はてなキーワード: LPとは
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
https://twitter.com/ShinQs_SBY/status/1600707577666752513
【お知らせ🌟】
昨日、渋谷ヒカリエ ShinQsのクリスマスケーキがフジテレビ「めざましテレビ」イマドキ!のコーナーで紹介されました🎅🎄
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Corazon(コラソン)
価格:6,500円<税込>
2023年1月1日(日)に改訂されるリミットレギュレーションの変更点
「エンシェント・フェアリー・ドラゴン」はルール改訂に伴い2023年1月1日から下記の新しいテキストになるぞ!
このカード名の①②の効果はそれぞれ1ターンに1度しか使用できない。
①:自分メインフェイズに発動できる。手札からレベル4以下のモンスター1体を特殊召喚する。この効果を発動するターン、自分はバトルフェイズを行えない。
②:自分メインフェイズに発動できる。フィールドゾーンのカードを全て破壊し、自分は1000LP回復する。その後、破壊したカードとはカード名が異なるフィールド魔法カード1枚をデッキから手札に加える事ができる。
※新しいテキストが記載されたカードは2月18日発売の『RARITY COLLECTION -QUARTER CENTURY EDITION-』に収録されます。
※過去に発売されたカードも全て新しいテキストに読み替えて使用します。
※「心変わり」は2月18日発売の『RARITY COLLECTION -QUARTER CENTURY EDITION-』に収録されます。
それに関連するというか補完だけど、総合ルールなしにプレイしているゲームってこんな風になるんだよね
https://www.db.yugioh-card.com/yugiohdb/faq_search.action?ope=5&fid=23823&keyword=&tag=-1
以下の順番で効果を考慮してダメージを決定します。なお、「ダイガスタ・スフィアード」は03、「BF-アーマード・ウィング」は06に該当します。
03:自分への戦闘ダメージは相手も受ける、戦闘ダメージは代わりに自分/相手が受ける
したがって、「ダイガスタ・スフィアード」の効果により「BF-アーマード・ウィング」のコントローラーに発生するダメージは、「BF-アーマード・ウィング」の①の効果によって0になります。結果として、どちらも戦闘ダメージを受けません。
これってようは戦闘ダメージの計算に関する裁定なんだが、総合ルールのように体系だって書かれてはいない
総合ルールってのは高度に集積化したマニュアルであり、人によって遊び方が変わらないようにするためのもの
ダメージ計算ってのはとても難しいのだから、そういうものをきちんと体系化して誰でも理解し計算できるようにしないと現実のTCGでは大変なことになるんだが、なぜか遊戯王はそれをしない
総合ルールという法律があってはじめて裁定がくだされるわけだが、その総合ルールを公開しないまま裁定だけが増えても意味がないんだよね
お買い物の練習と称して、小学生の娘らとともに、地元でいちばんデカいTSUTAYAに行った。子供を口実にして、私自身が少女漫画コーナーをうろつきたいだけだったのだが。
先週だかもっと前だかに、増田に恋愛をしていない少女漫画ってある? 的な事を書いてたエントリがあったじゃん。それを見て、現実にはどうなんだろうと思って見に行った次第。
どうだったか? ほぼ恋愛ものやね。パッと見で恋愛がメインテーマではないと分かるものは『ちはやふる』と『群青にサイレン』と『東京ミュウミュウ』だけだった。
出版社関係なく、どれもこれも恋愛してるし、あと結婚する話が多いみたいだなーという印象。ラノベで嫁入りものが流行った影響だろうか。
