はてなキーワード: 金髪とは
一つ一つ返していくから下記に上げた事以外あったら言及かブコメして。
人ですら無い艦船やお城や花を美少女化した作品を認めておいて何をいまさら。
Fateのキャラなんかほとんど偉人しかいないけど、そんな不満が全く出ていないじゃん(信長とか性格が悪いだけにされた全くの別人なのに)
重み?手塚治虫の歴史が織田信長や、それこそ三国志の諸葛亮孔明や、アーサー・ペンドラゴンより歴史が重いとは恐れいった。
敬意もなにも手塚プロダクションが協力しているのでしっかり手塚プロダクションと精査してできあがったデザインですが…。
それはわかる。
俺は艦これとかとうらぶとか「擬人化になってない萌え(イケメン)擬人化」ものに毎回辟易している者だが、なぜ手塚治虫キャラの場合だけネットで反発が大半になっているかが確かに疑問
自分は擬人化は大賛成だけど、言いたいことはこの人の「なぜ手塚治虫キャラの場合だけネットで反発が大半になっているかが確かに疑問」に近い。
リスペクト感じない擬人化(特にいいたいのがガンダム。コアファイターシステムを無視しすぎ。一番重要だろ。)なんか鬼のように見てきたけど、あまりにもこの手塚作品は叩かれすぎていると思う。
なんでもいいから、自分が好きな作品(絵のあるやつね)を一つあげて「これがどういじられても(○○化されても)私は何も思いません」と宣言してみてほしいな。
びっくりするぐらい愚問。むしろ、この質問で今回の騒いでるやつの気持ちがわかったまである。つまりは同一視しすぎている。全ての世界が全て同じカメラで撮られるべきだと思っているのだろう。
アイドルマスターが大好きで特に如月千早、その中の人ミンゴスは俺をオタクに引き込んだものだが、ゼノグラシアを普通に許せた。アイデンティティの72が奪われてもなお。アイドルマスターシリーズの如月千早とゼノグラシアの如月千早は同一人物だったとしても世界とカメラが変っただけだから。
如月千早はミンゴスしかありえない。ミンゴスなくして如月千早はありえない。これはもう大前提よ。でも、それはただの歴史だ。今井麻美が如月千早に影響を及ぼしたとしても、如月千早という人物は今井麻美に依存しておらず、劇中で如月千早は今井麻美だと設定もされていないはずだ。
そして、如月千早をゼノグラシア世界のカメラを通してみたら清水香里の声がして巨乳にみえるだけ。(自分はゼノグラシアを「アイマスのアイドル達がドラマ出演でゼノグラシアを演じた劇中劇だと思っていることもあるが。)
これに近いのが、ガンダムWゼロのTV版とEW版である。ゼロはEW版で特徴的な羽を得るが、設定上では同一の機体という事だが、これを許せる人のほうが多いだろう。
それのどちらが好きなのかは個人の感想なので別にいい。ただ、それで「千早は72じゃないと許せない!」とか「EWはTV版のゼロを使っていないのが許せない」なんて人は居ないだろう。最も、前者に関しては「ゼノグラシアの如月千早は別人である」として受け入れている人のほうが多いが。
リスペクトが足りていただけと思われるからこれだけははっきり宣言するが、例えばガミPが引退し、バンナムがアイマスにすがりついて古参を釣ろうと、公式で続編をだし如月千早25歳といって72が崩れ去り、例えばF91になっても全然許せる。綺麗な青髪が美希の金髪になっても許せる。(受け入れるか別として。)
