はてなキーワード: 作品とは
完結した後に作品知った少年にとっては矛盾がないってことで済まされてるのかな?
増田には、絵の類似が著作権侵害に該当するかどうかを判定できる人間がいると聞いたが
どうですか?
むぎ様(@mame_difuk)による当方の作品のトレパクが発覚したため報告いたします。 添付画像にて、非公式二次創作BL同人誌の内容を含むためご注意ください。 pic.twitter.com/kOsDtCsLmb— シ (@ex_qvv) August 19, 2024
https://www.asahi.com/articles/DA3S16012628.html
社会の分断が進めば進むほど、アメリカ社会や韓国社会のようにカオスな世の中になって面白い。
右派だけでなくリベラル派も積極的に社会的分断を進めている現状は、大変ありがたい。
特に今回のように、皮肉表現も使わず、ストレートに敵対党派への罵倒をぶつける作品の発表は非常に大きな効果を期待できる。
社会の分断を危惧するリベラルな立場の人々は、苦しい思いもあるだろう。
一方、私や大手リベラル派各紙のように社会の分断を理想とする立場から見ると、現状は良い方向に物事が進んでいると評価できる。
一般人の俺らはつい「これぞ真の芸術性を問う問題!」みたいに賞賛しそうになるけど、実際ああいう問題って他の美術関係者からどう見られてるのか気になって調べたらこういう記事が出てきた
対談|戸川馨✕荒木慎也―元予備校講師と、藝大入試の歴史と文法を解く | ART DIVER
https://artdiver.tokyo/archives/13490
荒木 様式研究や作家研究はプロなら必須なので、それを否定するのはどうかなと思います。それに美大受験にかぎらず、世の中に「傾向と対策」があるのは当たり前ですよね。藝大がそれを避けるように入試を作成するのもおかしいと思います。
もっと言ってしまえば、TARO賞にだってヴェネツィア・ビエンナーレにだって傾向と対策はあるわけだし、文脈を踏まえた上で評価される作品をつくるのがプロの仕事じゃないですか。
戸川 ええ、僕もそう思います。これは、「作品とは何なのか」という議論に発展する問題。藝大の教授陣は「原石を見つけたい」という言葉をよく使いますが。
荒木 そこだと思うな、やっぱり!
戸川 教育を受けずとも素晴らしい絵が描けるような学生が欲しいのでしょう。しかし実際合格する生徒の大多数は、しっかりと訓練を受けて、技術力があり完成度の高い作品を描いている。
荒木 藝大側は、心のどこかで「情報に汚されていないピュアな才能」を入試で見つけたいと思っているような気がするな。
戸川 予備校も藝大の意図を汲んだうえで受験生の個性を尊重して真摯に無理なく対策をしているのですが、こういった対策を藝大側は好ましく思っていない。ここに藝大と美術予備校のギャップがある。
荒木 そもそも、「原石」とか「ピュアな才能」といった発想が古い。それが依拠しているロマン主義的な天才概念はさんざん批判されてきたことで、それにもとづいて国立大学の入試をするのはおかしい。
戸川 ここまで考えていくと、美大における入試とはなんだという問いが生まれます。藝大も入試に対して迷走してきた歴史がありますし、それは裏返すと、受験生が藝大に翻弄されてきた歴史でもあるのです。
この会話は「教授が良いと思って合格させた絵が、実は予備校で研究したマイナーな作家の画風だった」っていう事象に関するもので、「絵を描きなさい」に対する言及ではない。
このあと「絵を描きなさい」については一瞬言及されるのだが、上野動物園の試験の話にシフトしてしまいあまり深くは突っ込まれていない。
とはいえ、「絵を描きなさい」についても、「こういう原石見つけようとする奇抜な試験やめろよ」って内心考えてるんかなあと思った。
上野動物園、油性ペンについて触れたくだりのあと、こう言ってるし。
荒木 社会自体が藝大に対して過度に幻想を抱いているのではないでしょうか。『最後の秘境 東京藝大』という本でも強調されていましたが、藝大は常識では理解できない特別な人々の集まりだと思いたがる一般認識があるから、このような入試が肯定的に捉えられているのでしょう。受験生からすれば冗談じゃない話ですが。
