はてなキーワード: 高度経済成長とは
JR北海道が自社の経営努力だけでは道内鉄道網を維持できないというニュースを読んで思った。
「かつての賑わいが失われた」などといった、寂れた街に対して使われる言葉は果たして本当に正しいのだろうかと。
ということは、8年前の日本はどの時代の日本よりも人口が多かったということになる。
しかし、まもなく廃線を迎えようとしている北海道の街や、日本全国の過疎地と呼ばれる寂れた街が
8年前に賑わっていたとは到底思えない。
「かつての賑わい」とはきっと高度経済成長期のことを指すのではないかと思うが、
人口ピラミッドが山型で、働けば働くほど幸せになれるという希望があったのかもしれない。
その時代背景を考慮しても、現在の地方都市のシャッター商店街に人がごった返すほどの賑わいがあったとは、
23区に隣接する街に住み続けている自分にはどうしてもイメージできない。
田畑が広がる風景から、段々と宅地化が進み、巨大な団地までもが建設されていく様子が写し出されていて、
寂れた街はその逆のことが起きたはずであるが、変化の加速度はこれに及ばないと思う。
なぜなら、街の大きな変化を経て形成されたベットタウンの構成メンバーは、日本全国から集まってきた人であり、
ある特定の数市町村の全人口50%以上が集団移住したなどといったことはありえないからだ。
日本全国の小さい街から、少しずつ、少しずつ人が減り、その街と共に老いた人々が、
自身の体力の衰えと過ぎ去った時間に対する切ない感情を乗せて、少し大げさに「かつての賑わいが失われた」
などと言っているだけであって、実際のその街は、昔と比較して、実はそれ程変化していないのではないかと思ってしまう。
例えば今みたいな日本には何かを変えようとするなら独裁体制になるしかないんだよね
過去、困窮に陥って復活を遂げた歴史を持つ国って独裁でハイスピード改革を成し遂げた国以外は有り得ない
戦後日本で言えばGHQの独裁で高度経済成長期に至ったわけだし
中国は文化大革命からの超実力主義国家で同意形成なんて無くなったおかげで文化が無くなったのに超再生した
もっと過去にさかのぼればフランスのナポレオンも独裁で強力な国家を作ったわけだし
なので今日本の与党に対して独裁だなんだってのは批判にならないんだよね
この先、どうにもならない超高齢化社会に至ったら与党も野党も等しく死ぬんだから
リベラルってアレだよな、「家族とか地域の柵とかから自由になろう、個としての自由をお互いに尊重しよう」・・・だよな?
日本の保守的な価値観は「共同体の同調圧力と家の柵を美化」だよな
なんだろうな・・・江戸しぐさに通じる日本人美化だよなあ・・・戦争してんだけどなあ?
それに、一億総中流ってのは、実際の貧困層(農村)は無視してるという増田の主張に加え
高度経済成長の恩恵によってもたらされたものだから、そもそも経済政策がないと無理なんだよね
グローバル化の打撃と少子化や、企業の閉鎖性で成長が止まり、身動きできない日本をどうやって変えて行くのか
書き途中の増田が出てきたから投稿するわ。多分10の嫌いなこと、に便乗しようとした投稿で、7つしかないけど。
具体的にはテレビ番組で言うと「鶴瓶の家族に乾杯」、ラジオ番組の「昼のいこい」とかのノリが許せない。
「鶴瓶」では、特にゲストがそうなんだけれど、「今、家族に乾杯で来てます~」と連呼して一般の人が驚いて色々リアクション取るのが番組の主軸になっている。これがクソ。
NHKを有難がる人がいるのはいいんだけれど、NHK自らがそれを主軸に据えて番組作るなよ。自画自賛だし、人々がNHKの威光みたいなのにひれ伏してるように感じる。
昼のいこいもそうで、一般の人々の季節の変化の投稿を厳かに読み上げるだけ。一般の人々の投稿に、我々が厳かさを付与してますよ、みたいな構成が大嫌い。
