はてなキーワード: 描写とは
殺人の表現は一部始終が表現されていてもその殺し方が銃で胸を一撃とかそこまでグロテスクでないなら18禁じゃないよね
これが妙に感じる
子供の頃性描写を見て真似とかすれば相手が不同意なら迷惑だが同意しているなら問題は起こらない
いや責任問題とか全くないとは言わないが殺人よりは比較にならないほどましなのは明らかだろう。
しかし殺人は同意不同意に関わらず実行すれば無条件に社会に害悪だ。少なくとも違法だ→社会秩序を乱すと客観的に認められている点でこの「害悪さ」」がお気持ちにとどまらないことは保証されている。
とすれば分別が未熟な年齢に対する規制としてより厳重にするべきなのは、殺人描写のほうなのではないかと思うわけだ。
ということは逆に言えば、最初は殺人のほうが性交以上に子供に見せるべきではないという規制のあり方になっていたのだろうかと思う。
今殺人のほうが軽く見られているのはなにかしらの科学的、心理学的な研究結果に基づいていて、性交描写のほうが子供にとって危険だということに確かな根拠があるだろうか?
「野菜に虫がついてたからどうすることも出来ず夫の帰宅を待ってました」なんて妻
関係ないけど最近リメイクが発表されたトゥーハートってエロゲ―なんやが
ヒロインが知恵遅れみたいなやつばっかり(誇張ではない)で子供心にきつかったわ
悪口じゃなくてガチでそういうつもりで描写してるのでは?って見えるレベルのやつ
あとやたらロリも多かったな
あの風潮はすたれてくれて助かった
Netflixの「地面師たち」を観たけど、人間たちの「頑張ったのでご褒美」みたいな描写が性欲に偏ってる感じがした。自分がそういうコミュニティに縁がないだけで、世界は思った以上にセックスで回ってるのか? ホストとかの職業がまだまだある時点でそうなのかもな。元ネタの事件が昭和の出来事とかで価値観が古いのかと思って調べたが、2017年で予想以上に最近だったのでびっくりした。ついでに五反田の土地が近くを通ったことがあったこともびっくりした。俳優陣が豪華で見応えがあった。
デッドプール&ウルヴァリンの冒頭の戦闘描写で、男性戦闘員のペニスに武器を刺したり、肛門に刺したりする描写があるんだけどさ
戦闘員が悲痛な叫び声を上げたりして、そこそこグロイ描写になってるのね。で、それが何度も出てくる。
気持ち悪い描写ではあるんだけど、割と映画って男性性器を破壊する描写がギャグとして扱われててさ、
股間を蹴り上げたりとか切り落としたり潰したりってのがエンタメとして消費されてんのよね。
数年前に「女性器破壊描写」の是非についてフェミニストの間で話題になったことがあったやん。
それもかなーりアングラの、超マニアックな性癖の、そして実際ほとんどは無理やり性器をねじ込んで血が出ちゃう~くらい(性器や妊娠できなくなるぐらいではない)について
それが男性となると、R15程度の映画でエンタメとして軽く消費されてるの見て、これって本当に良いのかなって思うんだよね。
女性に比べて男性の性ってめちゃ軽く扱われてない?って思うのよ。
正直無くして欲しいけど、それがだめなら女性の性器破壊描写も同様に入れてちゃんと女性も嫌悪感抱くようにしてほしい。
女性戦闘員が出てきて乳房が切り落とされて絶叫してるとか、子宮とか膣が潰されてうごめいてる姿とか居れるようにしてほしいんだよね。
ギャグシーン、エンタメシーン、露悪的な娯楽として出すなら、ちゃんとそこら辺のバランス考えるのが必要なんじゃないかなって思います。
回想シーンを多用して敵味方の深掘りをする
その辺は長編少年バトルもの漫画の定番だし、当然ワンピースも祖ではなくそこに倣う側だけど、
と、このジャンルで課題になりそうなポイントを軒並み解決しているところかと。
長期連載少年バトル漫画を描くために設定がしっかりチューンされた作品だと思う。
その上で、最初から暖めているであろうメインストーリーも完結に向かわせる。
ワンピースを表面的に真似ようとしても、ここまで世界観が強固で大河感のある少年漫画は、ちょっと出にくいんじゃないかと思う。
遅ればせながらミッドサマー見ました、ディレクターカット版。まぁ夏休みだからね。せっかく見たわけだから、感想をどこかに違法投棄したかった。
だった。
