はてなキーワード: 早熟とは
今年のリーディングサイアーランキング100位以内の種牡馬をピックアップしてみた。
今のところランキングの10位以内に入っているのはキズナのみ。ただし2頭のGI馬がどちらも牝馬なのが残念。ディープボンドはどうなるか。大本命・コントレイルがまだ控えているが、そこでコケるとディープ系といえども存続は危うくなってくる。とにかく数だけは多いのでどこかで奇跡的に大物が出てサイアーラインが繋がる可能性はあるが。
イクイノックスの種牡馬入りにより曾孫世代までは確定した。ソールオリエンスも種牡馬入りできそうだ。キタサンブラックもこれからさらに活躍馬を出す可能性はある。とは言うもののやはり現時点では層が薄すぎる。イクイノックスが駄目だった場合には苦しくなるだろう。
今年デビューのスワーヴリチャード産駒は今のところ好調だが、2歳戦だけではまだまだ信用できないところ。他にはシュヴァルグランとサリオス、今後はドウデュースの種牡馬入りも期待できるだろうが、いずれも良い繁殖牝馬を集められるかどうか。苦しい戦いを強いられる。
他にコパノリチャードやアドマイヤマーズなどがいるものの、ダイワメジャー産駒はマイラー・早熟傾向が祟ってなかなか大物が出ていない。サイアーラインを繋げるのは難しいだろう。
間違いなく大物揃いなのだが、いずれも種牡馬として成功しているとは言いがたい。これが血統の怖いところであり、コントレイルやイクイノックスでも安泰とは言えない理由でもある。オルフェーヴルについては、いちおうエポカドーロが種牡馬入りしているが種付け数は少ない。
サンデー系最初の後継種牡馬として長年気を吐いてきたが、キンシャサは既に種牡馬引退し、残ったイスラボニータも低調である。
他にクリソベリルなど。ダート種牡馬は地方で需要があるので粘り強く残るかもしれない。とはいえ日本競馬においては傍流にならざるを得ない。
このあたりはもはや厳しいだろう。
こうして見るとフジキセキ・ダンス・スペ・タキオン・マンカフェ・ネオユニ・ロブロイあたりはほぼ衰退、近年の人気種牡馬であるハーツ・ステゴ・ダメジャあたりも孫世代では苦戦しており、現時点で「安泰」と断言できるような系統はない。最良の繁殖を集めるには現役時代の活躍が必須であり、そういう意味で今後期待できるのはディープ系のコントレイルか、ブラックタイド系のイクイノックスしかいない。サンデー系の未来はこの二頭にかかっていると言っても過言ではないだろう。ウインドインハーヘアは偉大なり。
にわかなんで逆に盛り上がってる大種牡馬は何なのか知りたいところだが…。それとももうサンデーサイレンスみたいな一強種牡馬はいないのだろうか?
ここ10年くらいはディープインパクトの天下だった。離れた2番手は非サンデー系の筆頭・キングカメハメハ。3番手を堅実なハーツクライ・一発が大きいステイゴールド・仕上がりの早いダイワメジャーが争うかたちだった。そのディープとキンカメが亡くなり、いまは種牡馬戦国時代のまっただ中である。
今年のリーディングサイアーを争うのはキンカメ後継のロードカナロアとドゥラメンテ。ロードカナロアは、まったくサンデーの血が入っていないこともあり、とにかく産駒数が多くて盤石に見えるが、牝馬のアーモンドアイを除くと産駒は小粒で、めぼしい後継もサートゥルナーリアくらい。ドゥラメンテは大物を連発しているものの既に亡くなっており、後継はタイトルホルダーくらいになりそうだが、社台のバックアップが無い点はどうか(ドゥレッツァは今後の活躍次第)。
