はてなキーワード: 何だかとは
いや、別に入っていいんだ。読むし。繰り返すけど、これはこれで読むんだ。
ただ多くのブクマカが同じ記事にコメント入れるから偏りが強く出過ぎる。
インターネットの色々な記事に出会いたいと思っていて、はてブにはそういうことを期待して使っている。
黄金頭さんとかシロクマの先生とかのエントリに気づけるのはありがたいんだけど、そういう古参以外になると社会問題に偏りすぎ。
ブクマカの年齢が偏ってるのかな。
はてなブックマークの各カテゴリを見てもホッテントリで見かけたやつがカテゴリ分けされているだけなんだよね。もっと多様な記事を拾ってこれないのかな。
最近はずっと新着を見るようにしていて総合を見ているより面白い記事が流れてくるんだけど、それでもかなり偏った感じになる。
Google Discover( ブラウザとかの閲覧履歴からオススメ記事をGoogleが通知してくるやつ )のほうが読んだことのない色々な記事を勧めてきてくれる。
もっと多様なブクマカを抱えないとソーシャルブックマークとしての魅力が減っていくんじゃないかな。
もう散々言われていることなのかもしれないけど、「ひとこと言ってやりたくなるニュースや記事にひとこと言えるサービス」にしているとブックマークされる記事が偏ってしまうから多様なユーザーを増やしていく方向に力が働かないでしょう。
こんなこと書くと、「はてブに何を期待してるんだ」みたいなこと言われると思うんだけどGunosyやNewsPics、Google Discoverではフォローできない面白い記事を届けてくれるのは何だかんだではてなブックマークだと思ってるし、これからもそうあって欲しいんだよね。
もっとブクマされる記事が偏らないようにユーザーを増やして欲しい。そしてこれからも面白い記事を発見できる場であって欲しいんだよね。
ふと思い出したこと
痛かったのは親指の付け根より少し内側あたり。
でも脚を動かすだけで激痛で、何が何だかわからないまま学校に遅刻の連絡を入れ、膝の悪い祖母が買ったものの、「邪魔だし咄嗟に手が出せないからむしろ危険!」と言って放置されていた杖をつき、当の祖母に付き添ってもらって整形外科へ。
カルシウムが析出して結晶化していたのが原因だった(石灰沈着?というみたい)。
散らす薬を注射してもらい、そのまま祖母と別れ学校へ。帰るころにはだいぶ良くなっていたし、翌日には痛みも引いていた。
が、問題は、本来この症状は「40代~50代の女性が」「重い荷物を持った時に」「肩などに」できるもの。
何一つ当てはまっていない。
先生も、「珍しい物を見た」という顔をしていたし、かかりつけ医にその話をしたときも興味深そうな反応だった。
あれ以来、同様のことは起きていないけど、実は私の体は人よりも早く成長、老化しているのでは……という疑念はひっそり抱えている。
映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的な昭和の思い出話である。
歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家の本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌が本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。
それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画、オカルト映画、パニック映画が流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。
やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSF、オカルト、パニック作品に関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれた子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異の経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである。
話を戻すと、こうして結果的に活字記事も読むようになった私は、雑誌『SCREEN』に淀川長治の連載記事が掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者からの質問や相談に淀川長治が答えるコーナーであった。
読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。
「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法や手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。
馬鹿な小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品『オネアミスの翼』を製作・劇場公開した時のことである。
中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語の最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。
さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品で監督を務めた山賀博之氏のインタビューも掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである。
雑誌『SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女とコーチの奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』である。テイタム・オニール、かわいい。山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。
「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図に気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。
ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代はコンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定の理由や合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分のレーダーに引っ掛かるモノを持つ作品に出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。
ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayやDVD、レーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードやカセットテープが販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品のフィルムテープのリールも販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から、兄弟のツテでカセットテープにダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフを暗誦できる。何の自慢にもならないが。
そして、歳月が流れた。
後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家もビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生で作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対の行為である。
ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。
大人になって、現在の宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的な評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。
子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。
それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手に想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞を暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。
子供の頃に夏休みだったか昼間にテレビで見た。たぶん80年代。日本映画だったのか吹き替えだったのかも思い出せない。
「幻魔大戦」っていうタイトルだったと記憶していだが、それで検索しても日本のマンガ/アニメしか出てこない。
また観たいと思って数十年ずっと思い出せない。
これ何だかわかる?
