はてなキーワード: 伝統とは
「スー・ドナルドソンらは、先住民族の土地をヨーロッパ人が植民地支配したのは不正であるという例を引き合いに出し、野生動物は領内で社会を作る利益を持ち、侵略者から彼らを保護するために主権を認めるのは有効であると指摘している。」
人間の権利を動物に拡大するというより、先住民族の権利を野生動物と同格に置いたという感じ方をしてしまうのだが俺だけ??
もし救命ボートが転覆して人間の赤ん坊と犬のどちらか一方しか助けられないとしたらどうするかと聞かれて、PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)のアウトリーチ・コーディネーター、スーザン・リッチは「はっきりとは分からない…赤ん坊を助けるかもしれないし犬の方を助けるかもしれない」と答えた。動物の権利哲学者のトム・レーガンは、たとえ犠牲になる犬の数が何匹であろうが、赤ん坊の方を助けるべきだと述べた。これはカント以来の伝統的な義務論の延長上に権利論を展開した、レーガンの立場を示すものと言える。」
種差別を全く行わない立場なら、犬を助け赤子を見捨てるのは倫理的に問題ないはずでは?
人間を常に救うのであれば、種差別を行っていることになるのでは?
「人間だけを特別視する宗教的な考えを拒否すれば、重度脳障害または重度知的障害を持った人間を、同等の精神的知的レベルの動物と峻別することが困難になる、とシンガーは表明する」
つまり知的障害者は同程度の知能の動物と同格に扱ってよいことになる。
別のところでシンガーは、痛覚を感じない障害をもつ人間は、痛みを感じる実験動物より実験対象として適格であるような意味のことを述べている。
こういった考え方は差別的ではないのか?
小学校でやってるような集団ヒステリーじみた行為の大部分は旧帝国軍からの受け売り。
そして、それを自衛隊は今でも素晴らしい伝統として使い続けてる。
それを見て教育機関は、このやり方で問題ないんだなとずっと同じことをし続けている。
つまりさ、小学校のあり方に違和感を感じるなら、同じ口から自衛隊の無意味な軍隊ごっこへの批判が出てこないとおかしいんだよ。
一糸乱れぬ統率のためと称した行進訓練だとか、異様なまでの団体責任制度、まだパワハラ扱いされないギリギリを攻めるのに人生をかけるかの如き肉体的苦痛の強要、上司の俺ルールに過ぎないのに完璧なオウムになるのを求められる報告手順、アイロンが無駄に効いた衣服(毎日訓練してはかけなおし。その時間に払われる給料は税金から出る)やピカピカの軍靴、そういった諸々の人生と税金と精神力の浪費を批判しないとおかしい。
それをせずに「うるせー軍人はそうやって無駄なことしてんのが仕事なんだよ。馬鹿はあやつり人形やってな!」と言うのなら、その言葉はそのまま小中学生の上に降りかかるよ。
そこ、分かってるかい?
下記箇所について、補足。
多少横道に逸れるけど、前近代の家族観の認識のずれの方が気になった。
今となってはそれが極論に過ぎないという批判も多い
お手数だけどこれの根拠があれば紹介請う。
引用いただいた「今となっては『それ』が極論に過ぎない」という部分の「それ」は、直前の、いわゆる「近代の見直し」が盛んだった時代の論、を受けているのね。自分は家族論や社会学の専門家とかではないけど、たとえば20年ほど前にはF・アリエスの「子供の誕生」について、次のような言い方で「近代以前に〈子供〉はいなかった!」的な紹介がされ、多くの人に影響を与えたわけだけれど、
子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。(みすず書房:https://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html)
