はてなキーワード: プレッシャーとは
成人前だけどアダルトチルドレンの特徴にことごとく当てはまるから、将来は立派なアダルトチルドレンになる予定のキラキラJK(笑)の私だよ。こんにちは。
アダルトチルドレンって健全な機能を果たしていない家庭で育った子供が成人してもなお内心的なトラウマを持つことを指すのね。一口にアダルトチルドレンといっても色々タイプがあるんだけど、私はすぐに自分が責められていると感じたり、自信が全然なかったり、欲求を押し殺したりしてしまうケア・テイカータイプをベースにピエロタイプちょっと足したみたいなアダルトチルドレン予備軍かな。
まあ子供の発育になんの障害ももたらさないような健全な機能をちゃんと果たしてる家庭なんかそうそうないと思うけども。
家庭がね、ちゃんと機能してないと子供は演技に走るんだよね。演技って言っても将来は女優になりたい!とかそういう華々しい方の演技じゃないのがまあまあ残念なところ。
なんていうか、こう、私の場合は子供で居続けるための演技みたいな?
私の家庭はざっくり言って否定から入る親くらいの問題だったけど、でも子供でいなくちゃいけないと思い込んでしまう。
親は好きだし心配で色々言ってくるのは百も承知だけどプレッシャーがすごい。腹を空かせたティラノサウルスがいつも物陰からこっち見てるみたいな。
私のアイデアは基本的に却下されるし、自分で考えてやってることなのに、お前はなんでそうするんだ違うだろうって言われてるとだんだん自分って何なのかな〜と思えてくる。
何か自分からアクションを起こして、それを否定されるくらいなら、子供のフリして「は〜い、パパ!」「わかった!そうするね!ママ!」ってやる方が絶対角が立たないし楽だって気付くでしょ。
もうそこからは演技派女優の誕生ですよ。「ええ〜そうだったのかあ!わからなかった!」「ねえねえ!ここどうやったらいいのかな!教えて教えて!」みたいな。
なんかもうさあ、口調がさ、鼻垂らして妖怪ウォッチつけて走り回ってそうな感じじゃん。妖怪の〜せいなのね、そ〜なのね。
勿論外では普通に話すしきちんと自分の考えを持って動いてる。誰も私を否定しないからね。
でも、お前は本当に何にも考えてないんだな!って言われるたびに辛くなる。考えてるよ。言わないだけ。
お前がそう思うならそうしてみればいいって言って欲しかった。
まあ私はもう仏顔で悟りの境地にいる感じだし諦めがついてて、どうにでもな〜あれ〜☆キラッ☆みたいなところあるし、ここまで育っちゃうとこういうのと上手く付き合っていってどうにか改善していくしかないから仕方ないんだけど、これから子供育てる人は子供の意見に対してまず否定から入るよりも尊重しつつより良い提案をしてみるくらいの方がいいのではと。
あんまり否定すると家庭内限定で芦田愛菜ちゃんのような名子役が誕生してしまう。
お母さんお父さんだって、作られた”役名:子供”とではなく、きちんと子供自身と向き合う方が良いでしょう。
私も三浦春馬くん大好きで握手したいけど、エレン・イェーガー役の三浦春馬くんには話通じなさそうだしあんまり会いたいと思わないもんな。
子供に提案するときは「ゲームなんか何の役にも立たないんだからやめろ。勉強をしなさい。」みたいな感じじゃなくて、会社で画期的な新企画をプレゼンするかのように勉強をすることによってどんなに楽しいことがあって自分のプラスになるかを提案したほうがいいんじゃないかな〜と、キラキラJK思いました。
正直子供の頃って将来とか仕事をするようになってからとか言われても遠すぎてイメージ全く湧かないから、近い未来にあるであろう良いことを言ったほうがやる気出るね。
まだ10年やそこらしか生きてないのに15年後には〜とか言われても銀河の向こうにいるであろう地球外生命体くらい想像つかないからね。
所得課税より資産課税のほうが今の時代に向いているんじゃないかな。
資産課税をするとキャピタルフライト(資本逃避)が起こって、円は暴落するかもしれないけど
その結果さらに製造業は強くなって、労働者の賃金はドルベースで安定すると思うんだよね。
輸入品が値上がりして輸出しても儲からなくなるっていう、なんだかアレな論議があるけど
全部ドルベースで見れば、円が下がれば特に極端に下がれば輸出には強くなるんだよね。
所得税を0で資産課税をかなりキツメにしちまえば、どれだけ高所得でも宵越しの金を持ち越さずぱぱーっと使って景気は物凄く良くなる。
格差ってのは資産ストックの差が殆どだと思うので、そこに課税しちまえば一発でフラットな社会になるんじゃないかな。
周りを見る限り、格差はこれからもどんどん拡大していくと思うんだよね。
友人たちの子供は超絶な金持ちとして、資産を受け継ぎ資本主義にうまく立ちまわるチートのようなプレイ教育を受けて
金融立国や今やっている過剰流動性でインフレ政策で経済成長って結局
金持ちがより天文学的な金額を稼ぎ、今の人たちはちょっと落ちぶれるか何も変わらないっていう世の中がずーっと続いて
