はてなキーワード: バラエティ番組とは
そりゃ、昔から高学歴芸能人だのがクイズ番組で一定の地位を占めていたけど、自分から「東大出身です」って看板掲げてメディアに露出することがめちゃくちゃ増えたと思う。
まあそれ自体はいいとも悪いとも思わないけど、問題はさ、使われかたがしょぼいのよ。
「最高の頭脳たちが答えの出ない難題を考え抜きます」とか、「〇〇といった社会問題について東大出身者どうしが議論を交わします」とかなら分かるけど、だいたいがクイズ番組や雑学番組の回答者でさ、言っちゃえばウィキペディアとかグーグル検索の代替品なわけさ。
なんか悲しくなってこないか?
東大なんて全高校生のあこがれでさ、ここに入りたいがために人生の全てを勉強に捧げてる子たちが何万といるわけよ。そんな雲の上の人が、東大ブランドをメディア露出のために安売りしてるってちょっと空しく感じてしまうわ。
とはぶっちゃけ思ってないけど、「コロナ禍ならではだな〜」という構成って記憶に残るなと思ってまとめてみた
だいたいなんでも
相撲も力士同士がぶつかるバチーン!みたいな音が響いて迫力満点
音楽系は観客の反応ありきで考えてたのかなみたいなパフォーマンスも無きにしもあらずでちょっと寂しいときがある
ゲストは自宅から中継!とかよりも通信が安定してて良い、映像もきれい
全く違和感なく馴染む
撮影で作ったぶんはどうなるのかな…というのは少し気になる。シェフが自分で食べてるのかな
料理番組系は工夫を全面に出した構成の番組も多くて楽しい、美味しそうすぎて外食したくなるのが玉に瑕
中断後のエールとか、初期はちらほらあった気がするが
ソーシャルディスタンスを逆手に取って「個室にいる何人かの行動をそれぞれ観察する」みたいな演出とか、すごいアイデア〜!と感動した
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
テレビ様にはかなわんやろ。
(これを書いてから調べたらYouTubeの利用率はテレビより高そうだった。勢いで書くのはよくない。)
いわば同接数百万人の配信やでアレ。
その反動でみんな反抗期の子供みたいに「テレビはオワコン」ゆうとるだけで
YouTuberがやってる企画なんてバラエティ番組のパクリばっかりやろ。
オタクも「テレビ要らん」とか言いながらテレビ局の作ったアニメを配信サイトで観とる。
新聞を馬鹿にしながら新聞社がYahooに配信してるニュースに毎日大騒ぎしとるように
テレビ局が作っとるコンテンツにどっぷり浸かってこれからも生きていくんやろネット民は。
気張りや。
YouTubeでバラエティ番組の動画をぼーっと見てたんだけどさ、お笑い芸人って声でかくね? なんであんな声出んの? なんかトレーニングでもしてんの?
