はてなキーワード: ゴリラとは
数年前、NHKのハートネットTVで山師のような見た目の青年が高校生に進路指導をしていた。
数十人の高校生を前にして、まったく信用のできない口ぶりで彼は言った。
「進路を決めるコツは、やりたくない仕事をはっきりさせることだ」
それは観たくない映画を選ぶことだ。
というわけで、午前10時の映画祭のラインナップに対して、増田が観に行きたくなくなるようなコメントをしてみたいと思う。
どうせ指と指くっつけて終わりだろ。宇宙外生命体とガキの心温まる話とか増田は興味ないって。
オープニングいつ終わるんだよ。
そもそも増田はイタリア系移民マフィアになんか興味ないでしょ?
照明が有名だけどそれにも興味ないなら眠いだけだからマジで観なくていい。
長い(2時間52分)。途中で休憩あるけど。
ずっと白黒てwwwwwww(しかも3時間27分wwwwwwww東京から兵庫まで行けんぞwwwwwww)
ドゥンドゥンwwwドゥンドゥンwwwwドゥンドゥンwwwwwwww
オシャレなカイジ。
ネタバレしたらクソつまんなくなる。
長時間きれいな映像が流れ続ける(3時間1分、頑張れば岡山行けそう)。
じゃあ観ないほうがいいね。
精神的なグロさはともかく、今となっては映像的にグロく感じないかもしれない。
じゃあ観なくていいね。
そもそも増田さあ。第二次大戦中とかのイタリアの映画館に興味あんの?
ないよね。以上。
これ、当時のアメリカ保守層のための映画だから。やめといたほうが無難。
ノリが良いだけの映画。ばいばいだね。
今となっては映像に未知感がない。かろうじてロマンが残っている。メッセージ観とけ。
白黒wwwwwwww。アン王女はリアルで元レジスタンスだった危険な奴だからやめとけ。
どの映画も古くさく感じるかもしれない。
だが、同時に「今だと作ることのできない映画」でもある。
それは、戦争を経験した役者の凄みや、リソースを無視した人海戦術の美術、独創的な演出、華麗な音楽、映画の隅々にまで至る。
作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法は機能するわけですよね。
作品全体が好評価の場合でも、「提示だけして居心地を悪く」せず、普通にテーマとして物語に組み込んで完成させたほうが、よほど影響が強くなるかと。
この件については反証する方法があります。制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動が確認できたなら、作品に善意を載せた可能性を否定できるでしょう。
商業作品として製作・発表されたものが商業目的じゃないと主張する場合、商業目的じゃないと主張する側が証明をする必要があるでしょう。別に反証する必要は特にないです。
「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。
皆さん言ってらっしゃる「セルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストはボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。
仮に、ビーストがセルリアンのいた場所に勝手についてきたというのなら、キュルルの決断・行動としてのドラマは無いですね。セルリアンがいる場所と知っててビーストを連れてきたのなら、それは、けしかけたのと同じです。いずれにせよ、それが示される必要があります。
ええ、データとして客観的に立証したことではないので、私の意見として受け取っていただければ。とはいえ、「初見で面白さがわからないものを何度も見返す人が少数派」というのは、視聴率やらソシャゲの離脱ポイントやらでデータは取られてると思いますよ。
ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。
わざわざキュルルちゃんに悪印象をつけるのは、悪手である、というのは、先に書いた通りです。
いわゆるご都合ですね。ご都合を全く消すことはできなくても、気にならない範囲まで減らしたり、理由をつけたりすることはできます。それが脚本の腕ですね。
http://irodorich.com/archives/6780
わかばが、あそこにいた原因としては、こういう説があります。湖の水を根こそぎ吸い込んだのなら、種が出てくるのは必然でしょう。
いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味でリソースが潤沢にあれば、と申しました。
まぁそうですね。フィクションでない作品を目指したのでなくて、単に技量の問題でしょう。ただドラマからご都合を排除するのは悪いことじゃないのですが、排除しようとした結果、ドラマが消化不良になったら、それは本末転倒というものです。制作者は「多少のご都合で盛り上がるよりも、ご都合をできる限り排除して、特に盛り上がらないドラマを作りたかった」のか、というと、私はそうでないと思います。
売り言葉に買い言葉になってしまいますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか。主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。
けも1ラストのフレンズのセリフは、これまでのエピソードを想起させる形で、それぞれのフレンズが、それぞれの得意技を生かして戦うというもので、非常に高質でした。「交流」ということが、言葉を直接交わしてる会話を指すなら、少ないですね。ただ、けもフレ2の「交流」に私は意味や盛り上がりを特に感じませんでした。
「オオミミギツネさんのシーン」だけだと、ちょっとどこかわかりませんでした。ともあれ、のほほんとした交流シーンをやりたいなら、危機の最中にやらなくてもよいでしょう。
「最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思います。ジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...