・いつ頃か書かないと
テレビで観た記憶があるのが小学生の頃だと思うので、80年代の終わり頃だと思う。
ただ、テレビでやってたのがその頃なわけだから、映画の公開はもっと古いものなのかもしれない。
・7日間戦争では
もちろん違うんだけど、その頃だと思う。
7日間戦争とか、霊幻道士とか、里見八犬伝とか、面白かったよね。
そんなんが面白いと思う小学生の増田がたまたまテレビでやっていた映画を姉と一緒に見て、凄い面白かった記憶があるんだけど、これだと思うものにたどり着けない。
追追記
これではなかったです。
こんなにおどろおどろしい感じではなくて、もう少し軽いノリだったと思うのでやっぱり香港映画なのかなぁ。
レディハード/香港大捜査線は見てみたいけどアマプラにはないみたい…ペイパービューでも全然見るんだけど、思い出の映画なのかはっきりしないのに円盤買う気にはさすがになれない…
電車に乗ってて何だかスカートのすわりが悪いな……と思ったらスカートの中に虫入ってた
蜂?かアブ?分からないけどかなり大きめの飛ぶ虫
途中下車してスカート振ったら出てったけど腿刺されてしまった 痛みはないけど腫れてる
どこから来たんだろう こわいな
幼い頃にテレビ放送で全話逃さず見ていても、記憶は段々と薄れていくものだ。特に妃英理と毛利小五郎の関係性は、最近の赤井家フィーバーの最中では朧気になってしまう。
こうしてサブスプリクションによって、見たいと思ったタイミングで、ノータイムでアニメを振り返ることができる。良い時代になったと思う。
(一応、自分は熱心なコナンファンというよりは、結末が気になる一心で連載を追うライトファンである。
ガッツリと読み込みファンにとっては、妃英理と毛利小五郎の関係性は、新一と蘭の関係性と同等に重要であろうことは言うまでもない。)
改めて最初から原作を(そしてアニメを)追っていると、少しばかりからかいの目で以て彼らのストーリーを読んで(見て)しまうことがある。
これはライトファン故に、ディープファンにとってはやや失礼というか、無粋と一笑に付されてしまうかもしれない話題だ。
ずばり毛利小五郎の頑丈さについてだ。
毛利小五郎は何度か死んでもいても可笑しくないほどの打撃を、妃英理から受けていると思しき場面がある。
最近だと、映画「ゼロの執行人」のED映像の中の一場面。疑惑が晴れ、釈放された毛利小五郎を、妃英理が手料理によって祝う場面だ。
あの場面で小五郎は英理の料理の味に青ざめ、料理を吹き出してしまうのだが、それに怒った英理が、言い争いの末に煮物のたっぷり盛られた土鍋で小五郎の頭を殴るのだ。
小五郎の頭にはたんこぶが出来、白目を剥いて伸びてしまった。それだけといえばそれだけのシーンで、ギャグチックに処理されているためか、深刻さは見受けられない。
こうした少年漫画における女性の男性に対する暴力描写は、最近では眉を顰められることも多々あるそうだが、自分くらいの世代だと、ギャグとしてスルーされることが多いという認識だ。
クレヨンしんちゃんで言うところの『げんこつ』的な描写と言えよう──かの描写がコンプライアンスの関係で喪われて久しいが、表現の自由という意味では、中々に悩ましい事例だ。
もちろん、5才児を拳骨で強く殴ったり、頭をぐりぐりと圧迫してはいけないのだけれど。現実とコミックリリーフは、切り分けて考えたいものだ。
そうした様式美として片付けていた描写は、『コナン』という作品の中ではやや趣を異にする。何故なら『名探偵コナン』はタイトルの通りミステリーの側面があり、結構な頻度で殺人事件が発生する漫画だからだ。サスペンスドラマでももう少し加減するんじゃないかという頻度で人が殺されている。
その殺人事件の、殺人手段の中には様々なバリエーションが存在するが、その中でも最も手近な方法といえば『撲殺』であろう。
撲殺とは、ほぐして言えば叩き殺すことである。何らかの鈍器を、或いは自らの拳を凶器とし、叩いて殴って、息の根を止めることである。
