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はてなキーワード: 古代ギリシャとは

2021-02-15

anond:20210215132030

古代ギリシャスパルタが似た感じだと思うけど、最終的には滅びてるよね。

2021-02-11

anond:20210210163728

音楽史17世紀から始まる

  ← そういう嘘を言ってはいけません。

まずはまともな音楽史の本を見ましょう。古代ギリシャからまり、実際の譜例は中世あたりから出て来ます

グレゴリオ聖歌に触れない音楽史の本など無いし、だいたいはヒルガルド・フォン・ビンゲンあたりから個人名が出て来ます。そして中世音楽は14世紀マショーで最盛期を迎え、15世紀デュファイルネサンス音楽が始まりフランドル楽派が栄え、オケゲムジョスカンらが活躍し、16世紀にかけてルネサンス音楽が大繁栄します。

17世紀に始まるのはバロック音楽ですよ。

2021-02-10

音楽史17世紀から始まるのは何故なんだぜ?

音楽ってすげえ原始的芸術で、

たぶん言葉が生まれるより前から人類は歌ってたと思うんだけど、

それなのに音楽史の説明がだいたい17世紀から始まるのはどうしてだろう。

いやもちろん音楽自体は連綿と続いてきているんだろうけど、古代中世のことはほとんど語られないよな。

ちょっと詳しい説明でもせいぜいルネサンス以降じゃん。

絵画しろ彫刻しろ詩にしろ小説しろ演劇しろ

その芸術歴史を書こうと思ったら、

だいたい古代ギリシャか古代ローマか古代中国から始まるし、

その当時の代表作がいまでも知られていたりするよな。

でも、音楽でそういう「古典」の位置にいるのはバッハヘンデルで、彼らは17世紀に生まれ人物だ。

バッハなんて、あんな貫禄のある顔をしておいて、松尾芭蕉近松門左衛門より年下なんだぜ。

なんで音楽だけこんなに新しいんだろ?

2021-02-07

anond:20210206223117

ぶっちゃけ民衆はアホで扇動者に煽られて騒ぐのなんて古代ギリシャからわかってる今更過ぎることであって、政治家ってのはそのアホどもの機嫌を伺ってうまいこということが一番求められている能力なんだろうなぁ

SNSなんかで機嫌のトレンドがころころ変わる現在じゃ、それにアジャストできないおじいちゃんはやっぱり政界を去るのはやむを得ないじゃないか

まあ、森さんはこれを最後仕事にと思ってロハでやってるらしいけど飛ぶ鳥後を濁しちゃった感だね

2021-01-22

神様信仰することのアホらしさ

タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人神様信仰していない。私は神様ではなく自分幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人信仰している。

私の家系日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家仏壇を拝むときだけだ。クリスマス初詣もするし、お守りを持つこともある。

このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如である批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。

しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。

日本人宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教儒家思想キリスト教などが入ってきても変わらなかった。

このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系災害の多さに求めた。日本人古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国植物動物の息吹があまねく見受けられるのである

こうした環境日本人精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米中東のような一神教的な絶対神日本征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教神の国の一部として取り込まれるのだから

遠藤周作小説沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本根付かず改変されていることを元宣教師フェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなである

一方でキリスト教イスラム教などの一神教誕生したのは、砂漠の国中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。

それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパ民族合理的従順だったかであるヨーロッパ生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャローマ代表される科学合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。

ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本一神教が人々を統べる欧米中東差異が分かる。そして、これが日本無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。

一神教宗教観は日本無宗教非難するが、それは無宗教神様信仰しないからだ。一神教の神は世界創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教非人間的な態度であり、シリアルキラー同類存在なのだ。先の私の小学校先生無宗教人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由無宗教に求めたのだ。

その上で私は一神教宗教家の方々の私の宗教観への批判反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。

先ほど私は日本宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである

私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。

沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしま申し訳なさで死んでしまいそうだ。

何か危機に陥ったときにかつては祭祀加持祈祷に頼っていたであろうが、科学時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。

今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。

では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなとき世界沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。

だが、それは私が世界とのコンタクト放棄しているかである世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである

私は長々とここまで語ったが、私は他人宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。

私の記事は以上だ。

2021-01-08

anond:20210108104753

なのに、政治が分からない人がみんなで集まって「政治を行う人」を決めるって圧倒的におかしいでしょ。

おかしいが政治が分かる人のみが集まって政治を行う人を決めると

母集団バイアスがかかって民意の反映ができなくなる。

理想としては国民全員が政治が分かる人であるべきだが、古代ギリシャとかならともかく現代ではそれは不可能だ。

 

