はてなキーワード: 富野由悠季とは
『けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観から抜け出しているところにある。
少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。
もうひとつの「ガイナックス的なアニメの価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場のいぶし銀の技術者、ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。
私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーもインタビューで語っている。
「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)」http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html
放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)
たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事「最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズ、たつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。
「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/
ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。
―― アニメはお好きなんですか。
たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。
―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?
たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りました。http://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html
本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。
話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。
たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。
そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートがたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だから『けものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。
『シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明だから”。
ガイナックスや庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。
新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギークな価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任は野ざらしにされ担う者はいない。
2000年代、2010年代のアニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観そのものは形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。
もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。
これは自由の味だ。
ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識そのものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。
可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアをスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きのスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。
3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチが必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。
次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的なものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成、脚本・たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない(脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。
「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思います。たつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」
http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395
「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバーを関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題。
福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚はミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。
最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しである。たつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。
1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌えの主人公、エヴァ風ギミック、NARUTO風アクション、ジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通のオタクが価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。
続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーでキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。
第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションはレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。
4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。
5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ。2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。
ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」である。たつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。
『ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマがシリアスだからだ、という批判も予測されるが「ストーリーがシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。
『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグがテーマとTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。
再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。
自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァ風けもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう。
ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。
宮﨑駿や富野由悠季は日本アニメの始まりからアニメ業界に身を置いているので
自身の身体性や社会と接続された現実のものとしてアニメを作ることができる
だがアニメの視聴者としてアニメを虚構として受け取りながら育った庵野などの世代は
どうしてもアニメに対して現実感を抱けず、批評的に突き放してしまうか、虚構を再演することしかできない
一方で成人してからアニメに触れ、別業種から転職してきた押井守はアニメに対して特殊な距離感をとっており
現実派の監督は絶対的自信があるから厳しく頑固であるし虚構派の監督は居心地の悪さを感じており苦しそうである
と最近の色々を見て、改めて思ってたのだけど、その一因が先ほどふと分かった気がする。
というのも、「庵野秀明は新海誠への嫉妬で燃えているに違いない」というどこぞで見かけた馬の骨の因縁ツイートがあまりにも自分のイメージと違うことで、何かそこにメンタルヘルス用語で言うところの投射があることに気づいたからだ。
まず、このツイートが根本的に見誤っている事実として、庵野秀明という人物は、あの業界の人間にしては極端に他人に対する競争意識というのが低い。
少なくとも、表立ってはそれを感じさせない人物だ。
今までそれと意識した事はなかったが、改めて探してみると、他人への嫉妬や妄執が感じ取れる言動というものが本当に少ない。
自分以外のクリエイターの作品はまず肯定的に評するし、作品を比較して善し悪しを語るということにも熱心ではない。
富野由悠季の『そういう部分』をリスペクトしている割には、本人は驚くほど『競う』とか『順位を争う』とかという発想とは無縁の人物だ。
その代わりに顕著なのが、強い自意識だ。
ここで用いる言葉は、自尊心ではなく自意識、というのが妥当であるように思える。
ある種、究極のナルシストとでも言うべきか、他のクリエイターと自分との力関係などまるで我関せず、ただ自分がどれだけ自分を見てる人に印象的に映るかということだけを考えている感じだ。
『自分と自分の客』だけが世界の全てであると言っても良い人なのだ。
そういう意味で、セカイ系とかいう古くさい言葉で語られる彼の作品類型は、彼に見えている世界観そのものであるという事が改めてよくわかる。
当然の帰結として、庵野秀明が強い悪感情を抱くのはただ一つ、『悪い客』だけになる。
庵野にとっては同じ業界人などライバルでもなんでもない。ただ客だけが自分の戦うべき敵であり、「自分を分かってくれない」悪い客だけが究極の憎悪の対象なのだ。
幼稚と言えば幼稚なのかも知れないが、庵野にあるのは「なんで必死にがんばってる僕をわかってくれないんだ」という承認欲求だけで、それ以外の事は良くも悪くも何も考えていないのだ。
エヴァンゲリオンの、俗にいう『旧劇』は、庵野の強い憎悪・ルサンチマンの産物であるという事実は有名だが、それはあくまで『悪い客』に向けられたものだ。
庵野は、気に食わない批評家、もっと有り体に言えば『オタク』に負けるもんかと闘志を燃やす事はあっても、かつて一度たりと同じ業界人に対する『対抗意識』で燃えた事などはないのだ。
しかるに、庵野がことさらに嫉妬されがちな人物で、また冒頭に書いたような「若手を嫉妬しているに違いない」などという頓珍漢な言いがかりをつけられまでするという事実は、非常に興味深い。
庵野という人物は、常に競うという事とは無縁で、ただ『自分』を分かって欲しいという自意識だけでここまで来たクリエイターだ。
その事実は、取りも直さず、庵野秀明がオンリーワンであり、別の言い方をするなら「自分がトップに立てる土俵でだけ戦って来た人物」であることを意味する。
だがそれこそが、自分で土俵を作れず、他人と競う、オンリーワンをナンバーワンとして嫉妬するということしか出来ない種類の人間には、もっとも攻撃されやすい属性なのではないだろうか。
究極のナンバーワンであるオンリーワンの庵野は、彼らの目には常に妬ましいものとして映るだろう。
なんとかして、自分たちと同じ『競争』のルサンチマンに庵野を引きずり込みたい。
庵野が気にした事もないような『軸』で、庵野がナンバーワンでなくなる軸で、庵野に嫉妬して欲しい。
そんな願望が、このツイートのような、あまりにも庵野のキャラクターと齟齬を来す『勘ぐり』として現れるのではないだろうか。
彼らは往々にして、実際には自分で戦う事の出来ないただのオタク、つまり『観客』だ。
庵野秀明が新海誠に嫉妬して闘争心を燃やす事はまずないだろうが、このような、新海誠を出汁にして、庵野にいちゃもんをつけたがる『観客』がいる事実は、まだまだこれからも庵野を奮起させ続ける可能性が、まあ、確かにある。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20130809115823
上記URLと民主主義における多元論などに影響されいろいろ考えた(考えている)
世の中には様々な「常識」が存在する。その多くは所属するコミュニティによって形成される。
デービッド・R・キャメロンによるとコーポラティズム度が世界的に低い日本は多元主義国家と言っても過言ではない。つまり世界的に見て個人の自由度が高く多種多様なコミュニティ(「常識」)が存在するということだ。
国民の多くは生涯生まれ育ったコミュニティと同じまたは似通ったコミュニティに属するため形成された「常識」が揺るぐことはない。いや、なかった。
現在ではスマホの普及により知ろうと思えば自分がいままで関わることのなかったようなコミュニティにアクセスすることができる。
このような状況のなか未だ人々は「常識」に囚われ時には他人を否定するのだ。
日本では価値観が違って当然、考え方が違って当然であるから、それを肯定する優しい国になってほしい。文明の進歩とはそういうことだ。
僕はいまのいままで人を見下しているクズだった。国を動かす存在になって国を自分の考えでいい方向に導こうと考えていた。しかし自分が考えるいい方向とは必ずしも他人にとっていい方向ではないということを理解した。
そもそも国というシステム自体も必要ないんじゃないかとすら考えている。自らの選択で後悔したとしても勉強が足りなかったという自己責任で生きればいいと思っている。
すべての人々をコミュニティから解放しコミュニティやらなにやらを自由に選択できる社会というのが世にとっていい方向なのではないかと思う。何世紀先になるかわからないが人は分かり合えるようになると信じている。でも結局人は分かり合えないよ!というのがガンダムの作者富野由悠季氏の主張なのかもしれないが文明の進歩はそのためにあると考えたい。そのために僕は少しでも力になれればと思う
