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https://anond.hatelabo.jp/20180214020955(「同性婚に反対する理由は論理的根拠が無いと思う」)
私は同性婚に反対だ。
昨今、同性同士の婚姻を制度的に認めようとする、怪しからぬ動きがある。
確かに、男だけが女性と結婚でき、女が結婚できるのは男性だけなのは、不公平と言えよう。
しかし、女性と結婚できる権利は、男性の確固とした既得権益である。
そして、既得権者である私は、この不平等が是正されて欲しいとは全く思わない。
私が見当違いのことを言っているとお思いだろうか。女性がこのことを不公平だなどと思うはずがない、と。
しかし、虚心に見比べてみてほしい。
優しく、美しくて、柔らかくて、清潔で、スベスベして、良い匂いのするのが、女性。
ガサツで、醜く、ゴツゴツガサガサして、汚らしく、指の背とか変な所に毛が生えてて、臭いのが、男性。
そのいずれが好ましいかを。友人としてならいざ知らず、性愛の対象として男性を好むものは少ないはずだ。
無論、男性を好む男性がいるように、男性を好む女性も、皆無ではあるまい、しかし本来それは圧倒的少数のはずだ。
そう、私は、レズビアンは本来マイノリティではないと言っている。女性が女性を好むのは、ごく自然なことなのである。
その証拠に、多くの女性は、花や、ぬいぐるみや、包装を開いたばかりの石鹸のような、優しく、美しくて、ふわふわスベスベして、清潔で、良い匂いのするものを好むではないか。
男性諸君、私の言葉を疑うなら、女性の立場に身を置いてみればよろしい。
私は想像する。
もし私が自分の妻や恋人の立場だったとしたら、私と結婚したり子供を作ったり親しく触れ合いたいなどと思うだろうか?
断固として否である。
鏡の中の私とキスすることを想像するだけで吐き気を催すし、さらにその先のことを強制されるなら、舌を噛んで死ぬことを選ぶだろう。
我々のパートナーは、これほどの苦痛と不快と屈辱を一見平然と受け入れているのだ。感謝などと言う言葉ではもはや言い尽くせない。
男が獲物や給料を持ち帰り、社会的経済的に優位を保てていた時代は、とっくに終わっているということを。
その状況で、両性からパートナーを選べるとしたら、いったい誰が男性など選ぶというのか。
たちどころに世の女性は全て、モテる女性たちに独占されてしまうではないか。
同性婚に賛成する男性諸氏は、そのことを理解しているのだろうか。
他方で、女性たちはこう囁いてくるかもしれない、
『否とよ、多くの女性は男性を好むものだ。そのような心配は当たらない』と。
しかし諸兄、このような耳に快い言葉にこそ、よくよく用心を払うべきなのだ。
空手形に踊らされてはならない。
これは我々を欺き油断させるための、危険な罠というべきである。
このような甘言に乗せられたら最後、彼女たちは我々にとっての全て、すなわち全女性を、瞬く間に掠め取ってしまうだろう。
そのようなことは火を見るよりも明らかではないか。
彼女たちを注意深く観察するが良い。
女性たちが如何に男性を遠ざけ、女性同士で固まろうと腐心しているかを。
もし法的社会的に同性婚が認められたら、我々男性はどうなるか?
それについては、今の女性たちが、止むを得ず男性と結婚していることを思えば、考える余地はない。
女性を女性に独占されてあぶれてしまった男性たちは、互いに男性をパートナーに選ぶようになるはずだ。
あるいはその先には、めくるめく世界が待っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
自分よりも悲惨な人がいようが、自分が手に入れるつもりだったものが手に入らないとか、持っていたはずの権利が無くなったとかが、許せない人ってのはいるよ。
自分が手に入れられるつもりだったのに手に入らない、の典型的なイメージは
・自分が身を粉にして働いてきたのに年金が思ったより少ないのは、若い世代が怠けているせいだ
・昔は腹が立ったら嫁に当たり散らしたり、部下の女相手にエロ話してストレス解消できたのに、今はDVとかセクハラとか言われる
・自分は先輩を敬っていたのに自分が老人になったら敬われていない、これはおかしい
こんな感じのことを思ってる人は普通にいるでしょ、ネット界隈を見ているだけでも。
実際には自分たちよりもより収入が低い若い世代がたくさんいることとか、抑圧された立場の人がいることとかは多分関係ない、彼らには。
驚いたことに、担当者は、費用を追加する話しかしなくなり、それを厳しく指導することが
できないマネージャ体制なので、どんどん悪い方向に状態が進んでいく。
そのため(予想はしていたが)、この業績悪化ですでに裏リストラが始まっている。
社員を降格させることで、経費削減を、こっそりと進めている。人事の言い分は、こうだそうだ。
売り上げが減っているんだから、仕事も減っている。だから、高給を与えるポジションは
減るはずだという理屈だ。
ならば、まず最初にするべきなのは、マネージャの数を減らし、減給するのが先ではないだろうか?
