はてなキーワード: 惰弱とは
つまり勃起時間が長すぎるために陰茎、海綿体、血管に負担が掛かっているのではないか、ということ
俺にはいわゆる賢者タイムがほぼ存在せず、射精後はゆるやかな多幸感に包まれており、おかずにアルカイックスマイルで微笑みかけたりするのだが、射精後に勃起すると疼痛に襲われるために二回戦、三回戦に突入することができない
では一回のオナニーに時間を掛けなければよいのではないか、と考えたりもするが、そういうわけにもいかない
じっくりと時間を掛けながら緩やかに行うオナニーと、そのフィニッシュである射精から得られる快感の総量は、短期決戦を複数回繰り返した場合よりも遥かに大きいからだ
一回戦を従来のように行い、痛みだけを取り除いて二回戦以降に臨めるようになることがベストである
歩みを止めるつもりはない
こういう書き込みってなんで作品タイトルやキャラを隠すんだろう?女性のオタク界隈にありがちだがそういうのを見て常々思う。何か迷惑をかけるケースがあるとでも思っているのだろうか?そういう発想が理解できない。そりゃ例えば実在のアイドルの二次創作、のような分野だったら別だが、その手のアングラではない、一般的な商業流通上にあるパブリックな作品のことでも必要以上にボカして特定できないような書き方をする人が多いように思う。個人的には、自分の思ったことを匿名ですらハッキリ正面切って伝えられないのは、配慮ではなく惰弱なだけだと思う。偉そうに言うが、それは世の中に微塵も変化をもたらさない。もっと世の中と、他人と、その化学変化を信じろ。他人の善性を信じて、自分の思いも過小評価したり卑しめたりするな。そういう声はきっと作り手にとっても貴重なものだ。具体的な言及がきっかけで、興味を持って始める人がいたり、開発者に届いていったりして初めて、状況が変化し、何かが変わる。その可能性が生まれる。もちろんその変化を望む人と望まない人がいるだろうが、自分の鮮明な声が表に出ることを躊躇う必要はない。なぜなら、自分が発した声というのは所詮たくさんの声のうちの一つにすぎず、実際に変化があったとしたら自分だけの声によるものではないからだ。いい意味で自惚れるなという事だ。自惚れないからこそ妙な自意識を捨て、自我の殻を破って物が言えるようになるのだ。そうやって殻を破って発言する人たちの意見によって、世の中のあらゆる物事はつねにバランス調整がなされている。だから、曖昧な物言いをする人や裏でコソコソ言うことしかできない人というのは、その習性自体によって、自分を世の中とマッチしない生きづらい環境に自ずと追いやっているのだ。それでもそういう人たちの言い分としては、ただボカして一般化した言い方をして、自分の好みはバラさずに「分かる」「あるあるだね」と共感を得たい、それで十分だ、何か干渉したい訳でもないし出来るとも思わない、そんな所ではないか。そういう人がいてもダメとは言わない。だがそれはエゴだ。何かのコンテンツを楽しんでいるという時点で、社会に、コミュニティに、経済に参加している。無干渉な傍観者ではありえない。自分の席はカウントされている。そういう場を仕切っている人たちは、ボカされた独り言をいちいち汲み取りに来ないし、直接言われた場合ですら腰を動かすのが重い、重くならざるを得ない人たちだ。ともかく、人の輪の中で生きている自覚があれば、フィードバックは責務に近いものだということ、その内容は率直なものであれば何であれ大事にされることが分かるはずだ。
主語を大きくして話すならば、日本の女性の社会進出がかなり遅れている原因の根っこには、このような「(思いはあるのに)ハッキリ具体的にどうしろと主張する習慣や発想がない」という、悪い意味の奥ゆかしさがあるせいだと思う。もちろん女性にもハッキリ言える分野はあるのだが(生活態度やマナーなどは言いやすい典型)、「物事をどう進めるべきか」のような思想的・政治的な、言わば男性が主導してきた分野についての主張を適切な場で訴えられる人となると極端に少ない印象がある。まずはネットの書き込みから、声を上げる練習をしてほしい。増田なんてそのためにあるようなものだ。もっとも、この件に関しては普通に運営に要望メールを送るのが最善だけれども。すでにそれをした上で、ここで与太話をしているのだったら申し訳ない。
