はてなキーワード: 無理ゲーとは
消極的与党支持だったんだが統計不正と金融庁報告もみ消しでさすがに愛想が尽きた。
んで、どこか別の政党に票入れたいんだけど、全然わからんのでどこに入れればいいか教えて増田先生。スタンスも書いとくよ
・老後までに2000万ってマジで言ってんの?どう考えても無理ゲー
・この期に及んで老人を厚遇するとかありえねえ
・消費税増税も勘弁してほしいんだが軽減税率はやめてくれねえか。仕事のオペレーションが回る気がしねえ。誰が得すんのよ
・表現規制もいやだねえ
・LGBTや障害者はどうでもいい。申し訳ないが生活がキツキツすぎて考える余裕がないんだわ。すまんね(むしろ世の人々は生活にそんなに余裕があるのか?)
・憲法はどうでもいい
某有名ヤクザアカウントが「仲介役は実際に会う前に暴力団仕事だと伝える」的なこと言ってたけどさ、半グレがそんな真面目にやるわけないじゃん
暴力団は雰囲気でわかるだろって言われても反論できないけど、詐欺集団なんて分かるもんなの?
スリムクラブのせいでごっちゃにされてるけど、おおもとの騒動は半グレ相手なわけで、助かるには「その場で半グレと見抜いて立ち去る」しかないと思うと無理ゲーなきがする
暴力団員がタピオカ売ってる時代だし、自分としても自分の会社の取引先が半グレの可能性だって否定できないなーと思うとちょっと怖いから、だれかここ見れば安心できるってポイントを教えてくれ
>逆に女性だって、年収○○万円以上の夫と結婚して一人前、という圧力が未だにあるでしょ。
トロフィーワイフって言葉出したから例えとしてだしてきたんだと思うけど、
こういう年収○○万円以上と結婚しないと一人前じゃないっていうの、わかんないな。
結婚相手の条件に「年収○○万円以上と結婚したい」って自分で思っているならともかく
他人から圧力とか口出しできることでもないでしょ。言えて親からくらいでしょ。
すでに「女性から見向きもされてない」って条件なのに美人じゃないと認めて貰えないって
無理ゲーじゃん。
強いていえば「結婚してようやく一人前」みたいな圧力というか空気ならわかるけど。
33歳の正社員の介護士ですが、Web業界に転職したくて、約1年、専門学校に通って、有休(14日)も使って6ヶ月(36日間)、時給1000円でWebの中小企業(以下T社)でインターンシップしたら酷かった話し。
インターン開始から4ヶ月半が経った日の夕方に社長に呼ばれて会議室に入ると、1対1の面談で、雇用の延長はできないと言われました。
社長は「Web課は赤字なんだ、他の課の黒字で赤字を補填しているんだ」と言って、僕に簡単な損益計算書を見せてくれました。
「有休が発生するから、社労士と話をして、君は最長で半年までしか雇えない」と言われました。
僕は社長の話しを聞きながら、同じ部屋で、先ほどまで行われていた3人(全員20代)のリクルートスーツを着た若者の面接を思い出しました。3人同時に面接をしたのではなく、1人ずつ別々に3回、面接をしました。皆、顔見知りではないです。3人とも、あと2人が同じ日に面接をしていたことは知らないでしょう。僕は、今日は特に多いなと思いました。社長は毎週のように面接していましたが、これまでは1日に2人までしか面接したところを見たことがなかったからです。
僕は2018年12月上旬からハローワーク経由でインターンシップとしてT社で働き始めましたが、それから6ヶ月で、僕を除いて、計7人の新入社員がいました。T社は社員13名(社長、僕含む、外部委託5名は含まない)なのに大量採用、大量解雇なのです。8人の新入社員のうち、僕で3人目の離職者です。離職率は37.5%(中途入社で8人採用、6ヶ月の間に3人が離職)です。
1人目のYさん(20代)は約3週間で辞めました。社長と仕事の経過についての面談をした後、皆がいる中で「おい、何度も言わせるなよ、ったく」と軽く罵倒されました。社長がYさんに頼んだFileMaker(ソフトウェア)を使った仕事ができなかったからだそうです。それはそうでしょう。触り始めて1ヶ月も経っていないんだから、難しいに決まっています。契約期間は残っていたのに、僕はその後Yさんを1度も見かけませんでした。
Sさん(20代)は、請負になり、自宅でプログラミングの仕事をすることになりました。
2人目の(Kさん,20代)は1日で辞めました。社長の知り合いの紹介で可愛らしい新卒の女性でした。僕の、次の出勤日に、別の社員が席に座っていたので「あそこはKさんの席じゃないんですか」と聞くと「Kさんは1日で辞めた」と言われました。それで終わりでした。他の社員は皆慣れているようでした。僕は仕事を1日で辞めた人を初めて知ったのでとても驚きました。
そして、僕が辞めることになりました。
それに、当たり前ですが、誰も新規には雇われないというわけでもありません。僕に業務を教えてくれるSさん(パートの女性,30代)はすでに10ヶ月間働いています。「ここに来る前は失業者だった」と昼食時に話してくれました。ハローワークや求人サイト経由で働き続けられる人もいます。