そこで個人的に良いとおもっているのが、ランダムサンプリングをして

サンプリング対象になった人に対して政治が分かるように勉強させてから投票するという方式

 

この方法なら副作用として選挙カー撤廃もできる。

2020-11-17

anond:20201117220911

昆虫食って古代ギリシャ時代くらいからあるわけだけども、拾ってきた廃棄弁当も似たような食文化だとでも言いたいの?正気かよ

2020-11-04

古代ギリシャにおいて音楽数学的に理解された

まり美を論理的表現するものだった、その伝統が今でも生きている。

から欧米ミュージシャン政治的立場を表明することに躊躇がないんだと思う。

政治言葉だし論理から

一方アジアにおける音楽はずっと、雰囲気を醸し出すものであって、白黒は決して付けない。

日本において音楽家が政治的発言をすることが忌避されがちなのはそういうところなんじゃないかな。

それぞれの在り方に優劣はないけど、まぁ、近代以降のアジア音楽ヨーロッパ発明された平均律を便利に使っていて、それは「文化の盗用」だとも言える。

2020-10-28

anond:20201028002727

神話にも思えるほど昔の話って三大始祖からエクリプス古代ギリシャ後期ぐらい)とかで、

戦国時代ぐらいがセントサイモンとかで、

明治大正のたいへんな時代リボーとかで、

高度成長期伝説セクレタリアトで、

シンザンとかそのあとだと思ってた。

 

ナリタブライアンも見たことはないけど子供のころ、

法事たまたまついてたTVでたぶんエルコンドルパサーが勝ったシーンを見た人間感覚

2020-08-13

anond:20200813021204

俺は逆に男は「恋」とか「愛」みたいな概念をかなり限定して使いがちだと思う

セックスを伴わないと「恋」とか「愛」とは言えないという制限無意識に働かせてる男が多いから男同士に関しては「友情しか許せなくなるんだろう。

これはホモフォビアを前提としていると短絡されることがあるが、より正確には性嫌悪的な資質が男の文化(本能ではなく)にあることを示唆するものだと考えたい。

古代ギリシャ男色カトリック禁欲も表れ方が違うだけで性嫌悪的な文化根付いている。

2020-07-08

anond:20200708105423

私は音楽が好きなので楽器を勧めたいが、

あなた人間に興味の比重が偏っているようなので、

音楽」ではなく、「音楽をやっている人」に執着してしまいそうで怖い。

クラシック音楽とかどうだろうか。

名だたる音楽家は全て死んでいるので。

古代ギリシャ哲学とかどうだろうか。

ソクラテスプラトンアリストテレスもみな死んでいるので。

2020-06-09

小児性愛(ショタコン)という深刻な病を持つ" 女 "たち

小児性愛=男性 、という図式ばかりフィーチャーされがちだが、実は小児性愛問題男性に限ったものではない。

しろ、隠れた小児性愛問題は「女性」の側にこそ潜んでいる。

男性若いアイドルばかり追いかけまわしていると思っているようだが、実は女性もまた、若い男性アイドルを追いかけまわしている。

例を挙げると、ジャニーズJr神木隆之介羽生結弦・・・etc (実際にはキリがない、というのもこの世には「男児」の水着イメージDVDなるものもあるからだ。)

彼らがまだうぶな少年だったあの頃、あのあどけない笑顔を性欲丸出しでおっかけていたおばさん達の表情を自分を決して忘れない。自分の息子を見つめる母親のような顔で彼らを応援するが、常識的に考えて"赤の他人"であるはずの男児あんなに大挙して群がるはずがない。あの頃の自分は詰めが甘かった。

なぜ将棋藤井聡太に若き日の羽生結弦ほど女性ファンが集まらないのだろう。単に将棋に興味がないだけだと思っていたが、しかし奴らはフィギュアスケートルールすらほとんど知らないのだ。(もちろんマナーも)

はなはだ疑問である

彼女たちは自分の汚らわしい性欲に過ぎないものを、まるで母性であるかのように"正当化"するのだ。

まるでどこかのクリスチャンみたいではないか

そういえばこの間も、ある成人女性小学生男子との淫行逮捕された事件があったが、普通に考えてあれは立派な"虐待"だ。

アホなネット民たちは「うらやまけしからん」などと笑い話で済ませていたが、本来もの分別のない小学生に性行為強要した場合精神医学的に考えてどんな傷害(トラウマ)を残すかわかったもんじゃない。

世の中には一定数の"ショタコン"女がいるわけだが、もし自分に小さい息子がいたとして、そんな奴らが大勢いる保育園子供を預けるわけにはいかない。ここは安全男性に預けたいところだが、どういうわけかどの保育園潜在的ショタコン欲求を持つ女性保育士ばかりが大勢を占め、未だ男性排除される流れになっている。(われわれは一体どこに愛する息子を預けたらいいんだ!)

