はてなキーワード: 弾圧とは
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
昭和天皇の肖像を燃やしたり慰安婦像置いたりとやりたい放題の展覧会『表現の不自由展その後』
「こういう表現であっても認められるべきだ!」という賛成意見と「さすがにダメじゃない?」と反対意見、日々議論が白熱している。
私は賛成でも反対でもなく、こういった状況になることが企画者の意図、
……かと思って傍観していたんですけど展覧会が中止されたりかと思えば再開されたり、入場制限が行われたり市長による抗議活動などヒートアップするよくわからない状況。
と思って色々調べていたところ、そもそも企画者の意図していたことが全然違った。ちゃんと説明した方がいいよ。
まず前もって知っておいて欲しいのは『現代アート』そのものについて。
定義としては過去の美術、芸術に囚われない、『前衛的で新しい芸術』だろうか。
時代性を反映していることが現代アートの条件とされている場合もあるが、作家によってはそこまで意識をされていないことも多い。
最先端の技術で作られた作品であったり、今までなかった発想やテーマ、思想で作られたりと従来の美術や芸術の枠組みに入っていなければ現代アートと呼んで問題ないと思う。
アートのくくりだからといって美しいとは限らないわけです(ここを勘違いすると現代アートのなんでもありな表現に嫌悪感を覚えると思う)
で、自分が思っていた『表現の不自由展』とはこういった過激な作品を展示した上で、『表現の自由』とはどうあるべきかを考えてみよう!
で、調べた。全然違った。
これがこちらです
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19768
長い!よくわからん!
っていう人もいると思うのでざっくり説明すると
アート界隈、戦後民主主義は『個(個人)の時代』だったけど今は『公の時代』!
↓
昔の『公の時代』といえば社会の抑圧や検問が厳しかった戦前の大正あたりだ!
↓
戦前と戦前の美術の間には『意識の断絶』があるように感じる……
↓
ドイツではそんなことおきていない、なぜ?
↓
↓
これです。いや、わかりにくい!
この騒動で読みにきた人は『ドクメンタ』って何〜?っていう人がほとんどだと思うのでウィキを貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドクメンタ)
あいだに出てくる『退廃芸術』も重要ワードなので貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/退廃芸術)
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戦時中ナチスドイツは模範的な美術作品を設定して『大ドイツ芸術展』を開催、一方で近代美術や前衛芸術を集め『退廃芸術展』を開き晒し者にした。
戦後、その晒し者にされ弾圧された『退廃芸術』名誉を回復しよう!と開催したのが『ドクメンタ』、1955年からスタートし今もなお毎年開催される現代アートの展覧会。カッセル市やヘッセン州の出資によるドクメンタ有限会社が企画、運営している。
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日本は戦後今まで排除してきたものにアートとして向き合ってないから、戦前と戦後で『意識の断絶』が起きている。
そんでもって公的な立場でやるとなおいいよね!っていう感じです。
ざっくりなので違ったらすみません。というかここまで問題になった訳ですから、公的にわかりやすい文章を出した方がいいですよ。
この展覧会がめちゃくちゃ炎上した原因となる1番の問題点だと思うのが、
これです。
なんて巷では議論が白熱していますけども、この展覧会がやりたかったのは『表現そのもの』に対する可否ではなく、今まで向き合ってこなかったものに対して受け入れたり、考えたりしていこうよ、ということ。
こんなタイトルが付いてるから作品が『表現』そのものに対してのジャッジの道具に使われている。
「表現の自由だからこういう作品であっても認められるべきだ!(賛成派)」「いや、こんな表現は到底受け入れられるものではない!(否定派)」
といった議論ではなく、
「今まで触れてこなかった考えを知ることができた(賛成派)」「こういうのはどうかと思うけど、どういった思想で作ったのはわかった。その上でこんな表現はいけないと思う(反対派)」
という議論がかわされるべきだ。
この展覧会を擁護、または批判している者の中に、企画者の意図を理解している者はどれだけいるだろう?
