はてなキーワード: 文学的とは
最近映画を見に行った。映画館ではクラスターが発生していないというネットの情報を鵜呑みにして出かけた(これは予防線)
まあ久々の映画。開場時間と共に入り20分近く映画の広告を見続けました。まあ気持ち悪い。美男美女がひっついてイチャイチャするだけの、うすっぺらーい映画ばかりでね。20そこらの女ですが腹が立ちましたよ。
元から邦画って苦手なんですよ。なぜかというとそれに影響されたバカがきっしょいポエムをTwitter、LINEで垂れ流す。同じような言葉で愛を囁き、触れてくるんですよ。女なら撫でられると嬉しい、男なら料理を作られると嬉しい。まるでそれが正解であるかのように。(ジェンダー論ではないです。人間ならそりゃ撫でられたり、恋人の作ったあたたかい料理を食べられたりするのは嬉しいだろう。ただそれが普通、量産化されており、恋人のあり方として正解というのが気持ち悪い)
正直夏目漱石の月が綺麗ですねを流用するアホも嫌い。文学的じゃねーよ。
同じような映画が多くて
それに影響された自分の考えもない量産化された人間が多いっていうのを
嘆きたかっただけ
寒い寒いと言いながら、三時のおやつでも食べようかとリビングに降りてきた私に、キッチンから父がボソッと声をかけた。
「エアコンなら、母さんが業者呼んで清掃してからじゃなきゃ使わん言ってたから、つけたら怒られるぞ」
はぁ?という顔をしている私に、いらんといったのが聞こえなかったのか、みかんを手渡しながら父が言う。
「なんで寒くなる前にやっとかんかったんだって話よな。そんなこと言ったら、怒られるから絶対言わんけど」
からからと笑う父。手に持つマグカップには湯気の立つコーヒー。テーブルに目をやると、みかんの皮が散乱している。
ソファの背もたれにかかっていたひざ掛けを腰に巻いて、リビングのテーブルにつく。渡されたみかんを揉みながら、
頼むより先に父はグラインダーに豆を入れていた。ブィーンという無機質な音が部屋に響く。
「みさちゃん、昨日の夜酔っぱらって、そこまで聞けんかったけど。この後どうすんの。そこらへん、母さんとは話したんか?」
「うーん」
どうしたものかと私は少し考えた。昨夜、久々に帰省した私のために、自宅ではささやかな歓迎会が催された(とはいっても少し豪華な寿司の出前をとったくらいだが)。食事を終えて、家族三人テレビを見ながらダラダラとお酒を飲んでいたのだが、父は早々かつ静かにリビングのソファに沈んだ。腹に猫を乗せて、スマホのバイブほどの小さな音量でいびきをかきながら寝る父をそのままに、母とは今後の話をある程度した。正味二時間ほどかかったその話を、今父にするにはまだ話をまとめ切れていない。母からは同姓として理解は得られても、父にはこの冗長な割に何も決まっていない私の現状を伝えても、ただ心配を駆り立てるだけではと不安になったのだ。
「まぁ暫くは休むよ。貯金もあるし。今はまだ動けん気がするし、何より少し疲れたわ」
みかんの皮をむきながら、はぐらかすようにそう答えると、コーヒーを入れる父の手に視線を移した。暫く見ない間にまた年季が入ったなぁと、ふとそんなことを考えた。
ここ数年、私(輝く三十代独身)はアメリカ西海岸の小さな広告代理店で仕事をしていた。小資本の飲食店や小売店なんかがメイン顧客だったので、今回のコロナによる各種制限後はほどんと仕事がなく、一部制限解除後もほとんどの店はコマーシャルを打つ余力はなかった。片手間に作っていた無料情報誌なんかは、コロナ対策のコラム等を差し込みつつほそぼそと発行を続けていたけれど、いつしかそれも限界に。結果、私はあえなく「状況が良くなったらまた声をかけるから、必ず戻ってきて」とお決まりのコメントと共にレイオフの網にかかったのである。こんな状況ですら私を限界まで雇い続けてくれた会社には感謝しかないが。