自分は昔、母親風呂に入っていた時に、母親ペニスを触られたことがある。あの時の母親はただ笑っていたが、今考えると鳥肌が立つような不快体験だった。あれ以来母親憎悪するようになり、自分母親を徹底して忌避するようになった。自分はその時のことを誰にも何も言わなかったが、言えば性的虐待件数としてカウントされたのだろうか?また、同じような経験をした男性は、潜在的にどれほどいるのだろう。性的ものであれ、お受験教育的なものであれ、それは等しく"虐待"ではないのか。

(考えてみれば、母親恋人関係のような息子がたびたびテレビ報道されるが、あれも考えてみれば母親の"支配下"におかれ、もはや抵抗する気力を失った(無気力な)憐れな息子に違いない)

現実妄想のつかないのはむしろ女性の方で、彼女たちはむしろ現実男児に加害をなす恐れがあるのではないか、という問題をここに提起しておく。

「成人男性幼女」の構図ばかりを心配していたら、気が付いたら女がショタを苦しめていたではないか

願わくば彼女たちが、主にショタドールなどの現実人間ではない架空の"物体"や、または腐女子のような高度な妄想技術を磨いてその危険かつ屈折した性欲を日常的に解消してくれればいいのだが……。

(追記)

どうせ興味ないだろうけど自分の子時代の話をもう少しだけするが、自分母親のせいで異性との付き合い方が分からなくなったと言っても過言ではない。小学校4年生のとき女子からバレンタインチョコをもらい、その日母親に隠していたが、いつの間にか鞄を漁ったのかすぐに食卓の上に置かれていた。

中学卒業式の夜、学ランの第二ボタンがないことを上目遣いのいやらしい目で家の暗い廊下で問い詰められた。

高校生になっても通学の自転車を漕いでいると母親が車で自分を見つけ、「誰と話してたの?」と頓珍漢な詰問にあう。

学校女子に話しかけられてもどうせ深い付き合いになれないし、女友達になるにしてもそんなものが成立するとも思えない。

しかしこの頃から自分母親と、学校女子というものが、同じ「女」であることを強く感じ始める。

同級生女子もまた、男子という人間に対して同じ女同士の友達とは違う対応を明確にとり始めるわけだが、その下心のようなものがどうも見え透いて自分でもなぜか分からないが拒絶反応が起こり始めた。

どうにも自分母親と、目の前で気さくに声をかけてくれる女子の猫なで声が頭の中で共鳴し、嫌な思い出を引き出すのだ。

それ以来自分女性と深い付き合いができていない。

これは一体誰の責任なのだろうか?俺の心の問題なのか?俺の心が女性侵入を許せばただちに問題解決して、今頃、子供を作り幸せにやっていたのだろうか?分からない。しかしそんなあっさり心の問題解決してしまえるような奴が子供幸せにできるとも思えない。俺の精神の成長を止めたのは誰だ?俺か?俺だけなのか?あいつ(母親)は関係ないのか?猫なで声で接してきた同級生女子関係ないのか?じゃあ人間が一人で成長できるなら他人なんか要らないな。相変わらず都会のワンルームアパート孤独にこんな匿名記事愚痴を吐き出すしかできない。

ミソジニーなんて言葉があるが、どうせモテない奴の僻みだろなどと世間はいうが、女性嫌いになるのはいろんなパターンがある。自分場合はそれだった。一般的なこととして当てはまらない、統計的マイノリティだ、だからこれとこれは別の話だというのかもしれない。

じゃあフェミニズムって一体何のためにあるんだ?