恋愛をする女の子がメインの話というより、主人公に絡んでくるイケメンがメインみたいな話が多いのか、それとも単にイケメン特集だか推し特集だかっていうコンセプトで本が陳列されているだけなのか……。『蝶か犯か』がその特集の本棚に陳列されていた。うちの上の娘が好きなやつ。本にイケメンのプロフィールが同梱されている。
『蝶か犯か』もだけどヤクザ物も人気があるらしい。タイトルは忘れたけどヤクザのお嬢さんと付き人の話とか……それは組長にバレたら付き人は小指を詰めるどころじゃ済まないやつではw
現実にあったらヤバそうなものといえば『弁護士と17歳』というタイトルを見かけた。イリーガルラブ……ものは言い様だ。
ヤンキーものも人気。極道やらヤンキーやら、裏社会の人間や裏社会に片足突っ込んでるような人間はもはや空想上の珍獣のようなものなのかな。
少女漫画領域がうっすらBLに侵食されている。『消えた初恋』はシーモアかどこかで1巻無料の時に読んだがすごく面白かったんだけど、娘にこれ超おもしろいよって勧めたら男だらけの表紙がウケず「いらなーい」と一蹴された。KADOKAWAの出してるBL(ボーイズライフ)漫画が少女漫画の棚に。
ガチのBL棚もちょっと見てきた(一人で)。おすすめ本のコーナーに『春と夏となっちゃんと秋と冬と僕』がある! それは名作なのでいいけど、発売からけっこう年数経っているような。4コマ漫画で、確か修正の入るほどのやつではないが、ガッツリとBL文化の作品なので、取っ付きはよくないだろう。それより『じじいの恋――命短し恋せよ老人』はないのか……面白いのに。
少女漫画・レディコミ・TL・BLとは別に大人女子向けというコーナーが一列ぶんくらいあった。『異国日記』『さんかく窓の外側は夜』が目立つ感じに平積みされていた。
あとタイトルは忘れたけど捜一の刑事が主人公っぽいグロそうなやつが、けっこうなスペースを占有していた。よほど人気があるのかな。他に目に留まったのは、ウサギを飼育する漫画と、猫と暮らす人の漫画。癒されそうー。昔『ぴくぴく仙太郎』が好きだったなぁ、と思い出に浸るなど。
各自買いたい本を手に取り、会計に向かう途中に漫画コーナーの手前のところに『ときめきトゥナイト』が陳列されているのが見えたんだが、新装版でも出たのか?
長女は『千紘くんは、あたし中毒』(伊藤里)、次女は『新婚だけど片想い』(雪森さくら)、私は『山口くんはワルくない』(斉木優)を購入――☆
https://comic.pixiv.net/works/6558
根本的に間違ってるんだよね。
MTGは「トレカに能力値をつけてカード型ボードゲームみたいに遊べるようにしたもの」で、そこから派生した多くのTCGは「MTGっぽいゲーム」として存在してるっていう歴史がまずあるの。
んで遊戯王は漫画の中でまさにその「MTGっぽいゲーム」としてモロにMTGっぽいゲームであるマジックアンドウィザーズを登場させたんだが、そこには「漫画的に面白くないシーンをなくす」っていう調整が行われたわけ。
マナという概念の削除はまさにそれで、正直漫画で読むと今何マナ出てるのかって全然分からないの。
これはまさにMTGをそのまま漫画に使ったデュエルマスターズを読んでもらうと分かりやすい。
[第1話]デュエル・マスターズ - 松本しげのぶ | 週刊コロコロコミック
マナを削除した変わりに遊戯王が導入したのが「大型モンスターの召喚には生贄が必要」「一番強いモンスターを倒さないと相手を直接攻撃できない」というシステムなんだけど、これは漫画的にもかなり分かりやすい。
お互いが守りを固めれば「このあと出てくる大型モンスターで勝負が決まる」と分かるし、相手が生贄用のモンスターを大量展開すれば「このあと切り札が出てくる」と把握できる。
なによりこの状況を逆転するのにどれぐらいの手数がいるのかが「相手の一番強いモンスターの突破しにくさ」を見れば8割方把握できる。