解雇後「とりあえず一旦リセットだな」と考えた私は、実家に帰ることにした。異性関係は、現地で交際していた男性と二年ほど前に別れた後はパッタリだったし、行きつけのチャイニーズレストランもコロナで潰れたので、かの地に私を繋ぎ止めるものはもう何もなかった。大卒後から今までずっと海外でもがいてきたこともあり、このひっくり返った世界を口実に、このタイミングで実家でゴロゴロしてやろうと、そういうことである。しかし状況が状況なので、帰国を決断した後も、やれ渡航制限だ、やれチケットの予約だと色んなことがうまく繋がらず、なかなか出国することができなかった。ようやく帰国の日取りが決まったころ、
「帰るで」
ポッと送ったLINEに、
「車で迎え行く!楽しみ!おめかししてく!」
と還暦も半分過ぎた母はノリノリで返信したにも関わらず、当日派手に寝坊した。私が期待していた、到着ロビーでの感動の再会(BGM:青春の輝き/The carpenters)は叶わず。実に四年ぶりの帰国はなんとも味気のなく、一人公共交通機関でと相成ったのである。
「あれな、『コロナだし、やっぱ行かん方がいいと思って』って言い訳しとった」
私の分のコーヒーを手渡しながら、けらけらと父は笑った。
「ほんと昔から適当な人。あんなんと結婚した意味が分からん。初恋の人とか言わんでよ?」
私が次のみかんに手を伸ばしながら言うと、
「初恋かぁ……」
ギリギリ聞き取れるくらいの声でボソッと言った後、父は一人モジモジしながら下を向いた。思えば父と母がイギリスで出会ったという話は聞いたことがあるが、初恋話となると聞いたことがない。恐らくこの人の初恋は母とは別の人と思うが、どうせ時間もあるし、掘れば面白い話が聞けるかも知れないと思った私は、
「そしたら、父さんの初恋っていつよ?」
別に話したくなければいいですよ、ええ。と二個目のみかんの皮をむきながら、興味なさげに聞いてみた。暫く返答がないので視線を上げると、相変わらずモジモジしながら、父は照れくさそうに顔を上げた。
「お墓に持っていくほどのものでもないし、話してもいいか。母さんには内緒だぞ?」
言うと父はテーブルの上のみかんの皮をまとめてゴミ箱に入れると、ゆっくりと向かいの席に着いた。
(結局話したいんでしょうに……)
「みさちゃんも墓参りの時に行った叔父さんの家、まぁあれは父さんの実家でもあるわけだけど、裏手に階段あったやろ。急なやつ。あそこを登ると昔図書館があったんよ。市立だか県立だか忘れたけど、そこそこ立派なやつがね。父さんは大学の受験勉強を毎日そこでしてたんだ。家だと兄弟たちがうるさいから」
父の実家は西日本の某所。坂の多い海辺の町だった。遠方であることもあり、私は小学校高学年の時に祖父母の墓参りに行ったのが最後、以来そこには行っていない。
「そこの自習室がさ、海に向かって大きな窓があって。部屋にストーブがあったけど、やっぱり窓が大きかったせいかな。冬場はすごい寒かった。でもそのおかげで利用者が少なくてね。少し寒いくらいの方が頭も冴えるし、父さんはそこを好んで使ったんだ。あともう一つ、別の理由もあったんだけど」
父はそわそわと立ち上がると、コーヒーのおかわりだろうか、電気ケトルに水を入れて沸かし始めた。ケトルがお湯を沸かし始める音が、私の想像の中の自習室のストーブの音と重なる。父はそのままケトルのそばから離れず、窓の外に目をやりながら続けた。
「父さんともう一人、その自習室を使う女の子がいたんだ。とても綺麗な、束ねた長い髪が印象的な子だったよ」
