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2017-10-13

だーかーらー恋人いるのに誘うなっつーの

お前らはなんなんだ

恋人いるのに誘いに乗るわ

金融商品買いに行くのに付き合わせたり

メンタルを病んでる話をひたすらしたり

挙句の果てに恋人いるだと?

私はゴミ箱じゃねえんだぞ

そんな経験しかない私も私だし

そもそも恐らくはそんなのばかり好きになる

私が悪いのは分かるし

メンタルの原因が私だったりもするんだろうが

それでもおかしいだろ

私がなんか悪いことをしたか

なんだ?ここはあれか?

もしかしてメンヘラ金融商品地獄なのか?

他の人の住む浮世と重なり合って存在するもう一つの世なのか?

私は生前何したのだ?

あれか?メンヘル拗らせて自殺とかしたのか?

なんだ?とりあえずあれか?出家とか帰依とかするか?

いやマジで

はい。うん。

とりあえずリアルで出逢ったにもかかわらず

恋人いるのに誘う

恋人いるのに定期的にデートする

恋人いるのに複数回誘いに乗る

とかクッソ無駄だしもう時間もないのでやめてくれませんかね?メンヘルと金商品はもう諦めた。

2017-09-22

少女マンガにおける二股禁忌はあるのか

故有って、2週間ほどいわゆる少女マンガの人気作品を読み漁っていて、気づいたことがある。

ティーンターゲット少女漫画誌の中には、性的過激ものもあったりするとは聞いてはいた。

登場人物たちは頻繁に、強引にキスされたり関係を迫られたりと大忙しで、小学生も読む可能性あると考えるとハラハラだなと最初は思ったのだが、

物語を追っていると、性的に奔放な登場人物でも、実際にセックスするまでにはかなり引っ張るということに気付いた。

まぁでもこれは少年マンガでも同様で子供ターゲットならではの「セックス」を物語エンジンにする方法だと思う。

それと、もう一つ、多くの場合二股不貞に関してはかなり高いハードルが保たれていることだ。

主人公たちは、学校先生や兄妹やら、割と社会的タブーが強い恋愛にも積極的にのめり込んでいく。しか浮気二股には妙に厳格である

その他の恋愛タブーについてのオープンさに比べると、不思議なほど二股ハードルが高い。

胸キュン至上主義少女マンガだけに、主人公カップルの双方に必ずライバルが出てきて誘惑するのが常だが、

これらの「お、浮気か」シチュエーションは、あくまでも主人公カップルの「美しい恋」を引き立たせるスパイスしかなく、

ライバルたちと実際に一線を越えることはほとんどない(全部読んでるわけじゃないから分かりませんが)。

ライバルたちは、ちょっとそれ犯罪なんじゃレベルの誘惑をした後でも、それによって主人公たちがグラグラと欲に揺さぶられたとしても、

下手するとキスすら未遂だったりする。

なんでやねんと思わずツッコんだ。関西人でもないのに。そこまでえげつないことなってるならもう最後まで致したりーや。である

友達の彼」という、もろ浮気シチュエーションテーマも、少女マンガには頻出するのだが、

これも「友達片思い相手が付き合っている期間中」に、片思い相手行為キスや抱き合ったりなど)が行われることは原則は無いように思う。

有りのケースはただ一つ、「片思い相手が本当は主人公が好きになっていて…辛抱溜まらんくなって」というシチュエーションで、

上に述べたライバルと同様、胸キュン欲を掻き立てるための「物語スパイスであるライバル視点というか。

面白いのは、「胸キュンスパイスである浮気シチュエーションにおける「辛抱溜まらなさ」が、

彼女たち(主人公片思い相手ライバルなど)にとって、地球破滅レベルの罪悪感として描かれがちなことだ。

作品によっては、このまま出家するのでは、断頭台の露となるのでは、というレベルで深刻に苦悩する。

ちょっとキスされそうになったぐらいでなぁ、お前ら普段はかなり奔放なくせに、妙にカマトトぶりやがって。

少女マンガ基本的に夢と胸キュン世界な訳で、リアリティ立脚してツッコむなんて愚の骨頂でしかないのだ、解ってはいるのだが、

バランスが悪くてつい気になってしまう、これって、何が理由なんだろう。自主規制があるんかな。乳首描写NG的な感じで二股NGとか?

