感想要約
『天気の子』は"子どもたち"(陽菜さんと帆高さん)が自然災害と対立する話ではなく,実際には"大人たち"と対立する話であるという視点が大事だと感じた。
『天気の子』では"大人たち"や社会は,"子どもたち"と"世界の仕組み"のふたつを無視していることが描かれる。
そして偶然にもそのふたつを兼ね備える子どもたち,つまり世界の仕組みを担っていた子どもたち(陽菜さんと帆高さん)が,今度は今まで自分たちを無視してきた社会を無視するという決断をする。
この決断が天気の巫女をやめて東京沈没を選ぶということだった。
①自然災害は無慈悲かつ強力なので人々は受け入れるしかないが,天気の子を人柱にするなどの方法はあった。(これが"世界の仕組み")
②しかし世界のことに興味を持つ"大人"はほとんどおらず,大人の多くは自分の生活を優先していた。
同様に子どもたち(帆高や陽菜さんたち)を優先する大人もあまりいなかった。
児童保護施設は陽菜さんたちがあのまま暮らしたいという意思を無視した。
須賀さんも家出した帆高が東京で暮らすことを手助けしていたが結局は娘のために帆高を島に帰らせようとした。
③大人たちが良識的で常識的な対応を続けた結果,帆高たちは追い込まれてしまった。
帆高は一度は手に入れた3人暮らしの幸せをもう一度実現するために,人柱になった陽菜さんに対して帆高は自分たちが幸せに生きるために社会のことは無視しよう,と伝える。
④数年後に帆高が東京に戻ると,何人かの大人たちは東京沈没を受け入れている様子が見られた。(もともと海だった場所を埋め立てた土地がまた海に戻った,など)
これは①の自然災害は受け入れるしかないものという態度が一貫している。
帆高はこれで本当に良かったのかと自問する。そして自分たちならきっと大丈夫だと確信して終わる。
改めて,帆高と陽菜さんの決断はよかったかと考えるとあんまりよくはないだろう。
最も良い可能性とは大人たちが子どもたちのことを理解し,世界の仕組みを知り,一致団結して自然災害と対峙することだった。しかしそうはならなかった。
じゃあ陽菜さんの命と東京とでどっちが大事か,とか聞かれてこっちですとか言える人もあんまりいないだろう。それはつまり帆高のやったことが間違ってると言える人もあんまりいないということである。
そもそも帆高たちには人柱と東京を選ぶトロッコ問題のスイッチがたまたま与えられただけで(陽菜さんにとっては自殺か東京かを選ぶスイッチである),彼らは別に英雄や総理大臣とかじゃない。彼らが人々を助けなきゃいけない理由も特にない。
だがしかし陽菜さんは一度は晴れを届けるという形で人々と関わることを自分の生き方の形として納得していたので,陽菜さんにとって人柱になることはそういった生き方の延長線上にはあったかもしれない。
帆高の言葉は,そうやって新たに獲得できたばかりの天気の巫女というアイデンティティも捨てて生きていこうという提案だったわけだ。
この辺は前作の『君の名は。』より話が一段階難しくなっているなと感じる。『君の名は。』では,三葉は隕石から町を守るにあたって父親(大人たち)の協力を得られなかったが,結局子どもたちだけでうまく問題を解決することができた。
一方で『天気の子』では東京沈没はうまく回避できなかったし,世界の在り方だけでなく,これから陽菜さんたちはどう生きていけば良いのかという彼ら自身の問題まで提示されている。
『君の名は。』の話を出したので,『天気の子』含めこれら2作における"世界の仕組み"観についてちょっと振り返る。
これら2作では何か神様のようなものがもつ絶対的なルール(黄昏時とか入れ替わりとか天気の巫女とか)と,自然が持つ絶対的な脅威が関連している。
これらは新海誠監督の美しい自然の描写や生々しい街の描写によってより説得力を持つものになっている。