なぜなら俺は如月千早のファンだからだ。受け入れられなかったら、ちょっとアレは受け入れられないといって、現行のアイマス2(アニマス)の如月千早を愛するだけである。その受け入れられなかった如月千早を受け入れる人が居てもなんとも思わない。なぜならその人も如月千早のファンだからだ。そこに何の違いもない。「違うのだ!」と言わない。
一旦弱くなった雨足はやがて勢いを取り戻し、カウンターの前から身動きが取れなくなった。
心配と共に空腹も襲って来る。
しばらくして、心配をよそに弱まる雨足。
順番が逆になったが、エントランスで荷物を回収し、完全に雨が上がった夜のプールサイドに戻る。
18:00
今のうちに何か食べておこう。
典型的なベトナム南部料理といえば、お好み焼き様のバインセオらしいのだが、メニューには無かった。
そういえばH.I.Sのラウンジでもバインミーラスクを試食した。
旅の目的だったとはいえ、これほど度々「バインミー」と名のつくものを食うとは思わなかった。
グエンフエ大通りで買ったものの8倍に当たる200,000ドンというお値段に後で驚く事になるのだが、ホテル ニューワールドのプールサイドバーで食べたバインミーは繊細で上品な味がした。
と、旅行中、どういう偶然か何度も聴いた曲のインストバージョンが流れて来た。
どうしても気になる。
曲が終わるとカウンターの奥でにいちゃんが機械を弄っていて、選曲は彼がやっているらしい。
会計の後、声をかけた。
「I want remember song title, ♩rararara ra ra ra rara ~」
「Nothing's Gonna Change My Love For You.」
「それだ!」
寒さを誤魔化すように、Nothing's Gonna Change My Love For You. の歌詞を調べてみた。
表現の世界で概要をいうのも違うと思うが、歌詞の概要は以下の通り。
でも君がいれば永遠だ。
こんな想いは初めて。
夢が行きたいところに導いてくれる。
抱きしめて、触れて。君なしでは生きていたくない。
君への愛は変わらない。
僕の愛がどれだけか君は知るべきだ。
世界が変わっても君への愛は変わらない。
進む道が困難でも愛が星の様に輝き導いてくれる。
君は君のままでいい。
ありのままの君を愛している。
君への愛は変わらない。
僕の愛がどれだけか君は知るべきだ。
これから夜は長いわ、初めての想いだわ、夢の風景に導かれるわ、ここでもまたもや、ありのままを肯定されて、挙句、ベトナムの国旗よろしく星まで出て来る。
思えば昨夜、俺もまた金髪の男に金を渡し、白いシャツの少女が差し出した皮のブローチはハートだった。
ブローチは慎重すぎて手放したが、あれが本当にフェアトレードなら、渡した50,000ドンだけは誰かに届くはずだ。
夜が明ければ、ハート満載で見た目も味も甘々のミルクティーで喉を潤し、アオザイのお姉さんの美しさを絶賛して本気にはされなかったが、ベッドの上に星とハートをちりばめた感謝のメモをしたためた。
これを書いている最中にも、お姉さんが熱々のお茶を持ってきてくれる。
冷房でやられていたので心底ありがたい。
この旅では、ありのままの自分や、恋と愛の話にやたらと出会うようだ。
あとバインミー。
Good night, and good luck.
