はてなキーワード: 自己嫌悪とは
2年ほど付き合っていた彼女にフラれた。
忙しくてほとんど会っていなかったし、いろいろとあったので、別れ話を切りだされた時は妙に納得していて、「あ、意外と心拍数変わらないんだな」などと考えていたのを覚えている。
別れ際に「浮気してもいいっていう人を探しなよ」と言われた。
あなた以外の女性とこの数カ月話していないというのになぜ浮気を疑われたのかわからなかったが、言葉からにじみ出る強烈な嫌悪に当てられて何も言えなかった。
「ああ、自分はここまで嫌われたんだ」と思うと自分がとても無価値な気がした。
あとはただ「お幸せに」「さようなら」などと簡単に挨拶をしてお別れした。
いや、本当はそんなのが別れの理由じゃないのはわかっていた。
僕と彼女は春から遠距離恋愛になることがわかっていて、うまくやっていけるか心配になった彼女が「これからも私を選んでくれるか」と聞いてきたことがあった。
僕はそのときなんだか信じてもらえていない気がして、勝手に裏切られた気になって曖昧に答えてしまった。今考えても最低だったと思う。
さかのぼって考えればみな僕が悪いように思える。
個人的にはあまり好きではない服を彼女が着たがったりしたときに、服の趣味は人それぞれと思って、いいんじゃないかな、としか言わなかった僕は彼女に対して無関心に見えたのかもしれないし、
僕から彼女に対して遊ぼうと連絡することも一度もなかった(これは別れるときに彼女が言っていたこと。僕としては何度か誘った記憶があるのだが、どちらにせよそれほどの印象を彼女が持っているのだから全く足りなかったんだと思う)。
だからお別れの原因を作ったのは僕だし、別れたいという彼女に僕が言えることはなかった。
それで僕も納得していたつもりだった。
最初の数週間はときどき急に寂しくなるくらいで「意外となんとかなる」と思えていた。
お別れをしたつもりでも、僕の中では消化できていなかったようだ。
いまではもうこの漠然とした悩みをどのように解決していいかわからない。
きっと別れた時どうにかして区切りをつけるべきだったんだと思う。
別れた直後しばらくはいろいろとやることもあって、この別れについて誰かに話すこともしなかった。
周りには友人もたくさんいたのに、だんだんとタイミングを失って、いよいよ切り出せなくなった。
相談するにしても誰に何を相談していいのかわからなくて、ここのところずっと鬱屈した気分だ。
書けばなにか変わるかもしれないと、とりとめもなく。
http://anond.hatelabo.jp/20150114203151
これはまぁ、そうなのかもだけど。抑圧の過程、抑圧してる存在って割と明らかなんじゃない?
あの抑圧されていた時代の空気は良く覚えている。メッシー、アッシー、貢ぐ君とか。「結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女」なんて本もあったり。男女共同参画会議ができてからは「男は仕事も家庭も両立しろ」というメッセージ(ただし、今では女性も言われるようになった)。男性からの告白がセクハラになる一方で、女性が素敵な告白を求めてたりするダブルバインドもある。
今は結婚して子供も2人いる。結婚すると自己嫌悪みたいなものがだいぶ和らいだ。私でも誰かの役に立てる、というのは嬉しい。あと別に私は「私の全人格」を嫁さんに肯定して欲しいとは思ってない。 一緒に暮らすと内緒にしたい要件というのもある。
ただあの時の、抑圧されていた気持ちは忘れていない、男性に向けて酷い発言が多い時代があった。そういう時に欲しかったのはムチャクチャ言う女性に対してフィードバックする存在がいて欲しかった。昔だと上野千鶴子。 いまだとid:Chikirinへツッコミいれてる人をみると安心する。インターネットができて良かった。
意識さえされれば、男性性を適切に解放するための物の考え方(具体的に言えば女性とのコミュニケーションの取り方)は現状の知見でも十分過ぎるものが揃っている。
岡田斗司夫氏はかねてから自分の持っているメソッドで世界の数%を幸せにすると言っていたが、それは後づけ理論であり自分の膨大な欲求を満たすための副産物であるような気がした。
※その辺、行動経済学的にもご自身でわかっていらっしゃるのではないかと思う。
もちろん岡田斗司夫氏の現在の活動や言動を否定するものではなく、人生を豊かにするような有意義なメソッドもあると思うのでそれは各自ググってください。
普通に性的欲求のある一般的なおっさんである私が岡田斗司夫氏の発言を良心的に見てもやはり病的としかいえず、
これが通常の人に近い反応だと思うので、岡田斗司夫氏とつきあっている女性も心に病を持っている人が多そうだが(実際Aさんは拒食症らしい)岡田斗司夫氏自身もたまに鬱になるときがあると語っている以上、やはり類は友を呼ぶというでっかいくくりで()してもいいような気がする。※その他の8人の人に失礼だと思いますので先に謝罪しておきます。
