はてなキーワード: 保護施設とは
タイトルまんまなんだけど、貧困家庭は動物を飼うな。最近猫飼い始めたんですけど飼い方心配で〜と明日のご飯が無くて何か分けてください〜が同じテンションなんだよね。しかもその猫、ペットショップで高いお金出して買ってきてるの。拾ったとか住み着いちゃったとかでなく、買ってるの。いくらしたんだよ、お前ら先月食べ物がないってパニクってただろうがよ、喉元過ぎれば熱さ忘れるのいい例だなってキレそうになってしまった。市役所で怒鳴られる貧乏人、なんてひどい職員なんだって思ってたけど今自分が職員側だったらたぶん怒鳴ってた。簡単に助けない自分らで何とかしろとキレてた。個人的に動物大好きだから、猫なんて特に大好きで家にもいるからマジで猫買ってきた〜ってヘラヘラ言うのが頭にきちゃって。こういう人らになんで私らの税金使われなきゃいけないんだってめちゃくちゃ無力感。車がいるから生活保護はいや!って言いながらほかの保証はめちゃくちゃ使ってるし、色んな給付金で鬼滅の刃のグッズや謎メーカーのタブレットや動物を買って。霞を食べて生きろとは言わないけれど、それ必要?ってものばっかり買ってお金ない!って騒ぐ人に公的な支援って本当に必要なんかな。早く何もかも差し押さえられて、猫も保護施設に引っ越してくれればいいのに。
ふつーに沢山ある。
ってか子供に対する経済DV(虐待)案件としてよくある。親は高収入なのに子供に金を渡さない、ってやつ。
その場合子供は親が貧乏である場合より詰む。奨学金だのは親の収入で支給されるかどうかが決まるので、親が高収入だと出ないからな。
んでそういうのは行政にはどうにも出来ない。
飯も食わせないレベルの虐待であれば保護されるけど、それにしたって精々短期の保護で結局家に戻されるパターンが多い。
まして飯が食えてるなら尚更。
或いは子供に働かせてその金を親が全部巻き上げてる場合もあるし。それもいくら子供が稼いだ財産は子供のもの!とか言ったって、現実だとその程度で保護なんかされない。
もっと酷い虐待親になると、幼いうちは児童保護施設に捨てて16になったら引き取って高校も行かせず働かせる、ってのもある。
高校行くのだって親の許可がいるし、その親の元から逃げ出したくても他の仕事に就くのも家を借りるのも親の許可がいるから出来ない。
https://anond.hatelabo.jp/20200324160510
保護犬の成犬を引き取った話の続きです。
このご時世なのでリモートワーク暮らしとなって以来、今年初めて飼い始めた犬と接する時間が増え、様々な経験、発見があったのでここに記す。なお俺も嫁も子供の頃から犬も猫も大好きで子供の頃は住宅事情、大人になってからは仕事の事情も加わり一度も飼う機会のないまま歳月が過ぎ、今年念願の初めての犬を飼い始めたのだ。なので「そんなことも知らなかったのか」とか「そんなの当たり前だろ」とか思うことも書くかも知れないがそこはご容赦頂きたい。なお「保護犬と過ごした」と過去形で書いたのは単にリモートワークが終わって今は出社しているからで、犬が死んだわけではない。元気いっぱいである。
嫁は最初から「〇〇〇〇」と名づけて日常ではそれをもじって「〇〇ちゃん」と呼ぶつもりだった。要するに例えば「八兵衛(仮)」と名づけて「はっちゃん(仮)」と呼ぶようなものである。俺は保護施設で呼ばれていた名前の方が本犬が混乱しないんじゃないかと思ったが、実際には杞憂であった。
犬は自分の名前を何となくではあるがすぐ認識した。いやこの犬が並外れて賢いだけなのかもしれないが、響きとアクセントで認識したのだ。窓際のカーテンの下に寝そべる犬を「こうすけ(仮)!」と呼んでもキョトンとした顔でこっちを見ている。だが自分の名前である「八兵衛(仮)!」と呼ぶと尻尾をびたんびたんと床に叩きつけ始める。「はっちゃん(仮)」と呼んでもだ。ただ「こうちゃん(仮)!」と呼ぶと同じようにびたんびたん始めるので、そこまで精密な理解ではなさそうである。そして俺が「呼んだだけだよ」と言うとやがて「用もないのに呼ぶなよ」と言いたげに前足に顎を乗せそっぽを向くか「まあそう言うなって、ほらボールだ」とボールを咥えて寄って来る。
大好きである。ただしこの犬、体重が27キロある。それでもお構いなしに乗ってきて抱っこをせがむ。向かい合うように縦にする抱っこでもいいのだが、人間で言うお姫様抱っこが好きだ。ただし俺たち(特に嫁が)が立った状態では瞬間的な抱っこしかできないことを学んだか、ソファや椅子に座っているときに膝の上に無理やり乗って抱っこさせる。この習慣があるから後述のSkype中での乱入もし始めたのかもしれない。
