はてなキーワード: 猥褻とは
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http://nokuo.blog.jp/archives/38927490.html
http://nokuo.blog.jp/archives/38926782.html
きっっっっっっっっっっっっしょいんだよマジで
女性に意見を表明されたらすぐに「フェミ」とレッテルを付けて分断するのやめろよクソが
商売だから猥褻衣装も許されるって論理破綻してるでしょキモ・アイマス・オタクどもが
実際に意見を取り入れるかどうかはさておいて一ユーザの意見を尊重するのも商売だろ?
何が「実際のアイドルもそんなもん」だよ。マジで実際のアイドル見たことないだろ?
お前らが「こういうのでいいんだよ」と言ってる衣装ですらまだ肌色多いからな現実基準だと。
ていうかさーーーー品がない以前の問題として圧倒的に「「「「「ダサい」」」」んだよアイマスの衣装は
現実のアイドルの衣装と比べてコンセプトが一切見えないのがダッッッサいし、そのあたりがオタク向けコンテンツの枠を出てないんだよ
あと献血ちゃんの一件について雄弁に意見を表明されていた「「プロデューサー」」がこの件についてだんまりを決め込んでるのマジで何なの
何が「「「プロデューサー」」」だよ臭い臭いアイマスオタクだって自覚しろよ
りあむの台詞とか絶対女性と話したことが一度もないキモい小太り中年男性が考えてるのが透けて見える
何が「病む〜」だよ。でじこの時代から一ミリも進歩してねーーーじゃん
関係ないけど女性プレイヤーの総称を「プロデューサー」とわざわざ区別して「プロデュンヌ」とか言ってるのも史上最高にキモい。なんで区別するの?
ライブ行くたびに名刺交換を名目にデュフデュフ言いながら近づいてくるオタクが本当にキモくてキモくてキモくてキモくてキモくて仕方がない
そもそも「性的消費」という概念で殴りつけられるのは、どこまでか? を少し考察してみよう。
たとえば、昔あった「ビール広告に水着女性」が×となったのは、単に女性の飲酒率が上がったためでもあるが、表向きの理由としてある程度の正当性があると言えるのは「海水浴場やプール以外の場では通常水着を着ない」というコンセンサスがあるからだ。街中のビール広告で水着を着た女性がこれを宣伝しているというのは、「性的な服装でヘテロ男性の注目を集めるため」以外の理由を見出しづらい。一応明らかに「性的消費」だと言える。――(1)
では、「性的なものを強調した服装」はどうだろうか。古くはアンナミラーズ、あるいはHOOTERSといった店は店内ならともかく、街中の服装として適切とは言えない。これらが、その制服を前面に出した広告をデカデカと駅に張り出したら一定数の人々からクレームが来るだろうことは想像に難くない。その意味では、これらもまた「性的消費」であることにはそれほど異論が無いと考えられる。――(2)
では、「セクシーなアイドル」はどうだろうか。いや、そもそも大なり小なり「セクシー」でないアイドルなど存在しないという意味では、あらゆる「アイドル」を利用したポスターの是非は?(たとえばhttps://www.watch2chan.com/archives/20190615092712.html) またそのアイドルは男女問わないとしたらどうか? あるいはアイドルではあるがアニメ絵のアイドルならどうなのか? このあたりについてクレームを付ける人は実際そう多くない(からこんなのがあるのだろうhttps://www.walkerplus.com/article/166328/)かなり減ると推測できるが、これもまた「性的な興味で広く注目を集める」以外の理由を見出しづらいという意味で、まさしく「性的に消費」の実例なのだが、なぜかそれほどクレームが来ない。実際、先の乃木坂のポスターは「実は彼女らが一人も献血したことなかった」という理由で炎上したわけで、彼女らに求められていたのは必然性ではなく「性的な魅力」であったに過ぎない。――(3)
では、「一般的には普通の表現だが、記号的に一部の特定層に性的に受けとめられることを期待した」ポスターならどうか。たとえば制服の女子、メイドさんの服装、などがそれに相当するだろう。