夕食のアテならある。
店の多さといい、お一人様歓迎のライトな雰囲気といい、日本で言うところの丸亀製麺の様な店だろう。
折角異国に来てチェーン店かよという人も居るだろうが、自分は食感のヌメッとしたもの以外であれば、大体において「美味い美味い」と言って食う人間であり、メンタルに不安があるこのひとり旅では、店の気軽さこそが重要だった。
Pho 24 を目指し通りを歩くと、やがてフォーならぬ、丸亀製麺ホーチミン店が見えて来た。
見知った店とはいえ、流石にここでは食わない。
しかし、日本企業のベトナムローカルメニューというのは気になるもので、店外の大判メニューを見てみる。
物の本で知ったのだが、中国で進出したラーメン店で、当初醤油ラーメンが全く売れなかったらしい。
どうも中国人感覚では、トンコツに比べて醤油スープは手抜きに感じるらしい。
おそらくは似た事情だろう、アジアにおいて日本麺の象徴はトンコツスープなのだ。
Google map を見ると、Pho 24 の目と鼻の先に統一教会があったので、まず向かう事にした。
行きすがらにテニスコートがあり、お父さんがテニスを楽しんでいる。
コートから5分も歩かないで辿り着いた統一教会は、シンとしていた。
当然といえばそうだろうが、ライトアップもない。
夜の教会を撮ったものか逡巡したが、スマホの写真に収めて、一礼した。
さて夕食だ。
Pho 24 でカウンターのメニューを見ると、なんと練乳で作るベトナムプリン、バインフランがあるではないか。
かくして夕食は牛肉のフォーとプリンという珍妙な組み合わせとなった。
実のところ、フォーの本場は北部から中部であり、南部のここホーチミンを象徴するのはフーティウらしいのだが、この際、何を言われてもいい。
直ぐに運ばれて来たフォーは、腰もへったくれも無かったが、不調を抱え不安定な食欲には丁度いい食感だった。
一緒についてくる青菜をどんどん入れる。バジルの香りが心地いい。トウガラシは一切れでエライ辛さだった。
エッジがピンと立つしっかりした固さだったが、甘さは優しかった。
それより、流石にあんまりだと思って追加注文したライム茶の方が甘い。
ホテルに戻る前に立ち寄りたい所がまだあって、それはスターバックスだ。
スターバックスに向かって歩いていると、ホーチミンに来て初めて欧米人に声をかけられた。
長い金髪を後ろでくくった髭の男。
「A little.」
嘘だ。
しかし、言わんとする事は大体わかった。
男はエストニアからやって来て、この通りで財布を落とし無一文だという。
幾らでも良いからくれと。
絶対嘘だ。
だけど笑ってしまったので、少し渡す事にした。
200,000ドン。
男は手元に折りたたんで持っていた札束にそれを加えた。
持ってんじゃんか。
「Are you came from ?」
「Japan.」
男と握手して別れた。
「Thanks.」
「Good night, and good luck.」
辿り着いたスターバックスではグリーン&ホワイトティーなるモノを頼んだ。
何が出てくるかと思ったけど、ちょっとリッチな抹茶ラテの様なモノだった。
2階席の端に陣取り、男とのやりとりを女友達にLineしていると、不意に声を掛けられた。
カードを見せられる。
どうもフェアトレードか何かで革製のアクセサリーを売っているらしい。
手を振ってもその仕草だけマイルドに無視されて引き下がってくれないし、手元のドンも多分あと1日半で使い切れないほどある。
1つ買い求める事にした。
「Thank you.」
「Good night, and good luck.」
眺めてまた逡巡した。
50,000ドン位は痛くも痒くも無いが、これが安全だという保証は?
アクセサリーにチップを仕込んで跡をつける事だって出来るかもしれない。
荒唐無稽と思えるだろうが、ここ数日で見たホーチミンの発展ぶりならあり得ないという保証もない。
明日の夜は半野外のタンソンニャット国際空港で明かすのだ、危険の仄かな香りさえ纏いたくない。
