はてなキーワード: 落語家とは
東京にいわゆるサブカルチャー的な(本屋が多いだのライブが、コンサートが多いだの美術館やギャラリーがうんぬん)リソースの集積があるのは、まぁそう。
でも、東京には歴史があんまりないし、色んなお国から集まってきている人の集まりの街なので「東京のくらし」という共通認識もあんまりない。
増田は東京生まれ・育ちなのだが、東京には割と潤沢にあると言われがちなサブカルチャーやサブカルチャー的な”文化”よりも、人の生活に根差した文化がある地域が素敵だと思うのだ。この間はTVを見ていて、青森には「普段は別の仕事をしている市井のねぷた絵師」がいる、というのを知って、何だよそれめちゃステキじゃないか。と思った。
東京は、色んなお国から人が集まってきていて、そういう暮らしに根差した市井の文化は割と薄まってしまいやすい。まぁ薄まっているところも「東京らしさ」でもあるのだけれど、市井のねぷた絵師のような存在は文化だなーうらやましいな、カッコいいな、と思う。
ところで、サブカルチャー的な文化ではない、市井の文化も、薄まってしまっているとはいえ東京にも残っていたりする。
下町生まれ育ちの増田が感じる、東京の下町の、もうすぐなくなってしまうもしれないな…と思ったりもする、東京の市井の文化を紹介させてください。
そりゃ歴史のある他の街ほど立派なものではないが、東京はいわゆるお祭りが結構かなり多い。
下町は特に、もう数百年のあいだ狭い長屋に人がひしめき合って暮らしてきたところでもあって、人の数だけ「祈り」も必要とされてきたんだろうと思う、街ごとに小さいお社がある。小さいお社は普段は町内会で掃除とかの面倒を見ているが、このお社がお祭りに参加する。大きな祭りの氏子だったり(例えば神田祭だと100個ぐらい神輿が出るらしい)、自分たちだけの祭りがあったり色々である。
下町では、各町内ごとに「自分の町内は〇〇祭の神輿」がある。氏子という言い方なんだろうと思うんだが、かなり割とキッチリと、祭りの割り当て?範囲?みたいなものが決まっていて、町内ごとに神輿を持っている。まぁ他の街でも祭りってそういう感じだと思うので珍しくもないと思うけども。
下町の祭りは基本的には神輿がメイン、山王祭(日枝神社の祭り)は山車がメインのようだが、まぁあの辺は山の手だな。下町は神輿。わっしょい、わっしょい。
隅田川より西側の下町の祭りは、春~初夏ににやるところが多い気がする。そして隅田川より東側の祭りは夏にやるところが多い。夏にやる祭りは「水かけ祭り」といって、町内を練り歩く神輿に、宮入する神輿に近所の人たちが水をわっしゃーわっしゃーとぶっかける。手にバケツを持つおじいさん、ホースを持ち出すお母さん、金だらいにビールを浮かせながらひしゃくで水をかけるお父さんなど。担ぎ手もびしょびしょ、道路もびしょびしょになる。
神輿が出る日は一日中、町内が法被と脚絆、なんならふんどしの人がウロウロする。非日常ですごく楽しい。普段ダラシナイ自分の親父殿が祭りの衣装になると5割増しに格好よく見える。近所の、普段は古いビルの1階のすすけた喫茶店のマスターをやってるおじさんが、祭り半纏をめっちゃ粋に格好よく着こなしたり、新しいマンションの住人の若いお父さんの装束をきゅきゅっと直してあげてたりね。女も神輿担いでも全然オッケー。ただめちゃ肩が痛くなるので私はまぁ、雰囲気だけ味わって担ぎ手はあんまりやらない。子供神輿を持ってる町内もあるし、うちの町内は子どもは山車が出る。
下町の祭りは毎年はやらない、2年に1度とか3年に1度とか。本当のところは知らんけど「江戸っ子は祭りにお金を使いすぎるから毎年だと無理」だかららしい。馬鹿だな江戸っ子ときたら。
増田が子供の頃は近所に「木遣りをうなる爺さん」というのが居た。「木遣り」と書くので、木にまつわる仕事をする人たち、材木関連、とび職さん、火消し(火消し≒鳶)の労働歌がルーツなんだろうと思う。よく知らないのだが笑。Youtubeなどを見るとうなってる爺さんの動画があると思う。
結婚式の時とか葬式の時に「木遣りを歌うじいちゃん」が何人かで来てくれて、家の前にずらっと並んで木遣り歌を歌ってくれるのだ。平成の半ばに亡くなった祖父の出棺の時にずらっと「木遣り爺さん」が並んで歌ってくれたのが良い思い出。ちなみにおじいちゃんはとび職ではなかったので木遣りは歌えなかった。
まぁでも、もうこういうのは無くなっていくんだろうなーと思う。数年前に祖母が亡くなった時は少し離れた町の老人ホームだったので葬式もその町でやったから、それ以来木遣りうちには来てない。マンションも多いしなぁ。
今は、正月とか区の祭りとかに出くわすと「ずらっと並ぶ木遣り爺さん」が見られる。保存会が伝承しなくては、とかそういう感じみたい。
ちなみに祖父母の家には、私が子供の頃(昭和後半)まで、年末になると上記の「木遣りのじいさん」が門松を立てに来てくれていた。その木遣りのじいさんのことを祖父母は「親分さん」と呼んでいた。今思うとあれは銭形平次的な何かの名残なんだろうな。昭和の頃まで、うっすら「江戸」が残っていたんだろうなと思う。バブルで全部洗い流されたけどね…。