20年後、ほらやっぱり経済成長して豊かな国になりましたよね?だからこれからもこれでやっていきましょうっていう風にしか見えない。
最終的には格差を是正する為に自滅する戦争でリセットを押すしかないんじゃないって気がする。
それよりかは多少の代償を払っても資産課税でうまく潤滑に資本が回る社会にしたほうがいいじゃないかって思うんだ。
タンス貯金に関しては、マネーの電子化により一発補足ができるのではないでしょうか。
外国人になってしまった元日本人のシンガポール人の富豪さんは、日本においてある資産だけ課税すればいいんじゃないでしょうか。
キャピタルフライトしてしまえばその分円は落ちるので、また稼ぎやすくなってあぶく銭がキャッチボール的に高速回転するはずです。
よって資本利益率は高くなるでしょうから、資産課税覚悟で投資したい人は増えて帳尻が合うはずと希望的観測をしておきます。
資産は隠されるってのはその通りで、現物に交換して貯蔵しようとか考えるはずですね。
所得もそれと同じで税務署がそのために必死になって、調査しているのではないでしょうか。
商取引を全部電子化してしまえば、課税逃れは難しくなるんじゃないかなー
大きな変化には革命が必要なのはそうでしょうね。革命って響きはかっこいいけど殺し合いですよね~。
なんか革命以外にうまい方法はないんでしょうかね。ひとつはローマ時代にならって
素晴らしい洞察だと思います。ミニマリストと消費税のくだりは痺れました。
政治の世界はグローバル化で資本逃避を過度に恐れているように思います。
だからこそ法人税減税、所得減税、相続税減税の方向にプレッシャーがかかっているのだと思います。
だからあえて主張したいのですが、資本逃避ウェルカムの方向で政策を行ったほうが面白いんじゃないかと。
資本逃避を許容すれば、相続税も所得税も法人税も好きな様に決められます。
現状はスイスやシンガポール、ニューヨーク、ロンドン、香港のような小型のグローバル都市や国家に有利な体型となっています。
彼らとしのぎを削って、税金のダンピング競争をしたところで不毛な結末しか見えてこないと思います。
結果国は栄えても、多数の貧民とごく少数の巨万の富を持った富豪という形ですね。
GDPが増えても、凡人は豊かになれない。資本逃避を恐れる限り、相続課税の強化は無理でむしろ低減させていくしかない。
相続税を今のままだと金持ちはどんどん逃げていくし、現に今のキャピタルゲイン課税なんてシンガポールに行く気にさせるには
十分な同期になりえます。
それに友人たちの資産の増え具合を見ているに、教育程度で使える範疇じゃないんですよね。年収億とか稼いでそれが
福利で増えて、それがうん十年はたまたうん百年続くわけですよ。もうわけのわからん増え具合ですよ。
それなら資本逃避させてでも金が回るようにして、凡人が豊かな社会のほうがいいじゃないかなーって思ったわけです。
ストックを削らせて、フローを増やす(回す)ということですね。
最後にこのような過激な政策を本気で日本で行った場合、屍が広がる未来となるかこの世の楽園となるかは分かりません。
だからこそ本来は、地方分権でいろいろ実験ができる仕組みにした方がいいと思うんだよね。
会社という組織はそのミニマム版でいろいろな多様性ができていると思うんだけど、国家で会社に相当する
無茶やイノベーションを実験できる、嫌だったらすぐ辞めて他の会社に行けるような地方組織ってないんだよね。
8/3 追記
そうじゃなくってもっとエゲツない富裕層が複利の魔法でとてつもない
勢いでお金を増やしているんですよ。そういった層にはインフレもパワー不足
複利の魔力にはパワー不足
ポジショントークとしては資産数百億とか数千億数兆円もっている方々を
資産課税でご退場して頂けたらより投資案件の利回りが上がると思うんだよね
身近で富裕層を見るにつけ住む世界が違いすぎるし、圧倒的なチートプレイをひしひし感じるわけです
お前ら信じられるか
イケメンで好青年で嫁がいて資産数十億持っている奴が本当にいるんだよ
それも一人じゃない 今時10億円持っているのはなんでもないんだよ
俺の周りにもポツポツいる。
100億の投資家仲間はいないが25億の投資家なら会って話した事もある
今まで以上の格差、チートプレイを身につけた奴らがますます知識武装して
よりマッチョにさらに激しく複利のエンジンを加速させて行っているんだよね
そこで努力が云々とか頑張れば報われる的な
インセンティブがなくなりうんたらとかそういうのは対象が少額過ぎて
圧倒的な複利のパワーには虚しく響き渡るだけなように思えるんだよね
佐野氏やコンペ参加者のデザイナーが1964年の亀倉雄策氏のデザインを未来へ引き継ぐために
幾何学なモチーフやシンプルなデザインを意識していたのは間違いないのだし、
色構成なんて日本の伝統色の赤や金を摘出してるんだからパクリもくそもないし、
第一こんな国の命運がかかった大舞台で堂々とどこぞの国のロゴの「パクリ」を発表できるほど、
図太い神経の持ち主は存在しないだろ!すっげープレッシャーで血便出る勢いだとおもうよ!!?