実際問題としてこれは「(我々が思うような近代的)子供(観)」が誕生したのは近代の出来事に過ぎない、というだけの話に過ぎないわけだということは、今となっては説明するまでもないことだよね。親子像、子供像が「今とは(多少)違う」のは事実としても、親子や子供が過去の文献に登場しないということはない。自分が言いたかったのはそういうことです。そして、増田が引いてくれた極東ブログが引用している元論文も、原文では次のように書いてるよね。
これを、極東ブログさんは「日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ」というタイトルで紹介するわけだけれど、この図式は上に挙げたアリエスの事例とそっくりだというのは分かってもらえるのではないかなあ。つまりもともと「(近世に誕生した近世的)家族は近世以前にはなかった」というだけの話しかしてないのに、それをセンセーショナルに取り上げて過剰に敷衍した意味づけをしている、という構図。いかがでしょうか? 本当は、近世以前にも、たとえば古代的、中世的な形で家族はあったし、古代的、中世的な姿で「子供」も社会的に存在した、ということです(たとえば「子供」を人間以前の存在として大人とは別なる名を与え、一定以上の年齢になると新たに人間としての名を与える「元服」という風習とかがそう。)。
さらに、今私たちが思う「子供」観の全てが「近代に作られた子供像」で説明できるのかと言えば、それもまた違うのではないだろうか。単純に同じと言えないことはもちろん前提なのだけれど、1300年前に山上憶良が「銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と歌ったその親子観、あるいは800年前ごろに、合戦中に年配の熊谷直実が、組み伏せた若武者が十六、七と我が子のような年の若者であるのを見て思わず刀を止めるシーンを描いた平家物語に見られる「年少者に配慮する心境」のようなものが、現代の私たちの「子供」観と全く不連続であると言い切るとそれも相当無理があると思うのですよ。もちろん、1300年前、800年前の人々と私たちは、政治制度も世界観、死生観、何もかもを共有していないと言っていい。だから、本当のところ彼らが何を感じていたかなんて分からない。(まあそれを言うならそもそも現代を生きている私たち同士だって、何をどれほど共有しているかは保証されないけどね。)それより、そうして「ことば」に載せるべきことは何か、すなわち彼らが「想定した公共」が何かという点に着目してみるなら、彼らと我々の間に一定の何かを架橋することは十分可能だと言えるのではないか。それを安易に「親子像、家族像の根本」であるとか結論付けるのはそりゃ止めた方がいいと思うけど、そこに「引き継いでいる何かがある」ことは認めた上で話を展開するのは、それは十分建設的なことだと思うんだよ。
※コノハナサクヤヒメの話を書くスペースが無くなったんだけど、一言だけ言うとあれは一般的な婚姻の姿をイメージしたお話とは言いがたいのではないかなあ。「姉妹を同じ人のもとに嫁がせる」のは、あの話では天孫降臨した人間の祖に対して山の神が繁栄を授ける、という文脈だよね。それは、たとえば地域を訪れた新しい権力者に対して地元の豪族が取り入る、みたいな図をベースに作り上げた物語なんじゃなかろうか?
元ネタはテイルズオブシリーズだったという、
麻婆豆腐の上にカレーを間違えて落っことしちゃったみたいな寓話的なところからじゃなかったのね。
知らなかったわ。
逆じゃないんかーい!ってまさかのアンパンマンの方が先にやってたって話よ。
凄いわねやなせたかし氏。
たまには日本カレーも食べてみるとまた趣が違って美味しく感じられるから、
改めて食べ比べてみると美味シーズンだわ。
乱暴に言うと
って感じで姪っ子も泣く美味しさの勢いだわ。
あんなシーエムのリンゴが花が咲くように開きその瞬間にハチミツを掛ける職人技!