MTGだとこれが「残りLP・お互いのクリーチャーの数・マナ・手札」とやたら大量の情報を処理する必要があるが、遊戯王はシンプルに「相手より強いモンスターをこっちが出せば良い」に集約されていて漫画的にとてもテンポがいい。
遊戯王OCGはそんな遊戯王の中のマジック・アンド・ウィザーズを「再現して遊ぶこと」に比重が置かれているゲームなわけ。
つまり商品価値は「遊戯王に登場したプレイヤーのようにデュエルが出来ること」なの。
「MTGよりシンプルなTCG」だとか「プレイヤー数の多いTCG」だとかはあとから生えてきた付加価値であって、本質的には「テレビや漫画のヒーローの真似をするグッズ」なんだよ。
つまりは遊戯王OCGもまた「相手より強いモンスターをこっちが出せるかどうか」を競い合うゲームなわけで、そこに細やかなリソース管理を求めるようなマナなんかは邪魔なの。
客が求めるのはアニメや漫画のキャラクターっぽい「ド派手な盤面の転換」「相手に絶望を与え愉悦で高笑いできるような展開」を引き起こせるカードなわけ。
それにOCG側が答えてきた結果、いつだってパワーバランスは崩壊しまくってるし、意味不明な強さのカードが多すぎてもう皆念仏みたいなことを唱えてソリティアしあうようになってるわけよ。
でもそれは「遊戯王がゲームバランスを取るのが下手なゲーム」だからじゃなくて、「アニメのキャラクターみたいに次々カードを出しまくって相手に超凶悪な盤面を押し付けられるゲーム」だとか「そんな最悪な盤面を跳ね返して逆にマウントを取ってねえねえどんな気持ち♫できるゲーム」を求めるユーザーの声に従ってきたという背景があるわけ。
いつの間にかアニメと比べてOCGでの展開が複雑奇怪なものになってるのは、ユーザーの中で「凄いデュエリストはこれぐらいの戦い方をする」のハードルが上がってきてるから。
でもそれが段々アニメでの描写とゲームでの描写にズレを起こしてるのは事実なんだが、そこにあるのは「世界トップランクのデュエリストみたいな超高レベルな頭脳戦を繰り広げてる缶を味わいたい」ってユーザーの思いが先鋭化したものなのよ。
MTGのプレイヤーが求めるのは「世界的な大会の優勝が確かな権威を持てるような緻密な作りのゲーム」だろうけど、遊戯王のプレイヤーが求めてるのは実際に緻密なゲームなのかではなくて「緻密な頭脳戦を繰り広げてるっぽさが味わえるか」なわけでそれはもう全くの別のものなのよ。
正直、めちゃくちゃ迷ってる。どちらも値段は同じだし、後は国産か海外産の違いなんだよなあ。
Brizyは少し玄人向けっぽいけどいろいろ使い勝手はよさそう。LPもテンプレ多そう。
”藤井丈夫です。ぜひ、WordPressでサイトを作っているWebマーケター、起業家に、このWordPressページビルダーBrizyを使って見て欲しいです”
と書かれてるんだけど、どの程度のレベルの人におすすめなのかが分からん。このブログレベルだと自分は使いこなせる気がしないんだが。
LPtoolsは国産だから、使いやすさはこっちの方が上っぽい。こっちのほうがいいかなあ。
いろいろ検討してる。
当時(四半世紀以上前)は田舎なのを良いことに大音量でクラシックのLPレコードをかける傍迷惑なやつという思いしか無かったが、高さ1m以上あるクソでかフロントスピーカーが有り、後方壁面にはリアスピーカーが設置されていた。今思うと結構な金額が必要な設備だったのではなかろうか。そういえばLD再生環境も揃っていた。
登山や釣りにも行っていたし、5インチフロッピードライブのあるPCもあった。
一方自分の環境は10万円ちょっとのTVやPC、3〜4万円のサウンドバーが精々といったところ。
今の自分の年齢にはとっくに妻子・家持ちだったという点からは目を逸らしたとしても、どうやら趣味人としても負けている。
もし存命だったら機材関係で語り合うような事もあったのだろうか。とはいえ、好きとは言えない父親だったのでやっぱり分からんな。
