はてなキーワード: 帰宅部とは
中高帰宅部、地頭は悪くはなかったからさらっと勉強して某旧帝大には合格。
でももとから気力があるような人間ではないから家に引きこもってばかり。
実家通いで小遣いも貰えるし、趣味もない友達もあまりいないから金を遣わずバイトもやらない。
もちろんサークルもやっていないので、単位取れるギリギリのラインでサボってばかり。
20卒だから就活開始してるんだけど何にもしない。やらなきゃと思うのに体が動かない。
ただだらだらと本を読むかゲームをして一日を潰す。
もっと他にやるべきことがあるのに。
別に家庭に問題があるわけじゃない。父も母も立派な人だし、裕福。
甘やかされているというよりは、きちんとやるべきことをやれと言われているのに俺がなあなあでごまかしているだけ。
妹がひとりいるが、俺とは対照的に活発でしっかりしてる。
やらない言い訳ばかり探している。就活関連で探しているのはどこがブラックだとか労働基準法がどうかとかそんなのばかり。
俺にはそれ以前にするべきことが山積みなのに。
同期はきちんとやっているからどんどん差がついていく。当然の結果。
どんどん投げやりになっていく。首を吊ろうとして紐が切れた失敗した。跡はつかなかったから親にはバレていない。
親はこんなクズでも死んだら悲しむに違いない。紐が切れたことは、自殺を選ぶ権利なんて俺にはないことを象徴してるんだろうと思った。
朝起きるのは得意で、いつも必ず6時に目を覚ます。でも、どんどん起き上がるのが苦痛になっていく。甘えている。
中学の時、仲が良かった友達は高校を中退してフリーターになった。大学受験を控えていた俺は正直彼を見下していた。
最近見なくなったと思ったら、一念発起してイギリスに行き、そこでフォトグラファーになったと、去年の成人式で聞いた。少し田舎の学校だから大学に進むやつはほとんどいない。良いとこ高専。でもみんなしっかり働いていた。自分の面倒を自分で見ていた。そういうことを妙にはっきり思い出す。
苦しい。そんなことを訴える権利はないのに。やるべきことをやらなければならないのに。
体だけ大きくなって、中身は何にも変わらないままのおこちゃまが、小難しい本ばかり読んで悦に浸って生きている。自分の面倒を自分で見られない癖して。
今日、授業をサボった。まだベッドから体を起こせない。声だけ元気に作って仕事に行く親と学校に行く妹を見送った。
何をするでもなく、スマホを手にとってだらだらやっている自分がたまらなくなって、誰もみやしないまとまりのない長文を無意味に書き連ねている。
顔がイケメンなのかっていうと、よくわからないけど、少なくともブサイクではないと思う。
特に長距離ではすごくて、小学校のマラソン大会では毎年一桁台だった。
親も陸上関係でメシ食ってる両親で、俺の才能っていうよりかは、親の影響が大きかった気がする。
親父のジョギングに、保育園の頃からついていって走っていて、いつの間にか俺も走るのが好きになってた。
俺にしてみれば、一位という結果は本当にたまたまだった。
周りが喜んでいるのを見て、俺も「自分がすごいことをしたんだ」と嬉しくなった。
まあそれは、そんなもんだ。
周りが全然俺よりはやい。
俺が全力で走ってるのに、周りがどんどん俺を離していく感覚を、生まれてはじめて味わった。
不甲斐ない成績だった。
でもその頃から、たぶん俺の心の中で、走ることに対して、迷いが生まれたんだと思う。
この挫折をきっかけに、もっと速くなる奴が、きっとプロになったり、駅伝ランナーになったりするんだろう。
でも俺はたぶん違う。
14歳や15歳のガキでも、自分に対してそのぐらいのことはわかる。
俺は単に周りに褒められたくて、長い距離を走ってただけなんだ。
特に県大会に出て、ホンモノたちに会ってしまうと、俺がいかにダサい存在かはよくわかった。
その親と5歳から近所のコースジョギングしてました、とか、関係なくて。
ホンモノは違うんだよ。
なんていうか、オーラでわかる。
正直スタートライン立った時点で、もうホンモノとニセモノははっきりわかった。
ニセモノだったのは俺だけじゃない。
ほとんどはニセモノ。
俺はそっち側だった。
でも、もう、マジで感覚的に全然違うのがわかったから、どうしようもなかった。
努力? 才能? なんなの? 何が違うんだ?
仮に俺が途中でぶっ倒れてもいいから、全力ダッシュしたとしたら、
何人かは抜かせただろうけど、それでも抜かせない選手っていうのが、結構な数いた。
ああいう奴はなんなの?
