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2024-08-11

文章を書くことは苦しい営為

中学生の頃からはてな、なろう、Twitter個人ブログnote、某ゲームファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンル文章を書いてきた。主戦場匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。

このような過去から察せられる通り、自分文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説はてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。

最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときサービスアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。

このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロ小説先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリー矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントストーリー構成がしっかりしていて、論理的妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。

しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品主観的客観的分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである

このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分意見を表明する場合でも、脳内にある自分アイデアパソコンディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分脳内にあるもの自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内しかないもの、書いたものしかないもの無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。

そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかたことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたもの100%他人のものである断じてしまうことである中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去自分現在自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法文章100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章にらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分脳内文章が一致する。

根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分意見が初めから脳内に整然とした文章存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分意見言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章100%自分のものにする方法最後で、自分意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分意見言語化するあいだに自分意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。

やす子は癒し系!←これ

芸人に何を求めてんねん

最近芸人ルッキズム引退したの知らんのか

なんでノンアルコール系の飲料ってカロリーオフが多いのよ。

やっぱり飲みたい人向けの健康食品的な代替として作ろうとしている意識が強くて(というかメインターゲットがその層なんだろうけれど)

アルコール弱いとかあんまりアルコール取りたくないという人に、おいしいもの提供したいという引力で動いてなくて、

アルコールも飲めなくて人工甘味料の味もあんまり好きになれない自分としては、もっと美味さに特化したようなノンアルコール出てくれないかなと

最近保守った新製品定番どころしか置いてない近所のコンビニソフトドリンク売り場を見て思ったりしている。

あたしアラフォー処女(おとめ)♡

最近「あ゛??? お前あたしのこと舐めてンのか???」ってキレやすくなって困ってる☆

舐められるくらい、昔は甘んじて受け入れてたんだけどなー。

更年期障害かなー。

いや更年期障害の人をディスりたいんじゃなくて、なんか名前のつく症状であたしが悪いんじゃないってことにしたいのよね。

きっと世の中が悪いんだ。

消費税男尊女卑が悪いんだ。

舐めた依頼して事故って「それくらい分かるだろ、なんでやんなかったんだよ」とか逆ギレしてくる無能が悪いんだ。

そんなこと言われるとヒスって正論棒でボコボコにしちゃうから、とりあえず祟り神か腫れ物でもに触るように丁寧に丁寧に接して欲しいナ★彡

いやしかし年取ったので瞬間爆発的に怒ることができなくなった、燻るタイプになったのでネチネチネチネチ言ってる気がする。気分的にはミートハンマーで気が済むまでステーキ肉叩く感じ。

まさにお局。

諸先輩方、追いつきました。ご指導ご鞭撻次世代に繋げていきますね。

ドライヤーキャンセル界隈

増田風呂キャンセル界隈になりそうな要素だらけの人間である。(未診断だがadhdの傾向があるので)ただし、衛生観念が戦ってくれているおかげで次の日家出る予定がない日以外は今の所キャンセルせずにすんでいる。とはいえ風呂はいらなきゃな」と思いながらダラダラスマホみて睡眠時間が極端に削られたり、もしくは寝落ちしてしまって次の朝慌ててはいることも多いのだが…

週に何度かはすんなりと風呂に入ることができる。最近風呂に入るコツを掴んできて、それは「風呂に入ろうと決意した瞬間全ての服をぬぎスッポンポンになること」。普段ベッドで永遠に寝転がってスマホをみているが、全裸で寝転びたくないという気持ちになり、じゃあ風呂に入るかということになる。フェイスタオル2枚(バスタオルは乾かないから使わない)と下着だけ準備して、何も考えずに風呂場に入り、シャワーで頭を濡らせばもう引き返せない。こうして増田の清潔は保たれている。

さて、表題の件。そうやって風呂(というかシャワー)が終わり、フェイスタオルの1枚目で体を拭き、2枚目で頭を拭く。そして2枚めを頭にまき、下着を着る。問題はこのあとで、すぐにドライヤーすればいいのに、タオルを頭にまいたままスマホを見はじめて、平気で1時間とか放置してしまう。頭皮に悪いんだろうなと思いながら、どうしても洗面台に戻る気になれない。

ドライヤーほど面倒くさいものはない、頭は熱くなるし、時間もかかるし、ドライヤーって地味に重いし。多分風呂キャンセルしている人たちもキャンセル理由の1つってドライヤーなんじゃないかと思う。今は少しでも時間を短くしようと家電屋にあった中で一番風が強かったちょい高めのを使っているが、それでも面倒くさいものは面倒くさいのだ。頭にタオル巻いておけば少しは時短になるのだが、それにしても1時間も巻いている必要はどうしたってない。