突如文学的な表現をし始めた父をみて(これはキモイな……)と思った。初恋話を聞くのにある程度の覚悟はしていたものの、父の口から語られるそれは、なんとも中途半端な恋愛小説のようで、
(これは、脳内でキレイどころの女優さんでもキャスティングして、程よく補完しながらでないと聞くに堪えないな)
そんなことを考えながら、みかんを口に放り込んで聞いた。
「それが初恋の人?思ったよりチープな感じ」
「最後まで聞けよ。みさちゃんが聞いたんだし、父さんにとっては大切な青春の1ページだぞっ!」
父はムッとした表情で言った。
「隣の高校の女の子だったんだ。同じく受験生だった。頭のいい子でね。その部屋で一緒になった最初の数回は会話がなかったんだけど、ある時勇気を出して話かけたんだ。『どこの大学を目指してるんですか』ってね」
「ほうほう。で?」
「目指してる大学が一緒だったんだ。まぁ、彼女は余裕の合格圏内。父さんは相当な努力を要するくらいの差はあったけれどね。彼女は英語系の学部に進みたいと言っていた。将来は海外に行きたいと。当時ボーっと生きていた父さんと違って、明確な夢を持っていた彼女はとても輝いていてね。ほら、男って単純だから、一発で惚れちゃったんだ。同じ大学を目指す二人。一緒に勉強する自習室。これは、もう、そういうことだろうってね」
「馬鹿なのではなかろうか」
「いや、馬鹿でなくて!」
父は鼻息荒く私を遮り、
「たしかに最初は一方的なものだったさ。けれど、一緒に勉強……というかほぼ父さんが教わるだけだったけれど、毎日のように、約束して、同じ時間を過ごして、そういう感じになったんだ。『一緒に合格しようね』とか『一人暮らしする時は、近くに住もう』とか、これはっ!もうっ!そういうことでしょうがっ!」
若干の金八先生口調になりながらまくし立てた。
「彼女の教え方が本当にうまいもんだから、ギリギリの成績だった父さんも合格圏内に入るくらいになったんだ。夢の大学生活は目の前だった。ある雪の積もった日、勉強を教えてくれたお礼に、図書館の近くでラーメンを奢ったんだ。温かいものでも食べようってね。その帰り道、初めて手を繋いだんだ。女の子と手を繋いだのは、その時が初めてだ。さっき食べたラーメンが胃から飛び出そうだった。家まで送ると言ったんだけど、ここまででいいと。途中で分かれたんだ。次の日も、いつも通り会えると思った。でもなぁ……」
突然、演技派女優のようにうなだれる父。いや、でもこれは結構シリアスな展開なのでは。私は我慢できず、恐らく一番ビンビンに立っていたフラグを掴むと、
「……し……死んだとか?その才色兼備さんは……事故に遭ったとかで……」
ゴクリと唾を飲みながら聞いた。少しの間、静寂がリビングを包む。父は顔を上げると、
「あっ、忘れてた」
と言って、電気ケトルのスイッチを入れ直した。ズッコケる私を一瞥しながら続ける。
「いや、死んでない」
「おい」
「死んでないんだけど、消えた」
は?という私の顔に腕を組みながらうんうんと頷くと父。
「次の日から、もう試験も近いのにパッタリと来なくなった。いなくなって三日後くらいかな、その子の高校に行ったんだ。名前は知っていたけれど、家は知らなかったし、当時は携帯なんてないからな。それしか方法がなかった。今ほど個人情報にうるさくないからな、聞いたらサラッと教えてくれたよ」
ケトルからサーっとお湯の沸く音がする。部屋が寒いからか、注ぎ口から湯気が濃く立ち上る。
「夜逃げしたらしい。母親がいない家庭で、親父さんがあまり真面目な人じゃなかったようでな。突然いなくなったってことだった。仕事で失敗したんだか、博打なのか知らんが……。家の前にも行ったんだけどな。バラック小屋ってわかるかな?そこまで酷くはないけれども、それに近いような、貧相な家だった。当然、明かりもついてないし、扉を叩いても誰も出てこなかった。家の前には、彼女が図書館まで来るのに使っていた、見覚えのある自転車がそのまま置き去りにされてたよ」
