はてなキーワード: 入門書とは
とりあえずプログラミングかデータサイエンスの入門書なりオンライントレーニングなりにいくつか触れてみて、自分の適性を判断することをおすすめする
IT業界なら未経験者でも採用してくれる会社も探せばいくらでもある
未経験でもOK!教えます。というプログラマーの求人があったので、応募してみたら受かった。
受かったは良かったものの、仕事はざっとやるべきプロジェクトの説明、ソースの説明をした後、はい頑張って!!で丸投げ。プログラマー未体験の私、何も分からない。言語はJava。リーダーは自分も何も教えられない所から頑張ってきた、それですごく勉強になって出来るようになったと語るが、この方は元々頭良いと思うし、プログラマーやる前Webデザイナーもやってたから言語の理解も私よりアドバンテージがあった。対する私、まともにPCを使う仕事にすら就いたことがない。
ヒントを教えてもらっても、それでも分からない。何も分からないまま半月が経ってしまった。Java入門書も買ったが、やってる事に対する理解が追いつかない。あと、仕事が終わったら疲れて勉強出来ないのも問題。リーダー曰く、私は手を動かす回数が少ないからもっと色々試してみて欲しいという。そうなのだが、文字の多さやる事の多さに圧倒され、どこを動かせば良いのかも良く分からない。リーダーも忙しそうで、余裕がない。
プログラマーは、出来る人と出来ない人の差が激しい職業だというが、私は出来ない側の人間なのか。しかしそもそも、何もやった事のない人間に対し、丸投げ過ぎやしないかと思う。私ともう1人採用された人は、経験者でサクサクと進めている。歳が離れていてすぐ帰るから、愚痴を言い合う事も出来ない。せっかく新しいことを始めようと思って採用されたのに、これではあんまりだ。自分としては、何か技術を身に付けたいからプログラマーという職業をもう少し頑張ってみたいと思っているが、今の状況は辛いし、職場でどうすればいいのか分からなくなっている。気持ちを整理するため書いたけど、誰か、知恵を授けて下さい。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
・私が高校生時代の時に『ヒカルの碁』の漫画連載が始まり、瞬く間に空前の囲碁ブームが巻き起こった。
・けど私はあまりヒカ碁には興味がなくてスルー。友達が毎日佐為の話ばっかりするのを聴くだけの日々。
・大学時代、独り暮らしを始めて、暇な時間を潰す為にPS2を購入。ついでに気まぐれを起こして入門者向けの囲碁ソフトも購入。だがさっぱりルールがわからず。
・なぜかというと、近眼なのでゲーム画面の文字が全然見えなかったから。あと思うほど自分はゲーム好きではないと悟り、PS2と囲碁ソフトは部屋の片隅で埃を被る事に。
・当時はヒカ碁ブーム最高潮で、大学のサークルの先輩が伊角さん激LOVEだったので、何となく毎日伊角さんの話を聴くだけの日々。
・少年ジャンプを毎週講読してたから一応ヒカ碁は興味無いなりに読み続けた。
・そのうちバイトと卒論と就活に追われて囲碁の事は綺麗さっぱり忘れる。
・数年後、色々あって現実逃避にパソコンを購入。はじめてインターネットに触れるが、ネットに関して無知すぎて何をしたらいいのかわからず、PS同様部屋の片隅で埃を被るだけに終わるかもという時、ふとヒカ碁に出てきた「ネット碁」を思い出す。
・が、検索下手なのでcosumi(無料でコンピュータと対局出来るサイト)しか見つからず。cosumiの9路で悪戦苦闘したが訳がわからぬまま飽きる。
・携帯で日本棋院の「碁バイルセンター」という携帯サイトを発見。ここではじめて囲碁のルールを覚える。地の概念と超基本の手筋(ウッテガエシ、シチョウ、コウ、オイオトシ)を覚えたが本当にただ覚えただけだし、シチョウにいたっては石を追う方向を理解していなかった。
・同時期に携帯版『銀星囲碁』をやりはじめる。月額何百円だったか。ちなみに、銀星囲碁はスマホ版もあるのだが、たぶん携帯版の方が強かった。
・銀星囲碁で自分では打たずにヒントを見てその通りに打って勝ち、正しい打ち方を習得しようと試みる。
・しかし(当時の)銀星囲碁は超変な打ち方をしたので全然参考にならず。
・三年ほど育児にかまけている間に放置していたパソコンが壊れていた事に気づいて、うちひしがれる。
・産後のホルモンの変化か疲労のせいか痴呆状態になってしまい、物忘れは酷いし吃音にはなるし本は読めなくなるしで、囲碁以前に自分の知能に自信をなくす。
・今から4年ほど前、ガラケーからスマホに機種変。3日後にGoogle playストアで『囲碁クエスト』に出会う。深夜、当時赤ちゃんだった次女に授乳をしながら囲碁クエストで遊ぶだけの囲碁ライフ。
・4ヶ月で囲碁クエスト6級までいって伸び悩む。囲碁をちゃんと勉強したい熱が高まる。
・図書館で『ヒカルの囲碁入門』を借りて9路盤の部分だけ読む。すぐに囲碁クエスト4級に昇格。ヒカルの囲碁入門すげえ!