というか、こんな意図を説明なしにわかる人はエスパーだと思う。
企画者の意図を考えると、『表現の不自由展』というタイトルはふさわしくない。
インタビューから考えるならば、『意識の断絶』がこの展覧会を企画するにあたっての1番のキーワードではないかと私は思う。
企画者の考えとして、表現の不自由が起きている根本の原因は戦前戦後のアート界隈での意識の断絶、と読み取れたからだ。
『意識の断絶』というキーワードを元にタイトルを考え直した方がいい。少なくとも『表現の不自由展』というタイトルよりは誤解を与えずにすむだろう。
『表現の不自由展』、企画展名のインパクトを狙いすぎたため、意図が大きくぶれてしまっているのではないか。名前だけしか見てない者にも邪推をされまくっている。
香港のデモとか見て思うんだけど、あれやってる人は物凄い勇気と意志だよね。
俺なんて現地に生まれたとしても絶対できないわ。何かもっともらしい理由つけて家に籠もってると思う。
一方、ウイグルの弾圧とか見ると、やってる人は人としてどうなのって感じだね。
その立場に置かれたら自分がどうするかなんて分かんねーけど、人としてそこまで落ちたくないと思うね。
信義礼智信とか、勇智信とか、
雨ニモマケズ風ニモマケズって美徳や道義と呼ばれるものは誰でも知ってるけど、
実践できてる人と傍観者、そしてその真逆をやってる人と、なんでこんなに違いが出るのかね。
親の教育なのか、育った環境なのか、付き合った友達なのか、出会ったメンターなのか知らんけど、
でももし俺に子供がいたなら、損をしてでも勇敢に生きて欲しいという勝手な思いはある。
気高くて勇敢な精神ってのはどうやって養うんだろうね。
「スクショ違法化」にしないための落としどころはどこか? ~ 著作権法は権利保護と権利制限のバランスが重要だ
元々赤松健氏の音頭取りをした今回の著作権改悪の初めの発端となったツイッターに貼られていた以前の記事と今回の題名を見て、結論ありきだろうなと思って読んだら案の定だった。
要は出版や漫画家と同じで僕たちを巻き込まない規制にしてねと言う、ふざけた内容に過ぎない記事。
そもそも前回にしてもSSや静画だけでなく、実際は制限をなくすものだから、テキストにすら適用されるのだから、記事の前提自体が間違っている。
まるで前回がSSまでだけしか問題で無かった様な書き方だよこれ。
DL違法化自体、海賊版対策として余り有効ではないのは今までの現状見ても判る事だし、それ以前に弊害が多すぎて、まともにやらかせば一般人がネットを使うだけでもヤバくなりかねない代物だからな。
世間の印象が最悪なのは当たり前だし、だからこそここまで大騒ぎされている訳だ。
それに著作権を使って、この手のインターネット規制を推進する連中が余りにも手口が卑怯なのも問題。
そもそも一般人の大多数に指摘されているアップロード側を取り締まれと言う意見を都合良く無視しているのが判らんね。
漫画村とかの一件にしても裁判による手法が効果を上げており、それでブロッキングやDL違法化、リーチサイト規制よりも先に裁判の方の改正を行うべきなのは専門家や議員に突っ込まれている時点で明白なのになぜかそっちも今回都合良く、その一切を無視しているのよ。
こう言う記事や経緯を見ていても本心は別の所にあるとしか思えないよ。
そこまでインターネット利用者を犯罪者扱いしたいのかねえ、漫画家や出版は。
表現や言論の自由で飯を食っている連中が弾圧しだしているのは本当に笑えない。
こういう一般人にもバランスを考えてますよアピールはもういいから。
こいつらが前回突然慎重とか言い出したのも単に世間の非難が漫画家や出版にも飛び火しそうだったからだけだしな。
この手の綺麗事を言う蝙蝠は一番嫌われるよ。
まじめに言うと、「主人公たちが完全な善ではないから」「正義に対して疑問符をつけながらも、少年漫画の王道だから 」。
主人公のルフィは海賊なので、世間的には正義の味方ではないんだよ。
むしろ海賊と敵対する、海軍のほうに世間的な正義がある。文字通り、海軍は背中に「正義」 と書かれたマントを背負ってるしね。
だけど、正義を背負っているはずの海軍も、完全な善性を持っているわけではない。立場に甘んじて、ズルをしたり支配したり、弾圧をしたりする。こういうのってリアルだよね、権力の描き方として。
あと、主人公たちが求めるのは正義ではなくて、自由。ルフィたちが何と戦っているかというと、支配に対して戦ってる。体制をなんとか維持しようとする海軍はじめ権力と、それに囚われず、自由を求める海賊の戦い。
これ、いつの時代も変わらない、少年のための熱い物語じゃない?