そして、そうじゃない(主人公がシモが緩い)少女マンガの名作があるならぜひ読んでみたいので、少女マンガに詳しい増田がいたらぜひおススメください。

何となく、一昔前に流行ったケータイ小説的な、援助交際モノみたいなジャンルとかあんのかな。なにしろ少女マンガ業界に全く明るくないので分からないのです。

2017-08-07

https://anond.hatelabo.jp/20170807142338

そんなことを言っていいのは仏教出家だけでな

我々はみんな池の水ぬかなくても命を差別して殺してるでしょ

あなた自分の子ゴキブリとどっちが可愛い自分の子でしょ

それがもう命の差別だよ

2017-07-21

千眼美子

なんか出家して、ゆっくり休めてそう~

休みがしっかりとれてるって言ってた

2017-07-05

https://anond.hatelabo.jp/20170705110032

元カノ出世したので会ってきた。

元カノが出火したので会ってきた。

元カノ出家したので会ってきた。

元カノが出店したので会ってきた。

元カノが出費したので会ってきた。

2017-05-26

女性宮家の何がやばいか、大河ドラマ『直虎』をベースに考えてみる

民進党女性宮家の創設を進めようとしている。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS17H4O_X10C17A5PP8000/

ぶっちゃけ、何が問題いまいちピンと来ない人が多いと思うので、自分なりに考えをまとめてみたい。

日本における天皇とは憲法にも明記されているとおり、国の象徴である

そして、その天皇家血筋を絶やさないために連綿と受け継いできた、不敬な言い方をすればバックアップにあたるのが皇室である

ここで本質的重要なのが「血筋」を絶やさないことである以上に「家」を絶やさない、ということ。

なぜ「家」を絶やしてはいけないか、について皆さんにしってもらいたくて、この文章を書いているので、最後まで読んでもらいたい。

皇室日本において、約2000年続いてきた伝統である

そして、その基本的ルールが「万世一系」、つまり男系宮家を維持し続ける、ということだ。

これはざっと分かりやすく言えば、皇室以外の完全な民間出身男性宮家に迎え入れない、ということ。

我々日本人は、このルールを千年以上守り抜いてきた。

そして、その歴史の上にはじめて、現在民主的国民国家象徴として祀り上げられて然るべき「天皇」という存在国民誰もが(程度の差こそあれ)尊重することができている。

日本の歴史上、天皇家に娘を嫁がせて「外戚」として権勢を奮った人物は多数いるが、「息子」を天皇家の婿に入れた人間はいない。

蘇我藤原・平・徳川といった、時の最高権力者でさえ、息子を天皇家に婿入りさせようなどとはしなかった。

これは、現代日本法規範である皇室典範まで受け継がれており、典範には、女性皇族皇族以外と結婚した場合皇室から離脱すると規定している(女性皇族結婚後も皇室にとどまる女性宮家の創設には皇室典範改正必要になる)。