僕は「68件も月次レポート等を作成したんですよ(うち2件は単価6万円)」と社長に話しました。それに対して、社長は「例えば、封書に入れて、郵便局に持っていくような仕事だ」と答えました。つまり、誰にでもできるレポート作成ということです。何十通作成しても、社長にとっては仕事のうちには入らないのでしょう。
これは社内失業者のための仕事という意味です。「郵便物や宅急便を出す[1]」以外にも「ネットサーフィンをして面白そうな記事があったら週一回、上司にメールで報告する[2]」「データをDVDに焼く[3]」「自社と競合他社の商品を勉強するために、他の家具メーカーのホームページを見る[4]」などがあります。
問題は、こういった仕事は、下積みとは違って将来の大きな仕事にはつながらないのです。
"下積みは、長期間にわたり計画的に行われる社員教育の一部である。確かに入社当初に任されるのは、経理処理や採用のサポートであり、地味な作業が中心かもしれない。しかし、その作業は最終的には大きな仕事を遂行するために必要な知識・経験を得るためのものなのだ。(中略)一方、社内失業者は、就業時間のほとんどを仕事を与えられずに放置される。与えられることがあっても極めて少量の雑用に過ぎない[5]。"
そして、2つ目の問題は上の世代から見ると、こういった仕事は、自分の若い頃の下積みに見えるということです。
"課長に相談したことがあります。40代後半ぐらい。仕事がない状態を伝えて、なんとかしてもらおうと、わりと顔を見るたびに相談してたんですよ。
そうすると、課長の"お説教スイッチ"が入っちゃうんですよね。別室に連れて行かれて2時間も3時間も
「これは君の為に言ってるんだけど、僕はね、社会人最初の会社でこうやって教えてもらって、鍛えてもらって、よかったからね。仕事は自分で探すものだから。僕はそうしてきた。仕事がないと思ってるかもしれないけど、探せばある[6]」"
そして、自分の仕事が将来の大きな仕事にはつながらず、社内失業状態だと気づいた社員からやる気が低下[7]して、転職活動を始める。でもそれもうまくいかないことが多い。
以前の前向きだった自分はどこに行っちゃったんだろうって思いますね。仕事にたいしてやる気が出ない。ちょっとした用事も、めんどくさくてしょうがない。封筒に書類を入れて宛て名を書くだけなのに、30分ぐらいかかることもあります。命令された雑用を「ハイハイ」ってやるだけ。小学生でも教えればできますよ。こんな状態で転職して、はたしてちゃんと働けるのか、それは自分でも心配です」
実は多くの社内失業者が転職を視野に入れている。にもかかわらず、なかなか転職できない現状がある。
なぜなら、雑用ばかりを担当させられ、まともな業務経験が積めないために、履歴書に書くことがない、面接で話すことがない、自分をPRできない状態だからだ。郵便局に毎日行って郵便物を出していましたなんてことを、あなたは履歴書に書けるだろうか?[8]
僕は「Googleアナリティクスもスプレッドシートもデータポータルも使えるようになったじゃないですか」と社長に言うと「Googleアナリティクスだけじゃダメだよ」と言われました。
「じゃあ、僕はどうすればよかったんですか。FileMakerも使えるようになればよかったんですか」と聞くと、
「FileMakerを使えるようになっても、雇えるかどうかは分からない」と言われました。
そして、最後にこう言われました。「雇用は延長できないけれど、FileMakerの仕事の請け負いなら頼んでもいいよ。でも、その仕事に責任を持てるか」「Webの仕事は相当頑張らないとダメだよ。今の仕事は辞めたらどうだ。俺たちは、今でも帰宅してから深夜1,2時まで頑張って勉強しているんだ」
僕は「じゃあ、僕にもそうしろって言うんですか。残業はさせられないけれど、1日3,4時間は勉強しろと」
社長は「今はそう言うことは大っぴらには言えない。働き方改革だからね。だけど君は自宅でほとんど勉強していないだろう」
そんなことはない。自宅でだって勉強しているけれど、それは正社員の介護職をした後で、ここでインターンをした後の話しだ。ダブルワークで有休を使ってまで働いているのに、そういう側面は見ない。そして社長はそれを分かって言っているのだ。
「君は未経験だからね」「最初の段階で来るべきじゃなかった」「会社に貢献していない」「基本レベルに達していない」
残業をして、Webの勉強をしようとしたこともありました。でも、マネージャーからは
「規定時間以内に求められる成果・結果を出すことを重視する。」為です。
長い時間仕事をする事に価値を求めたり、評価する事はしません。"