・同時期くらいに『チェスをする女』という小説を読み、元気付けられる。お母さんだって囲碁をプレーしていいんじゃないかという気になる(チェスには興味が向かなかった)。
・時々『ヒカルの囲碁入門』を図書館で借りてきては読み返し、囲碁クエストは停滞し続けるだけの囲碁ライフ。
・去年の夏、ひょんな事から長女が将棋を始めるとか言い出す。将棋にはトラウマのある私だったが、図書館で将棋の入門書を借りて来て、長女に将棋の基本中の基本だけを教えたら、長女は将棋を覚えてしまった。
・10月、地元の文化祭に将棋クラブが出展するというのを広報で知り、長女を連れていく。そこで将棋クラブのおじいさんと知り合い、長女は将棋クラブに入る事に。
・次女がやっと碁石を食わないだけの知性を身につけたので、長女を言い訳にしつつ念願の囲碁セット6・(9路のミニボードと13・19路盤の塩ビ盤とプラ碁石)を購入。合わせてヒカルの囲碁入門3冊セットも購入。
・長女に教えつつ、ヒカルの囲碁入門を読み込み19路の打ち方を学び囲碁クエストをするだけの囲碁ライフ。
・囲碁クエストの9路で2級に昇格。13路盤はやっと勝負出来るレベルになり、急に6級に昇格。
・ヒカルの囲碁入門で、基本定石や布石を学ぶ。また基本死活と詰碁を学習。リアル碁盤を手に入れたことで、やっとシチョウの追い方をマスターする。
・ふと思い立ってTwitterで囲碁垢を作る。すぐに囲碁友が出来、学びあい喜びあい励ましあう生き生き囲碁民ライフ。
・年末の『碁ワールド』特別誌上認定に挑戦したらいきなり2級認定される。
・4月、医療保険がおりたので、『GO・碁・ドリル』シリーズと『基本がわかる囲碁トレーニング』シリーズを購入。
・子供達の入学入園により、平日昼間に囲碁の勉強をする暇が出来る。
・購入した問題集を全部三回解く。
・囲碁クエストは9路2級で停滞。対戦相手が段持ちばかりになり、勝てない。13路盤は3級に昇格。19路は6級に昇格。囲碁クエストの19路は強者しかいないので全然歯が立たない。
・コンビニでアルバイトを始める。専業育児で鈍っていた脳と身体が復活する。
・『ひと目の詰碁』『ひと目の手筋』購入。4、5回読む。
・古碁の棋譜並べにハマるが、棋力には反映されず。棋譜並べ単体が趣味の一つとなり、人生に疲れると取り合えず棋譜並べするようになる。
・定石の知識が必要と感じるも、すぐに挫折する。変化が多すぎるんや……。
・というわけで、定石はいまだにヒカルの囲碁入門に登場するものしか覚えていない。
・シチョウとコウは単に石を取るだけでなく駆け引きの道具なのだと、棋譜並べしてる最中に悟るが、悟る前に誰か教えてくれよ!とも思った。
・『やさしい布石特訓200』購入。序盤戦の力が飛躍的にupした。
・『依田ノート』購入して読む。定石を最後まできめるよりも盤全体を見て最大の手を打つ、利き筋を残す、ということを知る。
・スマホアプリ『みんなの碁』を始める。依田ノート効果でみん碁19路はめきめき上達し、黒番で2級、白番で3級に勝てるようになった。
・相変わらず囲碁クエスト19路ではボコボコにされる。しかし以前のように100目以上も差がついて負かされることはなくなった。
・恐怖の夏休み到来。碁石を触れる時間がなくなるばかりか、家事すら子供達に邪魔されてままならなくなる。
・夏休み明け、積み残した家事と相次ぐ学校と幼稚園行事に忙殺される。バイトは学生さんのドタキャンにより出勤が増える。長女の宿題を見るのに手一杯になる。
・私がバイトをはじめて以来、日に日に子供達のワガママが増す。
・ちっとも碁石に触れない日々。←イマココ
https://anond.hatelabo.jp/20180921225703
正しい答えを探そうとするからそうなる。
効率が異常に悪いよこのやりかた。
こんなやりかたしたら処理追いつかずにつぶれるに決まってるじゃろ。
政治について考えるなら論点なんか無数にあるわけで、それ全部整理できないでしょ。
ある程度まずテーマ決めるのよ。
正しいか正しくないかはおいといて、ベースとなる知識をまとめてる書籍読むの。
この場合にサヨクか右翼かはあんまり気にしなくていい。どうせどっちも後で読むから。
で、たたき台として仮説つくるわけ。
その仮説を基にして情報に接しながら微調整をしていくって感じになるよ。
なんのために入門書があるかって話。