もちろん欺瞞でもあると思うけど。
侵害コンテンツのダウンロード違法化等に関するパブリックコメントの実施について
どうせ無駄だろうけども提出した。
今回の日本漫画家協会と出版及び文化庁の一連のある意味談合とも言える動きには本気でイライラしている。
特に出版はいつもよりも広告対策とか言い出して調子に乗りまくっているしな。
そもそも日本漫画家協会は世間の風当たりが自分達の方に来そうになったから最後に少しだけ慎重な意見を載せただけだし、出版に至っては最後までダウンロード違法化拡大に賛成したままだったしな。
こんな感じで裁判の有効性が実証され、そちらの法改正の話ならば、まだしもこんなゾンビ法案が出てくる時点で、著作権はもはや建前であり、本心は別の所にある気がしてならないよ。
しかしこの一件一番皮肉なのは本来表現の自由や言論の自由を一番尊重しないといけない漫画家や出版が国民の知る権利や言論の自由等を奪うこの様なリーチサイト規制やダウンロード違法化拡大を含んだ著作権改正の音頭取りをしている所だね。
マジで弾圧された歴史があり、最も言論の自由を尊重しなければいけない共産党が新日本婦人の会と繋がり、リベラルやフェミと裏で手を組んで、表現規制を行っていた例と同じことをしている様な気がするよ。
最もこいつら出版の場合、児童ポルノ禁止法や都条例等の当時は弾圧される側で、それが与党とくっついた途端、国民を弾圧する側に回った分猶更性質が悪いけども。
これに怒るなら当然、大学運営交付金の削減や、社会保障費の減額にも怒ってしかるべきだが、
トリエンナーレに限っては、やれ文化の後退だの、国家による自由の弾圧だの、
自分の目先の利益に限ってやいのやいのと大騒ぎしてみせるからアート関係者は醜い
全ての問題の根っこはこの国が抱えているプライマリーバランス黒字化という強迫観念にあり、
日本漫画家協会と出版広報センターが海賊版対策に関する共同声明を発表
https://www.nihonmangakakyokai.or.jp/?tbl=information&id=8145
>侵害コンテンツのダウンロード違法化およびリーチサイト規制のための法整備が適切かつ迅速になされることを願うものです。
呆れ果てる。
ほらな。
こいつら漫画家は世間から反対があったから、ポーズでダウンロード違法化拡大に反対しただけで、本心はダウンロード違法化拡大を願っている連中だからな。
どうせブロッキングとかもやらかそうと思っているんだろ。
もうこの手の綺麗事は聞き飽きたわ。
ダウンロード違法化も一般人から嫌われまくってて、やばいと思ってポーズだけで反対していただけだったんだな。
実際は規制の制限なくすものだから資料集めにも弊害出るものな。
だから問題点理解していると思いきや、山田太郎氏が当選した途端にこいつらこう言う声明だしやがった。
マジで腐りきってやがるよ。
本当、本来ならばもっとやばいはずの国連の件には出版も漫画協会も殆ど動かず、漫画関係でも動いたのはマンガ学会だけと以下にこいつらが目先の利益重視で自身の界隈の将来すらどうでも良いと思っているかが良く判る。
それで、結果、日本は勝手に変えられたガイドラインは否定したものの子供の権利委員会はあのガイドラインを強行してついに漫画等の創作物まで児童ポルノ扱いしだしたぜ?