東京には寄席がある。上野の鈴本、浅草演芸ホール、新宿末廣亭、池袋演芸場。あといくつかの落語や演芸の団体がある。落語家が多い街、東京。
下町には落語家さんが結構たくさん住んでいたりする。私が初めて一人暮らしをしたマンションにも偶然かなり有名な落語家が住んでいて、すれ違うと気さくに挨拶してくれるおじいさんだった。
落語は、上記の定席小屋で毎日やっているし、〇〇市民会館、○○ホールみたいなところで独演会なんかたくさんやっているが、もっと小さい、近所の落語好きの蕎麦屋のお父さんが自分の店で若手を集めて落語会をする、みたいなことが、結構あちこちで見かける。
覚えている人もいるかもしれないが10数年前のNHKの朝ドラ「ちりとてちん」で(まぁあれは上方落語の話なんだけどさ)、アル中から立ち直った師匠を中心に一門の小さい落語会を近所の居酒屋で開くようになるのだが、その「寝床寄席」みたいなのが、蕎麦屋やら居酒屋やら和菓子屋やら、結構あちこちで見かける。神保町のらくごカフェとか日暮里のひぐらし亭とか、ミニ寄席が最近ブームだったりするが、それよりももっと「地元の落語好きの人が場所を貸す」みたいなのがあるんですよ。
これは良い文化ではないのだが、下町には、下町名物の、何て言うか「飛び地の庭」というか…歩道の植え込みを不法占拠して勝手に花壇を作っちゃう爺さん婆さんが生息している。下町の家は狭い。元々長屋だったところなのでとにかく家が狭いし庭なんてない。玄関を開けると2、3歩で歩道なのが下町建築。
なので、下町の園芸好きは、軒下などに細ーくプランターを並べて園芸を楽しむのだが、それが段々エスカレートし過激になってくると、歩道を飛び越えて飛び地的に、街路樹が植わっている土や植え込みにも鉢植えやらを置きだす。通行の邪魔になりかねないのでなぁ…とは思うが、庭の無い下町生まれなのに園芸を楽しみたいぐらいなので結構、きちんと管理されていてきれいな花が咲いたりする。逆ビッグモーターである。
そういえば下町は庭がないからかもしれないが、結構園芸趣味がある。朝顔祭りなんてのは典型だし、少し大きい神社の境内で植木屋台が出ていたり。庭がない家が多いからね…せめて緑を。でも良くないんですよ。
これは、すべてがそういうわけではないと思うのだが、下町に暮らすために必要なものとして「踏み込みすぎない、ちょうどいい親しさを表す距離」を作るスキルがあると思う。
増田は4代前までさかのぼれる東京者だが、その前の先祖は京都出身、新潟出身。しょせんはよそ者同士。色んな理由で集まってきたよそ者が大きくしてきた街が東京である。
例えば真逆の存在として地方の農業地域なら、農業という生計を近所で共に協力して行っていくという、関係を良くするための必然的な理由があるが、東京にはその理由が希薄である。だからこそ、隣近所とはそれなりに良い関係を継続しておく必要があり、かつお互い踏み込みすぎない適切な距離を保つ必要もある。この辺は、下町育ち同士だとすごく「そう!」となるのだが、下町育ちじゃない人(山の手育ちの人や郊外や地方の人)には、イマイチぴんと来てもらえないことが多い。都会に暮らすって、住み着いて何十年も経っても、少し緊張感のある交友関係が必要になるんだろうなと思ったりしている。
手前味噌で恐縮だが、増田は、ご近所さんや、よく行く店の店員さんとかと、適切な距離を取るのが上手いと思う。近所の人におすそ分けをもらったり、差し上げたり、常連の店でひっそりこっそりオマケをしてもらったり。そういうのを目立たないように、踏み込みすぎないように、負担にならないように。数か月に1回程度なんだけどね。何かがあったら協力できる程度、でもプライバシーを保った距離というか。
これは下町に限らないのだが、東京の文化的な特徴だと思う。墓が広い。というか「古い広い墓」がある。
前の項にも繋がる話だが、やはり東京に暮らす人は少し根無し草なのだ。先祖代々の寺や墓がない。ある人ももちろん結構いるんだけど。
特に明治期以降は、仕事の都合で東京に出てきている人が山ほどいるわけで、そういう人に向けた公園墓地がたくさんある。古くは谷中墓地、現代でも八王子とかちょっと郊外に「誰でも入れるでかい墓」がある。
やたらと広い墓には有名人の墓があったりするから墓趣味の人用の案内があったりするね。
このぐらい。
ほかは素晴らしいのに演者の質だけが見劣りする作品ってなぜか「(演技以外の)全部が素晴らしいから名作」って評価が意外とある
ドラマでもなんでもそうだけど、本来俳優・声優の演技力って滅茶苦茶大事だし、何なら作品の根幹といってもいいくらいなんじゃない?
キャスティングの段階から重要だし、現場でも演技指導はする。そうしないと作品として成立しないなんてのは子供でも分かる
けれど、なぜか俳優や声優の演技がイモなのに、他がよいからという理由で謎の高評価ってのはちょっと納得がいかない
もちろん俳優が完璧である理由はないが、全く無知な視聴者からしても「こいつは素人だな」という人がキャスティングされているのに、そこをあえて無視するのはどうなの?
