はてなキーワード: 入門書とは
増田でどこまで集まるかはわからないけど、オススメの本を募集したい。
ただし、例えば伊坂幸太郎の新刊が面白い、みたいな話は別にいらないのです。どうせ読むから。
あと80年代より前に出版された名著は古典と定義することにして、ここでは除きます。
俺がすげーすきなのは「その人が必読と考えている本」を人から聞き出すこと。
フェミニストにはフェミニストのアツイ新刊があるがあるだろう。
ガノタにはガノタの必読書があるだろうし、ラノベ好きにはこれだけは読んどけってラノベがあるじゃない。
原発デマを普段から批判している人には批判の根拠にしているネタ本があるはずで、安倍批判のツイートをしている人たちには自分のそういう活動の基礎になった読書体験ってものがあるに決まっているのです。
はてサにだって、最近○○って本が俺の正しさを補強してくれてよかった~~って本があるじゃない当然。
そういう本には、人の情熱をもりあげる力がある。
俺はどんな思想や立場のものでも、そういう情熱の盛り上げるパワーをもった作品が読みたいのだ。
いつもは飲み屋のカウンターとかで試みるのだが、たまにはネットでやってみようかなと。
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ブコメにて、まずはおめーのオススメを言えよ、とのお言葉をいただきました。
っかー! やっぱーそーかー! っかー! しょうがねぇなー!
(本当は話したくて仕方ない)
https://www.amazon.co.jp/dp/4125011230/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_tikKCbD8G05YH
多崎礼はとにかくいいファンタジーを書く。俺の中でC-NOVELの価値の半分はこの人が担っているのだが、とにかく筆が遅いお方でもあるので、知らない人があまりにも多い気がする。なにか気取った本、しかしエンタメを進めたいときには、この作家をオススメすることにしている。
この『夢の上』は中でも名作。めちゃくちゃ美しいし、涙が止まらないです。
『人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線』 マイケル・S. ガザニガ
https://www.amazon.co.jp/dp/4772695184/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_WokKCbWH9VXSC
マイケル・S・ガザニガは、知る人ぞ知る有名人のはずだが、もっと読まれても良いと思う。
特に、人間とは? だとか、倫理とは? みたいなことを考えるには必読と言ってよい。
同じ作者の『脳の中の倫理』もオススメ。ガザニガはこれらの書の功績によってアメリカの倫理委員会に脳科学者として呼ばれたりしてるらしいぞ。
『社会学の使い方』ジグムント・バウマン
https://www.amazon.co.jp/dp/4791769457/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_kskKCbCBC9K9F
20世紀末から21世紀にかけて最高の社会学者だと信じる。もっと知られるべき。
とにかく著作が多く、また割とガチ専門書ばかりなので、うっかり手に取っても読みにくいところがある本が多いのだが、これは一応入門書の位置づけのはずである。
もしももっとガチめにいきたいなら『リキッドモダニティ』あたり抑えておくと、いろいろ頭のなかで応用が効いてくる。
2/22歳追記
めちゃくちゃ沢山のオススメをありがとうございます!
途中まではスターつけたり返信したりしてたけど、もはや無理なんでここでお礼を言わせてください!