フレンズに対する態度に大きな変化があるなら、変化した理由が必要になりますよね。その理由は、「元々フレンズが好きだったことを思い出した」でも良いのですが、それならば、どういう理由、過程で思い出したか、が必要になる。
微妙に変わってはいるというなら、「微妙だけどしっかり変化してる」ことを印象づけ、やっぱり、その理由・過程を描く必要があります。
厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターにコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。
ミステリというのは謎が提示されて、その謎について事態が進展して、新たな手がかりが出たり、真相と思われるものが二転、三転するなどして、最後に謎が解けて(あるいは解ける以外の形で解消され)終わるわけです。けもフレ2の場合、冒頭の謎が、特にそのまま触れられず進展しないままずっと進みます。最後のカットで一応謎は解けますが、それは冒頭の時点で予測できた推理が確認されただけです。それではミステリとしてはダメです。
提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます。
作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法は機能するわけですよね。
この件については反証する方法があります。制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動が確認できたなら、作品に善意を載せた可能性を否定できるでしょう。
「危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか
「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。皆さん言ってらっしゃる「セルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストはボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。
全体の平均を取ると、「初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。
データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験を理由としているのはわかります。
視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動に問題があったと判断しているでしょう。
ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。
たとえばケムリクサで、わかばが水槽に転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。フィクションなので気にならないわけですが、キュルルちゃんの「大好きだー」を必然的にするイベントを追加してもその発生は偶然によるものになるのでは。イベントを廃した結果、自分で振り絞っているような描写になって脱フィクション化がなされた。いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味でリソースが潤沢にあれば、と申しました。
量より質ですね。
売り言葉に買い言葉になってしまいますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか。主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。
オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。
ご意見を尊重します。覚悟したかどうかも今後のスタッフの様子からおそらく判断できるでしょう。
最初からフレンズに親切ですし、特に「自分がフレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分がフレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。
「最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思います。ジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...
キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身のフレンズだろうという話ですか?
厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターにコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。
「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的にネットで関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。
なるほど。いや「その可能性に委員会は賭けたんです」と断言されてたので、何か委員会に関する情報があるのかなと。
それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。
提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます。
SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象を限定するのは論理的でないと思います。先に善意が合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。
商業性を捨てた善意に合理性を見るなら、商業性を捨てた悪意にも同程度の合理性は出てきます。まぁ悪意はさておくとして、商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。
個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。
「危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか、等がわからないので、危険さも、それを乗り越えようとする意志や行動も見当たらないのです。
キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。
「セルリアンに、けしかける」は相手のことを思った行為でもなんでもないですよね。ビーストを自分の都合で利用するだけして、その後も、何も気にしてない。キュルルちゃんにはキュルルちゃんで考えてることがあるのかもしれませんが、それが示されてないので、薄情にしか見えないのですよ。
世の中には色々な人がいて、一人一人異なる意見を持ってます。それのどれが正しい、間違いというわけではないですが、全体の平均を取ると、「初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。もちろん例外はありますが、例外には例外の理由があるわけです。
仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。
視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動に問題があったと判断しているでしょう。あなたから見てキュルルちゃんが責められないとして、制作者は、それをきちんとわかりやすく示すべきです。キュルルが、とっさにイエイヌにお礼を言うことを思いつかなかったのなら、他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。
いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申しています。ドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。
すいません、よく意味がわかりません。ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?
量より質ですね。
ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。
気を抜くとヒト型セルリアンに吸収される危険な状況であることは変わりません。そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在、危険自体が茶番に見えてしまって、リアリティを失うのです。
緊張してる時にこそ笑いが生きる場合がありますが、それは、危険な状況の中で、敢えて、笑おうとする場合の話です。キャラクターが、危険を理解したそぶりもなく、漫才めいた会話をやってることではありません。
文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲の問題です。
エンタメ的な価値観でない、文学的な価値観からの評価は可能でしょう。ただエンタメ商業作品の次回作で、エンタメでない純文を目指したら、そりゃ客は低い評価を下します。それも覚悟で作ったのなら、それでいいでしょうし、そういう覚悟がなかったなら、アホだなぁと思います。でまぁ、別に、エンタメを否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います。
同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカットで解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体の位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。
おうちを捜してたんだから、おうちに着かなくてもいいけど、おうちが何だったかを明らかにしてください。
蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんがフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されます。けもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。EDの表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまったからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者は最後のカットでそれを発見するんです。
キュルルは(イエイヌとかビーストの件を除くと)最初からフレンズに親切ですし、特に「自分がフレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分がフレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。
ちなみに、キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身のフレンズだろうという話ですか?