とにかく「共感」という感情の働きをグロテスクに、狂気的に描写している。下馬評を聞いて、カルト村にやってきたよそ者が現地のネーチャンとパコパコした後に、愉快な仲間と共にグロ処刑されるよ!って話だと思っていたので、なんか予想と違う角度からの露悪的な表現に、自室の椅子から転げ落ちてしまった。劇場で見なくてよかった。ありがとうamazon prime。
本作の主人公であるところのダニー、これがまた悲劇的人物で、双極性障害の妹がダニー以外の家族を巻き込んで無理心中してしまうという、壮絶な背景を抱えている(ルックバックであれこれ言われた我が国ではできそうもない設定だ)。さらに言えば、彼女自身もパニック障害持ちと、かなり苦難の人生を歩んでいる。
そんな彼女にも、理解のある彼くんこと、クリスチャンがいます……と思いきや、このクリスチャンは理解ある彼くんになるにしては力不足。作中冒頭でもダニーの電話に辟易としている様子が描写されている。ダニーが不安になるたびに電話がかかってくるので嫌になったんでしょうね。
また、クリスチャン自身もダニーの誕生日を忘れてしまっていたり、自分の旅行の計画を彼女に伝えてなかったりと、純粋に彼力が足りてない部分も描写されている。
そんな彼の落ち度をダニーが非難して謝らせ、ダニーはそこからさらに追撃(本当に心から謝ってる?攻撃)をかまし、そしてクリスチャンに非難され返して慌ててダニーが謝るという場面がある。
そんな彼女の前に現れるのがペレ。この物語はペレに誘われてホルガ村に来たクリスチャンとダニーとその仲間たちが、ダニーを除いて村の生贄にされる話であるから、彼は物語的には黒幕、あるいは元凶である。
そんなペレは、作中でダニーに対し「自分も同じ境遇(家族を失った)だから」と彼女の悲しみに寄り添おうとする。
……と思いきや、不思議なことに彼は作中一度もチンポを出さない[^2]と、いまいち意図がわからないキャラクターとなっている。なんなら誕生日を忘れたクリスチャンをフォローしたのもペレだ。NTR男だとしたら敵に塩もいいところだ。
そんな彼の動機も、作中中盤に明かされる。自身が家族を失った悲しみをコミューン(ホルガ村)に支えてもらったと。だから同じようにダニーもホルガ村で支え合えると。
つまり宗教である。男が女に寄るとき、その理由はセックスか宗教か金の3択だ。こいつも例外ではなかった……というのはさておき、動機だけ見ると善性寄りに思える。
作中でダニーたちが訪れるホルガ村。ホラー作品の類型に漏れず、この村は姥捨てからスピリチュアル儀式、人身御供までを幅広くこなす、分かりやすいキリスト文化圏外のエログロホラーカルト村だった。
ここまでは典型的な因習村といったところだが、ホルガ村にはホラー作品としては珍しい要素がある。
どういうことかというと
など。ホラー因習村としてはユニークな表現だ。そして、これこそがペレの言っていた「家族を失った悲しみをコミューンで支えてもらった」の真相である。この村は、とにかく村民同士で共感し合って、悲しみを乗り越えるようだ。
そして、紆余曲折あったダニーはホルガ村に迎え入れられ、紆余曲折あって知らん女とスピリチュアルセックス儀式をしていたクリスチャンを生贄に捧げることを決意したのであった。燃えるクリスチャンを遠目に眺めながらダニーはニッコリスマイルを浮かべて映画は幕を閉じる。
ここから先は物語の中では描かれず、それぞれの解釈に委ねられている。故に、自分も己の解釈を述べることにする。
ホルガ村で行われている、この共感メソッド。その目的は、個人が抱えるには重すぎる苦痛をコミューン全員が共有・分配することで苦痛を乗り越えることにある。また、協力して苦難を乗り越えることからコミューン内の結束力を高める効果もあるだろうし、感情の共有を徹底すれば「村民同士で共感しない感情については村として承認しない」という仕組みを作ることができる。これぞまさに共産主義的な支配に他ならない。
現に、姥捨の場面では「こんなことおかしい」と叫ぶ余所者の感情には一切共感せず、しかし村に迎え入れられたダニーの嗚咽には共感してみせた。このように、村をあげた共感の儀式は、その他の共感しない感情を排除する効果がある。カルト式の集団運営に一役買っているのだ。
双極性障害の妹から連絡が絶えた不安に共感して欲しい、この不気味な村から早く抜け出したい、そういった感情への共感を、ダニーはクリスチャンに求めてきた。しかしクリスチャンはそれを受け止め切ることができず、ダニーはそれに不満を感じていた。