パブリックコメントで反対意見が多かったにも関わらず、尚且つ他にも問題点も多い上に委員会側が条約解釈権の問題点をバチカンやアメリカに指摘されていてもな。
https://www.ohchr.org/Documents/HRBodies/CRC/CRC.C.156_OPSC%20Guidelines.pdf
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/page23_003064.html
こんな肝心な事にはこいつら一切動いてなかったからな。
当時から出版関係は腐りきっていると思っていたが、ここまで酷いとは思わなかったよ。
しかし力がなかった側が力を持ち出すと今まで弾圧していた側と同じ行動をし始めるのが良く判ったよ。
今まで児童ポルノや都条例やらで漫画が規制されていたにも関わらず、与党に近づいた途端に国民に弊害しか与えないブロッキングやDL規制拡大化をこいつら始めやがったからな。
本当に心から糞だと思うよ。
お前らカルトとか似非女性団体や似非児童保護団体とやってる事はかわらねーよ。
マジでもう潰れちまえよ。
その時は音楽業界や映画業界以上に悲惨な事になるだろうけどな。
あそこ出版もあるけども映画やそっちの方もやっているからパイプになっているとかなんだろうよ。
カワンゴもブロッキングにご執心だったもんな。
しかし思えば当時の児童ポルノ禁止法にしてもこいつらは単純所持規制を身代わりに出しただけだもんな。
あの時も問題点指摘されていたにも関わらず、お前らは後ろから銃弾撃ちまくっていたものな。
ここで規制進めば、次はお前らの規制される番だってあれほど警告していたにも関わらずやらかしたもんな。
附則があってもあいつら多分外圧と称したマッチポンプでやらかしてくるぜ?
今回ばかりは心からお前らに呆れ果てたよ。
何も分かってない。
フェミニストが根拠もなく、破綻した論理で人権を侵害するから立ち上がったのがアンチフェミ。それに対してフェミが貼ったレッテルがミソジニストであるというだけ。
端的に言って、これまでの女医の貢献不足が原因。
こんなのはアホかガキのいうこと。
男にしてもスーツ・革靴等、それなりの身だしなみを求められるもの。(ドレスコードは男の方が遥かに厳格)
つまり、「女性だけ」ではない。にもかかわらず「女性だけ」と噴き上がり男叩きに走った時点でkutooは死んだ。ヒールが履きたくない、化粧したくないならドレスコードいらない会社を自分で建てたら?
この件に限らず、フェミは求める・喚く事だけに労力を使いすぎ
女性側が「通報する」という最低限のアクションすら碌に取らないのに、他人にばかり何を求めてるんだ?
男の慈悲で頂いてる女性専用車両をもっとぎちぎちになるまで使えば?
総じて、女性側の言ってる事とやってることが違いすぎる。口で言ってる危機感が行動に全く反映されておらず、説得力皆無。
・フェミニストが行っている、実力行使を伴う表現弾圧についてどう思うのか。それによって生活や生業を破壊される人間のことを考えたことはあるのか。
・フェミニストが数字や論理を持ち出すことができない体たらくについてどう思うのか。結果からの妄想や感情論だけしか出来ない状態でいいと思ってるのか。
・あからさまな男性差別である女性専用車両についてどう思うのか。男性差別を放置或いは推進しておいて、「男女平等」という言葉に説得力があると思っているのか。
なるほどそういうことがあったのか。
はたから見て運営に苦情を入れて運営が再考した結果返答するのは運営とプレイヤーの関係がまともに機能していると見えるんだが。運営が毒されてるって言いたいんだな。
最初に:しばき隊リンチ事件原告側に本件を使った中傷が行われているようだ。下記を参照あれ。M氏を貶めないように。
高島章弁護士について報道がなされておます。高島弁護士は、「M君リンチ事件」控訴審の終結をもって弁護団からは離れておられ、その後は関係がありません。ちなみに本会が高島弁護士にお支払いした金員は過去ご報告した通りです。— M君の裁判(主水裁判)を支援する会 (@m_saiban) 2019年9月21日
以下の通り1円の単位までご報告をしているにもかかわらず、極めて悪質な印象操作に熱心な、リンチ事件擁護者が散見されます。本会はお約束通り、裁判費用以外には1円も出費しておりません。悪質な「印象操作」の主には、支援会で協議の上、然るべき手段を検討いたします。 支援会事務局— M君の裁判(主水裁判)を支援する会 (@m_saiban) 2019年9月21日
