はてなキーワード: 頑迷とは
はてなダイアリーとはてなブックマークで、なあなあと慣れ合いながら、少し排外的な「はてな村」は、崩壊を始めている。
移民の受け入れに失敗したからだ。ドイツのメルケル首相を笑ってる場合ではない。
受け入れ失敗には、3つの大きな過ちがある。
はてなブログを受け入れず、結果、定着した時に誤った作法が広がった。
はてなブログへの移行後も、結局、はてなダイアリー的な使い方しかせずに、新しい使い方を拒否した。
結果、ブログに対するスターやコメントなどの「はてなブログ内」にコミュニティを移行できなかった。
相変わらず、はてなブログに対する一番の交流場所が「はてなブックマーク」のままというありさまだ。
なるほど、郷に入っては郷に従え「はてなブログ」は「はてなブックマーク」で交流するのか。
その結果、「はてなブックマーク」にはブログの作法を持った移民が大挙して訪れる事になる。
「いや、拒否はしないよ?でも、ココはこういう作法だから」としてきた姿勢が、大量の移民を前に崩れ去った。
キャッチーではあるが誤ったラベリングを受け入れ、排斥運動が「頑迷な未開人の叫び」になった。
「はてなブックマークスパム」という、昔からあった長いが正しい方向性を、
「はてな村互助会」と言う、キャッチーだが間違ったラベリングで議論しだした。
そもそもはてなブックマークは、idを用いた慣れ合いがかなり長い間あった。
「村長」や「会長」と、なんの説明も付けずに書いたとして伝わるという、身内受けするネタも数多い。
また、「スパムの売買」という認識も間違いなくあった。(はてな村奇譚20あたり参照)
その方向性が一気に変わったのがコレ→はてなブックマーク - 有名ブログですら互助会ブックマークが必要という現実
まだ、「互助会」というラベリングではなく、「ブックマークを集める手法」という承認欲求の一種としての取り扱いだった。
次に、載っかたのがコレ→はてな村を汚す、はてなブックマーク互助会の暗躍
そして、決定的に定着させたのがコレ→はてなブックマーク互助会と炎上耐性 - あざなえるなわのごとし
この2つを切り離して考えられなかった(考えたくなかった)のが、主な誤り。
本当に基礎の基礎の知識だが、圧倒的にネットリテラシーが欠けていた。
もともと、「遠くからヤイヤイ言う」というはてブは、かなり最初期からお行儀云々言われていた。
ネットウォッチにも、荒らしに対する反応にも、びっくりするぐらい相性が悪い。
ここで、「はてブを専有するに相応しくない話題」だと考え時に、徹底無視を貫けなかったのが、誤り。
(「他の人間がブコメしてんだから、俺がしないと大喜利にならないだろ」みたいなのが主因だと思うが)
はてなブログからはてなブックマークに人が流入してきて、本来の意味で「はてなブックマーク」が使われだした。
つまり、「はてなブログに参入する人が、読みたい記事の集合体」が、ホットエントリを占めだした。
いくら稼いだとかなら今からでもスパム扱いすりゃ良いんだけど、もう遅いんだよ。
見てみろ今のエントリー。2chまとめ、グラビアまとめ、Twitterのまとめ。
ぶっちゃけて言うけどさ、「しいたけのアイコンが変わった」がホットエントリになるの、スパムにしか見えない。
もちろん、「●●アクセスで、■■円稼いだ!」みたいなのは、ホットエントリには相応しくないと考える。
これをキチンと分けて考えた上で、慣れ合いを許容しつつ、はてブにふさわしい話題の議論をして、
「荒らしに反応するのも荒らし」とマサカリをガッツリ投げあえなかったのが、敗因。
慣れ合いを村スパムと弾劾できなかった時点で、あとは自警団に期待するしか無かったんだが、
オマエだよオマエ。グラビアに無言ブクマしたオマエだ。ホッテントリが壊れたのはオマエのせいだ。