はてなユーザーもやはり人との交流に飢えているということだろうか。もはやインテリ気取りすら存在せず、群れてわーきゃー戯れたい大衆しか残っていない。由々しき事態だと私は思う。
たしかにアンケート増田という安易な交流手段によって手軽に孤独感を紛らわすのは気持ちがいいかもしれない。人と繋がっている気がするし、スターをもらえれば自分を認めてもらえたような気持ちになるだろう。しかしこういった行為は徐々にはてなユーザーからなけなしの知性をもぎ取っていく。ネット上で比較的知的なSNSというイメージのあるはてなだが、アンケート増田によって確実に知性が剥ぎ取られていっている。
アンケートの内容はどうだ。ほとんどがアニメ、漫画、映画、ラノベ、アニソン等々、オタク好みの話題ばかり。まるで専門性がない。大衆にヒットするというのは非専門的であるということだが、知的なSNSというスタンスのはてなでこの程度のアンケートしか盛り上がらないのはどういうことなのか。「海外サイトがブクマされてないはてなで今更何言ってるんだ」たしかにそうかもしれない。はてなにはインテリなどほとんどいない。ウィキペディアや入門書、新書で得た知識で知ったかぶるような知的コンプレックスを持った落ちこぼればかりだ。
なぜか知的なSNSはてなでもアニメや漫画やラノベに詳しい人たちが知識人として尊敬されている。専門性を持たないただ大量消費するだけのオタクがもてはやされている。彼らは専門性を持たないからネットのどこかで見たような誰かの受け売りでしか語れない。サブカル知識だけは大量に吸収しているが、彼らは考えが浅い。というか考えることを完全にやめて知識を吸収することだけを続けている。物事の皮相しか捉えることができない。彼らは広大な表面で生きている。世界の深みに触れようとしない。すべては一問一答式の知識の配列でどうにかなると思っている。すべてを軽く捉える。すべてを冷笑する。なけなしの知性を大量消費社会に捧げてしまった人間にとって世界に謎は存在しない。すべてが解決済みだ。だが、世界は解決していない。それが真実だ。大量消費という麻薬によってオタクは考えることをやめ、現実の世界から目を背けた。
アンケートに意味はない。なぜならアンケートとは大衆による人気投票だからだ。真の知識人と考えることをやめたオタクの一票が同じ扱いをされる世界だ。そんな世界に真の知識人がいつまでも残っているだろうか。ばかばかしくなってそんな世界からは去ってしまうだろう。結果的にアンケート増田の流行によって、考えることをやめたオタクだけが選別され残ることになる。はてなは何も考えない空間になるだろう。「これはひどい」「炎上」タグをつけて勝った気になり、世の中を冷笑してかっこつけるオタクだけが残るようになるだろう。そこは考えることをやめたオタクにとって最高に居心地の良い世界だ。はてなにおいて「小説家になろう」が一定の評価を受けているのは、はてな自体が「俺TUEEE」的言論空間になっていることと相性がいいからだろう。大量のサブカル雑学を摂取して、膨れ上がった脂肪を見せ合って、「俺たちすげー」をやっているわけだ。ますます考えることをやめたオタクが熟成されていく。その一体感は危険なのだ。
アンケート増田には参加するべきではない。一歩離れて、アンケート増田に参加しているはてなユーザーを観察する側に回ってみることをおすすめする。最初は彼らの一体感に憧れを感じるかもしれない。自分もそこに混ざりたい、スターもらいたい、そう思うかもしれない。そこでぐっとこらえてしばらく安易な一体感から離れてみてほしい。そうすると見えてくるものがあるだろう。そのとききみは人間として考え始めるのだ。
24才男子大学院生、修論もほぼ書けてもうすぐ卒業。内定もある。学歴と初任給だけ見れば相当いい方だと思う。けれど、大学6年間ですっかり心をやられてしまって、とてもじゃないが働ける気がしない。寝ても覚めても不愉快で趣味もろくに楽しめない生活を送ってる。自分語りして整理すれば仕切り直せるかなと思って書くことにした。