あれは永年の伝統で未だにシージーじゃないって言うから神ってるわ。
でももうサザエさんは時代劇と考えてみた方がしっくりくるかも知れないし
そう言った心構えでみると、
印度のご家庭に行くと
インド母さんが、
でも逆にこっちがお味噌汁作る行程を否定せずに向こうのインド母さんが見たら
同じように思うかも知れないわね。
案外そんな物かも知れないわ。
とりあえず
うふふ。
出来たら報じるわ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
かつては、すべての伝統的なホモ・サピエンスの社会において、オスの生殖上の利益を最大にするため、妊娠・出産が可能になる下限までのメスを性の対象とすることが許されていた。そのため10歳前後の少女との結婚・セックスも認められており、ペドフィリアの一部は、社会的に存在を認められていたと言える。かつて伝統的社会の規範であった宗教において、ペドフィリアに対する「寛容性」が見られていた。
16歳の賢い若者が、働き始めたり、専門的な学習に専念出来たり、モラトリアムを謳歌して世界旅行に出かけたりできる世の中になったらワクワクする。そういう若者こそ、次の時代を切り開くだろうし、そういう若者を数多く輩出できる国家こそ次の時代をリードできるだろう。
とりあえず自民党の教育再生実行本部とやらの案は終わっている。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190512/k10011912971000.html
・あらゆる分野において変化が速い時代だ。枝葉の知識・技能になるほど、学校にいる間に学校で学んでいる内容が陳腐化する可能性が高い。
・したがってこれからの時代を生きていくには多様な学びと不断の学びが必要だと言うが、基本的なリテラシーなしに学びを深めることは不可能。基本的なリテラシーが欠けていれば、学びは途絶するだろう。
・また、どんな学びがこの先の社会で重要性を増していくかを個人や政府が十分な精度で判断することは不可能。
・若い吸収力も回転数も最高の若い頭脳に、明日にも陳腐化する知識、役に立たない知識を詰め込むことは害悪である。そんな作業に数年を捧げさせる今の制度は控えめに言って賞味期限が切れている。なんなら腐っている。
・それならば、公教育は基本的なリテラシーを誰もが充分に習得できることのみに焦点をあてるべきだ。基本的なリテラシー以外の多様な学び、枝葉の知識・技能は学校外や卒業後において、各自が各自の意欲の応じて追求していけばいい。カリキュラムがスリムになることで標準的な履修完了年限も短くなり、学習者は公教育のくびきに縛られずに自分の歩みたい人生を歩む時間が増える。結果としてユニークかつ強力な人材の出現する可能性が高まるだろう。
・小学校卒業後は4年一貫制。その4年間で下記5科目のみを到達基準(現行の高校卒業レベルに準ずる)に達するまで学習できる制度にする。
自由科目(歴史、地理、物理、化学など伝統的な科目の他、特色ある科目も認可さえ通れば自由に設定可能。それらをどれか1科目履修する。)
・4年というのは目安となる履修年限であって、小学校卒業年齢以上であれば何歳でも履修可能であり、卒業可能である。
・卒業というのも形式的なもの。全学習項目の合格を待たずに学習を切り上げるのも自由である。
・学年は有って無いようなもので、各科目において学習項目を細分化。学習項目ごとに修了・未修了の判定テストを受けて、合格すれば関連する学習項目を履修可能とする。
・判定テストはタブレットかパソコンを用いて行う。指定の試験会場以外での受験は不可だが、試験会場は365日、朝から夜まで営業する。
・自習が苦手な生徒のために学校は存在するが、授業への出欠は任意である。一切授業に出ずに判定テストだけ受けて修了することも可能。
「文系の学問における注と参考文献の話、補遺」(anond:20190511125053)への反応見ていて、ブコメだけじゃなくtwitterでも「author-date方式でいいじゃん」という声がたくさんあり、やっぱり伝わりにくいものなんだなぁと思いました。
author-date方式、私もそれで論文書いたことあります。とても便利なやり方です。引用するのが学術論文や書籍だけなら。
ところで、次のような文献はどうやってauthor-date方式で引用すべきでしょうか(手持ちの英語文献から引っ張ってきた例です)。
RGASPI, f.89, op.8, d.1016, l.1.
最初のアルファベット数文字は公文書館の略号、それに続いているのは公文書館に所蔵されている史料(つまり公文書)の整理番号です。
もういっこ例を挙げておくと、日本の公的なデジタルアーカイブであるアジア歴史資料センターが推奨している史料の引用方式はこのようなものです。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02030938800(第58画像目から)、共産党宣伝関係雑件/対日宣伝関係 第三巻(A.3.4)(外務省外交史料館)
(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/www/doc/before_browse.html)
公文書館って、こういう史料がたくさんあるわけですよ。これをどうやってauthor-dateで引用しろと。
また、無記名の新聞記事を大量に引用するような場合、どうすればいいでしょうか。たとえば、1919年における『ホゲホゲタイムズ』の紙面からホゲホゲ国のナショナリズムを読み解く、みたいな研究は普通にあるわけですが、いちいち引用文献リストに
『ホゲホゲタイムズ』は、新年を祝う記事において、「あけおめことよろ!」(Anonymous 1919a)と書いた。翌日の記事では、「謹賀新年!」(Anonymous 1919b)と述べた。……26日の記事では、「昨年は世話になったな!」(Anonymous 1919z)と主張した。さて、27日の記事では……あっ、もうアルファベットがない!