会長だの村長だのしいたけだのコンビニ店長だの身内向けのブコメを節操無くつけてたオマエのせいだ。
もはや「弾劾は身分保障された対象を訴追する際に使うのでこの場合は断罪」とか言うはてな村は死んだ。
自分は既婚、女。結婚したのは十数年前のことだけど、一番イヤなことが今まで慣れ親しんできた名前を変えなければならないことだった。
私があまりにも嫌がっているので、夫は自分が改姓しようか?と言ってくれたが、問題はそこじゃない。そもそも名前を変えるという行いが、社会に合わなくなっている。
考えてみてほしい。学校や職場などオフィシャルな場所では、個人は姓名によって特定される。これは当たり前のことだ。これに伴って、個人のアイデンティティーも醸成されていく。だから姓名は人生の土台と言ってもいい。それが突然、結婚という特定のイベントを選択すると、夫婦のどちらかが変更を強いられるのだ。
自分の場合は、社会に出て日が浅かったこともあり仕事上の実務的デメリットを考えると、夫ではなく自分が変更するしかなかった。「違う人になる」ことに対する強烈な違和感は今でも忘れていない。「彼を愛してるから何でも受け入れちゃう(はーと)」なんてお花畑な寝言でごまかせる話ではない。オーバーに表現すると、人格の侵害と言ってもいい。学生時代から続いている友達はいまだに昔のまま、旧姓を使ったあだ名で私を呼ぶ。旧姓の私は、夫よりずっと古い付き合いの友達の中に、いまだに息づいている。
さてここからが本題。改姓=「違う人になる」手続きを取り扱うコストについてだ。
姓名という個人特定キーが変わるため、役所や個人情報を預けている企業に対して変更手続を行わなくてはならない。これが実に馬鹿にならないコストになる。
まず役所関連でも縦割り行政のせいで、様々な窓口に赴かなければならない。住民票や戸籍関連は市区町村の役所、免許証は公安委員会なので警察署、パスポートは外務省の旅券窓口。この3つを1日中に回りきれるかは微妙なラインだ。印鑑登録していれば姓名の変更に伴い実印も作り直す必要があるので、その手続もプラス。
その次は勤務先関連。通称として旧姓を使える会社にいたけど、その場合は届出が増えるらしい。またうちの業界全体で見ると派遣法とかの絡みで、実名でなければいけない等あるようで、通称を使いたくても難しいのかもしれない。だって書類上と職場の呼び方を分けるなんて、周りの人が面倒じゃん。自分は、旧姓を使いたい人は旧姓で呼んでるけどね。
次は銀行とか金融機関関連。メールオーダーでも氏名変更できるところが増えた。しかし取引先の数の分だけ書類を書きまくり、新しい届出印を押しまくらなければならない。あ、新しい氏名が記載された公的証明書の取得も忘れずに。(足りない場合は役所に戻る)
そして公共料金の類。電気ガス水道と電話、あとケーブルテレビとか光回線とかその他通信サービス。配偶者が使っていたものを使って契約をリストラできたりするが、自分のを使う場合はやらなければならない。契約の変更だけでなく自動引落もやっている場合はそれもセット。ここでも銀行届出印の出番。
…と、これでだいたい生活していけるだろうか。
自分の経験ではここまでたどり着く頃にはだいぶやさぐれており、「日本では結婚した女は財産を持つなっていう嫌がらせ?!」とか思い始めていた。ざっと3日はかかった。
なお、警察で免許証の氏名変更をした際、裏面に職員のおっちゃんが手書きしてくれるが、おっちゃんが新姓を書き間違えるという信じがたい事態が起き、次の更新まで1日に2回改名したことになっていたのも付け加えておく。
当人の負担もさることながら、届出を受けつけた側も対応しなければならない。日々結婚するカップルの数だけ(および、離婚する夫婦とその子どもの数を足しただけ)発生するそれらの届出を、各企業はそれなりのコストをかけて対応している。