同時に、大河ドラマが終わった後とかに、アナウンサーとかが出てきて「このあとどんな展開になるんですかねー、楽しみですね」とか振り返るのもかなり不快。自らの番組をブランド化をするような番組は公共放送には不要だし、コンテンツそのもので勝負してほしい。
まとめると、人々が想像する「NHKの権威(みたいなもの)」に腰掛けるような番組、NHKが自らをブランド化するような(価値を再生産するような)番組が嫌い。
一般になつかしい、と言われる高度経済成長前後のドラマが気に食わない。
連続テレビ小説「ひよっこ」とか見ててもそうなんだけれど、昭和の人はあんなふるまいしないじゃん。それに、昭和はあんなんじゃなかったじゃん。
もっとタバコ吸ってたしタンは吐いてたし、道端で立ち小便してたし。暴力も身近で、野犬がいたし、雑草も生えてたし。夏は汗だくだったし、もっと衣服は粗野だった。
一番気になるのは、今よりも男主導の社会だったのを上手くドラマの中で消化できていない作品が多いことだ。そんな時代で女性が活躍するにしても、その活躍の仕方があまりに現代的なのだ。
社会の問題を少しずつ改善して今に至るのに、その昭和の時代を今風の人間関係で描くのが気に食わないというか、時代の表現の限界を感じる。
もちろん、当時のままに社会を描いたドラマを放送しても人気でないだろうし文句言われるし、多分面白くならないはわかってる。
だが、そこにこそ昭和の舞台で現代ドラマを作る際の限界があるように思う。
少しは考えてほしい。足フェチと臭いフェチは異なるってことを。
現今の足フェチと臭いフェチとビデオは、それがあまりに未分化で悄然となる。
私はどっちかというと足フェチに守備範囲があるんだけれど、「蒸れたブーツを……」的な文脈のAVが多すぎる。
論文とか書いててもそーだが、論旨が二つあるんだったら論文を二つに分けるだろ。あるいは章を二つに分けるだろ。それとおんなじだろ! 絶対におかしい。許せん。
臭いフェチは、別に足だけでなくてもいい。腋とか髪とか、良いにおいしそうなところはたくさんあるんだから、それで作ればいい。
でも足は足しかねーだろ。足は手じゃないし腋じゃない。
それとSMっぽくなるのも同じ理由でおかしいと思う。俺は足フェチだっつーの! なにも女性に攻められたいわけじゃない。
例えば、狭い業界にいると、誰誰さんがどうなる、とか噂話が多く飛び交う。馬鹿くせーわ。
人事なんて、正式に決まってから周囲にアナウンスすればいいだろ。組織でも個人でも。
それがよー試験の前後から、誰誰が書類を送付したとか、誰が試験を受けに来ていたとか、誰が受かりそうだとか……馬鹿くせーわ。
そんな人がどうしたのか気になるの? まーわかる。良いポストだったり新しいところだったりしたら、気にはなる。嫉妬とか、羨ましいとか、あるいはあそこの先生のお弟子さんだ、とか、色々あるのはわかる。
だがなぁ、そういうのは心に留めておくのが大人なんじゃないかね。君はサルかね? と思う。
そういう噂が、現場の当事者たちの足を引っ張ったりパフォーマンスを悪くすることが連綿と繰り返されている。
仕事に就くということは、成果を出すために就くわけだ。周りの噂が、その成果をすり減らしている。そんな事例が多すぎる。
文章書いてて、「?」の後に一文字あけるとか、「……」のように三点リーダーを用いるとか、まー細かい謎の誰か決めたルールみたいなのがある。
私はこの細かいルール自体はそれなりに遵守するべきと思う。なぜなら、気にする人がそれなりにいるからだ。
問題は、こんな風な細かいルールばかりがルールだと思っているやつだ。
もっと文章を書く際には決まりごとがあるし、論文でも小説でも訴えたいことを訴えるための手段・テクニック・構成があるだろう。
そして何本も文章を書いて、ルールが馴染むか研鑽を積んでいかないと、文字を書くこと・文章を書くことが自分のモノにならない。
そういう訓練を全く積まずに、誰でもわかる細かなルールだけに固執するというか、そこしか理解できない人が、文章のルールとか語るなよ。
