ⇒ 神いないんじゃね?(問題提起)。

(2) 神が居ないとすると善行も悪行もないよねぇ(イワン思想)。

(3) 善悪がないなら殺人もOKだよねぇってことで実際に人を殺してみた(イワンを崇拝するスメルジャコフの行為)。

(4) 殺人の結果、スメルジャコフは自殺するわ、イワン悪魔に会うわで、みんなひどい目に遭った。

(5) だから無神論者ダメなんだよ!(結論

ってこと?

こんな長い小説からこれしか読み取れない俺って・・・。

2016-05-10

宗教とはなんなのか

宗教とはなんなのかというか、信仰とはなんなのだろうかよくわからない

私は無神論者であるとも言い切れないし、日本人的にいろんなものに神は宿る気がするし占い適当に信じたり信じなかったり

スピリチュアルとかは面白半分で話を聞く程度

旅行の日の天気が悪かったり、何かツイてないこととかがあれば「日頃の行いが悪いからかも」とか思ったりもする

欧米映画とか見ていると日常的な考えにキリスト教的考えが含まれていてなるほどと思う

多分日本の文化や習慣にも仏教とかの考えに基づいた習慣というものがあるのだろうし、

クリスマスとかそもそもキリスト誕生日だし、ごちゃまぜになってるし

そこから信仰けがすっぽり抜けてしまっているという気がするので、なんなんだ?と思うんだろうな

そもそも国家自体共同幻想の上に成り立っているものだと思うし宗教もそんなものなんだろうか

宗教信仰するというのは、共同幻想の上にルール付け、国で言うところの法律のような決まり事=戒律を作って

そのルールの中で生きていることを課している人々だと思っているけど

まり国民として守らないといけない決まり法律の他に

自らの宗教においての決まり戒律を守って暮らさないといけなくなるよね

ルールが二重に課されてしまうってことだ

法律は破ったら逮捕なり何なりわかりやす罰則があるけど

戒律を破ったか死ぬわけではないじゃない、心の問題しか無いのになぜ守ろうと思えるのか

神の素晴らしさを知れば違うんですかね

でも道徳に置き換えて考えればまぁルールを破った時、道徳的問題を犯した時に心の居心地の悪さというものはあるし

例えば食事をする前にいただきますと言うけど、

一般的に言う「作ってくれた人や農家の人とか命を与えてくれた動物たちに対する感謝気持ちを込めてやっている」

という事は説明できるけれど、別にいつも意識して言っているわけでもないし形骸化しているとも思うわけで、

宗教的食事の前のお祈りだとか断食だとかそういうものに対して特定の”神様”に向けての感情というやつがよくわからないという事なんだと思うけど

想像できないこともないけど、どういうものなのかいまいちピンと来ない

私は無宗教から祈る対象はその時々によって変わるけど、何がしか信仰がある人はそれがすべて同じ神様に向けられるものなんだな

親の代からとか先祖代々とか同じ宗派というならそのままの流れで入信しててもおかしくはないけど

自分意志宗教にハマる人はどういう心理なんだろう

神を信じるために生きて行くうえでのルールまで変わるとはどういうことなんだ?

信仰とはどこからまれてくるんだろう

どこぞの宗教の勧誘勧誘されたとして信仰は生まれものなのか?

よくわからいからバーっと書いただけでオチはないです

■2016/05/11 9:35追記

思いのほかたくさん反応があってびっくりです。

こういったことを追及する学問があるだろうけどどういうジャンルになるのかいまいちよくわからず、

うまく調べられなかったのでとりあえず書いてみたんですが、ブコメなどに記載されていた本など読んでみようと思います

ありがとうございました。

2016-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20160328135337

というか、本気で無宗教を貫くのが大変なのは日本だけじゃなくて

欧米なりイスラムなり、宗教共同体に深く根付いてる国の方が大変なんじゃない?

からこその無神論者科学や知識に身を捧げたちょっと頭がイッちゃってるマンなわけで。

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