そして、共感に対する内なる欲求をペレに見透かされたからこそ、ペレはダニーがホルガ村に来ると知ったすぐ側から、ダニーに寄り添い始めたのだ。村人が「ペレの見る目は確か」と言ったのは、そういうところを指しての言葉だろう。
しかしながら、ずっと笑顔の戻らなかったダニーが、スピリチュアルメイポールを通じて村の女性と心を通わせ、恋人を失う悲しみを共有することでやっと笑顔を取り戻すという展開からは、ホルガ村を迎え入れたことそのものが幸か不幸かは判断がし辛くはある。
人は誰しも自分の感情に共感してもらいたいものだ。しかしながら、共感を他人に問答無用で押し付け、そして押し付けられることを選んだコミューンの行き着く先がエログロカルト村というのも、寓意を感じずにはいられない描写だ。
なにより、ダニーのような、恋人に感情労働を押し付ける女がそのようなコミューンに適合するという描写が、そのような人間の行き着く先は地獄であると暗に示しているようでならない。
現代ではエコーチェンバー効果という言葉を聞くことも珍しくなくなってきた。思想の似通った者同士が通じ合い、かくして狂気は産まれるのだというストーリーは、思い返せば現実でもよく見る構図であった。
もし、この映画から得られる教訓があるとくれば、それは「共感のしすぎ、求めすぎ」は狂気を招くということではないだろうか。
是非とも身に覚えのあるメンヘラ女の諸氏におかれては、このことを胸の片隅にでも置きながら、周囲への配慮を怠らずにいてくれれば幸いである[^3]。
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[^1]: このように書くと、パニック障害なのだから仕方ないじゃないか、差別だなどと書かれるかもしれないが、そもそも恋人は無料セラピストではないのだ。クリスチャン自身もダニーを支えきれないことを自覚し、別れ話を持ちかけようともしているのに、単純にクリスチャンをクズ男扱いして死んで当然扱いする感想記事があり、あまりにもあまりにもであったので、ささやかな抵抗として、このように駄文をゴミ捨て場に投げ捨てている。
[^2]: ちなみにクリスチャンはチンポを見せている。
[^3]: 決して私怨ではない。
長らく巨乳党に所属していたアニメ・漫画等々が好きな自分だが、歳を重ねたからか貧乳キャラを好きになることが最近増えた。
Xで流れてくるイラストでいいものを見つけたら保存する日々、Vはあまり詳しくないが青い髪の某vtuberのイラストなどは高確率で小躍りしたくなるクオリティのものが多くて大変“良い”。
ここからが本題である。貧乳キャラのイラストがあり、それにたくさんの「いいね」や「リプ」が付いていると、超高確率で書き込まれる感想があるのだがみなさん思い浮かぶだろうか。
なるほど、本来貧乳キャラであるはずなのに盛ってしまう人たちは確かに存在する(個人的にはそれもありだが)。
それに対して「盛るな」という反応が出ることは、(あくまで僕たちはイラストを享受してる側なのに態度がでかいなというのは置いといて)理解できる。
しかし自分が取り上げる「盛るな」はそうではないのである。自分が嫌悪する「盛るな」は、元ネタに忠実な大きさに描かれているイラストにも関わらず、それに対して書き込まれる「盛るな」である。
長らくネットの住民をやっているから、貧乳キャラに対してとりあえず「盛るな」と言っておけばいいという風潮があるのはわかる。
だけどこの場合の「盛るな」という反応、あまりにも定型化しすぎているからこれを書き込んだところでツッコミも入らず話も広がらず、ただ「盛るな」という単発の書き込みで終わるのである。もはやこの「盛るな」は言葉ではなく、貧乳キャラのイラストを見たら反射的に書き込まれる鳴き声のようなものである。これになんの意味があろうか。
個人的にはこの無意味な「盛るな」はイラストレーターにも失礼じゃないかと思う。貧乳の描写にこだわってこだわって描いた珠玉のイラストを公開して最初に書かれたリアクションが「盛るな」だったら悲しくないだろうか。
昔からネットの世界で脈々と生き残っている、貧乳キャラのイラストにはとりあえず「盛るな」と言っておけばいいかという風潮に、自分は一石投じたい。
そのため自分はとりあえず「エッッッッッッッッッ」と書いていくこととしよう。
アサクリに対して日本の俺達や文化をリスペクトしてないー!アジア人へのヘイトガー!とか
アレだけ馬鹿にしてたポリコレ勢と全く同じ事言ってキャンセルカルチャーの署名までしてて呆れた