「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的にネットで関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。
それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。
もし、けもフレ2スタッフが商業以外の目的のために、エンタメの基本的な面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります。
SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象を限定するのは論理的でないと思います。先に善意が合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。
「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。
個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。
キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。
そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神なキャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています。
足引っ張り系ヒロインみたいなやつですね。
仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。
わざわざ伏線を放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。現実の厳しさを描くからといって、面白い作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品を制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。
いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申しています。ドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。
もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまり、けもフレ2をけもフレ2として評価しやすくします。
うーん、個人的にはけもフレ2の事前の印象は異なっていると見えていてギスギスは十分許容範囲なのですが、一般論としては理にかなっていると思います。どこかのコメントでもナンバリングタイトルにしない方が良かったと言ってる方はいました。
けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばんちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。
ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。
文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲の問題です。
ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。
同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカットで解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体の位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。
蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんがフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されます。けもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。EDの表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまったからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者は最後のカットでそれを発見するんです。
でも最近は思うところがあって、長くて恥ずかしいからここに吐き出す。
誰かが使い古した物を、家にいれるなんて信じられない。
私は物には思い出や気持ちがつまるもんだと、本気で信じている気持ち悪い人間なので、誰かの思い出がつまった中古が気持ち悪い。
中古の品をみると、元の持ち主の顔を想像してしまう。どんな人生を送っていたのか考えてしまう。
そんな私がリサイクルショップで働いてしまった。家から近くて通うのが楽だから、とかいうダラけた理由で。
自分の思い出や人生がつまったものを、いらないからと売りに来るのだ。そして誰かが私の過去がつまったものをまた使用する。それが私にはゾッとするのだった。
売られたぬいぐるみたちの寂しそうな顔が悲しくて、せめて誰かの目に留まりやすいようにと、私はぬいぐるみコーナーの整理整頓は丁寧にやっていた。
そんなある日、男の子がゴリラのぬいぐるみを持ってレジに来た。
お喋りな子で、レジをしていた私に「家に色ちがいの同じゴリラがいて、その子の友達にする」と話してくれた。
このゴリラは元の持ち主にいらないと言われて売られたのに、この日、色ちがいの友達ゴリラと名前をつけてくれる素敵な男の子に出会えた。なんて素晴らしいだろう。映画みたいだ。
ぬいぐるみに名前をつけるような優しく面白い男の子に育ててくれた親にも、なぜか感謝してしまった。
ほかにも、私が持っているアザラシのぬいぐるみと同じものが売られて店頭に出ていた時期があった。
私のアザラシは私の家で幸せに暮らしているのに、どうしてこの子はこんな目に……と思って悲しくて心のなかで泣いていた。
でもそのアザラシにも、新しい人生がやって来た。この間、小さな女の子に買われていったのだ。
レジをしながらアザラシに向かって「おまえ!!! 幸せになるんだぞ……!!!!!!!」と心のなかで祝福をした。
ぬいぐるみだけじゃない。カバンのコーナーを整理していて、誰からも忘れられたように奥に追いやられていた小さなビーズのポシェットが出てきた。
かわいそうに、と思って一番目立つところに置いておいた。
ポシェットはその日に売れた。
驚いた。しかも目立つところに置いてから30分くらいで売れたと思う。早すぎた。
ポシェットがこの世から忘れられていた時間からすれば、秒での出世だと思う。
私がその日、カバンのコーナーを整理しなければ、お客さんとも出会うこともなく、ビーズのポシェットは廃棄の運命だったかもしれない。なんだか恋のキューピットになった気分だった。