ここで素朴な疑問として「でも、皇室男子が少ない現状、バックアップを増やすはいいことじゃん」と思う人も多かろう。

一見すれば、昨今の男女同権思想立場からも、賛同の声が聞かれると思う。

だが、これは現代日本という国の歴史における今この一点の判断で、安易に変えてしまってもいいルールなのだろうか。

これを分かりやすくするために、大河ドラマ『直虎』を例に出し、女性宮家を認めることのリスク説明したい。

ことの重大さが伝わりやすくなるよう、ある程度設定を改変するがご了承いただきたい。

・・・

ここに、1000年以上、自分たちを「井伊の民」と自覚してきた民と、そしてその領主である井伊家がある。

井伊家は相次ぐ争乱により、直系の跡取り男児は、先代当主直親(三浦春馬の子、虎松(寺田心)しかいなくなってしまう。

そこで、井伊家では虎松が成人し、当主を名乗れるようになるまで井伊家の血を次ぐ先々代当主の娘・直虎(柴崎コウ)に任せることにした。

ドラマではこの時点で直虎は既に出家し「生涯結婚することはない」という状態であったが、今回は直虎が出家をしていなかった場合を考えよう。

直虎は当主の重責を果たす中で、いつもそばにいてくれた幼馴染で小野家の現当主・政次(高橋一生)との愛を育んでしまった。

しかし、小野家は元々井伊家と敵対していた今川家の家臣。そのまま結婚し、子が生まれれば小野家の第一子となり、井伊家の名字は無くなってしまう。

そこで政次を井伊家に婿入れさせることになり、井伊政次と井伊直虎の子・政虎(仮)が生まれてきた。

さて、ここで、考えてみよう。井伊家の跡取りは虎松か政虎か。

から言えば、前領主の子であり本家本流の虎松が跡取りとして正当であるはずだ。

しかし、もう一方の政虎は現当主嫡子である。井伊の民にとっては「自分たち象徴」「井伊のアイデンティティである直虎の一人息子が政虎なのだ

これは、井伊という国を真っ二つに割りかねない、致命的な問題なのだ

井伊の民は、政虎を当主として認めることができるだろうか。

自分たちを「井伊の民」と名乗らしめるのは「井伊家」という一つのストーリーであり、1000年に渡る自分たちアイデンティティの中心にあるのは井伊の「家」である

政次は井伊の血筋とは全く関係のない小野家の人間であり、その子・政虎には井伊家の血が入っていたとしても、小野物語を受け継いだ人間である

もちろん、婿入りはしていたとしても、人が生き、人が伝え、人が託した物語とは、制度上の言い訳で誤魔化しきれるものではない。

もっと、肌で感じる「何か」のはずだ。

虎松ではなく政虎が当主になるとは、その瞬間1000年の歴史ある「井伊のストーリー」が、「井伊と小野ストーリー」あるいは「井伊のストーリー小野編)」に変わってしまう、ということだ。

日本では馴染みがないが、イギリスフランス王家では、女系宮家が婿に迎えた男子やその子王統を継いだ際に「●●朝」の名前が変わる。1000年続いた井伊谷の「井伊朝」が「井伊・小野朝」あるいは「小野朝」に変わる。間違いなく日本の「大和朝」は一つのターニングポイントを迎える。

しかも、小野家にはなんと先代当主を死に至らしめた事件黒幕という噂もある。

であれば、今回の一連の騒動は、小野による井伊家乗っ取りだと誰もが思うだろう。

さて、今回の例では、井伊の人々の思いも虚しく、最終的に息子への情愛に流された直虎が、自らの子である政虎に井伊家を継がせ、小野家臣団と井伊家臣団は統合されてしまう。

その後、反発した井伊家譜代の家臣団は弾圧を受け、排斥。井伊の民にとって「井伊」という言葉はその土地意味するだけのものとなってしまった……。

つまるところ、史実通り井伊家が井伊家として徳川末代まで残ったのは、この時の直虎が出家をしており、子を為さず、直系の後継者・虎松を育てたかなのだ

・・・

皇室女性宮家を認める、というのは近い将来この事態を受け入れる、受け入れてもよいと認めるということである

認めるか、認めないか判断を下すのはもちろん、主権者である我々日本国民一人ひとりだ。

女性宮家民間男性からまれ子供が、将来天皇になる、というのは、約2000年の間、我々日本人が連綿と受け継ぎ、守り抜いてきた1つの大きなストーリーを終わらせるということに他ならない。

あまつさえ女性宮家が迎え入れた民間男性外国人だとすればどうなる。イギリス皇太子や、韓国大統領中国共産党書記長の息子とも結婚することさえ可能なのだ

その可能性は、日本人として、認めていいのか。受け入れていいのか。

いざその瞬間、女性宮家婚約者を発表したときに、過去現在未来全ての日本人絶句するような相手でないと、誰が言い切れよう。

少なくとも、その時点から先にある「日本国象徴としての天皇」は、遡ること2000年間の全日本人が知り、崇敬し、仰いだ「天皇」ではない。別の何らかの意味合いを持った「天皇である

その物語を「日本の象徴」と認めることは可能なのか?