非サンデー系では、グラスワンダーの孫であるモーリスも大いに期待されていた種牡馬だが、いまのところは事前に上がったハードルを越えられておらず、サイアーランキングでは7位に留まる。非サンデー系ではもう一頭、シンボリクリスエス産駒のエピファネイアも、初期からデアリングタクトやエフフォーリアなどの大物を輩出して期待されたが、アベレージが低くて今年は9位に沈んでいる。
というわけで現在は「圧倒的な一強」はいないし、そうなれそうな種牡馬もいないので、まだ産駒が走っていないコントレイル・イクイノックス・タイトルホルダー・エフフォーリアといったあたりの活躍に期待するしかない。
高三や中三の女の子に勉強を教えていると、AVみたいな展開の妄想だって叩かれるかもしれないけど向こうから女を出して誘ってくる事が割とまぁある。
やれ先生のLINEを教えて欲しいと言われたり(規定で個人的なやり取りは禁止されてるから卒業後にしか交換しない)、来週は授業前に少しだけ息抜きに2人でカフェに遊びに行きたいだの、大学1年生の盛った男みたいにアプローチかけてくる(女子は早熟と言われる所以はここにもあるのかもしれない)。
合格したらデートに連れてってなんて言われることはザラだし、過去には体を触って欲しいと言い出す子もいた。
それでも、たとえめちゃくちゃ可愛い子でも、体の発達が良くても、たとえ法改正されて18歳が成人になったとしても、やっぱり彼女らの事は「子供」としか見れない。だから断固として断る。そして担当者を変えてもらって離れる。
子供のうちは大人の男に魅力を感じてしまう時期がある事も知ってるし、何より自分は大人としての責任があるから、彼女らの想いに応えることなんて絶対にできない。
男側からではなく女側からアプローチをかけたのだから純愛なんだと主張している人たちを見ると、それは違うんだと言いたくなって仕方がない。
性が絡む時だけ若い女を賢い扱い、自己決定権尊重!とかっていう男、まじできもいよな。
グレタさんとかマララさん、痴漢抑止バッチ作った女子高生、医大入試で差別された女子高生とかを一人前の人間として認めてきたフェミニストレベルになって初めて、性が絡む時も若い女を賢い扱いする資格があるのに(もちろん、性が絡む時だけは例外的に未成熟者として保護してもよい)。
歳が離れた相手と結婚した若い方が、歳の近い夫婦を羨ましがって後悔してるのはまれによく見るから
片方が去年まで学校の制服着てたような歳の差婚は、年下の人が歳の差婚を人生の汚点にしない自信があるなら、年下自身が何年経っても幸せでいられるなら別に好きにすればいいんじゃねえの
歳の差婚の年上って同世代と比べると幼稚な人間が多くて、年下は逆に同世代より早熟で落ち着いてる(だから年上が早々に見透かされて年下に愛想を尽かされる)パターンが多いよな
すまん。
「ツイ主の主張はペーパーテスト能力とクリエイティビティの相関性を肯定してる」ってのは理解してるんですが、ツイ主が引用してる元論文がそもそも早熟児の進路に関する記事なので、ペーパーテストの能力がとクリエイティビティと相関するって話にはならんのでは・・・って疑問が最初に書いてるやつで。
「元増田はいきなり途中で親などの環境の有利さとペーパーテストの相関関係についての論文の話にスライドしていて」ってのは、ツイ主の「実家の太さはテストの点数には多少関係あるものの、それ以外の要因(適正など)の方が大きい」に対する反応っす。それぞれのツイに対する疑問点を分けて書いたつもりだったんだけど、長い文章書く訓練ができてないのでめっちゃわかりづらいかも。すまん!