ちっとは考えろよ!コンセプト動画をしっかり見てロゴの意味を知ったやつだけ批判しろ!
シンプルなデザインは似てくるのは当たり前なの!国旗とかどこも似てるでしょ!
なんなのよもう!素人が口出ししすぎなのよ!ドームの件や衣装の件でごたごたしたからって
なんでもケチつけんじゃないわよ!あ~あこれだからデザインのデの字も知らない素人はいやなのよ!!
斬新だと「きもい」って言うし普遍的だと「パクリ」って言われるしたまったもんじゃないわよ!!!
ツイッターで呟くのは自作のポエムと飼い犬の情報だけにしろっつの!ったく!
ADCやJAGDA、海外のコンペの常連のデザイナーや著名なアートディレクターのネームバリューがあるからこそ
許されるデザイン(かっこいいと認識されるデザイン)も存在するんじゃないかって思う時が、時々ある。
手書きで適当に書いたような文字と写真がコラージュされたような構成が印象的なマヨネーズのポスターとかさ、
常識の文字組みをとっぱらった、文字組みが超アバンギャルドなデザインの雑誌の表紙とかさ、
印象的だけどなんか似たようなやつ見たことあるなと思わせるようなシンプルな色面構成で作られた広告とかさ、
「綿密にバランスとかが計算された斬新さ」だということ前提で、
デザインを知っている人間にとっちゃ「ここまでくると逆に斬新だ。なんかきれいだなかっこいいな」って思ったりするんだけど、
デザインのデの字も知らない、うちのオカンにとっては「へんなの」で切り捨てられちゃうわけよ
「これさぁ…デザインというよりはアートに近くね?クライアントが求めてることを
吟味して咀嚼して解決案として図に落とし込むのがデザイナーであって、自己表現したいならアーティストになれよ」って
講師に言われるようなそんなデザインが、大御所がやると許されるわけよ。「逆に斬新」「シンプルでインパクトがある」ってね。
何を言いたいのかって言うと、素人にも伝わるデザインは普遍的になりがちだから、デザイナーとしては
「斬新さ」「みんなに伝わる普遍的な美しさ」のさじ加減がすっげーー難しいの。
そのさじ加減ができるのがプロ。のはずなんだけど。
今回のような騒動になるってことは、実家のオカンにも「へえ、きれいやん」って言われるデザインが、
佐藤卓とかが言う、デザインだと気づかれないデザインが、一番みんなが幸せになるデザインなのかもしれないわね。
無難で、シンプルで、普遍的な美しさを持つロゴ。うん、伝統を重んじる日本ならこういうんがいいのかもね。
で、もう国民投票とかで決めたほうがいいのかしら。
母乳に優れた点があることについては双方合意していると思っていたし、健康で母乳の十分出る母親では特に欠点が問題とならないのだから、母乳が優れていると言える
…というのがこちらの意図だったけど、言葉が足りなかったようで申し訳ない
薬を飲んでいると、というのも確かに正確でなかった、「薬によっては」だね
「珍しくない」の割合は、知っている母親10人に対して、母乳トラブルを一度も聞いていない人は6,7人かな
増田の定義だと、短期間のトラブルがあるくらいは問題の内に入らないのかもしれない(私はそれも問題の内に入ると考える)
WHOが医学的根拠に基づいて母乳を推奨しているのは知ってるよ
ただし、それは衛生状態の悪い途上国などを考慮した提言であって、日本においては母乳とミルクの差はそこまで歴然としてはいないと考える
むしろ母乳を強く推奨しすぎることで母親にプレッシャーを与えることを、北斗は問題視して
ごめん、なんか面倒くさくなってきた
変な絡み方した私が悪かったです
この辺で勘弁してください
敗走しますのでどうか追わないでください
※ウンコを漏らした話ではないです。
やっちまいました、お酒で記憶をスコーンと無くしちゃいました。
Xデーから数日経って、ジワジワ「覚えてないけど私、あの時絶対ひどかった」と精神的冷や汗がとんでもないことになっているので、心を整えるため投下させてください。
ネットで知り合った年上のおねいさんと「飲もう!」ということになり、夕刻一軒目に突入。
初対面プレッシャーと「うわーい楽しいなー」テンションで、ビールとワインをがぶ飲みし、正直もうそこで何を喋ったのか記憶を無くしてしまったのです。
おそらくここで時間は19時ぐらい。