捨てられた物たちが第二の人生を歩める姿を見届けられるというのは、単純に嬉しいと思う。
次に来たときに買おうと思っていても、残ってるとは限らない。
お客様に、昨日はあったのになぜ今日はないんだ! と言われたことがある。単純に売れた。誰かが買ったんだ。
それくらい早く、一瞬のタイミングがズレるともう二度と出会えない、そんな場所なんだ。
私は最近、物と人が出会えた一瞬のタイミングが素敵だな、と思うようにもなってきた。
嫌いだったリサイクルショップでこんなこと思うなんて自分でもビックリしてる。
そんな中古嫌いの私もついに、自分のリサイクルショップで長い間忘れられていたリスのぬいぐるみを買ってしまった。
誰かに買ってもらいたくて、結構目立つところに置き続けていたけど、このリスは運命の人に出会えなかったらしい。
ケムリクサでは悔しい思いをした。最終話の内容を推理することは十分可能だったはずだ。種が赤霧で成長しない。にもかかわらず離脱したあとニョキニョキ生えてくるミドリの木、「たぶん発芽まではうまくいく」。そして記憶の草にはロックが掛かっていた。このあたりを重く捉えていれば、メモを書き換えた「存在しない7人目の姉」を探して時間を浪費することもなかった(むしろ6人である証拠がたくさん集まってしまった)。2つの謎は有機的に絡み合い、シンプルだが残酷な起点に至るのだが、答えを観て「なるほど!」と思ったときに初めて、伏線が浮かび上がった。すべては目に留まっていたはずだったのにも関わらず、気が付かない。パズルのピースはすべて事前に提示されていた。アニメは小説ではないから、そういうもんかと軽く流しても気持ちよく観続けられるのが気楽だけれど、しかしそういう態度でいて失うものもある。りな達がブワッと消えて一人に戻るのはコミカルでまるで手品みたいだが、ここを見落とすと桃ちゃんを手放して覚醒する「りなむ」の含意をスルーしてしまう。ありとあらゆる表現に意味がありえるのだ。この意識でもって視聴しなければならなかった。
けものフレンズ2の最終話が目前だ。同じじゃないかでは済まない。次は全力で当てに行くぞ。
今期の監督はミスリードを狙ってくるということに気をつけなければならない。俺は伏線の管理はしっかりされていると判断している。前期の細かいところまでフォローされてる。かばんちゃんが「おうち」を知ってたのはスナネコが意味を教えたからだし、サーバルに与えた砂時計は図書館にあったものだろう。アライさんが命の恩人といったのは、掛けた橋で救われた経験を受けてのこと。今期はさらに異なるフレーバーが加わる。襲ってきたセルリアンをいきなり現れて一蹴して去っていった謎のフレンズはヒーローは味方でなく実は「ビースト」。誰彼構わず襲いかかり、フレンズに怖れられる強力なバーサーカーだった。アリツカゲラが再登場したと思ったら、サーバルとも初対面の反応でかばんちゃんとも面識が薄い、すなわち別個体だった。かばんちゃんから手渡された四角い筐体のラッキービーストは、「三人での旅、楽しかったよ」とつぶやいた後沈んでいった”あの”ラッキーさんか? そうかもしれないが、ひとつの端末に過ぎないって線が濃厚だ。居なくなったヒトを想いだして月を見上げるイエイヌのフレンズ… ならば人類は月に消えたのか? なんのことはない、ただの人工衛星だった。未発掘の伏線の絡み合いの中に、ミスリードが混ぜられている。注意して潜るとしよう。
今期最大の謎は「キュルルちゃんは何者か、どこから来たのか、どこへ行くのか」ということだ。ここに焦点を絞って推理する。
キュルルちゃん一行の旅路は「復路」だろうか。パークの廃墟の施設の中で目覚めたこども、キュルルちゃんは、カラカル・サーバルを連れて施設に戻る。「ボクは長い間ここで眠っていたみたいなんだ」。温かい「おうち」を思い浮かべ、「帰りたい」という。キュルルちゃんは自分が眠っていた岩の殻のようなものの中にあった自分の持ち物のスケッチブックを開く。最初の一ページ目には施設の前の池の様子が描かれていたーーただし、池のモニュメントは健在で周りには風景にない建物が建てられている。「ボクは獣じゃないよ、たぶん」というキュルルちゃんに対して、カラカルは「この子もヒトなんじゃない?」と言い切る。3人はモノレールの駅にたどり着く。キュルルちゃんは言う「ここ来たことあるような気がする、あの乗り物、多分ボクもあれに乗ってきたんだと思う」。ここまでの描写で、キュルルちゃんはパークに来た観光客で、何らかの理由で施設でコールドスリープし、いま目覚めた。そう読み取っていたが、よくよく考えると違和感がある。最初の1ページが池だったのはよく考えるとおかしい。
まっさらなスケッチブックを思い浮かべてみて。そこに旅の風景を絵に次々に描いていく。だけど突然に旅は中断してしまう。さてこのとき、最後に描いた絵はスケッチブックのどの位置にあるだろう? キュルルちゃんのスケッチブックには以前に描いてきたと示唆されるたくさんの絵があった(一連の絵の最後のページは破られていて、その先は白紙が続いている)。もしパーク内の施設に至る往路の過程で絵を描き連ねて来たというのなら、最後の絵の先は白紙のページが続くはずだ。最初のページにはならない。スケッチブックの表紙は裏表とも同じようなデザインだが、キュルルちゃんはページの片面にだけ絵を描いていたので逆さにめくっているという可能性はない。これにより、キュルルちゃん一行の今回の旅路は、実は、おうちに向かう復路ではなく、二度目の往路であるという推測が成り立つ。
最初の往路をなぞるように、旅をする。ケンキュウセンター(廃墟の施設をそう呼ぼう。モノレールの次の駅は「アズアエン」だが、列車の行き先表示が切り替わるときに表れた直前の駅の表示が「ケンキュウセンター」だった)を出て池を描き、花畑に囲まれた風車を描き、竹林の中で公園の施設を、海に浮かぶ観光施設、闇夜に輝く蟻塚、ジャングルの奥で玉座に座るゴリラのフレンズ、荒野をかけるなんだかよくわからない影、ステージでショーをする5人のアイドルたち。最後に、観覧車のある遊園地の風景。絵に描かれた風景を順に追う道のりで、キュルルちゃん一行は最後にジャパリホテルにたどりついた。ホテルの窓からは今は水没した観覧車が見えていた。ホテルの支配人によると、”うみのごきげん”が悪くなったときに、遊園地は水没してしまったらしい。ホテルも半分は水浸しである(ところでホテルの最上階にはヘリポートがある)。
つまりこういうことではないか。観光客だった女の子はケンキュウセンターの池を描くために新しいスケッチブックを開き、モノレールに乗ってパークを旅した。しかしセルリアンが止められなくなる流れで、観光客はまず退避しなくてはならなくなり、ホテルでヘリに乗り込む。セルリアンは宙に浮くものがいる。離陸時に襲われてヘリの飛行能力に障害が出て、荷を軽くするために物を捨てなければならなくなった、女の子はスケッチブックから最後に描いた家族の絵だけをちぎり、バッグもろとも泣く泣く海へ投げ捨てた。時がたって、防水のスケッチブック(今期の11話より。スケッチブックは海に落ちても平気だった)は海流に乗って海底火山へたどり着く。海底火山からは大量のセルリウムとサンドスターが流出している。サンドスターに包まれたスケッチブックは溶岩に飲み込まれ、そこで海底火山が大噴火する。噴石となった岩は遠くサバンナちほーのケンキュウセンターに落下し、廃墟となりかけていた施設にとどめを刺す。