私は、女性宮家の創設には断固反対である

天皇家が今のかたちで現存しているのは、過去全ての日本人が「天皇家に取って代わる」という最後の一線を踏み越えることのなかった歴史の上に成り立っている。

自分たちにとって、神聖ものを、神聖なままに、尊び、敬う」という我々日本人の心の歴史が「万世一系なのだ

女性宮家の創設とは、過去あらゆる時点における日本人尊崇の念が無に帰す、不可逆の一手であることを知ってほしい。

2017-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20170520102940

何度か京都オウム道場に行ったことがあるけど、信徒さんも出家の人も純粋で楽しそうに修行していたのを思い出します。

牧歌的時代だったと言えなくもないけど、今の時代でもそういう生き方が出来ないことも無いと思いますよ。笑

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

目次 [非表示]

1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

2017-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20170517084552

イスラム一夫多妻だったけ?都合のいい宗教を選んだもんだねw

普通に伝統仏教のどっかで出家した方が早くね?

2017-04-27

仏陀家族捨てて出家して悟り開いたのに

なんで日本坊主は妻帯するにとどまら世襲続けるん?

2017-04-26

http://anond.hatelabo.jp/20170426221735

そうだよね

釈迦の息子はちょっとお母さんの胎内に8年くらいいただけで出家後に子作りなんてしてないよね

http://anond.hatelabo.jp/20170426221735

ええーっ

出家5年後に生まれたけど作ったのは出家前ですなんていう与太話を信じてる奴いたの!?

日本仏教って仏教じゃなくね?

http://anond.hatelabo.jp/20170425210458

から思ってたんだけどさあ。

まず仏教には五戒があるんだが。

酒飲まない、不道徳セックスしない、嘘つかない、殺生しない、盗まない。

これは在家仏教徒のための戒律ね。

俗世に生きる人でもこれくらいはまもろうねってゆるめの戒律

日本坊主でこれ守ってるやつ何人いる?

比較的清廉であろう元増田だってどれか破ってるかもしれんよ。

肉食って酒飲んで嘘つく坊さんどこにでもいるだろ。

出家戒律はこんなもんじゃなく厳しく細かいよ。

日本の坊さん一個も守ってないんじゃねーか?

なんで嫁さんいるの?なんで財産持ってるの?なんで金勘定してるの?なんで経済活動してるの?なんで修行してないの?なんで下らない娯楽で心動かしてんの?

本来なら無駄話すら禁じられてるのに。

これらの戒律無意味な苦行なんかではなくて、

修行の前準備として絶対必要もの

俗世のことは全部在家おんぶするかわりに身を清めて

全力で勉強瞑想修行するのが沙門の果報なの。

嘘ついたりだらしないセックスしたり飲酒したりしてたら在家レベル修行もできないし、

商売なんかしてたら出家レベル瞑想なんか絶対進まない。

実利的に戒律があるわけ。

修行というなによりも大事なことに全力で取り組めて出家は嬉しい。

在家もそんな尊い僧に帰依できて嬉しい。

これが仏教社会なわけ。

坊さんであったらもうものすごい人格と智慧持ってないとダメで。

ちょっと話したらこの人すごい!て思われるくらいの能力修行で開発してるのが僧なのよ。

ちょっと身の回り清くてもそれだけじゃダメなのよ。

真剣悟り目指して瞑想してて能力が開発されてないと。

そんな覚悟と自負のある坊さん日本に何人いるのか。

殆どがただの文化財管理人じゃん。学芸員にしたほうが専門家なだけいいよあんなもん。

http://anond.hatelabo.jp/20170426003910

元増田です。

私は妻帯世襲反対派です。

この手の質問に対する妻帯者の言い分は以下のようになります

歴史的経緯のある宗派を除きます

1:日本の現状として仕方がない

2:日本戒律大乗菩薩戒(梵網戒)だから不邪淫戒は不倫をしないということで結婚大丈夫

3:明治5年の太政官布告僧侶の妻帯勝手たるべし」に由来する

まず(1)は寺門興隆の為とか何とかいます(建前)が、それで興隆するのは家門(本音)です。これは「寺=私有財産」と考えられていることに関連している言い訳だと思います

(2)少し専門的ですが確かに梵網戒(ぼんもうかい)は、不邪淫を説くだけで具体的なことは述べていません(梵網戒は日本仏教の中では最も依拠されているもの)。解釈時代によって大きく異なっていますが、現代のように「不倫しない」というのは、「なんで僧侶なのに妻帯しているの?」と聞かれる頻度が増した現代的な解釈だと思いますしかし宗団が依拠する経典を読むと「性交渉」そのもの禁止しているので「不倫しない」は現代的に都合のいい解釈かと思います。「経典解釈」という現状がここで浮かび上がります