よく、体育や音楽や国語の初等教育を軽んずる人がいる。大人になれば、そりゃあ集団生活や集団での規律みたいなのは充分に備わっていて、小学校での集団運動みたいなのを軽視したくなるのはわかる。
だけれど、子供ってのは身近にいる人なら解るが何もしなければ何に対しても馴致しないのだ。基礎的な身体の動かし方や基礎的な音や基礎的な論理・読み書き。
体罰や強制や人間ピラミッドなんかの時代遅れのやりくちはもちろんあってはならないが、ある程度は集団に馴致させるシステムのメリットを見てもいいのではないか。
家庭教師にそれぞれが初等教育を一任させるシステムがいいとか言い出す人がたまにいるけど、そうじゃないでしょ。
新聞、明らかにメリットあるだろ。あえて煽り気味に書くけど、それが解らないのなら、あるいは、そのメリットがメリット足り得ないと言うなら、それまでだということ。
戦後日本の経済を牽引したのは「とにかく奴隷を低賃金で雇って、物を作りまくって売れば勝てる」というスキームだった。これは「とにかくガムシャラに働く」という昭和の価値観そのもので、何しろ頭脳労働でなく、体を動かせばいいだけだった労働者たちはとにかく働いた。昭和の労働者たちは、家族のために、未来のために、バカ丸出しの精神論を振りかざしてガムシャラに働いたんだ。しかしそれはうまくいった。考えてこのやり方を選んだのか、それともただ“今まで通り”やっていただけなのか。このやり方というのは「欲しがりません勝つまでは」という戦時体制をそっくりそのまま引き継いだだけだった。しかし偶然にしろ何にしろ、これがその時代の勝ちパターンだったので、うまくいったんだ。日本は高度経済成長を迎えた。そしてこの黄金の勝ちパターンに乗っかって世界を席巻した最も代表的な企業といえばTOYOTAだろう。自動車産業はずっと日本の花形だった。今までは。
今、2017年になってまで、ほとんど同じやり方しかできない日本に本当にヤバさを感じる。製造業からサービス業に至るまで、戦時体制をそのまま引き継いだかのような奴隷労働の名残りが未だに色濃く残っている。いわゆるブラック企業だ。“それしか知らない”んだ。日本人はそれしかできない。
もはや物を作って売れば良い時代は終わった。より品質の良い“物”を、より安い値段で大量に売ればよかった時代は、終わった。ではこれから先「価値」となるものとは一体何だろうか。
一つ例を挙げよう。今、googleなど世界有数の企業が自動運転カーの開発をしている。自動で動く車は世界を変えるだろう。都市計画を丸ごとひっくり返し、遊びから仕事まで個々人の生活スタイルに重大な変革をもたらす。電話の登場のように、ラジオの登場のように、スマートフォンの登場のように。自動運転カーは世界を変えるだろう。
これから先、人類の間で求められる「価値」とはこのようなものだ。物を情報化できれば、今まで以上に圧倒的な活用ができる。ここにはまだまだ開拓の余地がある。ほとんど全てのものはインターネットに接続させることができる(が、まだされていない)。ここに伸びしろがある。付加価値を与える余地がある。機械学習が有効な分野であれば、それによって大変な革新が得られるかも知れない。ただ物を作って売れば良い時代は終わった。しかしただネットに繋げば良いというわけでもない。物を“どのように”情報化できるか、だ。或いは有形物でなくとも、コミュニケーションや、異性との出会いや、他人からの承認など、元々無形物であるものを、どのように高度に情報化し活用できるか、だと思う。これから先、求められる価値とはこのようなものだ。
TOYOTAは車を作れる。しかしその車に(これからの時代それが当然になるであろう“自動運転”という)付加価値を加えることは、できない。これが先進国であった日本の象徴的かつ決定的な終わりとなるだろう。
