はてなキーワード: 無神論者とは
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
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神様なんて信じない、そういう人は多い。
神を否定する時、頭の中に神を浮かべて、その存在を否定するわけだけれど、その刹那、ほんの一瞬、自分の中に、神が存在することになる。
と、するのなら、あなたが神を信じようがいまいが、神は、あなたや私の中にいるわけだ。
「否定する事により神が存在する」という、奇妙な状態でも、神を否定して心が落ち着くのなら、神を罵るなり嫌うなりしてもいいと、私は思う。
ただ、仏教には「ブッダに会ったらブッダを殺せ」という言葉があって、仏教に神は出てこないそうだけれど、現代日本を生きようとすると、自分の中に神が出てきたら、殺す事が必要…… な気がする。なんとなくだけど。
とはいえ、「ブッダはともかく、神様って殺せるの? 死ぬの?」という疑問も出てくる。
なので、自分の中に神様が出てきたらスルーする、スルー力を身につけたいと思う。
「『熱狂的な信者』の反対は『熱狂的な無神論者』ではなく、神がいようといまいと気にしない『穏便な皮肉屋』である」
あろうことか… 祈ってしまった…!
何も考えず… 神頼み…
救ってくれ…
オレを助けてくれ… だっ…!
もう自分以外… 頼るものなどない… と
骨身に染みて…
知っていたはずなのにっ…!
伊藤開司
あんまり死後の世界に興味がないせいか、ご冥福っていう言葉にピンとこない。
「霊魂なんてあるわけない!神なんているわけない!あるなら証拠だせ!質量があるのか?!」
っていうほど激烈な無神論者ではないけど、ご冥福を祈る?なにそれって感じがする。
悲惨なニュースとかあると、「ご冥福をお祈りします」ってキャスターとか著名人が言うけどさ、ネットにもコメント残す人がいるけどさ、本当に祈ってるのかね?
今日の夕飯になにを食べるかの悩みを100としたら、3くらいしか祈ってないんじゃね?
終戦記念式典をわざわざテレビ中継するとか、っていうか開くのもよくわからない。
戦争の記憶を風化させないためにっていう理屈なら、未来永劫やるんだろうか?
じゃあなにか、第二次世界大戦の式典はやって第一次世界大戦の式典はしないってのか?
第一次世界大戦の死者を悼んで、日露戦争の死者を悼んで、日清戦争の死者を悼んで、西南戦争の死者を悼んで、戊辰戦争の死者を悼んだりする必要があるのか?
死んだ人間が冥界に行くんだったら、冥界の人口は無尽蔵に増加して大変なんだろう。もし冥界なるものがあったとして、人によって幸せになるとかならないとか、現世の人が祈ったら幸せになるとかならないとかあるんだろうか?
とりあえず、今、生きてる人のことを考えようぜ。
政治と宗教を分けなければならないというのは、必ずしも普遍的な真理ではない。もともと、政治と宗教は一体のものだった。
ただ、キリスト教とイスラム教や、新教と旧教の対立によって、弾圧や戦争が絶えなかった西洋世界から出た、約束事に過ぎない。
東洋の宗教は、仏教にしろ、道教にしろ、日本神道にしろ、基本的に多神教であって、他の宗教に対して寛容なものが多かった。だから、大きな対立は無く、「政教分離」という考え方は生れなかった。
「政教分離」というのは、キリスト教が偏狭、または未熟であるが故の方便に過ぎない。
日本では、開闢以来、祭政一致が当り前であった。戦後、有無を言わさず政教分離を受け入れさせられただけ。
政教分離については、以下の文書に尽されている。
例えば、
6 「信教の自由」に関する問題点
第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。
また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
要は、信教の自由と政教分離規定が矛盾している、というのが幸福実現党の主張である。憲法が禁止しているからこの種の主張をしてはならない、とするならば、同様に憲法第九条の改正の議論もできなくなる。憲法の方が間違っている(というか、憲法自体が矛盾している)と言うこと自体は、違法でも何でもない。
それから、
2 憲法は何を守ろうとしているのか