この仮説を裏付ける証拠がある。一話のケンキュウセンターの描写でキュルルちゃんの居た岩の卵のようなものの周りには同じように前面が破壊された同じ大きさの卵のような物が並べてあった。これらをコールドスリープ装置と捉えてしまっていたが、これがミスリード。並べてある方はよくよく見ると表面がツルツルで、サンバイザーのような覆いがあり、中には椅子が備え付けてあった。いわゆるゴンドラのような見た目だ。キュルルちゃんの岩はそれと異なり、表面がゴツゴツしていて、中はサンドスターと思しきキューブで満たされていて、そして床が砕けている。ゴンドラの方は台座に載っている。この二種類はじつは違うものなのだ。暗い施設のなかで岩の卵は陽の光で照らされていた。つまり、天井は空いている。ケンキュウセンターは遊具の研究施設だった。コールドスリープではなく。噴石としてケンキュウセンターに落下した岩の卵は殻が崩れ落ちる時を待つ… なかでフレンズ化→飢えて死亡→フレンズ化→飢えて死亡… を繰り返しながら。まあそれは残酷だが、あるいはサンドスターは空気に触れて初めて機能する、のようなことがあるかもしれない。
以上が仮説「スケッチブックちゃん説」である。研究施設やスケッチブックのめくり方などを伏線としての帰結としてフィットしていて、破られた最後のページに説明がつけられた。キュルルちゃんは絵をフレンズに渡すとき、丁寧にページを切り取る。最後のページが破られていたのは火急の状況下で焦っていたからです。皆さん納得できましたか? ボクはできません。なぜなら「ペパプが5人いる」から。
一連の絵の中でライブステージで描かれたものを思い出してほしい。そこにはステージで歌う五人のペンギンアイドル、ペパプが描かれていた。しかし前期のペパプ復活祭ライブの話によると、初代ペパプは4人、二代目は3人、三代目が5人になった。三代目を結成したフレンズ、プリンセスは以前に居なかった五人目であることを気にしていたんだった。だからパークに来ていた観光客がペパプを見ていたとして、その人数が5人なのはおかしい。かつて観光客で賑わったジャパリパークは廃園し、パークガイドのミライさんも職員を引き連れパークを去った。時が流れ、彼女が遺した帽子にサンドスターが降り注ぎ、かばんちゃんが生まれた。そんな時代になって初めてペパプは5人になった。実はペパプはコピーバンドだという可能性はありうる。開演時代にはオリジナルたる5人のペンギンアイドルがいて、閉園後に彼女らをパクってペパプが結成された、でもコピーバンドを人数減らしてやる意味があるだろうか? あるいは初代ペパプは5人だったということもありうる。プリンセスがパークの異変の中で夭逝し、だがその後の4人で長い期間頑張っていたので後世の記録には4人として残った。期せずしてプリンセスが救われる結果になりましたね。でもこの仮説、理屈は通るが、当たっていたとしても些末すぎて、説明されないだろうことが予想される。
時代に幅のある絵の内容。これを説明するうまい理屈はないだろうか。キュルルちゃんは過去の世界から来たのではないか。前期でミライさんが説明した、山頂のサンドスターロウ・フィルタリング装置の「四神」は説明の感じからすると、パーク職員が作ったものではないらしい。四神を作った古代人がそのサンドスター制御技術を応用してタイムトリップ装置を作った。これがケンキュウセンターの岩塊である。キュルルちゃんはそれに乗って過去からやって来た。しかし… なんのために? かばんちゃん一行は四神の位置を直すことでフィルタの機能を正常化した。だが海底火山から漏出するセルリウムを制御する装置は、おそらくあったのだろうが機能をなくしてしまっている。もし四神的装置の修理のために過去からキュルルちゃんを派遣したとすると、かばんちゃんの奮闘のときに何もしなかったのはおかしいし、未来を幻視できるレベルの古代文明が、将来の位置のズレを考慮して装置を保全するつもりなら、修理要員を派遣する前にまず固定装置を充実させるべきだろう。というかキュルルちゃんはエンジニアには見えない。年齢が低いし、そも記憶を失ってしまっているではないか。ならばキュルルちゃんは未来から来た。しかし… なんのために? 考古学者にも見えないので、パンフなどの資料を読んで好奇心をそそられたキュルルちゃんがタイムトリップしてきた線は考えられるが、タイムマシンのセキュリティが気になる。強固に利用者が制限されているなら、キュルルちゃんはどうやってセキュリティを突破したのかということが引っかかるし、逆にガードがゆるいなら、なぜ一人しか来ないのかが疑問になる。並行世界から来た可能性はどうだ。しかし… なんのために? 絵に描かれていたペパプは楽しそうで、パークの様子には廃墟感はまったくない。なぜわざわざ廃墟の方の世界線に移動してくるのだ? 納得行く説明はつけられそうにない。
うまくいかないが、一連の絵は風景を実際に目で見たものではない、というアイデアはまだ活かせると思う。ジャパリパークの世界に、エリアを超えて通信する無線技術はなかった。そういうものがもしあったなら、かばんちゃんがキョウシュウエリアを出立するときに、ボスが先の情報を教えてくれただろう。イエイヌが見上げた月を背後に人工衛星が浮かんでいた。この衛星は最近に打ち上げられたものだとしたらどうだろう。これを使って、ある職員がパーク内のラッキービーストネットワークに侵入し、パーク内の写真を入手した。父のディスプレイの映る写真を見て、幼い娘はスケッチブックに絵を描いた。写真に今昔が入り混じっているのはそのためである。この想像は面白いが、写真があの道のり上に並んでいたことが解せない。ネットワークから引き上げたパークの風景写真を見ていたなら、それは時系列に並ぶか、ランダムになっているかするのではないか。なんでケンキュウセンターを起点とした特定のルートにそった並びになる? だめだ。わからない。
しかしわかることもある。けものフレンズ2はイエイヌの物語でもあった。探偵の二人、センちゃんとアルマーさんはイエイヌの命を受けてヒトを捜索していた。捜査が強引なところもあってイエイヌは悪の黒幕のように描写をされたことがあった。キュルルちゃんとイエイヌちゃんのストーリーラインは二人が邂逅することで交わり、しかし結局二人は別れてしまう。別れは両者の納得したものではあったがすれ違い感は強かった。これが「おうちにおかえり」回である。最終話のタイトルは「ただいま」だ。イエイヌはキュルルちゃんの元へ向かうかばんちゃん一行に加わってはいないが、ポッと出のゲストフレンズではない。
イエイヌはキュルルちゃんを見送ったあと、夜空を見上げ、ひとりドアを開けて自室に戻った。ドアには耳を模した飾りがついており、まごうことなきイエイヌのための部屋であることが明示される。このシーンは驚いた。これは一体全体、どういうわけだよ? 「イエイヌの自室にドアノブがある」だと?