フェミニズムとは一人一人が固有の体験において様々な問題について打ち明けることのできる思想だったんじゃないのか。

では俺の場合は何に当てはまるのだろうか。俺は男性だ。男性のためのフェミニズムってあるのか?少なくとも自分は知らない。少なくとも多くのフェミニストはそんなものは無いと言うだろう。

自分がもし、女に産まれてきたとしよう。そうすると多分、今度は自分父親性的虐待をされていたんじゃないかと思えてくる。多分99%そうだろう。パソコン履歴に「ロリコン 動画」などと検索するような奴だ。おまけに頭もものすごく悪い。まったく自分は男に産まれてきてよかった。じゃなきゃ今頃、風呂場で体中をまさぐられていたことを、今でも時折思い出しては発狂していただろう。いや、しかしこれも仮定の話に過ぎない。というのもそれを想像している自分あくまで男だからだ。あん父親性的虐待されてる自分なんてゾッとする。多分訴訟沙汰になっていたかもしれない。でもどうだろう、それでも女の子だった場合自分は、それでも無理やりにでもその時自分愛情を感じていたのだと心を誤魔化し続けていたのかもしれない。

もしそんな自分がいたとしたら、男がいうところの論理的思考なんてできないまま大人になり、ひょっとするとメンヘラになるか過激フェミニスト気取るか高いところから飛び降りていたかもしれん。男にモテてもモテなくても多分まともな人間関係が保てなかっただろうな。(この場合父親によって男性嫌いになっていることになっているが、もちろん母親との母娘関係においてまた別の問題が生じ、異性関係に支障をきたしたことだろう。あの母親はそういうやつだ。みんなは俺の両親については何も知らないかもしれないが、俺は"よく知っている"。奴らはそういう人間だ。どうせ互いの見た目(ルッキズム)だけで何も考えず結婚したのだあの馬鹿どもは。)

しかし今現在である自分にとっての問題は、結局未だ母親によって受けたトラウマが癒せず、女性というもの理解できず、成熟した精神というものの内在しない二次元アニメキャラしか興奮できないということだ。

特に幼女のような見た目のキャラか、どっかで献血ポスターになってそうなありえないくらい異常に発達した巨乳の童顔キャラかだ。自分もまた父親とまったく同じ種類の性的快楽を感じているのだろうが、それが自分に向けられた性欲ではなく、男同士で連れションしている感覚で、そこには男同士の明確な暗黙ルールに基づいているためにこいつは全く自分とは別の人間だと安心できるのだ。五感精神もすべてが何一つこいつに同調しない。

自分がもし、古代ギリシャスパルタのような男だけの社会で厳しく育てられていたらすべては解決したのだろうか。

昭和価値観マッチョホモソーシャルな奴らと共につるみ、「女なんて適当にあしらって子供だけ産ませときゃいいんだよ」とアドバイスされ、それに付き従い悪く言えば適当だが、良く言えば寛容な心で 結婚出産 までのコースをサクッと潜り抜け、子供も5人ぐらいサクッと産ませて国家安泰って感じでよかったのだろうか。しかし今は何もかもがセンシティブだ。(コロナでわかったことは、一人の人間の命が昔に比べて遥かに重すぎるということか。)

自分現実の女に興味がない。本当に電車での痴漢冤罪が怖い。そんなに男が嫌いなら、男の前に姿を現さないでほしい。

願ったりだ。そんな人間も当然のようにいる。しかしそれでももし、男だとか女だとかレッテル貼らずに一人の人間として対等に向き合う覚悟があるのなら、話ぐらいは聞いてやる。そしてそういう奴の言うことは、大抵「もっともだ」と自分は頷くだろう。

全ての問題は、男も女も、異性にしろ同性にしろ互いをモノとしてしか見てないところに原因があるような気がしている。


皆さんが考えているだろうことは自分もなんとなく想像がつく。

まり自分が様々な問題混同しているように見えるのだろう。確かにそのことについて自分も常に考えている。

しか被害者とはそういうものだ。論理性などない。自分感情をまとめることな自分一人で到底できない。

あらゆる問題混同したまま巻き込み、感情だけで片付く問題ではもちろんないが、論理だけで片付くとも到底思えない。

また、論理感情を上手く整理できる人間がいるとも思えない。すべての問題は置き去りにされたまま勝手に次のステージに進む。いつだって冷静なふりをしている人間は次のゲームに乗り遅れる。ここから心臓でここからが肺だとか、冷静にメスを入れることのできる奴だけがぶって問題を"上"から片付けようとするが、現役のスポーツ選手にとっての実感はどれも等しく見分けがつかないほど連動しているってことだ。皆様は自分こそが上手に魚や牛を捌けるとマウントを取り合っているようだが、今自分ポジションはそのまな板の上の魚や牛で、あなた達が捌こうとしているものは実は"人間"で、そしてそのまな板の上の"人間"は自分なのだあなた方は私の身体の中身を知っているようでいて知らない。もちろん私にもわからない。私にわかものは私が知っているものすべてであり、それを経験しているのは私だけなのだから。当然私はカウンセリングにも行ったし、いろんな人の話も聞いた。しかし結局誰にも共感できない心の構造を持っているのだ。なぜなら「この私」の経験は「この私」だけのものであり、経験していないものそもそも共感などできないのだから