高校までは田舎で優等生やってた。学校の成績はいつも1位で、生徒会長やったりもして、不満はほとんどなかった。地頭はなくて数学の難しい問題は苦手だったけど、勉強はやっただけ成果が出たから、つらいと思ったことはほとんどなかった。今思うとどうしてあんなに勉強やれてたのか分からないし、「勉強しない」っていう選択肢を知らなかっただけなんだろうな。親や先生が褒めてくれるのが気持ちよくて望まれるがままに勉強してた。大学入試も難なくクリアして、いわゆる難関大学の情報系に進んだ。情報系を選んだのは、ブログの運営で少し触ったプログラミングがなんとなく面白そうだったから。当時はニュースでビッグデータがもてはやされていて職に困ることもなさそうだった。
大学1年目、高校の延長で真面目に勉強してたら自然と上のほうにいた。だけど、自分の周りでは、小学生からプログラミングやってて課題で褒められるやつとか、やたらレポートの内容が濃くて授業中に取り上げられるやつとか、無難に試験問題が解けるだけじゃない化け物がより目立っててかなり焦った。当時はまだギラギラしてたから、すぐにプログラミングの入門書とか買って自分で勉強した。幸い自学する力はあったから、大学から始めた人の中では頭ふたつ分くらい抜きん出たと思う。Twitterで自分が勉強した内容とか発信してかなりイキってた。ただ、自分でプログラミングを勉強していくのは結構しんどくて、月に何日かとにかく不快で何も手につかない日があった。自分はなんて頭が悪いんだろうとか、どうしてプログラミングを楽しめないんだろうとか、そういうことをぐるぐる考えてた。
大学2年目、先輩に誘われて一緒に小さなプロジェクトをやることになった。プロジェクトの過程で、プログラミング能力の低さとTwitterでイキてったのをめちゃめちゃに叩かれて人格がかなり矯正された。不健康気味だったメンタルが更に脆くなって自信とか自尊心がなくなったけど、プログラミング能力はすごく伸びたし、なによりあのままTwitterで井の中の蛙やってたらと思うとゾッとするし、トータルでは感謝してる。とはいえ、そのプロジェクトやってる間は大変だった。深夜にやってた萌えアニメを録画して起きてる間ずっとリピート再生したりしてた。今なら絶対に続けられないけど、当時は「つらいことをやめる」っていう選択肢を知らなかった。
大学3年目、自信を失ったなりに必死に勉強した。優秀な人の真似をしてみたり、流行りの技術に手をつけてみたり、自分の興味は二の次でひたすら迷走した。見かねた先輩に「君、意志ある?」と言われたのは今でも鮮明に覚えてる。意志はなかった。それでも、とにかく自信を取り戻したくて、別に面白くもないことを無理やり勉強し続けた。もちろん、当時は面白いと思い込んで勉強していたわけだけど。
大学4年目、研究室に配属され快進撃が始まる。たぶん人生で一番賢い時期だったと思う。きっかけはゼミの輪読。準備のために全部の定理を証明したり順序立てて説明する練習をしていたら一気に賢くなった。学校の先生がしきりに言っていた「論理的思考」がどういうことなのか分かって、頭の使い方が変わった。自分が急速に成長するのがわかって、すごく嬉しくて、それまでやっていたプログラミングを全部捨てて研究にのめり込んだ。指導教員は聡明な優しい方で、目の付けどころが良いと褒めてくれて更に研究が進んだ。今になって振り返ると、別に研究対象が面白かったわけではなかったと思う。一般に上手くできることは面白いし、人に褒められたら気持ち良い。ただそれだけのことだったけど、寸暇を惜しんで研究をした。眠りにつく直前まで研究のことを考えて、良いアイデアを思いついたら飛び起きてメモした。
年が明けて1月、卒論は早々に完成させた。同期が卒論執筆でひいひい言ってるのを横目に、ひとりヨーロッパに飛び、トップカンファレンスのポスター発表コンペで2位をもらった。賞金の300ドルは iPad Pro を買う足しにした。日本に戻ると、すぐに国際学会に出すための論文を書き始めた。1か月ちょっと、毎日10時間くらい研究室にこもって論文を書き続けた。2月末には30ページの英語フルペーパーが出来上がって、それがトップカンファレンスに一発で通った。割と流行りの分野だったし、近い内容の論文が同時にアクセプトされたりしていて、巡り合わせが良かったのだと思う。それでも十分に異常な成果だったし、このあたりでもう博士課程に進むことになるんだろうなと考えていた。