引用文献一覧
Anonymous. 1919a. “Column.” Hogehoge Times, 1st January, p.1.
Anonymous. 1919b. “Column.” Hogehoge Times, 2nd January, p.1.
Anonymous. 1919z. “Column.” Hogehoge Times, 26th January, p.1.
って書くんですか? めんどくさくねえ? それだったら普通に、
『ホゲホゲタイムズ』は、新年を祝う記事において、「あけおめことよろ!」(注1)と書いた。翌日の記事では、「謹賀新年!」(注2)と述べた。……26日の記事では、「昨年は世話になったな!」(注3)と主張した。さて、27日の記事では「今年もよろしく!」(注4)と宣言されているが、これはどういう意味だろうか。
注
注1 “Column,” Hogehoge Times, 1st January 1919, p.1.
注2 “Column,” Hogehoge Times, 2nd January 1919, p.1.
もちろん、工夫すれば上で挙げたような文献もauthor-date方式で引用できます。できるんですが、簡便で伝統的な書き方があるのにわざわざ不向きなauthor-date方式を使わなきゃいけない理由がわからない。
なのでまあ、何が言いたいかというと、
……という感じですかね。author-date方式は便利だから先行研究の整理とかするときには愛用してるけど上で挙げたようなやつまでauthor-dateで書けとか言われたら「ああん?」ってなります。
author-date方式って大嫌い。(シェイクスピア2019)とか(アリストテレス2018)みたいな意味不明の注ができるし、ページ数が書いてなかったりするし、あと私は年号がない文献も使うから。
さえぼー先生からこういうブコメいただけてもうなんか満足です。書いてよかった。あ、『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』むっちゃ面白かったです。
で、私はauthor-date方式はどちらかといえば好きなんですが、さえぼー先生が「大嫌い」とおっしゃるのもわかります。
好きじゃないなら単に使わなければいいのに何で「大嫌い」って思うかといえば、頓珍漢な推測だったら申し訳ないんですけど、「author-dateを使うべきだ! author-dateじゃないとおかしい!」って押し付けてくる他分野の人がウザいというのが理由として大きいと思うんですよね。
私もとある機会に全部author-dateで書け、注で出典表示するのはいっさい認められん、と言われて、ふざけんなこんなのどうやってauthor-dateで引用するんだよと食って掛かったことがあります。もうほんとね、他分野の人がどんな資料を引用してるのかについて想像力を持ってほしいですわ。
というか人文系の人が理系や社会科学系の人がauthor-date方式使ってるのに文句を言っている場面はまず見ないのに対して、人文系の引用方式に文句をつける理系や社会科学系の人をそれなりに見かけるのはいったい何なの? って思います(あ、でも、『史学雑誌』の書評でauthor-dateに文句つけられてるのは見たことあるかも)。このへんの憤懣があるんですよね。
権威をどう捉えるかって話だと思う
「国民統合の象徴としての天皇」が平成天皇の努力もあって割と広く受け入れられている今
伝統的な宮中祭祀による権威付けがどの程度効果を発揮するかっていうとちょっと疑問
「国民の安寧を神に祈ってくれる天皇」というのはそれほど多くの国民に訴求しないのではないかな
どちらかといえば災害時に寄り添ってくれたり心に響く言葉をテレビで語りかけてくれたりする事に
多くの人が惹きつけられて権威が形作られるのではないかなんて思うんです
祭祀の作法も明治維新とか大きな変革のタイミングで変化してるみたいだし変えていってもいいはずなんだけど
実際変える変えないの判断てだれがしてんだろ
宮内庁とかかな
とまで言う気は毛頭ない。
しかし守るのであればきちんとした理由や根拠を示して欲しい。それの保守に税金が注ぎ込まれるのであればなおさらだ。
少なくとも『伝統だから守るべき』などという思考停止の戯れ言には耳を貸す必要性は皆無である。何故なら人間は守るべき伝統を選別しているからだ。