第九十九条の条文は、憲法遵守の義務は国民にあるのではなく、公務員及び公務員の上にある天皇や国務大臣等が守らなければいけないとある。つまり、憲法は、主として権力者から国民の権利を守るためにつくられたもので、国民を縛りつけて、自由にさせないためにつくられたわけではない。
憲法を守らなければならないのは、支配者の側である。一般国民が守る必要はない。仮に当選して、議員として働くことになれば、その行動に於て憲法を守る義務は発生する。ただし、考え方や主張までは制限されない。
あと、よく、幸福実現党が天皇制を廃止を主張しているとか言う話も目にするけど、そんなことは一言も言っていないですから。寧ろ逆で、天皇制はあった方がよいと言っている。
天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
しかし、戦後日本の「宗教」に対する偏見は、抜きがたいものがある。信仰というのは、本来、地上で最も穢れのない、美しいものであるのに、全く逆のイメージを植え付けられてしまっている。GHQは、日本人のその驚異的な精神力の源を、信仰の力によると考えて、その背骨を抜いたのだ。信仰を持つ人は洗脳されている、なんて思ってるかも知れないけど、洗脳されているのは、無神論者の方なんだよね。
神仏は蔑むものではない、尊敬すべきものである。神仏の声を伝える正しい宗教家も、尊敬すべきである。これが世界の常識だと思う。
開き直りじゃないですよ。ある道徳心を持ち合わせていない相手にその道徳を理由とした言説が通用しないのは、無神論者に神の威信が通じないのと同じです。意味がわからない、場合によっては馬鹿馬鹿しくさえ思える。
今回の場合だと、「自分がされると嫌でしょう?だから、相手にもしちゃいけない」。だからって、よく考えればおかしいと思いませんか? ここには暗黙の「嫌なことをすると、相手に仕返しされる」という言葉が入るはず。だったら、仕返しされないなら別に問題ない。
自分が嫌だと思うだけで、他人がどうかしてくれると思うのがおかしいんです。或いは、そういう期待は、自己の責任の元に行うべきもので、他者が責を負うべき類のものじゃないです。本当に嫌なのを止めさせたいなら、金を握らせるなり制裁を下すなり、止めてくれるように働きかけないと。
これは無宗教と答えると混乱されるからとかその手の話じゃなくて?
他人とまともに語ろうと思うなら2行目の書き方はちょっと変えた方がいいと思うな。
元増田の言った「日本のような無神論者の国」というのは、外国人から見た話だけではなく、日本人自身から見た話も当然含まれてるだろ。
その二つを区別せずに「初詣という現象を…」とか言い出したならただの馬鹿だし、その二つを区別した上で「初詣という現象を…」と言い出したのなら、日本人の多くが別に宗教なんて信仰してない、ということを日本人のクセに理解できないただの馬鹿ということだ。
君がそもそも日本人じゃない、というなら話は別だが。
anond:20090209153228 以下の一連のエントリを読んで。
一神教の世界観と多神教の世界観は互いに相容れないものだという指摘は確かで、さらにお互いの信じる神が違うからという理由で戦争が起こったりする。
今の日本みたいに、無神論者達の国というのは世界的にみても非常に珍しいだろう。元増田が言う様な不安も分からなくもない。
けれども、神は結局人間が使うために作り出したシステムだ、という考えも出来る。
なにかとてつもない不幸に陥ったときに最後にすがるためのシステム。戦争をしたいがための理由付けをするシステム。そんなものなら、捨て去ってしまった方が、神を殺した方が良いのかもしれない。
その回答は、科学は実践主義なので、その人がどういう思想を抱いていようが、書いた論文が第3者によって査読されしかるべき手順を踏んで認められれば、認められる。
神学者だろうが、無神論者だろうが、愛国主義者だろうが、アナーキストだろうが。そんなバックボーンは論文とは一切関係ない。
よって、神を信じていても科学者になれる。
逆に言えば、正しく論文を書けなければ、無神論者でも科学者にはなれない。
ただし、証明したい内容が、神はいるとか、神学を科学的に証明しようと言うことであれば、まぁ、すくなくとも、俺が生きているうち、というぐらいの時間帯のスパンの中では無理じゃないかと思う。気が遠くなるくらいの未来のことは知らん。
色々白熱して盛り上がってるみたいだけど。
このエントリ主と、それを批判する人、両者の差って実はすげーシンプルだよね。
「擬似科学を妄信的に信じてる人に、嫌悪感があるか無いか」だよね。