「制服の女性は若々しさ、凜々しさ、清々しさを表現するためのものであり…」とか「萌えは性的なものではなく…」とかそういう御託は全部嘘だ。むしろ「マズいな」と思っているからそんな言い訳が出てくるので、これも一般的には批判されない/されにくいが、一部では燃えることがあることは実証されている。(もはや人間ですらなく、メイドらしい恰好をしたロボットの表象が叩かれた例https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/04/jinko-chino_n_4900699.html)ただし、これを「性的消費」という文脈で叩くのは難しいので、一般には「学生にこんなことを」とか「ジェンダー固定化の懸念がある」とかそういう文脈を用いて叩く。これを混ぜこむのが混乱の原因というのが元増田の主張でその指摘は理解できるが、批判者はむしろそこを混ぜるところに意図があるのである。――(4)
それから、「表現者や対象には明らかにその意図がないかあっても薄いが、そう見られる可能性を排除できないもの」はどうだろうか。(例:ある公的なポスターコンクールの作例 https://twitter.com/abo_saitama/status/1023415216208470018 )この作者に性的なデザインをしたという意図は全く無いだろうが、明らかに構図は胸を強調しているし、いわゆる「乳袋」表現すらある。世にある(セクシーな)漫画的記号表現やデザイン、構図を踏襲したこと、そして、無意識下の「こういうのが受けるだろうな」というイメージが影響したと想像される。…そんなことを述べると一般人的には「?」となるが、学者が意見を述べるのがこういう対象である。時代の中で生きている我々は、同時代の様々なイメージの中で、日々ソレを呼吸しながら自分を形作り、つまり〈時代を内面化〉している。そのように個々人やその表現に内面化された表象を分析するのは学問分野の領域であるし、「一般人には分からないが学問的に危険性が明らかなモノ」に対して警鐘を鳴らすのは、文系理系問わず学問に期待される役割だ。ただ、学者の意見が正しいとしても、それを規制することに社会的合意が得られるまでには段階が必要で、いきなり規制するのは乱暴である。――(5)
最後に、思考実験として二つの例を挙げたい。ひとつは「まいてつ×くま川鉄道」事件。鉄道をネタにしたエロゲを作っていたエロゲメーカーが地元鉄道会社に善意で「そのキャラの差分」みたいな画像をキャンペーン用に提供した(普通に着衣の絵)ことが大問題となり取り下げさせられたケース。(https://togetter.com/li/1031033)。もう一つは、「セーラー服の少女が、ボロボロになり、へその間際や太ももが丸見えのセクシーな姿になった画像を献血ポスターに使ったが全く問題視されていないケース」(https://eiga.com/news/20120528/10/) これらの線引きに対して「主観」以外の適切な理由が見いだせるだろうか? そして、主観以外の理由が見いだせないようなルールを作り運用するような状況で、表現は本当に萎縮しないか? 多少厳しくても合意が得られたルールが明確な基準で運用されていれば、表現はそれほど萎縮しないどころか工夫を凝らして隆盛しさえするだろう。だが、曖昧なルールが曖昧に運用される状況というのは、過剰な自粛が進み、結果的に表現の衰退を招く。
いま本当に必要なのは、上で挙げた(1)~(5)のような例のどれを許しどれを許さないのか、その明白な根拠は何か、をしっかりと論じることだと思う。戦後に猥褻と表現の自由を論じて争われた「チャタレイ夫人の恋人」事件では、弁護側が「文学性」とは何か、「わいせつ」とは一体何か、ということを定義するため客観的なデータを示して懸命に論陣を張ったにもかかわらず、規制を主張した側が極めて感情的、主観的に「明らかに猥褻」、「超弩級の猥褻」といった無茶苦茶な陳述で切って捨てたため、結局、何の議論の深まりも得られなかった。(そしてもっと猥褻なものは普通に社会で流通していた。)昨今のいくつかの表現に対する「明らかにエロい」といった極めて感情的な告発は、残念ながら、魔女狩りにも似たこのような表現規制の過去を彷彿とさせる。
宇崎ちゃんのポスターが女性の性的消費だという意見を目にしておっぱいが云々語られてたけどお前らよく見ろ宇崎ちゃんは可愛いんだよ。そしておっぱいが大きい。
おっぱいが先じゃない。顔が可愛いからおっぱいがよく見えてるだけなんだ。
通勤途中のブスを見てみろ、おっぱいを見てみたいと思うか?むしろ不快だろ?ブスのおっぱいこそ男性に対するセクハラなわけだ。
そうなるとブスが男性の視線が気になるとかいう自意識過剰なんだか病気なんだかわからないものは放っておいて、美人のおっぱいについて考えてみよう。
美人がおっぱいであることに価値があるのだから、比べればおっぱいよりも顔に価値があると考えて差し支えないはず。
じゃあ男性は女性の顔を性的消費している事になるが、性的であるとは猥褻なものでもあるわけだ。