そこまで言い切ると、父は黙りこくった。そのまま暫く何も言わず、再び沸騰したケトルのお湯でコーヒーを入れ始める。
私は恐る恐る聞いた。父はいつの間に私のコーヒーが空になっているのに気付いたのだろうか。二人分入れていたコーヒーの片方を私に差し出しながら、
「父さんは合格したよ?」
知ってるだろ?と言わんばかりのとぼけた顔で答えた。
「いや、父さんでなくて、才色兼備さんは?合格発表で奇跡の再会をしたとか」
興奮する私とは対照的に、父は再び、一人冷静にモノローグに入る。
「あの日、合格発表の日。始発で発表を見に行ったよ。大学は遠かったからな。張り出された番号より先にまず彼女を探した。どこにもいなかった。一通り探した後、掲示板を見た。自分の受験番号があった。でも全く喜ぶことができず、父さん、そこでずっと立ってた」
(ヤバイ、泣きそうだ)
目の前でセンチメンタルに語られるオジさんのモノローグに、不覚にも目頭が熱くなる。
「当然彼女の番号はおろか、受験したかどうかさえ知らないからね。その日は大学の門が閉まるまでそこにいたよ。掲示板は何日張り出されてたんだっけな、もう覚えてないけど、もしかしたら今日これなかっただけで、明日見に来るのかも知れない。そう思った父さんはなけなしの金をはたいて近くの民宿に泊まって、翌日も一日中待ってたんだ」
「……でも、来なかったんでしょ」
ティッシュで目頭を押さえながら私が聞く。指先についたみかんの酸が目に染みる。
「うん。来なかった。そして大学に入ってからも、彼女の姿を見ることはなかった」
自分の話なのに、ウルウルとなく娘にもらい泣きでもしたのだろうか。ズビッと鼻を一度ならすと、
「きっと、受験できなかったんだなぁ。だって受験してたら、彼女なら絶対受かってるもの。あんなに行きたがってた大学だったんだから」
父はしみじみそういうとコーヒーをスッとすすり、一つ残ったみかんを、テーブルの上のカゴから取り出した。
(なんて切ない話だ……)
還暦もとうに過ぎたオジサンのコイバナに、悔しいけれど胸を打たれた私は、鼻水をかみながら劇場を退席しようとした。脳内で有村架純あたりを勝手にキャスティングしていた才色兼備の不憫さも去ることながら、そこにいない初恋の人を必死に探す父の哀れさを思うと、今はすっかり禿げ上がった父にも、そこそこかっこいい俳優をキャスティングしてやらねば。そう思いながら、ソファで眠る猫を抱えて二階に上がろうとした。その時。
「でも、この話には続きがあってな」
ニヤニヤとしたり顔で笑いながら、父は私を引き止めるように言った。
「父さん結婚前にイギリスで単身赴任したことあるって言ったろ。そこで彼女と再会したんだ」
私は慌てて猫をソファに戻すと、前のめりになりながら席に戻った。と同時に私は焦った。父と母はイギリスで出会ったという話を思い出したからだ。そうすると、有村架純をキャスティングした才色兼備の役を再考しなければならない。あの母親は……明らかな才色不備だ。
「あ、母さんじゃないぞ」
私の焦りを察したのか、落ち着かせるように父は釘をさした。
「日本人の駐在員が集まるパブがあってな。仕事終わりにそこで飲んでいたら、隣に二人組の日本人女性が来たんだ。その片方が彼女だった。一目でわかったよ。向こうもそうだったと思う。『もしかして、○○さん?』って聞かれた時、夢でも見てるんじゃないかと思ったよ」
「うわぁ、本当にそんなことってあるんだ。もうそこから話が止まらなかったでしょ」