意味がわかんなかった。
いや、今もわかんないけど。
実際その場で一緒に走んないとわかんねーよ。そういう奴らと走る感覚って。
まあその話はいいや。
普通に受験したら、俺の頭では間違っても入れないような私立高校。
そこの陸上部入ったら、まあ、周りは全然大したことなくて、すぐエースになった。
俺みたいに陸上のスポーツ推薦だった奴いたけど、長距離は3人しかいなくて、俺以外の2人は全然ショボかった。
てか、このレベルで推薦とれるのか、って失望するレベルだった。
エース扱いで、相当チヤホヤされてたと思うけど、心の中ではどんどん冷めていった。
俺は県大で、自分のショボさを思い知って、自分の限界を感じたのに、周りの奴らは俺を神かなにかみたいに崇めてるわけ。
なにこれ?
は?
お前らはバカ?
偏差値xxあって何を見てるの?
とか思ってた。
当時俺みたいな中途半端な奴って学校に結構いて、自然とそういう連中とつるむようになった。
特待生で学校入ってきたけど、周りのレベル低すぎてうんざりしてる優等生とか、
すげーサッカー上手かったのに部活の顧問とか先輩とかと合わなくて帰宅部になった奴とか、そんな連中。
高二になってからは、そいつらといるのがとにかく楽しくて、練習サボって遊ぶくらいになった。
「マラソンってくだらなくね?」
とか俺に向かって言っちゃうような奴らだった。
はじめて聞いたとき、本当に新鮮だった。
だって、家族や友達で、陸上を否定する人間なんて、それまでの人生で会ったことがなかった。
いろいろ悩みながら陸上部を続けてきた俺だったが、遂に決意する。
「ごめん。陸上部辞めさせて」
家に帰って、俺は親に言った。
親が買ってくれた、1万円以上するランニングシューズをエナメルバッグに入れたまま。
けど俺の決意は固かった。
たくさん説教された。
俺の陸上の才能を認めてくれて、もったいないって言ってくれる人もいた。
それが一番心が痛かった。
でも俺はもう決めていた。
本当の自分で生きたい、って思っていた。
陸上は、俺が本当にやりたいことじゃないんだよ、親父、お母さん、先生。
そんなことを何回も言った。
陸上の成績でスポーツ推薦を決めた奴が、陸上辞めるなんて前代未聞だろうな、と思っていたが、それはそうじゃなかった。
心が折れなくても、ケガでそのスポーツ続けられなくなる奴も多い。
だから、俺の陸上辞めるという選択で、退学になるようなことはなかった。
俺はそこから、本当にやりたかったことにうちこむようになった。
それは音楽だった。
あるとき、いつもつるんでる友達から、「バンドやりたくね?」と言われた。
最初は冗談みたいだったが、いつの間にか皆楽器を買っていて、本気でやることになった。
俺はボーカル。
休みの日に、皆で県で一番賑わってる駅のスタジオに行って、死ぬほど練習した。
スタジオの人がいい人で、ホントは2時間料金なんだけど、何時間でも練習させてくれた。
これが本気で楽しかった。
あ、これだ、って思えた。
陸上がつまんない、っていうことはない。
でも、心のそこから楽しんでるか? と言われたとき、即答はできなかった。
親の影響でやってるんじゃないのか? 自分が脚速くなかったら続けてたのか?