まあ1時間後にドライヤーするのはだいぶいい方で、たまに頭にタオルまいたまま寝落ちしてしまうことがある。正真正銘ドライヤーキャンセル界隈。目が覚めて気持ち悪く湿った髪に気がついたとき絶望半端ない風呂入り直そかな?と思うが、それはそれで面倒くさいし……結局ちょっと不衛生な状態で、朝から適当ドライヤーしてやり過ごす。生臭くないといいな、とおもいながら、結局自分匂いなんて自分では気がつけないから、そのままやり過ごす。

今こんなことを書きながら、頭の上にはタオルがのっている。「この内容を登録する」ボタンを押したら、すぐに洗面台に行ってドライヤーするんだ。絶対に、絶対今日はやり遂げてみせる、ここに決意を表明する。

anond:20240810180901

単純にイスラエル中東アメリカ勢力からじゃないの

その他中東諸国は最近中露寄りだし

右翼的にどっちが味方なのって言われたら火を見るよりも明らかでは

2024-08-10

そもそもスペシャルティスターバックスから始まった

anond:20231219203806

日本喫茶店コーヒー豆って基本的には同じ所から買ってきてて

それをいかコーヒーとして美味しく出すかが腕の見せ所だったので

ペーパードリップしたりネルドリップしたりブレンドしたり水出ししたりしてたんだよね

日本は立地のせいでコーヒー豆販路が限られてるからしょうがなかったし

ぶっちゃけ煙草吸いながら飲むオッサン飲み物っていう感じだったからそれで良かった

で、スターバックスコーヒー豆管理確立して世界進出してきた黒船であって

スペシャルティコーヒー日本における先駆けだったと思ってる

途中から路線変更してコーヒーよりもエスプレッソ系やオリジナルドリンク系になったけど

今でもスタバコーヒー豆スペシャルティだし時期によってはかなりクオリティが高い

リザーブドとかは日本喫茶店だと太刀打ちできないレベルの豆を揃えてる

あと、コーヒーの味がよくわからんっていう人が多いけど、ぶっちゃけコーヒーの味ってほとんど苦みしかなくて

スペシャルティコーヒー香りであって味じゃないんだよね

要するに紅茶とかと一緒で香りを楽しむものなので味について語っても意味が無いと思うよ

最近は苦みがなくてオレンジジュースみたいなコーヒーを出す店も出てきてるけど

それってコーヒーじゃなくてホットジュースなのでちょっと違うと思うんだよな

最近ラーメンって化調たんなくね?

特に評価高い店に行くと「旨味」の「奥深さ」が全然ないことが多い

分化調全然入れてねーんだな

昔のネット最近ネットの違い

昔はあからさまに意地の悪い嫌がらせをする奴はいたけど、今みたいに、まったくなんの悪気もなく喜ばれると思ってズレたことする奴はあんまりいなかった。

確実に知能指数は下がってるんだろうな。

アウトレイジ3を見た

最近

進撃の巨人

とか

悪は存在しない

とか

∀ガンダム

とか

どっちも大変だなー的なものばかり見てたので

逆に面白かった。

しばらく口が悪くなったりしてw

はどんなだろう

anond:20231219203806

スタバコーヒーが不味いとは思わないけどなんか口に合わないんだよねえ

他のコーヒーチェーンはそんなに美味しくないけどまあこんなもんかという感じで飲みやす

星乃珈琲はたしかに割と美味しいし好みにも合うな

なんというかスタバのは丸くてツルンとして苦い、という感じで(最近飲んでないか記憶にある限りだけど)、もう少し引っかかりが欲しいなと感じる

チェーンの中だと(カフェじゃないけど)セブン珈琲のが好きだな

なんだろ、お茶っぽさが若干あるのが好きなのかも

最近やたらスポーツ中継してるなって思ってたら

オリンピックやってたんだ

全然知らなかった

anond:20240810161003

エジプト大阪っぽいのはなんとなくわかる。

「ヘイ!ワンダラー!」みたいにガンガン観光客土産物を売るイメージそれから、「スエズ運河もってるぜガハハ」みたいな雑な感じ。

古代文明への誇りとかも薄そう。

民族宗教も何度もアップデートされてるから、直接の先祖というより、先住民遺物として大事にしてる的な。

イスラーム以降に拡大したからは流石にどうかと思うけど。

つい最近じゃなく1000年以上前だし。

あそこが雑な感じなのは伝統的に土地柄が要所抑えて通行料で食ってくビジネスからじゃないかな。

シリアレバノンあたりのほうが上品そうなのは、あっちは貿易で食ってく土地柄的な。

同人活動に負けた

友人が同人活動にハマった。かれこれ3年ハマっている。友人が同人活動にハマるまではよく遊んでいた。国内外旅行へ行ったし、誘えば二つ返事で来てくれた。仕事終わりに飲みに行き、オールしたり、なんなら突発的にホテルとって泊まって語り明かしたりした。