「いや、お互いとても驚きつつも、一言二言交わしてその日は別れたんだ。向こうは連れがいたしね。翌日は休みだったから、また明日改めて会いましょうと、向こうから番号を渡された。その番号を見て色々悟って、嬉しくなったね」
「なにを悟ったん?」
「電話番号だけで、ホテルの名前とか部屋番号とかは書いてなかった。つまり定住しているってこと。ちゃんと夢を叶えたんだと」
「なるほどねぇ」
そんなに長いこと話したつもりはなかったが、いつの間にか部屋は薄っすらと暗くなっていた。父がパチッと部屋の明かりをつけると、猫が呼応するように二階へ駆けていった。
「でもさ、そんな感動の再会したら、もうそれは運命の人じゃないの?どうしてその人と結婚しなかったのさ」
話が一周して戻ってきたが、単純にそう思ったので聞いてみた。そりゃあ、今の母と結婚したから私がいてとか、そういう御託はあれど、普通ならそこでくっつくだろうと、そう思ったからだ。
「あら、そういうパターン」
「あの後、働きながら勉強して、渡英して、仕事についたと言っていた。そこで出会った人と結婚したそうだ」
それを聞いて、世の中うまくはいかないのだなと思ったのはもちろんだけれど、ふとその時父は何を思ったのかが気になった。初恋の人との運命的な再会と同時に、自分の恋が終わった時、悲しかったのだろうか。悔しかったのだろうか。私だったらグシャグシャになってしまうかも知れない。しかし、そんな私の疑問は、次の父の言葉ですぐに解消した。
「心から嬉しかった。父さん、みっともないけど、そこで泣いちゃったんだよ」
照れくさそうに笑いながら父は続けた。
「良かった。良かったってね。ずっと心につっかえていたものが取れたような気がした。『ありがとう』っていう父さんに、あの人は『なんで?』とは聞き返さなかった。わかってくれたんだろうね。『こちらこそありがとう』と」
「どういうこと?」
今までの話の中で、父がその人に感謝することはあっても、父が感謝されるようなことがあっただろうか。
「『君が海外に行ったら、そこに僕も必ず行くから、その時はバッチリの英語で観光案内してほしい。約束しよう』父さん、そう言ったんだと。全く覚えてなかったけどね」
「そんな約束してたんだ」
「『私が海外に行くことに、きちんと意味を持たせてくれたのはあなただった。約束を守るために、頑張ったから今ここにいるの』と言われた。父さんも、彼女の役に立ててたんだ」
一昔前のトレンディ俳優のようにフッと小さく笑うと、そのまま父はトイレへと消えた。
(お前はすっかり忘れてたわけだけどな)
父の背中に心の中で柔らかく突っ込みながら、私もニッコリ笑った。
「ああ。会ってない。連絡先も特に交換しなかったんだ。まぁ色々あってね」
キメ顔で答える父に、久方ぶりに(気持ち悪い)という素直な感情が戻ってくる。
「ただいまぁ」
「あら。何仲良く話てるの珍しい」
リビングに入ってきた母は、そう言いながら、みっちり膨らんだエコバックをキッチンに置いた。それを見て、先ほどまでの話題のせいで居心地が悪いのか、父が二階へ避難しようとする。
「なになに?なんの話してたん?」
トイレに行こうとする有村架純とは程遠い母が、リビングの出口で父に聞く。
「いや?たわいもない話だよ」
父は道を譲りながら誤魔化した。訝しげな視線を投げながら、母がトイレに入ったのを見計らって、
「ちなみにな」
父は私の耳元に口を寄せると最後にコソッっと
「彼女と再会したとき、パブに彼女と一緒に来てたのが母さんだ」
そう付け足して、ニヤニヤしながら駆け足でリビングを後にした。
「えぇー!?なにそれぇ!」
「ねぇー!何の話なのー?」
あの人との馴れ初め話は、また後日みかんでコーヒーを飲みながらでも聞こうと思う。