現代の日本人の大半は髷や日本髪を結わないし、和服を普段着にしない。片や伝統を捨てながら、片や伝統を守るべきと言う。全く筋の通らない事だ。『伝統だから守るべき』と言っていいのはあらゆる伝統を守ろうとする人間だけだろう。そんな人間は世界のどこを探しても存在しない。
お分かりだろうか? 残るべき伝統を決めるのは、『残したいか、残したくないか』のみなのだ。
「伝統だから残すべきです」という発言は無意味だから止めよう。それよりも「俺はこの伝統を如何に守りたいか」を語ってくれた方がよっぽど有意義だ。
多分この手の話をしだすと、行きつく先はすべての伝統的儀式ムダじゃんという展開になるんだが
古代に遡ると日本に限らず王侯貴族は宗教的儀式ばっかりやってて、教会だのモスクだのに寄付するのが立派な王様や貴族みたいに思われてた
で、日本という国は、他国がもうやめた古い伝統(元号と改元も)を残していることを自慢している国で
それを言い出すと近代以前の大部分の伝統に合理性などなく、合理性などない物をあえてありがたがるのが伝統を大事にするという行為
皇室が昔ながらの儀式を全部やめるべきというなら、同じように、五月に鯉のぼりを飾るのも合理性ゼロで馬鹿馬鹿しいし
1990年年代に入ってから関西のローカル風習をわざわざ全国区にした恵方巻きなんてもっと馬鹿馬鹿しい、ハロウィンもクリスマスも、夏に浴衣を着るのもみんな然り
となってしまう
(これらに宮内庁は関わってないけど、自治体で税金つっこんでそういうのを盛り上げてる地方もあるし)
が、そーいう合理性ゼロの伝統風習が現代でも残ってる理由のひとつは、それで商売してる人がいて、経済効果とやらがあるからなんだろう
皇室の儀式に使われるお金も、使ったら消えて無くなるわけでなく
十二単をつくる業者だの、儀式の道具を作る業者だのの懐に入って、その業者がまた飲食したりして日本経済の一部になるのだろう
そう考えれば無駄な儀式も日本経済の何かになってるのかも知れん
まあ、俺も心情的には同じ税金なら震災復興や困窮児童に回せよ、とは思うけど
逆に言うと、普段その手の福祉目的みたいな税金の使用を渋る経済国益第一優先の新自由主義連中が、宮内庁の内廷費にけちを付けないのは不思議でならない
のがちょっとしたブームと聞いたので、ちょっと前まで組合執行部をやってた私もその時の状況を暴露しても怒られないでしょう。
で、私のスペックはこんな感じ
弊社の場合、入社から15年前後で普通に勤務しておけば管理職に昇格して組合から離れるため、組合員は技術職のオッサンor総合職の若者or妙齢の一般職の女性で構成されていて、総合職の社員がある程度の年数に達すると、同じ入社年のメンバーから組合役員を選出するという慣例的で明文化されてないルールがあります。
基本的に、通常の仕事以外の業務が増える組合役員は皆やりたくないから、役員に自分から立候補する人はいないある種の罰ゲームなのですが、運悪く役員をやることになり、多くの休日が組合活動で消えていく憂き目に会うのでした。
このままだと上部団体への恨み言ばかり(それが主題ではない)になりそうなので割愛しますが、一般の人が組合に持つイメージのネガティブな側面は上部団体の行動、特に選挙活動に起因するものが多いんじゃないかと思いますね。まあ、上部団体としては選挙で議員を出すことが影響力を誇示するために必要なので分からなくでもないのですが、応援する候補が民主党系(今は国民民主党だったか)なので、民主党政権が終わってからはとにかく組合員から支持されてない。そもそも組合活動が一般の会社員にとってはめんどくさいものなのに、なんでさらに民主党系の議員を応援しなくちゃいけないんだよという悪循環に陥てるわけです。
なお、民主党がこんな状況なので最近の選挙にはあまりいい感じではないですが、敗因分析をした際に
当選しなかったのは組織力が足りなかった(今の組合員からの支持が少ないのが理由)→だから今の活動をさらに強化していく
という斜め上の結論を出すぐらい硬直した組織なので、旧民主党系の迷走と同様に労組が支持されない状況はさらに続くんじゃないかなと邪推してます。
とまあ、上部団体への率直な意見はこの辺にしておいて、お次は単組活動です。単組の活動として一番大きいのは春闘でして、うちの春闘の流れはこんな感じ。
弊社は同業他社や世間と比べても給与面では遜色ない状況にあったので、春闘でメインとなる賃金(ベアや一時金)について、会社が妥当なラインを突いてくることもあって、特に組合員から「ストだ!」という意見を貰ったことは殆どありませんでした。かつて、世間でベアが出始めた年の春闘でベアゼロの回答が出ましたが、その年も組合員から「認められない!」という意見は殆ど出ず、「やむを得ない」的な意見が大勢でしたね。