筆者は半分くらいしか観てないので間違いとかあったら指摘してください。
・庵野秀明『エヴァ(旧世紀版&新劇場版)』 : 同じBGMを使用している。ヤシオリ作戦の内容・名称の元ネタ。
・岡本喜八『日本のいちばん長い日』 : 激しいカット割りの元ネタ。日本が危機に直面した時の官僚・政治家の動向を描く点は同一。監督岡本喜八の写真が本作に登場する牧吾郎の写真として使われている。
・本多猪四郎『ゴジラ(初代)』 : 冒頭に映る古い「東宝」画面、第2形態時の咆哮音、冒頭に襲われる船の名前(「栄光丸」⇒「グローリー丸」)はこれが元ネタ。
・押井守『機動警察パトレイバー the Movie』 : 『シン・ゴジラ』に登場する牧吾郎のあり方が、『機動警察パトレイバー the Movie』に登場する帆場暎一と被る点が多い。①冒頭で海に消える、②事件解決の鍵を握るが、本人は既に死亡しているため、彼の思考の解明に主人公たちが翻弄される、③東京を破壊する動機が匂わされる、等。
・福島第一原発 : ①ラストシーンで凝固剤をクレーンで投入するシーンは、福島第一原発にコンクリートなどを流し込む姿を模しているとの指摘あり。②また、ラストにおいてゴジラは死亡せず凍結されるに留まるが、これは福島の原発事故の現状を表してるとの指摘あり。すなわち、冷温停止状態ではあるが、これからもきちんと処理を続けないと、また放射能汚染の惨禍を生むということ。
・長谷川和彦『太陽を盗んだ男』 : ラスト、石原さとみと長谷川博己が語り合う建物が、菅原文太とジュリーの決戦の場と同じ。ヱヴァ破でこれのサントラを使っていたため、意識して使用した可能性がある。また、制作中の仮題が『日本対俺』であり、これは『シン・ゴジラ』のキャッチコピーである『現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)』に類似する。
・庵野秀明『巨神兵東京に現る』 : 終盤、ゴジラの尻尾から出てくる人型が、『巨神兵東京に現る』に登場する巨神兵に酷似している。
・橋本幸治=中野昭慶『ゴジラ(84年)』 : 今回のシン・ゴジラと同じテーマ(危機に直面した日本がどう対応するか)を扱った作品。第4形態時の咆哮音の元ネタ。『シン・ゴジラ』のキーマンである牧吾郎の初出。
・本多猪四郎『宇宙大戦争(59年)』 : ヤシオリ作戦シーンのビーム作画、ビームSE、BGMの元ネタ。ただし、マーチについては、直接の元ネタは『怪獣大戦争』ではないかとの指摘あり。
・富野由悠季『イデオン』 : ゴジラが、背びれから全方位ミサイルを出し、尻尾からソードを出しているのは、これが元ネタではないかとの指摘あり。
・岡本喜八『沖縄決戦』 : 上述した『日本のいちばん長い日』と同じ理由。ただしこちらはシン・ゴジラと違って民間人の視点からも事件を描く/人の死亡シーンまで描く。また、『シン・ゴジラ』のラスト付近に登場する第32普通科連隊の丹波一佐は、『沖縄決戦』で第32軍長勇参謀長を演じる丹波哲郎が元ネタ。
・佐藤純彌『新幹線大爆破』 : 東京駅で作戦をするシーン、新幹線に爆弾を積んでぶつけるシーンの元ネタ。
・赤井孝美『八岐之大蛇の逆襲』 : 「ヤシオリ」という名称(ヤマタノオロチを酔わせた酒)からすると、ヤシオリ作戦の元ネタはエヴァではなくこちらを挙げるべきであるとの意見あり。また、血液凝固剤を注射ではなく経口投与にしたのは、ヤマタノオロチの伝承に倣ったものか。なお、これに登場する八岐之大蛇は第2形態に似ている。
・山崎豊子『白い巨塔』 : 財前正夫(國村準)、大河内清次(大杉漣)、里見祐介(平泉成)、花森麗子(余貴美子)、東竜太(柄本明)、柳原(矢島健一)、金井(中村育二)の”苗字”の元ネタ。たぶん探せばもっと出てくる。
・安野モヨコ作品 : 矢口蘭堂(長谷川博己)(⇒『ジェリービーンズ』)、カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)、尾頭ヒロミ(市川実日子)、花森麗子(余貴美子)(⇒『ハッピー・マニア』)の”名前”の元ネタ。たぶん探せばもっと出てくる。
see http://anond.hatelabo.jp/20090508095607
たとえば、グワッアーン! と、背後で爆発が起こったとしましょう。それで振り返ってみたときに「やれやれ」って面倒臭そうに振り返るような、僕はそんな主人公は絶対書きません。
──厭世的ということですか。
それ以前です! それ以前っていうのはどういうことかというと、こういうことです。爆発があったら、それが近くであれば先ずエイッって飛び退きますし、遠くのことでも何だ何だと振り返る、そういう身体感覚は人間の「生理」として備わっているものです。これは命に関わること、反射のことですから、何度経験してもほとんどの場合同じになります。ということは、こんな鈍感さを持つキャラクターが成立していいのか? という自覚を持ち続けていくのは、作家としての最低条件だと思っていますが、そのようなところの意識のない作品、芝居ですらないようなものは実際にはとても多いのだろうと危惧していますし、これはここ10年20年の問題ではありません。アニメーションという商売が日本で成立するようになってからずっと、こういう芝居をするんじゃねえぞと言い続けられなかったことは僕らの世代の責任でもある、という言い方は傲慢ですが、僕はそのように思っています。
最初の「富野インタビュー」形式は、姉萌えやバイク板の話題が時折紹介されていた在りし頃のアルファルファモザイクのコメント欄に書かれた(今運営されている同名のウェブサイトは名前が同じだけの別物だが、元々それほど上等なサイトでないのはご存知の通りだ。なお該当するコメントはサーバー移転のさいに消滅している)。字数制限が厳しかったため監督特有の「距離の長い」言い回しを表現できず若干の後悔はあったが、予想外にもまとめ増田に捕捉され数年に渡りわずかずつウケたのを見てちょっといい気持ちになった。ありがとうございます。
ということをふと思い出し、現在の感覚で字数の制限なく「後ろで爆発が起こったときに『やれやれ』と面倒臭そうに振り返る創作を作る人を批判する富野監督のインタビュー抜粋」を書いた。これらの短文はあくまで「他人の勝手に考えた富野監督」であるため実在の富野由悠季氏の考えとは何ら関係ないこと、オリジナル版を含め特定の文献・インタビューを参照したものではないこと(不特定の文献・インタビューの言い回しを記憶から参照しているという意味だ)を付記しておく。
エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語の定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品のテーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。
※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。
新劇場版のテーマを考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマを確認しておきたい。
結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしまう人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。
旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。
「私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」
そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿、能力、パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。