人が信じられない嫌なヤツだと思いながら、アクセサリーはスマホの写真にだけ収めて、スタバに置いていく事にした。
こんな手段を想像できるなんて、自分には犯罪者の才能があるかも知れない。
いや無理だな。
見え見えの嘘を前に「笑ったから」という理由で金を払ったお人好しに詐欺など務まる訳がない。
少し頭をよぎったのは、俺は彼女に振り回されたのか、振り回したのかという事だった。
ホテルに戻ると、夜もすっかり暮れているというのに、白い制服の女学生が車止めの前でたむろしている。
よく学生を見かける旅だな。
通り過ぎてエレベーターに乗り込むと、2組の制服がエレベーターのドアにマイルドに挟まれながら飛び込んで来た。
「ヤバイよね、私達」
「おいおい、大丈夫か?」
女学生は一瞬戸惑って尋ねて来た。
「日本人ですか?」
「そうだよ。」
「えー、なんだか嬉しい!」
「俺もだよ。」
Ground floor から1階までの僅かな会話。
「Good luck.」
それだけ声を掛けて、女学生と別れた。
まあ良いか。
やりたい事は大体やった。
部屋に戻ってシャワーを浴びよう。
ホテルに戻ってシャワー浴び、今日の顛末を旅行記に書いた後で、例の曲のMVをDLした。
ホテルのwifiで決済情報のやり取りをすべきでないので、一応レンタルwifiに繋ぎ直す。
よくよく考えれば通信業者はZTEで、これが信用できるかといえば怪しいと言えなくもないが、さすがの中国企業も共産党の指導で個人の決済情報を抜いて金をチョロまかす様な、大胆にセコイ真似はしないだろう。
DLが始まると、レンタルwifiの使用量がみるみる増えていく。
DL終了だ。
アップテンポの曲だが、今日のエンディングテーマには相応しいだろう。
画面の中に、まだ訪れていない風景や、見覚えのある建物が映る。
そうだ、曲の中に「夕立もきっと来る」というフレーズがあったが、まだ来てないぞ。
4,000年に一度の美少女の神通力も、事、天気に関してだけは通じないみたいだ。
残り1日半。
夕立で俺を振り回す事は出来るかな?
【8】2018秋、ベトナム、ホーチミン Day 4-5|4日目・5日目 Cảm ơn bạn! I had a great days. LOVE, Ho chi ming City. へ >>
お笑い芸人のカズレーザーがめちゃくちゃ好きなんだけど好きと言える人が周りにいないのでここに書く。
ヒーローやコブラが好きで高校時代からずっと赤い服・金髪を貫いていて、
年間150~200冊くらい本を読んでいる長身の色白マッチョで、
顔は基本尾藤イサオ氏似だけど映りによってはそこそこキレイな顔をしていて、
キャラ渋滞とよく言われるように漫画みたいなエピソードや特徴をいっぱいもっていて、
上に挙げた以外にも、Mr.ビーンbotを手動で運営していたり、極度の偏食だったり、特撮オタだったり、重度のさだまさしファンだったりする。
手先が器用で、日常会話程度なら英語を話せて、プログラミングの知識があって、歌もそこそこ上手い。
運動はそんなに得意じゃないみたいだけど、カズレーザーは概ね何に対しても平均以上のことができる。
何より抜群に頭がいい。
私はお笑いについて全然詳しくないミーハーなので、カズレーザーを好きになったキッカケも、
「カズレーザークリニック」というお悩み相談番組的で、将来が漠然と不安だと話す東大生相手に、
カズレーザーのしたアドバイスが名言としてSNSでバズっていた。
「ハッピーエンドに決まってるのになんでバッドエンドにしたがるの?」
「理由を見つけて自分が不幸だなと思おうとしているだけで思わなければずっと幸せだからね」
カズレーザーはあくまでその東大生一人に向けてしたアドバイスであって、誰にでも当てはまるものじゃないと後のインタビューで語っていたけど、
先行きにただただ不安を感じてるような、毎日息苦しいような人達には良い言葉で、実際、私にもこの言葉はすごく響いたのだ。
薄っぺらいきっかけと言われたらそれまでだけど、私はそれからカズレーザーの出る番組を見まくるようになった。