将棋界のプロ制度には1)「棋士(性別不問)」と2)「女流棋士(女性のみ)」があります。
(https://www.shogi.or.jp/knowledge/world/01.html)
>プロの世界には、現役・引退あわせて230名を超える棋士がおります。 現在は男性しかおりませんが、女性でも棋士になることは可能です。
>棋士になるには、奨励会という棋士養成機関に入ります。 奨励会には一定以下の年齢で、棋士の推薦を受けた人のみが受験できます。
>女流棋士になるには、研修会に入ります。 研修会には25歳以下の女性が入会できます。そこで規定の成績を挙げることにより女流棋士2級となります。
で、1)「棋士」と2)「女流棋士」は全く別の制度ですので区別する必要がありますが、"女性棋士"という言葉は1)「棋士」の女性を指します(現状は存在しません)。
「女流」という言葉が差別的だという意見もありますが、代替案として私が思い付くのは「レディース棋士」ぐらいです。ダメか。
ただ女流棋士という名称は数十年かけて定着したので変更は簡単ではないでしょう。
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またこの手の話題では「女流棋士は女性が奨励会を勝ち抜けないから女性だけのプロ組織ができた」という意見もありますが、これは正確には誤りです。
時代をすごーく遡ると江戸時代には数名女性が将棋を指した記録が残っていますが、明治から大正、昭和にかけては将棋を指す女性はほぼいませんでした(賭け将棋が流行っていた、将棋=ギャンブルの時代)。
それが1960年代に連盟が女性教室を開いたり、女性アマ棋戦を作ったりして女性の将棋ファンが少しずつ増え、1974年に女流棋士制度が誕生します(来年で50周年)。
大山康晴十五世名人は将棋普及面の充実ため女流棋士制度の確立を強く提唱したそうです。
ちなみに1976年に建設された東京・将棋会館の設計にあたって大山名人は女子トイレの増設も主張したとか。えらい。
少し話がずれましたが、女流棋士が出来たときは将棋を指す女性は非常に少なく、棋士と比べるレベルではなかったんですね。
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数十年の時が流れ、昔より女性の将棋ファンは増えたと言っても競技人口としては女性はまだまだ少ないです。特にプロを目指せる小学生(棋士は大体5、6歳で将棋を覚える)。
将棋は早く始めないとプロ棋士は無理。これホント。中学生になって囲碁から将棋に転向しました〜とかないですから。
ただ早熟が正義なのは変わりませんが、誰でも将棋が強くなりやすい時代にはなったと思います。
昔は対面で指すしかなかったのがネット対局や将棋ソフトなど勉強方法は多様化。地方在住のハンデは少なくなったし、将棋を指す友達が0人でも強くなれる。
だから女性棋士も沖縄出身の棋士もそのうち出るでしょう、きっと。
(今日の豆知識:福井県、滋賀県、島根県、佐賀県、大分県、鹿児島県、沖縄県は将棋棋士を一人も輩出していない)
(終わり)
大学在学中はSFに飢えていて、「AKIRA」とか「エヴァンゲリオン」とかを観ていたのだけれど、「ラーゼフォン」にはハマることができなかった。問題は長さなのではないかと思い、26話も見る必要のない映画を手に取った。
この作品が好きだったのは、クラークやイーガンが好きだった自分が求めている、別の惑星の風景描写があったことだ。僕が映像作品を評価するのは、どれくらい思いがけない風景を見せてくれるかだ。火星の大地や、木星とイオのあいだにかかる雷の橋が美しかった。ヒロインからの携帯メールにも確かクラークへの言及があった。
また、日常の美しさを切り取った言葉を、詩のようにつなげていくアニメを見たのは初めてで、そこも新鮮だった。
敵方の宇宙人が、鏡像となって話しかけてくるところなど、露骨にエヴァの影響を受けているし、詩的な文章も村上春樹のフォロワーに過ぎないと感じはしたものの、この監督の作品をもっと見てみたいと感じた。