長距離走について、そんな質問をされたら、俺は答えれないと思う。
音楽は違う。
親は音楽なんて聞かなかった。
俺は特に歌がすごく上手いわけじゃない。
それでもめちゃくちゃ楽しい。
何時間でもやっていたい。
どんどん上手くなりたい。
俺の他にもっと上手い歌手がいても、そいつよりも上手くなりたい。
どうして県大会のとき、こんな感覚になれなかったのかは、今でもわかないけれど。
たぶん、陸上をやってる俺は、本当の自分じゃなかったんだと思う。
親が望む、自慢の子供を演じていた。
けど、俺が本当に嬉しいことじゃなかった。
俺は親の喜ぶ顔で喜んでただけだ。
音楽は、俺に直接喜びをくれた。
けど、その三人が生み出すグルーヴの上に、俺の歌を乗せる。
それで曲が完成する。
時間にしてみれば、ほんの数分。
それまで長距離を走破してきた俺にしてみれば、ほんの一瞬だ。
で、忘れもしない文化祭。
俺の高校の文化祭は、応募制の野外ライブというのが何年か前からあった。
軽音楽部とかフォークソング部とかのバンドが演奏するステージだったが、
他にも教師が組んだバンドとか、有志で組んだバンドとかが応募して、出演していた。
俺たちもそこに出ることにした。
はじめてのステージだった。
その頃になると、もう俺たちの演奏レベルもかなりのものだった。
実際その後、ドラム叩いてた奴は音楽関係に進んで、今は有名ミュージシャンのバッグで叩いて飯を食ってる。
結局そいつが一番すごかったのかも。
野外ライブで、俺らの番が来た。
バンド名はさすがに恥ずかしいので秘密だが、司会が俺らのバンド名を呼んだとき、ちょっと肌が粟立ったのを覚えてる。
ここから将来ミュージックステーション出たり、紅白出たりしたらめちゃくちゃカッコいいな、と一瞬思った。
観客は結構集まってた。
ボーカルを俺がやっていたので、陸上のときの同級生・後輩が結構いた。
ギターもサッカー部の人気者だったので、それ目当ての女子が結構な数いるのが見えた。
自信があった。
後輩も、もしお前らが俺を尊敬してるとしたら、単に足が速いから尊敬してるだけだろ、
でも、これからは音楽を通じて、尊敬してくれ、と本気で思っていた。
それまで偽りの自分で評価を得ていた人間が、本当の自分で戦うのは、本当に気持ちいいものだった。
MCで何を喋ったかもよく覚えてるが、これはマジでイタいことを言ったので、敢えて記載はしない。
俺が想像していた観客の表情ではない。
なんか笑いをこらえているというか、笑ってる奴もいる。
当時はビジュアル系全盛期で、俺たちが選んだ曲は、L'Arc~en~Cielの『花葬』だった。
俺はHydeに全力で心酔していた。
ていうかHydeよりカッコいい人間は今でもこの世にいないと思っている。
けど俺はHydeじゃなかった。
俺はそれまで自分のことを正直カッコいい部類だと思っていたが、Hydeではなかった。
それから俺は、高校を卒業して、親のコネがあった地銀に就職した。
今年はじめて箱根駅伝を見た。
それで内心「うわああああああああああ」となったが、嫁に気取られることはなかった。
俺が人生で学んだ人生訓は、「本当の自分とか言ってねーで、人から褒められることをひたすらやっとけ」だった。
でも、そんなこと子供に言う訳はない。
願わくば俺の子供が、ホンモノの才能を持っているか、ニセモノの自分に何の疑問も抱かないウスノロのどちらかでありますように。
子どもが生まれて3年経つが、いまだに自分の時間が全然ない。当然、趣味をする時間が足りない。「何のために生きてんのかな」と本気で考える。
気が付くと、「家に帰りたい。」と独り言を言うことが増えた。無意識に言っている。怖い。
どうやら、僕は無意識に子どもがいるこの生活を「家以外のどこか」だと思っているようだ。
20時頃は子どもを寝かしつける時間であるため、電気を付けて食事をとることはできない。
そのうえ辛いもの、油ものは出ない。子どもも妻も食べないため、コスパが悪いからだ。
友人とも疎遠になったのも辛い。幼稚園や将来にかかる費用を計算したら、月のお小遣いは1万円でももらいすぎているくらいだった。
何に使うのも自由だが1万円以上は一切出ない為、友人との飲み会は月に1回がいいところだ。
こちらを気遣ってくれて、1次会をサイゼリヤにしてくれるあたり本当にいい友人を持ったと思う。
休みの日も早いので、23時には帰らなくてはいけないのも寂しい。彼らはいつも通り朝方まで遊んでいるのに。
土、日、遅くとも7時には起きなくてはいけない。
日曜はEテレの教育番組が8時には終わってしまうので、本当は6時に起きなければいけないができていない。
休みとはいえ気持ちは平日と大して変わらない。洗濯、掃除、皿洗い、子どもの着替えを済ませて9時には児童館へ間に合うように出ていく。
「まだ遊びたい」と泣く息子を連れて帰ってきたら昼食だ。キムチか天ぷらが食べたいが日曜日はうどんだった。
この夏は猛暑で公園は行けなかった。仕方ないので午後は市民プールへ行くのが日課だった。
水泳ゾーンでひたすら泳いでストレス発散したいが、30cmの幼児プールで子どもを見張らなければならない。
一度帰宅して買い物に同行し、洗濯物を畳んだらもう夕飯だ。17時台だけはEテレのおかげで少し休憩できるため仮眠を取る。
皿洗いをしてお風呂に入れたら就寝。自分自身の体力が無いのか、子どもと一緒に朝まで寝てしまう。
趣味をする時間が全くないため、妻に相談したこともある。どうか趣味の時間をくれないか、と。
あなたは色んな人と関わりがあるのだろうけど、あの子にとってはまだ家族しか外との繋がりがない。
その相談は父親としてあるべき姿だと思っているの?」とぐうの音も出ない正論が飛んでくるだけだった。
「自分が死ぬまでにしたいこと」に家庭を持つことが入っているか?