ダウンタウンとかめっちゃ通る声してる。ウッチャンとかも聞き取りやすい声だなーって思う。司会する人たちは声が良いんだろうか
俳優や声優だったら稽古してるからだろうなーって想像がつくんだけど、お笑い芸人に関してはよくわからん。いや彼らも稽古や練習はするだろうけど、発声メインではないでしょ。知らんけど
常に声出す仕事だから声でかくなるって理論もシンプルだけどいまいち納得度に欠ける。つーかあれかなー、声がでかい奴がお笑い芸人になるのかなー、わかんねえけど
自分は昔から何を喋っても聞き返されるタイプの人間だったので素直にうらやましいと思うし、自分もああいう風になれるならなりたい
私が料理を始めたきっかけは、母親の料理がまずいと感じたからだ。
大人になった今は、母親と味の好みが合わないというだけで、母親の料理がまずかったわけじゃないと思うのだが、当時はそれが分からず「まずいから自分で作りたい」と言ったら、母親が激怒してしまった。「お前の分はもう作らない!」と宣告されたので、それから自分で作るようになったのがきっかけだ。
作り方が分からなかったので、テレビのきょうの料理のレシピをそれどおり作ってみたら、美味しい料理が魔法のようにできた。
「もっと美味しいものを食べたい」という欲が高まった私は、テレビで美味しそうなレシピが紹介されたらホームページをチェックし、レシピを作ってみた。特に美味しかったのは、当時フジテレビで土曜か日曜にやっていた、マツケンが出ているバラエティ番組のレシピだった。あれはたぶん、マツケンがプライベートで食べたお店(しかも高級な)の料理を自分で再現するのが趣味で、それを番組でやってくれたのだと思う。凝っているが、再現不可能まではいかず、わかりやすい解説で、どれも本当に美味しい、素晴らしい企画だった。高級料理系としては、当時スマスマのビストロスマップもあったが、あれは完全にプロの料理だったので、食材も手法も再現不可能だった。
このころ、私の味覚は決まったと思われる。以下は今でもこの人なら何食べても美味い料理人(をする人)だけど、年代が当時に集中してる。そして「きょうの料理」率高め。
・松平健(なんでも)
・笠原 将弘(和食中心)
本当は、韓国の高級料理にも興味あったんだよなぁ。冬ソナ全盛時代で、セブンイレブンのヨン様プロデュース弁当2000円が、中華と和食の間の味がして面白くてさぁ…今からやってみようかな。
味覚が合わなかったレシピもあるけど、合わないって思った理由は、当時若かったせいもありめっちゃくだらなくて、味付けが脂っこくて濃いと清潔感がなくてムリと思ったし、調味料がマヨネーズ、ポン酢、バター、柚子胡椒の人もダメ、和食なのに洋食の調味料を混ぜる人もイヤだった。
前段は納得できるんだけど、中段から?ってなる。
サンデープロジェクトも太田総理も放送が終わったのは2010年、思いっきり民主党政権下なんですが。
【追記】
えっと、なんかブコメに引用されて、以下のようなブコメがあったみたいなので答えておきますね。
id:camellow TVタックル等の終了と自民党を関連付けた記述はないのに鬼の首を取ったようにそこを突っ込むのは読解力なさすぎでは
元増田は
しかしそうした番組が野党を利することに気づいた自民は、政権復帰後に議員のテレビ出演を極度に制限するようになった。また懐柔と圧力を巧みに使い分けて、野党議員だけの一方的な出演を許さなくなった。
と書き、その前段で、
しかし2010年代になってから、「サンデープロジェクト」「太田総理」は消滅し、「TVタックル」も政治家がほとんど出演しなくなった。「朝まで生テレビ」ですら、政治家の出演はかつてに比べて激減している。
と書いている。時系列を知らない人間であれば、自民党政権が与党に復帰した後に政治バラエティ番組に圧力をかけ、野党を含めた政治家が出演できなくなった。その結果、「TVタックル・朝まで生テレビ」は政治家の出演が激減し、「サンデープロジェクト・太田総理」は消滅した、と解釈するだろう。
政治バラエティ番組がなくなった・減った→野党議員の露出が減った→野党議員の認知度が減った
ならわかるよ?それはそうだと思う。
でも元増田はそこに「自民党政権の圧力」を加えちゃったんだから、どれに対して圧力があったのか書かない限り例示されているものすべて、つまり「サンデープロジェクト・太田総理」を含めて「自民党政権の圧力」で終了に追い込まれた、って解釈するのが普通だと思いますけどね。
これらと自民党政権が無関係だというなら、自民党政権が圧力をかけたという番組を例示するべきだろう。
一応念のために言っておくと、元増田が嘘をついている!とまでは思ってませんよ?