「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」
しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲルを殺害するのは仕方なかったという言葉である。
シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」
ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしまう人間の悪辣さが表れている。
そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオンの元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八『ブルークリスマス』、富野由悠季『イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である。
なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシアの大量虐殺を扱ったドキュメンタリー『ルック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。
旧劇場版では、上記のようにシンジにカヲルを殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドーをトリガーとしてサードインパクトを引き起こしている。
その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪観から、人間を贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。
ここには、若者を自己のエゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。
なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二『仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。
周知のように、シンジは自分の価値をエヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。
TV版最終話はほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。
以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクトに突入し、シンジとアスカ以外全滅してしまう。
生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈の余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。
結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。
旧世紀版 | 新劇場版 | |
---|---|---|
殺した対象 | カヲル君(をはじめとする使徒) | ニアサードインパクト震源地の付近住民 |
殺害の正当化理由 | 上位の命令に従っただけであり仕方がない | 愛する綾波を救うためであり仕方がない |
罪の代償 | 深い絶望 | 周囲の非難 |
贖罪の方法 | 戦自に殺されることを望む | 2本の槍と13号機で世界の修復をする |
上記行為の結果 | ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーをゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類はシンジとアスカを除いて滅亡。 | 世界修復の希望をゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。 |
主な変更点としては、①殺害の正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的なものから、「綾波を救う」という積極的なものに変化したこと、②贖罪の方法が自殺という消極的なものから、世界の修復という積極的なものに変化したこと、が挙げられる。
さらに、③「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。
これらの変更の結果、エヴァのテーマは(その善し悪しはともかく)矮小なものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類の問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題はあくまで「シンジの問題点」である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。
さらに、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。
上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァの成功と自身の結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。
エヴァの成功により庵野は自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。
さらに結婚により、人殺しの正当化理由として「愛する者を救うため」という理由が俎上に載ったものと推測される。
Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である。次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。
『山椒魚』や『黒い雨』といった作品で有名な井伏鱒二だが、検索エンジンの変換候補のなかに「井伏鱒二 ガンダム」という妙な組合わせが出てくる。
この情報源をたどってみると、どうやら過去のWikipediaに以下の記述があったことが原因らしい。
もともと、ガンダムシリーズの製作者である富野由悠季は、井伏の「黒い雨」に影響を受けていた。それが、既存のアニメとは一線を画す、ガンダムシリーズでのリアルな戦争描写の参考のひとつとなる(現に、機動戦士ガンダムΖΖで、マシュマー・セロのコロニー落としによってダブリンに黒い雨が降り注ぎ、ジュドー・アーシタがそれに打たれながら「黒い・・・雨が・・・」と呟くシーンがある)。その後、事情を知った井伏もガンダムを鑑賞し、感銘を受け大ファンになった、という経緯がある。他にも、目の前に飛び出してきた猫が素早く逃げていった時、井伏が「は、速い、シャアか?」などと呟いたというエピソードもある。
しかし、こんな話はまったくのデタラメである。巧みな話の流れにだまされてはいけない。前半はたしかにガンダムの作品に基づく事実だが、後半の「事実を知った井伏」以下の記述からは、すべて虚構でしかない。上手い話を思いついた熱心なガンダムファンが悪戯で書き込んだものと考えられる。
「目の前に飛び出してきた猫が素早く逃げていった時、井伏が「は、速い、シャアか?」などと呟いたというエピソード」など、いかにもガンダムファンがでっち上げそうな小咄である。
私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥ったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他ひとの後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。
自意識こじらせてもいいんだと思わせてくれました。
中二ごころに「なにこれ違う」という感じを味わいました。
これがなかったらいまご飯食べられていません。