そんな友人がある日突然、「久しぶりにハマるジャンル見つけた」と言った。

自分も教えてもらって一緒に履修した。自分はそこまでそのジャンルにハマりはしなかったが、話としては楽しくて映画化した時は一緒に観に行ったくらいだ。友人は何度も見ていて、一緒に映画を観た帰りも飲みながら感想考察をして盛り上がり、夜更かしをし、次の日慌てて互いに仕事に行ったものだ。

友人はそのジャンル同人活動……いわゆる二次創作に手を出した。「自分の胸の中にある熱い思いをとにかく形にしたい」と言い、iPadを購入し、絵の勉強をしながらイラストを描き、そして漫画練習も始めた。最初はなかなかうまくいかずにいたが、それでも時間をかけて頑張ってつくり、とうとう形として生まれた。自分はその話を聞いて喜び、頑張ったねと言い、お祝いもかねて食事をした。それが3年前。

2年前。友人は同ジャンルの人たちを交流を持つようになった。SNSで仲良くしていたのだがそのうちの一人と住まいが近いことが分かり、オフでも頻繁に会うようになった。その人はいわゆる「神絵師」だったらしく、友人は絵の描き方や漫画の描き方、ソフトの使い方などのノウハウを受け、また神絵師と仲良くしていると同ジャンル内の人とも更に交流を持つようになっていた。もともと友人は明るく分け隔てなく付き合うタイプだったのもあり、イベント後のオフ会でたくさんの人と仲良くなって帰ってきていた。

この頃から友人との会話はジャンル内の友人の話、漫画原稿の話がメインとなっていった。

1年前くらいからか。自分から遊びに誘っても「原稿の締め切りが」と言われることが多くなった。友人が楽しんでいるのであれば頑張って欲しいと思い見守っていた。締め切りギリギリになっても入稿し、本として形となり、新刊としてイベントに出た時にテーブルの上に並ぶ。友人はとても嬉しそうにしており、界隈の人たちとも仲良く楽しく過ごしているのがSNSからも伝わってきた。時々ボイスチャット付きのゲームをしながら遊んでいても、その楽しい気持ち雰囲気は音声に乗って自分の耳に伝わってくる。楽しそうでよかった、そう思っていつも話を聞いていた。

つい最近。友人を遊びに誘ったところ、断られてしまった。1年前の「原稿の締め切りが間に合わない」と言われたあの日最初に数えると、とうとう両手で足りるかどうかの回数になっていた。断られる際に「きみの予定や時間が余ったら誘ってくれ」と言い、友人は「分かった、絶対に誘う」と言ってくれていた。しかしついに友人からの誘いはなく、SNSを見ていると界隈の友人を誘ったり突発的な飲みを開催して楽しんでいた。

気付かないふりをしていたが、自分同人活動という趣味に負けてしまったのだと思った。

しかしたら自分が友人に嫌われていたのかもしれない。そうじゃなかったとして、友人は今とてもハマっているジャンルが楽しくて仕方ないのかもしれない。友人は漫画を描きながら「こんなにハマったのは初めて」「今すごく楽しい」「こんなに楽しいとあるんだ」とよく言っていた。趣味をとても楽しんでいる様子で、自分はそんな姿を見ているのが楽しかった。よかったな、もっと楽しんでおいで。そう思っていた。

けれど友人から見て自分趣味よりも下に見られているんだと気付いてしまった今、正直いままでと同じように接するのは難しいと思った。

自分が友人に対して距離感を間違っているのはあると思う。しか同人活動あくま趣味だ。新しい本を常に出さなくてはいけない理由義務もない、そこで金銭の損害が発生するわけではない。でもイベントで新しい本をテーブルの上に置き、誰かが手に取ってくれるのを目の前で見る喜びは何物にも代えがたく、今まで原稿と向き合ってきた時間が報われるものだろう。分かっている。分かっているからこそ、人との約束反故してまで優先すべき趣味なのかと思ってしまった。

友人は自分とのSNSやそれ以外の繋がりが消えていることに気付いていないと思う。自分はその程度の人間だったのだ。

同人活動という趣味に負けてしまった人間は離れ、遠くから友人の幸せを願うばかりだ。

   晴生の令和2年冬の、おわったおさんとの会合後の説明によると、本件怪文書は、オヤジたちで作るものである、という発言があり、ここでいう、オヤジというのは、当然、刑務官長谷川が筆頭