動物は相当リラックスした状態でもない限り仰向けにならないと思うのだが、この犬はいつまでもお姫様だっこ仰向けになって反り返る。それをこちらがしばらく放置していると顔をこっちに向けて「おい、なでなではどうした」と催促してくるのだ。ちなみにひとしきり撫でてもらうと体を反転して「今度はこっちね」となる。
リモートワークになって以来、家のPCでSkypeを使うようになった。基本的にはチャットを開きっぱなしで通話はあまりしないのだが、たまに通話していると犬が不思議そうに寄ってくるようになった。何か四角い画面に向かって俺がペラペラ喋っているのをずっと観ていたからだとは思うが、やがてあの着信の「ぽんぴんぽんんぴんぽんぴんん(わかる?)」アラームが鳴るといそいそと隣の部屋から来るようになった。始めは遠慮がちに机の下にもぐり込み、俺の膝の間から俺の顔を見上げてるだけだったのだが。やがて俺の膝の上に飛び乗り無理やり座るようになった。
ちなみにこの犬、レトリバーとポインターの雑種と思われ結構大きい。そして俺もやや大柄ではあるものの大型犬を膝で愛でるほどの巨人ではない。と言うことは犬にとって俺の膝の上でこの姿勢は窮屈だしおさまりが悪いはずなのだ。しかし無理やり俺の膝の間に無理やり座ると画面に向かって「こんにちは犬です」とやるようになった。画面の向こうの相手は高確率で「おお!可愛い」と笑顔になっているはずだ。なぜ「はず」なのかと言うと俺の視界は犬の後頭部で阻まれているからよく見えない。
定時連絡も含め一日4~5回のアラームが鳴るたびに犬は家のどこにいても駆け寄って来て、そのうち2~3回はこのように割り込んで来るようになった。
犬は散歩が好きである。もちろん運動が嫌いな犬もいるだろうが概ね犬は散歩が好きであり、うちの犬も好きだ。しかし毎日朝晩の散歩をしているうちに気づいたことがある。それは散歩で大事なのは「距離よりルーティン」であることだ。うちの犬の散歩は道路に出て左に曲がり、家のある区画を一周するショートバージョンと、同じく右に曲がって河原まで行くロングバージョンがあるのだが、いずれのコースのときも上機嫌である。まるでパトロールをするかのように「うむ、この電柱は今日もいい匂いだ。この草むらもいい匂いだ。よしここでうんちすることするからちょっと待ってくれ」と言った具合にだ。蛇足だがうんちしてる所をこちらが凝視していると「何見てんだよぉお前はうんちしないのかよぉ」と、上目遣いのとても情けない表情になって面白いからつい凝視してしまう。ちなみにおしっこのときはそうでもない。
そんな日々のルーティンのコースから、たまに飼い主の都合でちょっと寄り道するため違う道に行くと、犬がこっちを見上げる回数が増える。さすがに踏ん張って抵抗まではしないものの「ん?こっちか?どうした?」と何度も見上げてくる。その寄り道が犬とは関係のない飼い主のランダムなルーティンで、やがてその道を覚えたとしてもそれでも犬にとってはそれは「散歩」から「ご主人のお供」に切り替わるのだ。実際寄り道をすると犬はトイレをしない。
いずれの散歩からの帰宅でも犬は家が近づくと引っ張り気味に前に出て、道路から正確に俺の家に入り玄関でばっちゃばっちゃと水を飲む。そうだよな、わかってるんだよな、ここはお前の家だから当たり前だよな。
好きでも嫌いでもないが、他の犬が吠えても「ん?犬が吠えてるぞ?」と言った様子で相手にせず、おとなしくおすわりしている。だが俺のそばにぴったり体を寄せて座ってる所を見ると緊張はしているようだ。ちなみに俺も嫁も緊張している。獣医に来たのは、昨日の夜の散歩で何かを踏んだらしく後ろ足の猫で言う肉球と呼ばれるゴワゴワプニプニした所から血を流していたからだ。帰宅してからすぐにお湯で洗ったし血も止まったが大事を取って獣医に来たわけだ。リモートワークで良かった。
ちなみにここの獣医は患者を呼ぶとき「増田さん」とは呼ばず「増田さん、犬くん」と呼ぶ。そうして呼ばれて診察室に入ると、いかにも動物大好きって顔に書いてある初老の先生と、奥さんだろうか険しい表情の看護師さんがいる。とりあえずライス国務長官をイメージして欲しい。俺が抱きあげて犬を診察台に載せ、ライスが犬の頭の横から肩にかけてなだめるように撫でると犬も落ち着いたようで軽く尻尾を振った。すごいぞライス。