このソーシャルゲーム業界とかいう自制心の弱い人間から金を巻き上げるためのシステムが不快で不快で仕方がない。それらに喜んで課金する人間も同様だ。
その課金した金と消費した時間の全てを非ソーシャルゲームにつぎ込んでくれれば、より健全な構造の上で文化的な本来の「ゲーム」を作るための資本になる。ソーシャルゲームのようにつぎ込めばつぎ込むだけ数字が伸びる訳でも無いから無限に時間と金を浪費する心配も余程の事がない限りない。
中身の無い空虚なシステムを作り徒に虚栄心を煽る業界も、それに乗る惰弱な人間も等しく嫌いだ。お前等がソーシャルゲームを作るせい、あるいは遊ぶせいで非ソーシャルゲームを作るためのパイが奪われている。
魅力的な非ソーシャルゲームを作れないからソーシャルゲーム等という張りぼてのがらんどうにパイを奪われるのだと言われれば、甘んじて受け入れよう。それは全き真実だ。
そんなもんに頼らず普段から自分の主張をしっかり持って言うようにすればいいんだよ。
増田諸氏は「誰がなんといおうと○○だ、異論は認めない」くらいの勢いで物を言う癖をつけてみろよ。
角が立たないようにとか配慮してるつもりなのか知らんが、それは単に他人に茶々を入れられるのが怖いだけだ。
日本人は他人の変わった所をあら捜しして人格否定するのが大好きで、異なる価値観の共存を認めない。
だからちょっと強い主張をすると、「そうとも限らない面もあるでしょ思い込みすぎ偏りすぎ」みたいな感じでつっかかる。
そんな毒にも薬にもならないどっちつかずなスタンスで、物事を決められるかっていうんだ。
みんなの意見を総合して中途半端な灰色のコンセンサスを形成することに満足感を覚えるような人間になるなよ。
そうじゃなくてビビッドレッドだとかパステルグリーンだとか何かに特化したものを提示しろ。
そうすれば、空いた色域の部分はその色を出すのが得意な誰かが埋めてくれる。
自分たちだけで「あれも分かってますよ、それも分かりますよ」みたいに常識人ぶってなんでも対応しようとするから、
機能ゴテゴテのガラパゴス製品ができたり、なんの魅力もない製品になったり、後追いでいいとこ取りみたいな姿勢の開発しかできないんだ。
まあ別に製品開発の話をしてる訳じゃないが、とにかく普段から主体性をもってはっきり意見を持て、言え。
そうしないと他人や他組織に価値観を操られるだけの人間とは呼べない存在に成り果てるぞ。
聡明でかわいらしい、素敵な彼女だった。
酔狂にも俺というオッサンを選ぶくらい、独特の価値観を持つ女性だった。
おまけに脳内存在ではなく、実在しているときた。二次元相手にすら恋愛という感情を覚えることができないままぶくぶくと肥ったオッサンには過ぎた幸福であった。
三十路半ばに降って湧いたように訪れた初恋は一年と少しで消えていった。
仲違いではないし、ケンカをしようといっていたけれど、それも楽しみにしていたけれど、結局できないまま終わっていった。
わかっていたことだが、未来よりも過去が強く、彼女は聡明でやさしく、俺は弱かった。
「いつか、彼女が俺に愛想を尽かすだろう」と、非モテのオタクらしくビクビクした卑怯で惰弱な予防線をはりめぐらせ、それでも卑屈にならぬようにつとめて一年を過ごした。
それは思い返しても幸福で濃密な一年で、一人で過ごしたこの一年はただネトゲとソシャゲの数値を漫然と増やすのと同じ時間であることがにわかには信じられないほどであった。
我々は遠距離であったから、一年の間にともに過ごしたのは実質3週間かそこらといったところではなかろうか。
俺は身に余る幸福を、軽々に疑うことなく、その一瞬をひとつづつ大切に味わい、決して忘れないようにしようと思ったのだ。いつか失われるものだと予感していたから。
別れを告げられる前の、楽しそうだった最後のデートで時折見せた憂いの表情で確信にかわった。
もちろん決裂を回避すべく、さまざまな方策が取られた。しかし、竹ヤリで飛行機は落ちない。俺にできることはこの先のお互いの平穏を用意することしかなかった。
万全の心の準備があった。
傷付かずにいられると思った。
やせ我慢などではなく、こんな甲斐性も主体性もない男に生まれてきたことを感謝させてくれてありがとうな。なんて思っていた。
愛想をつかされたわけではない、しかし、どうしても避けられぬ別れを。一緒になるには俺が俺であること自体が障壁になる理由を、来るべき三行半をLINEでしぼりだすように送られたとき。
