はてなキーワード: ねるとんとは
これはとても疑問に思う。調べてもこのことについて言及する資料はほとんど見当たらない。あっても需給バランスの問題で片づけられてしまう。そういう表層的な次元の話をしたいのではなく、深層にある社会構造に切り込んでいかないと無意味だ。日本の女性が受け身であるとはよく言われるが、これにはいくつかの理由があると思う。
①社交文化の未発達
まず①だが、日本には見知らぬ他人と交流するいわゆる社交文化が発達していないと言われている。海外では社交パーティなどは日常的に行われているが、日本ではまだまだそういった場は少ない。これが日本人女性(男性もだが)が恋愛に積極的になれない理由の一つになっているのではないだろうか。
次に②だが、「ねるとん」は1987年に放送開始された集団お見合いをコンセプトとしたバラエティ番組だ。この番組では、アプローチを男性が女性に行うのが定番の流れになっており、「男性=アプローチする側 女性=アプローチを待つ側」 という構図を若い世代に普及させたという説がある。
最後に③だが、「男は外で仕事をし、女は家庭を守ること」が昭和のある時期までは社会通念となっていた。その結果、家庭に入ることが前提とされる女性の賃金は低く抑えられ、男女の賃金格差が生まれたとされる。もちろん今では性別役割分業はほとんど遠い過去のものと言っていいだろうが、こうした半ば形骸化したシステムが人々の意識の上ではまだ残っており(男は女を守るもの! 男は女に奢るもの!)、それに①と②が加わり、マッチングアプリにおける女性無料という優遇措置がとられているのではないだろうか。
フェラチオ得意ですか?
と尋ね返すのはどうだろう?
たとえば隣家や同僚に年収を尋ねられないのと同じで性生活も尋ねることはできないですよね普通
ふたつ並べてみると、答えないと不誠実に感じるではありませんか
もはや男が稼いで女が家を守る時代ではないですよね
ふたりで良い家庭を築くことです
「フェラチオは得意ですか?」という質問に対する答えはたくさんのことがわかります
家庭を築くにあたって避けて通れないとてつもなく大事な性生活への取り組みがわかります
子供を何人欲しいといういにしえにあるクッション質問の答えにもつながりますが、相変わらず人間にとって大きな娯楽としてセックスがあります
子作りのためのセックスとふたりの仲を高めるためのセックスと快楽のためのセックス
それぞれの考えや思いがあります
年収は高いですが、勤務時間が長いとか、週に2日は帰ることができない、単身赴任があり得る、(家族揃って)転勤ありき、かように様々な業種や労働形態があります
「フェラチオ得意ですか?」と尋ねた場合にうれしい回答はなにか?と考えると案外千差万別ではないかと想像します
嫌いですという答えが返ってきても、これまでご相手された方には好評ですと答えがきても、それを受けていろいろと考えるじゃないですか
嫌いならばこれから上手に調教しようとか、あまりセックスに興味はないのかなとか
得意なら経験豊富だから満足させる自信がないからいやだなとか、ビッチなのかとか、あるいはその技を試したいから結婚したいと思うかもしれないじゃないですか
経験がないので下手ですが興味がありますでもいいし、好きじゃないしそればかり強要する元彼のお陰でトラウマですでもいい
それも年収を答えたあとの女の顔同様です
「どういう家庭を作っていきたいですか?」に匹敵するくらい千差万別であることでしょう
だから結婚する上でとても重要でいい質問ではないかと真面目に思います
お金持ちの男のねるとんパーティなどから流行らせて一般化するといいなと夢想しております
参照ネタ元 5ch 【たすけて】フェラチオ大好きな嫁もちの人【しんじゃう】
(ここの自慢が羨ましいし、とても幸せそうなのです)
というよりここで言うところの毎日朝晩濃厚セックスがしたかったんだな
LINEもなければグリーもモバゲーも無い。ガラケーどころかPHSって知ってる?くらいの昔
婚活なんて言葉も無いし相談所もあったかもしれないけどヤバいのとの区別がつかなかった
ねるとんパーティに参加した事もあるが女がサクラだったみたいで告白してOK出るけど二度と会う事は無かった
そんな中でどうやって相手見つけたかっていうとツーショットダイヤルだった
今でいうところの出会い系ってやつか
街中歩いてると「女性無料」とか書かれたティッシュ配ってるようなやつ
相手は年上で既婚子無し
それで俺と知り合って向こうと別れて俺と結婚するという流れ
非モテがどーしても結婚したいってこれくらい行動したらできたという一例
詐欺みたいな業者に何度も引っかかってるのでおススメはしないし