殴って殺すといえば『殴殺』という言葉もあるが、ここは撲殺で統一させて頂く。
『コナン』の作中では、撲殺事件は、ブロンズ像だとかお高い壷だとか、そういった身近な重たいオブジェや家具によって引き起こされてしまう事が多い気がする。
計画性も低く、犯人の動機もカッと頭に血がのぼって、思わず──というシチュエーションが多い。
(何だかんだ動機の薄さが槍玉に挙げられるコナンだが、現実的だと感じるのは筆者だけだろうか。現実の事件も、ドラマチックな犯人の動機などあまり聞かないものだ。むしろドラマチックだからといって納得できたとしたら、そちらの方が問題である)
さて、ここまで読んでくださった皆様の中には、筆者の言いたいことがぼんやりと分かってきた方もいらっしゃるのではないだろうか。
つまり、『自分の料理を貶されて』『夫婦喧嘩に発展して怒りのあまり』『煮物のたっぷりと入った鍋で殴りつける』──という、動機と手段とシチュエーションが三拍子揃った場面なのだ。
鍋を振り上げてから変な溜めがあったからか、ちょっといつもより洒落にならない絵面だったように思う。
前述の通り、深刻さはないのだが(尺稼ぎだったのだろうか)
もしも彼らが、一週限りのゲストキャラクターだとすると、確実に小五郎は亡くなっている筈だ。
コメディと一言に言ってしまうのは簡単だが、その裏でコメディ的な行為がしっかりと殺人に発展している作品の中では、かなりギリギリな描写なのではないかと思う。
そんな『鈍器で殴られる』という場面なのに、何故小五郎は生きていられたのだろうか。
ゾウでも一瞬で眠る程の麻酔薬を毎週近く射たれているのだから当然だ、という冗談は受け流すとして、それは恐らく、妃英理の愛故にだろう。
端的な話、英理は実際には鍋を振り上げてはいないし、振り上げていたとしても、毛利小五郎の頭に振り下ろしてはいない。
びしゃっと机の上にぶちまけて、ビンタでも食らわせたのではないだろうか。
『名探偵コナン』はミステリーだが、同時にラブコメディーでもある。コメディ描写は通用しないかもしれないが、ラブコメディな描写は通用してしまうのである。
あの鍋を振り上げるシーンなのだが、発端は妃英理が久しぶりに毛利家に上がり込んでいるという事実に、小五郎がちょっぴり照れている所から始まっている。頬を赤らめている小五郎に、英理が何事か話しかけた時に、小五郎が照れ隠しに煮物を一口頬張ってしまうのだ。
つまり小五郎のツンデレが発動したシーンなのだ。(まるで毒でも食んだかのようなリアクションである)
まあそのツンデレが高じて彼らは別居状態なのだが、関係性とは常に変わり行くものである。
ややフィーリングな結論なのだが、妃英理は手加減をしていたのだ。
それを受ける毛利小五郎も、甘んじて受けていた。
深刻なように見せかけて、冗談だった。
愛がある見方をすれば、そんなふうに見える。
仮にも警察に拘束されていた所を開放された、という、それこそ深刻な雰囲気を、夫婦喧嘩というロールで和らげた、という見方もできる。意識にしては怒りが強いので(いくら下手とはいえ、自分の作った料理をぶちまける心情は、察するに余りある。英理がかわいそうだ)、無意識だろう。
ともすれば作中の『犯人と被害者』の関係に至ってしまいそうな所を留まれるのは、ひとえに、そんな言葉のいらない信頼関係が成立しているからであろう。
『コナン』の世界では、ラブが全てを凌駕するのである。蘭が絡んだ事件では新一(コナン)が空回ってしまうように、和葉が絡むと服部がばかになってしまうように。
ラブがきっかけで阿呆なやらかしをしてしまった小五郎が受ける暴力は、同じくラブによって阿呆になっている英理からのものだからこそ、威力が軽減されるのである。
恐らくあの世界で『犯人と被害者』になってしまうカップルは、ラブなパワーバランスが崩れてしまったカップルなのだ。
そしてその「ラブによってだめになっている」部分は、読者、ひいては視聴者は、愛すべきポイントなのかもしれない。