「女性の方が恵まれている、男の方が割を食っている」と感じている男がかなりいることは、近年SNSなどで可視化されている。
断っておくと、政治や経済などのマクロなレベルで女性が差別されているのは間違いない。これは強調してもしすぎることはない。
では「女性の方が恵まれている」のは、なんの根拠もない言いがかりなのかというと、そういうわけでもない。ミクロなレベルでは、女性の方が恵まれているように錯覚する要因が確かに存在するからだ。
恋愛市場においては、女性が選ぶ側で、男性は選ばれる側なっていることが多い。恋愛漫画や恋愛ドラマ、ねるとん系の恋愛バラエティ番組、ほとんど全てが「女性が男性を選ぶ」という設定になっている。選ばれる可能性の低い男性からすれば、女性に恋愛の決定権があるように見える。
グルメ、旅行、ファッションの広告とサービスは、圧倒的に「女性向け」につくられているものが多い。テレビでよく紹介され、とくに最近増加しているカフェや雑貨店は完全に女性向けで、中年男性が一人で訪れるようなものではなく(かつての「喫茶店」はむしろ中年男性向けの雰囲気だった)、むしろ「小汚い中年男性」が決して近づかないような雰囲気になっている。男性向けの消費はあったとしても、車のような高額なものばかりで、金のない男性からすると女性が中心の消費の場から排除されているように感じる。
結婚している男性の大部分も、家計の財布は女性が握っており、少なくとも日常的な買い物や消費に関しては、男性の決定権は小さい。このことは、上述の消費文化の女性中心主義にも大きく影響している。
確かに正規労働の世界では、マッチョな長時間労働と飲み会文化などで女性が排除されている。他方で非正規労働の世界は女性が主流で、非正規公務員などの事務仕事については完全に女性が独占しており、男性の非正規は身体的負担が大きい3k労働に限られている。そして残念なことに、パート主婦で非正規中年男性に対する侮蔑感情を持っている人は多く、パート主婦の多い非正規の仕事につくと、かなりの確率でいじめに遭う。
出典は『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判2』(2004年、洋泉社)、発言者を「町山」及び「柳下」と表記。記述形式は
[ページ数]
(初出)
です。
[p117]
【※】金正日(※FBBの対談収録当時)の北朝鮮についての話から。
町山:資源は喜び組だけだから(笑)。あ、でも金正日は彼女たちを楯にすればいいんだね。
柳下:美女の楯ですか(笑)。それって撃ちにくいかも。もったいなくて。
町山:アメリカ軍はちょうど軍隊内で問題になっているゲイの兵士を集めて、ホモホモ部隊を作ればいい。
柳下:美女が全裸で出てきても何も感じなくてバンバン撃っちゃうの(笑)。
町山:で、最後に金正日を捕まえて、チビ・デブ・フケ専の兵士たちがウホウホ言いながら輪姦。CNNはぶっかけ百連発食らって廃人と化す金ちゃんの顔を全世界に生中継。
【※】「問題になっている」と云う表現は、米軍当局者の中にそう考えている人間がいるだけでなく、町山智浩自身もそれに同調して「同性愛者の存在が『問題』である」と考えていることを示唆しています。
【※】テレビのバラエティ番組も同じようなことをしていますが、こういう「同性愛者の存在や行動」を「ストレートの人間に対する『嫌がらせ』や『罰ゲーム』の手段に利用しよう」と云う発想や発言は、同性愛者に対する社会の偏見と差別を助長する明らかな悪行だと私は思います。
(初出『映画秘宝』03年vol.42)
【感想】
町山智浩らの同性愛者に対する差別的な言動は、決して『済んだ過去の話』ではなく『現在も続いている話』です。
この投稿は以上です。
anond:20210301102544 LGBTを嫌う自由はあるのか、に対する b:id:muchonov 氏の意見 anond:20210302093544 について、
結論に関しては同意しなくは無いものの、やはり倫理学的にみてロジック部分に引っかかる部分があったので指摘 & 自分の意見を書きます。
マジョリティがマイノリティーに対する嫌悪を公開することを悪的行為としているが
そもそもマイノリティーがどっからマイノリティーなのか、というのは実は非常に曖昧ですよね。
日本においては男女の人口比は 49:51 なので この論だと「男は嫌い」という意見も差別ということになってしまいますよね。
(もちろん、はてぶで見る過度なブコメはまずいと思っていますが)
そもそもマジョリティもマイノリティーも切り取るコンテキストによって大きく立場が変わりますよね。
前述したように切り取るコンテキストによって勾配の傾きは変わる以上、ロジックとしては非常に危ういんですよね。
何より、その理屈でいえばマイノリティーがマイノリティーに対する嫌悪は問題ないということになるのでは。
ゲイ本人が自身のもつ特性に嫌悪感がありそれをもって「ゲイの人間はクソだ」と言うのは問題ないんですか?