音楽の売買って側面じゃなく心情的な面についてこの記事の中から探すとここなんだと思うんだけど、
イワモト:SpotifyやApple Musicといったストリーミングサービスの普及により、音楽に愛着や思い入れを抱く機会が減っていると考えています。
CDやLPなどの質量を伴うパッケージでコンテンツを取り扱っていた頃は、手触りがあって所有している感覚が得られるので、愛着も沸きやすかった。部屋に飾っているジャケットが目に入ったり、歌詞カードやライナーノーツを通じてアーティストの思いに触れたり、それらの意匠の意図を汲み取ろうとしたりもしました。アルバムは一枚3000円以上したので、曲あたりの購入コストが高い分、一つひとつの音楽を大事に聴いていたということもあると思います。
「愛着」や「思い入れ」、「手触り」、「一つひとつの音楽を大事に聴いていた」っていうこういう楽しみ方をしていた勢が絶滅しかかってるので、何とか残したいんじゃないのかね
自分も増田と同じでガンガン聴こうぜ派で、多分今ならそういう派閥もあっていいけど、ストリーミングサービスを利用し始めるとみんなその派閥になっていくけど、
昔ながらの「曲に愛着や思い入れを持って、CDジャケットを飾ったり眺めたりして1曲ずつを楽しんでた」タイプの人も居ていいじゃない、って話なんだと思う。
[B! 教育] 「母はこの問題の意味を理解できませんでした…」小学3年生の子どもが解けなかった算数の問題は大人でも回答に詰まってしまう - Togetter より引用
daitokai1980 「もとにする数」は授業で踏まえたあとの宿題だろうからなんとも。ほんと「自分がわからなければ相手が無能」扱いの空気の蔓延はどうにかならないか
2021/09/21 リンク yellow262yellow
youichirou 問題自体の是非はさておき、こういう問題は授業でやってるはずだから、答えられないのはその授業を受けていないか(大人)、ちゃんと聞いてなかった(子供)からだよね。
2021/09/21 リンク yellow131yellow
mobanama 確かに問題文はわかりづらいが、そもそも授業で説明したものではないのか?意味を考えればその答えになるだろうし。 教育
タイトルと本文の画像だけ斜め読みしてるアホの多さが分かるねえ。
元のツイート主が
①100000
②100
と言ってるんだから「授業で教えていたはず」「答えられない奴がバカ」は当てはまらないよね。
漠然とこの辺が答えかな~~ってのは見えるんだけど「これが答えだ!」って確証をこの問題文から持つのは無理かな。
これで「答えは一意に決まる(難しい概念だから分からない人はググって勉強してね)」と言い切っちゃう人こそがヤバいよ。
もしもこの問題に対して「テストって答えが一意に決まる必要があるんですか?」とか言い出しちゃうならそれもヤバイよ。
もし上の文に「答えが一意に定まらないテストはある。たとえば美術の試験なんかは~~~」とか言い出すなら超ヤバイよ。
算数のテスト、それもこのレベルの簡単な計算や公式の確認のテストであるなら答えは一意に定まるべきだよ。
この問題だけ例外的に回答のストライクゾーンを広く取るのならば「この問題の答えは多少曖昧でも許されます」と例外規定を書くべきだね。
少なくとも相手が小学3年生という時期であり、「テストで間違いを書くとさらし者にされかねないから恥ずかしいよぉ(T_T)もういっそ白紙にしよ(T_T)」と考えちゃいがちなナイーブな時期であることも考えるとね。
ああだこうだ言ったけど結局の所はてなーって「本文もロクに読まずに脊髄反射で相手に殴りかかって論破して調子に乗りたい」ってだけなんでしょ?
普通じゃないよね。
普通の日本人は「相手を批判するなら、自分の側が間違っている可能性を考慮してもう一度じっくり相手の意見を隅々まで確認する」よね?