なんだかふわふわとした結論に至ってしまったけれど、夫婦喧嘩は犬も食わないと言う。筆者もここまで考えて、なんだかどうでも良くなってきてしまった。
あの夫婦はかわいらしい。
ただそう思うだけで良かったのだ。
さて。
(終わり)
2年ほど前、留学先の友人に誘われてマレーシアの首都クアラルンプールを観光したときのこと。
とりあえず主要な観光地を回ろうと、観光バスに乗った。私は割と短絡的なので、観光地にやってきたおのぼりさんらしくKLタワーという塔に登ることにした。高さは東京タワーを超える421mで地上276mに展望台がある。壁一面ガラス張りになっていて、クアラルンプールの街並みが360度一望できた。早速望遠鏡を覗き込んだ。その日はよく晴れていて遠くまで見渡すことができたが、関心は眼下に広がるビル街に移る。発展途上といえども近代化著しいマレーシア。首都はさすがに都会なんだなあ、などと考えたのも束の間、強烈な違和感を覚えた。その正体にはすぐに気が付いた。
街並みがおかしいのである。「ビル街」と聞いて想像するのは、ビル同士がところ狭しと立ち並ぶ日本の都市だろう。大抵は、超高層ビルの間は高層ビルで埋められている。無駄のない没個性的な建築物が寄せ集まり、地平線まで白い四角の集合が続いていく。徹底的な「均質」。これが都市なのだと認識してきた。対して、クアラルンプールの都心部は「雑多」だった。開発が遅れている地区と現代的なビル群が立ち並ぶ地区が分けられていないのだ。ガラス張りの近代建築の隣に並ぶ民家らしき平屋。40階はありそうな超高層ビルの傍を流れる小川はドブのような色をしており、対岸には廃屋が寄せ集まっている。計画性が微塵も感じられない。望遠鏡から顔を上げて、街を見下ろした。砂地の白と草木の緑、家屋の古ぼけた淡色の間に、超高層ビルの強烈な白が浮いている。マレーシアの人種のように、共生しつつも混ざり合わない歪なパッチワークのようだ。
街中を実際に歩いてみるとクアラルンプールの特異さがよく分かる。バラック小屋と露店が立ち並ぶエリアには、小説で読んだ終戦直後の東京の雰囲気があった。露店の軒先は煤けたように汚れ、乞食があちこちで座り込んでいる。感じたことのない異質さに緊張が走った。太陽が容赦なく照りつける晴れの日だったが、その一帯はどんよりと薄暗かった気がした。何だかばつが悪いような気分で、街中へそそくさと歩いて行った。街中といっても、一昔前のトレンディドラマのような古ぼけた建物がずらっと並び、頭上にけばけばしい看板がせり出たようなストリートだ。この道の先に、高架が見えてくる。見上げた先を電車が走り去っていく。高架の柱に近づいてよく見てみると、かなり年季が入っているようだった。所々コンクリートが欠けている。ぼんやりと大学の講義で聞いたことを思い出した。日本では、高度経済成長期に一斉に建設されたインフラがそろそろ限界を迎え、改修の時期になっているという。なんとなく、高架はその年代くらいに建てられたものだと推測がついた。都市の周縁部を散策し終えたので、私たちはタクシーに乗り、中心街へと向かった。車窓からペトロナスツインタワーが見える。―なんだあの巨大な建物は。対になった2棟の超高層ビルが堂々と屹立し、スカイブリッジが2つの塔を繋いでいる。天頂部は、伝統的なモスクさながらの意匠が凝らされている。タワーのすぐ近くでタクシーから降り、仰ぎ見た。黒光りする鉄塊は天にも届きそうだ。夕暮れの陽光を力強く照り返す双塔は、最新技術の粋をこれでもかと主張してくる。究極の現代建築を前に、今日一日で見てきたクアラルンプールの街並みを思い返していた。
普通じゃないやつが普通の人生を手に入れるだけでも普通じゃないことし続けなければいけないわけで
その覚悟もないのに口開けてりゃ勝手にフェミや社会が女をあてがってくれるとか思ってるのならムシがよすぎる
普通じゃない人生を選んでお前ら弱者男性が救われるかどうかはわからないが
少なくとも弱者男性が考えるエロくておっぱい大きい女子高生から20代前半のピチピチギャルと付き合ってハメハメしたいだとか