昨日起きたことを説明して、そしてこの犬の出自や、俺たち夫婦が犬をずっと飼いたくて遂に飼い始めたんだけど飼い方がおっかなびっくりになりがちなことまで話すと、先生はまず犬の傷口を診て「傷もふさがってるし綺麗ですね。問題ないと思いますがしばらく無理させないように」と言ってくれた。そして「僕は犬猫にはどんな症状でも必ずやるんで」と触診を始めた。するとライスが青いピッタリした手袋の包みを取り出して先生に渡すと、犬の向きを変えて正面から軽く犬の上半身を抱く押さえる感じで抱きしめた。「はい犬くんお尻を失礼」と手袋をはめた先生がも尻に指を突っ込んだ。ライスの肩越しから見える犬の表情は絶望的になり「おい!ご主人助けて!こいつ俺のお尻を!俺のお尻が!!」と言わんばかりに、暴れたり唸ったりはしなかった分、目だけが鬼気迫る圧力で必死に訴えていた。
最後に犬にあげてはいけない食べ物リストという小さな紙を渡して診察は終わった。やはり初めて飼うことを伝えておいて良かった。このリストを見ると「まあそうだろうな」という品目が並んでいたので、俺が「これに書いてませんが魚の骨とかはいいんですか?鶏の骨はなんかガラスみたいに胃の粘膜を傷つけるとか聞きますが」と言うと「一番怖いのは中毒です。そのリストにあるものを与えると高確率で中毒症状が出ます。あとはあげ過ぎです。それと鶏の骨の成分で内蔵を傷つけるなんてありません」と言う意味の答えを頂いた。嫁が真顔で「ケンタッキーの骨と〇〇の手羽先はあげていいんですね」と俺の家の食生活をつまびらかにするような質問をするとライスが「あそこの手羽先おいしいですよね!」と笑った。ライスもあそこの手羽先を食べるのか。
実は俺たちはそろそろ子供を作ろうと思ってる。いわゆる妊活って奴だ。しかし、すぐにできると思ってたのだが少し時間がかかっている。まだ医者に相談するほど深刻なそれではないものの、嫁がほんの少し不安に思っているようだ。なので俺は嫁を安心させる意味と本心の両方からこう言っている。
分かる。超わかる。
自分には猫一匹飼う資格もない人間なのかと思うよね、似たような増田上げたことがある。
ひとまず言えることは、5ヶ月くらいまではマジで一匹にさせておくと良くないことが起きうるのは事実。だからそれは本当に気に病まなくていいよ。
その先は、まあ同時期にもっと幸せにしてくれそうな家族が見つかったらそれはしょうがないよ。
自分も同じことがあったから分かる、自分の場合は兄弟で引き取りたいという方がいらっしゃったので、流石にそれは譲るしかないと思った。
でも自分の場合はその後にNPOの保護施設で会った子とご縁があって今は一緒に暮らしてるよ。
違うところで探すといいと思う。
保護猫の里親がどうのこうのっていう話題から、なんか違和感があって仕方がない。
人間の児童に対する「里親」は、実親の元へ復帰できるまでか、18歳になるまでの期間限定で養育することを指すよね。
動物の場合は「保護された動物を飼養する目的で引き取る者のこと」でいいの?
それって、「里親」じゃなくて「引き取り手」って言えば良くない?
「里親」って言われると、一定程度成長するまで飼養して、トイレなどの基本的なしつけを正式な飼い主が引き取るまでに身につけさせる人のことを言うのかと思ってた。
それなら確かに、条件として諸々求められるのは当たり前だと思う。人に慣れる必要があるし、食事やしつけを安定して提供しなきゃいけないし。
ただし、諸々の条件に合ったとしても、万が一ということはあり得るので、その時は保護施設がフォローする体制があるのかと思ってた。
でも、ネットでいくつか見てみたけど、どうも単なる引き取り手を「里親」と言ってる模様。
で、その「引き取り手」に対して諸々の条件を課している。
あのさぁ……その条件に合致するのがこの日本にどれくらいいると思ってるの?
そんなガチガチなことやってて、動物の保護活動は破綻しないの?
保護動物を多数引き取ってくれる裕福なご家庭があったとして、そこの一家が事故とかで飼うことができなくなったときはどうするの?
保護シェルターのキャパが全然余裕なら何の問題もないけど、そうじゃないんでしょ?
それなら、ガチガチの条件に合わなくても引き取り手として認めておいて、どうしても無理ということであればそのときにフォローするとか、もしくは、万が一の時のための保証人を設定するとかすればいいんじゃないか?