 であることは言うまでもなく、長谷川が最終的に作り上げた原告に存する精神障害概要というものは次のとおりである

    昭和63年4月、4歳のときに2歳の弟と一緒にゆりかご保育所に入れ込んだが、弟は保育所で話すのに独りだけ会話をしない。インフルエンザのついでに小児科にかかったところ

  広汎性発達障害であると診断された。  中略  刑務所を満期出所してから症状は更に酷くなり、専門の医師相談したところ、アスペルガー症候群統合失調症であると指摘された。

   これに基づいて、延岡市精神科野田省治が作成した診断書概要は、  妄想 自閉、感情平板化、意欲の減退、   強い統合失調症で長期の治療必要とする

   平成31年1月7日に精神障害手帳更新として飯沼病院医師は次のように書いた。    統合失調症を抹消し、アスペルガー症候群

   統合失調症主体となっておらず、発達障害が前景にある。 令和3年2月24日(立野

     厚生労働省の裁決で高野伸が最終的に認めたものは次のものである。   気に入らないことがあると大声を上げるし、服薬をしないと眠れないなどあり。 令和2年1月31日

    近年、令和6年の状況   昔は、 晴生が統制していたので、  大声を上げる、とされていたが、 最近は、 

         近隣、荒川河川敷等で深夜帯に大声で自分意見を言っておりそのたびに通報が入っており、志村警察署相談係■■氏(内線   )  ねっとり

  で決めつけられており、

テレビ死ねっていってるの?

遅まきながらフワちゃんの件を知ってみているのだけれど、非常に混乱している。

フワちゃんのあれはイジりだいや裏アカ誤爆だと両者が両者それなりの規模居るみたい。やすこが悪い説までいくととても謎だ。

自分主観ではあれをイジり芸とは受け取れず、(本人も言うように)裏でもリアル周囲にでもこっそりやろうとしたやつの誤爆だと思っている。

 

その理由は、急激に世間平和になってると感じていたから。

もう最近テレビ芸人バラエティガッツリ見ることは久しくなくて、フワちゃんすらGoogleCMしか存在を知らない程度の人間だけど、自分子供ときと比べてすごくクリーンになっているのは感じる。

ダウンタウンの二人が古くてあたりがキツいなぁと感じるぐらいには感性が変わった。BPOのお叱りでいろんなことが自粛され、漫才で頭を叩くことすらもう消えそうだったと思う。

 

そんななか、最近?新たらしい新星のフワちゃんクリーンな今の新時代の、さらに一歩先の変革を体現する存在、だと自分認識している。実際に動いてるところを見たことが無いので風評になるが、そういうキャラだと思っている。失礼キャラ?に似せた新しいなにかだと。

 

そういう新世代のキャラがいまどきのテレビに出て、芸人として過ごす中で、「死んで」というワードを『芸人として』チョイスするかはとてもとてもとても疑問だ。

もちろん、やすこさんの「生きてるだけ」という言葉にかけて、という文脈理解しておかなければならないが、それでもテレビ業界のし上がってきた芸人のとっさでもない文章入力でこの辺の『危険匂い』をいじり芸する前に気付けなかったのは不自然だ。

 

自分はフワちゃんを知らないが、今回の件で炎上するということは日常的に「死んで」というワードをフワちゃんいじり芸武器として使ってこなかったことの証左であると考える。イメージでも、今のテレビ番組で「いや死ねよ」なんてドギツイ突っ込みをしているのは、ダウンタウンなど古い世代を除いてイメージにない。

自分学生のころは「いや死ねよ」と突っ込みする雰囲気はあった。多分してた。今の学生でもリアルではあるんだろう。でもテレビで「いや死ねよ」のイメージは、ない。「死んでください」だってフワちゃんの失礼キャライメージでも、ない。

 

テレビでしない・できない発言ラジオネットyoutubeでする、というのは確かにあるものの、フワちゃんがそういう発言をするキャラじゃないことはフワちゃんが一番分かっていると思う。見られ方・受け取られ方に鈍感なタレントは少ないだろうし、フワちゃんさら薄氷を踏むような道を駆け抜けるバランス感覚武器芸人だったはずだ(見てないので憶測100%)。

 

超高難易度の綱渡りをしている雑技団の人が、突然バランスをとるために使っていた棒をバランス無視してこちらに突き刺してきたら、「すごい!綱渡りの芸だ!」と思う人はまずいないだろう。

素人でも一目で分かる使っちゃいけないワードを使った時点で一発レッドと容易に断じられるのだが。これが同じくテレビでいじりに使わないだろうワード、「障がい者になってパラリンピックでも優勝してくださーい」でもいじり芸として認識されたのだろうか?