夫婦別姓を認めてくれさえすれば、名前を変更する申請が減り、社会全体から無駄なコストが減る。何よりも、慣れ親しんだ名前を無理矢理捨てる必要がなくなる。
望んで「違う人になる」人を責めたりしない。そうしたい人はすればいい。それにもともと現行の運用においても養子縁組とか、改名だとか、名前を変える届出は存在する。ただ、社会全体で見たときに、氏名変更が今よりずっとレアな手続きに変わる可能性があるのだ。結婚した夫婦すべてに必須の手続きではなく。
また、どうしても言っておきたいのは、「別姓を認めると家族の一体感が損なわれ、家庭の崩壊につながる」とかいう論調について。
すでにあちこちで言及されているように、世界的に見て夫婦同姓を強制する国はごく少ない。そもそも姓という概念のない社会も珍しくない。そういうケースも含め、人類の多くは夫婦同姓を強制されない社会で生まれ育ち、次の家族を作っている。そういった他国の人々に対して、「夫婦別姓の家庭には一体感がない」と言い放てるのだろうか?何様のつもりだ。
結局、「日本では違う」と謎の日本特別論を持ち出してくるしか正当化の手段がないのだ。
他の国でできることがなぜ日本ではできないのか。この問いに対するまともな回答を、夫婦同姓維持論者からは聞いたことがない。ぜひ教えてほしい。
夫婦同姓の強制にかかってくる数字的なデメリットを列挙してみた。日経新聞あたりが拾って記事にしてくれないかな。
か、
・「決まりだから」の一言で片付け、自分で考える能力に欠けている
のどちらかに当てはまる、頑迷な爺婆かその予備軍だと思っている。
2016/6/21
id:bell_chime_ring238です。
このエントリと似た思いの増田を見かけ、同じようなこと書いたなとブコメしたんだけど、
まず、自分は結婚するのがイヤだったわけではない。いまだ人生のパートナーとして大事に思っているし、一緒に暮らせるのは素晴らしいことだ。書いてて恥ずかしいぞちきしょーめ。
ただ、それと「違う人になる」のとは全然別の話だと言いたかった。
また、現行の運用でも改名がありえる(キラキラネーム改名とか増えるだろうし)ので、名前を変える行為を全廃しろと言ってるわけでもない。同じことは本文にも書いてるけど。
結婚したらその夫婦の数だけ氏名変更届が発生するより、氏名変更したい夫婦だけ届け出れば絶対数は減るだろう、というのが趣旨だ。
はてな界隈やtogetterを見ていると、オタクたちの攻撃性に驚く。
ここ3、4年の間に、オタクの物言いが随分と攻撃性を帯びるようになってきた。
あるいは、オタクの攻撃性が目に見える形になってきたと言えるかもしれない。
攻撃性と言っても、露骨に罵ったり汚い言葉を使うのでなく、ある種の頑なさがあるのが特徴だ。
二次元キャラやオタク文化にたいしての否定的意見に対する彼らの勢いは凄まじい。
通常のニュースや政治、経済の話題では賛否両論あるが、ことオタク文化に対しては判を押したようなアニメアイコンの、これまた判を押したような「正論」が続く。
それを是とする空気が彼らにある。「正論」は正論に違いはないからだ。
正論が悪いわけではない。しかしその「正論」に潜む攻撃性、ある種の頑迷さが、ことほどさように気持ち悪く感じる。
オタクが少数派でいられた頃は、多数派に対するプチ憎悪もネタにしていられたのだろう。
しかし、自分たちが多数派となったことに気づかずに、少数派の頃のままにプチ憎悪をまき散らすことを「当たり前」にしてしまった現在の状況が続けば、
早晩オタクたちに対する風当たりは強くなる。
ばさま「すいません、御祈願をお願いしたいんですが」
ばさま「実は主人がこのたび入院しまして…入院したのは一ヶ月くらい前なんですが」
ばさま「今も入院しておりまして…病気平癒の御祈願を、お願いしようと思います」
神主様「(今言ったが)はい、では奥様のご主人様の病気平癒ですね。