そんなの俳優の価値って低いの?棒読みとキャラクターを全無視しているのを許容してまで評価できるものなの?
芸能人声優が嫌われるのは、そこに重点がおかれていない、ってことでもあるんだよ?
作品全体が「俳優や声優なんて誰でもいいんじゃね?」っていう立ち位置なんだよ?ひどいと思うよ
もちろん、棒読みのド下手な人でも意味がある状況は存在する、と俺は思ってる
例えば本人出演とかね
コナン映画で実際のサッカー選手が本人役で出演したけど、それは本人だから意味があるし、酷い演技も笑ってやり過ごしてあげるのが吉だと思う
サッカーがテーマならやはり実在のサッカー選手が出た方が話題性もあるし、意外な一面が見れるからね(純粋なコナンファンには不評だが)
あるいは、映画の中で歌手が演技しているという場合も意味があると思うし、漫才の映画で実在の大物落語家を出演させるのもありだろう
ようは、その人がそこにいる理由が明確なら俺は許せる
けれど、無意味なキャスティングやその人を起用するために無理やり作ったキャラクターとかはいらないし、その人たちの棒演技で作品が台無しにされたら目も当てられない
・マッシュル→ラスボス(但し「最強の魔法使いの父親」と「魔法が全く使えない息子」という構図)
・逃げ上手の若君→北条高時(愚鈍な人物として描かれている。まあ地位は継いでるんだが…)
・サカモトデイズ→不明(主人公が妻子持ちおっさんで妻子は一般人)
その下の新連載群でも最初からそういう設定はドリトライ(拳闘選手だった父に憧れる主人公)だけ
最初はそういう設定なくても後で出てくる可能性はあるけど(どれもその前に打ち切りの可能性の方が高いけど…)
あとはちょい前に終わったPPPPPP(天才父と捨てられた凡才息子、だったのが実は息子も天才だった展開やった所で打ち切り)くらいか
ギャグのつもりなんだろうけど、古典落語のような昔のものは余裕で身体障害者を笑うような演目があるので、結構難しい問題なんやで
この前某有名落語家の独演会に行ったときに話していたけど、某会場では客席に障害者がいれば、楽屋の噺家に通知が行くそうだ
ただ、例えば目の見えない方が、目の見えない人物が出てくる話を、自分事なので聞きたい、と思うこともある
実際に、目の見えない方本人に、なあ、そういう演目があるって聞いたんだけど、なかなか当たらないんだよなあ、と言われて返答に困ったという話をしていた
しかし配慮が必要なためそういう方がいれば話せないので、その方は永遠に寄席で聞くことはできないそうだ
この需要と配慮とポリコレが交錯しまくってるのがいまの寄席の現状らしい
https://www.youtube.com/watch?v=fHrzrL06I2A
↑動画も見てね。収益化停止してるということで書き起こししました。
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今日はですね、「THE SECOND~漫才トーナメント」という大会についてちょっとお話ししていけたらなと思っておりますね。
いやーまずね、あの「THE SECOND」が放送されたタイミングと同じタイミングでオリラジ
アカデミーって僕らのYouTube大学で、藤森くんとの番組に生放送してた。生放送という
かプレミア配信してたんでね。うわ、裏被ってるよと思ったんですよ。
なんかコメント欄でも「『THE SECOND』とかぶせんじゃねえ」とかって、「もうお笑い芸人が『THE SECOND』とかぶせんな」とかあったんだけど。ふ~ん。あっ、かぶってんだぁ。
僕「THE SECOND」って知ってたし、興味なくはなかったんですよ。言ったらもう
知り合いとか先輩が出まくってるから。あぁ、あの先輩どうなったのかなとか、知り合いどうなったか。三四郎とか同期だしね。
うーん。言ったらギャロップさんとかもね。若手の頃に大阪の劇場でご一緒させてもらったりとかそういうのもあったからねぇ。もうベテラン枠。15年以上が出るんですよね。大会でね。で、客評で決めていくと。そこまで知ってたんだけども。いつかってまでやってない。こっちはこっちでさ、あのスケジュールがあってこの日にっていうのが、たまたま一緒だったから。
あ、そうなんだ。わ、一緒かぁと思いきや、視聴者層の違うし。何だったら戦いだと。常にね。あらゆるコンテンツつうのはずうっと戦いだから。やってるじゃねえかぐらいの感じで
オンエアしましたね。
その結果ね、僕のほうのYouTube大学が急上昇ランキング4位までいきまして。相方のほうの後編は急上昇ランキング1位になりましてね。よかったなあと思いましたよね。その「オリラジアカデミー」木本さんにも活躍していただいてみたいな。そういうのもあって。
でも裏だったしって思ったんですけど。だって見ないで何か論じるのっておかしい
よねと思って、見たわけですよね。
ギャロップさんですとか三四郎の漫才を見ましたし。大会のあり方そのものも含めてね。
中田がどう思ってんのかっていうことですよね。はい。ここなんですよね~。
これでさネタが面白かった云々っていうのもそれもあるんだけど、大会そのものが
どういうふうに中田、捉えてるのかっていうことで言うと。
本当にいろんな側面があると思う。単純に「M-1」自体がそもそもは「M-1」との兼ね合いの中で生まれた大会じゃないですか。「M-1」はテレ朝でやってて。この「THE SECOND」ってフジテレビでやってるんでよね。
そんな中でテレ朝が作ったこの「M-1」っていうのがいろんな、その後賞レースできましたけども、すべての雛形になってるような形ですよね。