うちにも猫がいる。10年ほど前に、保護施設から引き取った子だ。一家全員で可愛がってる。
でも、「保護猫の里親になれる人の条件」でググったら、うちはその条件に合致しないんだ。
夫婦共働きと子供1人で、日中は仕事と通学で不在となるので、アウト。日中は一人でも家にいなきゃいけないんだって。
でもさ、うちの猫さん、気ままに過ごしてるみたいなんだよね。
トイレ掃除も朝と夜しかできないから、その点は申し訳ないと思う。
無責任な飼い主や虐待する飼い主とかはいなくなればいいと思うよ。でも、むやみに飼い主の条件を厳しくしても、いいことないと思うんだけどな。
たくさんの人が、気軽にお互いにフォローしあう仕組みを作れればいいのに。
そういえば、この子を引き取るとき、1週間くらいお試しをお願いしますって言われたな。
飼ってはみたものの、やっぱり無理ってなることもあるからって。
そーゆーのないのが普通なの?
第一条
この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。
第二条
1 学校は、国(国立大学法人法(平成十五年法律第百十二号)第二条第一項に規定する国立大学法人及び独立行政法人国立高等専門学校機構を含む。以下同じ。)、地方公共団体(地方独立行政法人法(平成十五年法律第百十八号)第六十八条第一項に規定する公立大学法人(以下「公立大学法人」という。)を含む。次項及び第百二十七条において同じ。)及び私立学校法(昭和二十四年法律第二百七十号)第三条に規定する学校法人(以下「学校法人」という。)のみが、これを設置することができる。
2 この法律で、国立学校とは、国の設置する学校を、公立学校とは、地方公共団体の設置する学校を、私立学校とは、学校法人の設置する学校をいう。
第二条第1項では「国」「地方公共団体」「学校法人」という3つの用語が新たに定義されている。
同第2項では「国立学校」「公立学校」「私立学校」が定義されているが、この時点で既に前の定義が使われている。単体ではこの条文は読めず、ここまでの4つの定義を持ってこなければならない。
VBで言うところのDim a = ~。JSで言うところのvar a = ~。
法律によっては第二条あたりに、以降で使う全ての用語を定義しまくるものすごく長い定義セクションがあったりする(例:所得税法)。初っ端にDimが何十行も続くコードのよう。
第二条
一 生活保護法(昭和二十五年法律第百四十四号)に規定する救護施設、更生施設その他生計困難者を無料又は低額な料金で入所させて生活の扶助を行うことを目的とする施設を経営する事業及び生計困難者に対して助葬を行う事業
二 児童福祉法(昭和二十二年法律第百六十四号)に規定する乳児院、母子生活支援施設、児童養護施設、障害児入所施設、児童心理治療施設又は児童自立支援施設を経営する事業
三 老人福祉法(昭和三十八年法律第百三十三号)に規定する養護老人ホーム、特別養護老人ホーム又は軽費老人ホームを経営する事業
四 障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成十七年法律第百二十三号)に規定する障害者支援施設を経営する事業
五 削除
ほとんど既に制定されている法律を引用しただけで、第一種社会福祉事業の定義を構成している。
Cで言うところの#include。Pythonで言うところのimport。require派でもusing派でもなんでもどうぞ。
第四条
1 次の各号のいずれかに該当する者は、所持しようとする銃砲又は刀剣類ごとに、その所持について、住所地を管轄する都道府県公安委員会の許可を受けなければならない。
四 国際的な規模で開催される政令で定める運動競技会のけん銃射撃競技又は空気けん銃射撃競技に参加する選手又はその候補者として適当であるとして政令で定める者から推薦された者で、当該けん銃射撃競技又は空気けん銃射撃競技の用途に供するため、けん銃又は空気けん銃を所持しようとするもの
1 法第四条第一項第四号の政令で定める運動競技会は、次の各号のいずれかに掲げるものとする。
二 アジア競技大会
2 法第四条第一項第四号の政令で定める者は、公益財団法人日本スポーツ協会(昭和二年八月八日に財団法人大日本体育協会という名称で設立された法人をいう。以下「日本スポーツ協会」という。)とする。
銃刀法では、銃砲刀剣を持つ許可をする相手を「政令で定める」とぼかしておいて、許可を与える仕組みだけを制定している。
つまり、枠を作ってあとからそれに当てはめるコードを書いているわけだ。
法律に定めるべき具体的な内容は、時代や情勢によっていくらでも変わっていくものだが、法律の改正は国会でいちいち可決しなければならないから手間がかかる。
それに対して政令であれば内閣が制定できるし、さらに下位の省令となれば省庁だけで完結できる。より偉い法律の立場からより小回りの利く政省令に委任することによってコードの柔軟性を保っている。
これは大規模開発にて分担してコーディングすることにずいぶんと似ている。
第八十九条
第九十四条
先に定義された条を、後に書かれた条が覆すことができるし、なんなら後から制定された全く別の法律が、急に他の法律を覆しにくることもよくある。