これで思い出したのはGoogleの入社試験に一時期出てた難問奇問で、日本のビジネスパーソンに「暗記ではない能力を問う問題!」って持て囃されてた印象あるけど
Google re:Work - ガイド: 構造化面接を実施する
https://rework.withgoogle.com/jp/guides/hiring-use-structured-interviewing#avoid-brainteasers
難問奇問を避ける
かつて Google では面接の際、「ボーイング 747 の中にゴルフボールはいくつ収まりますか?」といった難問や、「もしあなたが 5 セント硬貨と同じ大きさに縮んで、ミキサーに入れられたとしたら、どうやって脱出しますか?」といった奇問を出題していました。
しかしそれと同時に Google では、面接時のスコアとそれ以降のパフォーマンス スコアを比較し、難問奇問による予測能力を詳しく検証しました。その結果、このような質問に対して見られた能力は、好意的に解釈しても、訓練を通じて向上できるようなスキルであることを発見し、それからは応募者の評価に利用することはなくなりました。こうした難問奇問は最悪の場合、些末な情報または応募者側の深い洞察がないと解くことができず、その一方で面接担当者を利口になった気にさせ、自己満足させるのみで終わってしまいます。このような質問には、応募者が仕事でどのような業績を示すのかを予測することはほとんどできません。その理由の 1 つは、質問が的外れであるからであり(日々の仕事で飛行機の容積を見積もらなければならないことがあるでしょうか)、もう 1 つは一般的な認知能力と、難問奇問を解くための能力との間に相関関係がないからです。
結果こうなったという歴史がある。
Googleも藝大も、雲の上のような存在であるが故に無批判に持ち上げそうになるけど、実際はその試験をやったことで能力ある人を取れてるかちゃんと検証しないとダメだよなあと思った。
まあGoogleなら社員の人、藝大なら上のインタビュー受けてる人みたいな美術関係者がやってくれるから一般人には関係ないのかもしれないけど。
一部のマニアが書店の空気感が好きで通う需要があるにしても焼け石に水。
それでコンシェルジュ方向に進んでいくべき、と言う話しはよくある。
ただこれもまだ浅いアイデアだと思う。
コンシェルジュはすでに本を読みたいと言う状態の客をつかむものでしかなく
それぞれにお気に入り作品を公開、定期更新していくことでファングッズとしての需要を創出する。
また、書店所属であることで他の方法ではなく書店での購入を誘引するものである。
成功したら2億円ちょうだい
電子書籍の販売サイトでは大抵の場合、すでに持ってる作品の重複購入はできない。
合理的には正しい。
物理的に劣化しない電子書籍は買い直す必要もないし、操作ミスや勘違いでの重複購入を防いでくれていて良いしくみだ。
それはそれとして、現代では推し活だのお布施だのと言う名目で、気に入ったタイトルを複数買いたい人がいる。
現状はそういう需要を取りこぼしている。
10冊でも20冊でも多重購入出来るようにするとそういう需要を満たせるし、出版社等との交渉次第では
2冊目以降の購入については利益分配率を変えて販売サイトが有利になることも可能だろう。
今やジャ◯プの柱の一つとなっていると言っても過言ではない呪術◯戦。
話は間違いなく面白いし、キャラも(好き嫌い別れそうなやつもいるが)魅力的だと思う。
だけど読んでてなんとなく違和感があるというか、モヤモヤすることが多い。他のレジェンド級のジャ◯プ作品に一歩及ばないような印象だった。
何故だろう?と考えてたけど、最近わかった。
元々シリアスな世界観の作品に何を求めているのか、と言われそうだがそういうことでは無い。決して、お色気シーン的なものを指しているわけでは無いのだ。