ブラック企業の組織構造・組織体質は「ただ物を作れば良かった時代」には最適なものだった。憎まれようが嫌われようが、昭和の時代にはあれが最適解だった、という事実は認めなければならない。しかしこれからの時代はそうではない、ということだ。俺は日本人をとりわけ優秀だとも無能だとも思わない。問題は組織の体質、社会の構造にある。これを変えるのにあと何十年かかるだろうか。それまでに一体、どれほど落ちぶれるだろうか。
<現状>
1.戦後、日本は経済発展を続け(高度経済成長)、高等学校進学は当たり前となり、さらに上位の
高等学修機関(大学・短期大学・専門学校等)への進学率も上昇してきた。
2.上述の高度経済成長の最終期であったバブル景気(崩壊)までの約20年間(1972年~92年)
は、女性の社会進出の影響もあり、女性の進学率は上昇傾向にあったが、全体としては30%
台で推移してきた。(それ以上は上昇しない20年だった)
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/
http://www.garbagenews.net/archives/2014387.html
3.バブル崩壊の影響が出始めた1993年以降、進学率は急速に上昇し続け、2000年代中期に
は50%を超えた。(大学進学率も2009年に50%を超えた)
4.一方で、少子化の勢いは加速する中で、主に私立大学が急激に増加しており、上述の進学率の
上昇とも相まって、近年では大学進学が当たり前という風潮が生まれた。
5.しかし、これも上述のように長引く不況や非正規労働者の増加といった雇用環境の変化により、
親の教育費への負担感は一層増大し、奨学金の乱立により、貧困状態に陥る学生が増加する
という社会問題も出てきている。
6.また、日本の大学は、「入学しにくいが卒業はしやすい」、「唯一学生らしく遊べる時期が大学生
時代」という独特な文化もあり、企業の就職面接においても、本業であったはずの学んだ事や
研究してきた事は重視せず、「部活動でリーダーを務めた」、「ボランティア活動をやった」など
7.上述の大学進学率の上昇の原因をしっかりと研究した者は少なく、ネット上にも諸説あるが、
バブル崩壊後の長い不況と雇用環境の変化(失われた20年)により、それまでは高等学校卒業
で就職していた層が、「大学卒業」という資格を得るためだけに大学に進学するようになったと
考える事ができる。
8.大学数が増加し、いわゆるフリーパスで入学できる大学(Fランクの語源)が増加した事も背景
にある。
9.企業においては、採用時にも、採用後にも、学生時代に学習してきた事を活かそうというシステム
になっておらず、新入社員研修でその会社の社風に合致した人材の育成を開始する。詳細な業務に
ついては配属先に丸投げという文化が定着している。
<提言>
1.仕事を創出している企業の経営者・人事部門などの採用する側の意識から、学歴に対する昔の
イメージをなくし、高等学校卒業者、短大・専門学校卒業者、大学卒業者を、それぞれの年代
ごとに、何を学んできて、どういった成績だったのか、しっかり確認する。
2.「リーダーシップがある」、「コミュニケーション能力がある」、「ストレスに強い」などと
3.上記にも言える事だが、人事は「思考停止」してはならない。そして、真の意味で多様性を求
めるべきである。即ち、高等学校卒業者、短大・専門学校卒業者、大学卒業者、ひいては大学
理由の一つに、高度経済成長期に「モーレツ」に働き過ぎた点があるように思う。
あの時代の直前までは、芸者遊びみたいなのが、どこの都市にもあった。
私の暮らす地方都市にすら、かつてちゃんと見番があって芸妓がいて、料亭があった。
あなたは、「長唄」と「謡」の違いについて、いきなり説明を求められて答えられるか?
これらの芸能が、あなたの住む町のどこで習うことができるか知っているか?