大学院1年目、アクセプトされた論文の諸手続きや発表準備をしながら次の研究テーマを探した。博士号をもらうには更に2本国際学会に論文を通す必要があって、1本目の論文が技術的にも精神的にも指導教員に依存していた自覚があったから、次のテーマは自分の力で見出したかった。指導教員からもしばらく迷走しなさいと言われた。たぶんここが分岐点で、ここで手厚い指導をお願いしていたら何か変わっていたかもしれない。当時の自分は、博士号取得に向けたアドバンテージを得たのを良いことに、時間をたっぷり使って自力で研究テーマを探そうと思った。手始めにここ30年くらいの関連研究を根こそぎリストアップしてひたすら読んだ。研究テーマを見つける最短経路ではなかったけど、一人前の研究者になるには歴史を知る必要があると思った。たぶんこれが大学生活最大のミスで、大して面白いとも思ってないくせに、何十ページもある論文をいくつもいくつも読み続けた。少しずつ、論文を読むのに飽きて、研究テーマをまとめる期限がせまって、メンタルがやられていった。
翌年2月、下宿のクローゼットに大きな穴が空いた。もう1文字も論文を読みたくない、研究テーマもろくにまとまらない、どうしたら良いんだって頭を抱えて家にこもってるところに、知り合いからしょうもない説教めいたメッセージが届いて目の前が真っ白になった。机を目一杯殴って立ち上がって、自分が座ってたゴツいオフィスチェアーをクローゼットめがけてぶん投げた。木が割れるすごい音がして、クローゼットに人の顔くらいの穴が空いた。そうするしか自分を守る方法は無かったと思うけど、引越しのことを思うと気が重い。そこまで追い詰められても、まだ教員に相談しなかった。初期の成果が異次元すぎて、それに見合う研究者にならなければいけないと思っていた。
大学院2年目の5月、自力で学振の申請書を書き上げた。めぼしい研究から無理やり話を広げてそれらしい展望をでっち上げた。内心、その研究が面白いとも有力な結果に結び付くとも思っていなかったけど、とにかく研究の段階を前に進めないと精神がもたなかった。指導教員にコメントをもらいながら、5000字くらいある申請書を10回書き直した。申請書を書いた後は、修士論文の影もちらついていたから、申請書に書いてある内容に沿って研究を進めることにした。もともと愛着も情熱もないテーマなのに、行き詰まって、読みたくもない論文を読み込んで、理論を改善して、というのを繰り返す日々が続いた。折れた足で無理やり走っているような気がした。足の骨を折ったことはないけれど。
同8月、ようやく研究が形になってきて指導教員とミーティングをした。それまでも月に1、2回は簡単なミーティングはしていたけど、理論も含めてしっかりと方針を説明するのは初めてだった。自分のメモを前に映して30分話して、色々と質問された後、この方針は厳しいねというような話が始まった。先行研究の流れを十分に汲んでおらず眉唾モノとのことで、一番近い先行研究を改善する方針を提案してもらった。教員からすれば僕の研究はいわば初稿、それを足がかりにして研究を広げれば良いと思って話をするのは当然だけど、僕からすると1年半の集大成が30分で水の泡になったわけで、たぶん致命傷だったと思う。事態の原因が自分の研究の進め方にあったことは理解していたし、現実問題として修士論文を書かなければいけないので、そこから2週間くらいは騙し騙し提案してもらった研究を続けた。
同8月末のある朝、起きたら研究をやめていた。あの朝の感覚を説明するのはすごく難しいのだけど、とにかく、自分の中の何かが壊れて研究をやめていた。研究をしたくてもできないなんてレベルの話ではなくて、きれいさっぱり研究をやめていた。研究をしなくてもなんとも思わないし、すごく不思議な感覚だった。そこから10月まで毎日ゲームをした。あんなに遊んだのは人生で初めてだった。途中、指導教員に「もう研究できません」といったメールを書いたところ、とても優しく対応してくださった。返信の言葉は適切でとても暖かく、もう数ヶ月早く同じ言葉を聞いていればさぞ励みになっただろうと思いながらゲームをした。成果にも指導教員にも恵まれていたし、とても貴重な機会を棒に振ったなと思った。