一方で、弊社の組合の特徴として労働環境、特に労働時間に関する意見が組合員から多く出て、労働時間をいかに短縮するか、やりやすい労働環境をいかに作っていくかの方が、賃金面よりも熱の入った交渉となる年がほとんどでした。
そんな労働時間・労働環境のような組合員が直面する具体的な課題について、上部団体や上部団体から得た知識がメインで現場を知らない専従役員の意見が参考になるでしょうか?もちろんなりません。そんな専従役員が我が物顔で要求について明後日の方向の意見を言っても、会社はおろか組合員にも響く意見にはならないわけで、如何に組合目線での問題点を収集し、その内容を会社にぶつけるかというのが、意義のある交渉になると思って私は活動しておりました。
さて、組合に所属している人は一度見てほしいのは組合の会計報告でして、皆さんから集めた組合費はどこに使われてるんでしょうか?
うちの単組の場合はその半分近くがや従職員の給与に消えます。名目こそ組合の代表ですが、やってることの半分は上部団体の活動。春闘でも上部団体で聞いた話や過去の話しかできない人の給与に、私の組合費の半分近くが消えているこの状況…。しかも、私が役員に就任するまではなんと組合の会計は毎年赤字を計上し、組合数が今よりも圧倒的に多かったころに貯めた積立金を取り崩している状況にありました。
その事実を知ったときに愕然とした私は、慣例であった会議後の飲み会を廃止(廃止にあたって専従職員と会議でバトル)、役員交代の際の慣例であった温泉旅行も廃止(廃止にあたって専従職員と…)、上部団体から求められる動員も最低限の人数しか出さない(もちろん上部団体の役員をしてると…)、その他小さな出費を少しづつ減らしていって、なんとか役員を退く前には±0程度に持っていくことを達成しました。
ちなみに、会議で専従職員とバトルする際にしきりにその人が「伝統が…」と連呼していたのが印象的でした。
なお、あまりの専従職員との折り合いの悪さに新労組の立ち上げも一時期検討しましたが、まだまだあった積立金がどう使われていくのかが気になって、結局新労組は立ち上げませんでした。また、めんどくさいので選挙で専従職員とバトルすることもなく任期を終えるという波風立てない行動を取ったので、私も多くの組合員と変わらない現状維持を良しとする存在です。
ということで、労組の執行部経験者の私から言えるのは、デカい労組や上部団体で労組経験しかないような50~60台のオッサンが大勢を占めるような組織になっている限り、今組合活動に不満を持っている組合員(特に若手)に支持を得られるのは難しいんじゃないかなと思いました。
「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
上記まとめにもある通り、杉村喜光という人は、以下のような発言をしている。
山田優さんの「天皇皇后両陛下 お疲れ様でした」発言が炎上中らしい。
この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。本来は上下関係なし。
それ以前に記事の「違和感を感じる」が…。 pic.twitter.com/axgcAGrS2c— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月5日
しかし、これまで「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」というマナーは、(そのよしあしはともあれ)聞いたことがあるものの、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」という言説は、少なくともマナー(マナー講師)関連において見聞きしたことがなかった。
※ただし、マナー講師ではなく芸能人(タモリ氏)や言語学者(園田博文氏)は、「お疲れ様」という言葉について以下のように述べているようである。
タモリが「お疲れ様です」は目上の者に使ってはいけないと指摘 波紋呼ぶ - ライブドアニュース
「子役が誰彼かまわず『お疲れ様です』といって回るのはおかしい」(タモリ氏)
「『ご苦労様です』『お疲れ様です』というのは、本来、人をねぎらう言葉。目上の人が使うのが伝統的で、目下の人が目上の人に使うのは失礼にあたります」(園田氏)
ならば、本当にマナー本は、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と主張しているのだろうか?