自分たちを既得権のように守り、ビジネスの結果に責任のない個々の担当者の収入を減らすことを
なんのためらいも無く進めている、自分の信念もない、今のマネージャ達には呆れてしまう。
惻隠の心の大切さをベテラン達から指導されること無く昇格してしまったマネージャがいるビジネスユニット
そう聞くと、そんな組織にいたいと思う人は、どこにもいない。
が、それを見抜いている人は、ほとんどいない。
それは君の職場だよと言ったら信じないだろうけど。
わたし女だけど、「男のほうが地位が低くてセクハラ被害者になる世界」が、女性がセクハラを受ける世界よりも圧倒的に小さいんだからどうでもいいみたいな態度は、
結果的に「セクハラなんて女が男をハメるための卑怯な武器だろ?」とか「お前が誘ったんじゃねーの?」とか「それなら職場から女を絶滅させよう」とか、そういう類の
ある種の人たち(男女問わず)の、セクハラへの無理解をさらに深めるだけだろうなぁ、というのは分かる。
あと、女性と男性の間の「感じ方の差」を相互理解しようという方向ではなく分断を深めることで、結果的に男性優位(というかオレが今持ってる既得権)を、
他の誰かを踏みつけにしてでも確保拡大し続けてやりたいと願っている少数の人たち(男女問わず)だけが得をするよなぁとかも、ちょっと思ったりする。考えすぎかもしれないけど、そういう悪い予感もある。
海洋の生産力にただ乗りしているくせに、江戸時代から続く入会漁業とかいう既得権で幅を効かせて不当に法の庇護下にある。
最近、モテないことから女性蔑視が強くなり、女性を攻撃してくる非モテのミソジニー男がいると知り、嫌いなのになぜ絡みにいくのか、理解に苦しむ。
男性嫌悪・不信が強い女性は、男性からの加害を受けた経験があり(一番身近な男性、父親からの場合も多い)同じように、女性にまつわるトラウマがあり女性嫌悪・不信になっている男性(ヤリチンと化している。ミソジニーが強い男ほど、色んな女と関係を持つ不思議。関係を持つことが復讐になる、と無意識で思っているのかな?)も見てきたから、直接的なトラウマはない、ただモテないことで女性蔑視が強くなるという非モテミソジニーオタクの存在は、衝撃だった。
ミソジニーもミサンドリーも、相手を攻撃したいからか、相手に変わって欲しいという幻想があるからか、嫌いな相手である男・女に絡みにいくのが、不思議。
男vs女をやっている場合ではなく、男&女vs既得権益だと思うけど…
今、一部の既得権のあるオッサンだけが不自由がないだけで、大多数の人間は男も女も不自由なんだから、男と女で争ってる場合ではないよな、と、日々感じる。
女性の、男社会への怒りを、男への怒りだと勘違いした劣等感の強い(被害者意識の強い)男がいるから、男vs女になるのかもしれないけど、そういった勘違い男に絡まれたとき、フェミニスト女性は男性嫌悪や不信も強かったりするから(被害を受けた経験からフェミニストになってたりするから)、その男へ嫌悪や不信感に満ちた対応をして、ますます、対立が深くなるのかな…と。
女性は男ではなく男社会に怒っているんだということ、弱者男性として女性に理不尽な怒りを向ける男たちは、その怒りの矛先が間違っている、本来は強者の男に向けられるのが適切なものであること、結局、お互いの敵は同じであることに気付いて、やっていけたら、いいのに。
こういう漫画(?)がバズっているらしい。
これを読んで、昨今のフェミニズムの歪みを感じた。
「(この作者のいう)フェミニストになってはいけない」と強く感じた。
アホらしい。
性犯罪が許されないのは当たり前。被害者を(理由もなく)非難するが許されないのも当たり前。
(↑に「理由もなく」と書いたのは、はあちゅう氏の件などを意識している。全く非難されてはいけないという訳ではない)
しかし、この作者のように一方の側(この場合は「女叩き」)のひどいところだけをピックアップして
試しに「男叩き」で検索してみるといい。性別を裏返しただけのほとんど同じ光景が広がっているから。
そもそも、フェミニストとは女性を守る存在ではない。女性を対等に扱う思想であろう。
それを言うに事を欠いて「女性を守る」ことを「フェミニストになる」とは笑うしかない。
「女性は守るもの」という思想のどこが女性を対等に見ているというのか。
「そうは言っても女性は(身体的に)弱いから守らなくちゃ」という意見もあるかもしれぬ。
その考えは否定しない。私もその考えがないとは言い切れない。
しかし、その考えは捨てねばならぬ。フェミニストになるためには捨てねばならぬ。
男性が女性と対等である以上、男性は訳もなく女性を守ったりしない。それが基本だ。