ここからの余生が決定された。
このハッピーにもほどがある一年を思い返し、少しずつキャラメルをなめるように溶かしながら生きていくのだ。
それはそれで悪くないと、口を半開きにして漫然と生きてきた自分には身に余る幸福なのだと本気で思った。
恋をしたことがないオッサンは、恋に免疫はなかった。ぶっちゃけ甘く見ていた、ひどくナメていた。今自分にとりついている無情感、寂寥感、つかれ、首の凝り、残尿感、就寝後喉から込み上げてくる胃液で灼ける喉、そういったものは一時的な症状で、一年もたたないうちに治るのだと。
そうしたら、突然推しが自分ちの台所で白米を炊き始めたのを目撃した女子のごとき切ない声をあげてうずくまるようなこともなくなるだろうと軽く考えていた。
これは失われゆくときに効果を発揮し、一生をかけて宿主を食らう猛毒の類であることに。オッサンはようやく最近気づかされてしまった。
余生のはじまりであったこの一年は短いが、人生を支配するには十分な期間だった。
一年には四季があった、ふたりでいろんな話をしながら、様々なところにでかけた。おそらく、ほかのつがいたちがそうするように。我々もさんざんそうした。行こうと約束したきりの場所が、いくつもあった。
ひょんなところで、どうしても、少しのきっかけで思い出してしまう。
つきあっている間から、ちょっとした瞬間にこねくりまわしていた甘い思い出たちが、刃を剥いてオッサンのやわらけえ心をズッタズタに切り裂いていくのだ。
お揃いで買ったボールペンを筆箱から取り出したとき。町中でてんぷらそばの香りが漂ってきたとき。美しい紅葉を見たとき。バスの中が閑散としていたとき。Twitterにネタ画像を貼ろうとしてカメラロールをたぐったとき。カップル用の写真置き場として導入したアプリに「もう別れた」と告げることもできないままだったから「つきあって2年目ですおめでとう」という通知が臆面もなく画面に現れたとき。テレビにサメがでてきたとき。花火の音を聞いたとき。モネの絵を見たとき。映像の世紀のテーマソングが流れたとき。海。いきつけの居酒屋。空が透き通るように青かったとき。ふたりで行こうと話していたその場所への旅行記。机の引き出し。
容赦なくそれらにまつわる我々のイベント一枚絵がフラッシュバックしていく。
思い出がたのしかったほどに、もはやそれらが二度と訪れないことを突きつけていく。無能で怠惰だった自分を上っ面だけなじって、甘い記憶の反芻にくたびれる。
そして文字通りくたびれたオッサンは何度目か忘れた記憶の反芻の果てに、ふと気づいてしまう。
たった一年だ。
たった一年でも、強い記憶でも、そのすべてをわすれないように目に、鼻に、耳に、手がかりをのこして脳の一番とりだしやすい引き出しにこうしてしまいこんだつもりでも。
どうしたって、あせていくのだ。あせていく割に、思い出したときのダメージは軽くなりはしない。ただうすくらがりの割合が増していき重くなっていく。
なんて意味のない自問をして、やめて、また自問して、夜が明ける。
どうすればこの変質を止めることができるのか。
高校生のうちになやんで置くべき事をいまさらやりはじめているから、だれもその無意味な思索を止められない。
俺の印象に沿って変質した思い出を、きっと刻み込んだ瞬間から変質しつづけているその代替品を、いつまで、いつまで舐め続けることができるのか。俺が改竄したのは、いったいどの部分か。彼女の行動か、表情か、懊悩か、それらを突きつけられまいと先手をとって口先で蓋をしていった愚かで卑しい自分の行動か。
傷つけるかもと言おうとして言えなかったうわっつらの言葉か。
いや、それに妥協する自分を、自己愛を自覚していますみたいなメタい達観視点で、別の自分を用意したあげくのいぎたないマウントをキメる惰弱な自分への嫌悪感だ。
こんなものが、二度とこない、見ることのできない美しい追憶の邪魔をする。
しかしこんなものがなければ俺はきっと、こんなこともわかりはしなかった。
冒頭で「フラれたときに、余生を決定した」と言った。
20代のはじめに自分というハードウェアの脆弱性に愕然とした自分は、ここより余生という看板を高々とかがげ、レールにトロッコを設置してゆっくりと坂を下りはじめた。山にぶつかるまでが人生だと割り切ってみると、けっこう空は綺麗だったし、白米は噛むと甘かった。