というのもお笑いで言うと東京ってああいうお笑いの賞レースって。
ショータイムのショーのレースじゃなくて受賞の賞ね。賞レースって我々言ってるんだけど、賞がついてるレースだよね。こういう大会自体が、関東はあんまなかったんですよ。テレビ局は。でもこれ、関西の文化で大阪はABCお笑いグランプリとかなんとかMBSアワードとかなんかいろいろあるみたいなんですよ。
でもその吉本の中でも大阪と東京って全然文化が違うから、その東京の人間がじゃあ大阪に行って大阪の賞をとれるかっていうと相当厳しいんですね。大阪の賞は大阪の芸人のものだっていうのが、大阪のテレビ局の中でも芸人さんの中でも視聴者の中でもどっかあるんですよ。
だから東京から来た奴らっていう感じだから、なんかね大阪の賞レース文化ってちょっと遠くに見てたんだけど。ただ吉本興業ってすごくその賞レースを中心とした事務所なんですよ。だからそのテレビでどれだけ売れたか以上に漫才の賞を取ってるかどうかで劇場のギャラが上がる下がるとかっていうのがあったりしたんだよね。少なくとも俺がいた時は。
だから僕はずっと不平等だなと思ってたの。なんで、東京はショーが少なくて大阪はショー
がいっぱいあるのに賞を取ったらギャラが上がるんだよって。フラットじゃなくない? 大阪超有利じゃんとかいろいろ思ったわけ。
でもそれはそれで、テレビ局の全国ネットが東京にあるんだから東京の芸人は売れやすくて有利じゃないか。大阪から移住しなきゃいけないんだぞとか、いろんな理由があるから。
必ずしもね。そのどっちがっていうのはないと思うんだけども。その大阪の賞レース文化っていうのはなんかすごく遠くに見てたんだけども。
そのM-1っていうものができて僕はそこに吉本って入ったの、「M-1」ができた後ですから。
2004年にNHK入って5年にデビューするんですけど、2001年に「M-1」始まって。僕は大学生の時に大学1年生の時に「M-1」ってのが始まったっていうのがね。覚えてますから。
その「M-1」の大会の存在意義っていうものも含めてこのセカンドができたわけですよね。「M-1」っていうものは要するに1年目から10年目までしか出れなかったですよ。まず
これは島田紳助さんが10年やって売れないんだったらもう諦めてもいいんじゃないかっていうことでお笑いという、いつ売れるかわからないけれど、そのためがゆえにズルズルやっちゃうという芸人さんを産まないために10年目までに光を浴びないんだったらやめなはれ
というですね。
そういう言ったら厳しい愛の鞭のような意味を持った年齢制限だったわけですよ。
ところが1回終わるんだよね。「M-1」自体がね。なんでかって言うともちろん紳助さんが辞める辞めないとかもあったんだと思うんですけど。それ以上にやっぱりこう、10年目までのおもしろい人たちが大概出ちゃって。ちょっとこう、「うーん…。なんか、どうする?」みたいな状況になった中で。「THE MANZAI」とかできたり、(一緒に?)しましたよね。
そんな中でまた戻って、15年まで広げたんだよね。芸歴15年まで出れるようになったわけ
よ。この時点でかなり中堅に優しい大会になったんだよね。
これ10年って、俺が、俺はずーっとこう最初にデビューした時に武勇伝っていう
もの自体がそもそも漫才じゃないっていうことで準決勝まで行けたんだけど決勝に上がれ
なかったんですよ。
そこから漫才じゃなきゃいけないんだと思ってずっと漫才やってたんだけど、漫才自体が俺が一番向いてるフォーマットじゃなかったんじゃないかって思ってたし。僕らの実力不足でいけなかったんだよね。優勝も決勝までね。ずーっと敗者復活とか準決勝で敗者復活。ずーっと。そんな感じだった。
そんな中で、でもまあ10年でやめれるっていう側面もあるわけよ。あれって。
芸人からすると。もう出なくていいっていう側面もあるわけよ。ところが15年まで広がることによってずっと出なきゃいけなくなっちゃうんだよね。
ここね。でも15年で言ったら解放されるって所があるわけよ。解放されるのか? それともチャンスがなくなるのか? この2つの視点があることがすごい大事なの。
で、「THE SECOND」始まったんだよね。15年以上のキャリアの。ということはだよ? これ、全キャリアがその賞レースに向かうことになったわけですよ。
この「M-1」至上主義っていうのが「M-1」で見出された人たちはたくさんいるん
だけど、俺からすると正直みんな「M-1」目指しちゃってもなーって思ってたんですよね。
もちろんいろんな意見あると思うよ。「お前は決勝行ってないんだから黙ってろ」とか
いろんな意見あると思うけど、「M-1」ばっか目指しちゃうんですよ。みんな。
売れるために「M-1」しかないって思ってる人もすごい多かったのね。今、わかんない。「YouTube頑張れ」とかっ言う人もいるかもしれないけど、「M-1」しか
ないと思って、「M-1」で何とか売れるために1年準備して「M-1」に行くんだけど、「M-1」のすごいところって、発掘してるっていう側面もあるんだけど、選抜してるっていう側面がすごい強いから。言ったら「M-1」で優勝したとか準優勝したとか、それぐらいの功績を残した人たち以外は、言ったら日の目を見ない大会なんですよね。あんまり。
特に「M-1」の決勝出たけど、下位だったっていうコンビって、逆にレッテル貼られたりするじゃないですか。相当しんどいんですよね。僕の感覚からすると、お笑いって