「自分が幸せだと感じる瞬間」を想像したとき、そこに家族の姿があるか?
僕は趣味だけが生きがいだった。小、中、高とずっと帰宅部だった。全て趣味に時間を注いでいた。
そんな人間は、子どもを持つべきではなかったという事実に後悔しながら日々生活している。
息子はまだ小さいからか、こんな僕にも懐いてくれている。
「お父さん、次のお休みはいつ?」と毎日聞かれるけれど、僕に"お休み"できる日はあと数年は来ない。
この日記は、ただ単に「三度の飯より趣味が好き!」な人や「結婚したし、子ども作っとこうかなー」なんて安易な考えを持つ人がいたら
よーく考えた方がいいよ、僕はこんな生活をして後悔しているよって言いたかっただけだ。
ただ、愚痴をこぼしてしまったばっかりにネガティブな感情を持つ人が増えてしまい申し訳ない。
ここから下に書くことも最低な糞野郎の内容なので、親として怒りを感じる人は読まない方がいいと思う。
「自分の時間が無くなるなんて当たり前なのになぜ産んだの?」という多くの疑問をもらっているので答える。
仕事が趣味、みたいなバリバリこなす上司も、野球ばっか見ていたような同僚も「子どもはいいぞ!人生で一番大切な存在だ。」という人ばかりだった。
「子ども全般は嫌いだけど自分の子どもだけは可愛い!」みたいなこともよく聞いた。
妻、義両親、両親、みんな子どもを欲しがったし、
「僕が子どもが生まれたら趣味以外にも興味(生きがい)が持てるのかな?」と安易な判断で子作りに協力してしまった。
僕が世間知らずだったのかもしれないけど、自分の時間が無くなるよ、覚悟しているの?なんて話は全然聞いたことがなかった。
いくら子どもが生まれても、多少は趣味の時間が取れるだろうという甘い考えがあった。
妻も趣味を持っていたが、「趣味をすること=自分のためだけに時間をつかうことは親のすべきことではない」という考えなので交代で育児を休む気がない。
「今は手がかかるが、そのうち嫌でも子どもは離れていってしまう。それまで趣味は封印」とのこと。
増田たちも怒っているけど、本来なら月に1回、23時までの飲み会も許されない。
みんな凄いよ。僕はせめてこの飲み会が無いと、もうストレス発散できる場所が無い。
正直、何をされても可愛いと思えるほどではない。「寝顔が可愛くて見ていると疲れが吹っ飛ぶ」などという気持ちはない。
おもちゃを取ったり取られたりの仲裁もあるし、まだ滑り台などの階段を上らせるのも危険で、すぐ横で見ていなきゃいけないので疲れる。
ふとしたときに成長を実感することが増えたけど、成長する喜びよりも自分がしてきたことが報われた、という気持ちの方が強い。
(父(僕)がしたことが報われたのではなく、母(妻)が主にしていることが報われているのだけど。)
高校に入学したばかりの頃、毎日が楽しかった。関西でそこそこ有名な進学校に受かり、高等教育を受けなかった親が泣いて喜んでくれたことが誇らしかったのを覚えている。
部活は小学校から続けてきたこともあり、サッカー部に迷わず入った。中々ハードな高校の部活にも少しずつ慣れ、試合にも出れるようになってきた秋頃から、じわじわと部活の同級生の態度が変わってきた。
部活が終わると皆で日課のように立ち寄っていたコンビニも、皆俺を置いていくようになった。急いで着替えて走って追いかけると例のコンビニの前に皆いて、少したむろして解散すると、いつも同じ電車で帰っていた同級生は俺と話そうともせず、スタスタと先に歩いて行ってしまうようになった。最初は話しかければ素っ気なくも会話があったが、気づいた時にはすっかりスルーをされるようになっていた。休み時間に話しかけても部活の同級生は俺の言葉に反応をしなくなった。自分でもいよいよこれは無視されている、と気付いた。
この頃から世の中の景色が一変した。あれだけ毎日通うのが誇らしく、楽しかった校舎も見るだけで気分が沈むようになった。それでも通学の自転車の時間は一瞬で過ぎ、家を出て次の瞬間には学校の前に着いているように感じることがよくあった。
同級生と会うのが怖くなり、学校も休みがちになった。胃が痛くなったり、身体が鉛のように重くなった。
世の中には殴られたりカツアゲされたり、物を隠されたり、もっと卑劣ないじめをされる人が沢山いることは知っているが、人からこんなにもあからさまに嫌われることが生まれて初めてで、辛かった。
なんとか部活に出た日は、それでも練習が終わるとひとりぼっちになるのが嫌で、真っ先に着替えて日課のコンビニに置いていかれないようにもした。無視されることに変わりはなかったし、思考回路がもう萎縮していた。
もうこんな生活は続けられないと思い、小学校から続けていた大好きなサッカーを辞めようと思った。顧問に部活を辞めたいと切り出すと、
と突き放された。
「部活辞めてどうするんだ、どうせ髪染めて煙草でも吸うようになるんだろう」