調子こいたけど、俺も詳しく知らん。
当時は、市役所の上層部や会社の社長や銀行の幹部や、金持ちの農家なんかが長唄や謡いなんかを習っていて、そして夜は料亭で遊んだわけだ。
そこでは古典に題材を獲った芸が行なわれていて、それを見て聴いてわかるリテラシーがあったわけだ。
金持ちたちは、何かを習ったり、そのリテラシーを楽しむ時間的余裕を持っていたし、そういうのに金を費やす心意気を持っていた。
彼らは「旦那衆」と呼ばれた。
経済成長の結果かなりの人間が、昔より金銭的に余裕ができたし生活の質は向上した。
だけれどその代償か、遊びは、どこかで失われてしまった。
現今ネットでは、短い間に特定のミームが流行ってそしてすぐに消えていく。
航空事故に関連する話題で「はい」と書き込まれた場合、どうリアクションするのが正しいか?
昔はそれが、源氏物語だったり平家物語だったり太平記だったりしたのだ。原文を読まずとも、なにかそれへのきっかけになる芸能があった。
私たちは、高度経済成長期以降、着物を着なくなって伝統的な日本家屋に住まなくなって井戸を止めて上下水道になってテレビのせいで方言の差異が減って……。んで伝統芸能へのアクセス手段も減ってしまった。みんな余裕ができたんだから、みんなが長唄や謡や、踊りや三味線にリテラシーがある社会になってもおかしくなかったのに。
こうした断絶を経て、今ネット社会はある。
http://anond.hatelabo.jp/20170531064938
じつは母親なのだよ。で、父親が寝たきりでもう余命いくばくみたいな。母が面倒見てる。
でも、少しづつ本人に考えさせるようにする。
で、思ったけど、先日、嫁の実家の土地売買に立ち会ってきた。でも、ほんと仲介業者の言いなりだった。もちろん俺もそんな知識ないからそうなのだけど、最初の仲介業者をどこにするか、ほんと大事だと思った。
というくらい、なすがままで、でもたしかに、そういうことを、高度成長期世代の人たちは知らずに育ってきた人多いんじゃないかなと思った。当時はリスクなんて考えずに行動する人が多数だったんじゃないかなって。
ちなみに、うちの実家の、その寝たきりの父もクズだったよ。原野商法と振り込め詐欺にあってる、クズというかお人好しだった。でも、そのお人好しが、今は、まわりに迷惑をかけちゃうのだよね。困ったものだよ。
お人好しは罪、って認識しないとだね。
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf
各論点はバズワード満載で耳触りが良いので、TLでは、概ね「今の論点がまとまっている!」や「日本ヤバい!」、「熱い!」みたいに、資料に肯定的な論調が目立つ。しかし、違和感を持つ人も少なくない。違和感の正体はなんなのか。
まず、経済産業省の資料として、一番不安を煽るのは、経済成長について正面から議論していない点。1人あたりの実質GDP成長の効用が逓減したとしても、デフレ環境下での生活満足度が信用できるのか、幸福度が指標としてワークするのか非常に疑問。ましてや経産省が経済成長から逃げてどうする。今では有名な話だが、人口減の先進国も普通に経済成長しており、日本だけが馬鹿真面目にデフレを継続させていて、立ちすくんでいた。
また、経済成長なしでの、資源の再分配は必ず社会的分断に繋がる。この資料では、1.若者への再配分が上手くいってない、2.女性への再配分が上手くいってない、3.高齢者へのパターナリズム的福祉抑制で予算捻出だと思うが、パレート最適はありえない。人口動態から、激しい政治的対立が予想される。高齢者にも現役世代の「産めよ殖やせよ」を忖度させるとする。それを全体主義と言う。
2.国家観の古さ
今更、「誰もが不安を不満を抱えている」(そうじゃないのは、不安や不満を表現できない共産圏くらいでは?)、「人生には目指すべきモデルがあった」(良い大学を出て、官僚になるとか?あと、共産圏)、「人類がこれまで経験したことのない変化に直面」(ここ100年くらいでも、明治20年代の日清戦争前、昭和20年代の敗戦期の方が大きくないか?)など、いろいろ古い。これでは、数十年前からバズワード(今だとAIやIoT、VR)だけ変えて立ち上がる、情報社会論やポストモダン社会学である。
