はてなキーワード: 最近とは
中学生の頃から、はてな、なろう、Twitter、個人ブログ、note、某ゲームのファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンルの文章を書いてきた。主戦場を匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。
このような過去から察せられる通り、自分は文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説やはてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。
最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときはサービスのアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。
このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分は文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロの小説家先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリーの矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントはストーリーの構成がしっかりしていて、論理的に妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。
しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主の自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品を主観的、客観的に分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである。
このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分の意見を表明する場合でも、脳内にある自分のアイデアはパソコンのディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分の脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分の脳内にあるものと自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内にしかないもの、書いたものにしかないものも無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行の名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色、スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分の意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。
そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかったことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分は普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたものを100%他人のものであると断じてしまうことである。中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去の自分と現在の自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分の文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法は文章を100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章とにらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分の意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分の意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分の脳内と文章が一致する。
根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分の意見が初めから脳内に整然とした文章で存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分の意見は言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章を100%自分のものにする方法の最後で、自分の意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分の意見を言語化するあいだに自分の意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。
やっぱり飲みたい人向けの健康食品的な代替として作ろうとしている意識が強くて(というかメインターゲットがその層なんだろうけれど)
アルコール弱いとかあんまりアルコール取りたくないという人に、おいしいものを提供したいという引力で動いてなくて、
アルコールも飲めなくて人工甘味料の味もあんまり好きになれない自分としては、もっと美味さに特化したようなノンアルコール出てくれないかなと
最近「あ゛??? お前あたしのこと舐めてンのか???」ってキレやすくなって困ってる☆
舐められるくらい、昔は甘んじて受け入れてたんだけどなー。
更年期障害かなー。
いや更年期障害の人をディスりたいんじゃなくて、なんか名前のつく症状であたしが悪いんじゃないってことにしたいのよね。
きっと世の中が悪いんだ。
舐めた依頼して事故って「それくらい分かるだろ、なんでやんなかったんだよ」とか逆ギレしてくる無能が悪いんだ。
そんなこと言われるとヒスって正論棒でボコボコにしちゃうから、とりあえず祟り神か腫れ物でもに触るように丁寧に丁寧に接して欲しいナ★彡
いやしかし年取ったので瞬間爆発的に怒ることができなくなった、燻るタイプになったのでネチネチネチネチ言ってる気がする。気分的にはミートハンマーで気が済むまでステーキ肉叩く感じ。
まさにお局。
増田は風呂キャンセル界隈になりそうな要素だらけの人間である。(未診断だがadhdの傾向があるので)ただし、衛生観念が戦ってくれているおかげで次の日家出る予定がない日以外は今の所キャンセルせずにすんでいる。とはいえ「風呂はいらなきゃな」と思いながらダラダラスマホみて睡眠時間が極端に削られたり、もしくは寝落ちしてしまって次の朝慌ててはいることも多いのだが…
週に何度かはすんなりと風呂に入ることができる。最近は風呂に入るコツを掴んできて、それは「風呂に入ろうと決意した瞬間全ての服をぬぎスッポンポンになること」。普段ベッドで永遠に寝転がってスマホをみているが、全裸で寝転びたくないという気持ちになり、じゃあ風呂に入るかということになる。フェイスタオル2枚(バスタオルは乾かないから使わない)と下着だけ準備して、何も考えずに風呂場に入り、シャワーで頭を濡らせばもう引き返せない。こうして増田の清潔は保たれている。
さて、表題の件。そうやって風呂(というかシャワー)が終わり、フェイスタオルの1枚目で体を拭き、2枚目で頭を拭く。そして2枚めを頭にまき、下着を着る。問題はこのあとで、すぐにドライヤーすればいいのに、タオルを頭にまいたままスマホを見はじめて、平気で1時間とか放置してしまう。頭皮に悪いんだろうなと思いながら、どうしても洗面台に戻る気になれない。
ドライヤーほど面倒くさいものはない、頭は熱くなるし、時間もかかるし、ドライヤーって地味に重いし。多分風呂キャンセルしている人たちもキャンセルの理由の1つってドライヤーなんじゃないかと思う。今は少しでも時間を短くしようと家電屋にあった中で一番風が強かったちょい高めのを使っているが、それでも面倒くさいものは面倒くさいのだ。頭にタオル巻いておけば少しは時短になるのだが、それにしても1時間も巻いている必要はどうしたってない。
まあ1時間後にドライヤーするのはだいぶいい方で、たまに頭にタオルまいたまま寝落ちしてしまうことがある。正真正銘ドライヤーキャンセル界隈。目が覚めて気持ち悪く湿った髪に気がついたときの絶望は半端ない。風呂入り直そかな?と思うが、それはそれで面倒くさいし……結局ちょっと不衛生な状態で、朝から適当にドライヤーしてやり過ごす。生臭くないといいな、とおもいながら、結局自分の匂いなんて自分では気がつけないから、そのままやり過ごす。
今こんなことを書きながら、頭の上にはタオルがのっている。「この内容を登録する」ボタンを押したら、すぐに洗面台に行ってドライヤーするんだ。絶対に、絶対に今日はやり遂げてみせる、ここに決意を表明する。
日本の喫茶店のコーヒー豆って基本的には同じ所から買ってきてて
それをいかにコーヒーとして美味しく出すかが腕の見せ所だったので
ペーパードリップしたりネルドリップしたりブレンドしたり水出ししたりしてたんだよね
日本は立地のせいでコーヒー豆の販路が限られてるからしょうがなかったし
ぶっちゃけ煙草吸いながら飲むオッサンの飲み物っていう感じだったからそれで良かった
で、スターバックスはコーヒー豆の管理を確立して世界進出してきた黒船であって
スペシャルティコーヒーの日本における先駆けだったと思ってる
途中から路線変更してコーヒーよりもエスプレッソ系やオリジナルドリンク系になったけど