このことを検証するため、八重洲ブックセンター八重洲本店2Fの「ビジネスマナー」コーナーにあったマナー本を片端から当たってみた
……かったのだが、1段・56冊あり、全部を立ち読みするのは時間的にも労力的にも足りず、かつ、売り物の書籍を使って調べ物をするのが申し訳なかったので、20冊だけ抽出した。
(八重洲ブックセンターを選んだのは、会社から近く、また今日の仕事の関係で立ち寄りやすかったというだけであり、他意はない。図書館を選ばなかった理由は3つある。近隣の図書館が思いつかなかったこと、冊数としては八重洲ブックセンターの方が豊富だと判断したこと、古い、昭和の本も交じっていそうで、そうすると有効な冊数はさらに少なくなると考えたことからだ。八重洲ブックセンターさんには申し訳なかったが、普段も毎月1万円程度は購入しており、今日も本を買ったので、許してもらえたらうれしい)
なお、書籍はスミからスミまで見たわけではなく、「あいさつ」「言葉づかい」といった項目のところだけざっと流し読みしているので、漏れがあるとは思う。この件についてはご容赦願いたい。
さて、その20冊の中で、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と書いてある書籍は何冊あったか?
答えは0冊だ。
調べた限りでは見つからなかった。
ただし、「ご苦労様を目上の人に使うのはNG。お疲れ様を使いましょう」と推奨する書籍は、5冊発見した。もっと多いと予想していたので、案外少なかったが、精査していないため見落としもあるのだろう。
(個人的には、杉村と同じく、ご苦労様だろうがお疲れ様だろうが、目上の人に使っても、まあいいんじゃないのかな、とは思っている)
念のため、その書籍名を記しておく。
○新人の「?」を解決する ビジネスマナー100 または 社会人としての常識とマナーQ&A(メモのミスで、どちらか分からなくなってしまった。申し訳ない)
以上のことから、
○「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」とするマナーは、確かに複数の著者が主張している
○「『お疲れ様』を目上の人に使うのはNG」というマナーを主張する著者(マナー講師)は、少なくとも「『ご苦労様』NG」以下だろう
ということが確認および推測できた。
杉村は、どのような根拠をもって「この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。」などと断じているのか、また、そのようなマナー本がどこにあるのかを示してほしい。
加えるならば、「新ルール」とまで言うからには、1人のマナー講師・1冊の著書の主張では足りない。最低でも3冊は「お疲れ様はNG」と述べているマナー本を、杉村に限らないので提示してほしいところだが、どうだろうか。
※言っちゃあ悪いが、マナー本なんて、よくも悪くも似たり寄ったりだ。二重敬語のNG例など、同じ表現を何度見たことか…。だが、それは当たり前で、マナー本ごとに言っていることが違ったら、プロトコルとしてのマナーが機能しないからである。逆説的に言うと、本当に「お疲れ様はNG」というマナーが新たにできたというならば、上記の通りタモリ氏・園田氏の事例もあるし、20冊も拾い読みすれば、2~3冊は目に引っかかっておかしくないのであるが…。
改めて、杉村のtweetを見てみる。スクリーンショットだが、元ネタをたどると、
山田優、「両陛下お疲れ様でした」という投稿に批判殺到「皇室をなんだと…」(1ページ目) - デイリーニュースオンラインが出てくる。
デイリーニュースオンラインという段階で、取り上げるのもあほらしくなるのだが、ひとまずそこは置いておこう。
「会社の上司にすらお疲れ様と言うのは失礼と言われるのに。。」
と引用されているだけであり、どのような根拠、つまり、マナー本を読んだりマナー講師に教わったりしたのか、上司にそう注意されたのか、はたまた、自分個人の思い込みなのかは一言も書いていない。
(個人的には、元の発言者は「ご苦労様」と勘違いしているのではないか、という第一印象を持ったのだが、もちろん、定かではない)
それをいきなり、マナー本が~と言い出しているのは杉村である(だからこそ、典拠となるマナー本を提示してほしいのだ)。