行政が生活をどう定義しようが、定義した頃には既に生活が変わってしまっている。市井の生活はそもそもダイナミックなのに、今更エリートがそれを「発見」する。80年代、主にアメリカが考えていた、日本の高度経済成長が通産省によるものという神話に取り憑かれてるのではないか(79年ヴォーゲル、82年ジョンソン)。経産省がライフスタイルや個人の幸福に口出しは余計なお世話で、そんな不透明な指標で制度設計されてはたまらない。時代遅れの国家観、国民観は語らず、経済問題に特化すべき。「子不語怪力乱神」というわけだ。
3.具体的な政策
「バズったから議論の土台を作った」とか考えてたら最悪で、単に大衆がバズワードを使ってポジショントークしてるだけ。要は単なるポピュリズムで、当の女性やマイノリティは困惑している。何故ならば、「弱者」として「発見」されて、マウンティングに利用されている気分だから。では、何をすべきか。
そもそも、民主的なプロセスや市場の原理で実行されないことを目指すべき。官僚はそもそも民主的なプロセスで選出されていない。専門的な課題を解決するなは、必ずしも民主的なプロセスは向かないから(e.g.BrexitやTrump)。レポートで指摘するような、世代間の再分配は、確かに国家的な課題なので、1.経済成長を進め、2.馬鹿馬鹿しいポストモダンを捨てて、3.真面目に取り組むべき。
2017年現在、完全雇用を実現しているリフレ政策は、たまたま安倍晋三が、第一次安倍内閣後にマクロ経済を勉強したから実行された政策。全く民主的なプロセスとは関係ない(その継続は高い支持率に支えられて民主的)。短期的には、資産を持つ高齢者に課税して、若者含む雇用を生み出す政策(フィリップス曲線)だか、もちろん、消えてなくなるのも偶然。日本でもマクロンのような、見た目の良い構造改革派によって、民主的なプロセスに則り、消え去る可能性大。
また、日本やドイツのようなメインバンク制の強い国では、ゾンビような大企業でも存続し、新興企業に資金が還流しない。欧米に比べて資金供給が少ないのではなく、中韓などのアジア諸国と比べても後塵を拝しているのは国辱と言ってもいいだろう。もちろん、民主的なプロセスでは、既存の大企業が力を持ちがちだし、新興企業はそもそも争点にならない。これが原因で、生産性の低い、古風な企業に人材が滞留する。自然とto doではなくto beで働くようになり、モチベーションが落ちるわ、自殺するまで会社を辞められない。
シリコンバレーの金融環境も一朝一夕でできたものではなく、徐々に成功企業によるMAが増えて拡大したもの(9割以上はMAによるexit)。中国もBaidu,Alibaba,Tencentの活動に寄るところが大きい。日本でも企業の内部留保もデフレ環境下で拡大したので、資金がないわけではない。MAを行いやすくする環境を、政策により整備すべきである。これにより、流動的なキャリア形成(液状化した笑)の受け皿が整備される。若者や女性と雇用の問題も本質はここ。
2017年の完全失業率は2.8%で、ほぼ完全雇用状態にある。しかし、これはよく言われるが、労働市場が流動的な国では、自然失業率高く出る。国ごとの単純比較で失業の質は分からない。上記の流動的なキャリア形成を実現した場合、当然転職が増えることになるので、失業率は上がる。政治的な争点としては、もちろん批判の対象になるだろうが、雇用の質を改善するには必要な政策。また、現在のハローワークは若干懲罰的で、失業期間を支えるセーフティネット整備も合わせて必要だろう。
ただ、政治的な配慮の上、論点を探られたくなくて、わざと混乱した資料を公開したのであれば相当の策士だと思う笑
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