漫才だけじゃないんですよ。まず。
漫才が偉いとかも実はないんですよ。だけどあの大会のすごいところは、漫才が偉
いっていうふうにしたところで実はみんな2001年からのお笑いの流れしか知ら
ない人って漫才ってすごいもんだって思ってると思うんですけど。
実はそれよりちょっと前って、言ったらボキャブラとかの時代って漫才師のほうが少なかったんですよ。ネプチューンさんとか、ナインティナインさんとかロンブーさんとかの世代
ってどっちかというとそのショートコントとかコントとかそっちのほうが多くて、漫才ってちょっとレトロな演芸になりかけてたところがあったんですよね。
それをルネッサンスしたのが、復興したのが、復活させたのが「M-1」だったわけなんですけど、そういう風に相対的に見ると漫才っていう演芸とコントっていう演芸とそれ以外の演芸っていうのは実は本当はフラットなんですね。
みなさんの中で落語と漫才どっちが偉いですかとかって言われてもなんか「う~ん、知りません」って感じじゃないですか。だけど昔は落語のほうが圧倒的に偉かったですよ。これ。
落語家さんは出番が黒い文字で書かれてて、それ以外の漫才師さんとか手品師さんとかそういう人たちは全部赤い文字で。色のついた文字で描かれて紹介されて落語という主の演芸を賑やかす、いろもんって言われてたんですよね。そういう感じで時代によってこの演芸が格式が高いっていう認識って全然違って。
ある時は落語、その後である時は漫才みたいになったりもしたんですけど。それはすごく相対的なものなんですよ。すごく相対的なもの。そんな中で「M-1」っていうものがもたらしたのは、僕から言うと漫才至上主義に近いものでそれのカウンターカルチャーに置かれちゃったのが「エンタの神様」とかなんですよね。
エンタの神様はどっちかっていうと「ボキャブラ」とかそういうのもそうなのかもしれないですけど、テレビバラエティの中で言ったら何でもいいからやるっていう感じですね。
もちろん漫才とかもやる時間もあったけど、漫才の時間は「エンタ」ってすごい少なくて漫才師は出づらいって言われて、タカアンドトシさんでも「コントで出ろ」とか、サンドウィッチマンさんでもコントで出ろとか言われて、コントに漫才を直してやるぐらい、お茶の間にセンターマイク1本で2人が立ってるだけの演芸は伝わりづらいだろうっていう五味和夫さんの強い意向によってコントにしていくっていう。そっちのほうがテレビ的じゃない?っていうそういう流れの中でやられてたんですけど。
だから言ったら「エンタ」芸人と「M-1」芸人って、2種類あるとしたら、なんかエンタ芸人のほうが一発屋の扱いを受けることのほうが多くないですか? でもね、冷静に考えてほしいんですけど、エンタ出身で売れ続けている人もいっぱいいるし、「M-1」出たけど一発で終わった人もいっぱいいるんですよ。
そうですよね。「M-1」の決勝に出たけど、今その後出てない人も全然いるんですよ。だけどなぜか「M-1」で決勝を出て、その後売れてない人ってのはあんまり一発屋だって言われないんですよ。こういう、まず流れがあるんですね。なので、「M-1」は漫才が格式が高いっていうふうに見せた流れがあることと、キャリアが10年って限定してたんだけど、それを伸ばしたっていうことがあるっていう事がまずあるんですよね。
そんな中で、僕がもう1個問題だと思ってるのが、実はその若手がすごく、その「M-1」に集中しすぎちゃって、逆にチャンス減ってんじゃないかなと俺は思った時期があったんだよね。他の出方、いっぱいできるんだもん。「M-1」に向けてだけやる人、すごい多くて。
減ってる?チャンス、もしかしてって思うこととか。あとね、他の賞レースとの大きな違い。これ、功罪両方あるんですけど。「M-1」って圧倒的に審査員に光がめっちゃ当たるんですよ。審査員がなんて言うかっていうのは超重要なんですよね。
特に松本さんだよね。松本さんが「うーん、もっと点数入ってもよかったと思いますけどね」って言ったら、順位が低くてもものすごいフォーカスされたりしますよね。あれがもう圧倒的な特徴なんですよ。この「M-1」の「M-1」の圧倒的な特徴が、審査員にものすごい力があって、審査員がものすごい光を当てられる。
あんなに審査員が華々しく登場する賞レースってないんですよ。最初の1時間ぐらい、実はネタ始まるかなと思う。始まんないじゃないですか。審査員の紹介が、結構長い大会なんですよ。だからこそ成功してるとも言えるんですよ。
他の大会見てると、重みがあんまりなかったりするんですよ。要するに言ったらネタ番組と差別化が図れないんですよね。だからこそ大御所の審査員のほうが厳しいこと言うとかがすごいフォーカスされますよね。上沼さんがとろサーモンさんに対して何か言ったとか、和牛さんに対して何か言ったとかもすごい注目されるように、紳助さんがなんか言うかとか。
でもなんせとにかく松本さんがなんか言うかっていうところすごく強かったわけですね。M-1ってね。これが大きな特徴。そんな中で、僕がずーっと思ってたことは、松本さんがあらゆる大会にいるんですよ。
これ冷静になって考えてほしいんですけど、「1本グランプリ」にもいらっしゃいますよね。「滑らない話」もいらっしゃいますよね。漫談でも大喜利でもいるんですよ。なんだかんだで、その若手を審査するっていうお仕事がめっちゃ多いんですよ。それは第一人者だからカリスマだからっていう意見もあると思うんですけど、今までもカリスマ的な芸人さんってたくさんいたんですよ。