つまり自信のある美人は自身の顔が猥褻物であると認識していないから素顔で、時には化粧をして更に卑猥な状態で街に出ている事になる。
俺が美人なら「私が化粧をして何が悪いのか」と言いたいところだが、それは草彅も裸になって警察沙汰になったことを鑑みれば筋が通らないことは世間が証明している。
で、だ。美人は罪なのか?いや、もちろんそういう言い回しがあるのは知っている。
現実問題美人が美人であるだけでモラルに反しているとか捕まったということはあっただろうか?いや無い。
話を戻そう。宇崎ちゃんは可愛い。美人だ。しかし上記から導き出される結論は「宇崎ちゃんは可愛いしおっぱいが大きいがモラルに反しているとは言えない」となる。
「美人が献血のポスターに出るなんて女性の性的消費だ」となるんだが、これは美人に対する僻み以外の何ものでもない。
よって、宇崎ちゃんのポスターは性的消費にはあたらないと結論付けることができる。
俺はちっぱいが好きだ。
たまたま日本の"Moe"についての文脈での説明に使われていた・・・というだけのことです。大きなおめめに赤いほっぺ・・・といえば、その最たるものはピカチュウであり、ピカチュウを見て性的に興奮する人は、まず、いないでしょうね。 https://t.co/2hHfe5wL0W— 『ヴァティカンの正体』筑摩新書/岩渕潤子 (@tawarayasotatsu) 2018年11月4日
直接的猥褻表現のないtweetなので引用します…「ピカチュウに性的興奮を覚える人間は、掃いて捨てるほど」いるというのは、私にとっては驚きでした。皆さん、ご存知でした? 子どもたちが大好きなピカチュウが…だったら、ピカチュウの好きな子どもたちにも同じ視線が注がれているということか? https://t.co/zl4kUxLf77— 『ヴァティカンの正体』筑摩新書/岩渕潤子 (@tawarayasotatsu) 2018年11月5日
1. Venus Disrobing For The Bath, c.1866 - Frederic Leighton - WikiArt.org
2. A Venus, 1869 - Albert Joseph Moore - WikiArt.org
どちらも同時期の同じ地域(1860年代のイギリス)にて描かれたヴィーナスを主題とする絵ですが、これが当時のイギリス美術界に論争を巻き起こしました。
さて、どちらが「芸術」と賞賛されどちらが「猥褻」と非難を受けたか皆さんわかりますでしょうか?
それぞれ理由も含めてお考えください。
追記:答えを書きました。 anond:20191019193022
「実在の巨乳の女性に失礼だろ!」という反論が無効で、「実在シスヘテロ男女の自由恋愛は同意があるから許される」のだとすれば、この増田に一定の正当性があるだろうね。「何が描かれているか」よりも「それを誰が消費するのか」を問題にしているのだとすればね。
まあ「表現が露悪的すぎる」とかの突っ込みはあるだろうが。「支持はしないが、(気持ちは)わかる」くらいかな。
ちなみに私個人としては、「実在の巨乳の〜」はおかしな反論だと思うけど。「実在シスヘテロ男女の恋愛」に関しては、それらに猥褻だの表象だのの議論そのものが適用されない(議論した上で「問題ない」とする、というプロセスが免除されている)ことはノーマティビティでしかないと思ってるよ。
「エロいか、エロくないか」が論点なら散々反論が出てる通り。「女性表象のあり方の問題だ」と言うなら逆に「ゾーニングすればオッケー」という問題でもなかろうよ。
「禁止しろとは言ってないゾーニングしろと言ってるだけ」と言ったり、「エロいとか猥褻とかいう問題じゃない表象が女性性を規定するのが問題」と言ったり、異なる論点を都合よく使い分けて時に耳障りよく「難しいことは言ってないはずなんだけど」と言い訳をつけるのが彼らのやり口なんだろう。
端的に言って卑怯だよね。こんなのにほんの少しでも耳を貸す方がおかしい。だって彼らは「何も目指してない」んだから。ただ純粋に「気にくわない」だけ。
無根拠にレッテルを貼ったわけじゃない。「ブーメラン」と「矛盾」を混用してるわけじゃなく、本来の意味で言動が矛盾してる。言ってることがチグハグなんだよね。それは理性以外の何かによって思考が引っ張られていることの証左だろう。無意識的に「何か」に操られているのか、意識的に「何か」に身を委ねているのか知らないけどね。
anond:20191016163058だけど、ちょっとブコメに誤読マン多すぎない? なんで? 3つくらい具体例を示してるのに何でそういう理解になるの?