結局、答えは始めから決まっていたのだと思います。僕は平均的な求職者だと思います。でも本当に残したい優秀な人材ではありません。でも、だからと言って法的に解雇していいほど無能な人材でもない[9]。だから、有期雇用で使い捨てる。問題は、会社がそれを元から織り込んでいることです。元々Web業界にいる人材ならこの中小企業は選びません。だから、未経験からWeb業界に転職したい求職者をハローワークや転職サイト経由で最低賃金で採用します。でも、実際には、彼らは平均的な人材だから長くて半年までしか雇われません。それ以上雇うと、企業に雇用責任が生じるからです。社長からしてみれば、彼らが1日で辞めても構いません。もちろんSさんのように雇われ続ける社員もいますが、それは例外です。
自社の新規事業や簡単なレポート業務などを、常時3,4名のアルバイト(パート)を雇って大量生産させる。上司がチェックして、顧客に提供しますが、顧客が作り手のアルバイト(パート)の顔を見ることはありません。
社長は「新規事業の調子はどうだ、依頼はあるか」と社員に聞きます。そのレポートを作成しているのは、僕とアルバイト(パート)の女性2人なのです。2,3ヶ月経って、引きが少なければ事業から撤退して、...ということなのでしょう。
TVゲーム風に言えば、"ノーマル(正社員)モード"だと思っていたら、2ヶ月働いて、"ハード(非正規社員)モード"だと分かった。それでも構わないと思いながら働き続けたら4ヶ月半経った頃に"無理ゲー(はじめから雇うつもりはない)"だと分かった、という感じです。
最初の面接の時に、社長は「できるだけ長く勤めてほしい」「はじめは「半年間で」と言ったが、2,3年はかかる」「介護の仕事は辞めないで、働いてほしい」というものでした。僕は、ここで頑張ろうと思いました。でも、それは幻想でした。
本当なら、その時に、Web課の損益計算書を見せてもらうべきでした。そうすれば、僕は当たり前の疑問「どうして赤字なのに求人票を出しているんですか」と聞いて、入社しなかったと思います。
最初から無理ゲーだと分かっていたら、僕でなくても、誰もゲームを始めないと思います。
でも、そう言ったら、最低賃金で働いてくれるアルバイト(パート)が集まりません。だから、はじめは馬(僕のような未経験の求職者)の鼻先に人参(Web業界の正社員雇用)をぶら下げるのです。それが実際には存在しない雇用だったとしても。
ハローワークに求人票を掲載している一般的な中小企業は、書類審査や面接で応募者をフィルタリングしてから短期雇用やインターンシップ契約を結びます。目的は正規雇用するためです。
でも、T社は違います。考え方が逆なのです。「Web課が赤字だ」とすれば、本来ならば、少しずつ仕事量や社員を減らす必要があるのに、そうしない。将来につながる赤字なら問題はありません。先行投資だからです。でも、この赤字はただのしがらみなのです。
だから、赤字部署の仕事を、できる限り人件費をかけずに維持する必要があります。そのためにハローワーク等から最低賃金の労働力を調達するのです。
本来ならハローワークは「国民に安定した雇用機会を確保することを目的として国(厚生労働省)が設置する行政機関[10]」なのに、T社は、経営を維持するために短期雇用者を供給する行政機関と割り切っているのです。これは雇用の調整弁ですらない。解雇することを前提として雇うのですから。一番重要なのは、長期雇用(正社員)に雇用転換しないことです。人件費の負担が増えたら、部署の赤字幅がより大きくなるからです。
つまり、T社の採用戦略は、長期的な顧客との関係を維持するために、短期的な求職者との関係を犠牲にするというものなのです。そのためにハローワークは利用されているのです。はじめはこんな風ではなかったのだろうと思います。でも人件費抑制には中毒性があるし、毎週のように求職者が面接に来る。だから少しずつハマっていったんだと思います。
ロスト・ジェネレーション世代(僕は違いますが)は、自分たちより上の世代を簡単には信じません。雇用契約で苦い思いをした経験があるからです。雇用者側の言うこととやることが違って、しわ寄せは、全て若い世代(自分)が被る。
僕の場合で言えば、美しい建て前は団塊世代より少し下の社長やマネージャーと厚生労働省(雇用形態:正社員)のもの、醜い現実は若い世代(ロストジェネレーション以降)と社内失業者(非正規社員)のもの、というところです。そして、僕から見ると、ロストジェネレーション世代は、子どもをつくらないという消極的な形で復讐をしているように見えることです。どのような形の復讐かはご想像にお任せします。
元々転職活動を始めたのは、介護士の低い年収だと、結婚もできないし、子どもも育てられないと思ったからでした。転職をするとしたら、35歳が一つの壁になります。だからそうなる前にWebの専門スクールに1年間通いました。Webデザインの基礎とJavaScript,PHP,WordPressを学んでホームページを作成しました。それからハローワークにも通いました。介護士と同程度の給料でも構わない。パートでもいいからWeb業界で働きたいというのが希望でした。
面談4(東京しごとセンター(ハローワーク)の担当アドバイザーとの話し)
僕がインターンシップの経験を話すと、アドバイザーは「T社は助成金目当てのロクでもない企業だね。確信犯だね」と話してくれました。