異常者が異常な願望を形にするためには異常なことを自覚するしかない
リスクを負うことさえ気に入らないというのなら
思い上がった夢なんぞ捨てて身の丈に合った生き方をすれば良いだけ
見苦しく金や女が欲しいとネットで喚くな
全く恋愛に縁のなかった大学3年生の女の子が初めてのセックスを何となく記録しているだけのお話。多分そこまで珍しいことは書いていない、ありふれた初体験。
相手の男性とは何度かデートを重ねて何となく良い雰囲気になっていたのですが、ちょうど一週間前相手の家でのんびりしていた時にとうとうセックスしてみる?みたいな空気になったわけです。
私はオナニーは結構するのですがそれも主にクリトリスを触るだけで、セックスは言わずもがな初めてだったので、完全に相手に身を任せていました。相手もそれを承知していたので(もともと気の置けない友人と言った感じで下方向の話もお互い積極的にしていた)、その日は手マンで中をほぐすだけということになりました。
最初に濡らすためにクリトリス辺りを弄られたのですが、自分では敏感に感じすぎるのが怖くてあえて避けていた部分を触られまくって死ぬかと思いました。でも不思議なことに何故かイけないんですよね。どうしようもなく気持ちいいのに。
結局その日はずっと気持ち良くて、なのに最後までイけなくて、でもいわゆる愛液の量がすごくて、なんなら帰ってからも次の日もずっと濡れていました。
お陰で中に指を入れられた時もローションも必要なくすんなり入っていきました。なんとなく気持ちいいような感じはするのですが、どこか遠くの他人事のような気持ちよさで、どちらかというと尿意を感じました。(初めてクリトリスでオナニーした時もまず尿意を感じたので多分慣れたら気持ちよく感じられるようになるのだと思います。)
ここに書いたような感覚を色気もクソもなく実況しながらずっとわからん……気持ちいいけど何かようわからん……と言っていたのですが相手は何やそれって笑いながら開発に付き合ってくれてあとあとちんこをぶち込むためとはいえ優しいなと思いました(小並感)。
それらが終わったあと、ついでと言っては何ですが相手の性器も見せてもらいました。初めて見るおちんちんに面白くなっちゃって、金玉や亀頭をふにふに触ってみたり竿のところを軽く握って上下に手を動かしてみたりしましたが、気持ちよくしてあげる術を知らないので、その日はそれでおしまいでした。
次の週、私はまた相手の家でデートしに行きました。相手がどう考えていたかは知りませんが私の方はもちろん相手の家にコンドームやローションがあるのは以前に見せてもらって把握していたので次のステップに進む気満々でした。
で、しばらく過ごすうちにやっぱりそういう雰囲気になってきました。私はどうも濡れやすい体質らしく相手がそこに手を伸ばした時にはもうべしょべしょで、クリトリスなんかを触るのもそこそこに指を中に入れてもらいました。流石に2本目を入れると痛いなと感じましたがしばらく動かしてもらううちに慣れてきて、気持ちよさは相変わらずどこか他人事のようでしたが前よりはその感覚が自分に近づいたような気がしました。相手にも前より感じてるんちゃう?と言われたので多分そう。
相手がコンドームを付けるのを興味津々に見守り、いよいよ挿入。キスをしてもらったりしながらゆっくり入れてもらっていたのですが最初に考えたのはちんこって長いんだな〜ということでした。
感じたことの無い異物感にもう半分くらい入ったかなと思い、今どのくらい?と聞いたらまだ先っぽしか入ってないよと言われ軽く絶望しましたが、痛くはなかったのでそのまま続けてもらうことにしました。処女膜については自分で調べてそれが膜らしい膜ではないこと、必ずしも血が出る訳では無いことを知っていましたが、この時点で私多分出血しなさそうだなぁと思いました。
そこから更に入ってくるとさすがに痛みがあり、ゆっくり慣らしながら入ってきてもらいましたが、ある点を通過するとほとんど痛みもなくすんなり全部入りました。