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
そもそも推し量ったに過ぎない他者の気持ちを「分かる」と判断していいの?それ分かったって言わなくない?スゴイ=シツレイにあたらないですか?でも一般的にはそれで「人の気持ちが分かる」とされる。それが不思議で、いまだに自分の社会的齟齬が生じているように思える。
いや、人の気持ちを推し量ること自体はできるんですよ自分にも。でも100%にはならないじゃないですか、例えばAIによる物体認識でも「30%くらいキツネ、70%くらいイヌ」みたいに見解を示すじゃないですか。そのときって確定できないですよね?「わかった」って言えないですよね?本人に確認しないと。
もっと言うと本人にすら本人の気持ちが正確には分からなかったりしますよね。
一般人(健常者、日本ネイティブ)って何割くらいで「わかる」と判定しちゃうの?そのしきい値が知りたい。真似するから。
自分がASD傾向がある(発達障害やってる心療内科医の見解)のが原因だとは思うんですけど
「ひとのきもちがわかる(100%とは言っていない)」というのが一般的な意味合いなんですか? なんで100%じゃないことに自信が持てるのでしょうか。
うーん、「気持ち」というものに対して定量的・検証的・科学的態度で臨むこと自体が間違っている? 定性的・文学的態度で臨むべきもの? 読書が足りないのかも知れない。
この世界じゃまだペーペーですが「信用」について語らせてください。
金を貸す・借りるというこの業界でとても重要なワードのひとつです。
昨日、そういえばツイッター社って、どうやって収益上げてこんなシステム維持しているんだろうという話になりました。ツイッターは個人情報の宝庫ですから、そこから無数のカテゴリーのビッグデータを吸い出して、それを情報として売っているんじゃないですかという説に一同納得。
これは大学で教鞭も執る某・仏文学者さんによる3年前のツイートです。結構バズりました。
この発言、みなさんどうですか? 私はひっくり返りました(笑)。
結論から言うと私はこのツイートひとつで彼への「信用」がゼロになりました。
私が培ってきた職業倫理的に言語道断な認識・論考・発言だからです。
Twitter社のランニングコストに着眼したのはまだいいです。
しかしそれを開示資料にも目を通さず、無根拠に収益源を推測し、
私の業界からすると「こんな顧客はイヤだ!」の筆頭格です(笑)。
「無数のカテゴリーのビッグデータを吸い出して」という書き方からも、
大学教授を務め社会に出る直前の学生を指導していると思うとゾッとします。
面接に来た学生が「この先生の研究室で思想を学び…」とか話し始めたら、
正直「ウッ………」となりますし、もしこんな話の進め方をする経営者がいたら、
「社会的通念の共有ができない要注意人物」として上と共有すると思います。
ただ「無知であること」、「間違うこと」だけで信用がゼロになるわけではありません。
「裏取りができることの存在を知りもせず」「残りを憶測で補完し」「他者に危害を与える」ということ。
このトリプルパンチを無自覚に行っていることを示す上記ツイートが、
私の中で「信用」の失墜、及び今後の回復も絶望的であるという判断に至りました。
今金融商品の取引は1000分の1秒単位でアルゴリズムが行っています。だから、経営者たちは当期より先のことは考えなくなりました。
という荒すぎる暴論を前提根拠として国や政府を論じる記事がありました。
「信用」のルールを放棄して経営者や金融業界を愚弄する記述だと思いました。
ルーツとなる家庭や文化も異なる他者同士が力を合わせる社会の中では、
「信用」のルールに基づいたコミュニケーションが建設的なゴールへの必須条件であると、