番組を見まくっていて気付いたのは、カズレーザーがぜんぜん、天然ものじゃないことだった。
カズレーザーは売れていない時代から毎日最低一本はネタを書いていて、安藤なつとコンビを組んでM-1で売れた。
今はめちゃくちゃ勉強してクイズ番組で結果を残しまくっているし、バラエティ番組での切り返しの精度も上げてきている。
カズレーザーは素のメンタルが強いばかりでなく、鬼のように努力をする人なのだ。
その上で売れたのは「運が良かったからだ」と言う。
カズレーザーを色んな媒体で追ううちに、なんとなく、カズレーザーってこんな人っていうのが私の中で見えてきた。
好きなものへの探求心が強く、色んなジャンルに興味を持っているからその分深堀度がものすごい。
息を吸うように努力をするのが当たり前で、プロ意識が高く、売れるための努力を何もしていないのに口ばっかりで行動に移さない人や、高望みする人に対しては厳しい。
そのかわり、一生懸命努力している人たちへの面倒見はものすごくいい。
自分のことを冷静に見つめていて、過小評価に感じられるくらい、自分のお笑いの才能をこれっぽっちも信じていないかわりに、
周りの芸人仲間に対しては深い愛情をもっていて、仲間たちが売れることを自分のことのように無邪気に喜ぶ。
子ども相手でも大人相手でも、上からでもなければ下からでもない、同じような一定の距離感で接する。
感情が無いとかサイコパスっぽいとか言われるけど、そのフラットさの中に情がないわけじゃないんだということも分かってきた。
カズレーザーに何でこんなに惹かれるのか、私もまだよく分かっていないけど、とにかくスゴい人だ、と思っている。
欠点も山ほどあると思うけどそれ以上に目が離せない。
型にハマらないとか自由だとか飄々としているとか、色んなカズレーザー評を見てきたけど、まだ自分の中でカズレーザーをどういうカテゴライズにしていいのか分かっていない。
ただ、息苦しい気持ちになったときにこの人のことを思い出すとちょっと息継ぎができるような、私にとってはそういうスゴい人だ。
バーチャルユーチューバー界、よく知らないんだけど。
輝夜月ちゃん、キズナアイ、ミライアカリぐらいしか知らないんだけど。
有名な美少年枠がまず出てこない。
VRでも、バ美肉=バーチャル美少女受肉って言葉がある通り、美少女になりたい人が多い。
そりゃそうでしょ。美少女だもん。
金髪碧眼でもよし、黒髪アジアンビューティーでもよし、異色髪もいい。
逆に美少年って言われてどんな子を思い浮かべる?
三次元でもそんないなくない?
せいぜいターミネーターの子役時代とかじゃない?めっちゃいいよね。
多分、みんな美少女になりたいから、美少女がもてはやされるし、聞き役として選ばれるんじゃないかな。
美少女、なりたいでしょ?
▼前段
・ネトフェミ=ここでは「学問として体系的にフェミニズムを学んではいないが、フェミニズム的言説に親和的でネットで発言することがある」人。つまり私
・過去のオタク絵騒動についてのスタンスでいけば、のうりんとラノベ表紙については「いやおっぱいしまいなよ」と思う。
明らかに性的な魅力を著しく誇張する狙いのイラストなので、TPOや販売レーベルを考えるべきだと思う。
・碧志摩メグについては絵自体の性的強調よりは海女さんたち本人に嫌われたことが大きいと思う。
たとえば自分が教師だとして、「黒スーツミニスカハイヒール(ちょっと乳首が浮いてるようにも見える)」ないかにも二次元女教師なイラストを職場のPRに使われたら嫌だし、納得するだけの理由が説明されなければ反対すると思う
▼キズナアイについて
・正直Vtuberという文化をよく知らないので絵だけの評価になるが、個人的にはそこまでエロ要素が強いと思わない
・ただ、同時に萌え絵っていうのはそもそも女性への性的視線をはらんで育ってきていることは否定できない
・それゆえ、「萌え絵であること」それ自体に「女性への性的蔑視」と批判されやすい文脈があるとは思う