今でもスタバのコーヒー豆はスペシャルティだし時期によってはかなりクオリティが高い
リザーブドとかは日本の喫茶店だと太刀打ちできないレベルの豆を揃えてる
あと、コーヒーの味がよくわからんっていう人が多いけど、ぶっちゃけコーヒーの味ってほとんど苦みしかなくて
要するに紅茶とかと一緒で香りを楽しむものなので味について語っても意味が無いと思うよ
昔はあからさまに意地の悪い嫌がらせをする奴はいたけど、今みたいに、まったくなんの悪気もなく喜ばれると思ってズレたことする奴はあんまりいなかった。
確実に知能指数は下がってるんだろうな。
スタバのコーヒーが不味いとは思わないけどなんか口に合わないんだよねえ
他のコーヒーチェーンはそんなに美味しくないけどまあこんなもんかという感じで飲みやすい
なんというかスタバのは丸くてツルンとして苦い、という感じで(最近飲んでないから記憶にある限りだけど)、もう少し引っかかりが欲しいなと感じる
チェーンの中だと(カフェじゃないけど)セブンの珈琲のが好きだな
なんだろ、お茶っぽさが若干あるのが好きなのかも
「ヘイ!ワンダラー!」みたいにガンガン観光客に土産物を売るイメージ。それから、「スエズ運河もってるぜガハハ」みたいな雑な感じ。
古代文明への誇りとかも薄そう。
民族も宗教も何度もアップデートされてるから、直接の先祖というより、先住民の遺物として大事にしてる的な。
友人が同人活動にハマった。かれこれ3年ハマっている。友人が同人活動にハマるまではよく遊んでいた。国内外旅行へ行ったし、誘えば二つ返事で来てくれた。仕事終わりに飲みに行き、オールしたり、なんなら突発的にホテルとって泊まって語り明かしたりした。
そんな友人がある日突然、「久しぶりにハマるジャンル見つけた」と言った。
自分も教えてもらって一緒に履修した。自分はそこまでそのジャンルにハマりはしなかったが、話としては楽しくて映画化した時は一緒に観に行ったくらいだ。友人は何度も見ていて、一緒に映画を観た帰りも飲みながら感想や考察をして盛り上がり、夜更かしをし、次の日慌てて互いに仕事に行ったものだ。
友人はそのジャンルの同人活動……いわゆる二次創作に手を出した。「自分の胸の中にある熱い思いをとにかく形にしたい」と言い、iPadを購入し、絵の勉強をしながらイラストを描き、そして漫画の練習も始めた。最初はなかなかうまくいかずにいたが、それでも時間をかけて頑張ってつくり、とうとう形として生まれた。自分はその話を聞いて喜び、頑張ったねと言い、お祝いもかねて食事をした。それが3年前。
2年前。友人は同ジャンルの人たちを交流を持つようになった。SNSで仲良くしていたのだがそのうちの一人と住まいが近いことが分かり、オフでも頻繁に会うようになった。その人はいわゆる「神絵師」だったらしく、友人は絵の描き方や漫画の描き方、ソフトの使い方などのノウハウを受け、また神絵師と仲良くしていると同ジャンル内の人とも更に交流を持つようになっていた。もともと友人は明るく分け隔てなく付き合うタイプだったのもあり、イベント後のオフ会でたくさんの人と仲良くなって帰ってきていた。
この頃から友人との会話はジャンル内の友人の話、漫画の原稿の話がメインとなっていった。
1年前くらいからか。自分から遊びに誘っても「原稿の締め切りが」と言われることが多くなった。友人が楽しんでいるのであれば頑張って欲しいと思い見守っていた。締め切りギリギリになっても入稿し、本として形となり、新刊としてイベントに出た時にテーブルの上に並ぶ。友人はとても嬉しそうにしており、界隈の人たちとも仲良く楽しく過ごしているのがSNSからも伝わってきた。時々ボイスチャット付きのゲームをしながら遊んでいても、その楽しい気持ちと雰囲気は音声に乗って自分の耳に伝わってくる。楽しそうでよかった、そう思っていつも話を聞いていた。
つい最近。友人を遊びに誘ったところ、断られてしまった。1年前の「原稿の締め切りが間に合わない」と言われたあの日を最初に数えると、とうとう両手で足りるかどうかの回数になっていた。断られる際に「きみの予定や時間が余ったら誘ってくれ」と言い、友人は「分かった、絶対に誘う」と言ってくれていた。しかしついに友人からの誘いはなく、SNSを見ていると界隈の友人を誘ったり突発的な飲みを開催して楽しんでいた。
気付かないふりをしていたが、自分は同人活動という趣味に負けてしまったのだと思った。
もしかしたら自分が友人に嫌われていたのかもしれない。そうじゃなかったとして、友人は今とてもハマっているジャンルが楽しくて仕方ないのかもしれない。友人は漫画を描きながら「こんなにハマったのは初めて」「今すごく楽しい」「こんなに楽しいことあるんだ」とよく言っていた。趣味をとても楽しんでいる様子で、自分はそんな姿を見ているのが楽しかった。よかったな、もっと楽しんでおいで。そう思っていた。
けれど友人から見て自分は趣味よりも下に見られているんだと気付いてしまった今、正直いままでと同じように接するのは難しいと思った。