正直入ってる感覚自体がもうぼんやり気持ちよくて幸せで、これ以上動かす必要ある?と思いましたが、相手にも気持ちよくなってほしかったのでしばらく慣らした後に動いていいよと伝えました。私が初めてということもあり多分加減して緩めに動かしてくれていたのですが、なんだか気持ちいいのと同時にしんどくて、それで一旦ステイしてもらってまた動いて、というのを繰り返し、結局お互いイけずじまいでした。奥まで入ってきたまま軽く動かされるのはちょうど良い気持ちよさでしたが、出し入れされるのはいまいちだなという印象でした。
その後、初めてならそんなものだとは知っていましたがそれでも相手に申し訳ないような気がして、それに私自身興味があったので、相手に触り方や気持ちいいところを教えて貰いながら手コキをしてみました。自分で触ってたらもうイってそうな気持ちよさなのになぜかイけない!と言われ、先週の私と同じこと言ってるなと思うと何だか可笑しくなりました。
本当は射精をこの目で見てみたかったのですがそれは諦め、シャワーを浴びて服を着、私が帰らないといけない時間になったので駅まで送ってもらい解散しました。
残念な点も多々ありましたがまあ私は初めてでしたし、次はもっと上手くいくと思います……多分。
セックスをする以前から既にお互い性癖をそれなりにぶちまけ合ってる仲なので、慣れてきたら色々なプレイ出来るといいなぁ。玩具とかも色々使ってみたい。
結局のところ二次創作はジャンルとしてはもっぱら「恋愛小説」なので、例えば冒険とかアクションとかミステリーとかそういうのはあまり求められていないかもしれない。
たとえばONE PIECE(冒険バトルもの)とかるろうに剣心(時代劇、剣戟アクション)とかの二次創作でも原作の主題抜きに、読み手は恋愛が読みたいのね。なぜなら原作では恋愛こそオマケでそれを詳細に描写する暇がないのだから。
二次創作では、原作の行間を埋めるお話が求められる。原作のアナザーストーリーを展開するのは、原作同様、話のテンポをよくするためにキャラの日常や人間関係の描写を犠牲にしなくてはならないので、読者のニーズは満たせない。
それに、物語を展開させると、どうしてもストーリーの面白さの為に原作から逸脱させないといけなくなるのだが、そうするともうそれは二次創作とは言えなくなるじゃん? そういうのが上手い字書きもいるけど、小説は漫画と違って絵で二次創作であることを示せないから、読者はなんか違うもの読まされてるって思ってしまう。
また、キャラぶれが生じ易いのも問題。登場人物の人間性は、たった一言、たったひとつの動作で大きく変化する可能性がある。オリジナル小説だったら、キャラぶれをするに任せて後のストーリー展開まで方針変換をすることもできるけど、二次創作でそんなことをすると「飛影はそんなこと言わない」という大事故を起こして顰蹙を買う。
文章が長くなればなるほど、物語が進めば進むほど、キャラぶれは起こり易くなるもの。むしろキャラの変化を楽しむのが小説の醍醐味のひとつであると思えば、二次創作小説で長編小説を書くのはかなり難しいと思う。できなくはないけど、かなりの技量が要る。
という訳で、読んでもらいたいなら諦めて恋愛小説として二次創作を書くのがおすすめだね。物語を書くのが諦められないなら、思いきって一次創作に転向して、なろうやカクヨムで書こうか。
だがしかし! 世はキャラ萌え時代というかなんというか、ストーリーの面白さだけを追求してもなかなか読者は食いついてくれないので、それなりユニークで愛されるキャラ作りをしなきゃいけないのだが、文章だけで愛されキャラを描くというのはなかなか至難の技である……。
商業BL小説の大人気タイトル。BLは少女漫画から派生したジャンルだと、凪良先生はAbemaTVの何かの番組で仰っていたのだけど、その言葉通りに恋愛漫画定番のネタを次々とくり出してくるのだが、それがどれも「そう来たか」とクスリと笑ってしまうような斬新な描写のされかた。糞ベタなネタでも書きようによってはこんなに面白いし萌えるという見本。登場人物の心理描写も秀逸でキャラが立ってるので、またこの主人公達に会いたいと思い再読してしまうのである。