 

 

もし今でもテレビで「死ね」「死ね」言っていたらここまでの妄言は全て無意味なのだが、ご存知なら現状を教えてみてほしい。

日本社会絶望的に科学研究に向いていない

注目の科学論文数、日本は過去最低の13位 1位中国、2位米国

増田某国立大学の工学部で教鞭をとる40代准教授である。その視点からの話であることはご承知おきたい。

こういう記事ブクマには政策が悪いとか選択と集中が悪いとか色々つくが、社会構造的に「向いていない」という話を書きたくてここに書く。

お金が無い

 みんな気になるだろうから、これを先に書く。

 最近になってにわか科学研究大事ということになって色々な研究予算が付くようになった。工学部だと企業との共同研究お話なんかももらえるので、えり好みしなければ研究費を取りやす環境にある。

 だが、大学にはお金が無い

 どういうことかというと、この手のお金は期限がついていたり使途が決まっていたり、いろいろと紐がついている。そして、必要なところには回せないことが大半なのだ

 例えば人件費民間企業ではありえないことだが、国立大が人ひとりを無期雇用で雇うためには、退職までの予算を確保することが必須なのだ。国から運営費交付金寄付金のような、必ず退職まで支払われることが確実な予算裏付けないと無期雇用の人を雇えない。民間企業なら、人を雇うときに予め退職までの給料を積み立てておくというようなことはせず、営業を頑張って給料を払うだけの売り上げを確保するものだと思うが、国立大ではそういうわけにはいかない。色々な企業との共同研究を締結し、外部資金を獲得して、その人の給料を確保する、仮にできなかったら身銭を切ると教授宣言しても、そういう期限付きの契約では無期雇用の人を雇えないのだ。

 秘書事務職員ならまだしも実験機材を維持管理する技術職員とか、研究員とかもこの縛りを受けるので、必要な人を必要なだけ確保することができない。運営費交付金人件費だけでなく建物設備の営繕にも使われるのだから、やれ70年代80年代に建てられた校舎の改築だとか、光熱水費だとか、とにかく運営費交付金の増額が望めず物価が上昇し続ける昨今、大学にはお金が無いのだ。

 ちなみに、外部資金をたくさん取ってきたからと言って自由に使えるわけでもない。大概の研究費は他の外部資金と混ぜて使ってはいけない縛りがあるので、例えば研究費A で岡山学会へ行き、次の日から研究費Bで広島の共同研究先で実験をする、みたいな場合でも、いったん大阪の自宅へ帰って一晩滞在することで研究費を分けないといけない。実験機材も合わせて購入するということはできない。100万円の研究費をふたつつかって150万円の機材を買うことはできないのだ。これが研究費は増えてもお金が無い、という事情の内幕である

学生がいない

 昔からアルバイトに熱心な学生サークル活動に精を出しすぎな学生は確かにいた。最近就職活動時間をかけすぎな学生が多い。夏休みはおろか授業期間中インターンにかかりきりだし、ウェブテストの後で何度も面接をさせられ、いきおい、学生疲弊している。日中の貴重な時間研究室ではなく就活に費やし、奨学金や親から仕送りでは足りない学生アルバイトまでしているのだから卒論修論の質は落ちる。企業ガクチカとか聞く前に、理系学生研究室で研究させてあげてほしい。学部生の卒論半年から1年しか期間が無いのに最後の数か月を除いて就活とまるかぶりだし、2年間しかない修士課程の1年は就職活動で消えている現状で、大学から研究成果が出ないと言われても、どうしようもない。

 研究というのは、専門書を読み、先行研究を調べ、仮説を立て、手を動かして仮説を検証し、その結果を文書にまとめるサイクルである。これがきちんとできる学生であれば、どんな仕事に就いても立派に働ける。たぶん。

 というか、企業採用も、もっと必要資格能力を具体的に書いてほしい。今どきの学生は真面目なので、特定資格を持っていると就職に有利だとわかればそれを取るようになる。大学だって国の資格などであれば学科免除などを取りに行って「就職に有利」みたいな売り文句学生を集めやすい。どんな企業だって欲しい資格能力採用時点で分かっているはずなのだから、それくらい明かしてくれてもよかろう。