自分が友人に対して距離感を間違っているのはあると思う。しかし同人活動はあくまで趣味だ。新しい本を常に出さなくてはいけない理由も義務もない、そこで金銭の損害が発生するわけではない。でもイベントで新しい本をテーブルの上に置き、誰かが手に取ってくれるのを目の前で見る喜びは何物にも代えがたく、今まで原稿と向き合ってきた時間が報われるものだろう。分かっている。分かっているからこそ、人との約束を反故してまで優先すべき趣味なのかと思ってしまった。
晴生の令和2年冬の、おわったおさんとの会合後の説明によると、本件怪文書は、オヤジたちで作るものである、という発言があり、ここでいう、オヤジというのは、当然、刑務官の長谷川が筆頭
であることは言うまでもなく、長谷川が最終的に作り上げた原告に存する精神障害の概要というものは次のとおりである。
昭和63年4月、4歳のときに2歳の弟と一緒にゆりかご保育所に入れ込んだが、弟は保育所で話すのに独りだけ会話をしない。インフルエンザのついでに小児科にかかったところ
広汎性発達障害であると診断された。 中略 刑務所を満期出所してから症状は更に酷くなり、専門の医師に相談したところ、アスペルガー症候群と統合失調症であると指摘された。
これに基づいて、延岡市の精神科、野田省治が作成した診断書の概要は、 妄想 自閉、感情平板化、意欲の減退、 強い統合失調症で長期の治療を必要とする
平成31年1月7日に精神障害手帳の更新として飯沼病院の医師は次のように書いた。 統合失調症を抹消し、アスペルガー症候群
統合失調症は主体となっておらず、発達障害が前景にある。 令和3年2月24日(立野)
厚生労働省の裁決で高野伸が最終的に認めたものは次のものである。 気に入らないことがあると大声を上げるし、服薬をしないと眠れないなどあり。 令和2年1月31日
近年、令和6年の状況 昔は、 晴生が統制していたので、 大声を上げる、とされていたが、 最近は、
近隣、荒川河川敷等で深夜帯に大声で自分の意見を言っておりそのたびに通報が入っており、志村警察署相談係■■氏(内線 ) ねっとり
で決めつけられており、
遅まきながらフワちゃんの件を知ってみているのだけれど、非常に混乱している。
フワちゃんのあれはイジりだいや裏アカ誤爆だと両者が両者それなりの規模居るみたい。やすこが悪い説までいくととても謎だ。
自分の主観ではあれをイジり芸とは受け取れず、(本人も言うように)裏でもリアル周囲にでもこっそりやろうとしたやつの誤爆だと思っている。
もう最近はテレビで芸人バラエティをガッツリ見ることは久しくなくて、フワちゃんすらGoogleのCMでしか存在を知らない程度の人間だけど、自分が子供のときと比べてすごくクリーンになっているのは感じる。
ダウンタウンの二人が古くてあたりがキツいなぁと感じるぐらいには感性が変わった。BPOのお叱りでいろんなことが自粛され、漫才で頭を叩くことすらもう消えそうだったと思う。
そんななか、最近?新たらしい新星のフワちゃんはクリーンな今の新時代の、さらに一歩先の変革を体現する存在、だと自分は認識している。実際に動いてるところを見たことが無いので風評になるが、そういうキャラだと思っている。失礼キャラ?に似せた新しいなにかだと。
そういう新世代のキャラがいまどきのテレビに出て、芸人として過ごす中で、「死んで」というワードを『芸人として』チョイスするかはとてもとてもとても疑問だ。
もちろん、やすこさんの「生きてるだけ」という言葉にかけて、という文脈を理解しておかなければならないが、それでもテレビ業界でのし上がってきた芸人のとっさでもない文章入力でこの辺の『危険な匂い』をいじり芸する前に気付けなかったのは不自然だ。
自分はフワちゃんを知らないが、今回の件で炎上するということは日常的に「死んで」というワードをフワちゃんがいじり芸の武器として使ってこなかったことの証左であると考える。イメージでも、今のテレビ番組で「いや死ねよ」なんてドギツイ突っ込みをしているのは、ダウンタウンなど古い世代を除いてイメージにない。
自分が学生のころは「いや死ねよ」と突っ込みする雰囲気はあった。多分してた。今の学生でもリアルではあるんだろう。でもテレビで「いや死ねよ」のイメージは、ない。「死んでください」だってフワちゃんの失礼キャラのイメージでも、ない。
テレビでしない・できない発言をラジオやネットやyoutubeでする、というのは確かにあるものの、フワちゃんがそういう発言をするキャラじゃないことはフワちゃんが一番分かっていると思う。見られ方・受け取られ方に鈍感なタレントは少ないだろうし、フワちゃんはさらに薄氷を踏むような道を駆け抜けるバランス感覚が武器な芸人だったはずだ(見てないので憶測100%)。
超高難易度の綱渡りをしている雑技団の人が、突然バランスをとるために使っていた棒をバランス無視してこちらに突き刺してきたら、「すごい!綱渡りの芸だ!」と思う人はまずいないだろう。
素人でも一目で分かる使っちゃいけないワードを使った時点で一発レッドと容易に断じられるのだが。これが同じくテレビでいじりに使わないだろうワード、「障がい者になってパラリンピックでも優勝してくださーい」でもいじり芸として認識されたのだろうか?