同10月、指導教員とミーティングをした。1ヶ月半ゲームをして療養したので、もしかしたら研究ができるかもしれない、という淡い期待を持って臨んだ。8月のわずかな進捗とその後の顛末を報告して、全く新しい研究テーマでやってみましょうということになった。参考文献を教えてもらって読み始めたが、アブストを半分過ぎたあたりで胃腸がギリギリ痛んで吐きそうになった。指導教員に「もう無理です、すみません」と泣きついて1本目の成果で修士論文を書くことを許してもらった。その後、就活をして内定をもらった。大学での成果を振り回して精一杯の虚勢をはったので、さぞ優秀な学生に見えたと思う。会社の内定と同じくらいの時期に、学振の内定通知も届いた。申請書に書いた展望はまるっと没になっているが、一体どんな素質を見出されたのだろう。
そうして今に至る。研究ではそれぐらいの挫折はよくあることだよ、とも言われたけど、それを乗り越えられるほどの情熱や興味はなかった。というか、乗り越えて平気な顔で研究を続ける人の方が狂ってると思う。努力は夢中に勝てないというやつ。何か夢中になれるものに出会いたいと思うけど、何かに夢中になりたいって言いながら年を取るんだと思う。何をやったとしても、上達するにはどこかで自分に負荷をかけて頑張らないといけない。そこで夢中でいるための気力を大学の6年間で全部使い果たしてしまった感じがする。つらいことや興味のないことを頑張りすぎた。
社会に出て働くわけだし、流石に関連技術を勉強しなければと思うのだけど、ひたすらつまらない。以前の自分なら、会社で評価されそうな技術を喜んで勉強したと思うのだけど、そういうギラギラした熱意は失われてしまった。たぶん研究に全部持っていかれた。どの分野もどの技術もつまらない。物事の細部や深い意味に立ち入りたいという欲求が一切湧いてこない。自分が知的好奇心の乏しい人間であることを痛感する。この状態で働き始めて、仕事を続けられる気がしない。毎日少しずつ自分が衰えていくのが分かってとても怖い。何か努力をしなければと思うけど、何をしてもつまらなくて30分ともたない。何も努力していないから、手放しで遊ぶこともできない。人生どん詰まり状態。早く仕切り直したい。
工学なら、勝てると思っていた。
どこもIT技術者不足なんだろーとか、組み込み系までできれば勝てるとか。
そのくらいのイメージだった。
だが、世間は今どうだ。
AWSで、企業からハードのシステム管理はいなくなるのかなーとか。
自動運転だとか、AIでも数百億かけて学習させたりとブッチギリで。
日本のトップの教授陣は、とっくに白旗をあげている。絶対に勝てないと。
axiveっていうサービスがあって、論文が投稿されまくるんだけど。
だって、毎日機械学習だのの情報系論文が300本も投稿されてて、研究室のゆっくりなノリは無い。
しかも、研究だけ凄いとかではなく、人間をかなり雇わずにシステムでやってるわけで。
Amazonの倉庫って、ロボットばっかりで人間が少ないんだっけ。
基本的な技術に対しての日本語訳が存在しないレベルがすごく浅くなってる。入門書以外はホボ英語とかネット掲示板だより。
日本ってのは、母国語で世界最先端が学べるとかオラついてたけど、
見る影もない。
これからの最新情報は、日本語じゃ手に入らない、素人の人たちは100周遅れの情報で考えるようになるわけですね。
日本ではもう無理らしい。
日本のITとかも、サービス作るのはもう終わりで、運用とかでショぼく食うらしい。
ハードにIOTとかも規制ガチガチでは無理だろ。ってか、GAFAは世界中で一番緩いところで実験し放題だしね。
個人的には日本の将来とかより、自分の将来が無さ過ぎて震えてるけど。
なんか、農民が昔は過半数だったけど、今じゃ兼業でも食えないみたいな、
そういう感じだろうか、工学は。
本当にどうしよ。
公務員にでもなった方がいいのかなあ。
本気を出せば、シリコンバレーに雇ってもらえるのかな?