完全にポリコレにどっぷり染まってんじゃん
そしてポリコレ勢の発狂はお気持ちで俺達の発狂はお気持ちじゃない!とか舐めた事も言ってて本当にどうしようもねぇなこいつら
どれだけ酷い事が描写されようがどんだけ悪意があろうが
現実で誰かが死ぬわけでもないアニメやら漫画やらゲームを標的にして必死こいて燃やしてる時点で全部同レベルの「お気持ち」なんだわ
所詮フィクションに過ぎないもんに対して人種や文化のリスペクトを求めるとか
ガチでアホ過ぎて凄い
「誰も傷付けない表現」がみたいならアニメも漫画もゲームも捨てて一生教育番組でも見とけよ
病的に繊細で神経質で被害者意識ばっかり絶大でクリエイターの足を引っ張ることしか出来ない低脳猿共にはそれがお似合いだわ
今じゃガイジ系のゲームライター()やらゲームレビューYoutuber()も同じ様にお気持ち並べて発狂して
「こんなゲームを出したら将来悪いことが起きる可能性がある!!不買運動だ!!(鼻息フンフン眼鏡クイー)」みたいな
「こんな人を殺すゲームを発売して遊んだ子供が人を殺す様になったらどうするんだ!ゲームに影響されて性犯罪をする奴が出たらどうするんだ!不謹慎だ!!規制だ!!」みたいな
何十年も前のPTAの奥様や知能の低い親父様が言ってたみたいな物凄い被害妄想レベルの事まで炸裂させてる始末
もうこの話題って完全にオタクにとってのリトマス試験紙になってんな
なんかドサクサに紛れて日本人はみんな怒ってる!ゲーマーはみんな怒ってる!とか言ってるけど
ポリコレと同じでお前らお気持ちガイジが大暴れしてるだけで大多数の人間はドン引きして何も言ってないだけっすよそれ
ガイジしか居ないエコーチェンバーの中で先鋭化して俺達は多数派だ!って思い込んだ所で蓋開けてみたら精々10万人ぐらいしか居ないんすよそれ
アサクリ(及びその開発元のUBI)が公式トレーラーをアップする
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半畳畳が敷き詰められた部屋など、おかしな描写が多いことが話題になる
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「海外では黒人の侍が主人公であることが批判されているらしい」と話題になる
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「海外ではロックリーという人物が弥助を神格化してあることないこと広めてるらしい」と話題になる
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ここでアサクリとロックリー史観が結び付けられてしまう(UBIはロックリー史観についてまったく言及していない)
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アサクリが悪いから殴る、ではなく、殴るためにアサクリの悪いところを探す、に移行する
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アサクリは歴史描写が正確だったはずなのに日本が舞台になると不正確なのはおかしい(実際には過去作でもおかしいところはあった)
アサクリの過去作では現地人が主人公だったのにシャドウズでは黒人が主人公になるのはおかしい(実際には過去作でも現地人でない主人公はいた)
アサクリは暗殺者のゲームなのに目立つ格好をした黒人を主人公にするのはおかしい(本作の弥助はステルスではなく近接戦闘向けのキャラだった / 過去作にもそういう主人公はいた)
↓
「ロックリー史観を信じた開発陣による日本人差別だ!」「ポリコレの行き過ぎだ!」
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UBIの言動を洗い出してインタビューなどでの発言を曲解していく
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「やっぱりUBIは悪い奴らなんだ!」(悪魔化)
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↓
ロックリーの著作の「推測を膨らませた部分」を取り上げて「こんなデマを流している」と主張
↓