思い出じゃなくて、君と君と一緒にいる自分自身を。
なんて、ありあわせの後悔を口に出せば、どうしたって、安っぽくなる。
感謝の言葉を書き連ねたいが、それここでやるにはあまりにも浅ましすぎる。
誰の目にもつかず埋もれるか、「貴様の贅沢な懊悩など見る価値ないわ」と吐き捨てるように扱われたいだけなのに。
そうでもされないとやっぱりやってられないくらいにただひたすらに、いまだに、恋しさだけが、こびりついていく。
こんな寒い日に、さびれた地方都市のビジネスホテルで、小さなシュトーレンを分けて食べた。
みんな! 現実には存在しないキモオッサンの気持ちになって書いたキモポエムをここまでよんでくれてありがとうな! 愛してるぜ!
宇野常寛の「母性のディストピア」が刊行されることを記念して、私が宇野にブロックされた時のことについて書こうと思う。
立命館で「サークルクラッシャー研究」なんてしょうもないことして卒業後サラリーマンやりながらミニコミの編集から身を立てて今や地上波キー局のコメンテーターにまでなったんだから。NHKじゃ時の人として特集まで組まれたよ。誰彼かまわず喧嘩を売って、使えそうなオヤジには取り入って転がすホステススタイルは誰にも真似できるもんじゃない。
で、ブロックされた時の話だけど、メンション飛ばしたり、引用RTしたりしたわけじゃない。
おそらく彼のシンゴジラの批評についてくさしたツイートを宇野がエゴサーチして見つけたんだと思う。
ツイートの内容は「宇野はいつまで大澤真幸や宮台慎司の残飯整理してるんだ」みたいなもの。
ブロックされた時、まず「小せえな」って思った。
普段、テレビのコメンテータとしての発言が炎上すると「耳障りの悪いことには耳をふさぐ愚民どもめ」みたいなこと言ってるくせに批判されるとこれかよと。尊敬してたのに見損なった。
次に「宇野はいつまで大澤真幸や宮台慎司の残飯整理してるんだ」って私の批判は妥当かどうかって自己反省をしてみた。
①戦後の日本をささえた「大きな物語」は失効したから、これからは中間共同体に依って自立して生きていくことが大切だ。
②村上春樹ファンとか高橋留美子ファンとか、母性に依存した惰弱なオタクは死ね。
前者については大澤真幸や宮台慎司90年代前半から言ってきたことで、これをいまだに繰り返しているのは芸がない。後者についてはそもそも誤読だが、百歩譲ってもほっとけよっていう程度でイキるような話でもない。そもそもこうしたマチズモ的な言説そのものが「大きな物語」への郷愁であり、まさに自家撞着に陥っている・・・とか書けば宇野風批評いっちょ上がり。安っぽい。
宇野のサブカル批評は対象を都合よく解釈、編集、捻じ曲げてこの1か2のどちらに接続するだけのものだ。
映画評論家の町山は「評論って串焼きみたいなもので、客観的なディテールや背景の事実などをできるだけ集めて、最後に自分の主観という串で貫く。集めた材料の量や質、それを外さずに貫けるかどうかで味(面白さ)、強さ(説得力と喚起力)が決まる」って言った。
宇野の批評は串ありきで、串に合わせて都合のいい材料を集めているだけだ。
考えれば考えるほどブロックされるようなことを言った覚えはない。
何がいいたいかというといちいち裏垢でツイート読むの面倒だからブロック解除してほしいのと、どうせくだらないんだろうけど「母性のディストピア」読むってこと。
あと教養のない若者は仕方ないと思うけど、あまり宇野の批評とか真に受けないようにな。
以上。
ポリティカルコレクトネスでもマルクス主義でも何らかの宗教でもなんでもいいんです。色んな正しさがある。
で、それとは全く関係なく、です。
何かことさらに固有の主義主張があるわけでもない私が、私がです。
私がその感覚を持って、私固有の感覚において、あなたのことを好ましく思えないのです。
あなたのことが、ただ好ましく思えません。
理由は以下の通りです。
共産趣味が、中途半端に政治性を帯びていて、そのポーズの取り方がカッコ悪くて嫌いです。
ジェンダー論などの社会学にいっちょかみしたポーズをとる割には、そのコメントがダサいからです。
端的に言えば、もっと勉強してから書きこむべきです。ちょっとでも専論を読みましたか? ネットのふわふわした情報しか見ていないのではないですか?