怖い。
Pythonやディープラーニングの本は沢山出ているが、入門書ばかりで終わってしまい、入門が終わったらどれも似たり寄ったりで読むのがなくなる。
実際に自分が抱えている処理をしようと思えば、それなりに咀嚼し応用しないといけない。
蛍光スペクトルからどうやって細胞を分類するかといった課題を解きたいとして、沢山本は出ているにも関わらず、バイオ系+Pythonといった書籍は皆無だ。
他の学術書もそうだ。工学の数学なんてルベーグ積分あたりで終わりではないだろうか。
アンケートを取った結果を載せていたとしても、どのような質問をしたのか、処理はどうしたのか、集団はどう選んだのかなどの処理手順がかかれていることは稀であり、引用しようにも疑問符が付く。
国が出してる統計データですらデータ処理の方法やグラフの描き方などは書籍にない。(ネットにもないが)
ワードやエクセルの本も棚を埋め尽くすほど沢山あるにも関わらず、大半は同じ内容だ。
入門書しか売れないと、売れる本ばかり作った結果がこれなのだろうか。
効率化と題名がついているものが、どこにでもあるショートカット集であったり、
RPAだといってソフトのインストールとサンプル1つの実行方法で終わっていたりする。
電子回路の書籍も、ラズパイのインストールか、拡張ボードの使い方で終わる。
例えば温度を測定しようとするとオフセットつくのだが、水の三重点でキャリブレーションするのがいいけど、氷の融点と沸点でキャリブレーションしても、実用上そこそこあうといったことはなく、
数℃狂った値で、温度が測定出来たというので終わっており、測定データの不確かさをどうやって処理するかまでは記載されない。(GUMにおける不確かさ表現に合わせればいいが、そこまでは面倒くさいのはわかる)
追記です。
チャットレディでは、同時に何人から見られているのかはその場で表示されますが、累計何人から見られたかはわかりません。
チャットレディをはじめて何ヶ月か経ったあと、それが見られる場所を見つけました。30分間で凡そ100人に見られていたそうです。不特定多数に見られていることに恐怖を感じやめました。
今はセクキャバ を始めましたが、あのとき感じていたモヤモヤは今は消えました。
正直、チャットレディは搔き消したい記憶です。(顔出しはしてないものの)ネット上で裸を見せていたことはなんて馬鹿だったんだろうと思います。
24歳パート主婦、今更こんな夢抱くようになるなんて思ってもなかった。
恥ずかしくって誰にもまだ言ってない。だって小さな子供がプリキュアになりたいって言うのと同じじゃん?
たぶん無理だろうけど、分かってるけどチャレンジしたいんだよ、だって子供もいるけど私まだ若いじゃん、頑張ったらワンチャンあるかもって思いたいじゃん
お金もないのに何言ってんだって感じだけどさ、参考書すら買うのケチってる状態なのに
だけどメルカリで格安で譲ってもらった刑法の入門書はとても面白くて、やっぱりチャレンジしたいなって思った。
ほんのちょっと(たぶん60時間くらい?)勉強しただけで受けた行政書士試験は自己採点によると受かってるっぽくてさ、やっぱわたしセンスあるかもなんて思って
はじめに書いておくと、『日本国紀』がデタラメの塊なのはかれの書くノンフィクションがデタラメだらけなのを見ていれば容易に予想がつくことで、『日本国紀』がデタラメだというその結論に異議を申し立てるつもりは毛頭ない。あんなデタラメ本をわざわざ読み込んで批判されている識者の方々には心から敬意を表する。
だけど、ちょっと待ってほしい。参考文献がないという話だ。いや、参考文献が大事なのはわかる。研究書に参考文献がないのは論外だ。そして『日本国紀』にも参考文献が書かれていないということで、こんなん歴史書としてありえないとかさんざん言われている。『日本国紀』がクソなのはよくわかるのだが、参考文献リストがないからクソとか言われてしまうと非常に困惑する。
なぜなら、現に「参考文献が書かれてないけど、良い一般向けの歴史入門書」というものも存在しているからだ。