「次の店行きましょう!!!!」となって、その店にどうやってたどり着いたのか、なぜその店なのかも覚えていない。
下ネタを連発したのは覚えている。
そして「帰ろう」ってなった経緯は忘れている。
お会計もどうしたのか忘れている。
帰る前に某ディスカウントショップに寄ったのは覚えている。
どうやっておねいさんと別れたのかは忘れている。
女性トイレに腰をおろして15分ぐらい寝たのは覚えているが、そのトイレにどうやって辿り着いたのかは忘れている。
コンビニで派手に転んで顔面を強打したのは覚えているが、その後電車にどう乗ったのかは忘れている。
電車に乗って、おねいさんにメールしたのは覚えているけど、自分の悪行はこの時点で忘れているからかなり脳天気な内容だった。
翌日、返信があってリメールをしたがそれに対する返信はない。
時間は戻せないし、何をやったか覚えてないし、どうしようもないけど、どうしようもないからこそ頭を抱えちゃっているわけです。
不安なのは、おねいさんに失言していないかということとお金の件。
謝りたいけど、逆の立場になったとしたらもう、今後会わない方向でFOですな。
でも絶対やらかしてはいるんだから、数日経った今の気持ちだけでもちょっとメールした方がいいんじゃないの?
いやいや、謝りたいってのは私が精神的に楽になりたいからなんじゃない?
でもそう思うのは、根底に事なかれ主義的な考えがあるから……(以下略
あーーーーーモヤモヤしっぱなし!
おねいさんとの関係にくい下がりたいのは事実なんでしょうが、それって迷惑よね……と落ち込んでいるのです。
まさか恋?ってことはないですけど、ちょっと好きな女の子にしでかしちゃった感はあるのかもしれないですな。いやぁ……困った。
もし、何かの折におねいさんにまた会うことができたら深ーーーーーーく謝って、お酒は3杯目ぐらいでやめて、飲み代は私がお支払いしたい。
というのが現在の考えなのですが、こちらから連絡を取ったほうがいいのかしら?
むむむ……
■追記
誰も読んでないかもしれないですが。
みなさんのコメントに後押しされ「南無三!」と思いつつメールをしたら「ちょっとだけ多く払っただけだよ」という大人な返信が来ました。
勇気を出して連絡してよかったです、ありがとうございます。
ちなみにスコーンみたいなウンコはしてないですが、トイレで静かにリバースし(これは覚えてた)
どうでもいいですね。
本人が家族に知られると反対されるから言いたくないから言わない、っていうだけで、団体の方はむしろ家族呼んできて一緒にセミナー受けてもらおう、くらい思ってるかもよ。
マインドコントロールするには確かに他の人間関係を切断する方が楽なんだけど、家族以外の友人関係を団体側で握ってたら、家族の問い合わせとか大してプレッシャーにならない。
過去に経験があるというわけではないが、セミナーとか新興宗教について否定的ではないので書いてみる。
最も効果がありそうなのは家族が講師(団体)へ挨拶しに行くことではないだろうか。
親兄弟の誰かが、いつも弟がお世話になってますぐらいのかんたんな挨拶で構わない。
うしろめたいことをしている団体はおそらく家族に知られるのを最も嫌がっている。
合宿に行くことについて嘘を付いたのも、本人の意志というより団体からのゆるい指示だろう。
この先あらゆる手段を用いて弟自信で決断させるよう誘導してくると思う。
団体にとってプレッシャーになるのは、家族がセミナーを知っていて、いつでも問合せできる状況を作っておくことではないだろうか。
母親が新興宗教にはまるわ、祖父は神主だしで、思春期は結構暗黒時代だった。父はずっと見ないふりをしていた。宗教戦争ってこんな感じでおこるんだなぁって。ここ日本なのになんでこんな思いしなきゃいけないんだろうって、悩んでは落ち込んでいた。勉強は好きだったけれど、理数科目が全くできない落ちこぼれで、学校もなじめず、お金もどんどんなくなっていって、もちろん塾とかには行かせてもらえず、住んでいるところも小さな町で、皆私のことを知っていて、閉塞的で苦しかった。母は非常に勉強ができた人で、「あなたは馬鹿だからきっと国立の大学には行けない。だから、県内の大学か専門学校へ行きなさい」って言い続けた。それでも、結局何とか母の希望にあうような大学(県外)に滑り込んで、それを口実に家を出た。今思うと、すごく無理をしていたんだと思う。卒業写真の私はすごくやつれていて、目に光はなく、むっつりとした爬虫類みたいな顔をしている。それを見ると、なんだかいたたまれない気持ちになる。