(続く)→ anond:20190318002745
動物注意!の交通標識にゴリラが出るのかよ!って思ったらお猿さんでした。
山中の高速とか走ってたら、
サファリパークかわくわく動物ランドか動物タワーバトルかブレーメンの音楽隊かって思っちゃうぐらい。
さすがに道中で遭遇したことはないけど。
でさ、
当時の高度成長期の道つくるぞ!って意気込みを感じながら走るのもまた感慨深いわよ。
ほんと道なき道に道路作ってるのってスゴいわって思っちゃうわ。
凄みね。
そういう古ーい高速道路には
パーキングエリアなりサービスエリアなりにある渋ーい食堂って言うのも私は好きね。
ご飯食べるところが新しすぎて、
その渋さがないのよね。
まあそんな色々なところを走ったときはそう感じるわ。
またどこか遠くに行った際渋い食堂に巡り逢ったらすかさず入ってみるのよ。
そういう所って
何食べたってだいたいは美味しいのよ。
並んだだけ並んでも、
これが本当に美味しいのか美味しくないのか?
千葉の山奥のラーメン屋さんが美味し言っていってドライブがてらにいったら、
スゴく待って食べたラーメンは
ここまでして待って食べる味かな?と思っても口に出せない美味さが唸ったわ!
色々な要素があるけど、
なかなかの苦行よ。
いい点数叩き出しそうよ。
またどこかお出かけしたいわね。
うふふ。
枝豆のプリプリした食感にもちっとした持田真樹に間違えないほど持田香織のエブリリトルシングが最高よね。
桃缶のモモとにキュウリを輪切りにスライスそしてミントと入れるとなんとなく映える感じがするわよ。
そんな
桃缶はストックあると便利ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
イエイヌはキュルルちゃんとのやり取りの中で、このおうちには「ずっと昔」何人ものヒトが居た、彼らと一緒遊んでいたと言っていた。ある日居なくなった彼らを待ってずっとお留守番していたんだと。かつての経験をなぞるように、フライングディスクを投げるさまを指示したり、紅茶をよく飲んでいた、とも言ったりした。俺は今期9話を観たとき、なるほど、イエイヌは飼い犬だったんだな、と読み取った。博士曰く、サンドスターを奪われてフレンズ化が解かれたら、再びフレンズ化しても、前にフレンズだった時の記憶は戻らない(といっても少々の例外はある。ミライさんとともにいる先代サーバルの声を聞いて涙したり、ともに旅したかばんちゃんの後ろ姿を思い出したり)。しかし、フレンズ化したときに、どうぶつ時代の記憶がどうなるのかは明言されていない。飼い犬が飼い主が去ったあとにフレンズ化して、むかしを回想しているのだと、勝手にそう考えていた。だがこれはミスリードだった! 飼い犬だったならあるべきは犬小屋で、人間の手の位置にドアノブがある部屋が自室のはずがない。そのようなドアはヒトか… フレンズのためのドアだ。だから結論は明白だ。イエイヌのフレンズはヒトと共に暮らしていた。「ずっと昔」と言ったが、カラカルもサーバルがかばんちゃんと旅していた時期を「むかし」と表現している。フレンズの言う「むかし」はせいぜい10年・20年というオーダーではないか。この伏線はパークに割と最近までヒトがいたことを意味している。
三代目ペパプ結成の後にヒトがパークに来ていたとすると、どうなる? イエイヌはかばんちゃんを知っていたが、ヒトと再び会ったのはキュルルちゃんが初めてだったようだ。キュルルちゃんがパークに現れたときイエイヌはただちに探偵を派遣した。ペパプ復活後にヒトがパークに来ていたとすると、彼女をイエイヌが捕捉しなかった理由はなんだ? そのときにはイエイヌの村にはまだヒトが居たのだ。満足していたなら更に求める理由はない。つまり三代目ペパプ結成 → パークへのヒトの来訪 → イエイヌの村からヒトが消える → 十数年経過? → 今、という順になる。しかしペパプ結成後に村からヒトが居なくなったとするのは無理がある。当時パークではかばんちゃん率いるセルリアンハンターが巨大セルリアンを退治するという事件があって、そのときに四神のサンドフィルター装置を修理したのだった。それでセルリアンの騒動は一旦は収束したはずである。ふたたび大型セルリアンが出るようになったのはかばんちゃんが助手の博士らと共に研究するようになった、最近のはずだ。イエイヌは飼い犬ではない。考えてみてほしい。一緒に暮らしていたヒト同様の知性を持つ家族であるべきフレンズを放置して、当の飼い主だけが逃げなければならないのはどれほど切羽詰まった状況だろう。セルリアン強襲以外に考えられるのはもうひとつ、”うみのごきげん”の悪化、すなわち海底火山の噴火だ。遊園地が水没するほどの大災害、逃げられる人数が限られてる、だから家族であるフレンズを置いていかざるを得ない。その判断は… かなりキツイが、ありえないとは言い切れない。しかし安心してほしい。この結論もおかしいからだ。リョコウバトは以前にもジャパリホテルに来たことがあると言っていた。パーク中あらゆるところを旅するリョコウバト。前回の来訪が最近であるはずがない。リョコウバトは言っていた。「これほど変わったホテルは他にない」。ジャパリホテルの変わっているところはもちろん、支配人のオオミミギツネが売りにしているように、水没した風景が美しいというところだ。すなわちリョコウバトが前回ジャパリホテルを訪れたときにはすでにホテルは水没していた。海底火山の大噴火は最近ではない。飼い主だったヒトが消える理由はなくなった。すなわち前提が間違っているということだ。ヒトはパークに来ていないのだ。