たけしさんとかさんまさんもそうじゃないですか。でもたけしさんやさんまさんはそんなに審査員いっぱいやらないんですよ。ここが松本さんの特筆すべきところで。
松本さんはあらゆる大会を主催して、あらゆる大会の顔役になってたんですよね。ここで非常に重要なことが、賞の審査員が、どのジャンルでもですけど、実はその業界で一番力を持つことが大きいんですね。例えば、だから芥川賞ってすごい有名な賞ですけど。
芥川賞の審査員をやっている作家が一番偉いんですよ。実は。なんでかというと、どの作家がいい文学かっていうのを規定できるからなんですよね。この文学がいけてる。なぜなら、こうだからだっていうふうに決められる作家が一番偉いんですよ。
だから太宰治とかは、それを賞を、僕に、芥川賞を僕にくださいとか言って審査員にお願いしに行って断られたりとかっていうことがあるわけですよね。
それぐらい、その審査員って権力なんですよ。この権力が分散していたらまだいいんですけど集中してるんですね。なんせ漫才だけでキングオブコントもそうですよ。キングオブコントにもいて、「M-1」にもいるって、要するに言ったら、主流二種競技なんですよ。漫才というかコントって。その両方にいて。なんと大喜利にもいて、漫談にもいるんですよ。4種競技。5種競技だとしたら、全部のジャンルの審査委員長が松本人志さんっていうとんでもない状況なんですよね。これって。
たぶん他の業界だったら信じられないぐらいの独占状態にあるんですよ。これ、どうなるかって言うと、松本さんがおもしろいっていうか言わないかで、新人がキャリアが変わるんですよね。その権力集中っていうのは、1個の見方で言うと松本さんがそれだけ偉大な人だから求められてるんだって見方があると思うんですけど、求められてるっていうことと、実際にやるっていうことはちょっと違うことなんですよね。
求められてたとしても、冷静に考えたら実際にやることがその業界のためになるかどうかでいうと、もう僕の意見で言うとあまりためにならないと思うんですよ。なんでかって言うと一つの価値基準しかないっていうことは、それ以外の才能は全部こぼれ落ちるからなんですよ。
その人の理解できないお笑いに関しては全部こぼれ落ちていくんですよね。いや、とはいえ、中田とはいえ、それでうまくいったんじゃないか、「M-1」は成功したんじゃないかっていう議論があると思うんですけど。
もちろん素晴らしい芸人さん出てったんですけど、この「M-1」における成功って何なのかってことだと思うんですけど。それってネクストスターの発掘じゃないですか。
つまり本当の成功って松本さんを超える芸人が出てくることなんですよ。「滑らない話」「M-1」この「キングオブコント」「1本グランプリ」もう何年もやってますよね。「M-1」にいたっては2001年からだから、言ったらもう20年近く。休んでいった期間があるとはいえ、20年以上やってるんですよ。20年やって、松本さんを完全に超えたっていう芸人さんをこの全大会全部やってですよ、誰か産んだんすかって言うと、誰かが新しい大会の審査委員長になって、みんなが納得するような人が出てきたら、もしかしたらそれは成功したっていえるかもしれないですよね。
ところが、新しく始まった「THE SECOND」のアンバサダーという役割は、松本さんなんですよ。わかります? つまり20年間松本さんは松本さんを超える才能を発掘できなかったんです。発掘できなかったのか、どうなのか。
それとお笑い回は、今向き合わなきゃいけないと僕は思うんですよね。みなさんがどう思うかわからないです。僕の意見だけ言うと、ここのっていう、このアンバサダーという立ち位置がすごい微妙な立ち位置ですよね。なんでかっていうと、審査に影響を与えない大会の顔だけを求められてるわけですね。権威だけとしてアンバサダーってあるわけじゃないですか。
ブランドのアンバサダーとかいますよね。でもそれは広告塔であってブランドのディレクターではないですよね。クリエイティブディレクターとかではないから、広告塔になってくださいという言い方なんですけど。ただね、ここ、すごいポイントなんですけど松本さんってめちゃめちゃ評価に介入していくタイプの人なんですよ。
今回それが浮き彫りになったのがマシンガンズさんの時ですよね。マシンガンさんが自分たちの書き込み、自分たちについての書き込みを読み上げていくぜって言って、「マシンガンズがこういうふうに言われてる! なんでだよ!」って突っ込んでいくっていうネタがあるわけですけど。
それをやってすごいウケたわけですよね。ウケた後に、「いやでも、あの紙を出すのっていうのが、どう捉えられるかな」っていう意見を言ったわけですよね。あれがいわゆる介入。
価値観への介入に値するわけですね。
「M-1」でもそういうことはたくさんやってきたんですよ。「M-1」でも、もっと受けてもよかったけどなとか、もっと点数入っても良かったけどなってなった時に、「あっ、えっ? そうか。点数はもっと高くあるべきなんだ」と。「この人たちは面白かったのにうけなかったのは間違いなんだ」っていう。あれは審査とか、価値への介入なんですよ。
それをまあ積極的に求められてるから審査員なんじゃないかっていう見方で言うと、今回審査員ではないにもかかわらず価値に介入していったんですよね。その価値への介入を、しかも今回凄かったのが、跳ね除けちゃったんですよね。客票が。マシンガンズが勝っちゃうっていう。だから余計に変な感じになるわけですよね。
「ん? どっちなの?」っていう。紙を出しても良かったの?良くないの?