注目の科学論文数、日本は過去最低の13位 1位中国、2位米国
増田は某国立大学の工学部で教鞭をとる40代の准教授である。その視点からの話であることはご承知おきたい。
こういう記事のブクマには政策が悪いとか選択と集中が悪いとか色々つくが、社会が構造的に「向いていない」という話を書きたくてここに書く。
みんな気になるだろうから、これを先に書く。
最近になってにわかに科学研究が大事ということになって色々な研究予算が付くようになった。工学部だと企業との共同研究のお話なんかももらえるので、えり好みしなければ研究費を取りやすい環境にある。
どういうことかというと、この手のお金は期限がついていたり使途が決まっていたり、いろいろと紐がついている。そして、必要なところには回せないことが大半なのだ。
例えば人件費。民間企業ではありえないことだが、国立大が人ひとりを無期雇用で雇うためには、退職までの予算を確保することが必須なのだ。国からの運営費交付金や寄付金のような、必ず退職まで支払われることが確実な予算で裏付けないと無期雇用の人を雇えない。民間企業なら、人を雇うときに予め退職までの給料を積み立てておくというようなことはせず、営業を頑張って給料を払うだけの売り上げを確保するものだと思うが、国立大ではそういうわけにはいかない。色々な企業との共同研究を締結し、外部資金を獲得して、その人の給料を確保する、仮にできなかったら身銭を切ると教授が宣言しても、そういう期限付きの契約では無期雇用の人を雇えないのだ。
秘書や事務職員ならまだしも実験機材を維持管理する技術職員とか、研究員とかもこの縛りを受けるので、必要な人を必要なだけ確保することができない。運営費交付金は人件費だけでなく建物や設備の営繕にも使われるのだから、やれ70年代80年代に建てられた校舎の改築だとか、光熱水費だとか、とにかく運営費交付金の増額が望めず物価が上昇し続ける昨今、大学にはお金が無いのだ。
ちなみに、外部資金をたくさん取ってきたからと言って自由に使えるわけでもない。大概の研究費は他の外部資金と混ぜて使ってはいけない縛りがあるので、例えば研究費A で岡山の学会へ行き、次の日から研究費Bで広島の共同研究先で実験をする、みたいな場合でも、いったん大阪の自宅へ帰って一晩滞在することで研究費を分けないといけない。実験機材も合わせて購入するということはできない。100万円の研究費をふたつつかって150万円の機材を買うことはできないのだ。これが研究費は増えてもお金が無い、という事情の内幕である。
昔からアルバイトに熱心な学生やサークル活動に精を出しすぎな学生は確かにいた。最近は就職活動に時間をかけすぎな学生が多い。夏休みはおろか授業期間中もインターンにかかりきりだし、ウェブテストの後で何度も面接をさせられ、いきおい、学生は疲弊している。日中の貴重な時間を研究室ではなく就活に費やし、奨学金や親からの仕送りでは足りない学生はアルバイトまでしているのだから、卒論や修論の質は落ちる。企業はガクチカとか聞く前に、理系の学生を研究室で研究させてあげてほしい。学部生の卒論は半年から1年しか期間が無いのに最後の数か月を除いて就活とまるかぶりだし、2年間しかない修士課程の1年は就職活動で消えている現状で、大学から研究成果が出ないと言われても、どうしようもない。
研究というのは、専門書を読み、先行研究を調べ、仮説を立て、手を動かして仮説を検証し、その結果を文書にまとめるサイクルである。これがきちんとできる学生であれば、どんな仕事に就いても立派に働ける。たぶん。
というか、企業の採用も、もっと必要な資格や能力を具体的に書いてほしい。今どきの学生は真面目なので、特定の資格を持っていると就職に有利だとわかればそれを取るようになる。大学だって国の資格などであれば学科免除などを取りに行って「就職に有利」みたいな売り文句で学生を集めやすい。どんな企業だって欲しい資格や能力は採用時点で分かっているはずなのだから、それくらい明かしてくれてもよかろう。
博士課程の大学院生、というのは研究を進めるうえで大変貴重な戦力である。なにしろある程度は自力で研究を進めてくれるし、そのレベルも論文として世に問えるものである。
ところが、である。ちょっと考えてほしいのが博士課程の魅力だ。日本の博士課程は、基本的には学費を納入して「学ばせてもらう」スタイルである。その分研究テーマの自由度は高いし専門性を高めやすい。一方で、ある程度経済的に恵まれていないと、3年間の生活をどう工面するかという問題が常に付きまとってしまう。最近は、学振の特別研究員のような昔からある登竜門的に限らず、各大学の工夫や国の政策で博士課程進学者を経済的に援助する仕組みが整い始めている。とはいえ、それらに通らなければ学費や生活費を調達せねばならないし、採否の通知は年度末か入学後なので、まったく安心できない。どれほど優秀であろうと研究に向いていようと、金がない学生は就活するしかないのだ。