こんな基礎的概念をいちいち説明するのアホらしいんだけど、消極的に~をやりたくないっていう自由が消極的自由で積極的にやりたいことやる自由が積極的自由ではありません。
行動を制約されず好きなことをできるのが消極的自由で、そもそもその行動のためのリソースを得られる、自由の物質的基盤を手に入れられるっていうのが積極的自由です。
「自由に書きたい本を出版したい! 国家に検閲されたり出版を禁止されたりしたくない!」という要求が消極的自由を求めているいっぽう、
「確かに検閲はないけど紙の値段高すぎて自由に出版できる状況じゃないじゃん! 政策的介入してもっとお値段下げてよ!」というのは積極的自由を求めている。
「好きなところに住みたい! 強制移住なんてさせられたくない!」というのを問題にするのが消極的自由で、
「確かに住居選択の自由は保証されてるけど特定のエリアにしか水道引かれてなくね? 実質的に選ぶ自由がなくね?」というのを問題にするのが積極的自由。
「お小遣いの範囲でならどんな本を買ってもお母さんは関知しません」が消極的自由で、
「でもお小遣いが月額500円じゃ新潮文庫も買えないじゃん! せめて3,000円ちょうだい!」が積極的自由。
「好きなイラストをポスターに描いても検閲されない日本は自由の国!」は消極的自由が保障されている状態だけど、
「でも好きなイラストを自由に描くためには画材を買うお金がいるよね。イラストレーターの給料が安くて自由に絵を描けない……」という状態ならば積極的自由が損なわれている。
「どんな性教育をしようが親御さんの自由です」が消極的自由で、
「でも事前に歪んだ情報が入ってくるような環境だと私がやりたい性教育ができなくなる」というのは積極的自由を求めているわけ。
こう並べれば、なんで消極的自由の方が重視されるべきか、なんで元増田の要求が積極的自由とみなされるか、ってのもわかるでしょ。
積極的自由も重要だけど、それは消極的自由のほうが重要だって認めた上での話でしょ。
現代自由主義では、消極的自由の保護だけだと実質的に自由が制約された状況(=積極的自由がない状況)が改善されないので、積極的自由も保護していくべきだと主張することが多いし、私もそれを支持する。
場合によっては、比較衡量のうえで、大きな積極的自由を獲得するためにささやかな消極的自由を犠牲にすることもありえるだろう。
でも、原理原則としては、消極的自由の方が積極的自由よりも重い。
最初の増田でも書いたように、国は俺に六本木ヒルズに住めるだけのカネを補助すべきだ、と主張したら頭がおかしい人だろう。この場合、俺が六本木ヒルズに住むための物質的基盤は保障されていないので、俺には六本木ヒルズに住む積極的自由がないことになる。でも、それを問題だと思う人なんているわけがない。
しかし、もしも、合法的に居住し家賃も毎月きちんと払っているのに、国が俺を六本木ヒルズから追い出したらどうか? それはひどい、住居選択の自由を侵害している、国家権力の横暴だ、とみんな怒るのではないか。これは俺の消極的自由が侵害されている状態で、それは多くの人に不公正だという感覚を抱かせるだろう。
多くの場合は、六本木ヒルズじゃなくて義務教育とか女子教育とか最低限の住居とかそういったものが賭け金になっているから、積極的自由は必要だ、と主張されることが多いんだけど、こういう極端な例を考えてみると、消極的自由は原則的に保護されないといけないけど積極的自由はまあ程度問題だよなという話になる。つまり消極的自由の方が重い。
これが消極的自由と積極的自由の違いだ。行動や動機が積極的か消極的かなんてこれっぽっちも関係ない。
なので、
いや、なんとなくおかしいというか、例示の文脈に恣意性を感じる。献血にくる人を増やしたいから人気漫画とコラボするって献血のあれは、どっちかと言ったら積極的自由って概念に入れるのが正確じゃないかと。
つまり公的機関が性的イラストを掲示したいと思う積極的自由は公の場で性的イラストを見せられたくないという消極的自由に劣後するわけね。筋の悪い議論
お色気イラストで客を呼びたい、なら積極的自由に、子供の環境に性的刺激を持ち込まないで欲しい、なら消極的自由になるような(´-`)既特性なんかも考えると視点によってがらりと変わるよね
詭弁。原理原則としては同意するが、当該問題への適用が雑。掲示は明らかに他者に広報(干渉)する目的でされているから積極的自由ともいえるし、これを差別表現とする立場なら見ることを強制されないのは消極的自由。
アホかこいつ公共の場所で性的な表現を披露したいって方が積極的な自由の範疇だろ、猥褻な絵画を見たくないがなんで積極的な自由の追求になるんだ
積極的自由と消極的自由”解りやすく言うと「やりたい放題やる」自由と「遮断したい」自由ね。でもそれ精神年齢とかで個人差あるモノだから間尺合う人とだけ付き合いたい
このへんのコメントは軒並み、問題文を理解していませんね、零点、でおしまい。漢字は正しく書けてるみたいだから部分点はあげようかな。