いや凄いよ。
『クイック・ジャパン』『ロッキンオン・ジャパン』以外で、小山田がいじめ自慢していたとされる『月刊カドカワ9月号』の掲載記事について、
メディアが偏向的な切り取りで掲載して拡散され続けているのがずっと気になっていたんだけど、
案の定これを利用して、拡散の元凶となった件のブログが『 小山田圭吾がいじめを語る理由 - 孤立無援のブログ 』という記事で外山恒一氏のnote記事に反論している。
また変な扇動をしかねないので、記事の冒頭から関連する箇所(幼少期から高校時代)までをまるっと書き起こした。
なお、カドカワの記事はフリッパーズ・ギター3rdアルバム「ヘッド博士の世界塔」の発売直後に刊行されたもので、
アルバム発売を受けて、音楽への姿勢を掘り下げるために幼少期から振り返させた全19頁のインタビュー記事のようだ。
月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)P348〜P352
きっと、ぼくの生い立ちなんて面白くないですよ。やっぱりこういう話が載るんだったら、波乱万丈の人生を歩みたかったですよ。
幼稚園のときに、巨人の土井選手の娘がいてね。土井ヨウコちゃんていう子だったんだけど、餅つき大会があって、土井選手が餅ついててかっこいいって思ったのが最初の記憶ですかね(笑)。土井ヨウコちゃんの顔は覚えてないんだけど、土井選手の顔は覚えてる。今でもテレビで土井選手の顔を見るたびに、餅ついてたなということを思い出しますね。
すみれ三組だった。それは年長組で、その前は忘れちゃった。ぼくはお絵かきを習ってた。シンちゃんていうちょっと知恵遅れの子がいて、クレヨンを投げまくって先生にひっぱたかれていたのを思い出すな。
普通の子だった、おとなしくもないけど。すみれ三組の隣のクラスに「ひらけポンキッキ!」に出たヤツがいて、そういうヤツの悪口を陰で言ってた。出たからって威張るんです、そいつら。ぼくらはイジケたグループで、五人ぐらいいた。女の子もいたな。まだ人間できてませんからね。学芸会も普通にこなしてたな。インディアンの歌を歌うその他大勢の役をやった。
小学校は遠かったんです。同じ世田谷区だったんだけど、私立だったから。それからぼくは高校まで同じ学校に通うわけなんだけど、もうシンちゃんはいなかったんだけど、二年のときにKという知恵遅れの子が転校してくるんです。ぼくらの学校は身体障害者の人が多いんだけど、特別にクラスは作らないで普通に入ってくる。Kは高三まで同じクラスだった。ぼくだけじゃなく、みんなにインパクトを与えたと思う。Kとは小学校のときはわりと距離を置いて付き合ってたんだけど、高校に入ってから意外に密接な関係が出てくる。
小学校のときは成績は良かった。運動会のリーダーとか、班長とか。それから、物が流行るじゃない、スーパーカー消しゴムとか怪獣の消しゴムも流行ったしね。そういう物のコレクトに関してはいつでも一位にならないと気が済まない男でね。それで人気を博してたからね。相撲の消しゴムも流行った。貴ノ花とか高見山とか。ガチャガチャでも、十円入れてガチャガチャでカプセルを出すと効率悪いのね。
ちょっと遠いところに駄菓子屋があって、その店では中身がドンと箱に出してあって、自分でスーパーカー消しゴムを選べる。友達とその店を発見して、他の友達には言わないで、自分らだけでコレクトして・・・ジャーン!!(笑)
小学校のときって、足の早い人とか人気があるじゃない。そういうタイプじゃなかったから、物で誤魔化したり、人気のあるヤツの足ひっぱったりとか。陰で悪口言ったり、変な噂流したり。こすいヤツだったな(笑)。だからすごく嫌われたりすることもあったな。いちばんショックだったのが、小学校五年くらいのときに文集を作ったんだけど、みんな普通のことを書いてるのに、「小山田くんの嫌なこと」とかいうタイトルで作文書かれてね(笑)。別に人気者じゃないヤツに書かれたからね、よけいにムッときて。親にその文集はみせられなかった。ぼくがそいつをいかにして迫害したかっていうようなことが切々と書いてあってね。でも、事実なんです(笑)。まさか文集にそんなタイトルで書かれると思っていない。ちゃんと印刷されてるもので、先生が見るだけじゃないの。みんなに配られちゃうの。けっこう挫折だった。だからそいつには、小学校人生全部かけて復習した(笑)。