さらに、就活に際しても博士課程は買ってもらえない。就活サイトを見ればわかるが、技術職採用でも研究職採用でも、博士号持ちの人の初任給は明示されない。修士課程の初任給しか書かれていない。これを見た学生は、修士号持ちと博士号持ちの初任給は同額だと理解する。聞くところによると、博士号持ちの初任給は修士号の入社三年目くらいかそれ以上らしいのだが、書かれていない情報などあてにできないので、就活する側からみると前述の理解となる。これでは、博士号を取っても何も良いことはなさそうである。
欧米ではではの出羽守だが、海の向こうでは、博士課程というのはプロジェクトから人件費を支給される研究員である。仕事の扱いだから労基法にも守られる。しかも、博士号を取れば仕事の口も増えるし給料も上がる。
ドイツなんかに行くと、博士号持ちは英語さえ話せれば仕事に就けるが、修士号まではドイツ語を話せないと仕事がない。Dr. と表札に書けるオマケはさておくにしても、それくらい社会的な扱いに差があるのだ。もちろん、給与の出どころである研究プロジェクトが終わると別のプロジェクトで雇われるまで博士課程を続けられないとか、プロジェクトの元締めである指導教員と相性が悪いと人生大惨事になるとか、いろいろなデメリットもあるが「博士課程の研究員」という仕事に就いている扱いなので、無理だと思うとみんな中途採用で企業に転職したりする。それくらい、普通の仕事の扱いであれば進学者も増えるだろうし、博士号を取っておけば食うに困らないくらいの扱いになってくれれば、みんな喜んで進学してくれるんじゃないかと思うがいかがだろうか。
大学に安定的な予算が十分ないために人を雇えないという話を最初に書いたが、そのツケをどう払っているかというと、パーマネントの教職員が頑張って回している。いや、有期雇用の教職員にやらせることもあるけど。来年度には任期切れで退職するような教員に入試問題を作らせたりされてよいものか?高校への出前講座とかアウトリーチ活動が必要だと言われたときに来年退職する先生を送り込んで誰が進学してくれるのか?定年退職した技術職員の後任は予算不足で雇えませんでした、となったときに機材の修繕を誰がやるのか?それでなくても、学生の就職や研究指導の面倒は必須である。
というわけで、大学の先生は講義以外にもやることがだくさんあるのだ。とても研究をしている場合ではない。雑務と呼ぶ人もいるが、講義や研究以外にも誰かがやらねばいけない仕事なのだから「雑」はないだろう。とはいえ、昔は若手の教員がやっていたような事柄も、若手ほど任期付きになってしまったのでシニアの教員がやらねばならなかったり、幸運にも無期雇用を勝ち取った若手に集中してきたりするので、DXで仕事の効率が2倍になっても仕事は3倍に増えるのだ。偉い先生方は偉い先生方で、改革と称して新しい企画を立てないと予算をくれなくなったので、朝令暮改もいいところのマイナーチェンジでお茶を濁したような企画書をいかに気宇壮大に書き直して追加予算をゲットするかに時間を使っている。夏休みも暇かといえばさにあらず、老いも若きも科研費などの外部資金の申請書と格闘している。倍率が10倍近くても、何とかして手に入れないと満足に研究ができないのだから仕方がない。
ちなみに、大学によって、また学部学科によって異なるが、国立大の教員が競争的資金なしに受け取れる、平たく言うと自由裁量経費みたいなものは、年10万~30万円くらいである。国際学会の参加費が10万円を超え、海外の論文誌の投稿料も10万円くらい取られるこのご時世に、である。どれほど世紀の大発見をしようとも、世に問うためには論文化して論文誌に掲載されねばならず、掲載されるためには投稿料を払わねばならないのだ。そして、その投稿料ともらえる経費がほぼ同額ということは、外部資金が無ければ研究 XOR 投稿という選択肢になってしまう。日本の論文誌であればもう少し安く、数万円で済む。ただ、そういうところに掲載されても「注目の科学論文数」にカウントされることはない。これが現状である。
それにしても、研究をして論文を書いて世に問うためには先立つものが必要で、それが外部資金が無ければ全く足りていない、という状況であるにもかかわらず、外部資金を取るためには論文を世に出さねばならないというのは何とも困ったものである。このあたりの必要経費と割り当て予算のアンバランスはどうにかならないものだろうか。