「僕と彼女の猫」は忘れてしまった。珍しく自分が好意を寄せている女性視点の失恋の話だった気がする。
僕が好きな要素がとにかく詰まっていた。架空の歴史、知的に早熟だけれども情緒的には年相応の少年少女、そして天にそびえる真っ直ぐな塔。東京からも見える北海道のメガストラクチャーという、自分の想像力をはるかに超えた世界を見ることができた。
もちろん、欠点もあった。ヒロイン・佐由理を救うか世界を救うか決断を迫られる主人公・浩紀は、セカイ系の典型例に感じられて冷めてしまったし、あと、これは前にも書いたのだけれど、主人公のやっていることはテロリズムの肯定だ。
テロ組織の名前も、北海道を手に入れるためなのにアイヌ解放戦線じゃなくて、サハリン・樺太の先住民族ウィルタ解放戦線だ。ヒロインの祖父の名前ツキノエはアイヌ系の名前だが、そこには一切触れられないし、朝鮮半島のように南北に別れた家族の悲劇は、ごくわずかしか触れられず、プロットには絡んでこない。つまるところ、政治は装飾でしかない。いいのか。
にもかかわらず、この作品を好きになってしまった。アニメで精密に描かれた東京の景色は、当時の僕の生活圏とかぶっていた。自分の暮らす世界の彩度を高めた景色は、ぐずぐずとした感傷に僕を引き込んだ。何にもでもなれると、まだかろうじて思い込めていた頃だった。
そして、テーマ曲があまりにも切なく、これがずっと頭の中で流れ続けていた。過剰なまでに作中で繰り返され、露骨でさえある。しかし、悔しいけれども切ない気持ちになるのをやめられなかった。ラストで虚無に飲まれる北海道の美しさで息をのんだ。
自分の青春に満足できていなかった僕は、この甘ったるいテーマ曲の映画に呪縛されていた。批判しつつも、フィルムブックとノベライズを買ってしまうほどだった。これが感傷マゾなのか。
退屈さを感じる場面や、冗長な個所もあった。でも、日常の風景を美しい色合いで描くアニメを他に知らなかった。第2話冒頭の、貴樹が空想する巨大ガス惑星が空にかかった惑星の風景は、僕が創作していたSF小説の舞台として何度も用いた。
そして、第3話で流れた「One more time, One more chance」ですべてを持っていかれた。ヒロイン・明里と結ばれないラストを見て「そうなんだよ! これこそが人生なんだよ! はっはっは!」と快哉を叫んだ。「鬱エンドだ」「悲しい」と言っている連中を笑っていた。なんてこじらせた大学生だったんだ。これもノベライズを買った。
振り返ってみれば、主人公はいつまでも明里の幻影に惑わされており、サーフィン少女・花苗の気持ちにちゃんと向き合っていない。独り身の期間が長かった自分は「応えてやれよ!」とあとになって思ったものだった。そりゃあ、思春期だから初めての感情ばかりで、あまりにも未熟で、だから人間関係で目も当てられないような失敗を繰り返すんだけれど、「結局お前モテてんじゃん!」と怒りが湧いた。
後に、貴樹をはじめとした新海アニメの主人公たちはどうやって童貞を卒業したのかな、夜のお店かな、などと根拠のまったくない最低な空想をするようになってしまった。自分がそうだったからって投影するなよ。
統一感のない固有名詞(※僕はファンタジーで名前を付ける際には一貫性が必要だと信じている。だからアルカンジェリ、ケツァルトル、シャクナ・ヴィマーナと複数の言語圏から安易に引っ張ってくるのを良しとしないし、文法的に怪しいヴィータクアやフィニステラという語も納得できない)、ジブリの表層だけをなぞったような描写、主人公・明日菜が地上世界と地下世界の両方の血を引いているという重大な設定が劇中ではほとんど描写されないなど、自分が気に食わなかった点は多数あるが、最大の問題点は悪役の森崎(ムスカと揶揄される)のサブプロットのほうが面白く、新海誠が思い入れを持っているように感じてしまったところだ。
愛するものの喪失を受容せず(子の喪失ってキーワードも村上春樹フォロワーっぽい)、代理品や依り代を求め、神々なり悪魔なりと契約する姿は碇ゲンドウともかぶり、なんにせよ強烈なキャラで、明日菜を食ってしまっている。いっそ明日菜いらなくないか?