・なんというか、「刺青を入れてる人は、反社会的であると疑われ怖がられても仕方ない」みたいなことで、「萌え絵を用いる人は女性蔑視を疑われても仕方ない」みたいな。
その感覚が正しいと私は決して思わないが、バイアスのかかりやすい表現形態であり、そこに近年の医大受験をはじめとしたマジモンの女性蔑視案件が絡んで批判が吹き出したのではないか
・おそらく女性だからというよりは「若者よりの(オタク)カルチャー」のアイコンとして選ばれていると思う
・ではなぜキズナアイが女性の形でなければいけなかったのか?と考えるとそれってオタク向けカルチャー全体の構造の話ではないか
・初音ミクもそうだけど、オタク向けカルチャーでメインを張るのは常に少女の姿だ。Vtuberもほとんどは美少女キャラだ。
・もちろん女性向けのオタクカルチャーもあり男性表象もあるけど、それは常に傍流だ
・これは、「ネット上で声が大きいのは男性オタクである」ことと同時に、「少女の表象を好むのは男性オタクだけではない」ことも影響していると思う
・萌え絵は女性への性的視線をはらんでいると書いたが、同時に萌え絵のルーツには少女漫画の絵があり、また萌え絵師には女性の描き手もすごく多い
・これはなにも矛盾することではなく、単純に、多くの女性は「性的魅力がある女性」を「美しい」と感じると思う
・ようちえんのころ読む絵本のお姫様は金髪碧眼で胸元の空いたドレスを着ていたし、男性好みだろう制服に似せたミニスカートのアイドルはかわいらしい
・それはもしかしたら「社会からの男性的価値観の刷り込み」の結果かもしれないけど、ともかく感覚として、それらを美しいと感じる人は多い
・セーラームーンはなかよしで連載された女児向けの漫画だけど、明らかに男性向けのモチーフに満ちている。彼女たちがセーラー服である必然性もあんなにもミニスカートである必然性もまったくない
(何十万年も前の前世から続く戦いでなんでセーラー服着てんねんて話である)
・確か単行本のあとがきで、この企画は男性担当者が作者に「セーラー服の女の子のヒーローものかこうよ、ぐふふ」的な持ちかけ方をしたと描いてあったと思う。あの作品の萌芽には「男性による女性への性的視線」があったし、実際にそういう消費の仕方をされまくった
・それでもセーラームーンを批判する声が少ないのは、もちろん「フェミニズム的な考え方より先に作品が浸透した」「現在の論壇の人たちが子供時代に楽しんでみていた」こともあるだろうが、セーラームーンの作品内において男性がまったく支配的でないこと(むしろ彼らは客体にしかなれなかった)、少女たちのある種ホモソーシャルな関係性が描かれていたこともおおきいだろう
・女性作家が、流麗な「女性的な」筆致で、誇りをもった存在としてセーラー戦士を描いたからあの作品は批判対象にはなりにくかったのではないか
・今、「萌え絵」と「少女漫画絵」の区別はつけにくい。もちろんどちらにも傾向はあるがネット社会において文化は常に交雑している
・萌え絵は「女性蔑視のアイコン」とされやすい文脈を持っているとかいたが、萌え絵を用いて描かれる作品の多様性にしたがって、その文脈は変化していくだろう、そうだといいな、と思う
・同時に、「男性から見た性的魅力」以外の「美しさ」も、次第に私たちの意識に浸透してきているんじゃないか
・そういう時代の変遷に希望を託しながら、なりゆきを見守っているのがいちネトフェミの現在である。
----------------
気が付いたらブコメたくさんついてて驚いた。
1点だけ。
かき消してない、全然かき消してない。
その前段で多くの女性は「性的魅力がある女性」を「美しい」と感じる、と言ってる。
その一例としてセーラームーンの話をしている。
女性が魅力を感じる女性の表象と、男性が性的魅力を感じる表象が一致していることが現実としてある。
そして、仮に「セーラー服の女の子が戦う漫画描こうよ、ぐふふ」が萌芽にあったとしても、
現実に多くの男性に性的に消費されるキャラクターデザインであったとしても、
セーラームーンの中で確かに誇り高い女性キャラは描写され、広く女性に受け入れられた。