叩くことが目的になっているので次々に新たな問題を探していって論点がずれていく
途中で批判されても「それはもう論点ではない!」とゴールポストを動かして回避する
小さな疑惑を収集して誇張・曲解・邪推することによって自分たちの思い込みを強化していく
↓
↓
「ロックリーやUBIは日本人に奴隷制の起源を押し付ける差別主義者なのだ! こうした差別的な史観が欧米では蔓延しているのだ!」
↓
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
ちょっと前にAIイラストが話題になっていたので興味が湧き、自分もpixAIというサイトでAI絵の自動生成をしてみた。
1週間ほど触ってみて思ったのは「反AIイラストの人は自動生成を使ったことがないんじゃないか」ということ。
手軽に凄い絵が出来上がるものだと思ってるんだろうけど、そんな簡単ではなかったよ…
素人生成じゃキャラ一人のすっごい限定されたポーズと構図でしか破綻の少ない絵は作れないし、その辺りちゃんと指定するのはマジで大変。
細かく指定する能力は、それだけで才能と呼ばれるものだと感じた。
良く言われるちゃんとした手が描けないだけでなく、身体の末端はちゃんと描けない事が多い。
ちゃんと指定しないと腕が複数生えたりゴム人間みたいな関節のキャラが出来上がる。
後、AI君はネガティブプロンプト(これ描かないでっていう指示)をちゃんと読んで下さい。
「とりあえず、いっぱいついてた方がお得だよね!」みたいな感覚で指を増やさないで頼むから。
②複数人を描くのが苦手
これもかなり細かく指定しないとキャラ同士が簡単に悪魔合体してクリーチャーが出来上がる。
ちょっとエッチな絵を作ろうと適当なプロンプト(これ描いてって指示)を入れたら可愛い女の子の股間に立派なおちんちんが生えた画像を生成されて泣いた。
男1女1で指定してるじゃないですか、指示よく見てくださいよ本当に。
画像から人物のポーズを取り込めるので「白背景に裸で立ち絵を生成してくれ」って指示をしても、細かい部分に服を着せたがる。
プロンプトに白背景(white background)、完全な裸(completely nude:2.0)
…してるのに、かなりの確率でチョーカーやらサンダルやらを着せたがる。
更によく分からない小物やら、オシャレぽい背景を足してくる。
④暗い画面構成が出来ない
どの絵もバチバチに陰影をつけたがる。
どっから入って来た光なのよ…
トンデモ描写だけならニンジャスレイヤーをはじめ、洋ゲー忍者でいくらでもあったわけだし
日本創作物だって欧米のトンデモ描写もあるし、そこはお互いさまで済む話なんだよな
この話がこれだけ炎上してるのは、日本を差別してるとしか思えない言動が多すぎることなんだよな
そしてその証拠がまた一つ増えた
主人公は誠実風。戦いの中でいろんなヒロイン候補と絆を深めつつ、最後は正ヒロインと結ばれたた…。しかし結局正ヒロインがほかのヒロインを許容してハーレム形成→𝓗𝓪𝓹𝓹𝔂 𝓔𝓷𝓭…
というのを読了した。
そのあと、ハーレムにならないぽいやつを読み始めたんだ。
主人公が憧れている関係値の低い正ヒロインらしき子との描写が濃くなる前に、冒険先で出会った新しい子との数々の事件を通じて関係値が高まり、その新しい子と主人公が付き合う…という展開が長々と続く。二人は清く正しく、共に成長していくが、新しいヒロインは若干依存気質で束縛がひどいため、読み手としての好感度は低い。
それでも主人公はそんな彼女の一面も「可愛い」と思っているので、「恋愛は二人のものだもんな」という温度感で読んでいた。ところが、唐突に(いや伏線はあったけど)主人公が病気により物語の始まりまで飛んでしまい、これまで読んできた関係値が主人公の中でリセットされてしまった。
依存気質の新ヒロインは真っ青。主人公は好きな子が正ヒロインらしい子になり、性格も今までの努力を忘れてしまい、急に力を手に入れた感覚なので「え?俺ってすごいんです(ドヤ)」とまでは行かないが…少々ちゃらんぽらんになってしまっている。
依存気質で束縛系のヒロインをあまり好きではなかったものの、支援してトラウマを克服してきた経緯があったので、「うそだろ」と感じている。
さらにこの後どのヒロインちゃんとでも、関係値を高めていけるようになってるので「あれ?結局ハーレム系??」という気持ち。
ハーレム系を見抜く力が欲しい…。