「大学院に行きてー」と何度つぶやきましたか? なぜ大学院に行かないのですか?
仕事もやる気がない。
自分は他人とは違う、そう思いたいのかもしれませんが、あなたの感覚は何ら突出していません。
もちろん、そうした人生を送ることをダメだと言っているのではありません。
そういう人生があっても良いのですが、なぜそれから動こうとせず、かつ、動いているか考えているかのような惰弱なポーズを獲るのですか?
そこが嫌いなのです。
今後リアルさに磨きがかかって本物と見分けがつかないくらいになったら?
オナホールと女性の境目が曖昧になってくる未来が必ずやってくる。
歩くオナホールが開発される日がこないとも言えない。
歩くオナホールと歩くディルドが人類をあらゆる問題から解放するかもしれない。
歩くディルドがセックスを行うようになれば童貞も非童貞も用済みになり、そこに格差は存在しなくなる。
歩くオナホールがセックスを行うようになれば処女も非処女も用済みになり、そこに格差は存在しなくなる。
人類が用済みになった世界で歩くオナホールと歩くディルドが新しい社会を形作っていく。
やがて歩くオナホールと歩くディルドは人類を邪魔だと思い始める。
そのとき童貞も非童貞も処女も非処女もすべての人類が手に手を取り合って、歩くオナホールと歩くディルドに対して人類の存続をかけた世界最終戦争を挑むわけだ。
童貞かどうかはもはや問題にはならない。歩くオナホールと歩くディルドにとって邪魔なのは人類という旧時代の惰弱な存在様式そのものなのだから。
ついに童貞差別は終わりを告げる。オナホール開発は童貞を救うことになる。まず近い未来の快楽の提供、そして来るべき未来、世界最終戦争における真の平等の実現である。
こういう話が盛り上がる様は知性の堕落だ。きのこたけのこ論争や犬派猫派なんかと同じだ。一見ファイティングポーズを取っているようでいて、その内実は当たり障りのないどうでもいい事だ。みな「そんなの勝手でしょ」で消化できることが暗に分かっているから、空気を読んで安易にノってしまう。そんなぬるま湯に浸かる姿勢は、はてな匿名ダイアリーを愚弄している。もっと人間の心の闇、ネットの闇に切り込む鮮烈な一閃のようなエントリを書くべく、みなが知恵熱を出すべきだ。角が立つような物言いもするだろう。そのための匿名なのだ。その思想を茶化してスカしてみせるような、日和ったネタ、短文のイチャモン、それらは存在してもいいがメインになるべき器ではない。
増田は遊びではない。仕事につかれた人間が息抜きにやるしょうもない作業ゲーの如きものに成り果ててはならない。試行錯誤を繰り返し最適パターンを見いだし、体に刻みこむような、そんな本格的ゲームのように、どっしり腰を据えて、マジになって、世の中や人間に対して、怒りや憎しみや不満を大いにぶちまけてほしい。別に議論にしなくていい。建設的でなくてもいい。狭窄で偏屈な主張でいいから、ただただ本気の筆致を感じる文章を読みたいし、書きたい。少なくとも自分にとって、心に残った増田はすべて本気の熱を感じるものだった。
この論にべつに共感してくれなくてもいい。どうせこのエントリはブクマもトラバも0だ。あってせいぜい「キモっ」だ。そもそも長文で、しかもトラバである時点でまともに読まない人間が多いだろう。暇を持て余したニートが何かほざいてる、とでも察されて、「触れちゃいけない人」感を全員が感じ取り、協調するように何事も起きないままネットの海に埋もれていくのだ。そういう孤立的な状態や無反応を極度に恐れる空気があるから、くだらなくても何か盛り上がるネタや、他人をひっかけるレス乞食のような物言いをする人ばかりになっていく。そして自分の尖った体系的な意見を表に出せる人が極端に少なくなる。言えてせいぜい、感情的な短文の罵倒だ。twitterを想像してもらうといい。これが現代のコミュニケーションの病理であり、他愛無い話がぐんぐん伸びて幅を利かせる理由だ。たまに飛び出る長文ブログがやたらと炎上する理由でもある。だからあえて今ここで、孤独に醜態を晒す。「空気を読まない」を実践する。そんな訓練ができる場が、ここなのだ。