(もちろん、半径5メートルの(身近な)女性を守ることは否定しない。)
男女平等を旨とするフェミニズムに忠実たるには、女性を守るという思考は捨てねばならない。
そして、「女性に攻撃(物理除く)してはならない」というのも捨てねばならぬ。
男性は、他の男性を故あれば攻撃する。思想の違い、相手のミス等々。
無論、その理由の妥当性は別途検証されねばならないが、「女性だから」攻撃しないのはフェミニズムに反する。
現状、「女叩き」があって「男叩き」があってその理由もわからない戦争が続いているが、
個人的意見としては、男性視点では(旧来の不平等の解消として)既得権を奪われ、
しかもそれ以上の(表現規制、女性専用車両など)の攻撃を受けていると見えても仕方ない状況。
当然、反撃は来るだろう。それを非難するのはフェミニズムではない。
再反撃、反論は勿論するべきだろうが、しかし反撃されること自体を非難してはならない。対等であるならば。
とはいうものの、最近では女性が「フェミニズム」を求めていないような気もする。
・払ってほしい
・守ってほしい
といった声が大きく聞こえる。
これが女性から出てくるということはフェミニズムは望まれていないのだろう。
我々はフェミニズムを捨てることを考えねばならぬ。
しかし、「払うだけ」「守るだけ」というのも業腹であるし、筋が通らない。
女性の側にもフェミニズムで得た権利を手放してもらう必要があるだろう。
ここまで考えの赴くまま書いていて、「タイトルとリンクしていない」ことに気が付いた。
だから、「男性がフェミニストになってはいけないワケ」を書いて終わりにしたい。
それは、
お返事どうも。
女性はフェミニズムという既得権を守ろうと必死な割に、「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という大昔のジェンダー観を後生大事に持ち歩く。
ですね。電車に限らず駅構内で「無実の男性」と「女性」を比較すると、女性の方が強い。 http://biz-journal.jp/i/2016/03/post_14463_entry.html この男性は自殺してますね。他にも有罪になった男性はいます。政治的な正しさ、という観点では無辜の人間を罰している段階で男性を救済すべき方向に振れるべきだと思うんですが。男性にはポリコレが与えられにくい。
どっちもどっちなのですが、そこで男性はずっと女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切るのはもうかなりの時代錯誤
今までも、これからも感謝されない、価値も認められない、のであれば、なおの事、女性に何かする理由が無くなっちゃいますねw いやそれが悪いと言ってるんじゃなくて、そういう時代なんだなー、と。
私は嫁さんが料理を作ってくれると感謝したり褒め称えたりしてますけどね。
あと嫁さんも私が何かすると感謝してくれたり誉めたりしてくれる。
そういった感謝のやり取りのない、無関係で無実で疲れているかもしれない男性に「それでも男性は女性は守られるべき」って言うのは、マッチョだな、と思いました。性役割分業での「男性は強いので女性を守るべき」というマッチョ。
もう、そういう押し付けから男性は解放されてもよいかなー、と。今回の女性専用車の件で。
ここ面白いですね、これ私は逆だと思っていて「男性が女性を守らなくてよい(守るのは自由意志)」のは新しい価値観だと思います。
「男性は女性を守るべき」という意識が男性の中で確固たる状態にあるなら、そもそも女性専用車の議論って発生してないんです。それは「男らしくない」と断罪される。今はその辺が揺らぐくらいには性役割分業から解放されつつある。
引き続き、元増田です。
ただそういう人たちのことは置いておいて、今回の件は反対する側も強引だったように思います。
たまに障碍者が何かしてもらったときの態度が横柄だと叩かれることがありますが、人の助けを通常より多く受けなければならない境遇にある人間は、常にこうべを垂れて生活しなければならないのかということが問題になります。
その言い方に敢えて乗るなら、「常にこうべを垂れて生活しなければならない」のであります。
むしろ「こうべを垂れる」程度で守られるというのは恵まれたポジション。大半のひとは「こうべを垂れ」ても守られやしない。
現状、女性が守られるべきでない理由はこれとはちょっと違うと思っていて、
女性が女性側の分業を放棄したうえで「守られる」のはフリーライド以外の何物でもなく、であるならば「こうべを垂れる」しかないのでは?