むしろその属性が持つ本人がいうことにより、偏見が社会的に強まりません?
表現をするものの属性のみによってその表現の道徳性が変わるのは倫理学的におかしいですよね。
だから社会的少数派へ嫌悪を表明してはいけない、というロジックはいささか問題ありますよね。
内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ
まるで性的マイノリティは内心の自由すら無いような表現だけど余計なお世話。
本当に余計なお世話。
なんで他の人と違うんだろうとか自分が受け入れてもらえないとか悩むけど、その悩みがあることと内心の自由の権利の有無は別の話。
社会的抑圧のせいで自分の性を肯定できないでしょ、って言わんばかりの上から目線というか。
マイノリティーだから内心の自由が制限されているはず、という id:muchonov 氏の意見の方が内心のあり方に関する干渉にしか感じられない。
そこは人によって違うし性的にマジョリティであっても様々な要因でうまくいかない人もいるはず。
(突き詰めていくと自己決定はどこからか、という話になるんだけどそれを言い始めると全ての人に話がおよびますよね)
もちろん、嫌いの公言の仕方にもよります。なんらかの先入観や偏見を伴った言説を元に嫌いだとか排斥運動するのは
あと、「LGBTを禁止する社則/校則を作って欲しい」とか言ったりするの。
でも、そうーいうのをさけ、「男のくせに女の格好しているのは嫌いだ」とかの話は
ただ、この日本においてはTVのバラエティ番組などでLGBT、
というか特にホモセクシャルは面白おかしく扱われ、自分の性的指向を公開することをためらわせる
exclusive な流れがあった/ある、ということはご理解いただけると思います。
「私たちはあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する
とまでは言う気は無いものの、やはり結構きついものがあります。
なのでできたらやめて欲しいのです。
これを強制するつもりは無いですし、なによりできないでしょう。
何が言いたいかというと、あなたがLGBTを嫌いであったとしても敬意を持って欲しいということです。
敬意持って欲しいとは偉いと思ってくれってことではなく、僕もあなたと同じように仕事をしたり、遊んだり、
日々いろんな悩みを持って駆け回ったりしていて
ただ性自認があなたの想像と違うだけでそれ以外はほとんどあなたと同じ人間である、ということを認めて欲しいということです。
本来、多様性やダイバーシティとか言われることの根幹はそーいうことですよね。
だから、id:muchonov氏の元増田の考えを悪と断罪する考えは同意しませんし、
これはNiziUの話である。NiziUを知っている、なんなら詳しい人が読んでいる体で書いているので、そこはよろしく頼む。
リクの話がしたい。NiziUのエネルギッシュなリスこと大江梨久さんの話だ。18歳の溌剌とした女の子で、関西弁で話し、飾らずによく笑いよく怒りよく泣く子だ。歌に定評があり、サバイバルオーディション番組では素人にも関わらず第二位でデビュー権を勝ち取った逸材でもある。
そんなポテンシャルの塊なので、当然リクの人気は高い。Nizi Projectから追いかけていた私としては、リクが当然センターで一番人気になると思っていた。いや、一番人気はビジュアルクイーンと目されるアヤカか、可愛いの天才ミイヒかもしれないが、いわゆる努力家で、ひたむきで、むき出しの、応援したくなるアイドルとしてはリクが一番で、そういう売り方になると思っていた。
オーディション番組の最終回で一人だけブルーの髪をしてセンターに立つリクを見た時、Make You Happy(以外メキハピ)のサビを歌うリクを見た時、私は自分の見立てが間違っていなかったと思った。しかしながら、同じメキハピの中で、やけに目立つ子がいるのにも気づいた。マユカだ。