嫌悪感が無い人は、
「信じるのは人の勝手じゃん、別に説得するのはいいけど頭ごなしに否定すんなよ」となるし、
嫌悪感がある人は
「こいつらは悪い宗教にハマっているんだ、
厳しい言葉をかけてでも早く現世に引き戻してやらないと!」となる。
結局、宗教論議と同じ。
「宗教にハマってる人を、説教して無神論者にするのが是か非か?」って話と同じで、
そんなの議論したってどうしようもない。
とりあえず、おまえら落ち着け。
批判すべきはたいてい自分な件。それか運命か定めとして諦めるべきこと。
うん。それが仏教の本質じゃないかな。
と極東ブログ: チベット的癒しの話を読んでさっき思ってたことだ。何か悲惨があったとき(それがありふれた病や死でも、当人と家族にとっては悲惨だ)、その原因を特定し排除しようとするのが現代的・科学的な−−ひいては全てを第一原因に求めるキリスト教的な?−−考え方だ。そのためにデモをするし、虐殺をするし、抗生物質を作り出す。
ここでジョークをひとつ
筋金入りの無神論者は言った
「これまでの信念を曲げて、神を信じたくなるときがたまにある。
自分ではどうしようもない不幸が我が身に襲いかかってきたときだ
でも仏教はそうじゃない。降りかかる悲惨/幸福の原因を、『因果』『業』というイマジナリーナンバーに求める。そして諦める。あるいは供養する。それはパッと見はすごく後ろ向きでダウナーで怠け者の考え方だけど、共同体というマスで見たとき、あるいは時間軸に重ねて人生という単位で見たとき、有効な場合もあるんじゃないだろうか。とか“全てに原因を見出せる病”こと陰謀論の人たちを見て思うこともある。うん、「陰謀論」こそが「科学的思考」のヒルコだよね。
って一方で
誰もがそう考えてるなら、チベット問題なんかあっという間に解決だな。
もまたある意味正しい。もし、本当に字義的な意味で「誰もがそう考えて」いたとしても、それだけでは虐殺は無くならないだろう。なぜなら「自分は『批判すべきは自分だ』と考えている。しかしそこにいる見知らぬ他人はどうだろう?」という不安・恐怖は、偽装不能のテレパシー能力か、個人が全ての人間と1対1で対話できる高度な情報処理能力と情報網が開発されない限り、排除しきれないからだ。
悲しきナッシュ均衡。
そう。ゲームはたとえ対戦相手が実際には存在しなくても成立するんだね。そしてそこからは「3人寄れば党派政治がはじまる」だ。こわいよおにも通じる話。
論理的思考力というのもそうなんだが要するに集中力と持続力ですよ。
だから、1年かけて絵を仕上げたとか、不利な対局でも投了を認めざるを得ないとこまで
がんばるとか、そういう事と等価な部分はあるでしょう。うんざりするような単純作業を、
完成形をイメージしてこつこつ進めるという事は、「すぐに結果を出すこと」とは矛盾するし、
頭のよい人ほど安直に結果を出すことを求められがちになるけど、みんながそれをやったら
責任のなすりつけあいと業績のかすめとりあいで社会が貧しくなるので。
ただし特に数学をやっときゃよかったと思うのは「数式の読み方」がわからないことです。
オイラー(理系、数学者/天文学者、有神論者)が無意味な数式をディドロ(文系、哲学者、
無神論者)に突きつけて、「ゆえに神は存在する、返答せよ!」と恫喝した、という
ネタがありますが(ちなみに実話ではないそうです)こういう不安感は一介の文系としては
いつも持っています。そうすると、ちょっと数学を知っている人が tips 的なものを書い
たり、最新科学の業績について「わかりやすく」解説した本とかを買って読んで何の役にも
立たないといったことにもなるわけで、そういうのが嫌なら少し勉強したほうがいいです。
まぁなんというか工学的制御の結果として「一定速度」とかを実現している電車の
到着時刻を考えるのに微分方程式は要りませんよね(時刻表を見ればいい)。で、最短
ルートを求めるという「組み合わせ最適化」についていえば数学ができることは
それほど強力ではないし。エンジニアリングがうまくいって世の中に人工物が溢れた
結果が、数学があんまり役に立たない、という現状をもたらしたともいえます。
死にたくなった。
って書くと、なんか重そうで誰も読んでくれない気がするけど、ここくらいにしか書くところがない。
俺は、いわゆる無神論者で神様とかあの世の類はまったく信じてない(まぁ、日本人はそんな人ばっかりだと思うけど)から、死というモノがどれだけ怖いかは想像できる?