これはプログラミングにおいて、変数の値や状態を後から書き換えられることに似ている。あるいは、クラスのオーバーライド。
法令解釈では、ある条文を読むとき、その条文に書かれている全ての定義を参照先まで確認しに行き、他の条文に委任されている事項も全て調べ、その上、他の条文で覆されていないかも調べる。
プログラマーがデバッグしている時の動きに一致しているといっても過言ではないだろう。
酒税法(昭和二十八年法律第六号)の一部を次のように改正する。
第十条第一号中「若しくは第二号の」を「から第三号までの」に改め、同条第二号中「若しくは第二号」を「から第三号まで」に、「ついては、」を「ついては」に改める。
第十四条の見出し中「取消」を「取消し」に改め、同条中「左の各号の一」を「次の各号のいずれか」に改め、同条第三号を同条第四号とし、同条第二号の次に次の一号を加える。
法律は基本的に「~を改正する法律」を施行することで、このように改正を繰り返している。
単体の「新法」が新たに発生するのではなく、元の法律と差分を組み合わせて結果的に新法になるという仕組みだ。
感想要約
『天気の子』は"子どもたち"(陽菜さんと帆高さん)が自然災害と対立する話ではなく,実際には"大人たち"と対立する話であるという視点が大事だと感じた。
『天気の子』では"大人たち"や社会は,"子どもたち"と"世界の仕組み"のふたつを無視していることが描かれる。
そして偶然にもそのふたつを兼ね備える子どもたち,つまり世界の仕組みを担っていた子どもたち(陽菜さんと帆高さん)が,今度は今まで自分たちを無視してきた社会を無視するという決断をする。
この決断が天気の巫女をやめて東京沈没を選ぶということだった。
①自然災害は無慈悲かつ強力なので人々は受け入れるしかないが,天気の子を人柱にするなどの方法はあった。(これが"世界の仕組み")
②しかし世界のことに興味を持つ"大人"はほとんどおらず,大人の多くは自分の生活を優先していた。
同様に子どもたち(帆高や陽菜さんたち)を優先する大人もあまりいなかった。
児童保護施設は陽菜さんたちがあのまま暮らしたいという意思を無視した。
須賀さんも家出した帆高が東京で暮らすことを手助けしていたが結局は娘のために帆高を島に帰らせようとした。
③大人たちが良識的で常識的な対応を続けた結果,帆高たちは追い込まれてしまった。
帆高は一度は手に入れた3人暮らしの幸せをもう一度実現するために,人柱になった陽菜さんに対して帆高は自分たちが幸せに生きるために社会のことは無視しよう,と伝える。
④数年後に帆高が東京に戻ると,何人かの大人たちは東京沈没を受け入れている様子が見られた。(もともと海だった場所を埋め立てた土地がまた海に戻った,など)
これは①の自然災害は受け入れるしかないものという態度が一貫している。
帆高はこれで本当に良かったのかと自問する。そして自分たちならきっと大丈夫だと確信して終わる。
改めて,帆高と陽菜さんの決断はよかったかと考えるとあんまりよくはないだろう。
最も良い可能性とは大人たちが子どもたちのことを理解し,世界の仕組みを知り,一致団結して自然災害と対峙することだった。しかしそうはならなかった。
じゃあ陽菜さんの命と東京とでどっちが大事か,とか聞かれてこっちですとか言える人もあんまりいないだろう。それはつまり帆高のやったことが間違ってると言える人もあんまりいないということである。
そもそも帆高たちには人柱と東京を選ぶトロッコ問題のスイッチがたまたま与えられただけで(陽菜さんにとっては自殺か東京かを選ぶスイッチである),彼らは別に英雄や総理大臣とかじゃない。彼らが人々を助けなきゃいけない理由も特にない。
だがしかし陽菜さんは一度は晴れを届けるという形で人々と関わることを自分の生き方の形として納得していたので,陽菜さんにとって人柱になることはそういった生き方の延長線上にはあったかもしれない。
帆高の言葉は,そうやって新たに獲得できたばかりの天気の巫女というアイデンティティも捨てて生きていこうという提案だったわけだ。
この辺は前作の『君の名は。』より話が一段階難しくなっているなと感じる。『君の名は。』では,三葉は隕石から町を守るにあたって父親(大人たち)の協力を得られなかったが,結局子どもたちだけでうまく問題を解決することができた。
一方で『天気の子』では東京沈没はうまく回避できなかったし,世界の在り方だけでなく,これから陽菜さんたちはどう生きていけば良いのかという彼ら自身の問題まで提示されている。
『君の名は。』の話を出したので,『天気の子』含めこれら2作における"世界の仕組み"観についてちょっと振り返る。
これら2作では何か神様のようなものがもつ絶対的なルール(黄昏時とか入れ替わりとか天気の巫女とか)と,自然が持つ絶対的な脅威が関連している。
これらは新海誠監督の美しい自然の描写や生々しい街の描写によってより説得力を持つものになっている。
まず世界に都会(東京)と自然があり,そしてその両方を支配している絶対的なルールがある,というのが世界観の基本にある。そして2作ではその絶対的なルールに巻き込まれた若い男女がテーマとなっている。