…しかしここで推理は頓挫してしまっていた。時系列がバラバラだがルート上に並んだ絵(写真?)。しかしヒトはパークに来ていない… これら矛盾して見える伏線を結びつけるラストはどのようなものなのか… 本当に可能なのか? わからない。だが信じろ、木村監督を信じろ。
そうやってウンウンうなりながら過ごしていた休日だった。前置きが長くなったが、俺が支持する仮説はこれである。「ラッキービーストのフレンズ説」。
キュルルちゃんはヒト、これが最初から仕組まれた罠だ。キュルルちゃんはガイドするラッキービーストに、ヒトとして認識されている。だがラッキーさん達は何を基準にヒトを判定するのか。前期でかばんちゃんも初見からヒト扱いだった。かばんちゃんとキュルルちゃんの見た目上の共通点はなにか。帽子である。羽をつけた帽子を画像認識して、ラッキービーストはパークの客だと判断するのではないか。赤と青の羽をつけたかばんちゃんを暫定パークガイドとして認定したシーンを思い出してほしい。イエイヌはヒトを求めたが、アルマーさんによるとかばんちゃんでは駄目だと言っていたらしい。かばんちゃんはフレンズを命令対象ではなく対等の存在として扱うからだ、というのは聞こえの良い理屈だが、しかし現状の助手の博士と助手の博士の助手の扱いはほぼほぼ従僕である。ジャパリパークは実際には厳しい世界だった。パークの掟の元で自律するフレンズ達は親切ではあるがエゴイスティックに振る舞うことがある。危険なビーストもいる。フレンズたちと渡り合い、パークの長を従わせるためにはある程度強い態度をとっていく必要があったのだろう。イエイヌとかばんちゃんの相性は良いように思われる。なぜかばんちゃんでは満足できないのか。かばんちゃんは自分が「ヒト」そのものではなく「ヒトのフレンズ」だと公言していると思う。だがキュルルちゃんの情報はイエイヌの耳にどのように届いたのかを考えていて気がついた。キュルルちゃん本人は自分がヒトだとは実は一度も宣言してない。最初にそういったのはカラカルだった、カラカルは推測でそう言った。ロバはそれを聞いていた。カルガモも。うわさはパークに広がりやがてイエイヌの耳に届いただろう。パークにヒトが現れた、と。
キュルルちゃんは「おうちを探すためでなく、フレンズが好きだから絵を描いている」と言ったが、スケッチブックに元から描かれていた絵には、しかし奇妙にフレンズの姿がない。キュルルちゃん本人は楽しそうにしているフレンズを描くのが画風である。ジャングルの絵の中のゴリラは背中を向けてさえいる。画風の違いは何が原因か。ラッキービーストは有事でない限りフレンズと積極的にはかかわらない。ヒトをガイドする仕事や配給、各種設備の保守管理以外には。「生態系の維持が原則だからね」は前期最終話のラッキーさんのセリフである。最初の旅路での荒野の絵はなんだかわからない残像だった。残像でぶれて映るのはシャッター速度の遅いカメラの特徴である。ラッキービーストは高速で接近するフレンズを察知するセンサー、レーダーのようなものを備えている。メインカメラの性能に頼る必要はない。
あるラッキービーストは持ち場を離れ、ふたたび旅を始めた。かつての任地、ジャパリホテルへ向かって。風車の写真を撮った、竹林で公園の写真を撮った、ジャングルでゴリラの写真を撮った。シッポを振って歩いていくゆっくりとした旅の間に、いろいろなことが起こった。過剰に放出されたサンドスターの影響で気候が変わり、パークの荒廃が進み、海底火山が噴火しホテルが沈む。ペパプが再起し、かばんちゃん達が旅に出る… ようやく桟橋にたどり着くも、ホテルは海水の向こうだ。ラッキービーストは足を滑らせ、海に投げ出される。やがて海底火山に至り… サンドスターの温かい光に包まれる。ラッキービーストの旅の写真はランダムに吸い上げられて、スケッチブックとして顕現した。
以下の記事を受けて。
「けものフレンズ2」9話は過去最高に”優しすぎる世界”だった。 - けものつれづれ
https://ironyart.hatenablog.com/entry/2019/03/14/090915
3%のフレンズが愉快犯ではなく実在していたことに驚きつつ、その感想視点がイエイヌの扱いという一面からでしかなかったので、より多方面にわたる、わたしの9話に対するツッコミを書き記したいと思います。
いつ壊れたの?何が起きたの?ピエール瀧がやってきて壊してくれたの?2話でも同じ過ちを犯してたよね?
最初からそうしろよwww・・・という当然のツッコミに、どうあらがおうというのか。
「キュルルー!」とか言ってる時点で見えてるだろ。遠目に発見しろよ。足元だったらせめて「あっ!」って言ってから見つけろ。
もうちょっと遅さを強調するカメラアングルと「間」を入れてから言わせたほうがおもしろかったのでは。
なんで「イエイヌ」って直接言わないのか、恐そうに紹介しちゃうのか、さらにはこれまで暴力的な手段も辞さなかったのか。せめて「視聴者のドキドキを高めるため」以外の、あとですっきり納得できる理由を用意しておくのが脚本の仕事では?