義務教育なんて積極的自由の最たるものでしょ。日本社会における消極的自由を実現するためには日本語の読み書き能力とか日本社会についての基礎知識とか計算能力とかそういったものが必要で、それを叩き込む――つまり、自由を実現するためのリソースを与える――のが公教育の役割。
言論の自由を実践するためには表現を世に問うための読み書き能力が必要だし、職業選択の自由を実践するためには望みの職業に就くためのスキルとかが必要だよね。
政府批判をしても逮捕されない、自由に好き勝手言える、といった消極的自由を保障されたって、日本語の読み書きが全然できない人とか日本社会の仕組みを全然知らない人とかは実際問題としてその自由を使いこなすことができないじゃん。だから最低限の消極的自由だけじゃダメで積極的自由が必要なんだよ――というのが現代自由主義では割と受け入れられている考え方だと思う。
積極的自由の恩恵は俺もお前もこの社会に生きるほとんどの人が受けているんだよ。
ただ、上で書いたようにあくまで程度問題。「女だから十分な学力を持っていても医者になれない」とかは直接的に職業選択の自由が侵害されてるから大問題になったけど、そもそも大学に行けるほどの教育を受けてないから医者になる道が最初からなかった、というのが問題視されることは少ない。医者になる気があって能力もある人間が性別を理由に選ぶ機会を奪われるのは消極的自由の侵害だから絶対にあっちゃいけないとみんな考えてるわけだけど、医者になれるだけの能力を育てる機会を持てなかったからそもそも選ぶ機会そのものがなかったというのは積極的自由が欠如していたということだから問題になりにくい。でもこれも直接的に奪われるのとは違った形で自由を持っていないともいえるよね。ではどこまで国家が介入するべきか? どのくらいの不自由までに国家が責任を負うべきか? というのが、現代自由主義でよく議論される点。
我々法学徒は民法の最初に出てくる「悪意」で、あっこの世界は字面を字面通り読むと単位がもらえないんだなーと理解する(理解できないと単位を落とす)が、一般人はそういう洗礼は受けていないので
文学部卒ワイ「なるほど~~~~~~~知らなかった~~~~~~~」
英語でもnegative libertyとpositive libertyだからこれ以外に訳しようがないんだよね……
句点毎に改行入れるのはわかるけど読点に改行入れる人って(´・_・`)しかも全部の読点に入っている訳でもなければ、句点との差や話の区切りの見やすさにつなげる訳でもない
流石にこの文章を読んで読点での改行の意図をご理解いただけないのであればずいぶんと日本語の読解力が、その、なんというか、必要最低限に届いておられない方なのだなという感想しか湧いてこないですね……
前の記事でもこの記事でも増田自身程度問題とわかっていながらその線引きを増田の正義における絶対的に正しいものと仮置きして喋ってるように見えるからいかんのでは?
程度問題って書いてるのは「積極的自由をどこまで保障すべきか」なんだけど私そこの線引きに関して何か断言したっけ? 義務教育は絶対に保護されるべき積極的自由だと主張したけど、そのほかの論点では特に断言とかしてないよね。
まあ、「何が消極的自由で何が積極的自由か」とかそういう話では線引きした上で断言したけど、私そこに関しては「程度問題」って言ってないよね。大丈夫? ちゃんと日本語読めて議論の流れ追えてる?
じゃあ件のポスターが性的に見えるのもそれが理由でしょう。"あなたが"それに性的なレッテルを貼っているから性的に見えるだけ。
二次元性愛を異常なものと排除し続けて、たまに気まぐれに「過剰にセクシャルなもの」を面白おかしく取り上げて、「アニメ調イラストとはそういうもの」という偏見にまみれた文脈を押し付けた結果。
同性愛者が恋人と手を繋いでイチャイチャしているだけで「不快だ」「猥褻だ」と騒ぐのと同じ。典型的なセクシャルマジョリティしぐさ。
実際、現状の検索はおかしいよ。ロリエロイラストは排除される一方で、盗撮まがいの実在児童の写真は平気で紛れ込んでたりする。
横だけど、これを言うと必ず「アレがエロに見えないのは感覚が麻痺してるから〜」という反論が来るので先回りしておこうか。
それを「エロいものとして見る」ことと「エロいものとして描く」ことは違うし、それらもさらに「ファッションとしてのエロさ」と「性産業的なエロさ」が区別される。もちろんその間はグラデーション状になっていて、容易に区別することはできないけどね。
そうした違いを全部無視して「猥褻」とレッテルを貼るのは、結局ミニスカートを履く女性や女装する男性に「はしたない」「みっともない」と投げかけるのと同じ。
性表現がアイデンティティと密接に結びついているというリアルな現象が見えてない。