都会と自然の中に同じ神秘的な仕組み現れるというのは現代のアニミズム的な思想を感じる。
『君の名は。』では神秘的な存在というのは,神の領域としてしか現れず,つまり肉体(?)を持つ神様のようなものが目の前に現れるということはなかったが,『天気の子』では雲の魚や龍のような存在が描かれていて,神秘的な存在の具体的な描写が新しく行われていると思った。あの龍みたいなやつかっこいい。
ちなみに雨が続くやつは台風ではなく巨大な寒冷前線(真夏に雪が降ったのも特徴)として描かれている。これは非現実的な災害として描かれていた。
『天気の子』の大人たちについて,彼らの対応が極端に間違ってたかというとそうでもないだろう。一応,陽菜さんが空に消えた夜に多くの人が陽菜さんが泣く夢を見たらしいが,それでも天気の巫女とか信じて行動するのは難しいだろう。
とくに刑事たちの働きぶりは淡々としていて彼らの思想が見えてこないと最初は感じたがむしろ仕事に内面が出ないというのがまさしく大人らしい態度だったのだろう。
高井刑事が帆高にイラついたり,安井刑事が泣いている須賀さんに声をかけるというシーンは彼らの人間味を出しているが,しかし彼らはとくに雨や天気の巫女については言及しなかった。(つまり世界の仕組みを認知していないあるいは興味がなかった)
その一方で,世界のことに興味があり,また就活中の身でありながら帆高や陽菜さんを助けるためにバイクでお尋ねものになってくれた夏美さんは"大人たち"には全く当てはまらない人物として描かれていると感じた。
夏美さんのこの作品における存在意義,特に就活に失敗するような描写がなんの意味をもっていたのか,夏美さんが持つ就活の問題が帆高たちとの関わりでどう変化したのか,あるいは変化しないならなぜそんなシーンを入れたのかを結構不思議に思っていたのだが,こう考えるとあのシーンは夏美さんが大人たちの側の人間ではないことを描写していただけだったのかもしれない。
ついでに帆高が銃持つ必要あったのかという疑問もあって,最初は陽菜さんの天気の巫女の力と対比するための帆高の力として与えられたのかな〜〜くらいに思っていたがあれもやはり帆高と社会の対立を深めるための舞台装置だろうと思っている。
『天気の子』は大人たちと子どもたちの対立を強調しているが,これらに当てはまらない大人も当然いた。
天気の巫女と人柱の仕組みについて知っている老人や,雲の上についてはしゃいで話す研究員などは世界の仕組みに関心のある人たちだった。また立花さんや天気の巫女の一環で関わった人たちのように,誰もが帆高たちの邪魔をしていたわけではない。
須賀さんについて振り返ると,家出の理由を明かさないがとにかく東京で暮らしたいという未成年の帆高の意思を初めて尊重し仕事と住処を与えたひとだった。しかしやがては帆高を匿うことのリスクを考えて,万札と帽子を渡し帆高に帰るように伝えた。
帆高の家出の理由は最後まで明かされなかったが,深刻な事情があるかないかに関わらず意思を受け入れるというのは尊重の仕方として正しい形だろう。
須賀さんは最後は帆高のもう一度陽菜さんに会いたいという心に,妻を亡くしもう一度会うことが叶わない自分と通ずるものを感じたのか,警察と対立し帆高を解き放つ選択をとる。
ここは帆高解放連盟のなかでも夏美さんや凪(先輩)たちとは全く違う動機を持っている感じがする。須賀さんはなんというか常に帆高を対象として動くキャラだなという感じがした。初対面でビールをたかるシーンからは想像できないキャラクターの広がり方だった。
そんな感じで『天気の子』はどうにもならない話だったという感じがあるが,帆高はまだ未来があると確信してたので今後に期待大。
帆高まとめ
お前の言っていることは一方的な決めつけばかりで、何ひとつ客観的な根拠がない
「なぜそれが差別だと言えるのか」については一切説明せず、「とにかく差別だから疑問を抱くな」というクソみたいな主張
まあ俺は民主国家の人間だから、法がトランス女性を女性と規定するなら認めるけど
そうでない限りは「テメーらが勝手に言ってるだけ」でしかないし、お前らのやってることはローリングが自分の意見と違うから攻撃するという、およそ不寛容で独善的な行いでしかない
あなたは、トランスジェンダーの差別問題について考えたことがありますか? 私は、常にじゃないですけど、結構長い間考えてきた問題です。
いわゆるセクシャルマイノリティと呼ばれる人達が、差別を訴えてきたことは周知の事実です。
わかりやすい例で言えば、保毛尾田保毛男事件がありました。最早あんな表現は許されない世の中になっているのですよ。だから猛批判を浴びました。
差別問題というのは一般的には、過去から未来へと差別が解消されていくという流れです。
黒人問題など言わなくても分かる話ですし、女性問題だってそうです。或いは、ハンセン病で差別されたり、障碍者も差別されてきました。
日本国憲法にも、趣旨として差別してはいけないと書いてあります。
差別は人権問題なのです。そして人権というのは近代に確立された概念です。現代社会は民主主義社会であることが当然なので、人権は何より大事な概念なのですよ。
バカにするような言い方で申し訳ないですけど、あなたはそんな事もわからないのでしょうか?