大学に入って、私はものすごく自由になった。世界がぱぁっと広がって、沢山のコミュニティに属することができた。友達も増えて、部活に入ったり、海外に行ったり、色々なことにチャレンジした。あと、反動でとんでもなくオタクになった。それから、教授たちやチャンスに恵まれて、勉強があれほど楽しいと思った時期はない。成績が良かったことが評価されて奨学金をもらい、留学もできた。高校生の時は人見知りだったけれど、大学に入ってたくさんの人と接していたら自然と治った。家族からのプレッシャーがなくなると、思ったより自分が色々なことができる人間だと気付いた。自分に自信がついて、たびたび私をむしばんできた卑屈さや劣等感もそのうちおさまった。人生ってこんなに楽しいものなのだ、とすこぶる感動した。高校の時と、今の顔を比べたら驚くほど違う。顔のパーツは同じだけど、もちろん今の方が断然良い。あと、やっぱり化粧は偉大。
大学生活中、お金が常になかったので、色々なバイトもやった。結婚式のウェイター、携帯の営業、居酒屋の皿洗い、ひたすらダンボールを作る仕事、倉庫で冷たい箱をおろしたり載せたりする仕事、採点、テスト監督に、祭りの警備員等々…。色々勉強になった。社会人の今もめっちゃ役にたっている。数あるバイトの中で、一番好きだったのが某大手塾チェーンでのバイトだった。子供が好きで、教えるのも世話するのも好きだから、全然苦にならなかった。給料はまあ、残業代つかないし、勉強に結構時間とられたし、あんまり良い方じゃなかったな。
塾のバイトで、狭いコミュニティの中で悩む子供たちがたくさんいた。それはすごく不思議な体験だった。皆、過去の私の片りんを持っているように見えた。「◎◎ってお母さんがいうから、嫌なの」とか「なんとなく、クラスになじめなくて…」とか、そういう話をたくさん聞いた。この子たちの世界は、今は家族と学校しかないから、苦しいんだろうと思った。私は、ずっと「大丈夫、大丈夫だから。独り立ちすれば、いずれきっと良くなる」と言ってはげましていた。それは、過去の私に声をかけているような不思議な体験だった。エゴかもしれないけれど、そうせずにはいられなかった。少しでも私の言葉が、彼らに届けば嬉しい。
中高校生が自らの命を断ってしまったという報道を見るたびに悲しい気持ちになる。彼らは多分、閉塞的なコミュニティにいて、それで疲れてしまって、将来がわかんなくなっちゃったんだと思う。そういう子たちの耳元に、今いるコミュニティがすべてではなくて、いつか抜け出せるチャンスがあるんだよ、抜け出すチャンスを見つけたら一目散に逃げろ、と私は囁きたい。無責任なことを言われて、ムッとするかもしれない。だけど、信じて欲しい。人生は本当にいとも簡単に変わる。明けない夜はないのだ。人生は始まったばかりで、時間は意外とあっという間に進む。
度々思っていたし、
というか、世の人みなそうだと思ってた。
死にたいと思いながら生きるのが、
三年前、父を自死で亡くした。
ああ、やっぱり、と思った。
わたしは死にたくない。
わたしが死んだら、家族とか、友達とか、恋人とか、みんなきっとショックを受けるし。
わたしは死にたくないんだよ。
でも、そんな思いとはうらはらに、今日も希死念慮がわたしをおそう。
ストレスやプレッシャーが増えると、希死念慮もいっそう強くなる。
最近、仕事の辛さうなぎ登り。それにともない希死念慮もうなぎ登り。
辛いことから逃げちゃだめだ、とは思う。
でも、自分を生かすために、逃げてもいいんじゃないか、とも思う。
自分を生かすために、
辛いことから逃げて逃げて逃げまくって、逃げきりで人生を終えること、できるかな。
はじめて言葉にした。
わたしが、死にたいって思ってるなんて、
それでいい。
鬱歴 10 年。パキシル/ジェイゾロフト等の SSRI で一時あった自殺観念等はなくなり、症状は随分安定している。しかし以前の元気さからは程遠い。一番困っているのは持続する不安感。ソラナックスを頓服しているが、不安感は一向に消えそうにない。