物語を読んでいると、読者は登場人物のそれぞれから、それぞれの印象を受ける。
なんとなく好感を持つキャラ、なんとなく苦手に感じるキャラ、主人公に好意的ないいやつ、逆に嫌なやつ…といった感じ。
それらを作者は意図的に提供し、ヘイトコントロールすることが必要になる。
なんとなく好感が持てるキャラやいい奴ばかりを酷い目に合わせていても、殆どの読者は離れていってしまう。
読者が求めているのは「鬱々とした面白いストーリー 」であり「善人が酷い目に会う話 」では無いからだ。
ジャ◯プ作品である以上、結局読者が求めているのは努力・友情・勝利だと思う。
味方の損失、敵が信条を語るシーンや主人公サイドに嫌がらせ(?)を行うシーン等が目立ち、スッキリした勝利・甘美な勝利が少ないように思える。
なシーンが少ない。例え勝てても敵に逃げられたり、真◯なんかは敵の強化に使われてしまう。
敵に勝つにあたって、主人公側が被った損失と、得られた勝利が釣り合っていない。むしろ基本的に敵に有利な終わりとなる。読者の心情的には。
ここら辺がモヤる原因なのだと気がついた。
こういう展開なのは、ご都合主義にしたくないとか、作者に色々な考えがあってのことだとは思う。
しかし個人的には「これって読者を喜ばせるために描いてなくね? 」という感想になるのだ。
ずっと攻撃され続けて負けて、やっと勝ったと思ったら逃げられ、追い詰めてようやくトドメを刺しても、特に何もない…。むしろ主人公側ひいては人類側に大きなダメージが残る…。
うーん…。なんだかなあ。
呪霊とはそういう悪質なものだ、というコンセプトなんだろうけど、魅せ方があるのではないか…。少年マンガだし、主人公側が勝って得られるカタルシスは大きいものであってほしい。
まああくまで「ほしい 」という願望であって、ただの個人のワガママである。
Euphoriaというエロゲーがあって、一見悪趣味なエログロ重視ゲーにしか見えないのだけれど、これがどうして名作で、シナリオも音楽もずば抜けて良いんですね。特に主題歌の「楽園の扉」はエロゲーソング屈指の名曲だと思う。ただぱっと見の印象ではそうは見えない。エロアニメ化していることもあって単なるエロゲーなんだろうなと思っていた(ついでに言えばこの作品のエロはケツからぬいぐるみ排出したりとギャグにしか思えない)。それがやることにしたのは、確かSAWっぽい作品として名前が挙がっていたから(そうでもなかったが)と、腹黒ヒロインを挙げるスレみたいなのでヒロインの一人が紹介されていたからだったと思う。
で、その腹黒ヒロイン(?)が最高で、それまで作中で主人公が大事に思っていると散々描写されている(まあ裏はあるのだけど)にも関わらず、主人公に対して「あなたのこと大嫌いだった」と告げるのがもう本当に良かったし、最後のセリフも主人公に対する「ファックユー」だったのがただただ良すぎる。Euphoriaはミナシゴノシゴトというソシャゲとコラボしていてそのキャラも出ているけど、ここでも主人公に対し「言ったでしょう。わたし、あなたのことが大嫌いなのよ」と言い放っていて一貫していて素晴らしいと思いました。
このキャラの場合はネタバレを知ったうえでだったのでそうでもないけど、主人公が大切に思い、愛しんでいるヒロインがその思いを「裏切る」というのはインパクトがあるし、それによって主人公の想像の範疇を超えたよくわからないキャラになることで、人間性に深みが出て魅力的に思えるのかもしれない。などと考えたりもするけど、純粋に男が女に拒絶される構図が好きなだけかもしれない。スヴィドリガイロフの自殺とか大好きだし。
キャラ同士の百合もBLも嫌いだからソシャゲプレイしてると生きづらくて仕方ない
ブルアカやウマ娘、学マスあたりの人気どころ美少女ソシャゲはキャラ同士でやたらイチャついてるし、あんスタやエイトリみたいなイケメンソシャゲはもっと露骨でねっちょりしたキャラ同士の絡みがあるし辛い
現行の法律ではIT技術の普及・発展のために製造物責任法(PL法)の中に無形物であるソフトウェアが入っていないこと、