それは同時に起こりえることだった。
そういう話がしたかった。
セーラームーンを平気で「男の性欲が無ければ無かった存在」として扱うの、当時女児で純粋に好きだった自分としてはかなりショックなんだが。萌え絵否定のためなら女性作家や少女ファンを蔑ろにしても平気なんだね。
扱 っ て ね え よ
だめだ謝ろうかと思ったけど謝れない
もともとの文章が悪かったのかと思ったけど追記してもなおそう書くのってどういうことなんだ
ブコメだけ読まないで本文読んでください
酒は抜けてないけど、返信だけ。
だらだら書いて、自分でもひどいなーと思ったので、ウザいと思ったら、日本のゲームにあこがれてやってきた金髪ツインテールの女子が上気させながら書いてると思っててください。ルーツさんメソッド。
ゲンロン側のお気持ちを想像して書かれても、こちらとしては特にそうですか、としか言えないので、その辺は割愛で。
もともと「この記事には事実誤認がある!」ってゲーマー側が大盛り上がりして、その流れで投げられた電ファミの質問状が
そもそも知りようがない内部情報を元にした指摘と編集方針へのツッコミが大多数のクソの山だったので、
そりゃないだろうというのが元記事の主張であって。ゲンロンの語りが正しいとかそういうことは1ミリも言ってないつもりですよ。
ひらがなの人褒めたけど、あの人にも突っ込みどころがないわけじゃないし。
返信だけと思ったけど、思いついたので、ついでにぶら下げときます。
Twitterではゲンロンを許すなとか未だに言ってる人いて、なんでだろうなあ、あのリスト読んだんやろー?と思ったんだけど、
やっぱヲタクちゃんは自分達が一番ゲームについて知ってるって思ってて、ゲーヲタカースト外から突っ込まれると、すげー嫌なんだろうなという想像はしました。
あと「ゲームの歴史」という正しい一つ史観だけがあって、ゲーヲタカースト上位の長老達がそれを知っている、今回の騒動で、長老達が重い口を開いて語った歴史が正しい。と思っているのではーと。
これも想像。「正しい『ゲーム史』」という言葉はTwitterで見たけど。
それも正しくはあるんだけど、人だし、忘れるし、会社員だし、言えないこととか、ポジショントークとかするじゃないですか。そういうの現実世界でもいっぱい見てきてるじゃないですか。
近年Wizファンのあの人が頑張ったように、歴史なんて調べなおせば変わることもあるもんなので、アマチュアの頑張りも大事だから、
そういう語りとか、語りの際しての細かい省略や間違いを認めないスタンスはあかんでしょうって思うのよね。
なんとか警察ってすこしネガティブな意味合いでみんな言うじゃないですか。
あと業界人も自分のいないメーカーについては結構アレなこと書いとるぞ。
Wikipediaは間違っとる!って書いてた某氏の同人誌にんん?って思うような音ゲーへの記述があったり。
大事なのはみんなで自分の知ってることを気軽に話したり、評論したりできる場だと思うんですよね。
私は君たちが豊かな文系教養科目を受講できていることを羨ましく思う。
自分たちまでの世代は文系教養科目というと、オーソドックスで最高の座学か、“学士号しかないのに都の西北で教授になった金髪の胡散臭いインターネット昔話”くらいしかなかった。
ああ、悪魔祓いの話をしてくれるオタク蔑視のクレイジージャーニーもいた。
彼は文化人類学が専門らしいが、弊学のオタクたちの情緒は理解できなかったのかな。
あれほどまでに他者と向き合ってきた学者もオタクとなると未成熟なヒトとしか捉えられないらしい。
さて2016年以降入学の聡明な学生諸氏においては、最近の立看板や張り紙など学費値上げに関連した様々な活動を展開されているようで大いに結構である。
しかし2016年以降入学の学生がリベラルアーツ教育で無限の教養を手に入れているというのは自分の誤解であったのか、もしくはあの素晴らしいリベラルアーツ教育ではあまり社会学に触れる機会がなかったのか、はっきりとはわからないが、ここはひとつ「景観」という概念について述べたい。