ソラナックスは無効ではなく、薬としては効いている。飲めばボンヤリした気分になり、周囲への感度は低くなる。しかし不安感は消えない。それが不快で仕方がない。
不安の最大要因は、毎週月曜日に行われる業務進捗状況を報告しあう定例会議。そのためサンデーナイトブルーも激しく、週末も全然楽しめない。毎週かろうじて凌いでいるが、同僚に比べて自分の進捗状況がイマイチのような気がして罪悪感がハンパない。お前はダメだと直に言われている訳ではないし、気にする気にしないというだけの問題のような気もするけど、しかし定例会議前後に味わうネガティブな感情はなかなか払拭できない。
定期的にスポーツはしている。趣味もあって捗っている。家族との関係もよい。セックスだってしてる。仕事以外は充実してる。自分自身のプロジェクト業務もやりがいあって楽しい。しかし定例会議で報告する内容は、敗戦処理的な請負いプロジェクトの進捗状況なので、あまり進まない割にプレッシャーも大きい。
こういう状況を解決したことのある人いますか? ご助言求む
というテーマで書いている人はリア充もかなり混じっている気がする。
クソ。
ホンマモンサンの気持ちなんかお前らには絶対分からないくせに。
不特定多数に嫌われたくないだけなのを、実際に除け者にされた経験のないやつが語るな。
便所飯をボッチの特徴にするな。むしろそれボッチを不潔な人間と印象付けようとしてるだけでしょう。お昼やすみに弁当持って個室に入った流されボッチのあなた、お気の毒ですあなたはボッチの上にウンコ認定です。
とか。
もこっちみたいな感じですが、あれは漫画だし。ネットの良心曰く、「喪女さんは見ないことをお勧めします」とある。
現実には多分もこっちみたいなのは特定生物「キモ女」に分類されて周囲から奇異なものを見る眼で蔑視されるのだろうし、地味であってもまず、悪目立ちはするだろうと思う。
なにかあったら、ああ、あの人かみたいな感じで。特定生物が目立たない訳がないのである。それはリア充による「女としてすら認められない最下層の変人の発言権を奪い、搾取を誤魔化す」陰謀の犠牲に成り立っている。
思ったとおり、わたもては特定生物認定作品としてネット民に評価を得て、怯えた下層オタクは男も女も外見ばかり気を使い、リア充目指したりグレたりしながら自らの特定生物認定から逃げ回っている。
そんな中に空気無視する「特定生物上等や」という少数の男女が発言を繰り返したらどうなるのだろう。
いや、その一人は多分、私なんですが。
すごいですよ、同年代から下の世代まで、参加コミュニティにまともに受け容れられる気がしない。
バカにバカにされ、ガキから見下され、ワガママな人々は物ごいを止めない、断ると罵声と悪い噂を流す。
実際に私に会い普通に会話した人は、私を普通の人間と判定する。
私はその方や場に失礼がないように静かにしているだけ。
でも私には次がない。にこやかな人々の水面下の争いが読め過ぎて、その中に私をネタにしたもの、私以外の特定生物をネタにしたものが読め過ぎて、何よりそんな彼らにそ知らぬ顔で付き合わねばならないプレッシャーが強すぎて、つきあいを断ってしまう。
順調に除け者人生を歩んでいるわけでして、こういうのはシューキョーをやろうがスピリチュアルにはまろーが、セミナーに通おうが、決して浮かばれはしないのです。
しかし一方で私に固執する人もいるので、何もかもを投げ出すわけにも行かない。
もう正直、どうしていいか分からないんですよ。
「スギ花粉にすぐ反応してクシャミばっかりする人たちに、私は心底うんざりしているのだ」
ってのは、ちょっとどうかと、俺は思う。
ヒドイ自称をしてるが、俺は映画やドラマやエンターテイメントが好きだ。
(作品を貶すよりも)鶴を見つけたと叫ぶ方が有意義だと思ったから、そうした。
批評家から酷評されようがファンからブーイングを受けようが映画館に足を運ぶのは、そこに輝きがあるからだ。
例えば昨今のイカ人気に便乗するなら「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」というパニックムービーがある。(日本では劇場未公開・TV公開)
娘に海の無慈悲さを説く主人公である父親には(ゴジラ作品に通ずるような)自然への畏敬がある。
ただ、有り体に言ってジョーズの何番煎じかの作品で、秀作とは言えオススメするのは難しい。