続きましてお名前を」
ばさま「シニカワです」
神主様「しにかわ、ですか?」
ばさま「シに、カワです。カタカナのシにカワって書くんです」
神主様「(シ…さんずいがわの事か)さんずいの河ですか?」
ばさま「そうです。でその上に、シが付きます。そしてカタカナのシが付きます」
神主様「(??? 厳、みたいな字か? でもそんな字ねえだろ)
すみません、このさんずいがわ(河)の上に、シが付くんですか?」
神主様「……。
ああ。
シにカワと書くほうなんですね?」
ばさま「そうです」
神主様「市河(いちかわ)様、でよろしいですか?」
ばさま「はい」
①恐らくイチカワと言えば皆が「市川」と書くので、いつも違う部分(河)を説明する羽目になるため、その説明を先に行った
③字の説明をする際に、シ(市)とシがつくカワ(河)というややこしい組み合わせにて説明を強行したため余計こんがらがった
④「名字はイチカワで、イチバのイチにさんずいの方のカワです」とストレートに言えババア
⑤あとせっかく旦那さんの為に遠くから来てんのにわざわざ境内でその目的を全力で裏切るがごとく不吉な単語何回も連発するなババア
高齢者の祈願受付するとこういう事が本当に多い。
“高齢者は若い人と会話すると脳トレになる”みたいな事言うけど、若い人のほうがよっぽど、高齢者と話すと脳トレになると思う。
【社説】慰安婦報道撤回 本質は強制連行にないhttp://www.kanaloco.jp/article/76014/cms_id/95741]
だそうだ。
要するに、朝日の強制連行は捏造報道でしたと認めた謝罪?訂正?特集での「慰安婦問題の本質 直視を」http://www.asahi.com/articles/ASG7X6753G7XUTIL053.html]とする主張をなぞっただけのものだ。
あほすぎる。
朝日が「本質は強制連行じゃないもん!広義の強制性だもん!」と無様な言い訳をせざるを得ないのは分かる。こんな子供じみたふるまいは感心せんが。今更吐いた唾も飲めんし、今まで自分たちの購読層であった頭の弱いリベラルちゃんとか頭が弱い上に頑迷な左翼君たちを裏切ることになる。こういうバカどもの間で「朝日が裏切った!」とか噂がたったら、売上に響くだろう。
だから、一流大学をでていい給料をもらってる朝日の編集担当はこういった記事を一応書くわけだ。
でもさ、今更、朝日が慰安婦問題に関してなにか書けるだろうか?なにか書いたところで世間は眉に唾をつけてから読む。ちょっとでも間違いがあればそれみたことか、またやりやがったな便所紙!となる。そんな変なリスクのある記事や特集、わざわざ載せない。
要するに「慰安婦問題の本質 直視を」なる記事は、「先輩達を露骨に悪く言う訳にもいかないし、会社として一応は恰好をつけとかんとな」というポーズをとるためだけのアリバイ記事だ。
こんなアリバイ工作を真に受けるのは人がいいのか、頭が弱いのか。
一般人ならどっちかだが、メディアに関わるものがそれやったら自殺みたいなものだ。朝日新聞と心中してなにかいいことあるのかと。
だそうだ。赤旗のコラムもかくやはと思われる一方的な決めつけと一部の政治団体の主張を代弁するご熱心さにはあきれるばかり。
昔から、朝日の社説は程度が低かったが、ここまででは無かったはずだ。
なんで、こんな独りよがりなポエムを社説として掲載するのだろう?天声人語ならいざ知らず。いや、コラムにだってこんなん書いたらあきれるけど。
この社説子が読者に感じてほしいことは、
「俺はウージェーヌ・イヨネスコの『禿(はげ)の女歌手』を知っている文化的な人間」
「安倍内閣の暴挙を不条理劇になぞらえる発想力。センスいいでしょ?」
「『カーテンコールの、喝采の代わりに。』どう?詩的でしょ?センス良いでしょ?」
こんなとこか?