冥界をめぐり、禁断の知識の代償として盲目になるのは神話的でちょっと良かったけどね。
しかし、作者の意図や性癖が透けて見えるというのは一方的に親しみを感じる契機でもある。不完全にゆえに見透かせるものがあり、理解者になれたと錯覚できてしまい、結果的に作品を愛してしまうことがある(※これは新人賞を取った作品を読むときもそうなんだけど、「作者はこういうことをやりたいんだろうな。なら、ここをこうすればもっとよくなるだろうな」と考えつつ読むことが多い。創作をしていた人にありがちなことなのかな?)。
言いたいことはたくさんある。
けれども、最大の欠点は「何でもかんでも台詞で説明してしまうこと」だ。
最後のタカオとユキノが見つめあう場面で、高まった気持ちをぶちまけるのだけれど、音楽と映像がうるさいなので、台詞なんていらない。
新海監督は文章を書く能力はあるのは認めるけれども、「説明は小説でやれ」と感じる。「なんでも説明するのをやめてくれ、映画の受け手を見くびるな」とも感じた。
そして、鮮やかな色彩がわざとらしく感じられ、反発を覚え始めた。
ただ、この頃から日本の古典を扱いだしたのは嬉しい。ささやかな愛国心が満たされる。
僕は海外文学が好きなので、逆に外国の人に日本の詩を知ってほしい。
観ていない。
「言の葉の庭」の一件もあったが、ハッピーエンドになったということを聞いて、寝取られ性癖(というかBSS、「僕が先に好きだったのに」?)を抑える優秀なプロデューサーがついたんだな、とシニカルに考えていた。売れるようになった、大ヒットを飛ばすようになったとも耳にして、新海誠が自分からどんどん離れて行ったように感じた。そして、もう二度と新海アニメを見ることはないだろうと思った。友人や尊敬するSF作家が見ていると聞いても、耳を塞いでいた。
「君の名は」の予告の「スカート注意、男子の目線!」といったセリフにも、新海誠の性癖が透けてみるのだけれど、徐々に作者のあけすけな欲望に対して嫌悪を感じるようになっていた。
これは男子高出身の僕がそうだからかもしれないけれども、僕には、男性監督が女子高生をじろじろ見て偏愛していると気づくと、鬼の首を取ったかのように指摘してやりたくなる悪癖がある。岩井俊二の映画を観たときもそうだし、「ラストレター」を観たときは「俺を振った女は不幸になればいい」という怨念を感じた。庵野秀明が俳優やってたのはめっちゃ面白かったけどね。
ある女性が新海アニメが好きで、じゃあ一緒に見に行こうということになった。ただし、彼女が好きだったのは「君の名は」以降だった。
「お手並み拝見」と思いながら(なんだかんだで楽しみにしていた一方、不安でもあった)観てみると、極めてまっとうな少女の成長映画になっていて驚いた。
被災者のすずめが「死ぬのなんて怖くない」と言っていたのが、逆に震災の記憶と向き合い、心底死を恐怖し、逆に生きる実感を取り戻す構成が素晴らしかった。自分を助けに来た謎の女性が自分自身だったってのも良かった。周囲の支援が必要なのはもちろんだけれども、傷付いた自分を癒すためには、どこかで自分の力を信じて自分の足で立ち上がらないといけないのだ。
ロードムービーとしても優秀だし、周囲の人々が善意にあふれてすずめに手を差し伸べてくれたのも、叔母の環が思わず激高して負の感情をぶちまけるシーンのための溜めだと感じ、よく計算された素晴らしい脚本だと感じた。
今まで肯定的だった(あるいはマスコットでしかなかった)猫が、ダイジンという善悪の不明な存在になったのも面白い。
今まで別の災害という形で間接的に東日本大震災を扱ったと聞いていたが、正面から向き合ったのはとても立派だ。このタイミングでなければできなかっただろう。
恋愛要素を薄めたのも大正解。「シン・エヴァ」を観たときみたいに、「監督は大人になったんだな」と感じた。
それでも無念な個所はある。人口が希薄になった土地を神々に返すというモチーフと、地震を封じる要石というモチーフが、完全に噛み合っているわけではない(人口が減少している時代だから出てきた発想では? なぜそこから厄災が漏れ出る?)。少しぶれている。また、震災は人力で防げる、つまり東日本大震災は防げた、という誤った読解を誘発しかねない面もある。
あとは、震災の描写がリアルだし、緊急地震速報が頻繁に鳴るので、観ていてずきずきと頭が痛み、かなり気分が悪くなった(御茶ノ水近辺も学生時代生活圏内だったし)。昔は「アルマゲドン」みたいなパニック映画で大都市がぶっ飛ばされるのを見たり、「地球大進化」の大隕石で地殻津波が起きて日本列島が引き裂かれるのを見て気分爽快になっていたのだが、ある時点で感受性が「まっとう」になってしまったらしい。
ところで、この作品は村上春樹「かえるくん、東京を救う」のオマージュだとよく言われるけれども、「海辺のカフカ」のパロディも仕組まれている。東北まで中古車でドライブする芹澤青年が車内で流すのが「夢の中へ」だが、「海辺のカフカ」でも星野青年が何を探しているのかもわからない中田老人を連れて車で高松をドライブしながら、「探し物は何ですか~」と口ずさむのだ。誰か気づいてないかな。
そのくせ、村上春樹はオマージュにとどめ、影響下からは完全に脱しているように感じた。
疑問点。すずめの三本足の椅子、過去の自分に手渡されたことで、時間の輪っかをめぐっていないか?