と言われた。この時顧問は部内の1年生に何が起きているか、把握していなかった。
中々主将に切り出せず、1ヶ月経ってようやく辞めたい旨伝えることができた。この1ヶ月毎日「言わなきゃ」と頭に渦巻き、それでも言い出せず、意識が朦朧としていた。
そのあと駆け足で顧問に
「主将に言いました、もういいですか」
と言った。顧問は
「そうか、元気でな」
とあっけらかんとしていた。
体調は少しずつ回復し、学校でも違う方面の友達と付き合うようになった。今まで怯えて過ごしていたことが嘘のように思えるようにまでなり、日常を一応は取り戻すことができた。
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辛い思い出だが、何故こんな目に遭ったのか、20年近く経った今でも考えることがある。この件、自分に原因があったと思っている。
原因は、自分の話ばかりしていたこと。人の話に自分の話をすぐに被せていたこと。どんな話題にも返しは「俺はー」だったこと。これに尽きると思う。理由もなく嫌われた訳ではないのだ。高校1年生といえど面倒くさい奴と思われたのだろう。
しかし、集団で無視はきつい。どうか嫌いな人にもそういう罰は与えないでほしい。一生のトラウマになってしまうこともある。俺が今もし部活で一緒だった彼らに道端で会ったら、間違いなく物陰に隠れると思う。
そして、理由は様々あれど、部活を辞めることは決して恥ではないと思う。長い人生で部活辞めたことなんてほんの些細なことです。本当に些細なこと。
部活を辞めてしまった学生の皆さん、どうか負い目を感じずに興味の持てることを探したり、一生懸命勉強したりして楽しく過ごしてください。
「“出来た親の子供”でいるよりは楽だと思うけどな」
「でも、その表現失礼じゃない? 本当に帰宅部とか自宅警備員やってる人たちに」
「当初は『影の薄い、繋ぎの内閣総理大臣オールスター』っていうスタンダップコメディやろうとしたんだよな」
彼の国では最も人気のスポーツであるゲートボールが、なんとこの学校にはなかったのだ。
ブラーくん「まいったなあ。僕の特技をみんなに見せて、一気に打ち解けようという目論見が瓦解しちゃったよ」
だからといって、帰宅部という消極的判断は彼の選択肢に存在しない。
このままだと自らの青春時代は、何とも言えない感じの思い出ばかりになってしまうからだ。
だが、それから大人になったとき、そのイケてない出来事を何度も思い出すことになる。
それは耐え難いものであった。
ブラーくん「とはいっても、野球とかは熱血臭くてちょっとなあ。サッカーも、現実世界で優勝できないからって、フィクションの世界で勝たせるような国だしなあ」
ブラーくんの各スポーツに対するイメージは、もっぱら日本製のアニメや漫画から得たものだった。
そうして、ピンとくるような部活に出会えないまま、学校中をウロチョロしていた、その時である。
???「危なーい!」
ブラーくん「うっ」
ブラーくんの頭部に何かが直撃する。
しかし衝撃も痛みもほとんどなく、本当に当たったのか疑うほどであった。
???「ごめんなさーい! 大丈夫ですか?」
先ほどの声の主が駆け寄ってきて、ブラーくんの頭を撫でる。
黒の長髪、凛とした出で立ち。
それが錯覚だとすぐに気づいたのは、彼女が持っていた馴染みのない物体のおかげだ。
ブラーくん「こ、これ何?」
???「あ、『カントカ』に興味あるんですか?」
ナントカさん「そう、そして私は『カントカ』をこよなく愛するナントカ。よしなに」
これがブラーくんと、『カントカ』をこよなく愛する「ナントカさん」の出会いだ。
ナントカさん「そう、ブラーくん。我が『カントカ研究クラブ』に興味はない? と言っても、今は私一人ですけど……」
ナントカさん「カントカってのはね。カンダイをアブダンするために出来たものなんです」
ナントカさん「ちなみにカントカの名前の由来は、居間にいるカント夫人のお尻に蚊が止まったことが由来とされています。それまでは“ミシダ”って呼ばれていたんです」
ブラーくん「へえー」
聞いてもいないのに豆知識をねじ込んでくるナントカさんに、ブラーくんは生返事するしかなかった。
ナントカさん「嘆かわしい。カントカのことを知っているようで知らない人たちが、ここにもいるなんて……」
ブラーくん「つまり、そのカントカを普及を兼ねて研究しているクラブってこと?」
ナントカさん「察しが良い。カントカの素質がある。是非、入部の検討を!」
ブラーくん「えぇ……?」
ブラーくんは戸惑った。
部活に迷っていたとはいえ、まるで知らないものに対して自分の青春時代を一部でも捧げてよいのかと悩んだからだ。
ナントカさんの見目麗しさはブラーくんの美的感覚をくすぐったが、だからといって入部については慎重にならなければならない。