マユカはリクの親友で、なにかと好成績だったリクとは異なりいつも脱落寸前、大人しくて主張の薄いタイプの子だと思っていた。最終回近くでようやく個性を出して、そこから巻き返してデビューにこぎつけた。
デビュー後も、マユカは大人しい、優等生路線だと思っていた私は、メキハピのPVの中で金髪に染めて垢抜けた、滑舌良くラップをする可愛い女の子を見た時に、ギョッとしてしまった。これまでの薄味のマユカとギャップがありすぎる。そして、マユカは垢抜けたビジュアルやラップのセンスの良さに加えて、ひたむきな性格(なにせマユカはダンスレッスン代を自分のバイト代で賄っていた)、ドラマティックな出自(マユカはオーディション補欠合格→一次審査の東京合宿で脱落寸前からの合格→最終審査まで成績が振るわなかった中でのデビュー)の効果もあってか、デビュー後に一気に人気を博した。それこそ、リクの人気を追い抜くくらいに。
リクはマユカが大好きで、マユカの成績が振るわないことを我ごとのように悲しんだり、合格した時も号泣したりしていた。一方のマユカもリクのことが好きで、二人は親友、リクマユコンビ🖤なんて呼ばれている。でもリクよ、マユカはお前がなるはずだったシンデレラガールの座にどっかり座り、大量のファンを獲得している。本来、素人から二位で合格したリクこそがシンデレラガールと呼ばれるべきだし、ひたむきで頑張り屋さんの応援したいアイドルは、リクのキャラクターであるはずだ。
マユカはカメレオンと呼ばれ、曲によって雰囲気が変わるのが持ち味と言われているが、マユカの人気はミステリアスさよりも好感度、親しみやすさ、懸命さに基づいている。「マユカは曲によって表情が一変するのに、素の状態だと素朴でかわいい、いい子なんです」とファンたちはマユカに酔いしれる。一方のリクはエネルギッシュなリスというキャッチフレーズの通り、愛嬌があり明るいムードメーカーのような位置付けであるが、しかしながらそのポジションは激戦区だ。セレブ美女ラッパーのリマも、トップダンサーでクールな美人のリオも、歌がうまいハーフ美人で末っ子のニナも、「明るくて愛嬌がある」と形容されている。しかもこの三人は、それぞれラップ、ダンス、歌と抜きん出るものがあり、ビジュアルがツンとした美人にも関わらず、「明るくて愛嬌がある」のだ。そんな中だと、リクだけは見たままズバリ「明るくて愛嬌がある」タイプである(リクはたいそう愛らしい顔立ちをしているが、美人というタイプではないのでギャップはない)。また、リクは歌が上手いというのもその通りだが、歌が上手いメンバーは前述のニナも、人気一位二位を争う可愛いの権化ミイヒ、オールマイティリーダーのマコもいる。バラエティに強い、という意見もあるが、NiziUは韓国に滞在する時間も長いので、日本のバラエティ番組に特化しているのがどの程度役に立つのか、現状は不明である。つまり、リクは本来、「シンデレラストーリーでここまでやってきた、一生懸命な女の子」のキャラを手放すべきではなかったのだ。
リクは毎日楽しげだ。顔中でニコニコ笑っている。最近は垢抜けて、お姉さんらしい雰囲気も出てきた。しかし、歌割も減り、段々と役割が薄れていくリクを見ていると、歯噛みしたい気持ちになる。マユカは新曲でラップのみならず、サビまで歌った。ここまできたら逆にリクがマユカの担当であるラップを代わりにやるしかないのだが、リクのラップはまだ披露されていない。リクは、アイドルらしいアイドルだ。余白があり、1年後には見違えるような進化を遂げるポテンシャルを秘めている。そういうリクが、9人の真ん中に立つ姿が見たいのに、マユカの人気を見ていると、なんとなく不安になる。リクよ、リクペンよ、「リクマユ🖤」とか言っている場合ではない。ここが踏ん張りどころだ。リクを推してくれ。シンデレラガールはリクだと自覚してくれ。なお、筆者はアヤカ推しだ。