確かに社会的にはもうそろそろ庇護は要らなくなってきた女性に対して、腕力の面では、腕力のある男性と比べて庇護対象である場合が多いという理屈は、
何回か書いているが、男性に対して望んだわけでもない「腕力」を持ち出すのは、「暴力」であります。
例えるならそれは、子供を産めることを特権だと主張する様なもの。
現代社会では基本的に使い道のない、女性に向けて振るわない「腕力」を持ち出して「守れ」と迫るのは男性への「暴力」。
どっちもどっちなのですが、そこで男性はずっと女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切るのはもうかなりの時代錯誤であるし、
差別という言葉もちゃんとした定義がなされていないまま宙ぶらりん、
女性はフェミニズムという既得権を守ろうと必死な割に、「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という大昔のジェンダー観を後生大事に持ち歩く。
ここも一緒くたにするには無理があると思っている。
男性が「女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切る」ことは一応の筋は通せる。これからも女性を守る前提ではあるが、「大昔のジェンダー観」という規範に基づく。
こういう主張の男性が、「女性は守らない」と主張すると途端に筋は通らなくなるが。その場合は当然、非難されるべき。
しかし、女性が「フェミニズムという既得権」によって得たのは「大昔のジェンダー観」とトレードオフなので、まったく筋が通っていない。
「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という価値観を放棄するのはフェミニズムである以上、フェミニズムで得られたものを持ったまま「守られるべき存在」にはなりえない。
まあ確かに、ここで口汚く罵る女性の姿も決して褒められたものではありません。
女性も男性も、こういうのが無駄なヘイトを生むのだろうなと苦々しく思います。
ただそういう人たちのことは置いておいて、今回の件は反対する側も強引だったように思います。
たまに障碍者が何かしてもらったときの態度が横柄だと叩かれることがありますが、人の助けを通常より多く受けなければならない境遇にある人間は、常にこうべを垂れて生活しなければならないのかということが問題になります。
確かに社会的にはもうそろそろ庇護は要らなくなってきた女性に対して、腕力の面では、腕力のある男性と比べて庇護対象である場合が多いという理屈は、普段から女性に対してよい印象がない男性にとっては、飲み込むのにちょっと抵抗があるだろうなということは、想像に難くない。
どっちもどっちなのですが、そこで男性はずっと女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切るのはもうかなりの時代錯誤であるし、差別という言葉もちゃんとした定義がなされていないまま宙ぶらりん、女性はフェミニズムという既得権を守ろうと必死な割に、「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という大昔のジェンダー観を後生大事に持ち歩く。
だから女性専用車両の話もそれらをごちゃ混ぜにして拗れまくっているのでしょう。
女性の社会進出によって、女の経済力や権力、発言力などが段々と増えてきている。
その結果何が起こったかというと、(男から見た)女自身の性的価値が下がるようになったのだ。
今までの男社会では、女は男よりも性的価値が高い存在であるということになっていた。
男社会では男の価値観が何よりも優先されるため、女の性的な価値は高くなるのは当たり前だ。
そして女性の社会進出の改革によって、男の発言力が相対的に低くなれば、女の性的価値はそれに比例して低くなる、という当然の帰結である。
F1グリッドガールの廃止やエロ本規制なども、世の中の女性の社会進出の流れと連動しているのだ。
女性の社会進出の改革によって男は今までの既得権を多く失うが、逆に新しく得られるものもある。
それが一体何なのか、これから考えていきたい。
だいぶ乗り遅れてしまったのですが、まあいいかと思いつつ済ませていたら、悶々と思いを抱き続けることになったので、もし同意していただける人がいらっしゃったらと思って書くことにします。
はあちゅうさんの告白や年末に放送された「ガキの使いやあらへんで」の特番の影響もあって、日本においてもポリティカル・コレクトネスについてだいぶ議論されるようになってきました。議論が起こること自体は、自分としてはいいことなんかじゃないかと思っています。
そして、ポリティカル・コレクトネスによって提起されている思想・信条についても基本的に自分は賛同しています。人種・民族によって差別をしないこと、性的差別をしないこと、セクハラ・パワハラやその両方をしないこと、LGBTQの人も同等の権利が認められるようにし、偏見を解消していくこと……私はこうしたことについては賛同しています。