運動会のリーダーも五年のときかな。仕事はそんなにしなくて、自分の好きなようにやってた。学校に遅くまで残れたり、プリント刷ったりするのがすごく好きで、そういうことができたからやってた。運動が得意だったていうわけじゃなくて。
音楽は幼稚園から。アニメとかのコレクトがすごかった。幼稚園の頃はコレクトって意識じゃなかったけど。水木一郎って知ってるでしょ。あの人が近所に住んでたの。それで家族でどっかに旅行に行ったら仮面ライダー・ショーをやってて、司会が水木一郎で、うちのお母さんが仲良くなって、家に来たことがあった。そのとき『イナズマン』のLPにサインしてもらった。やっぱり子門より水木だよ、とか言って。ウルトラマンからマイナーのものまでLP集めてた。「鉄人タイガーセブン」とか。よく一緒に歌ってた。その頃から歌手になる資質があったんですね、ねえよ、そんなもん(笑)
超テレビっ子。家に帰ったら、ずっと。アニメの再放送とかゴールデンタイムも。でも三年生ぐらいから「ザ・ベストテン」が始まった。大好きだった。チャートを全部メモるの、点数まで。二十位から十一位まで久米さんが早口で言うんだけど「『いい日旅立ち』山口百恵、九千何百何十点」とかいうのを、早くて書けないから「いい日、山」とか書いて後で清書する。それで学校で「昨日、何位だったよな」って言ってメモ見せて威張るというのが流行った。あとになって小沢もそれをやってたって話をきいて。他にもいろんなチャート番組きいて、どのチャートが信憑性があるとかって。オリコンもずっと読んでる、細かいチャートまで。地方別チャートだとフリッパーズ・ギターは四国が全然ダメなの。だからこれから四国を強化したいなと。
あと、「カリキュラマシーン」が好きだった。鉛筆のジョーとか宍戸錠とか吉田日出子とか藤村俊二とか。変な歌があった。「ねじれてねじれてシャシュショミャミュミョ」とか、そういうねじれる言葉があるでしょう。そういう言葉を覚えさせるためにその曲がある。一緒に歌ってた。それから、「三は嫌いだよ、いつもいつも、二人仲良くなると、ひとり仲間外れ〜」とか言い終わると、二人が真ん中のひとりをギターでボコボコにしておしまいっていうような(笑)。強烈なの。コント55号はもう欽ちゃんがソロでやってたけど、ぼくはダメだった。ドリフの志村のほうが好きだったけど、それより「カリキュラマシーン」のほうがずっと好きだった。よくギャグを覚えてる。ギャグともとれないようなギャグだったけど。きっと当時は笑ってはいなかったと思う。『天才バカボン』の第二巻もすごかった。
中学になると、人当たりが悪くなって。クラスに友達があまりいなくて、すぐにイジケるタイプに変わったんだよね。あまりしゃべらなくなった。休み時間は仲のいい友達とクラス出て、他のクラスの仲のいい友達と遊ぶみたいな感じ。中学になると音楽がすごく好きになって、そういう話もできる人としか話さなくなった。
Kはね、体がでかくて、小学校のときは突然牛乳ビンで人を殴ったりしてたんだけど、中学になるとそういうことはしなくなった。大人になったみたいで。
同じクラスにひとり仲のいい子がいた。その子のお兄さんがパンク系が好きで、ぼくもその人の影響でそういう音楽が好きになっていった。その子にテープ録ってもらったり、貸しレコード屋に行ったり。その頃、ウォークマン・ブームで、そういうのはいち早く察知して、お金なかったけど小六のときにウォークマンⅡを買った。ボディが青くてヘッドホンがオレンジ。すごく大事にしてたんだけど中一のとき電車に置き忘れちゃった。ショックだった。で、二台目はアカイやつ。電車の行き帰りで聴いてた。最初に行ったコンサートは、中二のときのクイーンかな。