献血のアレはどう考えても「ファッションとしてのエロさ」だろう。たとえそこに「性産業的なエロさ」を見出す自由があったとしてもだ。(難しいのは、たとえ出力が「ファッションとしてのエロさ」であっても、描き手自身がそこに「性産業的なエロさ」を見出していたり、また「性産業的なエロさ」をアイデアの源泉としていたりすることが少なからずある点。しかし内心がどうあれ出力は変わらないし、プライバシーに踏み込むべきでもない。)
【初めに】
コピーミスで一節が抜けていた。申し訳ない。【】で囲まれた部分が追記である。
【本文】
ビジネスホテルに泊まるときは大抵全裸だし、男女関係なく素っ裸で過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。
そんなことを呟こうものなら、不審者扱いされるのは目に見えている。挙句の果てに、公共の場で脱ぎだして陰部を露出する不審者予備軍と誤解され、警察のお世話になるかもしれない。
だが、よく考えてほしい。ああした人たちは、自分の全裸、特に陰部を見てほしいのであって、裸になりたいのとは少し違う。それに、皆様も思うことはないだろうか。たとえば大浴場に浸かったときの安らぎ。もしもそれが露天風呂だったらなおのこと心が緩み、湯の中に嫌なことが溶けていく思いがしないだろうか。
目の前にどこまでも緑が、あるいは紅葉が広がっていたら。あるいは、絶えることのないとどろきを繰り返す海洋が広がっていたのなら。これほどまでに自由を感じつつ、大いなる存在に受け止められている安心感を覚える場所はないはずだ。何も身にまとうことなく立っていると、海風が全身をそっと撫でていき、普段どれほど重いものを身にまとってきたかを、嫌でも意識させられる。
とはいえ、男女混浴が可能な場所は国内でも限られている。ましてや、近年は混浴のマナーの低下が甚だしく、混浴を取りやめてしまう地域も多いと聞く。ある意味では仕方がないのかもしれない。混浴が誕生した時代とは、私たちの羞恥心の感覚も変わってしまった。
そういうわけで、私は混浴文化がまだ息づいている、ウィーンにまで足を運んだのである。概して、ドイツやオーストリアを含む中東欧の人々は裸体に対するタブーが弱く、混浴についても寛容なである。緯度が高いので、全身で太陽を浴びたいのだろうか。冬になると日照量不足で気分が落ち込む私としては、その気持ちはよくわかる気がした。
もっとも、私は全裸になるためだけにオーストリアに飛ぶような酔狂な人間ではない。
私は建築や美術にも関心があり、この旅行の主目的は、クリムト、シーレ、ココシュカといった人々の作品を鑑賞することであった。なので、脱衣はどちらかといえば、時間が空いたときのおまけである。
日本と同じで、月曜日には休業の美術館が多い。なので、月曜日にそうした巨大温泉施設に向かった。ウィーン中心街からおおよそ三十分ほどのオーバラー駅前の、テルメ・ウィーンと呼ばれるところである。
駅を出ると目の前に巨大な建物があり、そこからは既に硫黄の香りがしている。そうしたところは我が国の温泉とよく似ており、妙な安心感がある。片言のドイツ語で入場料を払い、タオルのレンタルを済ませ、ロッカーに向かった。
ロッカーのカギは電子式で、かざすと自動的に開閉されるというものだ。慣れるまでに時間がかかったが、すぐに便利だとわかった。荷物を持ったままガチャガチャと回すのは大変だからだ。ちなみに、このロッカールームの時点ですでに混浴で、男性女性関係なく着替えている。もちろん、慎み深い人のために個室の更衣室もあるのだが、別料金だ。
ちなみに、温泉施設ではあるがすべて全裸で過ごすわけではなく、全裸なのは奥のサウナコーナーのみである。そのために私は一応水着を持参しており、ついでに防水のバッグも持ってきた。
まずは、せっかくなので水着エリアで温泉を楽しむ。とはいえ、水着エリアは温水プール同然であり、浸かっているとあたたかいが出て風に当たるとすぐに水着が冷えてしまうといった代物である。せいぜい人肌程度であり、温まるには不足である。
これはときどき指摘されることだけれど、日本人の湯加減の好みは、ヨーロッパの人々のそれよりもかなり高いらしい。ハンガリーは温泉大国で知られているが、やはりそこも湯加減はぬるい。ただ、その程度の温度でなければ、ガイドブックで見かけるように、湯につかりながらのんびりとチェスの対局をやるわけにもいかないだろう。
他にも、子供立ち入り禁止エリアというのがあり、ムーディーな照明と共に、カップルや夫婦がぷかぷかと浮かびながら語らっているコーナーがあった。ここも温水プールでほとんど温まらない。日本の温水プールみたいに、塩素臭くないのはありがたいのだが、やはり汗をかかないと物足りなく感じてしまう。
そうしたわけで、水着エリアを堪能した後に移動しようとしたのだが、サウナエリアがどこかわからない。あちこちうろつきまわり、子供に泳ぎを教えているらしい人やスタッフと思しき人物に、「ヴォー・イスト・サウナ?」(サウナはどこですか?)などとつたないドイツ語で尋ね歩くうちに、やっとのことでたどり着いた。
なお、このゲートの先は別料金であり、鍵をタッチして入る。清算は帰りだ。そして、注意書きにはドイツ語と英語で「この先水着の着用を禁じる」と書かれている。なんとも徹底していることだ。私は軽快な電子音と共にその奥へと進んだ。