ペーペーながら会社勤めの経験とこんなツイートのおかげで学んだ、というお話でした。
(余談)
昔から読書が大好きで、絵本、児童書、ラノベ、小説と年齢によって読むものは変わるものの、学校の休み時間には本を開き、夏休みなんかは1〜2日で1冊読破するペースで読書をしていた。小学校の時の「読書の記録カード」みたいなやつは、50冊で1枚埋まるのを年間で3枚とか埋めて賞状を貰うくらいだった。
が、ここ3年くらい、1冊も本を読んでいない。読書をまったく楽しめない。
本を手で持って、小さい文字を追いかけるのがどうにも億劫になってしまった。
たまーに「やっぱり本読みたいな」と思って、本棚からお気に入りを引っ張り出してきたり、本屋で目に留まったのを買ってきたりして読むのだが、本の数ページ読んだだけで疲れてしまって、飽きる。漫画もそうで、好きな作品をまたイチから読み返そうと思っても、なんか疲れてしまって途中でやめてしまう。
私が思うに、なにか知りたいことがあったらスマホで検索して、どうでもいい情報や広告は飛ばして知りたいところだけ読む、というような頭の使い方ばかりするようになったから、文学的な表現や情景の描写が挟まるのがまどろっこしく感じるようになってしまったんだろう。
ミステリー小説なら、登場人物達にどのような関わりがあるのか?犯人はどうして犯行に及んだのか?どのような方法で被害者を殺害したのか?場所は?道具は?時間は?…というのを、読み進めながら推理して楽しむものなんだろうが、私は「○○が△△を殺した」という事実だけを知りたいと思うようになってしまっているのではないかと思っている。
楽しめないのに無理に本を読むのはただ時間を無駄にするだけなので、別に読みたくない時に進んで本を読もうとはしていないが、本がそこにあるのに開くこともしないのは結構寂しいな、と思う。
思いのままに書き散らしているので、見にくいかとは思いますが。
アクタージュという漫画を、絵というよりは話が好きで読んでいた。
羅刹女編より少し前くらいから絵も話も好みではなくなってきたので、あまり読まなくなっていたが、それでも銀河鉄道編の文学的なくらいの静かさと、わくわくする感じは大好きなままだった。
原作を担当していた人物が未成年淫行で逮捕され、作画より原作を推していた私のダメージはひとしおであった。
しかも、売春をすっぱ抜かれたのかなーと思っていたところで事件の詳細を聞き、あまりのダサさに卒倒しそうだった。
ただただモヤモヤが胸のあたりでずっと渦巻いている。
もう私には、彼が逮捕されたのが悲しいのか、自分が好きになった人物がクソダサ性犯罪者だったのが、自分の見る目がないようで悔しいのか、わからなかった。
思えば私は、アクタージュという作品にはあまり愛着はなかったのかもしれない。
夜凪ちゃんの人生や、千世子ちゃんとの確執には惹かれなかった。
泣きたくなるような心理描写、ページをめくって鳥肌が立つような画面の力、「夜凪景」「黒山墨字」というようなフィクションっぽさは強いが耳にすっと馴染む綺麗な名付け、そういったところが大好きだったのだ。
ついでに言うと、絵柄も正直好みではなかった。
塗りなどが美しくて作風的に親和性は高いが、デフォルメのときの腕が細いのや、涙袋?を強調しているのがイマドキのメンヘラ感が強くて苦手だった。
(ネームまでは原作の方がやっているらしいのに、正直上手いかと言われるとちょっと……な作画ばかり注目されたら私だったら発狂しそうだなと思う。)
これについては私怨っぽいのでこのくらいにしておく。
あんなに美しい言葉を使う人があんなことで捕まって、人生を棒に振るのが悔しい。