ご主人様をけなげに待つイエイヌとしては、強そうなオッドな黒縁おめめは合わないのでは?このデザインのイエイヌがアプリ時代からいたのだとしたら、この外観のキャラにこのエピソードがそぐわないのでは?
唐突やろ・・・。手に取ってすぐ退場しちゃうから余計視聴者が置いてけぼりになる。せめてその場ですぐ開けて食べてくれ。
天真爛漫なサーバルちゃんの割に、わかりやすいきっかけや手がかりもなしに、深い推測が走りすぎてない・・・?
電池アイコンにバッテンとかならまだ「お子様」視聴者にもわかりやすかったのでは・・・?お子様を無視するにしても、オトナ目線からもそもそもユニバーサルデザインにしとけよと思う。
遅い。でも食べるシーンがあって本当によかった。唐突なものを登場させたら、すぐ説明!
センちゃんたちは、なんで意味もなく敵対的なんですかね・・・?自分たちにも依頼主にも悪気はないのに、敵対する意味なくない・・・?
かわいい(´ω`)
「口にくわえて持ってくるのは不自然だから・・・かな・・・違和感あるけど・・・まあしょうがないのかな・・・」と、いうような妥協感を読者に与えないような工夫はできなかったのかな?
個人的には「カラカルは小学生の道徳教材に出てくるような(後に改心する)子なんだ」と理解したけど、顧客が求めていたものとは違うよね。そこは善意に解釈すれば、監督は承知の上のようだけど。
「ボクのほうこそ心配かけこそごめんね」だろそこは。しかももっと早いタイミングで。このあたり、とにかく登場人物たちの感情の流れがめちゃくちゃ。誰にも感情移入できない。
完全に道徳教材やNHK教育のちびっ子番組の流れ。でもな、オレらが求めているものとは違うんだ。
大胆すぎない?そういう提案はもうちょっと状況を飲み込んでからにしたら・・・?
いや、そういう優しさ持ってるなら、カラカルの話をもっと聞いてあげなよ・・・
イエイヌのセリフとの繋がりがご都合過ぎてひどい。「中にはその逆もいますけど」まではもっと普通のテンションで話した上で、遠吠えを聞いてから「あっ、噂をすれば!」と驚くべき。
侵入してくるんじゃないかと心配する視聴者をよそに平然としている。だったらもっともっと遠くの方で聞こえる程度の遠吠えにしてほしかった。
近くにいるならサーバルたちにも聞こえるやろ。サーバルに聞こえてないなら、少なくともいま家を出ちゃうキュルルのほうが危険やろ。せめてそういう疑問や不安について納得できる材料を視聴者にくれよ。せめて、遠吠えが複数回聞こえた上で、「サーバルたちが歩いて行った方向に移動しているようだ!」とか。そして、(とっても強いという話の)イエイヌをいっしょに来るように連れ出す、とか。
BGMも相まって、直前の緊張感がいったん解きほぐれてしまう。このシーンは、遠吠えよりも前に挟むべきだったのでは?
いや、善意に解釈すれば、サーバルが「カラカルがキュルルと仲直りするきっかけはないかなぁ・・・」と考えていたら思い出したと解釈できるけど、単純にトラクターまでたどり着いてから目で見て発見するほうが自然じゃろ?意味のない不自然さは罪やぞ。
イエイヌ擁護派多いけどワイはこのセリフは許さんよ。そして「キュルルの身の安全のために、敢えて思ってもないことを言っただけ」という擁護は通じない。逆に、そこまで言わせるなら、もっともっとせっぱ詰まった極限状況まで緊迫感を作っておかないとダメだ。
もっと警告らしい音出せ。
一撃でダメージ受けすぎやろ・・・。あそこまでボロボロにするならもっと格闘させろ。作画がしんどいならせめて「激しい格闘の末に・・・」と伝わるシーンを挟め。
あのさあ・・・。これまでのシリアス感はなんだったわけ?コミカルにしたいの?まさかずっとコミカルのつもりだったの?
強敵感の無さよ。ゴリラなどの精鋭揃いだった5話でもみんなで逃げ出したビーストなのに、カラカルとサーバルだけであっさり追い払えるの?少なくともセルリアンよりはるかに強い、ひょっとするとラスボス級かもという認識だったけど、今後ビーストの怖さをどう捉えたらいいの?
さっき起きてたやん。倒すなら倒れるシーン挟めよ。
急すぎる。子供はもちろんふつうのオトナでも共感が追いつかない。(高尚な3%のオトナにしか刺さらない)
イエイヌちゃんのこれからが不憫すぎない・・・?せめて、せめて、イエイヌの心情変化やキュルル側の心情ももっと描いてあげて、「心にしみる別れ」をもっともっと演出してあげないと、急すぎるイエイヌの涙だけじゃ、とても報われない。
冷たすぎる。そりゃ大切なものだし失望するのはわかるけど、届けようとしてくれた善意に対する感謝の気持ちがあれば、そんな第一声は出てこないやろ・・・。ましてそっからギスギスし始めるなんて論外オブザ論外。せめてせめて、語尾や言い回しを少し変えるだけで、コミカルなケンカに仕上げることもできていた気もするが、そうはなっていない。
以上です。