長年それを常識としてきたIT従事者に一般的な倫理意識が備わっておらず、情報空間と人権(国内・国外問わず)に甚大な加害行為を行っている事、
被害が出ても責任の所在が曖昧な事で問題の根本解決が妨げられている、いわゆる『テクノロジー例外主義』によるものだと自覚させ正常化を求める。
(誰でも知識を得られプログラムを組め、既存の人間の価値を奪う方向に向かっている事から、IT技術自体は既に普及し終えたと見てよい。「発展」に関しても、ゴールを明確化させる事が大事。)
猫も杓子も人権人権とうるさいこの世の中で、大谷翔平だって三打席連続凡退に追い込めるくらいの剛速球ストレートの職業差別発言をする奴が人権を云々するとか、創作で出したら「現代の悪役としてあまりにリアリティがなさ過ぎる。もっと色々なことにアンテナを張って社会への解像度を高めて欲しい」って蹴られるレベル。反AI界の藤井聡太と呼んで差し上げよう。よ!反AI界の藤井聡太!
ナニコレ、真っ暗闇が続いてるんだけど?
客のこと舐めてます?
俺さー映画館で上映開始前にCMが10分ぐらい流れるのマジで嫌いなんだよね。
そのあとに出てくる安全のための案内が作品オリジナルじゃなくて映画館の汎用だとマジで萎える。
4DXとかのCMでで最初に椅子ガチャガチャ動かすのは「この辺が動きますから、上映中にガタガタなっても気にしないで下さいね。後ろの人が蹴ってるんじゃないですよ」って注意喚起として許せるんだけどさあ。
んでまあ2001年宇宙の旅?
は?
客を舐めてる。
ようやく映画が始まったぜよっこいせとなった観客に3分間「それでは映画館の音響をお楽しみください」ってなんやねん。
こんなん本番でやられたら機材の故障を疑ってスタッフ呼びに行くわ。
実際、少し前に映画館行った時に機材故障で声が出ないシーンが5分ぐらい続いてさ、最初はみんなそういう演出かと思ってたんだけど流石にコレは違うなとなって段々劇場の空気がザワついてさ、そんで誰かがスタッフを呼びに行って少ししたらスタッフがやってきて「故障ですので10分ぐらい巻き戻します」だとよ。
面白くもない溜めのシーンを2回も見せられて退屈で寝そうになったわ。
始まったばかりの映画が3分間何も見せないってのはそういうレベルの事故なのよ。
マジで舐めてる。
こんなんホメてる奴ら、全員バカです。
原作者・白正男が無識な日本人に教える『テコンダー朴』9巻の歴史的に正しい読み方
https://bunkaonline.jp/archives/379
――ありがとうございます。第8巻は安倍晋三が描かれたカバーが暗殺直後だったことで物議を醸しましたが、新刊の第9巻のカバーは岸田文雄と小泉進次郎なんですね。
白 本作品はフィクションです。登場するキャラクターは全て架空の人物です。実在の人物とは一切関係ありません。『テコンダー朴』に登場するキャラは全て完全オリジナルだ。モデルなど存在しない。二度と間違えるな。
203X年、西欧諸国によるエロ規制が地球を覆い尽くし、あらゆるクレジットカード・電子決済にて18禁コンテンツの支払いが不可能になった。
一方でそれに比例する形で反表現規制勢力の活動は勢いを増し、ヤマダ議員とケン=レドマツは表現自由党を結成。
表現自由党を後ろ盾としエロコンテンツ決済に特化したEROS社を立ち上げる。
同社の電子マネーEROSとクレジットカードEROSカードは着々と利用者を増やしていくのであった。
そんなある日、エロ規制過激派による活動も加速しファンメイドでエロコンテンツを作ってい者たちの個人情報が一斉に晒し上げられる事件が発生。
多くの同人エロ制作者は本業を失い、エロコンテンツ制作により食い扶持を稼いでく必要に迫られた。
彼らが文字通り命を賭けて作り出した情熱溢れる作品は人々の心に眠っていたエロへの情熱を掻き立てた。
一時はAIの台頭による粗製乱造で縮小していた同人エロ業界の売上高は急上昇を見せる。
そして、それらの決済の大多数がEROS社によって行われたのである。
EROS決済はインターネット上における小さな経済圏を形成していく中、その経済効果に目をつけた者たちによってとある陰謀が動き出していた。
つづかない
終わるのか?