サウナコーナーは、それほど変わった印象はなかった。ただ、見かける男性が皆素っ裸なので、私も水着を脱いだ。それほどの羞恥を感じなかったのは、一つには周囲には男性しかいなかったからだろう。それに、ここでは全裸が正装なのだ。だったら、むしろ何か着ている方が恥ずかしいのではないか。そんなことを思ったのである。
サウナの入り口には温度が書かれており、四十五度、五十度、六十度、それから九十度に分かれている。ひとまず五十度のところに入ると、既に老夫婦がくつろいでいた。ここで初めて裸の女性と遭遇した。
二人は、私の存在を気にかける様子もなく、くつろいだ様子だった。私も、確かに目の前に女性がいるのだなあ、ということは考えたのだが、気にしてもしょうがなかったので、ぼんやりと天井を眺めることにした。男性で前を隠している人はほとんどいなかったので、自分もそれに倣ったのだけれど、個人的には気持ちが良かった。世間体を気にせずにリラックスした姿でいるのは、何とも言えず心地よい。
ちなみにその老夫婦のいたサウナでは、腰かけるところがチェアベッドのようになっており、仰向けにくつろげるような形になっていた。うとうとしているといつの間にか隣に座った男性が、ペーパーバックで何やら読んでいる。お風呂ではなくてサウナで読書、贅沢この上ない時間だ(もっとも、後で注意書きを見たら、サウナの中の読書禁止、と書かれていたのだが)。
しばらくして、サウナを出てシャワーを浴び、他の温度のところを回ったり、冷水プールに体を浸したりした。日本の温泉は露天風呂がメインで、サウナが複数あるところは珍しい気がするが、ここでは様々なタイプのサウナがあり、存分に楽しめた。
たとえば、スチームサウナというのがあり、ここでは猛烈な蒸気で包まれる。汗が蒸発しないのでなかなかにつらいし、持っていたタオルもすぐにびしょ濡れになってしまうのだが、熱風がきつくないので、肌には優しい気がした。眼鏡をかけていると、何が何だかわからなくなってしまうのだが。
ちなみにこの眼鏡、裸眼で転ばないように、日本でサウナ用の眼鏡をわざわざ購入したもののである。
【ところで、このサウナコーナーには、外がある。サウナなので当然素っ裸で歩くのだが、これが気持ちがいいことこの上ない。芝生の上を歩けば、まるで熱帯民族になったようで愉快だ。そして、歩いた先には小屋があるのだが、そこもまたサウナである。
そこでは、おおよそ温度は九十度で、定期的にスイッチがオンオフになる。オンになると、そこにはタオル一枚のおじさんがやってきて、香りのする水を炉に撒く。そして、巨大なタオルでサウナの人々に熱風を浴びせるのである。
それがまた非常に心地よい。異様な高温のはずで、現に乳首が痛いほどなのだが、それでも不思議と生きている実感が与えられるというか、幸福感と高揚感が感じられる。それは他の人々も同じなのだろう。おじさんのパフォーマンスが終わると、一斉に歓声と拍手がする。ロウリュウ、と呼ばれるものに近いのだろう。
そのあとも、おじさんは一人一人に熱風を送る。そのたびにあおがれた人々は嬉しそうだ。私も、「ゼア・グート。アバー・ゼア・ハイス」(とても気持ちがいいですが、とても暑いです)と、定冠詞の活用が無茶苦茶なドイツ語で応じた。すると隣のおじさんがあおがれたときに「カルト・カルト」(寒い、寒い)などというものだから、思わずその場は笑いに包まれた。
私に向かって風を送るときに、両手を合わせてお辞儀をしてくれた。たぶんタイかどこかと間違えているのだろうが、悪意よりも親しみを感じたので、こちらも会釈した。腰かけるところが熱すぎて胡坐をかいていたので、仏像か何かと勘違いしたのかもしれない。
その後、全身をほてらせながら野外にある二十五メートルほどのプールで体を冷やした。何往復か泳いでから、仰向けになって曇り空を眺めているうちに、これほどの幸せなはないだろうな、と感じられた。何のしがらみもなく、何の規制もなく、ただ存在するだけ。過度な欲望もなく、競うこともなく、誰からも干渉されない時間だけそこにあった。
それに、水着を身につけずに泳ぐと体を締め付けるものが何もなくて、全身を区別せずに流れていく水が本当に心を自由にしてくれる。それに、誰もお互いの裸をじろじろ見たり気にしたりしないのも、気持ちが良かった。あたたかな無関心というか、あるがままの姿を受け入れてもらっている感覚になるのだ。
人間の身体のどこに猥褻なところがあるのだろう、表現の規制は何のためにあるのか、などと大げさな議論が頭の中に形を取ろうとしたが、そうしたものは普段日の当たらない陰部に太陽が差す気持ちよさに溶けてしまった。
そうしたわけで、私は結局三時間以上もそこで過ごすことになった。】
さて、三時間過ごしたので、そこではいろんな人を見ることができた。もちろん、凝視したわけではないけれど、それでも混浴に来るオーストリア人にはいくつかのパターンが認められた。