というわけで、大学の先生というのは、外部資金が無ければ研究ができないために年中予算の確保に腐心しており講義や学生指導は当然やるのだから、研究をしている暇はない。その先生を雇うお金はもちろんそれを支えるスタッフを雇う予算すら、外部資金のようなひも付き予算からは支出できないために全学的に人手不足の状況で、この傾向は悪化こそすれ当面改善する気配はない。代わって研究の主力となりえるのは博士課程の大学院生くらいだが、日本人の学生ほどこっち方面のキャリアに魅力を感じずに就職してしまう。それどころか就職活動は過去にもまして無暗と時間を食うような仕組みになってきており、研究活動でスキルアップさせようもない。これが日本社会の現状である。
もちろん購入時には億ションにはかなり程遠い金額でローンを組んでいる。
しかし最近のマンション価格の高騰によりうちのようなマンションでも中古価格が値上がりしているようだ。
でもうちは投資として買ったわけではないし他に住む家もない。
最近、生成AIに対して「電気の無駄遣いだ」という批判を目にするようになった。ちょっと前のマイニングと同じような感じだ。
この系の批判を見るたびに疑問に思ってるんだが、新技術なのだから電力を使うのは当たり前では。
例えば仮に”全自動洗濯物折り畳み機”が開発されたとしよう。当然全世界で普及し莫大な電気を消費するようになる、だがこれは無駄遣いなのか?
これが無駄遣いというのなら洗濯機はどうなんだろうか、ほかの家電は良いの?
こういう事を言うと「家電は生活に不可欠」と言われそうだが、じゃあゲーム機はどうなんだろうか。あれもかなりの電気を使っていそうだが。
先日、猫島と呼ばれるところへ行ってきた。
猫を飼ったりしたことはないけれど、初めて猫に餌をあげて何匹もやってくるのはすごく心地が良かった。
猫島と呼ばれるくらいなので、人慣れしてるから登ってこようとするような猫もいる中で、猫を抱っこすることはおろか、撫でることすら出来なかった。
多分、猫に拒絶されるのが怖いんだなと。
人間に対しても距離感が掴むのが苦手な私だが、猫に対してもそう思ってしまうんだなって思った。
と言う話を友人にしたところ、親友と呼べるような友人から「なんでもコンプレックスに繋げるのやめない?」と言われた。
別に、真剣に嫌がられているトーンで話されてたわけじゃないけれど、自分の人間性に嫌になってしまった。
直近で、違う友人にも同じことを言われたこともある。
多分、正常な人には理解されないと思うのだけれど、この思考回路を単純にはやめられないというか、何事も全てコンプレックスに繋がってしまうのだから、本当にどうしようもないのだ。
例えば、料理屋で美味しいものを食べた時、食事が好きな人は「料理が美味しくて幸せ」という感情になると思うのだけど、私は「こんなに美味しいものを作る人がいるのに、自分は大したものが作れないな」と考えてしまう。
誰かの活躍なんて聞きたくない。
20代に出会った友人たちは、色々あって縁が切れているが、界隈的には活躍してる人も多いと思う(ネットを通じて嫌でも見てしまうことがある)が、知りたくないからなるべく触れないようにしてる。
最近はフィクションである物語作品を見ていても、登場人物と自分を比較してしまい、精神が参ってしまう。
それを冗談めかして数少ない友人へたまに話すことによって自分の精神の安定を計っていたが、相手もどこまで真剣に言っていたかはわからないけど、やめない?と言われたからには、もちろん控えるつもりだ。
吐き出す場も無くなってしまい、どうしようもなくなってしまい、こうしてはてな匿名ダイアリーに書いている。
よくストレス発散には「散歩して、美味しい料理を食べ、趣味に没頭する」(例はさておき)みたいな話がある。
でも私は散歩しても「無駄な時間を過ごしてしまった」と思うし、美味しい料理を食べてもさっきのようにコンプレックスが刺激されるし、そもそも没頭できる趣味はない。
趣味的なものは、全て「自分よりできる人、詳しい人はたくさんいる」と思って続くものは一つもない。
現在、人生最長記録である2年半くらい続いたものも、だいぶコンプレックスが刺激されてきて嫌になってしまったので、正直やめようかと悩んでいる。
多分こんな極端な思考回路な人は少数だと思うから、共感されないことはわかっているが、もし共感ができる人がいるならば、どうやって精神の安定を保っているかを教えて欲しい。
NISAから投資始めた様な奴って、なんでネットで「無知蒙昧たる其方に世界の真理を教えてたもるぞ」って絡んでくる様な奴多いの?