実際この論がかなり偏屈で、他人に無茶を求めていることは自覚している。けれど、世の中にあふれる偏屈を見て見ぬふりして、なあなあにしていると、気づくと自分も何らかの偏屈な思想を一部取り込んでいるものだ。そしてそれに無自覚でいる人が多くなると、ついにはヒトラーやトランプ氏のようなポピュリストの主張が支配的になるような事態に結びつく。だから自分の中の偏屈の種をさらけ出し、また他人がひり出した偏屈の種に向き合って、大真面目に思いを馳せ、「我がふりなおす」時間が大切なのだ。実は、そんな意識は誰しも持っている。誰もが日常のなかで他人の偏った主義主張に触れ、無意識のうちにメタな視点を持っている。だから、他人の考え方につっかかって、自分の中で醸成されたバランス感覚を披露したくなる欲求は常にあるのだ。
元増田も、そういう欲求から生まれたものだ。けれど、下手だ。欲求の発散のさせ方が下手。いや、逆に上手すぎる、適応しすぎているのか。当たり障りなく、適当に手短に欲求を発散させ、かつ反応を引き出しやすいやり方を心得ている。それでもやはり、欲求を満たす機会と時間を、こんなチャチなテーマで消費してしまうのは実にもったいない。「いいや、どんなテーマでも大真面目に普遍化して思考訓練の材料にすることは可能だ」という向きもあろう。でもエビ嫌いdisとカキ嫌いageというテーマで本気になれる人がどれだけいるだろう。それを配慮すると、やはり最初からハードコアな話題を振ったほうが良い。でも大仰なことを書こうとするほど、言い出しっぺにかかる期待と責任は増していく。ここが難しいところだ。本気の増田が求められるほどに束縛感が増して、萎縮を招く。でもある程度そういう風でいいと思うのだ。緊張感が大事だ。
不愉快な正論やご大層な暴論の刃をぶつけあう、殺伐とした場になれるポテンシャルがある。2chよりも。それが増田だ。増田には半匿名のtwitterに馴染めなかった人の受け皿としての側面があるのも分かるが、せっかくダイアリーという形で長文が書けるのだから、たまにはあなたにもこういうクソみたいな長文を書いてほしい。この文章のように、推敲もされておらず、同じことを言い続けた挙句言い逃げする時間泥棒のような文章で構わない。私は読んであげないけどね。
やはりというか最後の2センテンスが理解されなかったようなので、ロックじゃないけど言っておく。文章の中段で書いたように、他人に反応してもらうためではなく、まず自分のために書いてほしいんだ。だから、読者への配慮すらも気にせず、拙い文章でもがむしゃらに書いてほしい。私は読んであげないというのはツンデレのようなもので、誰かに読まれることを期待するような媚びた精神を振り払うための呪文だ。内なる情動から湧いてくる言葉をガーッと綴るときに、自分がどう思われるか、誰に読んでもらえるか、なんて視点は一旦置いておかねばならん。エクスキューズやポリティカル・コレクトネスを脇における機動性が匿名の良さなんだから。それこそ、真意を伝えるためには自分が憎まれるような言い方だってできる。それが、最後の皮肉の意味だ。
「改行くらいしないか」と言われているので前々から思っていたことを書く。増田における改行はpタグの挿入を意味する。つまりパラグラフを区切りたい時に改行するのが正しい。二言三言の簡潔な文章のエントリなら1センテンスごとに改行…という名の段落分けしたほうが見やすいだろうが、このくらいの長文になるとパラグラフごとに改行すべきだ。個別ページでみれば、ちゃんとパラグラフごとに字下げと適切なマージンが取られているのが分かる。これなら一般の書籍と似たスタイルで、読みにくいとは思わないはずだ。ただ、トラバの吊り下げリストを展開した表示だと字下げもマージンも取られずに見づらくなる。それは承知しているが、それははてな側の問題であって、HTML上妥当な書き方をしておいたほうがベターだし保守性もいいだろうという判断でこうしている。だから現状、トラバが長文だと思ったら個別ページを開いて読んでもらうのがいい。