日報33面より。刑事事件保釈保証金300万円の横領であった。周知の通り、高島氏は新潟水俣病第三次訴訟団の弁護団長、および朝鮮総連新潟県本部顧問弁護士を務めていた。
https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20190917495600.html
ツイッター上での旺盛な発言、特にシールズ(のち未来のための公共)への批判、およびその実力団体とされている対レイシスト行動集団(旧:レイシストをしばき隊)のリンチ事件への告発者の一人として知られている。一部には筋の通った昔ながらの革新派弁護士という評判もあった。
現時点では残念ながら謝罪はない。新潟県弁護士会長を現在勤めている斎藤裕について友人と過去説明したこともあり、自身も副会長を務めていたときがあっため実際に看過できない内容であった可能性がある。
高島氏の事務所は17日午後、ひっそりとしていて、電話にも応答がなかった。
高島氏は1993年4月に同会登録。新潟水俣病第3次訴訟などでは弁護団長を務めた。水俣病訴訟を支援する民間組織事務局の萩野直路さん(65)は「訴訟では認定を勝ち取るために尽力してくださった。残念だし、驚いている」と話した。
このように特に新潟水俣病関係者からの悪評がある人物には見えなかったが、ツイッターからはしばしば私生活の苦しさが窺われる呟きをしている。同時に、長きにわたるがん患者らしきことを呟いており、先日退院した旨自身のアカウントで呟いていたかと思う。
懸念されるのは新潟水俣病の扱いである。周知の通り、先日の参院選で当選した打越さく良弁護士は高島氏と激しく対立してきたしばき隊の神原元や野間易通と親交があり、特に神原のヘイトスピーチ訴訟では一緒に原告側弁護士として闘ったという。神原は懲戒請求、弁護士としての罷免要求すら上記の履歴・活動を顧みず平気で行っていた。打越は前掲第三次団の最高裁敗訴直後に擁立することが立憲民主党本部主導で発表された落下傘候補である。しばき隊の中心人物である李信恵の単著を出した影書房も8月中旬に水俣病にツイッターでいいがかりをつけていたため、県下の人権運動を打越らカウンター諸氏が牛耳り出すのではないか。
現に構成員である香山リカは、新潟県で行われているいきづらさを抱えた人たちの演芸会である「こわれものの祭典」に、東京出張時圧力をかけている。カウンターと新潟水俣病関係者の人権が両立すると彼らが考えているとはおよそ考えられない。県下の人権運動でも気に入らなければ平気で弾圧する連中なのである(対立するろくでなし子が登壇する予定であったため、運営に圧力をかけ妨害した)。
考え過ぎかもしれないが、日本共産党にとっての被差別部落問題同様、一方的に解決した問題にさせられてしまわないか心配である。
追記:
詳細を読むと
依頼人が昨年9月、県弁護士会に懲戒請求して発覚した。高島氏は私的流用を認め、協会には毎月10万円ずつ返済しているが、依頼人側が負担した20万円や示談金として預かった10万円の一部は、いまだに依頼人側に返還していないという。
ということである。斎藤裕会長は元々新潟市のBRT反対運動の中心人物で、共産推薦で新潟市長選に出馬し善戦した市民活動家でもあった。しかし去年、この直後の新潟市長選において夏の新潟県知事選での敗北による旧民進党の政治家から不満が噴出する中、共産党はBRT廃止論を撤回することになる。このことを激しく非難し自身の選挙で争った自民党非主流候補を応援した。共産ですら手に負えない人物となった斎藤氏はいわば封じ込められる形で県弁護士会長に就任したのではないかと推測する。
さて、とはいえ斎藤氏は前述の神原弁護士が常任幹事である自由法曹団員でもある。最近は新潟水俣病関係の裁判記録が破棄されたと県弁護士会長として訴えた。しんぶん赤旗も全国記事で水俣病を取り上げるなど、神原・野間・有田芳生らの異常な氏への中傷へ批判をにじませつつあった。そのようななか、発覚から1年が立ったものの、ついに法曹団中央の圧力に抗しきれなくなって、処分に踏み切ったと思われる。処分に応じても謝罪はしないという高島氏の態度はそういうことだろう。
とはいえ、詳細は割愛するが、元々市民活動家としての斎藤氏は、小柳聡の政治資金記載漏れで懲役刑になるに違いないと扇動するなど「合法・倫理性に欠けると言えなくはないが、訴えるのはきわどい」行動が多かった。同時に、県の弁護士の代表になったものとして、自分がどれだけ危険な凶器を振り回してきたかも真摯に反省して頂きたいとおもう。