ぶっちゃけて言うと岩波新書で出た入門書の類である。中公新書や講談社現代新書は最近「もう選書でやれよ」と言いたくなるくらいに参考文献リストを充実させており最近だと本文中での典拠明示もバッチリやっていたりするが、岩波新書は参考文献を載せていない一般向けの歴史の本というものを継続的に現在に至るまで出し続けており、その内容がデタラメというならともかく出版から時間が経っても良質な入門書として評価され得るようなものだったりする。
百田を批判したいあまりに「参考文献がないなんてありえない!」と言われると、過去に岩波新書で出版され私を現在の研究分野に導いてくれた良書の数々が肩身の狭い思いをするので、もうちょっとこうなんというか、手心というか……。
参考文献は、当たり前だけどあった方がいいに決まっている。仮に知り合いが「これから一般書を書くんだけど、編集さんから参考文献は削ってって言われちゃった。どう思う?」って言い出したら「いや編集とバトルしてでも参考文献載せろよ」って言うだろう。だがもう出ちゃった本に対しては「良い本だけど、参考文献があればもっと良かった」としか言いようがなく、百田の本を叩きたいあまりに参考文献リストがないなんてありえないとか無価値だとかそんな言い方をされると、気持ちはわかるんですがそれはちょっと賛同できないっすね……とボソボソ呟くことしかできなくなってしまう感があり、あれだ、みんなもっと色んな本読もう……
本論とは違うが、ちょっとだけ言いたいこと。
参考文献は必要だが、「巻末参考文献リスト」はなくてもよい。あった方が便利なのは確かだが、本文中に典拠が明示されていれば、紙幅を気にして削ってしまってもよい。文系の場合、参考文献を示すのに色々な表記方法が有り得るが(MLA styleとか)、脚注に書誌情報を記すやり方もあり(具体的にはシカゴ・スタイル見てもらった方が早いか→ https://www.chicagomanualofstyle.org/tools_citationguide/citation-guide-1.html )、この方式の場合参考文献リストは「あれば便利」という位置づけに過ぎず「必須」ではない。いやもちろんあった方が便利ですよあった方が。でも脚注だけでも「典拠を示す」という最低限の役割を果たし得る以上、紙幅が足りないねじゃあどこ削るとなったときに真っ先に参考文献リストを削るだろうなと思う。別にこれは日本語圏のみのルールではなく、英文査読誌でも脚注で典拠を示させるスタイルの場合は参考文献リストをつけない場合が多いんじゃないかな(author-date方式の場合は当たり前だけど参考文献リストが絶対必要です)。たとえばこの雑誌→ https://www.tandfonline.com/action/authorSubmission?show=instructions&journalCode=fnep20 は脚注スタイルなので参考文献リストはつけません。甚だしい場合は書籍からも参考文献リストを抜くことがある。いやほんと参考文献リストをつけてほしいのだが、しかし出典表記の義務はきちんと果たしているので、問題は単に「チェックしづらい」というだけだ。なのでめんどくせーと思いながらも注を丹念に辿って出典チェックをしたものです。ちなみに日本で出た一般書の話ではなくハーバード大学出版会から出た英書の話なので誤解なきように。出典注とfurther readingはついてるけど引用文献リストはついてない、というのも見るな(MazowerのDark Continentとか)。
「巻末に参考文献リストを置いていない」ことと「いっさいの出典表示をしていない」は文系においてはまるっきり別の事柄であり、「参考文献がないのは駄目」という言説が後者の意味で言われているならいいのだが前者の意味で言われているのならそれは明白に間違いなので勉強し直してほしい。いやだって文系の研究書を乱読していれば絶対に「注で参考文献を表示しているけど、巻末に文献リストはない」本に一定数行き当たるでしょ……?(あー、社会学や文化人類学のばっかり読んでたらそういう本には当たらないかも。文学とか歴史学とかだと稀によくあるんだよなー)