SNSで貯金に関するあるタレントの発言(別に投資を否定してない、それとはきり分けて貯蓄の重要性に焦点を絞ったもの)に「それっていい考えですね」って言ったら、リプライで「インフレがあるのにどうするの」とか、まー絡んでくるわくるわ。
言い返したら延々絡んでくると思ったからスルーしたけど、「投資してない」とは一言も言ってねーし。
なんだったらもう5年目だっつーの。
俺も投資に関してはそれなり考えあるけど、スタンスとしては「聞かれたら答える」に留める様にしてるよ。
「自分がリスク負わないのに、他人にリスク負わせる様に薦める、しかも聞かれてもないのに」っていうのは基本無責任で、なんなら邪悪寄りだと思ってるんで。
でもなんかさ、はてなでもそうだけど、貯金してるってコメ見ただけで「ニッポンコインにフルベットとかギャンブラーですね」だの「インフレで金が減るのわかってんの?」だの煽るコメ書くやついてさ、そんなの他の人の財産はその人が自由に管理すべきで、手を突っ込むべきじゃないじゃん。
大体、投資やるんでも、個別銘柄の決算見たり指標見たりしてポートフォリオ組んでるようなガチ勢はそういうこと言わんくて、大体あれだ、NISAから始めた様なやつに限って貯金って聞くだけで上から目線で煽りコメントするんだよな。
やめた方がいいよそういうの。
俺だってもう投資やってるから「こいつらアホだな」ってなったけど、やってなくって投資に懐疑的な目で見てる立場で煽られたら「あ。やんなきゃ」って絶対なんないよ、むしろ「絶対やんない。いつか吠え面かけ」って思うだけよそんなの。
だから、投資に関してコメントするなとは言わないから、「あーコイツやってないなー」って思っただけで煽りコメントするのやめなって。
俺はテレビ見ないしYouTubeもプレミア会員だからCM見る機会ないし
女さんに配慮してイケメンしか出さなければいいのにって思うんだよね女さんは最近降板させられたフワちゃんでも何でも好きなの出してりゃ良いと思う
言い方とか態度とかじゃないのかな。あとは、目的によるのでは。
最近、X (twitter)で「店員の態度が悪い」という人の話を見たのを思い出した。
常々「店員の態度が悪い」と主張する友達がいて、その友達が切符をなくしたことを駅員に話に行ったところをポスト主が見ていたら、駅員に喧嘩を売るような話し方をしてポスト主が慌てて間に入って、丁寧に説明したら駅員が配慮してくれたみたいなことが書いてあったなと。
だから、ポスト主は「店員の態度が悪い」という人はそれ以前にお前の態度が悪いんじゃないか?と思うらしい。
別に主義主張は構わないけれど、わざわざ誰かを不快にさせるような言い方をする必要はないんじゃないかなみたいな話。
あと、大人同士の討論番組みたいなのを昔見ていたら、左翼活動家の方が「そんなことしたら官僚に使われちゃうじゃないですか?!」みたいなことを言っていて、ハァ?って思ったこともあったな。
社会活動家の人が政権にも受け入れやすそうな形でのいろんな政策提案をしているという話をしたときの左翼活動家の方の反応だけど。