それに対して、僕は「令和になってから、現状が変わらなくても大丈夫でしょうか。女性や高齢者が非正規労働市場に参入してきた[11][12]から低賃金労働が可能でしたけれど、令和には限界がくるんじゃないでしょうか」と聞きました。
アドバイザーは「だから外国から(労働者を)入れているんだろうね」と話しました。僕は「なるほど」と相槌を打ちました。そう言われればそうだ。僕の職場(介護)でも外国人労働者が3人います。フィリピン人女性2名、韓国人男性1名(日本人15名)です。
だから人手不足なのに、賃金上昇は起こらないのでしょう。(1997~2017年の民間部門時給の変動率は主要国で日本だけマイナス[13])
当然ですが、僕にだって個人的な問題があります。「新卒で入社しなかった」「介護経験が7年目だから、Web業界に転職できない」「人間性や人柄に問題がある」のかもしれません。
今、僕が案じているのはT社で働いている5人の新入社員です。例えば、Fさん(3~40代)は「下の子の体調不良のために、来たばかりですが早退します」と言って、子どもを迎えに行くようなパートの女性です。Fさんが早退した10分後に会議室で社長とマネージャーの笑い声がしました。
Kさん(60代)は病気で通院するために休みを取るようなパートの高齢男性です。
この文章からは、僕が社長を悪者扱いしているように見えるかもしれませんが、それは違います。初めての面接の時から、僕は社長を尊敬していたし、責任感が強いと思っていました。それは今も変わりません。中小企業を経営していくことがどれほど大変か。経営の本質が問われるのは、赤字が続いている時期であって、黒字の時ではありません。部署全体が赤字ならば、決断をするのは大変でしょう。社長の口癖は「うちは技術屋でね」ですし、「20年経営していて、この規模じゃいけないと思うんだよね」と話したこともあります。
社長がサイコパスっぽくなるのも、よく分かります。ハローワーク、転職サイト経由のあの社員は1日で辞めました。2日で辞めました。1日も来ませんでした。そして今度はインターンがはてな匿名ダイアリーに書いていますとなれば、それは誰だってムカつきますよね。でも社長だって、雇用契約書どころか、労働条件通知書を4ヶ月分しか渡してくれませんでしたよね。僕のことを完全に忘れていましたよね。
5月下旬の面接の際には、欲しい人材は「コンテンツができて、一人でやりきれて、一回(仕事内容を)話せば通じて、CVを上げられる人」と言っていました。僕も100%
最近仕事で英文メールに対応しなきゃいけなくなったので今更マスター英文法とか引っ張り出して勉強してるんだが、
(基本的にトラブルに関する話題が多いので、受動態とか過去完了とか現在完了進行形とかの便利さが今更理解できた)
よくわからないのがThinkとBelieveのニュアンス。たとえば下記のようなのをよく見かけるんだが
1) I think this issue got solved by yesterday's patch. Could you check again?
2) I believe this issue got solved by yesterday's patch. Could you check again?
(2)の I believeは、「修正済であることを確信しています」なのか「もしかしたらたぶん直ってるので」なのか、どっちなんだろう
Believeで辞書を引いてみると「物・事の真実・存在を信じる、が本義。確信の弱い時にも用いる」と書いてあって、これ文脈から判断するの無理くね? という
ThinkもBelieveも意見の表明であり、 "This issue got solved by yesterday's patch" よりは弱いというのは理解できるので、
その弱い意見の重みががたぶんだろうが確信だろうが大差ないんだろうなあとは思うんだが
とはいえひとつの単語が「信じる」と「たぶん…だと思う」の両方で使われるってどういうこと? というのが正直言って理解できない
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/tikani-nemuru-m.hatenablog.com/entry/2019/05/13/003547
ヤクザだってハロウィンにはお菓子配ってくれるし、高い買い物をしたときには税金負けてくれるし
たまにみかじめ料を引き下げてくれることもあるんだよ。
民衆は、実権を握ったときにヤクザを追い出してくれなかったし、お菓子はくれたけど、高い買い物を
しても税金負けてくれなかったじゃないか。そんな民衆よりもリアリズムでたま~に甘い汁を垂らしくれる
ヤクザを支持するのが当たり前じゃないか!民衆もヤクザにお願いしろよ、もっと良い政治ができるように
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。