その頃、初めてエルヴィス・コステロ『インペリアル・ベッドルーム』を借りて、すごく好きで、そのちょっと後に『パンチ・ザ・クロック』ってアルバムが出た。音楽雑誌のグラビア見るのも好きで、"イアン・マッカロクのお部屋"とかいって、奥さんと一緒に写ってる写真の中にレコードがダーッと並んでて、いちばん前にアズテック・カメラの『ハイランド』が置いてあった。それで貸しレコード屋に行ってアズテックの「思い出のサニービート」の12インチ・シングルを借りて、その友達と二人で「いいね」って聴いてた。それからそっちの方面の音楽にどっぷりいった。
そういうふうにして中学生のときに洋楽を聴いてると、みんな馬鹿で自分は頭いいって思いがちでしょう。案の定、そういうふうになっていた。
ギターは中一から。いとこが弾いてて、クイーンとかディープ・パープルを教わった。教則本とか見て普通に弾けるようになったんだけど、アズテック・カメラは弾けない、コーが難しくて。いろんなコードを知らないから、コピーして一生懸命した。だから我流で、コードの名前なんて知らなくて、指の形で覚えた。
高校になると、すごく仲良かったヤツが違うクラスになっちゃった。そうしたらKが隣の席なの。アイウエオ順で、小山田の次がK(笑)。クラスにいるときは、Kとしか話さなかった。Kって特技がひとつだけあって、学校の全員の名簿を暗記してるの。バスの中で一緒になったとき、「あいつの住所は?」ってきくと、ペラペラペラって出てくるの。見たこともない下級生や上級生の電話番号とか兄弟もわかってる。で、高校になるとみんな色気づいて下敷きの中にアイドルの写真とか入れてくるじゃん。Kも突然入れてきた。何かなと思って見たら、石川さゆりだった。「好きなの」って言ったら、「うん」。それから、Kは鼻炎だから、いつも鼻かんでるんだけど、ポケットティッシュだとすぐなくなっちゃう。だから購買部で箱のティッシュ買ってきて紐つけてあげた。それでKはいつも首から箱をぶら下げてた。難しい漢字にもすごく詳しかった。暗記には異常に強かった。俺はいつもビクビクしてたの。ある日、突然キリッとした顔して真面目なこと言い出したら怖いなって。「本当は俺は・・・」って。だって下敷きに石川さゆりを入れてるのも、ギャグなのか本気なのかわからないじゃない。ギャグだとしたらすごいじゃない。で、ずっと観察してたんだけど、そういうことはなかった。だけど風の噂だと、Kがどこかで森鴎外の小説を読みながら歩いていたという話をきいた。
ぼくは浮きまくりっていうか、クラスのみんなが和気あいあいでやってるんだけど、クラスの集合写真にいなかったり。文化祭の打ち上げとか、集まるときに呼ばれなかったり。でも別に平気。人に相談とかしないし。高校になると他の学校の友達とかいたから。
変な高校でさ。普通、レベッカとかBOØWYのコピーバンドとかが主流としてあるんだけど、先輩が変わってて、メテオーズのコピーバンドとかよくわかんないバンドが多くて、レベッカとかやってると迫害されて潰しにかかられる。学園祭で体育館でやるコンサートにはオフコースとかニューミュージック系のコピーしか出られなくて、パンク、ニューウェイヴ系は音楽室。そこにアズテックとかスミスのコピーやって出てた。授業中はウォークマンのヘッドホンのコードを袖に通して手のひらに隠してきいてたりね。