ナントカさん「見学、見学だけでもして! カントカの魅力がきっと分かるから」
ブラーくん「こっちの話を聞いてくれない……」
ブラーくんはナントカさんの押しの強さにやられ、無理やり開いている教室に連れて行かれた。
ナントカさん:黒髪ロングがキマッている白光美人。初見では大和撫子のような印象を周りに与えるが、実態はカントカのことになるとキモヲタばりにテンションがあがって饒舌になる残念美人。カントカが絡むとやや非常識になりやすく、ブラーくんは巻き添えを食らう。
すまん
それと先に書いておくと書いてる俺自身がクズ(真面目系クズ)すぎて
イライラを感じる人がいるかもしれないのでそれだけ断っておく。
とりあえずなんでそろそろ死ぬと思ってるかというと
人生が上手くいかなすぎて生きるのが辛いからです、すごくよくある話ね
「つらい、死にたい」ってさっきも泣いてたんですけどこれ鬱なんですかね
診断書もらってないどころか病院怖くておっくうで行ってないんでわからないですけど
現況はですね一応身分上は大学生で実態は不登校の引きこもり(実質二年目)です
不登校になった理由はほんとくだらないしありがちだけど後で書きます
やりたいことは腐るほどあるんだけどやる気力が全くない
アニメとか映画観たいしゲームもしたい、絵描きたいしプラモ組みたい、
買った玩具やフィギュアでブンドドしたい、学校は行けてないけど勉強したいことはたくさんある、
ほんとはあのコラボカフェ行きたかったしあのイベント行きたかったなあ…
やりたいことはあるのに一日終わってみると何もできてない、ごはんすら食べられてなかったりする
そしてこれが精神を削る原因になってる
一日のほとんどを布団の上ですごして今日も何もできなかったと思うのが辛い
ツイッターで他人がやりたいこともやりたくないこともやって人生を謳歌しているのを見て余計に辛い
その辛いが積み重なってもう死んじゃっていいやって思ってるわけ
どうせ不登校なら毎日街で飲んで朝帰りとか友達と徹夜麻雀とか徹夜カラオケとか
一言で言うならば「自滅」です
クソみたいな人生だった、いや、クソみたいな人生にしてしまった
この頃から「やりたいことはあるのにできない」という状態に陥ることは間々あったが
課題もちゃんとやって出してて成績も良かったからそれが辛いこととまでは思わなかった
緩い文化系の部活だったけど一応部活入ってたし生徒会もやってた
成績はどれくらい良かったかっていうと2回に1回は1位取ってた
少し後の話だが、このとき俺と実力伯仲してたやつ
俺が中学の時から目指してたのと同レベルの大学に現役で受かって
人間性を保てていたような気がする
といっても帰宅部だし生徒会も中学で面倒だったから高校ではやらないという
(ダメなタイプの)決心をしていたので思えばこの時からやばかったのかも
おまけにちょっとした自分のミスで(元々あまりなかった)受験勉強へのモチベを失い
さらに怠けクズが加速した、課題はこの頃から出さないのが出てきたような気がする
ちなみに何で課題にしか触れていないかというと勉強は課題しかしていないから
テスト前の詰め込みも二年のころからしなくなり三年ではほとんどしていた記憶がない
当たり前のように志望は中学のときから落としたが当たり前のように大学は落ちた、浪人した
「やりたいことがあるのに何もできない」状態がデフォルトになったし
なんで浪人したんだ、ほんとに
結局前年受けた大学に再挑戦すらできず駅弁になんとか滑り込んだ
この時点で「プライドばかり高かった成れの果てのクズ(既にダブリ)」のできあがりである
このときはまだ希望という名の未練があったから死ねなかったようだ、二年も余分に生きてしまった
さっきから触れている高校からの怠けクズメンタルと根本的文章力の無さ、
ほとんどレポートを仕上げることができず、提出するもん出せないのに講義に行ってもダメだよな…と
外に出ると学校の人に会うかもしれなくて怖いからね、だからたまの買い物も深夜か早朝に行く
教授もクラスの人たちもみんないい人ばっかりだったんだけどね、たまに学校行くと優しく声かけてくれるしさ
まあそれが余計に辛かったんだけど
コミュニケーション能力かやる気のどちらかがあればきっと20%くらいは
ましな人生になったと思うけど、俺にはどちらもなかったのでこうなってしまった
まあいいや、しても
読み返してみたら(やっぱり)自分がクズ過ぎて早く死んだ方が世の中のためだなと思った
親には予備校の分も大学の学費分も還元できてなくてすごく申し訳ないし、
どうして俺みたいな不良債権ずっと持ってられるんだろうと思う、勘当したいときいくらでもあっただろう
できれば消化する前に死にたいがな
こんな考えが幼稚で未熟で社会の歯車になる覚悟のない無価値な人間は死ぬべき!