博士課程に魅力がない

博士課程の大学院生、というのは研究を進めるうえで大変貴重な戦力である。なにしろある程度は自力研究を進めてくれるし、そのレベル論文として世に問えるものである

ところが、であるちょっと考えてほしいのが博士課程の魅力だ。日本博士課程は、基本的には学費を納入して「学ばせてもらう」スタイルである。その分研究テーマ自由度は高いし専門性を高めやすい。一方で、ある程度経済的に恵まれていないと、3年間の生活をどう工面するかという問題が常に付きまとってしまう。最近は、学振特別研究員のような昔からある登竜門的に限らず、各大学の工夫や国の政策博士課程進学者経済的に援助する仕組みが整い始めている。とはいえ、それらに通らなければ学費生活費を調達せねばならないし、採否の通知は年度末か入学後なので、まったく安心できない。どれほど優秀であろうと研究に向いていようと、金がない学生就活するしかないのだ。

 さらに、就活に際しても博士課程は買ってもらえない。就活サイトを見ればわかるが、技術採用でも研究採用でも、博士号持ちの人の初任給は明示されない。修士課程初任給しか書かれていない。これを見た学生は、修士号持ちと博士号持ちの初任給は同額だと理解する。聞くところによると、博士号持ちの初任給修士号入社三年目くらいかそれ以上らしいのだが、書かれていない情報などあてにできないので、就活する側からみると前述の理解となる。これでは、博士号を取っても何も良いことはなさそうである

 欧米ではではの出羽守だが、海の向こうでは、博士課程というのはプロジェクトから人件費支給される研究である仕事の扱いだから労基法にも守られる。しかも、博士号を取れば仕事の口も増えるし給料も上がる。

 ドイツなんかに行くと、博士号持ちは英語さえ話せれば仕事に就けるが、修士号まではドイツ語を話せないと仕事がない。Dr. と表札に書けるオマケはさておくにしても、それくらい社会的な扱いに差があるのだ。もちろん、給与の出どころである研究プロジェクトが終わると別のプロジェクトで雇われるまで博士課程を続けられないとか、プロジェクトの元締めである指導教員と相性が悪いと人生大惨事になるとか、いろいろなデメリットもあるが「博士課程の研究員」という仕事に就いている扱いなので、無理だと思うとみんな中途採用企業転職したりする。それくらい、普通仕事の扱いであれば進学者も増えるだろうし、博士号を取っておけば食うに困らないくらいの扱いになってくれれば、みんな喜んで進学してくれるんじゃないかと思うがいかがだろうか。

大学教職員は忙しすぎる

 大学安定的予算が十分ないために人を雇えないという話を最初に書いたが、そのツケをどう払っているかというと、パーマネントの教職員が頑張って回している。いや、有期雇用教職員やらせることもあるけど。来年度には任期切れで退職するような教員入試問題を作らせたりされてよいものか?高校への出前講座とかアウトリーチ活動必要だと言われたとき来年退職する先生を送り込んで誰が進学してくれるのか?定年退職した技術職員の後任は予算不足で雇えませんでした、となったときに機材の修繕を誰がやるのか?それでなくても、学生就職研究指導の面倒は必須である

 というわけで、大学先生講義以外にもやることがだくさんあるのだ。とても研究をしている場合ではない。雑務と呼ぶ人もいるが、講義研究以外にも誰かがやらねばいけない仕事なのだから「雑」はないだろう。とはいえ、昔は若手の教員がやっていたような事柄も、若手ほど任期付きになってしまったのでシニア教員がやらねばならなかったり、幸運にも無期雇用を勝ち取った若手に集中してきたりするので、DXで仕事効率が2倍になっても仕事は3倍に増えるのだ。偉い先生方は偉い先生方で、改革と称して新しい企画を立てないと予算をくれなくなったので、朝令暮改もいいところのマイナーチェンジお茶を濁したような企画書をいか気宇壮大に書き直して追加予算をゲットするかに時間を使っている。夏休みも暇かといえばさにあらず、老いも若きも科研費などの外部資金申請書と格闘している。倍率が10倍近くても、何とかして手に入れないと満足に研究ができないのだから仕方がない。

 ちなみに、大学によって、また学部学科によって異なるが、国立大教員競争資金なしに受け取れる、平たく言うと自由裁量経費みたいなものは、年10万~30万円くらいである。国際学会の参加費が10万円を超え、海外論文誌の投稿料も10万円くらい取られるこのご時世に、である。どれほど世紀の大発見をしようとも、世に問うためには論文化して論文誌に掲載されねばならず、掲載されるためには投稿料を払わねばならないのだ。そして、その投稿料ともらえる経費がほぼ同額ということは、外部資金が無ければ研究 XOR 投稿という選択肢になってしまう。日本論文誌であればもう少し安く、数万円で済む。ただ、そういうところに掲載されても「注目の科学論文数」にカウントされることはない。これが現状である