ざっと見たところ私と同じ意見の人があまり見つからないのも悔しい。
アクタージュは別に終わってもいいから、またどこかで文を書いてくれないだろうか。
などと考えていたら、Twitterで被害者の気持ちを考えられんのか、という趣旨の文面をたくさん目にした。
考えてなかった。
ていうか興味がなかった。
知らない女子中学生の気持ち云々より私をときめかせた言葉が犯罪者の物として否定されていくのが辛かった。
自分ではそこそこ優しいと自負していただけに、アイデンティティを根幹から揺らがされた気分だった。
でも無理だ。
5、6巻を読み返してまた寂しくなった。
(物語を終わらせるのは作者の都合……ウッ……)
作者と作品は別なのだと考えられたら良かったが、それほど器用じゃなかった。
彼も作品も嫌いになれたら良かったのに。
銀河英雄伝説見てたら、男が男に人生かけてるの!でも女にはできない……女は結婚とか恋愛しか人生のイベントがなくて、いつか降りちゃうから。人生かけられるの男だから。女は女に人生かけられないの。。。ああ、だから私達って男同士のあつい物語を見たら恋愛だと錯覚しちゃうんだ。だって女には恋愛しかないから。。
みたいなガバ理論文学を最近では見かけた。銀英伝とかエリート男性の特殊な環境の物語を全男性に広げる脇の甘さ、ガバガバ度、論理の飛躍、思い込みの激しさ、結論ありき、実に人間的で文学的じゃないか。人間の弱さを描き出しているよ。そこから腐女子が男性同士のあつい物語を恋愛と錯覚することを必然というが、女性のマジョリティは腐女子じゃないのはどうするんだという香ばしさがある。実に文学的だ。香り高いじゃあないか。
小説ならいいんだよ、うまく考えた話をうまい文章で書いてさ、みんなイイネと思ってそれでハッピー、いいことだ
実話を過剰に装飾したり技巧を凝らしたりして伝えてこないで欲しいんですよね、あるいはそもそも実話なんかじゃないのかもしれんけど、ならそうとわかるようにしてほしい、実話っぽさを出しつつうまい文章を書かないでほしい
そこここに強調だったりネットミームなんかを埋め込んで共感性を高めた文体とか、漢字を適度にひらきつつ所々に文学的表現を入れた文体とか、そういう感じのさ、ウケるだろうなって感じのアレだよ
違うだろうがよ、人生で本当にでかい出来事に出くわした時ってそんな大したこと思わねえよお
ホーン…とそのときは思ってたんだけど後になって考えると結構デカかったな、みたいな、そういう感じじゃん 身体に光の粒子が溶け込んで…とか普段思うか? 思うってんならいいけどさあ
現実に起きたことを現実の人間が語る、その語り口って淡々とするもんなんじゃないのかよ
そうでもねえのかなあ 俺の感受性がショボいだけか?
俺一年強片思いした子に夜道で告白してOKもらって、抱きついていいですかなんて聞いて、暗いところでちょっとハグしたことあるけどさ、文学的な言葉なんて一切頭をよぎんなかったぜ 嬉しい、ウオー、長すぎかな、人通ったら恥ずかしいな こんな感じの断片的なことしか思わなかった
胸をあたたかな光が満たすようなきもちにはならねえし、心臓が爆発しそうなくらいに早鐘を打っていて、帰りの歩道橋で思わず走り出したりもしなかった スマホでTwitterを無駄にスクロールしたりはしたかもしれないけど、そんなもんそんなもん
とにかく、劇的だったり文学的だったりする文章にアレルギーがあるんだよ
こうさ、ドキュメンタリーですげーカッコいい台詞喋ったりメチャクチャお洒落なカメラアングル使ったりして欲しくないじゃないすか
詰まりながら喋ってさ、カメラは邪魔にならないところに置いたのがなんとなくわかるアングル、そういうのがいいんだ俺は
実話の力を借りてえなら実話らしく書け
半端なんだよ!