小沢は中学だけ同じ学校だったんだけど、別に仲良くなくて。高一くらいのときにたまたま友達の家で一緒になって、ぼくの持ってた編集テープ聴いてからそういう音楽を好きになったみたいで電話かかってきた。それから学校の帰りに待ち合わせて、お茶の水のジャニスって貸しレコード屋に行ったり。そこはイギリスのインディーズとかヨーロッパものが置いてあって、泊まって、学校行かないでレコードを全部テープに取って、返しに行って・・・そういう生活してたな。その頃の経験てでかいかもしれないな。エスカレーター式だから大学の試験はそんなに難しくないんだけど、遅刻とか欠席が多かったから一年生の時点でダメだとわかってた。だけど小沢は学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)。
※このあと、音楽の話からフリッパーズ・ギター結成までのエピソード、アルバムに対する思いなどが語られるが、問題となっているいじめに関係する箇所は上記だけなので以降は省略。
読んでわかると思うのだけど、ここでも小山田は外山恒一氏の読みどおり、過去を振り返るときは一貫して”自分自身を自虐的で自嘲的なニュアンス”で語っているんだよね。
そして問題の記事から遡ること3年前にもかかわらず沢田君の話が出てくることから、彼に対しての思い入れが深いのもわかるし、
自分自身を嫌なやつと言ながら、”イジメしていたことは認めたくないけど認めざるを得ない葛藤があったのではないか”とする外山氏の下記視点は、なるほどなと腹落ちする。
まず第一に、これは小山田氏が、自分がいかに情けない人間か、いや、〝情けない〟を通りこして、もはや〝卑劣〟で〝ろくでもない〟と云ってよいぐらいの人間であるか、自虐的に語り続けている過程でこういう話になっているのだ、という点を見逃してはいけません。活字に起こすと単に「(笑)」となってしまいますが、少なくとも小山田氏のセリフに付け加えられている「(笑)」は、ニュアンスとしては完全に自嘲的な「(笑)」です。イジメをやっていた当時の気持ちに戻ってしまって、「楽しかったなあ」と笑っているわけではありません。
ーーー(省略)
それにしても驚かされるのは、小山田氏がイジメの始まりとエスカレートの過程を、事細かによく記憶していることです。さんざん云われるように、イジメた側はそんなことはやがてすっかり忘れてしまって、これほどまでに、「ああ、そういう展開はいかにもありそうなことだ」と情景がまざまざと思い浮かぶような語り方をしうるほど詳細に覚えているというのは、イジメた側としては極めて例外的なことなのではないかと思うのです。このことはむしろ、世間で云われているのとは逆に、小山田氏が自身のイジメ加害経験と真摯に向き合ってきたことを示しているのではないでしょうか? それも極めて稀なレベルで、です。小山田氏の云うとおり、そもそもの最初は〝ちょっとフザケていただけ〟、〝ちょっとからかっていただけ〟なのでしょう。それがいつのまにかエスカレートして、ヒドいことになっていく。小山田氏は「決してイジメているつもりはなかった」という線を頑なに守ろうとしていますが、内心ではおそらく当時リアルタイムで、「これはもうイジメと云われても仕方がないレベルなのではないか?」と不安になってもいたように感じられます。高校生になってイジメっ子を卒業してからか、あるいはイジメっ子時代の末期からのことなのかもしれませんが、「どういう経緯でこんなことになってしまったのか?」ということに強くこだわって、よくよくそれを思い返し、もちろん少なくとも『ロッキンオン・ジャパン』や『クイック・ジャパン』でそれを語ることになる20代半ばの時期まで、何度となく反芻してみたのでなければ、なかなかここまで詳細に記憶していられるものではないように思うわけです。
また、件のブログの反論としては、”自分の判断で「障害者を虐待できる俺ってかっこいい」というブランディングを行っていたのである”ということだけど、
フリッパーズ・ギター解散前にそんなリスクの高いブランディングを行う必要はないでしょ、と。
下手したら、「障害者虐待をアピールするから小沢に捨てられた」というような負の印象を残しちゃうわけで、ダメージの方が大きいことは想像できるし、いくらなんでも無理筋すぎる。