本当に最後に。夢って何なんですかね、少なくとも持ち主に劣等感と無能感を植え付けて
苦しめるためのものじゃなかったと思うんですけど
逆に私にとっては、普通の子を出来る子にする方が簡単じゃなかった。本人に勉強への自発的意欲があって家庭の協力があれば偏差値60超くらいまではいけたけど、そこから先は元々の素養がないとダメかなぁという感じだった。個人的な体感だと65を超えるのは元々の素養が大きく左右するなぁと思っていた。
学校に通うこと自体が苦痛で勉強すると学校のこと思い出すから家で授業の復習はしないようにしてた。
塾なんてあり得なかったよね。同学年の子に会ったり自分の知力をいちいち図られたりするの、恐怖というかストレスでしかなかったもんね。
人から何かを習うの今でも苦手だわ、「無能」の型に押し込められてわかりきったことを何度も説き伏せられるの本当に苛々する。
それでもテスト受けて平均点より低い点数をとることはなかったけど、流石にヤバいかなと思ってたまに目を通す程度だった進研ゼミを活用するようにはなった。
進研ゼミは副学教材として微妙という意見もあるらしいけど、それなりに自発的に勉強したつもりで結局偏差値60より上に行けなかったんだよ俺。
「ああ、俺には勉強の才能もないんだ」って敗北を感じたよね。
体育で嘲笑され、校則で帰宅部が許されないからって仕方なく入ったクラブでもお荷物扱い。友だちもろくにいなくて休み時間はいつも寝たふり。
そんな俺でもちょっとやる気出して勉強すれば素養があるからいい線いけると内心思ってたんだよね。
俺にも存在する価値があって、肩身狭く惨めに生きる必要なんてないはずだって思ってた。
それが結局粗末に扱われて然るべきの無能だって証明されただけなんだもんな。
だから高校入ってから勉強なんて全くしなかったよ、人と関わるのが嫌で世間から風当たりうけたくなかったから中退回避には必死だったけど。
「欠落した部分なんてないのにただなんの才能も持たない無能だったが為に周りから馬鹿にされて惨めに生きる俺みたいな人間を誰も救えないし救おうとも思わない」
って言う極々当たり前のことを増田を読んで改めて痛感したわ。
https://anond.hatelabo.jp/20180317085745
追記
進研ゼミやったくらいで勉強した気になってた自分の思慮の浅さも含めて「やっぱ俺って馬鹿にされて然るべき人間」なんだって当時は考えてた。
生まれた時から人と違った。上唇と上顎の一部が欠損した口唇口蓋裂という形で生まれた。
この欠損は特別珍しいものでもなく、500人に1人くらいの割合で起こるものらしい。また現代の医療は素晴らしく、成長期までに複数回の外科手術をすることで本当に目立たないようにしてくれる。でも目立たないのと自分の中のコンプレックスは別。物心ついた頃から、「自分は人と違う。出来損ないだ」って思ってた。思春期の頃はアルバムを引っ張り出して赤ちゃんの頃の写真をビリビリに引き裂いて捨てるほどだった。普通になりたかった。だから将来の夢はサラリーマンだった。
小中学校では、「普通の人たち」に認められたくて、たくさんの友達を作った。ギャルっぽい女子も暗い男子もヤンキーも関係なく話しかけて100人くらい友達がいた。大人に認められるために良い子を演じてたから授業も真面目に聞いて、成績も良かった。でも、どこか劣等感を抱いていたので、少しでもコンプレックスを取り除くために進学校と呼ばれる偏差値の高い高校に行けた。
高校では、それなりに運動ができるようになりたかったから、体育会系の部活を一生懸命取り組んだ。
すごくキツい部活で何度も辞めたくなったけど部活動加入率が90%超える高校だったので帰宅部は普通じゃないと思ったので耐えきった。部活を必死にやってたので学力は落ちた。周りの奴らは部活も勉強もできる奴らばっかで、みんな早慶とか国公立に行く人ばっかだった。相対的にバカな私は一浪して、自分の中でまぁ納得出来る大学までいった。