けれど、日本でのポリティカル・コレクトネスの語られ方――こういう言い方だと大雑把過ぎるかもしれませんが――例えば、以下のような記事を見て、すごく違和感を覚えたのです。
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2018/01/09/073000
ぜひ読んでもらいたいのですが、簡単に言うと年末に放送された、ダウンタウンさんの年末恒例の番組「ガキの使いやあらへんで」の特番で浜田雅功さんがエディー・マーフィーの顔真似をするために「ブラックフェイス」をしたのが「笑えない」と述べておられます。音楽ジャーナリストの方のブログなので、まあそういうこともあるかなと思っていましたが、先日、朝日新聞の論壇時評の委員を務めていらっしゃるような方もこちらのブログを参考文献として挙げていたので(ちなみに私は朝日新聞批判論者ではありません。肯定派でもありません)、そこまでなのかと思いました。ポリティカル・コレクトネスが日本でこうやって語られてしまうのは、私としては「どうなんだろう」と思ったのです。
先に挙げたブログについては大きく言って二つ、違和感の覚えることがありました。一つ目は「笑えない」と断じていることです。自分は笑えない、その意識を持たないとダメなんじゃないかとおっしゃっているように私は読みました。けれど、ポリティカル・コレクトネスが海外で提唱されることになった背景を考えてみれば、すぐに分かることだと思うのですが、いじめやいじりが「笑えない」のではなくて「笑えてしまう」ということ、その残酷さを考慮しないと、本当の意味でポリティカル・コレクトネスが提唱するものは、そこに根付いていけないのではないかと思うのです。もちろんのことですが、「笑っていい」ということではありません。でも、日本では「笑えない」という啓蒙的なアプローチをすること自体が本当の意味での理解を生まないのではないのでしょうか。
それに関連して二つ目ですが、こうした記事が分断のマッチポンプになっているのではないかということです。ブラックフェイスは様々な視点で見て多くの人に誤解されうる表現です。私はそれが今回、指摘されることになったのはいいことだったと思っていますし、日本の民法のテレビとしては不適切だったと思います。
では、あのシーンが、もしくはあの番組自体が、人種差別的なメッセージがあったかというと、そんなことはないというのも大抵の人は分かっているのではないでしょうか。重ねていいますが、だからブラックフェイスをやっていいということではありません。でも、あのシーンで「笑った」人はそれなりにたくさんの方がいると思うのです(松本さんは後日「浜田が悪い」と言っていましたが、らしいコメントだと思いました)。そして、そういった人々が人種差別の意識を持っているかというと、そういうことではないと思うのです。
けれど、先に挙げたようなブログが掲載されて話題になることで、笑った人と「笑えない人」の分断を生むことになります。私も笑った人間の一人です。ブラックフェイスだから、即座にアレルギー反応のように自分の感情を拒否したわけではありませんでした。罪を犯した側からこうしたテーマについて提起するのは分かる気もするのですが、自分は罪を犯さなかったとわざわざ言う人の言論には正直、違和感を覚えてしまいます。そして、結果として、そういう意見が人種差別の意識がまったくない人に対しても線を引き、分断を増加させていくことになるのではないかと思うのです。
一昨年のアメリカ大統領選挙について海外からの報道を見ていましたが、私はなぜドナルド・トランプ大統領が勝つことになったのか、腑に落ちていませんでした。けれど、今回の一件を見ていて、すごく分かる気がしました。「ガキの使いやあらへんで」の特番のブラックフェイスに笑った私は、いわゆるポリティカル・コレクトネス陣営から見れば、人種差別主義者ということになるのかもしれないと思ったのです。
そして、先ほどのブログの執筆者と別の方が対談されている原稿が掲載されていて、更なる違和感を覚えました。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54106
——
柴 テレビの話題では、2017年の大晦日に放送された『絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時』でのブラックフェイス問題が、年明け早々、世界中の主要メディアで報じられるという事態が起こってますね。
宇野 うーん、あれに関する国内の擁護コメントとかを見てると、ちょっと絶望的な気持ちになってくる(苦笑)。
柴 というと?
宇野 簡単に言うと、あれを擁護するということは、「これからも日本は文化的鎖国をしていこうぜ」って話でしょ?