センス無いよ。はっきり言って。
集団的自衛権に関する憲法の解釈変更について、ついでだから私見を述べておく。
とは言っても、今回の解釈変更についての賛成・反対のことではない。
デモクラシーの担い手たる健全なる社会人なら誰もが知っている「ルール」(社内規則や法律等、もろもろの)についてだ。
憲法は法律であり、法律はルールであり、ルールは守らなくてはならず、ということはルールは守れるものでなくてはならない。
現状を追認すればいいというものではないが、現状に即した適切な条文に随時メンテナンスしなくては、ルールはルールとして機能しなくなる。
守れる訳のないルールを頑迷に変更しないまま金科玉条のように奉っておくと、そのルールはやがて形骸化し、却って何の歯止めにもならなくなるものだ。
守れる訳のないルールの一字一句にこだわるのは、ルールの精神を尊重していない言葉遊びと同じことだ。
そしてその言葉遊びは、ルール自体をゆっくりと間接的に蝕んでいく。
たとえば創業者が決めたけれども時代や社会や新しい法律と整合性がとれなくなって、もはや誰も見向きしていない社内規則とか。
憲法9条は、法律の条文にすぎない。それによって守るべき価値は何か?日本国の平和と安全だろう。
しかし、かつてルールの一字一句を神聖視して、日本国の平和と安全などどうでもいいという人たちがいた。
彼らは「神聖なる憲法9条に奉仕する自分」にうっとりするばかりの、自分をえらく見せたいだけの偽善者たちだった。
言葉遊びを非難するならば、彼らこそが非難されるべきだろう。
彼らは、国際情勢に合わせて憲法の精神を尊重しつつ条文をすこしずつ変えるという民主国家に必要なプロセスをあれやこれやの感情的な屁理屈をもてあそんで邪魔してきたのだ。
そしてその結果として、今回の無理筋の解釈変更が必要になってしまったのだ。
つまり朝日新聞は「言葉遊び」によって憲法を形骸化させた張本人の側でもある。自分たちの言葉遊びの報いを別の言葉遊びで受け取ることになっただけのことだ。
いや、その報いを受けるのは国民全体なのだから憲法の精神を真の意味で尊重してきた人々には迷惑な話だ。
「主権者である私たちは声をあげ続ける。(中略)おかしい、認められないと」
こんなの今時は学生だって恥ずかしくってビラにも書かないような少女趣味のアジテーションだ。
これで横暴な権力に立ち向かう革命の闘士気取りならば、いい気なもんだぜ。としか言えない。
薄ら寒い自己陶酔はご自宅に配達される朝日新聞のチラシの裏でやったらどうか。
朝日新聞は700万部(主催者側発表)発行されているそうだから、この社説のおかげでざっと数万冊のノートを作れるパルプとそれに印刷するインクを無駄にしたことになる。地球温暖化の観点からも問題だ。
やまもといちろう氏、この数週間で立て続けにおかしなことになっている。
迷子紐を利用する親を「虐待だ」と叩いて炎上。イクメンを自負する割にはツイッターでひけらかした子供の突発行動や安全な場所への認識がいろいろとズレており、日々苦労の絶えない子育て世代のパパママに「言うほど子育てしてんのか?」という疑惑も残す
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2014/06/linewiretapping.html
ファクタ記事に対するLINE社長の反論をいじろうとしたら、自分も暗号化通信をよくわかってないことがバレて炎上。はてな民の間に漂う何とも微妙な空気。珍しく自分の理解不足についてお詫びを出すハメに。最初にあった「どうも本件の確報が近いうちに出るようだ」とかいう匂わせは、フェリカ告発の時と同じくそのまま立ち消えになりそう
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20140620-00036575/
恋から出演歴を知らない層にウケるだろうと思って書いたエントリで、本人曰く「正しい野次」を示そうとビッチだの人間のクズだの誹謗を書き連ねて炎上。フェイスブックで四方八方から批判コメントがついたら「品格に欠ける経歴を持ち、議員に不適格」などと言い返し、すっかり「テレビキャラの言葉を真に受けて『けしからん』と憤る頑迷なおじさん」に