どの作品かは伏せるが、主人公が僕の名前と同じで、ヒロインから名前を呼ばれるたびに恥ずかしいくらいに動揺してしまった。
当時流行っていたラブプラスをやっていたら、おそらく引き返せないことになっていただろう。
あと、「すずめの戸締まり」に関するウェブ記事で、新海監督が#MeTooのこともあるしパンチラを封じたと聞いて、機を見るに敏だなと感じ、何となく気に食わなかった。正しい判断だと思ったけど、商業性に屈したようにも感じたのだ。正確には、「雲のむこう~」みたいに政治的を雰囲気に使うのをやめたのが、なんとなくタイミングが上手すぎて、逃げ足の早さを感じるのだ。
でも、とっくに青春コンプレックスこじらせオタク向けのクリエイターから、国民的監督に変わってしまったのだ。寂しい。あんなこじらせた作品を書くのに既婚者なのも納得できない時期があった。
こういったことを、友人に対してつらつら語っていたら、「それはお前、もう立派なアンチだよ」と指摘された。「アンチじゃない、愛情と憎しみの両方を持っているだけだ。複雑な感情をも抱えているんだよ」と反論すると、「お前が複雑な感情を抱えていない対象なんてあるのか」と笑われた。ひどくない?
これだけ複雑な感情を抱えているので、「君の名は」「天気の子」を見るのがずっと延期になっている。諸般の事情でラブコメ苦手だし。
彼氏もいないし結婚もしてないのに生まれてない架空の子供のことが心配すぎる。
•車がビュンビュン通ってる通学路を歩いてる小学生を見る→自分なら絶対送り迎えする!と固く決意する
•香料が入った日焼け止めとか汗拭きシートを使う→これを使った直後に赤ちゃんを抱っこしたりしていいんだろうか…と心配になる
•芋臭い女の子を見る→なぜオシャレさせたり可愛くしてくれなかったの?と将来この子に恨まれるだろうか…と心配になる
•イケイケな女の子を見る→早熟すぎて男の子と遊んで望まぬ妊娠で人生が壊れたらどうしよう…と心配になる
•セブンの冷凍ピザを食べる→子供の前で自分だけピザを食べるわけにはいかないから、ピザを与えたり自分がピザを我慢しなければいけないのか…と不安になる
•ハンバーガーを小さい子に食べさせる動画を見る→スーパーサイズミーで見た通りにこの子は一生マック中毒になってしまうんだろうか…でもマックくらい行かせてあげないと可哀想なの…?と考えて不安になる
•夜にスーパーやドンキに来ているキッズを見る→こんな時間に出かけて将来どうなるんだろう…今日も眠れるのかな…自分なら全部ネットスーパーする…と決める
•車や周りを一切気にせずチンタラ歩く親子連れを見る→もっと自分なら周り警戒して歩くのに…と思う
•手を挙げて横断歩道を渡る子を見る→いい子すぎて悪い大人の言うことも素直に聞いてしまうのでは…と心配になる
•寝る前もし赤ちゃんと添い寝して寝返りうって死なせちゃったらどうしよう…とふと不安になる
ただ目の前の子供を見てその子を心配してるだけでは?とも思うけど、とにかく「自分なら…自分なら…」と心の中でめちゃくちゃ考えるのがやめられない。
自分ならもっと大事にするのに…とか一瞬見ただけのよその子供を見て勝手にそんなことばっかり考えてる。
お風呂に入れてる時に溺れちゃったら…自分の運転する車でうっかり轢いてしまったら…駐車場で手を振り払って走って轢かれてしまったら…もし通学路で誘拐されてしまったら…と不安ポイントが普通に生活してるだけであまりにも多いことに絶望する。
こんな危険だらけな世界でどうやって育ててあげればいいんだろう…とかおやつは手作りしてあげたいけど適度に市販のものもあげたいな…とか考え出すと止まらない。
繰り返しになるけど彼氏もいないし結婚もしてないのに、こんなに架空の子供の心配ばかりして母性本能が暴走しているとしか思えない。
ミルクを飲ませてゲップをさせてあげないと…って思ってたのにいつの間にか喋って歩くようになって幼稚園に入る…
時の流れの速さを想像したら、幼少期が儚すぎて時間が止まって欲しいと願ってしまう。
まじで最近疲れてきた。