31歳にして、自分は人生を生きるのが下手糞だ!と気が付いた。誰かと協力して人生を乗り切りたかったので、マッチングアプリを始めてみた。年収400万円以下の童貞だけど。
協力して生きるだけなら、友達同士でも良いけど、重い病気で介護が必要になったりしたら無理だと思う。でも、恋愛を介するだけで、そんな心配も不思議となくなる気がしません?というか、結婚してる人ってすごい。一緒に生きて行きたい人どうやって見つけたの?自分の人生より相手の人生の方が大切だと思った瞬間があったの?私は初めてプレイするゲームの説明書は読まなかった。そういう人達を見ると、ちゃんと説明書読んでから人生をプレイしてるんだなと思う。私は説明書も読まずに年だけとってしまった。Bボタンでダッシュできるって知りたかったな!
マッチングアプリ始めたら、普段しない排水管の掃除を自然とするようになった。いい匂いの柔軟剤も買った。なんか生活が丁寧になってきた。とりあえず、加藤ミリヤを聴きたくなった。
そうしたら、何度かメッセージした人と通話することができた。とっても楽しく喋ることができて舞い上がった。すぐにaikoの桜の時を聴いた。会ってもないのに、好きになった。会ったこともないのに!どこでデートしたいかとか、結婚できるかとか、じゃあ転職しなきゃとか、平気で仕事中に考えた。会ったこともないのに!本当に自分は愚か。毎日、顔写真とプロフィールだけで判断していいね押してたけど辞めた。なんか浮気してる気分になったから。別の人ともメッセージ送り合ってたけど、無視した。自分がキモい。会ってもない人のことを毎日考えて、メッセージを送った。少し返信が遅れただけで、悲しくなった。相手のプロフィール写真が更新されてたら、すごく焦った。私と楽しく話してるのに、まだ別の男との出会いを求めてるってこと?とかストーカーみたいなとことを考えた。会えなくてもメンタルはストーカーになれる。もしも会って、もしも告白する機会があって、もしも振られたら、モンスターラブのクロちゃんみたいに嗚咽してしまうことが容易に想像できる。落語家みたいに上着を脱いじゃうだろうな。
そもそも、恋愛なんてロクにしたことなかった。相手の気持ちを考えて、相手に好かれたいと思うことが、こんなに汚いなんて知らなかったよ。醜くないですか、私?会ったこともない人のことで一喜一憂して。本当に馬鹿。それに比べて他の皆はすごいな。私が他人の気持ちを考えられるようになったの最近だよ?周りは普通にこんなことしてるんだね!人間あるある、恋愛しがち!
なんでも話せる恋愛に全く興味のない友人がいるけど、このことは話せなかった。汚な過ぎて。もしも一緒の汚い思いをしてたら話せたと思う。同じ地獄を味わって欲しい。同じ地獄でドリンクバー飲みながらお喋りしたいよ。でも、他の人から見たら自分も今までそうだったから、結婚した友人と疎遠になってしまうのか。そういう仕掛けだったのか。同じくらい苦しい人と話した方が楽しいもんね。共有できないなら、話す意味ないもんね。
最近読んでとても感動したエッセイの最後に、本当に美しい瞬間は誰にも教えたくない、と書いてあった。自分の人生に誰にも教えたくない美しい瞬間なんて思い当たらなかった。これから先、誰にも教えたくない美しい瞬間は訪れますかね?
面白い良いこと思い付いたんだけど
松本人志さんがやってるIPPONグランプリあるじゃん。
年配の視聴者にも分かりやすい安定感ある答えで幅広い年齢層に面白い番組になると思う。
あまり詳しく落語家さんのことは知らないけど派閥というか師匠部屋別でやっても
面白いのを答えたらIPPONグランプリみたいにランプが灯るんじゃなくて、
落語家さんだから座布団2枚3枚重ねにしていけば雰囲気出ない?
でも電球が点くみたいに座布団は機械仕掛けに重ねられないから、
落語家さんの得点表示システムは何か良い方法考えた方がいいかもしれないけどね。
でもまあ普通に話芸の落語家さんのIPPONグランプリみたいなのやったら面白いと思う。
スゴイ良いと思わない?