実は最初、杉村も「ご苦労様」と勘違いしたんじゃないか、と思ったのだけど、その後別のtweetで、
ついでに「ご苦労様は目下からはダメ」も80年代後半ぐらいに登場したルールのハズ。バブル期の就職ガイドとかで最初読んだような記憶。それがついに「お疲れ様」までという感じ。
90年代初頭は謎マナーが多く登場し「徳利の注ぎ口から注いじゃダメ」「結婚式の引き出物にお茶はダメ」とかもそう。— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月6日
と述べているので、「お疲れ様は目上にNG」と主張するマナー本を数冊は読んでいるのだろう。ぜひ教えてほしい。本当にそう思う。
これまで述べた通り、一個人としては、
○「ご苦労様は目上にNG」というマナーは聞いたことがあっても、「お疲れ様は目上にNG」は見聞きしたことがない
○書店に並んでいるマナー本を抽出調査したが、「お疲れ様は目上にNG」とするマナー本が見つからなかった
ことから、
○「お疲れ様は目上にNG」だと主張する平成のマナー本は、あったとしても本当にごく一部で、「ご苦労様NG」ほどには広まっていない
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張には根拠が薄い
と考えているが、はてなブックマーク
[B! 日本語] 「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
において、「『お疲れ様は目上にNG』という謎マナーをマナー本(マナー講師)が広めた」というベースのもとでマナー本やマナー講師をののしっているブックマーカーは、
○実際に「お疲れ様は目上にNG」というマナー本を読んだか、マナー講師の指導を受けたことがある
のか、
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張を鵜呑みにした
のかは、せめて教えてほしい。
と、あたかも、言葉遣いのマナーを追及している者も言葉遣いがなっていない、という含みを持たせた書き方をしている。
が、これは釈迦に説法だが、「違和感を感じる」は、話し言葉(引用したコメントの言葉)ならば別におかしな表現ではないし、書き言葉としても、許容範囲内だと考える。
その破堤基準を一つ挙げると、「○○感を感じる」の前半の「感」を取ったときの表現に違和感があるかどうかである。
※一種のジョークとして「○○を感じる、と表現しても(すると)違和感がない(ある)」という書き方をしている。読みづらくしていることは謝りたい。
それなのに、
新紙幣のデザイン画が出たときに、自称デザイナーが「ここがダサい」を図にして出したらツイッターで袋叩きにあってたのを見た。
中には「通貨偽造防止の意味がわからないのは素人」みたいな上からマウンティング野郎がいたりして大変愉快だったのを覚えている。
それはそれとして、改めてみるとやっぱり新紙幣のデザインはダサい。
中央揃えができてないとか、フォントがおかしいとか無駄な空白があるとか色々あるけど、個人的にはそのダサさの根本にあるのは「日本的な決定までの過程」が如実に現れているからだと感じた。
というのも自分もかつてはデザイナーのはしくれのような仕事をしてきて、あの新紙幣のような最終的にキモくなったデザインを手がけたことがあるからだ。
ああいうシッチャカメッチャカなデザインができるのはきちんとした理由がある。
あれは致命的にセンスが悪い人がデザインを担当したからではなく、「デザインセンスがない決定権のある人間」が複数人数プロジェクトに絡んだ結果あのようになるのだ。
おそらく最初のたたき台になった案はそれほどでもなかったと予想する。
しかしその案に対して、偽造を防ぐためにこういうのを入れろ、この部分は伝統的に失礼になるからこの角度にしろ、やっぱりこことここの配置は逆にしろ、と細かいことをあれこれと口出ししてくるクソダサ上司やクソダサクライアントが指示をしていき、優秀なデザイナーがそのどの顔も立てようとした結果、あのような形になってしまうのだ。
もちろんこれは自分の勝手な印象なので内部の事情は本当にクソダサデザイナーがいるのかもしれないが、
あの致命的にまとまりのない新紙幣デザインを改めて眺めつつ、おそらくこういうこと言い出したやつがいたから苦心してこうしたんだろうなということを考えたりしている。