(かなり前に書いたものですが、バービンハイマーのミーム騒動などもあり改めて知ってみたいので、一部修正の上再掲します)
・「児童・学生時代に教師が日教組だった(せいでなんらかの不利益を被った)」
・「○○(思想・信条的な何か)をしたら職員室に呼び出された」
というたぐいの話が広く出回っている。これらの話には大体、平和教育、人権・道徳教育、同和教育への批判的見解が含まれているようだ。
組み合わせて例えてみれば、「平和教育の時間に日教組の教師が反自衛隊的な講話をした。それに対して冷静に反論する感想文を書いたら職員室に呼び出された」みたいな話だ(あくまで例えである)。
別の例を挙げれば、「人権 本物はやたらに言わない」と描かれた人権ポスターと、それを描いたとされる小学生のエピソードが、たびたびなにかの機知のように出回っている。(参考:https://twitter.com/PatriotNewsJPN/status/170058241861103616)
あるいは、別に「放送委員として給食の時間に彰晃マーチを流したら職員室に呼び出された」みたいなものもその一種かも知れない。単に流行に乗ったのかそれともオウム真理教に対する何らかの確固たる意志があったかは分けられるだろうが。
私は90年代後半~0年代に、関東の一都市の公立学校で義務教育を過ごしたが、
教師が日教組であるとかそうでないとかを意識したことはないし、
あるいは何か「大人の建前に都合の悪い」ことをして職員室に呼び出された経験や、それを見聞きしたこともない。
(子どもらしい単純な悪戯や、非行、それに対する指導などは見聞きしたことはあるし、理不尽な教師の思い出もいろいろあるが)
もちろん、年代や、日教組の組織率など地域的な差はあるだろう。(一般的に東日本より西日本の方がその様な教育に熱心と言われているようだ)
しかし、そんなに、一言で言えば、アグレッシブな対立がしょっちゅう存在するのだろうか。
特に大きな疑問として「職員室に呼び出された」という話の場合、その職員室に呼び出された後の話がほとんど見受けられないのである。
それほど思い出に残る、思想的な挑戦の末に職員室に呼び出されたのなら、その職員室での対面の場で何か大きな教訓とでもいうべき体験がありそうなものだが。
2014年、横浜の中学生が、修学旅行先の長崎で、平和教育を行っていたガイドの被曝者に対し「死にぞこない」と暴言を吐いたという事件がある。(参考:https://hi-hyou.com/archives/1193)
これは学校という閉じた空間ではなく、学校外に向けて起きた事件といえるが、ネット上で見られるエピソードには当然これ程のインパクトがないし、裏付けもない。
普通のいたずらや非行とも違う、早熟ともいえる思想的対立を経て、「教師が日教組である」と喝破したり、平和教育などへの批判的精神を表明したはずの人々は、実際何を得たのだろうか。
もし、なにか、「担任教師が日教組だったから~」「(社会的・歴史的な何かについて)〇〇したら職員室に呼び出された~」といったエピソードを経験した(起こした)り、それについて見聞きした方がいたら、ぜひ反応を頂きたい。
できれば、大まかでよいので地方・年代とその時の歳・公立か私立か・職員室なり説教なりの対立で何が起きたのかなど、当時の環境も添えてほしい。
・「児童・学生時代に教師が日教組だった(せいでなんらかの不利益を被った)」
・「○○(思想・信条的な何か)をしたら職員室に呼び出された」
というたぐいの話が広く出回っている。これらの話には大体、平和教育、人権・道徳教育、同和教育への批判的見解が含まれているようだ。
一つの例を挙げれば、「人権 ほんものはやたらにいわない」と描かれた人権ポスターと、それを描いたとされる小学生のエピソードが、たびたびなにかの機知のように出回っている。(参考:https://twitter.com/PatriotNewsJPN/status/170058241861103616)