でもこの人まじめだよな。
それすらもめんどくさくなって誰かの発言鵜呑みにするような馬鹿がほとんどだから。
でもまなじまじめなもんだから、自分が情報足りないのはわかるけど
それをどうすればいいのかわからず、
高校で行列の計算方法を習ってない事が、その後の数学の学習でデメリットになると思うか?線形独立、線形従属の概念を学んで行列式が求まること、求まらない事の幾何的な意味を知り、代数法則を知り多次元行列と部分空間の価値を理解した上でのアフィン変換行列があっての三次元CGでのアフィン変換がある。概念を理解しないで単に行列の計算が出来る程度の教育なんて無価値なんだからなくなって正解なんだよ。必要な人間は大学で線形代数をやるときに、法則と同時に演算方法の原理原則を理解すればいいし、逆行列の計算方法を覚えればいいんだよ。固有値、固有ベクトルの意味が理解できない半端なプログラマが増えてるのって、高校での機械的な教育のせいだろうとすら思ってる。行列使って連立方程式が解けることを知ってる事が、どれだけ意味あるんだろうね?
ブクマカは機械学習がーとかAIがーとか言うけど、必要なのは線形代数II以降の話で、高校でちょろっと計算方法知ったところで無価値なんだよ。逆に線形代数をやるときに変な思い込みが負債になるくらいだから無くしていいものとすら教えていて思う。教育としては線形代数で統合的にやれば良いというのは間違いじゃないから、削除は改善ですらある。畳み込みのタの字すら知らんアホが機械学習を語るなって。お前らの心配なんか無駄無駄、
“単に行列の計算が出来る程度の教育なんて無価値” ARの実装したときに行列の計算が必要になった。結局ネットで調べながらやったんだけど、過去に触れたことがあるという思いから心理的な障壁は少なかった気がする。
結局、このレベルの話になっちゃうよね。こんな程度なら「ゲームプログラミングのための3Dグラフィックス数学」みたいなラノベ(入門書)を1日読めば済む話でしかないだろう。AIを研究する人たちがどうとか言う話は情報工学科で、将来的に情報幾何が必要になった時にキャッチアップできる程度の数学教育をどこまでするのか?って話で、全然次元が違う話。情報工学科を選択する子供を増やすためにプログラミング教育を拡充していく過程で、3DCGの触りをやらせたいとしても、道具として座標変換程度のことをやるのに複雑な知識なんぞは一切要らないからな。だいたいライブラリから関数呼び出すだけで使える。
話は変わるが、数学のラノベなら「ゼロから学ぶ線形代数」がおススメ。あれなら誰でも理解できて、授業でやる計算方法の練習より手軽に線形代数の面白さを味わえる。
自身は、都会育ちで、中学から大学まで比較的同質な集団と過ごしていた。
みな概ね理性的だし、そもそも似たような集団なので、その中では差別とか偏見とかはほとんど発生しようがなかった。
そのため、昔は、リベラルだとか差別だとか、そこまで興味がなかった。
個人的に親しい友だちが実はLGBTで、家族にもカミングアウトしていないらしく、色々と苦しんでいた事がわかった。
基本男女平等だと思っていたが、女性が多い職場をマネジメントした結果、例えば女性は男性とは違って結婚出産というイベントがはさまる事から、男性とは全く異なるキャリア観を持っている事がわかった。男性と女性を等しく扱う真の男女平等は、女性にとってむしろ行きづらい世の中を作り出してしまうと考えるようになった。
海外に留学して、外国の方やそれぞれの宗教を進行する人と接して、違う価値観を理解した。欧州の移民問題に触れて、移民政策の理想と現実を感じた。
日本に来ている移民の人と接して、彼らなりの希望や苦労を感じるとともに、外国人を極度に恐れる日本人にも会った。
そういった中で色々な記事を読んでいると、最近では、リベラルだとか、極右だとか、様々な言葉があまり定義されずに使われていて、議論がとっちらかっているように感じる。
自身も、断片的に色々と経験したけど、帰納的ではなく、演繹的に全体像を眺めたいと思っている。
セリーナ・ウィリアムズの件は、自身を被害者に仕立て上げて、他社との分断を図ろうとするアジテーションだと思う。
きっとそういった現象には名前があるのだと思うけど、それを自身は知らないので頭が整理されない。
というわけで体系だって勉強したいと思うのだが、これはなんという分野になるのだろうか?