しかし、単なるパニックムービーに深みを与える演技を魅せた主人公のWilliam Petersenは、
「CSI:科学捜査班(2000~)」でギル・グリッソムを演じ、ハリウッド殿堂入りを果たしている。
つまり、どんな作品にもそこに関わった人間の思いが込められているし、
駄作と酷評されるような作品にも、愛と信念を持って臨む人間が居る。
こちとら最初から「何が(何を持って)成功か失敗か」という話はしていないんですよ。論点分かってくれ。 /この人のように実際に観てから言ってる人には何も言うつもりはないんです。
十分に論点を理解した上で書いたが伝わらなかったのは俺の力不足だからだろうし、
これが個人攻撃に見えてしまったり、曲解した上で叩いているように見える可能性もある。
ので、ゴリッとidを入れておいたので、不愉快に思ったら手数をかけるが削除申請して欲しい。
少なくとも「自分の好悪」であると主張しているのは、俺は好ましい態度だと思う。
だからこそ、共通点を探ろうとブログを読み(slinky_dog_s11さんの好きであろう)ゴジラシリーズを週末かなり観た。(正直キツイし時間かかった……)
だもんで例示としてあげるのはローランド・エメリッヒ監督のGodzilla(1998)にするが、
俺は、パニックムービーとして良く出来ていると思う。ジャン・レノも良い味出してるし。
しかし、「ゴジラ」ファンがこれを「ゴジラシリーズ」として認めるかは、意見が割れると思う。
ゴジラ(1954)にある自然への畏敬や人間社会への風刺はホトンド無いし、
フォーマットとして確立していたゴジラvs怪獣という点も無く、独立している。
そもそも、それまでのゴジラの造形からあまりにもかけ離れている。
こういったハリウッド化が何度も繰り返され、slinky_dog_s11さんの好きなゴジラや特撮が、
そうではない別ものとしてハリウッド化が何度も何度も繰り返し為されていたとしたら、
「ハリウッド化!」に対して「もう止めてくれ!」と叫ばないだろうか。
それを、「ゴジラを見ていないし思い入れも無い人」が「ハリウッド化に騒ぐ特撮クラスタは目障りだから止めろ」と言ってきたら、
「ゴジラ好き」達は、素直に「次こそはという可能性もあるから黙って待つか」と思えるだろうか。
そもそも「実写化」というのは別に本質じゃない。次元を超えるせいで、単に目立つだけだ。
例えばリメイクやリブート、コミカライズやノベライズ、もっと言えばアニメやドラマのシリーズものだってそうだ。
第三者が別のキャンバスを持って現れ、横で少し真似た絵を描き始めた
http://blog.goo.ne.jp/yukks453145/e/12eb31fc9d5080c07c838ef6fb4ea238
slinky_dog_s11さんも書いてるよな。的確な比喩だと思う。
自分の好きな絵の名前で「これこそが名画でござい!」と模写を披露してるのを、見るわけだ。
その模写は、原作の絵を知っている人間が見ると、とんでもない模写なワケだ。
もしくは、「トンデモナイ描き方を始めた」ように見えるワケだ。
例えば最近だと寄生獣(2014, 2015)があるな。放射性廃棄物を使った演出で、一炎上あった。
個人的にはね、ミギーの阿部サダヲの名演とか、寄生獣を実写で見られたというワクワク感も無くは無い。
でも、あの映画があると(あった事実は消せないよな)「寄生獣っていうのは、ああいう思想の作品なんだ」として記憶される訳だよ。
主人公に寄生する謎の生物であるミギーもさ、「なんかヒョウキンなバケモノが腕についてんな」という評価になるわけだろ。
人間から見たら冷酷な(でも事実を言ってるだけの)ミギーに対する違和感や嫌悪感、そこからの「共生」みたいなものは読み取れないわけだ。
漫画を読んだら判るはずの良さが、映画を観た人には伝わらない。
観た人に演繹されて「ああ、原作もこういう作品なのね」と思われると想像して当然だろう。
そして、そうなるであろうという不信感・違和感が、「止めてくれ!」と叫ばせるわけだ。
「ここが違う」「そこが違う」として細かな差異をアゲツラウってのは、本質じゃないと思う。
それは「不安だ!不信感がある!」という違和感を上手く言語化できないだけじゃないかと、俺は思う。