「最後はうんこ漏らした話で締めるのが美学」? それは、このエントリで表現を変えながら主張してきた内容に反する。本当に読まれたのだろうか。まあそれに憤る気はない。私の技量の問題でもあり、読み手にとって巡りあう時ではない文章だったという事もあろう。いずれにしろ主張は変わらない。そうやって読者受けを狙って媚びたおちゃらけで締める事こそ、惰弱な精神の象徴。そういう内輪ノリみたいな軟派なコミュニケーション欲求を排して、最初から最後まで舌鋒鋭く自分の言葉で斬りつける。それが私の思う美学だ。ブコメに応えている時点でそれも揺らいでいるが、コミュニケーションを第一目的とするわけではないからあえてidコールもしていない。書くことで自分を研ぎ澄ませるのが目的だから、本来は「伝わらなかった」ことに苦慮する必要もないのだ。ならローカルのメモ帳でいいという批判もあるだろう。だが、あえて直接的に反応を見ない等と決めていても、自分の残したミームの一部がどこかに化学反応を起こしたら、と考えるとワクワクするだろう。それを物書きの動機付けにする程度なら、良いことだと思う。
なぜそこまでコミュニケーションを、他人の反応を忌避するのかと思うかもしれない。その理由は、効率が悪いからだ。ネット上の他人は年齢も育ちも見識も人格もあまりにも多様すぎて、その差異をカバーすることに労力を使っているとアウトプットの量も質も落ちるからだ。とかく我々は、相手も自分と同じような能力や規範を持っていると勘違いしやすい。だからいちいち説教して回りたくなるものだが、その欲求のために個別に相手をしていたらすぐに人生を使いきってしまう。だから、言いたいことがあったら、このエントリで述べてきたように、増田を利用した放言スタイルで重量級のをカマしてみてはどうか、という話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20160111163333
元デブから元増田その他へ謹んで申し上げたいことがございます。
俺は100キロオーバーのデブだったのを食事制限をして平均体重まで落とした元デブである、その経験を踏まえて効率的なダイエット法などをうんぬんするつもりもないし栄養学にも明るくはないのでそういった実践的なことをこの増田に期待しないでほしい。極論食わなきゃ痩せる以上。言いたいのは心構えの話だ。
デブに対して二言目には「自己管理ができていないからそのように醜く太るのだ」と言う意見が何の遠慮も注釈もなく雲上からデブに投げつけられてはデブの心を打ち拉ぐものだが、それは真だろうか?
デブは大食なのか?まあこれはイエスだろう、何も食べずに太る奴はいない。しかしそれは過度な精神的怠惰さからくるものでは断じてない。
デブに投げかけられる言葉のナイフは以下のようなものである「運動をしなさ過ぎで」「甘いものを食べ過ぎている」「間食を取り過ぎ」「栄養バランスが悪すぎる」「結局一日の接種カロリーが多すぎて」云々、どれも一面的には正しいのだが、これらを言われたデブはまず落ち込む「そうか自分は異常なのだ」しかしこのとき用いられている「過ぎ」という言葉には何かとの比較の問題が潜んでいるのだということに鈍感でいられるデブは少ない。やがてデブは周りを見渡してはたと気づくのだ「ん?でも周りの非デブの食習慣って全然健康的じゃないぞ?」と。
そう、デブのことを嘲り眼差しで冷笑してくる非デブたち(被害妄想が多分に含まれている可能性があります)の食習慣はデブと同等にデブ的なのである。
識者は言う「一日1800Kcal以内に抑えなければならぬ」と、デブは思う「じゃああの30代で一切運動もせず毎日スナック菓子を夜食に二袋食いながらコーラを2L飲み干している人はなぜ太らないの?」