からこそ私は二次元女の子性的に愛する。あるいは精神が未熟な「ショタ」や「ロリ」や「犬」や「猫」に同情するし、共感する。

なので自分が男だからという理由だけで「ショタ」の立場だけに立つなどと勝手ミスリーディングはしないでほしい。

ロリ」の苦しみは「この私」の苦しみだし、「犬」「猫」の苦しみも「この私」の苦しみだ。

ぶっちゃけると、男だろうが女だろうが、ショタだろうがロリだろうが犬だろうが豚だろうが誰が何に性欲を感じるかなんてもはやどうでもいい。等しく等価だ。性欲はただの性欲であって基本的に汚らわしいものだ。

そして現実の生き物に迷惑かけたくないから、自分二次元に逃げた。

そしていつか大量の幼女ドール巨乳ドールを専用の部屋に集めて飾ってやる。

白人黒人問題にせよ、どこからが白でどこまでが黒か奴らに分かっているとも思えない。

各々が各々の定義を持ち出して、勝手に"冷静に"まとめようとするが、どうせまた数十年後に奴らは同じような原因でデモをするだろう。

そもそも論理性だとか合理性だとか、そんなもの現実にどこまで通用するか、またそのようなもの合意もあるようでいて実は無い。なぜならそんなもの感情的な動物と化してしまったものには理解できないからだ。

何が問題かと言えば多分今日SNS的なもの全てだ。

(またまた追記)

ちょっとした軽い気持ちでこの文章を書き始めた自分だったが、結構数稼げたんじゃないかと思う。

君たちはこの文章ちゃんと読んでいるのか?それとも部分的自分が反応するところにだけ反応しているだけなんじゃないのか?しかし実際のところ、多分そういう読み方しかできないような構造が出来上がっているのだろうなとも思う。

どうやら君たちのいうところ、自分は何らかの「被害者」のようだ。なので言わせてもらうが、自分のような「被害者」は実はどこにでも潜んでおり、たまたま自分が上手く言葉説明できたに過ぎない。目に見えない自分のことを、どこまで真実を言っているのかわからいかもしれない。しかし今回の黒人デモにおいて思うのは、発端となった殺害された黒人も、案外"不注意"だったのかもしれん。というのも奴が問題を起こさなければ(例え正しかろうが間違っていようが)このような全米を巻き込んだことにはならず、平穏暮らしコロナに対する犠牲者の数をいたずらに増やさなくても済んだのかもしれない。

自分がもし黙って何も投稿せずにいたら、ひょっとすると「ショタ」の問題などそもそもどこにも存在していなかったのかもしれない。

被害者」は1人もどこにも存在せず、「ロリ」だけが被害を受けていることになっていたかもしれない。などと考えるのはただの自惚れかもしれん。しかし実際会ったことのないやつらに同情されても、結局同情という言葉けが一人歩きするだけで、自分情動に何のリアクションも起こさないのだ。この記事はただの自分メモ帳みたいなものだ。ひょっとすると、本当は何の虐待も受けていなかったのかもしれない。すべては俺の誇大妄想で、あの時の自分母親彼女なりに自分に尽くそうと不器用に振る舞っただけだったのかもしれない。戦争体験者の証言もそうだが、いつも当事者体験が一体どんなものだったかからない。お前は「被害を受けたのだ」とレッテル貼られても、それでどうしろというのだ。金は動くが心は何も変わらない。

しかし冒頭を読み返すと女を煽ってるような気がする。奴らにも辛い経験が当然あったわけで申し訳ないと思うが、しかしいずれにせよ人間はそれを「乗り越え」ねばならんのだ。(これでまとめた感を作ってみました)

(またまた追記追記)

しかしこの文章から人々は一体何を読み取るのだろうか?