(3)仏法よりも世俗法に依拠する時点で話になっていません。

以上のことから、私の意見としては「僧侶として結婚をして子どもを産んで育てて世襲させる根拠はない」です。

余談ですが、必ず引き合いに出されるチベットタイお話です。

彼らと接して話をした上で分かった程度の知識です。

まずタイでは多くの僧は還俗します。

それは短い期間でも出家することが親孝行という一面があるからです。

僧侶になったのに還俗するということは、ある意味棄教とも取れる側面があるので、それはそれで問題かと思います

厳密に戒律を一生守る僧侶日本と同様に極めて少ないと言っていいと思います

また全ての戒を守るわけではなく、多くの戒律の中から自分の守れそうなもの選択して僧侶になります

次にチベットですが、戒律復興運動が起きて「根本摂一切有部」という戒律に則っています

しかし、この戒律復興問題引き起こしまして、チベット仏教が誇る「性ヨーガ」が戒律矛盾する状態に陥りました。

そこで実際の性交渉を避けて「頭の中で性交渉を思い巡らすんだ」という修行法が制定されて、それが現代の主流になっています

問題は「チェリーボーイなのに性交渉なんて思い巡らすことできない」という修行法そのもの不安定になっていることです。

あとチベットは妻帯しないとはいますが、性交渉は行っていましたし、妻帯した仏もいると伝えています

2017-04-25

役僧侶だけど「空き寺」「後継者不足」などよりもっと深刻な問題

最近新聞でも目にするようになった「空き寺」「兼務寺院」「後継者不足」が問題として取り上げられているけど、こんなの実はそんなに問題なんじゃないんです。

最も問題なのは、「空き寺」には誰が住職の籍を置いていて、「兼務寺院」は誰が兼務しているのかということと、「後継者不足」なんて実はしていないってことなんです。

■3つの問題リンクしている

宗門大学や大きな寺にはアルバイト在家出身僧侶なんて多くいるのに、なんで「後継者がいない」なんて言えるんでしょうか。

この場合の「後継者がいない」という場合の多くは「自分たちの子がいない」という意味だと思っています

在家出身僧侶はたくさんいるけど、そういう人たちに後継者として寺を任せたくないのが本音なんです。

というのも前述のように「寺」は「家」で、僧侶財産になっているので血の繋がっていない知らない人に任せたくないんです。

何故こういうことが言えるかといえば、以下のようなケースが少なくないからです。

「寺なんてやりたくない」という子供が出ていった…バンドで食っていくとか、失敗したとき保険をかけて夢を追えるいい環境です。

から在家出身僧侶」を養子として迎えて後継者として書類を残します。

バンドで食っていけないし、もうまともな職も就けないと悟った30歳児が保険申請します、つまり「親父…俺が悪かった、俺…僧侶になるよ!」と寺に戻ってきます

住職は迎えた次期後継者に対して「養子縁組解消してください」…なんてはっきりと言わないで、寺に火を付けようとした、不真面目で浪費家だと言ったイジメによって追い出しにかかります

自分から出ていってくれないと書類を残している分、不利だからです。

しかし、折角掴んだチャンスを在家出身僧侶も安々と手放すこともなく、ほぼほぼ裁判沙汰になります

回りの寺は在家出身の者より昔からの付き合いで住職の味方に付くので、次期後継者環境的に出ていかざるを得なくなりますが。

こういう昼ドラ脚本家も恐れ慄くことが繰り広げられているケースは本当に少なくありません。

まり後継者不足」=「自分たちの血のつながりのある人がいない」という言葉に置き換えて問題がないと思います

繰り返しますが、在家出身僧侶は本当に多いですが、そういう人が幸せに寺に入るケースは極めて稀ですし、ましてや妻帯しないで寺に入るなんて、茅ヶ崎海岸ダイヤモンドを見るけるレベルの話です。