俺が相手見つけたツーショットダイヤルも別に良いところでも無ければ、
たまたまサクラじゃなかったってだけで、我ながら相当運が良かったんだと思う
なんの参考にもならんね
「女性の方が恵まれている、男の方が割を食っている」と感じている男がかなりいることは、近年SNSなどで可視化されている。
断っておくと、政治や経済などのマクロなレベルで女性が差別されているのは間違いない。これは強調してもしすぎることはない。
では「女性の方が恵まれている」のは、なんの根拠もない言いがかりなのかというと、そういうわけでもない。ミクロなレベルでは、女性の方が恵まれているように錯覚する要因が確かに存在するからだ。
恋愛市場においては、女性が選ぶ側で、男性は選ばれる側なっていることが多い。恋愛漫画や恋愛ドラマ、ねるとん系の恋愛バラエティ番組、ほとんど全てが「女性が男性を選ぶ」という設定になっている。選ばれる可能性の低い男性からすれば、女性に恋愛の決定権があるように見える。
グルメ、旅行、ファッションの広告とサービスは、圧倒的に「女性向け」につくられているものが多い。テレビでよく紹介され、とくに最近増加しているカフェや雑貨店は完全に女性向けで、中年男性が一人で訪れるようなものではなく(かつての「喫茶店」はむしろ中年男性向けの雰囲気だった)、むしろ「小汚い中年男性」が決して近づかないような雰囲気になっている。男性向けの消費はあったとしても、車のような高額なものばかりで、金のない男性からすると女性が中心の消費の場から排除されているように感じる。
結婚している男性の大部分も、家計の財布は女性が握っており、少なくとも日常的な買い物や消費に関しては、男性の決定権は小さい。このことは、上述の消費文化の女性中心主義にも大きく影響している。
確かに正規労働の世界では、マッチョな長時間労働と飲み会文化などで女性が排除されている。他方で非正規労働の世界は女性が主流で、非正規公務員などの事務仕事については完全に女性が独占しており、男性の非正規は身体的負担が大きい3k労働に限られている。そして残念なことに、パート主婦で非正規中年男性に対する侮蔑感情を持っている人は多く、パート主婦の多い非正規の仕事につくと、かなりの確率でいじめに遭う。
http://www.men-joy.jp/archives/28023
世間はクリスマスらしいけど、本当にビックリするぐらいに彼氏彼女がいない連中が多い。
まだ男性は彼女がいないことをネタに出来るし、歳をとっても経済力さえあれば一発逆転もあるし、オンナをカネで買う文化も世の中的に許容されているので、実はそんなにダメージが多くない。
むしろ今後ぼっちが増えることで、風俗やキャバクラだけではなく、恋人になってくれるサービス、カワイイ子供をレンタル出来るサービスみたいに、ぼっちの寂しさを解消する多種多様なサービスが出てくることが期待される。
ぼっちが世の中の過半数を超えれば、結婚して減価償却が進む嫁を運用し続けることや、将来のリターンが期待出来ない子供を育てることよりも、その時々のフレッシュな癒しや寂しさ解消効果をレンタル感覚でサービス提供を受けるようなスタイルの方がいいとみんなが思うようになるだろう。
・・・と、ぼっちな男性には明るい未来がある一方で、女性はキツいかもしれない。
世間一般には男性ぼっちはかわいそうだねー、という論調でメディア等で描写されるが、一方で女性ぼっちは高齢化するとその存在が無いものとされる。
メディアが炙り出すアラフォー独身女性なんてのは、キャリアもおカネもあってそこそこ美人という、そもそもがレアキャラであって、大多数のキャリアもおカネもなく、美人でもない高齢化した女性ぼっちは、その存在そのものが世間から認識されない、というか採り上げるのもある種のタブーという雰囲気すら漂う。
ここが男性ぼっちと違って、いじることが出来ないという大きな特徴の差であり、女性ぼっちは以降の人生で永遠に続く世間からの疎外感と付き合っていかねばならない。
ねるとんを思い出してみれば、男性は振られても必ずテレビに映れる一方で、告白されなかった女性は後で編集の段階でフリータイムですら映らない、空気扱いになってしまうことが、まさにこの状況を象徴している。
もちろん、アンダーグラウンドな世界では喪女と称して救われない女性にある種のカテゴライズを行った上でのサービスが提供され、経済的にも成功しているケースが少なくない。
ただ、その世界に足を踏み入れるというのは、女性にとっての社会的尊厳が消失するのと同等であり、多くの女性はそこまで踏み切れずに悶々とした世間にぶつけられない悩みを抱えていくのだろう。