まず世界に都会(東京)と自然があり,そしてその両方を支配している絶対的なルールがある,というのが世界観の基本にある。そして2作ではその絶対的なルールに巻き込まれた若い男女がテーマとなっている。
都会と自然の中に同じ神秘的な仕組み現れるというのは現代のアニミズム的な思想を感じる。
『君の名は。』では神秘的な存在というのは,神の領域としてしか現れず,つまり肉体(?)を持つ神様のようなものが目の前に現れるということはなかったが,『天気の子』では雲の魚や龍のような存在が描かれていて,神秘的な存在の具体的な描写が新しく行われていると思った。あの龍みたいなやつかっこいい。
ちなみに雨が続くやつは台風ではなく巨大な寒冷前線(真夏に雪が降ったのも特徴)として描かれている。これは非現実的な災害として描かれていた。
『天気の子』の大人たちについて,彼らの対応が極端に間違ってたかというとそうでもないだろう。一応,陽菜さんが空に消えた夜に多くの人が陽菜さんが泣く夢を見たらしいが,それでも天気の巫女とか信じて行動するのは難しいだろう。
とくに刑事たちの働きぶりは淡々としていて彼らの思想が見えてこないと最初は感じたがむしろ仕事に内面が出ないというのがまさしく大人らしい態度だったのだろう。
高井刑事が帆高にイラついたり,安井刑事が泣いている須賀さんに声をかけるというシーンは彼らの人間味を出しているが,しかし彼らはとくに雨や天気の巫女については言及しなかった。(つまり世界の仕組みを認知していないあるいは興味がなかった)
その一方で,世界のことに興味があり,また就活中の身でありながら帆高や陽菜さんを助けるためにバイクでお尋ねものになってくれた夏美さんは"大人たち"には全く当てはまらない人物として描かれていると感じた。
夏美さんのこの作品における存在意義,特に就活に失敗するような描写がなんの意味をもっていたのか,夏美さんが持つ就活の問題が帆高たちとの関わりでどう変化したのか,あるいは変化しないならなぜそんなシーンを入れたのかを結構不思議に思っていたのだが,こう考えるとあのシーンは夏美さんが大人たちの側の人間ではないことを描写していただけだったのかもしれない。
ついでに帆高が銃持つ必要あったのかという疑問もあって,最初は陽菜さんの天気の巫女の力と対比するための帆高の力として与えられたのかな〜〜くらいに思っていたがあれもやはり帆高と社会の対立を深めるための舞台装置だろうと思っている。
『天気の子』は大人たちと子どもたちの対立を強調しているが,これらに当てはまらない大人も当然いた。
天気の巫女と人柱の仕組みについて知っている老人や,雲の上についてはしゃいで話す研究員などは世界の仕組みに関心のある人たちだった。また立花さんや天気の巫女の一環で関わった人たちのように,誰もが帆高たちの邪魔をしていたわけではない。
須賀さんについて振り返ると,家出の理由を明かさないがとにかく東京で暮らしたいという未成年の帆高の意思を初めて尊重し仕事と住処を与えたひとだった。しかしやがては帆高を匿うことのリスクを考えて,万札と帽子を渡し帆高に帰るように伝えた。
帆高の家出の理由は最後まで明かされなかったが,深刻な事情があるかないかに関わらず意思を受け入れるというのは尊重の仕方として正しい形だろう。
須賀さんは最後は帆高のもう一度陽菜さんに会いたいという心に,妻を亡くしもう一度会うことが叶わない自分と通ずるものを感じたのか,警察と対立し帆高を解き放つ選択をとる。
ここは帆高解放連盟のなかでも夏美さんや凪(先輩)たちとは全く違う動機を持っている感じがする。須賀さんはなんというか常に帆高を対象として動くキャラだなという感じがした。初対面でビールをたかるシーンからは想像できないキャラクターの広がり方だった。
そんな感じで『天気の子』はどうにもならない話だったという感じがあるが,帆高はまだ未来があると確信してたので今後に期待大。
帆高まとめ