確かに文化的鎖国をしたところには様々な既得権も存在していて、そこで生活をしてきた人はその構造を変えたくないんだろうけれど、さすがにもう無理なんじゃないかな。
宇野 それもあるし、多くの日本人が誤解しているように思えるのは、ポリティカル・コレクトネスの問題って、別に政治的、社会的な問題だけじゃなくて、逆らうことのできない商業的な要請でもあるんですよ。
好成績を続けている『スター・ウォーズ』の主要キャラクターが女性や黒人の若者なのもそうだし、去年世界で最もヒットしたアメコミ映画が『スパイダーマン』でもヒーローが総結集した『ジャスティス・リーグ』でもなく、単独女性ヒーローの『ワンダーウーマン』だったのもそう。
ポリティカル・コレクトネスに配慮しない作品が、だんだんお客さんから見向きされなくなってきてる。
――
引用ここまでです。
アメリカではもう白人だけのアイドル・グループはありませんし、映画やドラマにおいて人種的多様性を反映させることは前提になっています。それを日本に安易に当てはめようとすること自体が私としては拙速過ぎるのではないかと思うのですが(将来的にはそれを考えないといけない事態もあると思います。そして、『ワンダーウーマン』の議論についても割愛します)、一番違和感を覚えたのは「ちょっと絶望的な気持ちになってくる」という言葉でした。
例えば、日本におけるヘイトスピーチを見た時、確かに私も「絶望的な気持ち」になります。けれど、それを第三者に伝えるときに私は「絶望的な気持ち」という言葉を使いません。いろんな人がいますし、どんな可能性があるかも分かりません。もっと複雑で込み入ったニュアンス、嫌な言葉で言えば、玉虫色の言葉を使うのではないでしょうか。隣人を含めたテーマです。ポリティカル・コレクトネスはそれを変えていく運動でもありますが、本当に自分の問題になった時に「絶望的な気持ちになってくる」といったような“威勢のいい”言葉を使うことはないのではないでしょうか。けれど、「ガキの使いやあらへんで」や『スター・ウォーズ』といった、自分からは飛距離のある場所では、そうした言葉を使ってみせる。それっておべんちゃらのように聞こえてしまいます。
伊藤詩織さん、ひいては司法の問題、LGBTの婚姻についての問題――程度の問題ではないですが、「ガキの使いやあらへんで」よりも私たちが考えなきゃいけない問題はまだまだあります。
「ガキの使いやあらへんで」の特番でのブラックフェイスはやってはいけないことでした。けれど、もっと語りにくいけれど、考え、話し合って、変えなきゃいけない問題があるのだと私は思っています。そこには時間軸も入ってくると思います。明日からすぐに変わることはありません。1年後にかわっている保証はありません。では、いつ変わるのでしょうか? そのために必要なのは威勢のいい言葉ではないと思います。
モリカケ関係の政権批判記事とかを今日もいくつも見る。それらの記事を直接どうこう言うつもりはないんだけど、マスコミの人は自らの信頼度と購買者数をイコールにした上で残高的に考えていて、その額がまだある(=購買者はまだ数万人いる)からまだまだ大丈夫と思ってるんじゃないかなあ。
信頼度は購買者数(とか視聴者数)とは無関係に、もっと手前のゼロがあり、このゼロってのは要するにポイント・オブ・ノーリターンだ。その値まで達してしまったら「偏向報道や虚偽報道を繰り返すこのマスコミの言うことは何も信じられない」っていう人の数が飽和段階になり、そのマスコミはもうどうあがいても蟻地獄的な悪評に落ちていくしかなくなる。それがはっきりわかったのが、前回の米国選挙だったんじゃないのか?
その状況になったら、そのマスコミがいくら購読者数が残っていようが、正しくて有意義な報道を使用がまったく自体を打開できなくなる。さっき「ゼロ」といったけど、数字と同じようにそこはゼロなのでそこから先は加速度的にマイナス方向に転げ落ちるだろう。たぶん底はない。
もちろん私企業としてはその段階になっても(残された身内の購読者に対して売り上げれば)利益は得られるかもしれない。でも正確な情報を国民に知らしめるとか、情報共有によって国民の議論を深めるとか、マスコミの社会的な使命や存在意義という意味では「死ぬ」。そのダメージや責任についてあまりにも無自覚じゃないかな。そういう社会的な意義があるからいまは法的にも社会通念的にも特権与えられてるんだよね? そういうのが未来永劫既得権として保護されると思ってないか? ゼロを超えればマスコミじゃなくてただの少数向けアジテーションメディアなんだから、当然のようにそんな特権は(いまネットに存在するまとめサイトにように)剥奪すべきってことになるよ。まとめサイトよりも上質で正しい記事、かけてる?
米国の選挙で米国民がマスコミに取った態度とか、そこに見られる主張(「彼らは報道しない自由を行使して事実を捻じ曲げるばかりなので信じる価値はない」といったような)を見る限り、日本のマスコミだって「信用残高」がまだまだたっぷり残っていて心配の必要はない、ってほどの安心状況ではないように思えるよ。
毎日のニュースは信頼を積み上げることもあるけれど、当然信頼をどんどん毀損する方向にだって作用しうる。信用残高を意識した報道をしてる自信、ありますか?