男性ぼっちが増えるということは、即ちこうした女性ぼっちも増えるということで、ますますこの世間に認知されない層が増えることが予想される。
それだけに、男性ぼっちと同じような、女性ぼっちも世の中に多く存在していて、それは決して異常なことではなく、ごく当たり前の現実なのである、ということが社会的な常識として認知されるような状況にならないと、ますます日本は殺伐とした状況になってしまうのではないだろうか・・・。
異論、反論、もちろん大歓迎です。
29日、30日と熱海旅行に行ってきた。男3、女3のグループで、大体20代後半の年齢層だ。
ニュースで知っていたが、熱海はラブプラスの影響か、明らかに場にそぐわない人たちがいた。
例えば、海水浴場に一人でリュックを担いでいるのは、明らかに異質だ。自分は周りと同じと思っているのかも知れないが、
家族連れが大半の熱海の海水浴場では、思いっきり目立つ。ほとんどの人間が水着でいるのに、暑苦しいジーンズとチェックシャツは、場違いだ。
4,5人のグループもいたが、男だけのグループや女だけのグループで、男女混合の組とは明らかに気配が違う。
所謂、アキバを歩いているグループがそのまま、やってきたようで、傍から見るとびっくりするほど周りから浮いている。
男だけのグループも女だけのグループも元気がなくて、無表情で休日をエンジョイする雰囲気ではなかった。
誰もはしゃごうとせず、何というか心の感情の動きが小さく、気温30度を超える炎天下、夏休みの終わりに、
海水浴に行って騒ぐという雰囲気からは、だいぶ離れているように感じた。
きっと、自分と同じような同種の個体が集まったグループでは、そういった感覚は、感じ取れないと思う。
ああ、みんな海水浴で楽しそうだなと思うのが関の山で、自分たちが周りからどう見られているかなんて、及びも
つかないだろう。
私は、アキバのオタクを馬鹿にしたいのではない。ひきこもっていろと言いたいわけでもない。
今回、たまたま彼女の誘いで、男3、女3のグループでやってきたが、本来はみんなと同じ側の人間だ。
ゲームもするし、漫画も読むし、けいおんは最高だし、2ちゃんねるのまとめブログを読むのは毎日の日課だ。
フランスやドイツでジャパンエキスポやコスプレ大会が開かれ、一時期よりは市民権を得たというものの
それでも我々は少数派であり、決して表立った多数派にはなれない。
彼女の連れの女の子が、リュックにねねさんのバッチを大量につけているの見つけて、「なにあれ~」と
おもしろおかしく指差しているのを、横からねねさんは3人の中では一番人気があって、YAWARAの声優さんやねるとんのナレーションと
同じ人がやっているとは、既に説明できる雰囲気ではない。正直、すまんかった。
何というか、私の同類があまりにも熱海という世間から浮いて見え、それに対して、本人たちは気にも留めていないことが、
さらに不幸に感じてしまい、悲しくなった。
例えるなら、小学校時代に先生以外の大人と廊下ですれ違うような、違和感や不信感というのをはっきりと感じ取れてしまった。
好きなものは好きと言いたい気持ちもわからんではない。わからんではないが、何というか、もう少しうまくお互いの
妥協点を探ることができないだろうか。
楽しい場所に来れば、テンションを上げて、人の迷惑にならない程度には無茶をしてもいいし、ぼそぼそ話すのでなく、
声を張って笑顔で会話してほしいし、リュックにバッチをつけまくるのも、控えめにしてほしい。
ラブプラスののぼりやおせんべいなどのお土産も土産物屋の品揃えからは明らかに異質で、つい見てみぬ振りをしてしまうので、
もうすこしこじんまりとできないものだろうか。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
暇だったので、お見合いパーティ(昔で言うねるとんてやつ)に行ってきた。非常にエキサイティングな体験だったので、再び報告。
場所は新宿某所。パーティはインターネットの検索で探した。事前にホームページから電話で予約をしたのだけど、エイズ検査の窓口に電話する時の8倍くらい緊張して、声がふるえてしまった。
当日。会場前まで来たけど、なんかこわくて足が震えて、やっぱ帰ろうかどうしようかと、入り口ですくみ上がっていた。しかし意を決して、開始10分くらい前に突入。チェックインを済ませ、プロフィール用紙みたいなのを貰い、中に入った。このチェックイン時に、簡単なアンケート(どうやってこのパーティを知ったかとか、そんなやつ)を書き、料金何千円を支払い、荷物も預かってもらった。