人間という輪の中からはずされる疎外感。
誰ともつながることのできない恐怖。
今まで積み上げてきたものが無くなる喪失感。
誰も俺なんて覚えていないんじゃないかという不安。
どっかの宗教みたいに自爆テロとか、借金・倒産・失業・失恋なんかで自殺なんてばかげてるとしか思えない。(この手の話は無駄に長くなるのでここらで止めておこう)
どちらにしろ今は、まだ死を受け入れれるほど生きてない。
そして今日、普段は見ていない「アンビリーバボーSP」(フジテレビ)の最後のコーナー「感動したVTR TOP3」(タイトルがまるでうろ覚え)を見た。
1位に選ばれたのは、小さい頃から心筋症(?)を患いながらも、12年の生涯を懸命に生きた少年のドキュメンタリーだった。
その子は、病気の後遺症で右手・右足が自由に動かなくて、いつもクラスメートに助けてもらってたことに「自分はみんなの役に立てない」と考えていたけれど、助けられながらもクラスメートとすごしていくうちに「人間は生きているだけで誰かの役に立っている」ということに気付いたと、インタビューで答えていた。
一度の入院も経験したことのない、俺には思いつきもしない発想だった。
そして、あらためて命の尊さに心を打たれた。
隣にいた嫁も、大学時代に初めてこの子の言葉を聞いたときは感動で泣けてきたと話してくれた。
俺も「健康な時だと、こんなこと考えないもんな」と当り障りのない答えを返した。
番組が終わった後に、
嫁が近所の奥さんと会ったこと、
そこで以前『うちの子供』と『その家の子供』が喧嘩したことを謝ってきたこと、
「知らなかったけど、今度から気をつけてくれればいいですよ」と言われたことを教えてくれた。
子供らが喧嘩したときは、俺とその子供の父親が一緒だったので、うちの嫁も近所の奥さんも直接は何があったか知らない。
もし、うちの子が自分からは手を出さないような『他人とうまくやれるタイプの子供』の親だったら、喧嘩なんていちいち嫁に報告しないが(よほどの怪我をさせられない限りは)、うちの子は、以前から手が出やすかったうえに、仕掛けたのはうちの子なので嫁に報告した。
俺の中では、「仕掛けられたとしても大事に至らなければ、報告する必要はない」と考えていたので、相手の父親も同じように考えていたら、奥さんにしゃべらない可能性もあると思っていたし、喧嘩の後にも「今度から気をつけてね」と言われてたので、それで喧嘩の件は完了だと思っていた。
「わざわざ、奥さんにまで謝らなくていいのに」
不意に出た言葉。
烈火のごとく怒り出す嫁。
自分がどれだけ、回りに気を使っているかをひとしきり言った後に、
「知らないって言ってたけど、知らないわけないでしょ!!」
「そんなんだから、人の気持ちもわからないんだよ!!」
「もう、死ねばいいのに!!」
死ねばって・・・
つい、数分前に「生きてるだけで素晴らしい」って素晴らしいって言ってたのに。
ほんとに死にたくなる。
ちなみに、今日が初めてじゃない。
2・3ヶ月に一回は彼女の逆鱗に触れて、この恐ろしい言葉を使われて、数日間に渡りへこまされつづけるわけだ。
想像できる?
隣(といっても隣のベッドだが)で寝ている彼女が、軽い気持ちである(本気かもしれないけど)とは言え、俺に死んで欲しいと思ってるわけだ。
「万が一」俺が死んだ場合には、それなりの保険金が支払われて、住宅ローンもちゃらになる。
さらには、母子家庭手当てが降りて、遺族年金をもらい、場合によっては生活保護も出るかもしれない。
俺が死んで困るのは、まだ小さい子供が父親を失うだけ。
それでさえ、おそらく、嫁の母親が俺の代わりになるだけだ。
家にいるときは常に危険だ。
ご飯を食べる際に台所に背を向けるのも、
お風呂で頭を洗っているときも、
同様に洗面台で顔を洗っているときも。
料理は苦くないか?
昔、寝ているだんなの心臓に針を刺して殺そうとしたけど、何本か刺しても気付かないまま数日過ごしたってのを聞いたことがある。
体に痛みはないか?
大丈夫か俺?
まぁ、でも、そんな心配しても仕方ない。
嫁は一生の大半をこの家の中で暮らすんだから不満もあるだろう。
ここに書いたことで、少しは楽になった。
(極端に優しくすると「気持ち悪い」とまたへこまされるので、)
明日は、ちょっとだけ優しく接してみよう。