リベラルっていう用語は今では多義的になっちゃって拡散しているんだけど、源流をたどると「絶対王政などに見られる巨大な権力者に対して個人の自由を守り社会を安定させ豊かにしていく思想」があるよね。国の命令で、一般的な民間人の生命やら財産やらが奪われてはならない。思想や発言には自由があるべきだし、職業や結婚相手を強制されるべきではない。個々人は個々人で自分の人生を生きる自由がある。古典的な自由主義としてのリベラル。
いま日本では、リベラルが退潮とか危機とか言われているけれど、どう考えても歴史上もっともリベラルが花開き成果があるのが現代だと思う。古典的な自由主義者が目指した自由と繁栄の国が、いまの日本だよ。
もちろん、リベラルという語の示す意味合いは歴史によって徐々に変わっていった。いま死のうとしているのは、後発の変化した後のリベラルなのだ、という指摘は正しい。
しかし、でもだとするのであれば、その主張方法も変えていくべきだったのね。一番古典的なリベラルは上記のように「巨大な権力者の恣意的な権力乱用から市民と市民の自由を守る!」というものだったから、その主張手法は「だから、権力者(日本の場合首相とか与党とか政府)を厳しく監視してそれを咎めていかなければならない」であるわけ。日本の野党が国会で、やたらに与党に噛み付いたり、「安倍政権が九条を変更すると即座に戦争を開始してしまう!けしからん、断固打倒!」というのは、たしかに、古典的リベラルの主張としては正しいわけ。なにせ彼らは「巨大な権力者の恣意的な権力乱用から市民と市民の自由を守る」が主張なのだから。
でも最初に述べたように、古典的リベラルが憂いていた社会問題――たとえば王様が個人的鬱憤やら貴族の内輪もめで戦争を開始して農民の命がゴミのように消費されるとか、身分差の下位の側が奴隷としてなんの自由も選択権もなく酷使されるとか、餓死するとか――そういうのは、現代日本においてほぼ解決された。こういうことを言うと顔を真赤にして「現代のブラック労働問題が!」とか叫ぶ人はいるけれど、少なくとも法的な側面ではかなりのケアが進み、運用側の問題へと問題は進んでいる(日本の生活保護の捕捉率はたしかに大問題だけど、運用の問題ではある)。
つまり古典的な自由主義者は、打倒すべき問題の殆どを失ってしまった。日本の社会で言えば、1970年代の公害訴訟あたりの時期で、社会的使命を一旦果たした。そこで寿命を迎えたと思うのね。
もちろんそこで社会問題がなくなったという話じゃないんだけど、それらを指摘して解決していくためには、リベラルは名前を変えるか、名前を変えなかったとしても少なくとも主張方法は進歩させるべきだったわけ。なにせ古い主張とその手法は、古い問題に最適化されているわけだから。「安倍政権が九条を変更すると即座に日本は戦火に包まれる」なんて主張を、現代日本国民の誰がどれだけ信じている? 1%もいないとおもう。現代日本人の殆どは「政権を監視して非難すれば問題が解決する」なんて、もはやファンタジックなおとぎ話だと感づいているんじゃないかな。
現代に残る社会問題は、格差にせよ人口減にせよ、少数の絶対悪者が陰謀の結果日本に振りまいた災厄ではなく、すべての日本国民が利害関係者として今まで行ってきた選択の結果起きた、避けえない出来事であって、誰か少数者をリンチしてスッキリしたとしても、解決なんて出来はしないって気づいているんじゃないかな。
にも関わらず、いわゆるリベラルと言われる組織や政治家が懐古的な「邪悪な政府の陰謀論」を卒業できないのは、本当に卒業できないわけじゃなく、そういう手法を卒業しないことで利益を得ていた既得権集団だっただけなのだ。そういうことがほとほとわかっちゃった。そういうのがこの数年の政治状況じゃないかな。
いま日本でリベラルに愛想を尽かしたり、叩いたりしている国民も、一番最初に述べた「国の命令で、一般的な民間人の生命やら財産やらが奪われてはならない。思想や発言には自由があるべきだし、職業や結婚相手を強制されるべきではない。個々人は個々人で自分の人生を生きる自由がある」という意味では、立派なリベラリストなわけね。それらは当たり前にいつでも手に入る無価値な宝物ではなかった。たとえば北朝鮮ではそういう社会が実現されてないもの。
だからその部分は歴史に対して胸を張っていいとおもうのだ。そして同時に、自分たちがそういう意味ではリベラリストなんだから、リベラルを必要以上に憎むべきではない。少なくとも歴史のある時期、それらは社会に必要で、現代の豊かで平和な社会につながる重要な役目を果たしたわけだから。
一方で、そういう言う意味では、リベラルという看板は役目を終えたし成仏すべきだと思う。現状、Webやらマスコミで「リベラル最低だ」っていってるのは、かなりの程度死体蹴りだ。「リベラルという少数悪が邪悪だったので社会が悪くなった」というのは、まさに駄目なリベラルがすがりついていた思想そのものだよ。すがる側も、嫌悪する側も、もうリベラルから卒業しても良い時期だ。
43 : 名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/15(水) 01:38:02.72 ID:oK1RNnGE0 [2/2回(PC)]
=0.1秒でばれるウソw
こいつらは享受しただけ。
日本のために身を粉にしてきた世代の方々には敬意を払う必要があるかと。
だいたい、お前らも自分の親の世代を見捨ててきたくせに見苦しい
・「そういうお前らもいつか年寄りになるんだぞw」
=ああ、なりますね。でも、どのみち、その時待ってるのは地獄だって分かってますが、何か?