 それにしても、研究をして論文を書いて世に問うためには先立つもの必要で、それが外部資金が無ければ全く足りていない、という状況であるにもかかわらず、外部資金を取るためには論文を世に出さねばならないというのは何とも困ったものである。このあたりの必要経費と割り当て予算アンバランスはどうにかならないものだろうか。



 というわけで、大学先生というのは、外部資金が無ければ研究ができないために年中予算の確保に腐心しており講義学生指導は当然やるのだから研究をしている暇はない。その先生を雇うお金はもちろんそれを支えるスタッフを雇う予算すら、外部資金のようなひも付き予算から支出できないために全学的に人手不足の状況で、この傾向は悪化こそすれ当面改善する気配はない。代わって研究の主力となりえるのは博士課程の大学院生くらいだが、日本人の学生ほどこっち方面キャリアに魅力を感じずに就職してしまう。それどころか就職活動過去にもまして無暗と時間を食うような仕組みになってきており、研究活動スキルアップさせようもない。これが日本社会の現状である

10年前に買ったマンションがいつのまにか億ションになっていた

もちろん購入時には億ションにはかなり程遠い金額でローンを組んでいる。

しか最近マンション価格の高騰によりうちのようなマンションでも中古価格が値上がりしているようだ。

ざっと調べると売り出し価格億ションを超えるようだ。

投資として見た場合には成功と言えるだろう。

でもうちは投資として買ったわけではないし他に住む家もない。

現在の住居環境を手放したくもないからあまり意味がないような気もする。

新しい技術に対して「電気無駄遣い」というのはナンセンスでは?

最近、生成AIに対して「電気無駄遣いだ」という批判を目にするようになった。ちょっと前のマイニングと同じような感じだ。

この系の批判を見るたびに疑問に思ってるんだが、新技術なのだから電力を使うのは当たり前では。

例えば仮に”全自動洗濯物折り畳み機”が開発されたとしよう。当然全世界で普及し莫大な電気を消費するようになる、だがこれは無駄遣いなのか?

これが無駄遣いというのなら洗濯機はどうなんだろうか、ほかの家電は良いの?

こういう事を言うと「家電生活に不可欠」と言われそうだが、じゃあゲーム機はどうなんだろうか。あれもかなりの電気を使っていそうだが。

「娯楽として人の役に立ってるから良い」とするなら”役に立つ”の基準はなに?そもそも将棋じゃダメなの、電気使わないけど。

結局「電気無駄遣い」という批判は単なる感情論論理的批判っぽく言ってるだけに聞こえてならない。

全ての出来事コンプレックスに繋がってしま

先日、猫島と呼ばれるところへ行ってきた。

猫を飼ったりしたことはないけれど、初めて猫に餌をあげて何匹もやってくるのはすごく心地が良かった。

猫島と呼ばれるくらいなので、人慣れしてるから登ってこようとするような猫もいる中で、猫を抱っこすることはおろか、撫でることすら出来なかった。

多分、猫に拒絶されるのが怖いんだなと。

人間に対しても距離感が掴むのが苦手な私だが、猫に対してもそう思ってしまうんだなって思った。

と言う話を友人にしたところ、親友と呼べるような友人から「なんでもコンプレックスに繋げるのやめない?」と言われた。

別に真剣に嫌がられているトーンで話されてたわけじゃないけれど、自分人間性に嫌になってしまった。

直近で、違う友人にも同じことを言われたこともある。

多分、正常な人には理解されないと思うのだけれど、この思考回路を単純にはやめられないというか、何事も全てコンプレックスに繋がってしまうのだから、本当にどうしようもないのだ。

例えば、料理屋で美味しいものを食べた時、食事好きな人は「料理が美味しくて幸せ」という感情になると思うのだけど、私は「こんなに美味しいものを作る人がいるのに、自分は大したものが作れないな」と考えてしまう。

誰かの活躍なんて聞きたくない。

20代出会った友人たちは、色々あって縁が切れているが、界隈的には活躍してる人も多いと思う(ネットを通じて嫌でも見てしまうことがある)が、知りたくないからなるべく触れないようにしてる。

なぜなら、今の自分体たらく比較してしまうから

最近フィクションである物語作品を見ていても、登場人物自分比較してしまい、精神が参ってしまう。

全ての情報にが、全てコンプレックスに繋がってしまう。

それを冗談めかして数少ない友人へたまに話すことによって自分精神の安定を計っていたが、相手もどこまで真剣に言っていたかはわからないけど、やめない?と言われたからには、もちろん控えるつもりだ。