以前は名うての炎上ウォッチャーだったやまもとさんも、いまや「叩きに行ったら自分が地雷踏んで火だるま」が3連チャン。自分がストライク全然入ってない。痛々しい。どうしてこうなった。
http://www.youtube.com/watch?v=N8UC1RjSvMg
【三荻祥】報道されない名護市長選の実態[桜H26/2/12]
上動画を見た。見る前から大体、内容がどんなものか予想がついていたのだけれど、まあ「やっぱり」って感じ。要約すると:
1)名護市長選は、辺野古移設問題が「反日メディア」やサヨクの操作によって、戦争賛成か反対かにすり替えられた。
2)住民の七割は辺野古移設に賛成だと思われるのに、賛成派は反対派からの嫌がらせ等に苦しめられている。
3)マスメディアでは、辺野古移設反対という住民意思が反映されたと報道しているが、それは正しくない。
といったもの。
問題点を列挙しておく。
1)「反日メディア」とか「サヨク」って言葉を使ってそこで思考停止するのはやめよう。そうやってレッテル貼りをして対話の機会を逃しているのは自分たちじゃないのか。
2)今回の選挙戦が辺野古移設賛成/反対を問うものであったことは火を見るよりも明らかな事実だ。三荻祥氏の話には、それに対する客観的な反論根拠がない。住民全員から話を聞くくらいのルポ精神を持たずして安易に沖縄を代表するな、と言いたい。
3)もし「七割が賛成」であるならば、賛成派が反対派から「村八分」にされるわけがない。それは力学的に間違っているでしょう。そこを説得的に述べなければならない。
4)七割を超える投票率をほこった名護市長選において「選挙に民意がただしく反映されていない」と考えるならば、五割以下の投票率であった都知事選についてはどう考えるのか。田母神票もまたデマゴーグ票ではないのか?(違うと言うでしょうが、名護市長選を説明するときと同じ姿勢をもって接してください。あるいはその二つを説明する原理に齟齬がないようにしてください。無理でしょうけど)
上の諸論点が解決されない限り、私はご都合主義的だと思うし、あるいはダブルスタンダードを持った言説である、と思っている。「動画を見る前から大体の内容の予想がついてて、それを裏切らなかった」って最初に言ったけど、それってご都合主義的だからなんだよね。ようは、沖縄という現実を見ずに、国防や保守思想という空想と戯れているわけ。私たちは正しく思考するためには、現実主義的思考をつらぬかなければならない。自分たちにとって都合の悪い事実から目を背けて、逆に自分たちにとって都合の良い事実ばかりを強調するご都合主義的思考には注意をしなければならない。「現実を見る」ということは自分の思考が不意に裏切られる経験、つまり思いもよらなかったような新たな発見をするという経験ではなかろうか。そうした精神のないところには、私は頑迷な原理主義者や空想家の姿を見出さずにはいられないのである。
http://anond.hatelabo.jp/20130826094522
近所にこの言葉が好きで
判断もこのタイプの人がいて
1・そもそも「歴史に学ぶ」をどう実践すれば「先入観判断しまくり」になるのか。
増田の隣人はその言葉の吹聴が好きかもしれないがその言葉を実践していると言えないようだ。
従ってその人の程度を見て言葉の価値を判断するのは適当でない。
2・「近所にこういう奴が1人いるからこの言葉が好きな人間はこういう奴だ」という増田の判断は
もう1つは経験を過大に評価する傾向を持つこと。
(つまり経験したことについて偏見を抱える、初めて会った黒人が嫌な奴なら「黒人はクズ」と断じるようになる)
■そもそもビスマルクはそんなこと言ってない
勝手に思い込むな
気づかないうちに学び実行しているだろう。
その「他人の失敗」の壮大な積み重ねが歴史であって
「他人の失敗」を文字通りの目の前で見て取れるレベルの他人の失敗として直訳すると
ビスマルクの発言は小さいスケールのノウハウやtipsレベル、
つまりはてなホッテントリのお仕事ライフハックレベルのことになってしまう。
そんなしょっぱい発言だったら現代まで残らない。
歴史から学んだ政治と軍事の原則通りに鉄と血によるドイツ統一を成し遂げたが
強硬派や原理主義ではなくいろんな思想や勢力と妥協して手を組める思考の自由さもあった。
彼の政敵は理想主義的ドイツ統一を掲げるだけで、しかもそれに固執し現実性を欠いたので敗れた。