我々には「老後」の希望なんか既得権世代に奪われたせいで初めから無いんですよ。とにかく「今を生きる」ことで精一杯なんですよ。
=え?単に既得権世代が譲歩すれば良いのでは?問題のすり替えに過ぎないですよ。
あれだけニートだの無能だのと若者に冷笑を浴びせかけたあげく負担を押しつけ、そして自分の既得権だけは絶対に手放そうとしないエゴイスト世代のほうが「分断」の原因でしょう。
産休育休取得率100%のホワイト企業女子社員だけどはっきり言うと、産休育休は既得権。
働きたくないから専業主婦希望する女と同じように、「働きたくないから子供産んで育休とりた〜い」という空気を纏う女子社員は実際かなり多い。
夫も育休とっていようが毎日定時だろうが、家庭が回らない訳でもないのに既得権だからあるだけ使う。ただ既得の甘い汁を吸いたいだけ。
しわ寄せはこっちに来る。これ全部管理側の問題ってするのはどこかおかしい。
新しい人を雇うにも席がない。
管理側は、イキイキママを雇用し続けるならもっと働かせろ。そうじゃないなら解雇しろ。資生堂見習って。現場を第一に考えてほしい。
追記
妄想じゃないよ。表現が曖昧だったけどそういう事言ってる人は沢山いるということ。
ものすごく敵を増やすようなことを正直に書けば、昔は専業主婦が「働かない」逃げ道だったのが、今は時短などで会社にぶら下がることを女の「楽をする」逃げ道として視野に入れている人が多いということ。そういう人は時短期間終わると会社辞める。
仕事したくないから子供産むの?って疑問は最もだけど、ついでに子供とかいると幸せっぽく見えるし?というめちゃくちゃ軽いノリで考えずに子供産む人はすごく多いよ。
あと、すでに甘い汁吸ってるママさん達は時短で楽な仕事しかしない「イチ抜け」状態なので、今更こちらの不満に耳を貸すことはない。本人達も既得権得ていることはわかってるんじゃないかな。
追記2
日頃のモヤモヤした本音をぶっちゃけただけなのに、なぜおっさん扱いされたり金もらって書いてる扱いされるのか甚だ疑問。
おっさんの妄言ならよかった?銭ゲバライターの嘘記事ならよかった?
そうやって存在ごと都合の悪い意見をなかったことにするのは「悪」ではないの?
「仕事より育児の方が大変〜」というアレなんですけども、そもそも、それってプライベートの話じゃね?って思うんですが。
育児が大変なのはわかったとして、それを知ったところで、育休社員分の増えた仕事が減るわけじゃないよね。私も苦しいんだからお前も苦しめ!という話はしてないです。
なぜ同僚のプライベートの理由で、何年もこっちが余計な仕事被んなきゃいけないんだろう?子供の運動会、楽しそうですね。私はあなたの分の仕事するために休出しますけど。
育児だろうと旅行だろうとデートだろうとゲームだろうと、プライベートのことはプライベートとして一律に平等に処理されるべきだと思う。
「平等な休みを」「平等な仕事分量を」求めるのってこんなに叩かれるべきこと?
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書いたのは私じゃないけど現代の女子社員像、まじでこんな感じ。言語化されてて感動したから貼っとく。ありがとう。
追記3
「子供がいると休めない」という反論を貰ってるけど…こちらの不満は、プライベート時間の有無の話なので、論点が違います。願わくば、私だってプライベートで登山とか野原駆け回って疲れ果てたい。
管理側だけの問題じゃないと書いたことの意味がわからないと言われた件補足します。
「新しい人を雇うにも席がない。」と最初のエントリーで書いたけど、この意味は
・正社員ポジション(席)と座席(物理)が育休ママにキープされてるので新しい労働力を雇えない
・すぐさま採用できて研修コストがかからなくて正社員並みの責任と権限で仕事してくれて育休ママが復帰したらすぐにやめてくれる都合のいい人材などいない
ざっくりまとめるとこう。社内だけで回すにしても、育休ママがいつ何人発生するかなんて予測できないし、余分に社員増やしても杞憂なら会社にとって無駄になるだけ。
派遣社員を使い回すには、研修コストがかかりすぎるしガチガチの業務サポートが必要になる。
もし仮に正社員ポストが開けば、正社員として長く戦力になる人を雇える。のに。その挙句、戻ってきた時短ママは、楽な、仕事しか、しない。。。
管理側は最善は尽くせるけど、結局現場レベルで負担が増えることには変わらないんですよ。
あと、育休中は、お金、出ますよね。みなさん、結構貰ってます。
追記ばっかですみません。
ブコメ「こういうこと言う人がいなくなればいいのに」を読んで、