パーティ部屋の照明は薄暗く、「これじゃ人の顔なんてろくに分かりゃしないよな」と思った。部屋には既に20人くらい集まっていた。暗くてよく分からなかったけれど、男性がやや多い感じか。貰ったプロフィール用紙には自分の番号が割り振られていて、名前・歳・血液型・住所(せまくて***区くらいしか書けない)・職業・趣味と記入欄があった。自己PRのためにと、職業欄には「会社員(童貞)」と記入しておいた。書き終えてぼおっとしていると、マイク越しに「そろそろ始まります」という女性の声が。はっとして周りを見回してみると、さっきの倍くらいは人がいそうだ。司会の女性の発表によると、男性が30人で女性が27人集まったとの事(そのうちの何%がサクラで何%が業者かは分からないけど)。
最初に、司会の女性がパーティの大まかな流れを説明してくれた。最初の1時間半で全ての女性と簡単な自己紹介を済ませ、そのあと、気になった女性に声をかけることができる「アプローチタイム」が20分程あるとの事。それが終わったらカップル成立の発表だ。「え、1時間半で27人に自己紹介するのか!?そうすると1人あたり・・・」と焦る俺を尻目に、司会のひとはどんどん場を進行していく。女性がぐるっと円を描くように壁際の席に座らされ、対面の席に男性が座らされた。男性のほうが少し多かったので、最初は女性が対面にいない席に座っている男性もいた。
ノリの良い音楽が流れてきて、戦闘開始。対面の女性と挨拶を交わす。パーティの常連なのか、こなれた調子ですらすらと自己紹介をする女性。それに対し俺は「えっと」とか「うーん」とか詰まりながら、四苦八苦していた。やっと自己紹介を終える頃には、席の移動を促す声が。「ありがとうございました」と締めくくって、息つく暇もなく次の女性の対面席へ。自己紹介をし合い少ししたら、また移動の合図。この繰り返し。怒涛の展開に頭がついていかず、自分で何言ってるかすらよく分からなくなり、頭の中が真っ白になってきた。「もう無理」と思っていたら、対面に女性がいない席にたどり着いて、「ああ助かった」と一息。後半は少し慣れてきて、テキパキと自己紹介を済ませることができるようになったけど、そうなると話題が続かない。一瞬気まずい沈黙が流れて、女性のほうが気を遣って話題を振ってくれる、そんなパターンが多かった。
激戦の1時間半があっという間に過ぎ、アプローチタイムに突入。もう疲れ切ってどうでもよくなっていたので、近くの席に腰掛けて「ふう」と一息。そしたら対面から、女性のころころとした笑い声がする。「ずいぶん疲れてるねー」と言われたので、「物凄く疲れた。これは戦場だ」と返したら、またころころと笑っていた。水を飲みながらさっきの惨状を話していたら、スタッフの人から、気になった人の番号を記入するアプローチカードを貰った。誰が誰だかよく覚えてなかったので、適当に番号を3つ記入し、スタッフに渡す。そうこうしているうちにアプローチタイム終了。話していた女性から「アドレス交換しようよ」と言われたので、ケータイのメアドを交換した。
その後、ほどなくして成立カップルの発表だ。どきどきしながら番号が呼ばれるのを待っていたのだけど、(当然の如く)呼ばれずに終了。4組のカップルが成立していた。発表が終わったら、次のパーティが詰まっているとの事で、すぐに撤収するよう司会のひとから促された。
以上、会場入りしてから出るまで2時間とちょっと。痛烈に感じたのは、これは「お見合い」ではなくて「戦闘」だということ。慣れた人でないと、流れに乗る事は難しいだろうということ(童貞の俺にはなおさら厳しかった)。そういえば、(俺自身書いたことを全く忘れていたけど)誰も職業欄を突っ込んでくれなかったな。帰りの電車の中で「職業欄に“童貞”はないだろう」と、いたく自己反省した。ちなみに、今回参加したパーティの年齢層としては30代が多く、20代後半がちらほら、といった感じだった。
後日、交換したアドレスにメールを送ってみたのだけど、送信エラーが出て送れなかった。
すこし、めげた。
友達あがり以外の恋人の見つけ方って、どんなのがある?合コン?ねるとん?
俺の友人にはネゲット(UO、出会い系etc)が何人かいて、周囲は驚愕してたんだけど。
関係ないけど、「元気が出るTV」の「初めての告白」のコーナーで、「お友達から…」みたいに
曖昧な答え方をする奴らが大嫌いだった(やらせでも何でもいいんだけど)。要するにキープだろ?
何で付き合って答えを出さないんだ。付き合うって、相手を知る事だろ?恋心を育てるもんだろ?
付き合ったら理想と現実は違ってたとか、恋心が芽吹きそうじゃないってなったら別れりゃいいじゃん。
相手を傷つけるのが嫌だって?バカ言ってるよ。