俺は、初期の段階で騒ぐのは良いことなんだと思ってる。
少なくとも、熱心なファンが居ることは伝わるわけだし、プレッシャーもかけられる。
島本和彦みたいに「原作を変えたんだから、実写も変えろ!」みたいな面白しなくても、伝わる可能性がある。
そして、この中で、作品がより良くなる可能性があるのは1番しか無い。
だから、「実写化!」にファンが即応して「マジかよ!」と叫ぶのは合理的だ。
俺は、ブコメでも言及されていた「るろうに剣心(2012)」を邦画と呼ぶのには強い抵抗がある。
(るろ剣に関しては語りたいことが山ほどあるが、本筋ではないのでここには書かない。需要も少ないだろうしな)
それぐらい、「邦画」界や「ドラマ」界隈ってのは特殊で、ハッキリ言って漫画やアニメを実写化するには向いてないと思う。
だからこそ、Twitter等でファンの声を製作者側に伝えられる機会があるなら、もっともっと騒ぐべきなんだと思ってる。
そして、そういうファンの存在を「受け入れがたいので目を背ける」コトが出来ずに「本当に嫌い」として黙れというのは、狭量じゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150619121107
(※追記:Twitterみたら個人攻撃にしか見えない感じになってたので題名を修正。あと、ゴジラ24本観終わったので、残り6本のはずだが近所でレンタルしてねえ……)
スポーツってのはどこまでいっても最終的にはルールを明確に定めた喧嘩にすぎない。
相手の嫌がる行動を取れ、プレッシャーをかけろ、精神的に追い詰めてミスを誘発しろ、知能スポーツでも肉体スポーツでも勝負事に勝つコツとして常にこれらは有効だ。
そしてこれらの行動を取ることを優先している癖に白々しくスポーツマンシップ等とのたまうのだ。
まともな人間が育つはずがない。
現実という無法地帯の中でルール無用の喧嘩に明け暮れるよりかはマシに育つだろうが、そういった根っからの荒くれ以外はスポーツをするほどに歪む。
勝利を貪欲に求める程に、他人を蹴落とし、物事を自分の都合のいい方向に考え、味方を罵倒する、腐れ外道へと育ってゆく。
もう一度言う。
ある程度生活は落ち着いてきたが最近どうもフラストレーションが溜まる、大声で叫んだり走ったりしたくてたまらない。
彼は物静かな人で自分から何かを求めたりはしてこないので、自分のことを必要としているのかがわからず、それがまた日常のストレスとして積み上がる。
それがここ数週間の気分だった。
昨日霊感占いをしてくれるという人と出会い、診てもらう機会があった。
彼と結婚できるか見てくれ、と頼んだのだが戻ってきた回答が結婚どうこうよりも私自身について言及される内容だった。
人からよく見られたい、お行儀よくいたい、嫌われたくない、そんな気持ちが積み重なって自分の本来の欲望が圧迫されている。
それは必要があって被ってきた仮面だし、これはこれでうまく行っているので、このまま仮面は綺麗に被ってしまいましょう。
彼との恋愛、結婚もきれいな世界の出来事として続けていっても問題ありません。
その代わり、自分のための世界、自分がノーといえる世界、自分にイエスと言える世界を作ってください。
なんだろう、本質を言い当てられた気分だった。
結婚しなくてはいけない、人からよくみられたい、普通の人はこうは言わない、こうしない、というのが自分を雁字搦めに縛っていた事を思い知らされた。
親から結婚しろと言われているプレッシャー、相手の親に恥ずかしくないようにきちんとした仕事をしなくてはいけないという気持ち、彼が恥をかかないように出来るだけ上品にしていなくてはいけない。
彼より頭が良くてはいけない、彼が離れない為にNOはなるべく言わない。
そんな事を考えていた。それが行き過ぎて逆流してしまい、感情のコントロールができなくなった事も良くあった。
好きでいなくてはいけない、一途でいなくてはいけないとも考えてたな。
他の男の人に優しくされるのは嫌いじゃない。とても楽しい。
自分がマゾヒストだとも思っていたけど、サディストの要素もありそうだというのが冷静になって自分と向き合った時の自分への感想だ。
裏の顔とか、自分の城を持ってもいいのかもしれない。
どこに自分の城をもとうかなあと思うと少し楽しくなってきた。