リベラルだとかナショナリストだとか、差別と寛容に関する歴史や思想が体系だった入門書みたいなのを教えてほしいです。
はじめて書く。うまくいくものだろうか。
Hello, World!
いきなりプログラムの話で恐縮ですが、上記の”はろーわーるど”とはソフト開発においてプログラミング初学者が入門書片手にとりあえず作ってみるプログラムにより出力される文字である。ことが多い。
なぜ”はろーわーるど”か。
英語を母語としないため、直訳日本語とてしては”こんにちは、世界よ!”くらいのニュアンスしかない。
母語ではどうなんだろう。
https://eow.alc.co.jp/search?q=hello
今はあいさつの言葉であるが、人を呼んでくることや呼びとめる時のかけ声を語源とするので、”やあ!(こっち向いて)”や”ちょっと(話せるか)”くらいだろうか。
https://eow.alc.co.jp/search?q=world
世界。
指す範囲は広いだろうが、”人間の年齢”を語源とするので、自然科学的な地球や宇宙というよりは、人類の歴史、文化による主観的な世界を指す感じか。
それは連綿と連なってきた世にプログラムが、出てきたからこっちを向けと言わんばかりのニュアンスを淡~く含む挨拶であったのだろう。
Helo, World! を書いたカーニハンか誰かに真意があったのか、なかったのか、ご存知の方がいれば教えていただけないでしょうか。
ざっくり検索した限りでは見つけられなかったため…
『歴史人口学で見た日本』はともかく、『ユーゴ紛争』って、体系的な読書の入り口になるか……?
いや、ユーゴ紛争とか国際政治とかについて関心を持つ糸口にはなると思うけど、良くも悪くもルポルタージュなので、体系的な読書の入り口になるかっつーと微妙では。
ルポルタージュはルポルタージュとして興味深いものだけど、往々にして「入り口」というか「とっかかり」であることが多い。本当に相手に体系的にものごとを知ってほしいなら、導入は別の本がいいんじゃないの。
もし国際政治とかそういった話に興味を持ってほしいなら、ナイ&ウェルチ『国際紛争』(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641149175)とか、あるいは有斐閣の政治学入門のやつ(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641150256)とか。
東大出版会は最近政治学の入門シリーズ出してるな>http://www.utp.or.jp/book/b297525.html。政治学の入門としてはお手頃かなと。
民族問題とかそういうテーマにいざないたいなら、『民族とネイション』(https://www.iwanami.co.jp/book/b225944.html)とか、『民族紛争』(https://www.iwanami.co.jp/book/b226218.html)とか。『ナショナリズム論・入門』(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641123359)はちょっと初心者にはとっつきにくいかな。
ユーゴ紛争に興味を持ってほしいなら、『ユーゴスラヴィア現代史』(https://www.iwanami.co.jp/book/b268264.html)とか、最近出たやつだとマゾワーの『バルカン』(http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/06/102440.html)なんかがいいんじゃないの。
『国際紛争』はレベル的にも大学新入生がちょっと背伸びして読んでみるくらいだから青二才さんにちょうどいいと思うんだよね。色々おもしろいエピソードが紹介されてたりするし。やっぱり英米の教科書はおもろいわ。
あるいはどんな入門書が適切かわからん問題もあるのかもなー。青二才さんが何かの入門書を探したい、となったときには、だいたい、
この辺をチェックして入門書探して、そこから参考文献を芋蔓式にたどっていくのがいいと思うんだよね。