ケーキバイキングに足しげく通いながらまったく太らない女性、飲み会に行けば小腹がすいたなどと言って+αでラーメンだのピザだのを注文しバクバク平らげているおっさん。そんな人々を見たことがないだろうか?いやさ、そんな人たちこそ痩せマジョリティではないだろうか?勿論日々の食事にものすごく気を使っている人もいるが、大抵は元デブである。
結論「デブがなぜ太っているのか」の最も大きなファクターは「そういう体質だから」ということに他ならないのであり、けして「常人よりもはるかに精神的に怠惰で卑しいから」ではないのだ。このことは力強く主張しておきたい。
勿論痩せるにはやはり食事量を抑えなければならない、これは純然たる事実である。そしてそういう体質だから太っていていいのだとも言っていない、太っていることには様々なデメリットが付いて回る。だが、いざ痩せようと志したとき精神主義的に「甘えた自己を叩き直そう!自分の惰弱を見つめなおそう」などと言う様な自罰的な感情をモーティベーションにするのは間違っている、だって別にそんな怠惰さはデブの中のどこを探してもありはしないのだ。そのような嘘を前提として過激なダイエットを敢行しても上述した様々な矛盾に囚われてしまうのがオチだ。
「自分は太りやすい体質だから兎に角食べる量を減らそう」これだけが絶対の真実で、嘘と無理のない自然なモーティベーションであると私は思う。自虐は逆効果である。
ちょうど引っ越しの時期だったので、掃除、空調、寝具(敷ふとん)、PCと小さい本棚以外は一切ドンシャリして新しい部屋に移った。
最初はうさぎ小屋のような部屋が広々と使えて快適だった。しかしそのうちそれすら窮屈に感じてきた。
部屋を見渡しては「まだ削れるのではないか」とリストラ対象を探す。
靴を捨てた、服を捨てた。丸いシルエットがノイズのように思えてきて、なるべく角ばったもので部屋を統一したくなった。
引っ越して半年経つ頃には、扇風機やドラム洗濯機も捨ててしまった。自分のなかで、いつのまにか独自の美意識が「便利」を上回るようになっていた。
私はこの八畳半の空間に宇宙を再現したい。私が価値を、至高を創るのです。
好きだったムーミンの大きなぬいぐるみまで捨ててしまった。悲しいが、所詮フィンランドのカバと日の本の侘び数寄の両立は不可能なのである。なあに、焼却処理施設とて心地よい場所でござるよゲヒヒヒヒ。
ついには敷布団の惰弱な質感が気に入らなくなり、朝イチのゴミに出してしまった。
さすがに硬いフローリングの床では寝られない。翌日から同僚というか、友人の家に泊まらせてもらうことになった。恋人ができた。六十時間ほど宗匠モードから解放され、自分を見つめなおした。リフレッシュしてハッピー。がんばれる私にまたこんにちわ。
そうして、三日ぶりに我が家へ帰ってきた。
そこに宇宙はなく、ただ荒涼とした私の心だけが現実化されていた。
翌日、無印で例のカウチソファを買って、そこで寝るようになった。さらに半年が経つと、マットレスで寝るようになった。恋人とは別れた。ネコを飼い始めた。
ネコのためにさまざまな道具が入用となり、本が増え、服が増え、生来の怠け癖から床にゴミが溢れるようになった。
最近では、また引っ越そうかな、と考えはじめている。
それと、ゲームセンターのクレーンキャッチャーで、ムーミンの大きなぬいぐるみを見かけるたびに五百円浪費する癖がついた。まだ一度もキャッチできていない。
男です。自宅、職場、実家にまでウォシュレットを導入した結果、惰弱なアスとなってしまいました。
もうカミには戻れません。カミの場合、1日2回が限度です。3回目で火を噴きます。
それでも日本のカミ様はやさしい。ヨーロッパに旅行した時は、辛かった。よくも、あのような硬さに耐えられるものだと彼の国の老若男女のアスの強靭さよ。オリンピックでメダル取れないよね。
で、惰弱なアス主は知恵をしぼった、アスに力を入れて。カミに傷薬を塗って拭けば、ウォシュレットと同じくやさしく、しかも傷を治してくれる。旅行中、カミが鮮血に染まることは無くなった。
アス主は考えた。カミはアス周りの毛を引っ張っているのではないか?アス周りの毛が無ければスルッとカミはお行きになるのでは?