その一、スポーツマンタイプ。ものすごい筋肉量で、アスリートか何かのようだ。これだけ鍛えていれば、自分の身体に恥ずかしいところなど、どこにもないと言わんばかりだ。ギリシアやローマの彫刻そっくりである。スポーツマン同士で何やら楽しげに話していることが多い。
その二、力士タイプ。非常にでっぷりとした肥満体系のおじさん。人からどう見られているかそんなに気にしていない印象。こちらも堂々と歩いており、楽しそうにしている。
その三、老夫婦。なんというか日本の混浴にもいそうな、のんびりした雰囲気。ときどき湯船の中で抱き合ったり、ほっぺたにキスしたりしている。ちなみに、注意書きには「キス以上のことはしちゃダメ!」「十六歳未満の入場禁止!」と書かれている。
その四、比較的若いカップル、あるいは若い男女。よくわからないのだけれど、「みんなで渡れば怖くない」的な感じで一緒に来たのかもしれない。
ちなみに日本人は私だけだった。それから一人だけアフリカ系の人がいた。それ以外はみんなヨーロッパ系。
で、こうして振り返ってみると、比較的若い人が多い。それでも、私はあまり気にならなかった。というのも、前も言った通りここは全裸が正装なのであり、それについてとやかく言うほうが変だ。確かに、きれいで魅力的な人もいたし、中には私の好みの人もいたのだが、雑踏ですれ違う以上の感慨はなかったし、わざわざ振り返ることもなかった。
混浴について、猥褻だとか下品だとかいう意見があるが、私はまったくそう思ない。そもそも、ここは風呂とサウナであり、いい湯だな、以外の感想はない。たぶん、混浴について批判的な人は、マナーの悪い人と一緒になってしまったのか、そもそもお風呂がそこまで好きではないか、なのではないか。人様のことだから、勝手な判断は差し控えるが。
というか、見えそうで見えない極小ビキニなんかよりも、素っ裸の方がよっぽど上品な気はする。潔いし。隠すから下品だとか猥褻だとか言われるんじゃなかろうか。みんな最初からすっぽんぽんだったら、誰も気にしないだろうし。隠せば隠すほど、そこに注意が向くし、逆説的にそこに注目してくれと言っているようなものな気がする。
それと、全然関係ないけど、女性でも腋毛もじゃもじゃの人は多いのは面白い。話には聞いていたが、実際に目にするとやはり興味深い。陰部がどうなっているかはじろじろ見なかったからわからないけれど、向こうの人は剃っているとはよく聞く。ただ、そんなことも温泉が気持ちいいのでどうでもよい。
そういうわけで、私はオーストリアの混浴を十分に楽しんできた。予想していた通り、とても気持ちが良かった。日本にも類似したサービスがあればいいのに、と思ったが、マナーを一定の水準に保つことは難しいだろう。きっと、ナンパしたりじろじろ見たりする行為が横行するに違いない。一度絶えてしまった、混浴の文化を再びメジャーにするのは、難しいだろう。
プールサイドで裸のまま横になり、夢うつつのまま時間が過ぎていく経験は非常に贅沢だった。しかし、これは今の温泉文化とは、少し違うかもしれない。
個人的には、自分がやりたいことをやったので、満足している部分はある。今後どうするかはわからない。恋人がいないときだったので、とりあえず全裸になってはみたのだが、もしも今後も恋人が見つからず、行きたい場所が思いつかなかったら、どこか別の国でヌーディストビーチに行くかもしれない。それか、趣向を変えて、全裸ハイキングか全裸マラソンかに挑戦するかもしれない。
もっとも、この混浴体験ですっかり気が済んでしまい、数年後には興味すら持たなくなっている可能性もある。それはわからない。
ただ、やりたいことをやってみて、それなりに面白かった。それで十分なのかもしれない。
最後に、脱いではいけないところで脱ぐのは絶対にやめましょう。これだけは強調しておく。
【最後に】
本記事はカクヨムにも掲載されている。私が投稿者本人であることは、カクヨムでは連載中であり、現時点でも未公開になっている部分が含まれていることが証拠になる。
【付記】
ヌードバイクみたいな、ヌーディスト活動経験者の増田は、ほかにもいらっしゃるのだろうか。あるいは、ヌーディズムに関心がある、だけでも潜在的にはどれほどいるのだろう?
【アクセス】
地下鉄U1の終点、Oberlaa駅
これってアレ?
「そんな広告が増えたら嫌だろう?だからお互い様なんだよ」という主張を込めた皮肉ってこと?
この人自身「子持ち家族やヘテロカップルを描いたり撮影した広告は猥褻である」と考えていて、それを前提として「お互い嫌がることはやめよう」って言ってるの?
だったら賛成だけど。
だとしたらエロ本の表紙絵は”休日にディズニーランドに向かう子持ち家族”にして、漫画やAVも”クリスマス前の繁華街をうろつくヘテロカップル”を描いたり撮影したりしたものにすれば凄い猥褻なものになるしコンビニにも堂々と置けるんじゃないか。発想の転換! https://t.co/UyfU3M0Qbm— 鏡屋譲二 (@squaremania) September 11, 2019