ネットでは、トランスジェンダーの人はトランス様、セクマイ様と呼ばれて今もなお差別が当たり前です。
増田でも、トランスジェンダーの友人が差別に耐えかねて自殺したという話も過去に上がっていました。ホントかどうか知りませんけど。
では何故、ローリングの言っていることが差別になるのか。どうして、猛批判を浴びているのか。元増田中に上げたリンク記事の中にはローリングの発言への反応のほとんどが批判だったと書かれていますよね。
エマ・ワトソン、エディ・レッドメインもJ.K.ローリングの反トランスジェンダー発言を批判 | cinemacafe.net
トランスジェンダーの人、あるいはセクシャルマイノリティな人は、自分たちがそうなりたくてなったわけじゃないからなのです。
黒人等の人種や民族、あるいは上で上げたような病気もそうです、そうなりたくてなったわけじゃない、自分自身のアイデンティなのです。
トランスジェンダーの人は、成長するに連れ、生まれた時に言われた自分の性別に対して、どうしても拭えない性別違和に気づきます。
例えばトランスジェンダー女性は、男として育てられ、男の服を着せられ、学校などでは男の中で過ごすうちに、どうしても自分が他の男とは一緒だとは思えなくなってくるのです。
自分がおかしいと思っても、全くこの違和感が拭えることはありません。
そんな話今時なら、全く珍しい話でもなく、聞いたことあるはずです。
どんなに頑張っても、自分が男だとはどうしても思えないのです。
ですから過去、病気とされていた時代でも、治療は男性に認識させ直すことではなく、ホルモン療法や或いは性転換手術などによって認識に一致させる方向で行われてきたくらいなのです。
しかし2000年代以降、そうした人達をトランスと呼ぶようになり、出来る限りそのままで認めようという流れになってきたのです。
別にそのままでいいじゃないか、治す必要などない、と。そこで性自認という考え方を重視するようになってきました。その自認こそが性別であるというわけです。
ところが、一部の人は頑強にこれを認めないのです。
例えば、カナダではとある女性保護施設が、いわゆる生物学的女性しか認めないと主張したために、トランス側からそれは差別だとして襲撃されたりしています。その後、カナダ政府はトランス女性を排除しないように命じています。
今すぐ思い出せる象徴的な事例はそれくらいですけど、差別的に思われてきたことは保毛尾田保毛男が昔は容認されていたことから分かるでしょう。
まだまだ、差別解消の途上ですし、そんなに理解されているとは思いません。戸籍上の性別変更だって手術要件は消えていませんし。
だから、あなたのような人がいても不思議ではありませんが、頭の片隅にでも、そういう差別を言っている人がいるのだなぁくらいには理解してもらえたら幸いです。
生活保護で女の方が多いのは70代以上だけで、60代以下は軒並み男の方がずっと多い
(70代以上が多いのは若い頃年金が強制加入じゃなくて女に年金は不要とされてたせいで無年金者が多い&夫に先立たれる妻の方が逆より多いからってだけ)
女の方が少ない上に、DV被害者なんかの保護でも使われているからガチで自力生活出来ない人ってのはもっと少ないわけ
女の方が貧困率高い割に、国の保護がなければ暮らせないくらいまで落ちぶれる人は少ないんだよな
勿論女でも歳食ってりゃ水商売や風俗なんかでは働けないし身体目当ての男に囲われる事も少ないだろうけど、それでも自力で何とか出来る人が大半ってことだ
犯罪者も多いしな
グレタ・トゥーンベリさんの「未成年の盾」、今のところ堅牢な性能/日本では「フルメタル・パニック! 」作者の賀東招二氏のツイート、ブラジルではボルソナロ大統領の「ピラリャ」発言が注目を集める
https://togetter.com/li/1441615
フルメタの作者が残念な人間であるのは当時から割と知られた話なので、またやらかしたのか(呆)程度にしか思わないけど、何時もながら相も変わらず、この手の左翼団体が子供を盾にして、反論やらを潰す道具にしている点は本当に悪質だなと思う。