このような追記追記を重ね、よくわからんただの歪なだけの文章を取り出して、それこそお前の精神構造を表しており、お前という人間の真理(心理)の一側面を表しているだなどとなんと精神科医とかはほざきそうなもんだが、ここまで書いてみて、君たちを鏡のように使ってみても、全然自分という人間がわからない。自分母親けが自分に影響を与えていて、それだけで自分構成しているとも到底思えない。とはいえ自分結構いろいろなことも経験してきたからだ。

どんな根拠をもってして、自分は何の被害を誰に訴えればいいのだろう?その正当性は何なんだろう。

2020-06-01

いまの日本はどう考えても働きすぎ

そもそも週5で8時間労働の時点で働きすぎなのに、それに追加で残業だの休日出勤だのがあって最悪

自分時間の少なさで言ったら江戸時代はおろか縄文時代にも負けてるんじゃねえか

あと気が滅入るような仕事が多すぎる これは日本っていうか現代問題だけどな 一日中パソコンに向かってカタカタやって頭使ってたらそりゃあ嫌にもなる

みんなで野に出て木の実を取るとか畑を耕すのがイヤになって自殺する奴がいるかということ まあいるかも知れんけど、少ないだろ多分

だいたい日本なんて一応先進国なんだから国際的にいえば貴族みたいなもんなはずなんだよ 古代ギリシャの人らなんて奴隷に働かせて自分らは悠々哲学なんかをやってたわけで、国全体で悠々やってないとヘンなくらいだ

いや、途上国奴隷にするのを正当化してるわけじゃないよ でも、奴隷労働の上にたつ人間奴隷労働をしてるってのは救いがないじゃない せめて憎たらしい敵がどこかにいなくちゃ

まあ日本富裕層とかそういうやつらはそれこそ貴族的に暮らしてんのかもしれんけどな

やっぱりここは暴力だ 暴力しかないですよ

2020-05-27

プロ(の)レス(バト)ラー

レスバトルっていつの時代からあったんだろうな?

少なくとも古代ギリシャでは当時最も賢い奴らがレス番付の上位を競っていたらしいが

2020-05-09

anond:20200425144157

国語の授業では抒情詩叙事詩があるってならったけど、日本語の詩は抒情詩しかたことない。

叙事詩古代ギリシャホメロスからしいけど、翻訳だと韻の感じがわからない。

日本語叙事詩ってないのかな?

2020-05-05

anond:20200505111628

文化とはその時代のその国の人々の精神生活を記録するものから文化がなくても生きてはいけるんだよね

ただ文化なしに生きる国というのは、それは動物や虫の生みたいなもので、かなり寂しいものだと思うよ

現代に生きる人間が、例えば古代ギリシャ時代人間生活価値観精神を朧げにも理解できるのは、

古代ギリシャ芸術が残っているからだし、そのほかの文化も同様だよね。

文化芸術現代社会を変えたりする力を持つなんて話は9割9分妄想だと思うし、

文化芸術ほとんど現世的な御利益はないんだよね

だがしかし文化のない、ただ現世を生きることのみに集中した社会というのはかなり浅ましいもんだろうね

2020-04-27

anond:20200427203307

絶滅させるほど狩ってても人類が平気で生きてたならその狩猟対象いなくなっても生存できるほど潤沢に食糧あったってことやで

これは訂正させていただく。

「平気で生きてた」わけじゃない。

たとえばアメリカ大陸では獲物を探して南下し、南米高山に上ってまでマンモス追いつめてたわけだけど、

本当に狩猟対象がいなくなると同時期に農耕・定住生活に移行してる。

獲物の枯渇が定住生活きっかけではないし、より正確に言えば農耕生活の開始と定住の開始はまた別である

 

が、土木に関しては了解した。

まり戦争ね。これは確かに

古代ギリシャとか見ても女が家に閉じ込めておく子袋扱いなのは戦力にならないからなんだよね。

 

2020-04-10

anond:20200410135431

籠池さんって別に死んだり命にかかわる事態になどなってないのでは

この手の増田って思い込みでわりとひどい妄想自分でつくりだして当たり前の感じで書くよなw

さすが古代ギリシャ基準の野蛮さ

anond:20200410135033

うそうそんな感じ

古代ギリシャあたりでも預言や神託がはずれると

巫女を嘘つきだって石でなぐりころしたがるバカがいたらしいよ

自分で野蛮だと思わないのな

2020-03-15

フェミニズム界隈を巡る反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照を想起させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

 その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。

 結論としては以上となる。

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