『幽遊白書』(冨樫義博)の二次創作漫画。漫画家 榎本ナリコがプロになる前に野火ノビタ名義で書いていた同人誌の再録。ちなみに第1巻は『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作で、第3巻には幽白二次漫画をオリジナルに焼き直した作品が収録されているはず。私の小説が確かならば。
そもそも原作『幽遊白書』は、ストーリーの為に人間関係の描写を惜しげもなく切り捨てつつ、確かにそこにはキャラ同士の確かなリレーションシップが存在するというのを端的に描写した点が秀逸。二次創作のし甲斐のあるコンテンツなのである。
本書はそんな幽白の二次創作であるのだが、漫画という表現方法の強みを存分に活かして無茶苦茶をやっている(誉め言葉)。
特に飛影の人物描写がかなり思いきっていて「飛影はそんなこと言わない」の連発なのだが、絵が飛影なんだから飛影だよな(絵柄もだいぶ独創的なので、ツンツン頭やあの服装で飛影だとやっとわかるくらい。)……と思いつつ読んでみれば、思わぬ所ですごく飛影みのある描写を差し込んでくるので、驚嘆させられる。
メインカップリングの蔵馬×飛影が振り切っているのに対して、蔵馬と海藤の会話は原作に非常に忠実で、再現力がすごすぎてすごい。
収録されている『宇宙士官候補生』は蔵馬と飛影のその後ifを描いたSF作品なのだが、そこまでやる!? って感じのオリジナリティの高い漫画である。オリジナルでやれったって、主人公達が蔵馬と飛影じゃないと何だか分からない話になっている。ベタな恋愛コメディ同人に食傷した上級者向け。蔵飛ラブラブやおい漫画大隆盛という背景事情あってこその、切ない物語。
KADOKAWAから出版されているので「商業BL」の括りには入らないのだが、中身は実質主人公総受けBL。
主人公は、男性カップル専用一見さんお断り連れ込み宿の長男坊、という萌える設定だったのに、なんと、シリーズ第二作目にして、早くもその美味しい設定はカットされてしまう! 江戸情緒の残る怪しい宿屋での情事はどこへ。以降はそんな設定などなかったかのように、作者独特の世界に読者は引摺り込まれていく。これはこれで面白いけど、なんか違う所来ちゃった感。面白いけど。
設定にホイホイされて寄ってきた読者達にど派手な裏切りをかましてマイワールドに引きずり込むなどという暴挙が許されるのはプロの小説家だけ、という見本。
「リベラリズムはそれをなんやかや理屈こねて否定ようとしてるが」→否定ようとしてるが?
「無理。種の保存発言を批判して有利にだった気の盛り上がりだけど」→有利にだった気の盛り上がりだけど?
「お前が切り取った部分は主張ではないから、取り上げてないし、取り下げることもできない。」→「取り上げてないし」ってどういう意味?
「お前が気にするなら別に例えにしてもいいけど? それで満足か?」→「別に例え」って何?
「頑張って反論したかったんだろうけど、なんだろな、ちゃんと脳で言語理解しないとさ、こっちに何一つダメージが通ってこないぞ。」→ダメージが通るって何? ゲームなのこれ?
結局言いたいのは「同性愛者は年金なしになったっていい」なのか「子なしの人間は年金なしになったっていい」なのか、どっちなの? これはリベラリスト云々じゃなくて、単純に論理の話だよ。世代再生産に貢献する人間に保護や助成をする、という話と、同性愛者には年金をやらない、という話はイコールじゃない。これっぽっちの文章を書くのにこれだけミスがあるって結構ヤバいよ。思いつきを大慌てで書き殴ってるから、あちこちツッコミどころが残る雑な議論になっちゃうんじゃないのかな。
ワクチンが価値あるものだったら何だかんだ完璧な理屈をこねて優遇され、決定が先に来るはずなんだよ