弱者を盾にしたら、世間も反論をしにくい事を最大限悪用しているのが、この手の左翼やリベラル組織または宗教系団体なのは事実だからね。
日本でも共産系や宗教系もこの手の弱者の盾を良く使っていたし、その顕著な例が特に10年ほど前の児童ポルノ禁止法からの一連の騒動だったと思う。
あの時は本当に子供の権利を規制推進側が盾にしまくって、完全に反論を潰しにかかった挙句、規制ばかり推進して、児童保護施設への予算を一切付けないと言う悪質な行為をしでかしたからな。
そして児童ポルノに関しては海外では今だにセックスドール規制等と言い、子供の権利を盾にしているから悪質だよ。
漫画規制した結果、後の結果を見ても逆に実在児童被害が増えた事実から規制は逆効果であったと言えるのにね。
本当にこれら子供を盾にする様な大人が一番悪質な連中であると思うよ。
彼等のせいで冷静な指摘すら潰され続けてきたのは事実。
しかしこの環境問題と言い、子供の権利委員会と言い、今や国連は単なる左翼活動家やカルト活動家の集会場でしかないなと見ていて思うよ。
普通に国家としてはこれら国連への分担金を未払いする事こそ正常な行動ではないのか?と昨今の国連の異常な行動を見ていて強く思う。
冗談抜きでこの子供の盾はラディカルフェミニスト団体やカルト宗教やこの手の左翼団体が悪用し続けた歴史があるから、いい加減なんとかしてほしいもの。
しかしこの手のリベラル左翼っぽい政治活動家がこの環境問題に絡んでから、本気でこの分野おかしくなったんだよな。
太田啓子をはじめとした日本赤十字社への攻撃続行により、実在人物を用いた献血キャンペーンにも影響が出かねない?
https://togetter.com/li/1440910
少し前のゲンダイの社会学者のお気持ちでもそれは判ったしなー。
フェミに関しては率直に言って、完全に引き際を見誤っている状態。
博打で言う所の負け続けて、いい加減切り上げないと本気でやばい所まで来ているのに借金をしてまでやり続けて、自分では止められない状態に入っている。
コレ、フェミ当人達は当時の成功体験から公共だの破廉恥だの言い続けていれば、世論が味方に付くと楽観視しているけども騒げば騒ぐ程、フェミ達自身の倫理観の無さが世間に表面化されてしまっている状況に入っているのだけどね。
言わば、この人達はお気持ち優先の為ならば、他者の命すらどうでも良いと言っている様なものだからね。
ただその傾向は当時の子供の権利を盾にして、規制ばかり推し進めて、結果保護施設の予算がつかなかった過去の経緯からでもバレてはいるのだけどさ。
これに気づいていないのは当人達だけだよ。
もしこれでマイナスの結果を叩き出せば、それこそフェミの責任問題になるのだけど、当人達はそれこそ増長しきって、世論は私達の味方と慢心しきって楽観視しているから、もしその様な事を起きても他罰的主義なのもあって、どうせオタクが悪いとか責任転嫁をし始めるよ。
断言しても良いよ、この辺は。
多分ここまで下らない話題に粘着して、同じ話題を攻撃し続けるのはそのたかがオタクごときに負けたと言うプライドの高さから来るのかも知れないね。
ここは集合知に頼ろう。
ジャン・レノ主演。イタリアかそこらへんのある街に、映画のキャストを発掘する為にきた彼はオーディションを開催す。
参加者からオーディション費用を徴収するが、実はペテンで映画もオーディションも嘘。
そうとは知らず街の人々は明日の大スターを夢見てオーディションにくる。
ある人は、街のフィクサーであり武勇伝を語り、またある人は同性愛者である事を隠しながらも銀幕デビューを夢見る。
少し知的な障害を持つ少女と出会って惹かれ合うが、彼の嘘が街中に知れ渡ってしまい袋叩きと刑務所行き。
出所してきた時には、彼を迎え入れる者はおらず、かつて愛した少女は彼がいない間に男たちのいい玩具として扱われ、心を壊して修道院の保護施設で暮らしていた。
....っていうのを覚えてるんだけど、誰かタイトル知らないですかね?