お決まりのキャラクターが、毎回テーマに従ってワイワイやっているのを眺める。
大きな起伏も急な展開もないが、のんびり見ていられる。
ここ一年で笑点が大きく変わったのは、円楽が入院を繰り返すようになって以来、ゲストが週替わり(最初の方は収録の都合で2週ごとだったが)が参加するようになったことだ。
以前は新メンバーの発表すらもったいぶって数か月かけていたが、はっきり言って普段から落語を見ている人でなければ誰が出てきてもどんな人なのか、どれくらいすごい人なのかよくわからないし、予想も別に楽しくなかった。
ゲスト制になってから、良い意味で敷居が大きく下がっていて、若手(といってもそれなりのキャリアと年齢なのだが)や上方(関西圏)の噺家まで出演するようになった。
若手の枠での出演だったが、春風亭ぴっかり改め春風亭桃花は(女子アナ大喜利のような企画を除いて)初の女性大喜利メンバーとなったし、いろいろあった立川流のメンバーもゲストとして何度か参加している。
(※これは当然円楽の入院に伴う(復帰を前提とした)一時的な措置だったので、今後このシステムがいつまで続くかはわからない。
前回と前々回が王楽(三遊亭好楽の息子)→当代林家木久蔵(木久扇の息子)と、少々ネタ切れを感じさせる人選だったので、年明けにはレギュラーの新メンバーを入れるかもしれない。)
ゲストとはいえ毎回簡単な説明ぐらいはされるし、芸歴の長い者同士で初めてのぎこちなさなどもないが、新鮮味はあるので、以前より大喜利が楽しみになってきている。
また、三平がメンバーから抜けて桂宮治が加入したすぐあとというのもタイミングが良かった。
宮治は底抜けに明るいキャラクターであり一番の若手、真打になったばかりということで、レギュラーメンバーだけでなくゲストにとっても非常にいじりやすいポジションの人間だ。
そして、主観だが、ゲスト制になってから真ん中の席にいる林家たい平が明らかに「全体の回し役」の立場になることが増えたように感じる。
昇太のミスを拾い、木久扇や好楽のボケを拾い、笑えるように全体を盛り上げている。
日常四コマ漫画のような番組だが、落語家には卒業年度がないので、いつまでもあのメンツの掛け合いが見られる。
長く続くわけである。
ぜひ見てほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20221215192051の増田だが、
↑でも書いた通り、ぶっちゃけあの師匠の指導力はそれ以前、な展開になってるので「漫画の描写として」はそれで矛盾はしない
(原作者はわざと無能師匠に描いてるつもりは恐らくなく展開の都合でしかないが。そういう展開にせざるを得なかったのは原作者の能力のなさ、ってならその通りだと思う)
んで原作&監修は、女が落語家に向かないと言われてる事はちゃんと分かってるよ
丁度そういう説明あったばかりだし(なのに大成した女師匠が出てくる、って展開のための枕だが)
https://anond.hatelabo.jp/20221215161704
これまで女流の落語家で大成した人物が一人もいないのは厳然たる事実だし、そこには相応の理由・事情もある
亭号にもなってる「三遊」は「飲む・打つ・買う」だけど、これは全て「男の道楽」だから、女性が演じても無理のない噺はかなり限定されてしまう
古典落語をやる限り、この問題だけはどうにもならないことは、本来なら弟子入り前に師匠がきちんと説明するわけだが、そういう所をすっとばしてデビューされてもリアリティが全く無いんだよ
https://anond.hatelabo.jp/20221216125431
>監修の落語家をよく思ってない勢力が落語業界に少なくないみたいなので
大して知名度のない二つ目が引き受けたら、そりゃまあ「本業で売れるのが先だろ」と言われるよ
本職が関わってる割に設定がガバガバだから(前座とはいえプロがアマチュアの大会に出るのは御法度だろう)、監修として仕事してんのか?ということにもなる
ある程度の事情通なら「よく思う」方が無理だと思うぞ
ハンターハンターのついでに読むことあるけどそんな面白いかな?
そもそも髪型とか着物とか言葉遣いとか師弟関係とか諸々ありえないことだらけだし、なんか蘭彩歌うららみたいなホステス上がりで廓話の世界に客を引きずりこむ人間離れした能力を持った女流落語家が大看板みたいな世界でリアリティゼロじゃん。
単行本派なら4巻までしか読んでないだろうから最近の展開分からないだろうけど、個人的には最近どんどんつまらなくなってる
父親の破門→その真相を知るまで、と言う所で話が一旦まとまってしまった感じ
多分連載前はそこまでしか話を考えてなかったんだろう
以下ネタバレだけど
その後は主人公の目的はあやふやだし(可楽杯までは「破門の真相」や「どうやって寿限無で勝つのか」って所が読むモチベになってたんだが今は何もない)
主人公は子供の頃から落語大好きで師匠について修行してきたはずなのに、展開の都合で何も知らない事にされてるし
(何で半年前まで素人だった格下のからしから落語界の常識教えられる立場になってんだよ)
師匠も(入門半年の元素人が知ってるレベルの事すら主人公に何も教えてない、ネタも5個しか教えてないとか)指導力なさすぎで
ひょっとして父親が落語家挫折したのは師匠のせいだったんじゃ…と思えて主人公と師匠の格が下がりまくり
地味な下積みやって先輩に嫌がらせされてやり返したら自分の立場がまずくなってという胸糞展開はリアルではあるがジャンプらしくはないし
じゃあずっとリアル路線で行くのか?と思いきや、「有名落語家のすごい落語」の表現は領域展開(派手な絵の見開きで周りにスゲーと言わせる力押し)で
初期はちゃんと理屈で良しあしを描けてたのにそのネタが尽きたのか?結局漫画で落語はこれでしか表現できなかったのか?状態
(こういうの一度やると今後はどんどん絵の派手さをエスカレートさせるしかなくなるんだよね、
あと今は同じジャンプの芸能系でPPPPPPという領域展開漫画があるから飽きてるんだよな、単行本派には関係ないが)