吐き出す場も無くなってしまい、どうしようもなくなってしまい、こうしてはてな匿名ダイアリーに書いている。

よくストレス発散には「散歩して、美味しい料理を食べ、趣味に没頭する」(例はさておき)みたいな話がある。

でも私は散歩しても「無駄時間を過ごしてしまった」と思うし、美味しい料理を食べてもさっきのようにコンプレックスが刺激されるし、そもそも没頭できる趣味はない。

趣味的なものは、全て「自分よりできる人、詳しい人はたくさんいる」と思って続くものは一つもない。

現在人生最長記録である2年半くらい続いたものも、だいぶコンプレックスが刺激されてきて嫌になってしまったので、正直やめようかと悩んでいる。

多分こんな極端な思考回路な人は少数だと思うから共感されないことはわかっているが、もし共感ができる人がいるならば、どうやって精神の安定を保っているかを教えて欲しい。

anond:20240810152740

から最近暴落でそういうイキってる奴らがお通夜になって、本当にスッキリしたわ

投資なんて黙ってやれよ

勝っても負けても面倒臭い奴がくるだけなんや

最近NISA始めたやつのイキリっぷりとウザさは異常

自分制度変更前からNISAやってるけどさ・・・

NISAから投資始めた様な奴って、なんでネットで「無知蒙昧たる其方に世界の真理を教えてたもるぞ」って絡んでくる様な奴多いの?

SNS貯金に関するあるタレント発言別に投資否定してない、それとはきり分けて貯蓄の重要性に焦点を絞ったもの)に「それっていい考えですね」って言ったら、リプライで「インフレがあるのにどうするの」とか、まー絡んでくるわくるわ。

言い返したら延々絡んでくると思ったかスルーしたけど、「投資してない」とは一言も言ってねーし。

なんだったらもう5年目だっつーの。

俺も投資に関してはそれなり考えあるけど、スタンスとしては「聞かれたら答える」に留める様にしてるよ。

自分リスク負わないのに、他人リスク負わせる様に薦める、しかも聞かれてもないのに」っていうのは基本無責任で、なんなら邪悪寄りだと思ってるんで。

でもなんかさ、はてなでもそうだけど、貯金してるってコメ見ただけで「ニッポンコインにフルベットとかギャンブラーですね」だの「インフレで金が減るのわかってんの?」だの煽るコメ書くやついてさ、そんなの他の人の財産はその人が自由管理すべきで、手を突っ込むべきじゃないじゃん。

大体、投資やるんでも、個別銘柄決算見たり指標見たりしてポートフォリオ組んでるようなガチ勢はそういうこと言わんくて、大体あれだ、NISAから始めた様なやつに限って貯金って聞くだけで上から目線煽りコメントするんだよな。

やめた方がいいよそういうの。

だってもう投資やってるから「こいつらアホだな」ってなったけど、やってなくって投資懐疑的な目で見てる立場で煽られたら「あ。やんなきゃ」って絶対なんないよ、むしろ絶対やんない。いつか吠え面かけ」って思うだけよそんなの。

から投資に関してコメントするなとは言わないから、「あーコイツやってないなー」って思っただけで煽りコメントするのやめなって。

高校デビューヤンキー大学デビューチャラ男みたいな臭っせえ発言からそれ。

セブン卵かけご飯味のおにぎりハマりました。

最近は朝昼晩全部アレです。

anond:20240810144819

俺はテレビ見ないしYouTubeプレミア会員だからCM見る機会ないし

女さんに配慮してイケメンしかさなければいいのにって思うんだよね女さんは最近降板させられたフワちゃんでも何でも好きなの出してりゃ良いと思う

anond:20240809223953

言い方とか態度とかじゃないのかな。あとは、目的によるのでは。

最近、X (twitter)で「店員の態度が悪い」という人の話を見たのを思い出した。

常々「店員の態度が悪い」と主張する友達がいて、その友達切符をなくしたことを駅員に話に行ったところをポスト主が見ていたら、駅員に喧嘩を売るような話し方をしてポスト主が慌てて間に入って、丁寧に説明したら駅員が配慮してくれたみたいなことが書いてあったなと。

からポスト主は「店員の態度が悪い」という人はそれ以前にお前の態度が悪いんじゃないか?と思うらしい。

別に主義主張は構わないけれど、わざわざ誰かを不快にさせるような言い方をする必要はないんじゃないかなみたいな話。

あと、大人同士の討論番組みたいなのを昔見ていたら、左翼活動家の方が「そんなことしたら官僚に使われちゃうじゃないですか?!」みたいなことを言っていて、ハァ?って思ったこともあったな。

社会活動家の人が政権にも受け入れやすそうな形でのいろんな政策提案をしているという話をしたとき左翼活動家の方の反応だけど。

こういう左翼活動家の人は社会を変えるのがゴールじゃなくて、与党官僚無能だというポーズをとるのがゴールなんだろうな。

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