学生諸氏が知らないのはNHKニュースおじさんが教えてくれなかったのが悪いのだが、「景観」というのは社会的に共有される財産の一つである。
景観とは誰もが参加しうる実体に関わる価値であるために、スワンボートやまことちゃんハウスは批判されていたのだ。
そもそも大学のキャンパスというのは実際には難しい公共的な立場にある。
完全に公共に開かれた場所ではなく、指定国立大学法人の管理する土地である。
しかしその法人の性質上、ある程度まで公共に開かれて地域に貢献することが望ましい。
また近隣住民が銀杏を拾っているだけで烈火のごとく怒り出す理学部の教授と、自転車走行禁止区域の傘さし子連れ自転車マダムを調停するのも大学法人の責任ではないかと思うが、その問題自体はここでは無関係である。
ここで大学のキャンパスには上記のような公共性が求められているということがわかるだろうか。
つまり学内だから地域社会とは独立である、もしく国立大学なので自由に市民が利用できる、という言説はどちらも間違っていて、端的に不寛容な価値観だと言わざるを得ない。
このような状況の中で「景観」について考えると、大学の中にあってもその景観を破壊することが何を意味するのか。
ここから明らかなように、景観を破壊することはそれを共有する全ての人々の財産を破壊しているということになる。
もちろん大学のキャンパスの中では大学の許可があれば自由に看板を建てられるし、百年記念館の素晴らしい扉にポエムを書きつけることだってできる。
しかしそのような行為によって景観を破壊することは高等教育を受けているような知性の持ち主に要求される倫理において当然許されることではない。
そもそもあの立看板は無許可であったのだが、それは今回述べたこととはあまり関係ない上に、この大学で学生による自治の概念が絶望的に欠落していることと文化的に京都大学を経由していることによって私の語りうるところではない。
ちなみに社会工学科の人は、川喜田二郎によって弊学の学生運動が懐柔させられたという噂の真偽をコメントしてほしい。
話が脱線したが、大学において求められる景観について十分に説明できただろうか。
私は景観とは都市的な文脈の中で位置付けられるものであると考えており、そのため京都大学に立看板を立てることを問題視する立場にはない。
この大学の景観を良いとは言えないが周辺の住宅地は幾分マシな方である。
端的に言おう。
特に百年記念館の扉にダサいポエムを貼ったり、80周年記念館の壁に「ここは80周年記念館です」などと意味不明のダサい案内を貼るのはやめてほしい。
ダサさが問題なのではない。
それがどれだけ格好良くとも、周囲と調和が取れておらず景観を破壊しているのが問題なのである。
施設管理課の人間がどれほどの教育を受けた人間なのかは知る由もないが、おおよそ高等教育を受けた人間のすべきことではないので中卒だと思う。
意図せず大学批判になってしまったが、この日記の目的は2016年以降入学の聡明な学生に景観について考えてほしいということである。
今や街にアニメキャラクターの巨大な広告があってもそれほど問題にはならなくなったことや秋葉原ではそもそも問題ではなかったことを思い出してほしい。
大学教育というものについてよく理解できていない人間が多いようだが、大学は教育を受ける機会を与えるのみである。
「〜を教えてくれないのはおかしい」や「〜を教えるな」など批判にもならないような意味をなさないヒステリーをtwitterに書き殴るのも本当はやめたほうがいい。
そもそも現在行われているようなリベラルアーツ教育が意味をなしていないのは学生に教養が足りていないからである。
高等学校までで教わるような基礎的な知識をロクに覚えてもいないから、議論をしても無が展開されるのみであるのだ。
文系科目を雑に批判して自らの無教養を醜く晒すのではなく高校の教科書などを読むとよろしいかと思う。
確かにクレイジージャーニーやNHKニュースおじさんの施策は最悪だが、大学という場所は自分で勉強することができる場所でもある。