上述のような「子供がいる寺」は、なんとか後継者問題仏事ではなく民事的に解決します。

子供がいない寺の場合は、そもそも在家出身僧侶が呼ばれることはなく、親類の寺が兼務することになります

兼務なので常駐するわけではないので「空き寺」と呼ばれる状態になります

あくまで常駐していないだけで、書類上は住職がいます

さらに「空き寺」の寺宝(文化財という意識がない)を自分の寺に持ち帰って、本当に何もなくなる「廃寺」状態になります

室町時代仏画を自慢し始めたかと思えば「これ兼務してる寺のやつやけど、キレイでええやろ?」なんていうことが横行していまして、倫理が欠損しているのも大概なレベルです。

どんなに小さなお寺でもいいので、地方過疎地域のお寺でも、アイデアで乗り切ろうと考える若手僧侶存在します。

しかし「檀家」が10件でも、兼務寺院住職にとっては「固定資産檀家)」なので、そういう若手僧侶住職の話はほぼほぼありません。

おかしいですね。本山にとっては「空き寺」が問題のはずなんですけどね。

3ヵ寺を兼務していて「忙しい」という割には、絶対に1ヵ寺も若手や在家出身者に住職権を渡すことはありません。

これを執着と言わずしてなんと言ったらいいのか分かりません。

個人的日本仏教はもうダメな気がしています

それは何度も言われていることかもしれません。

言葉は悪いですが、団塊世代年功序列的にトップになってからカウントダウンが加速したように思います

権力偏重が激しく、「寺」が相続されるべき「財産」になっていて、正直悔しい思いが一杯です。

真面目じゃダメなんですよ。世の中も、お寺の世界も。資本がないとスタートラインにも建てないんですよ、世の中も、お寺の世界も。

僕のような丁稚の弱小者本山にとっては単なる搾取対象しかありません。

これが仏教なのかと、経典論書を読んでは枕を濡らす毎日です。

感傷に過ぎましたが、「空き寺」などの問題の根源は、世襲制に基づく寺の「私有財産化」にあると思っています

どうか社会的圧力が高まって、改革兆しが訪れんことを。

追記

極論に過ぎている部分があるので補足しておきます

もちろんイレギュラー本来的にはレギュラー)な場合も多くあります

そもそも「寺」は宗教法人法に則った「法人」なので、多くは代表役員(主に住職)と役員檀家総代等)で構成されます

イレギュラーケースとして、代表役員在家者を置き、従業員として僧を置く場合があります。これは伝統仏教では少ない形態です。

法人運営在家者が行い、仏事に関しては僧侶が行う、これで何か問題があるのか分かりません。

そもそも代表役員事務総理するのであって、僧侶聖職者である必要はなく、住職という名称代表役員イコールではありません。

思うに、会社法のように株主過半数取締役などを解任するなどの方法宗教法人法にはありません。

代表役員として不適格であれば、役員を寺から追い出すくらいの規則法律によって決まっていてもいいように思います

本来は宗団内でそれくらいの「律」があれば法律的に定める必要のない問題のない話なんですが、法律にそんなことが決まっていないという主張によって不祥事をしても代表役員に居座ることができるという算段です。

仮に法改正されれば、葬儀墓地の年間使用料などで私服を肥やしてばかりの代表役員を解任でき、少欲知足でやる気あふれる若手を迎えられる可能だって出てきます

在家の人も抑圧された僧侶なども多くの人が助かるwin-winになりそうな気がするんですけど、そもそもそれくらいの自浄作用を宗団が持っていないのが問題なんですよね。

仏法に明るく、自分をよく戒め、よく人に施し、人とともに悩み、人に慕われる僧侶住職門跡管長あるいは長老なんじゃないのか…。

知人の僧侶最近こんなことを言っていました。

現代僧侶間の不条理在家出家者との軋轢を解消できないのだから仏教は間違っているのかもしれない。

しか日本文化地下水脈のように育んできた仏教を疑うよりも、それにあぐらをかい運用している人こそを先ずは疑うべきではないのかと思い直したって。

2017-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20170422041028

オススメの道が一つ有る。氷河期世代が持っている悩みが活きる道。

それは出家です。

お寺の跡継ぎは今深刻であり、また薄っぺら人生を生きてきた人ではなく、悩みもがいた人こそお坊さん向けな人間に仕上がっている。

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