大学生活コンプにならないためにサークルもバイトも人並みにやったと思う。相変わらず友達をたくさん作ったのでレポートとかテストもいろいろな人の力を借りて乗り切れた。留年はしなかったけど成績は良くなく、下から数えたほうが早い席次だった。自分のいた大学では理系の8割くらいは大学院に進学した。普通を求める自分は、とくに何も考えずに進学を希望した。
元いた大学は研究界隈ではコンプレックスを抱きかねないくらい設備に乏しい。だから大学院では東大に行った。ちょっと残ってた学歴コンプも研究能力コンプも払拭するつもりだった。研究室での2年間はしんどかった。優秀で、勉強も運動も恋愛も遊びも就活も要領よくこなす奴らに囲まれた。かたや自分は、知識も経験もモチベーションも全て中途半端だった。周りの優秀な東大生はもちろん社会的にも評価されて、大企業から内定をもらってた。私は大企業だと生き残れないと思ったので、ワークライフバランスを重視している中堅企業に狙いを絞って、なんとか一社内定を貰えた。就活が終わって、久々に元々いた大学の友達と飲んだとき、彼らも一流企業の内定をもらってた。優秀な人たちだったから、納得は出来た。でもやっぱ彼らに対して劣等感を抱いてしまった。俺は東大にいっても変われなかったんだって悟ったのかもしれない。
ねじ曲がった心から生まれたサラリーマンという夢も叶えられたし、就職先もひっくるめて今までの人生に後悔はしていない。友達も尊敬できる人にもたくさん出会えたし、自分のできる限りを尽くして生きてきた。しかし私は東大生に求められる能力を持っていない。コンプレックスも解消できなかった。どんなに頑張っても牛の尻尾にしがみつくのが限界だった。ESでは、なんでもできる努力家を偽っていた。しかし現実は全て中途半端でADHD気質のコンプ持ち落第生だ。来月から会社でやっていけるのだろうか。一生懸命頑張ってもいつも周りには「より優秀な人」や「もっと頑張れるヤツ」がいる。
どれだけ、いつまで頑張れば私はコンプレックスをなくすことができるんだろう?
どれだけ走り続ければ私は幸せになれるんだろう?
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASKB27D5KKB2ULOB020.html
なんだか警察が珍しく頑張ってるみたいなブコメがあるけど、このくらいの捜査は日常的にやってるもんじゃないのか?しらんけど。
そういえば、僕が高校生の頃のある日、うちに刑事さんがドラマみたいに二人でやって来た事があった。刑事さんは僕に会うつもりで来たと言ったので、応対したばーちゃんは、僕が事件事故を起こしたか巻き込まれたかと思い込んで腰を抜かし泣きじゃくり、大変だったと家族談。
僕は帰宅部だったのでいつもは四時には帰っていたのに、その日に限っては学祭の準備かなんかで帰りが七時過ぎになってしまって、家族が心配していたのだった。
刑事さん達の用件は、最近ある凶悪事件の容疑者が僕とその家族に接触して来なかったか?という事だったらしい。刑事さん達が追ってる容疑者の職業は医者だった。
僕は子供の頃、命に係わる病気を患っており、それを治す為に大手術を受けていた。その手術の際、珍しい症例だったので多くの医師が見学に来ていたのだそうだが、その中に医者である容疑者もいたらしい。
警察は容疑者がかつて担当した患者から逃走資金を調達している可能性を考えて、患者の身元を調べて聞き込み捜査をしている、との事だった。
僕は容疑者と接触のあった当時は赤ん坊だったので、勿論容疑者の事なんて覚えていないし、以降それらしい人に会った事もない。
しかし、父が容疑者に一度見た事があるのを覚えていて、しかしやはりそれっきり全く会った事は無いと刑事さん達に証言したらしい。
結局刑事さん達は僕とは会わずに帰って行き、それきり来なかった。僕には両親が聞き取って、何か話したら警察に通報してくれということだった。
ばーちゃんは認知症をこじらせていて、僕が何かやらかして警察に疑われていると思い込んでしまい、誤解を解くのにはかなり時間がかかった。というか、誤解は解けなかったがしばらく経つとばーちゃんは刑事が来たこと自体を忘れた。