あと、新書とかエンタメ路線に振った本とかで注がないのは許せるのだが、ほぼ研究書並の分厚い本を書いておいて注を省くのは本当にやめてほしい。自分の専門からは遠いから名指ししておくと最近出たやつだと『アイルランド革命1913-23』とか『ドイツ植民地研究』とかですね。新書とかは学識の折り詰めやエッセンスのようなものなので厳密な出典注を省いても別にいいというか対象読者が違うし……感もあるのだが、この厚みでこの内容で出典注ないのは勿体ないし価値を下げてしまっている。いやもちろん両方ともきちんと緻密な参考文献リストをつけてくれているのである程度は出典の見当がついたりするのだが、このボリューム、この内容で注なしは流石に……これなら、注をつけて文献リストを省いた方が100倍マシだと思う。だってどこを参照してるかわかんないじゃん……いちおう言っておくと英語圏でもこういう「なんで! この厚みで! この内容で! ちゃんと注をつけないの!」という本は存在するので日本の文系はガラパゴスだとかそういう話を始めないようにね。でも注を省いてこのお値段なら注をつけたらいったいおいくら万円になっちゃうの……? というのも一方で思ったりするので難しいところなんだよな。ただでさえ日本語でも英語でも学術書は高いのにねえ……
https://qiita.com/qiitadaisuki/items/2160a390ce91283707a1
「無知の知」の考え方から分かるとおり、知識がありかつ人間的に成熟している人物は基本的に謙虚である。ダメな記事を拒絶する環境は、扱うに値する知識を持つ上「自分は大したことない」と謙虚な姿勢も持ち合わせる上質な技術者を遠ざけ、「無知の知」を理解せずどうでもいい話を言論の場で自慢げに振りかざしそれを恥と思わないような記事を増やす
ごく一部には生まれた時から息を吐くようにPythonを紡ぎ出せるプログラマもいるかも知れないが、殆どのプログラマは「○○入門」とか「サルでも出来る××」とかそういう入門書やWeb記事を見ながら学んでいき、成長していくものだと思われる。「入門書しか読めない人が書くような記事お断り」なんて圧力のある場所で、なんの反感も抱かずに記事が書ける叩き上げがいるとしたら、よほど選民意識の高い人間的に微妙なプログラマだと思われる
任天堂はSFCの絶頂期を越え下降線をたどり始めた辺りで「下降しているは質の悪いゲームが増えたからだ」という結論を出し、糞ゲーを廃する方針を貫いた結果、任天堂しかソフトを出さなくなり業績が悪化、PS1でソニーに大きく差を付けられることになった。任天堂以外のソフトが殆ど出ていない状況は今は多少改善されているが未だに任天堂を苦しめている。Switchではダウンロードソフトに関してある程度その姿勢を改めた結果質は多少落ちたが、低価格ダウンロード販売に限って同じソフトの売り上げが他の機器と比べ2~4倍近く売れる盛況ぶりを見せている。アタリショックのような災害を防ぐためにはある程度の選別は必要かもしれないがやり過ぎればろくな結果を招かない
質のいいゲームというのはいつもコンスタンスに出るわけではなく、時期により数が多くなったり少なくなったりする。少ない時期が長くなると人は監視の頻度を少なくし、質は落ちてもより多くのゲームの出ている場所を見るようになり、やがてゲームの数の少ない場所を見なくなって人が集まらず、よりゲームも出なくなる。そういう負のスパイラルが発生する。「ゲーム」を「記事」に置き換えれば、おそらくQittaでも同じ事が言える
ちなみにまた、コンビニのおでんでも似たような現象がある。コンビニのおでんに関しては具のうちの8~10種類で元が取れ、それ以外は単品では赤字が出るらしいが、黒字のおでんだけしか販売しないようにするとその黒字おでんの具すら売れなくなるという現象がよく言われている