極端な例えをしてみれば「平和教育の時間に日教組の教師が反自衛隊的な講話をした。それに対して冷静に反論する感想文を書いたら職員室に呼び出された」みたいな話だ(あくまで例えである)。
あるいは、別に「放送委員として給食の時間に彰晃マーチを流したら職員室に呼び出された」みたいなのでもいい。
私は90年代後半~0年代に、関東の一都市の公立学校で義務教育を過ごしたが、
教師が日教組であるとかそうでないとかを意識したことはないし、
あるいは何か「大人の建前に都合の悪い」ことをして職員室に呼び出された経験や、それを見聞きしたこともない。
(子どもらしい単純な悪戯や、非行、それに対する指導などは見聞きしたことはあるし、理不尽な教師の思い出もいろいろあるが)
もちろん、年代や、日教組の組織率など地域的な差はあるだろう。(一般的に東日本より西日本の方がその様な教育に熱心と言われているようだ)
しかし、そんなに、一言で言えば、アグレッシブな対立がしょっちゅう存在するのだろうか。
特に大きな疑問として「職員室に呼び出された」という話の場合、その職員室に呼び出された後の話がほとんど見受けられないのである。
それほど思い出に残る、思想的な挑戦の末に職員室に呼び出されたのなら、その職員室での対面の場で何か大きな教訓とでもいうべき体験がありそうなものだが。
2014年、横浜の中学生が、修学旅行先の長崎で、平和教育を行っていたガイドの被曝者に対し「死にぞこない」と暴言を吐いたという事件がある。(参考:https://hi-hyou.com/archives/1193)
これは学校という閉じた空間ではなく、学校外に向けて起きた事件といえるが、ネット上で見られるエピソードには当然これ程のインパクトがないし、裏付けもない。
普通のいたずらや非行とも違う、早熟ともいえる思想的対立を経て、「教師が日教組である」と喝破したり、平和教育などへの批判的精神を表明したはずの人々は、実際何を得たのだろうか。
もし、なにか、「担任教師が日教組だったから~」「〇〇したら職員室に呼び出された~」といったエピソードを経験した(起こした)り、見聞きした方がいたら、ぜひ反応を頂きたい。
できれば、大まかでよいので地方・年代とその時の歳・公立か私立か・職員室なり説教なりの対立で何が起きたのかなど当時の環境も添えてほしい。
あなたが中学生の時、ともすれば高校生の時、こんな話を1度くらいは聞いたことがあるだろう。
「自分は教科書を10周くらいしないと覚えられないけど、学年トップの人は教科書1周しただけで全部覚えるらしいよ」
他にも、こんなことを語ってる人を見たことはないだろうか。
「普段勉強全くしてないけど、テスト前に教科書チラ見したら満点とれた」
凡人の自分たちは、一度くらいはそんなことを聞いたり見たりして憧れたのではないだろうか?
しかし社会人になると、そういう人間は全く見かけなくなるのである。
「Pythonの教科書1発見たらすらすらコード書けるようになった」
確かに、契約書を一発で覚えるとか、レジュメを全部頭に入れられるとか、
プログラミングもある程度習熟した人であれば、類似の言語であればすぐに書けるようになる。
しかし自分が少年時代に見たような「天才児」は消えてしまうのである。
結局彼ら「天才児」はどこにいったのか?と言えば、まぁそれなりにいい企業に入って居たり、勉強についていけず落ちこぼれたりしているのである。
何故かと言えば、「天才児」が教科書1周で頭に入ったり、一夜漬けでテストでいい点を取れたのは
「塾」に行っていたからだ。「中学校受験」をして、既に学んだ内容でできることだったからだ。
新しい事、新しい知識、新しい型になると、途端に彼ら・彼女らは覚えられなくなる。身に着けられなくなる。
20代を過ぎ、脳みそが成熟したぐらいになると脳の早熟も意味を失う。
もしこれを見ている子供がいたら、周りの天才児を見てもどうか気を落とさないで欲しい。
大学や企業に入れば、どえらい発明や発見をした「天才」と呼ばれる人たちは
学生時代は勉強が苦手だったり、案外記憶力が悪かったり、その分野以外はポンコツだったりする。