終わるのだろうか?
描き始めることが出来れば2年ぐらいでババっと仕上げることは出来そうだけど、そもそもそれが現実的なのかが分からない。
現状はあらゆる作中の伏線が収束していっている所であり、これを「俺達の戦いはこれからだ!」とやってしまっては全てがどっちらけてしまう。
出来なくはないと思う。
モノローグを使いまくって「Aのお芝居は大成功した。具体的にはここがよかった」「Bのお芝居も大成功だった。ここが本当に良かった」「甲乙つけがたいぜー!紅天女をめぐるバトルはこれからだ!」「PS:紫のバラの人との関係は進展してます 朝チュンチュン」でかませば1話に圧縮は可能だ。
だけど、ここまで盛り上げておいて、本筋に+αするための要素をこれでもかと盛り付けておいて本筋自体をハイハイチャッチャッで終わらされたら読者もやるせないだろう。
今、ガラスの仮面は本当に盛り上がっている。
作中最大の山場だ。
フルコースで言えばメインディッシュが運ばれてきた直後、カートの上にはクローシュを被せられた皿が並び、ウェイターがツラツラと今宵の主役が如何に素晴らしいかを説明していくれている最中だ。
もしここで「すみません。もう閉店時間なので一口分だけの提供とさせていただきます」と言われたとして、納得できるものがいるだろうか?
SLAM DUNKの山王工業高校戦、20点差をつけられた直後に突然モノローグが入り「なんだかんで20点差をひっくり返し激闘を制した。その後の3回戦、嘘みたいにボロ負けした。その試合、桜木は山王戦の負傷により出られず、今はリハビリ中である」で終わったら歴史に残るクソ漫画になっていたことだろう。
描くべきものは誰もが分かっていてあとは最後の仕上げを残すだけとはなっている。
仕上げを待たなくても書き上がりの景色の8割程度は想像がつく。
片腕のない彫像を見たとき、それ以外の部分がないはずの腕の形を教えてくれるようにだ。
だが、腕の先にある指の形まではわからない。
もはや勝負の行方など作者にとっては枝葉末節なのやも知れぬが、読み手としてはハッキリと勝負の中でその答えを知りたいのだ。
描かないわけにはいかないだろう。
作者という神が、どのような答をこの物語に下すのか。
天地創造における6日目だ。
まだ7日目ではない。まだ休むときではない。
https://t.co/hsNOcDD6RmのVISAが再開されたのはコンテンツを削除したからでは? https://t.co/dnLkK6RMAf
getchuで販売停止作品が販売停止のままvisa取り扱い再開しているので、visaに勝って再開ではなくてvisaに屈して再開なのではないか?という話— 肉ネーム (@mn38ka) August 17, 2024
日本の出版業界で、売上高が1億円を超えるのは30%しかない。売上高が1億円というのは、一般的な食品スーパーの月商よりも低い。
また、それなりに存在感のある出版社も、蓋を開けてみれば会社の規模としては小さい。例えばアニメ化作品をたくさん出している芳文社、従業員数が約50名、売上高も50億円に満たない企業だ。
また、大学受験参考書で有名な赤本を出している世界思想社教学社は、従業員数が約50名、売上げが30億円程度の企業だ。
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。