近年半可通の馬鹿が「ビスマルクは他人の失敗から学べと言ったんだ!」なんて喚くのが散見されるが
発言の趣旨は「歴史からエッセンスを抽出せよ」「グランドデザイン・戦略を持て」ということである。
ただ、言葉を正しく理解してもなお、歴史から適切なエッセンスを抽出できるかは個人の才覚や器量や教養による面が大きい。
東京新聞:<2013岐路>憲法問題 国のかたち変えるのか:社説・コラム(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013070602000148.html
「国の形を変えるのか」って、本当に護憲派って、國體護持を旗印に、容疑者を拷問してきた特高警察の末裔っぽい連中だよな。国の形なんて、必要があればいくらでも変えていいじゃん。そういう硬直化思考が、日本を戦争に導いたんだと思うが。
もちろん、必要がなければ変えなくてもいいが、必要があろうがなかろうが変えてはならないって姿勢は違うだろう。変える必要がないのなら、変えなくても良い理由を提示しなければ、人は納得しない。
後輩Aが挨拶をしない。
こちらから言っても言わない。
他の連中には挨拶をしているところや、他の連中がいるところでは挨拶してくるところを見ると、
ああ、なめられてるんだなあ、と思う。
後輩達は先輩がやってきた仕事をキチンと受け継がず、とにかく自分流のやり方でやろうとしたがる。
後輩Bはこれまで先輩達が一人でやってきた仕事を引き継がせても、一人でやらない。
先輩達全員を含めた回り持ちでやらせるように話を持っていき、実際に分業制にしてしまった。
機嫌取りの得意なやつにはつくづく甘いし、職場の秩序すら無視する連中だなあと周りをみて改めて思う。
ABともにもう後輩とは思っていないので一切指導していないし、向こうも何も聞いてこなくなった。
Aは自分ひとりですべて対応できるから先輩になめた態度とっても構わないのだろう。
Bは自分ひとりしかいない時にも人に頼るつもりだからああいう提案をしてくるのだろう。
先輩に向かって人前で君付けで呼んだりしていたので流石に注意したら「あれはふざけて~」とか「冗談で~」とか言い訳を始めた。
その後席に戻ってくると「ああちくしょう」だとかこれ見よがしに罵声を発しつつ仕事をしている。
そして「いや違うところで注意を受けましてね、そういう事があったから…不快に思ったらすみません」みたいな事を言ってきた。
はぁ、としか返答しようがなかったのでそうしたが。
よそから来たやつだからどうしようもないが、社家に生まれておいて、三十過ぎて、斯界の絶対的な上意下達&年功序列制度も理解してないのかコイツ。
会に入って楽をしっかり学んでいないのは、単純に自分の態度に問題があるから、これまでずっと人に勧めてさえ貰えなかったんだよ。
頑張って仕事してくれ。
いつまでも上がキレないと思うんならそれもいいが。
人の揚げ足取りを虎視眈々と狙っている連中の中でふざけた態度取るのは、単にツケを回すだけだから。
頑迷で頭の固い陰湿な田舎者の中で調子づいているのは、そのツケを絶対に忘れてもらえないという事だから。
確か奨学金の返済が月一万六千円で四十歳まで続くと言ってたね。
最近やったテイルズオブエクシリア2というゲームで莫大な借金をひたすら返済してて大変だと言ってたね。
8月は終戦の季節なので。
1941に真珠湾で開戦し、当初は連戦連勝だったが、1943辺りから敗色が濃くなった。
選択肢としては、そのまま「本土決戦」まで突っ走らずに、ミッドウェーとか
ガナルカナル、フィリピン争奪戦辺りで、アメリカと講和する、という選択肢もあったかもしれない。
(欧州でヒトラーが交戦状態だったので、日本単独の講和が可能かどうか微妙だが)
「1943頃に、中途半端に講和休戦する」より、
「1945まで玉砕で突っ走って、無条件降伏に追い込まれた」ことが、
数値は腰溜めの数値だが、
「A=開戦前の4分の3の国力の状態で1943頃に休戦し、その後5%の経済成長の日本」と、
「B=開戦前の2分の1の国力まで落ち込んで1945に無条件降伏し、その後10%の経済成長の日本」。
確かに一時的に辛いのはBで、それこそ飢餓線上スレスレだったのだが、
数十年のスパンで考えるとどうか?