ただまあ最終的には青二才さんに興味がないとどうにもならんところはあるので。You can lead a horse to water, but you cannot make him drinkですよやっぱ。
彼が本当に「議論を避けて、罵倒だけをしていた」ならそれもありうるかもしれないけど
現実には彼は「罵倒メインだけど、たまに思いつきで議論らしきものをふっかけて、知識不足で逆にボコボコにされる」ことを繰り返してたんよ
だから長く付き合ってきた人ほど、彼の学歴と実際に見た議論レベルとの乖離に戸惑っている
たとえば彼は「論理学には詳しい」と自称しておきながら、命題と述語の区別がついておらず
「"Aする"の否定は"Aしない"ではないぞ低能w」という恥ずかしいミスをしても最後まで間違いを認めないほどだった
また彼は偽科学批判をやっつけたいという動機から「科学とは何か(科学哲学)」の議論を始めたこともあったが、
どんな入門書にも必ず書いてある「反証可能性」という概念をどう扱うかまったく考えていなかった。そもそも知らなかったように見えた
(これは古典的な概念なので、賛成しても批判してもそれぞれに理論は組み立てられる。科学の権威を崩したいならこのテーマをスルーすることはありえない)
これマジでびっくりした
先生って科学や宗教の話題に首つっこむの好きだけどさ、そのわりには他のはてなー達同士では通じてる前提知識ぜんぜん通じてなかったじゃん
知らない言葉が出てきても、知能高いなら図書館で入門書の一冊でも借りるなりしてその範囲で知ったかぶることだってできたのに、彼は知識をまったくアップデートしないまま無謀な戦いを続けていた
それどころか「本に頼らないと自分の意見も言えない低能w」と言って文献を読まないことを正当化したり、
はたまた「お前は低能だから教授とディスカッションしないと何が正しいのかわからないんだろうw 俺は自分が正しいことを知っているからディスカッションの必要はない」とか言ってみたり、根本的に学問をなめてる節すらあった
英語がからっきしなのにわかるふりして勝手に誤読して自爆したところも見たことある
一時期は低能先生の口調で他人と議論しようとするまねっこもいたけど
そういう人は文章が長くなるにつれてだんだん論理的説明が増えてくるので「あ、口調は似せてても中身は普通の人だな」ってバレてしまっていた
これに触発されてWindowsにKrita4.0.3をインストールしてみたけれど、これで何か文句が出るのかと疑問に思うくらい凄い出来になってるんだな。Krita使うことにして浮いた資金はペンタブのグレードを上げる方に使えば良いんじゃないか。
と思ったが、入門書が全然存在しないんだな。クリスタは書店の棚を2段占拠してたけれど、Kritaは置いて無くてAmazonでも旧バージョン向けが3冊あるのみ。そこら辺は中学生向きじゃない。
追記
追記
とりあえず質問に答えると、戸田山和久の『論理学をつくる』とかが定番
しかし目的であるところの「教養」や「審美眼」を論理学によって身につけられるかっつったらすげえ疑問
もちろん論理は学問を基礎づけている重要な要素ではあるが、論理学として本格的に学ぶような定理やらを使って自然言語を解剖しながら読み進めるなんてしんどいし、少なくとも「教養」や「審美眼」やらを身につける段階ではする必要もないだろ
とりあえず何でもいいから一つの分野を物にして「世界を切り分ける」ための視点を手に入れるというのは悪い戦略ではない
でも、そうやって得られるものはどちらかというと、世界を細かく分節して深く知るための武器であって、元増田が求めてるような幅広い知識を得るための手段としてはちょっとズレがあると思う
俺のおすすめの戦略は各分野で定番とされている入門書を一通り読むことなんだが、まずはそれらを探し当てるための検索スキル(検索エンジンに限らず、人とか図書館を使って調べる技術)が必要なんで、そういう探し当てる技術ってのを手に入れるのが最短ルートじゃねえかな
というわけで元増田はまず井上真琴『図書館に訊け!』を読むのだ
ネットで知識を漁るのは、本で基礎を身に着けてからにした方がいいと思う
よい記事、よい書き手をふるいにかけるための基礎知識を押さえといた方が楽だし早いし安全だ
俺の書いたクソ文章も信用すんな