75.00 1943
78.75 1944
82.69 1945 50.00
86.82 1946 55.00
91.16 1947 60.50
95.72 1948 66.55
100.51 1949 73.21
105.53 1950 80.53
110.81 1951 88.58
116.35 1952 97.44
122.17 1953 107.18
128.28 1954 117.90
134.69 1955 129.69
141.42 1956 142.66
148.49 1957 156.92
155.92 1958 172.61
163.72 1959 189.87
171.90 1960 208.86
180.50 1961 229.75
189.52 1962 252.72
199.00 1963 278.00
ということで、当初は苦境だが、1956頃にはBの体制の方が経済規模で優位になり、
以降その差は拡大していく。
Aの体制だと、軍部はそのまま温存され、治安維持法も大政翼賛会も温存。
GDPに対して軍事費の圧迫は著しく、又外交も困難を極め、自由に資源調達できず、自由貿易も望めない。
ひと握りの中産階級と多数の貧農、という体制下なので内需も拡大しない。
言論の自由は制限され、それによる萎縮効果で、科学技術の進展も緩やか。
結局、一時的には辛くても、「膿を出し切って、高度成長できる自由体制」に舵を切った方が、
長期的には国力は増す、ということになる。
結果的に旧国体が解体に追い込まれたことによって、高度成長体質になった、その意味では
日本が「徹底的に太平洋戦争を戦った」ことが、その後の日本のためになった、と感じている。
逆説的だが、頑迷に本土決戦に固執して自爆した、旧日本の支配層には
素直につくると、ウケが悪いようだ。
「カッコイイだけ(なんじゃそりゃ)」
運指がマズいとか実演に即した指摘はありがたいのだが、上のような中身のない、あるいはあっても価値観の違いだとかその程度の指摘はもらってもあまり嬉しくないというか、その程度にしか思ってないんだろうな、と少し憤慨してみるなど。
もっともゲーム音楽からの影響がないというのは嘘になる。ゲームするし。むしろ何者の影響も受けない、独立した音楽があるなら聞いてみたいものだ。
でもこういうことを言うと頭でっかちだとか人の話を受け入れない頑迷な人間だという謗りを免れないので、仕方なくニコニコした風な顔を装ってみる。ああめんどくさい。
まあ、「◯○の作った曲のほうがマシ」なんて言われるぐらいならまだマシですよ。そこに挙がる◯○ってのはだいたい私より実力は上だし、むしろ当然でしょう、という感想を持ちたくなることばかり。なので、変にイライラしない。こっちのが平和。
というわけでだいたいのアドバイスとも批判ともならない空気のようなことばを先日も一身に浴びてきたわけです。まあわからないでもない。言うべき言葉が見つからないけど言わなきゃいけない、そんなときは中身がなくなる。形だけ。そしてそれを聞くだけ。全部空っぽ。
というわけで最近ファンファーレなる楽式の委嘱を受けたんですけどね、まあ依頼内容が面白い。
「無調で」
えーとですね。ファンファーレというものがどういうものかご存じないのでしょうか。一度に始まり五度に終わる。これがファンファーレの不文律。金管楽器の構造上旋律も三度、四度、五度になるわけですね。ぱっぱぱぱーって鳴ればいいってわけでもないんですよ。いや、吹く側からしたらそんなことは些末な事かもしれませんがね。
たぶん無調ってのもなんか厨二の延長ぐらいの要望なんじゃなかろうか。まあそれはいくらなんでも依頼主に失礼か。
MTL2で作ってあげようかしら。ああ、今日も半分が終わった。作らねば。
何を書こうかと何かを書かなければと思い、どうせ碌な文章にもならないし誰に伝いたいわけでもない。書き残すくらいなら消してしまえと命じる自分がいて、それでも消しててまるものかと、悔しさからくる意地のような、頑迷さというか、突き動かされているわけでもないのだけれど、とにかく形にして残してみたいと、日記でいいじゃないとうんざりしながらキーボードを叩いてみたりして、何がしたいんだろう、何をしなければならないんだろうと行き止まりばかりでつまらない迷路にまた足を突っ込んでみて、右に曲がり左に折れ、坂道を登って階段を下りながら、さてさてどうしてこんな場所にまでやってきてしまったのだろうと空を仰ぎ、手を伸ばしてリセットボタンを押して、迷路の深部を見るでもなく、また迷路の出口を探すのでもなく、ぐだぐだだらだらといつものように刹那的に楽しいことだけを選んで笑って、時間が来て眠くなって疲れた寝ようって思って、何もできなくて、それをうだうだ悩んでいるようなだらしのない、情けないナルシストで悲観論者で知ったかぶりばかりして行動を起こさず浪費ばかりするダメな人間でなおかつそれを肯定的に捉えようと、自分なんだからと認めてしまい一歩も動かなくなるような、そんな糞野郎であるわけなのだけれど、いかんせんそれでは良くないといつものように思い立ち、かように文章を打ってみて、でも結局意味なんてなくて、何にも繋がらず、生産性もなく、ならばもうやめてしまえばいいのだがそれも気に食わなくて、エゴというか自分勝手というか幼稚というか、とにかくそんな感じで、もうバンザーイってやけになってみたい。