頭のいい岡田斗司夫氏はそういった自分のあふれでる肯定的であり病的な欲求に対して意味を見出すために(意識的か無意識的かはわからない)
あのしゃべりくりや、博学さを身につけていった可能性が高い。「自分の彼女からしか学べない」ともいっています。学びはよりよく生きていくためのツールですからね。
※岡田斗司夫氏のあふれでる病的肯定的欲求をめんどくさいので以下トシオズムと明記。
・一人の人間を大事にすることができなかった。これは最初の奥様との結婚をして気づく。
・sexボランティア:なかなか普通のメンタルでできないことは想像に難くない。ボランティアに所属と言及しているが、本当のボランティアでそんな団体に所属する人はむにゃ※〒々。。。。相手がだれであろうと拒否権がないことを許諾できるのは、トシオズムがそういう団体に所属させたとしか思えない。
・自己嫌悪はない。
・性欲ではない。
あと動画全般にみる「モテ」という表現に過敏というか、俺はもててるとかそういうのではなくて的な言い回しは岡田斗司夫氏は自分のトシオズムをわかっていて俺はこのトシオズムを満たしているだけで、結果的には「モテ状態」なんだが、だからといってみんなにトシオズムを持て!とも言えない自縄自縛状態に見えるのは私だけでしょうか。
岡田斗司夫氏のあの天才的な話術やメソッドの裏にはトシオズムが根太く根付き、膨大なトシオズムパワーから生み出される岡田斗司夫コンテンツはその効果も大きく、その分自身に返ってくるマイナスパワーもあり鬱状態にもなりながらもがいている岡田斗司夫氏を感じる。
なので結論はトシオズム対談ということでぜひ、恐山院内の南直哉さんか、小池龍之介さんと対談して仏教的観点からそのトシオズムを理解・解体・再構築し、昔はトシオズムに揺れていた宮崎哲弥氏も含めた鼎談にすると2015年最強のコンテンツになり得る可能性もあり、世界の数%を確実に救うであろう新たなメソッドが生まれる瞬間を見たいと思うので、
タイトル通り、業務がきちんと回るようにコミュニケーションをとれればそれで問題ないと思う。きちんと伝えるべきことを伝えるべきタイミングで伝える、相手の立場にたって考える、ということができれば、問題になることはない。フレンドリーな人が必ずしもコミュニケーションをきちんととっているかというとそうとも限らない。先輩は先輩のやり方でやってきて、良くも悪くもそれ以外のやり方ができない人なんだと思う。ここ数年コミュ力コミュ力とやたらに言うけど、具体的にコミュ力がどういうものなのかきちんと定義されていないから増田みたいに一人で何かを思い込んで悩んで自己嫌悪に陥る人が出てきていかがなものかと思う。
JR山手線の3分遅れで、わざわざお詫びのアナウンスとか意味が分からん。
電車止まってるならまだしも、同じ間隔でどんどん走ってるんだったら乗客的にはなんの問題もないだろ。
そういう放送をするってことは、ケチつける乗客(お客様、もといクレーマー)がいるってことなんだろうけど、
なんか、そんな、ちょっと、どうなのよと思う。
外国と比べてもしょうがないかもしれないけど、台湾とか香港の地下鉄(MRT)にはそもそも時刻表がなかった。
ただ単に「ただいまの時間帯は5分間隔で運転中」って表示されてるだけ。
でもすごいのは「次の電車は、あと2分35秒で到着」みたく案内表示が5秒刻みカウントダウンしてんだよ。
電車の到着を5秒刻みでカウントダウンされてもなぁ…という脱力感と、5秒刻みで予測できることへの驚き。
ところが残念、残り時間が少なくなると(残り30秒とか)カウントダウンが消えて「まもなく到着」の表示だけになっちゃうんだよ。
5秒刻みでカウントダウンしていた割には、いざ到着ってときになっていい加減さ発揮。
おいおい、そりゃねぇだろ…とは思う反面、こんなこと気にするにはクソ真面目な日本人ぐらいかも…って少し自己嫌悪に陥る。
でもそんなこと気にしてるうちに電車はちゃんと到着するんで、30秒でも60秒でも細かいことはどーでもよくなってくる。
チャイナ・クオリティなのか、 (ただし本土じゃなくて香港・台湾だけど)
それとも日本が異常すぎるのか。
達成困難な予定を立てるから、ちょっと遅れたぐらいで理由の説明を求められるわけで、いっそのこと
「時刻は決まっていません。だから常に時刻通りです!」
「予定は立てていません。だから常に予定通りです!」
賢者タイムとは己の性欲に向き合うために与えられた時間なのだな。今の俺はとてつもなく冷静だ。
俺は数時間前までデリヘルを呼ぶ段取りをネット検索し風俗デビューを果たそうとしていた。
久しぶりにあった古い友人が今、風俗のようなお金を払うパターンも含めて、派手に女遊びをしているという話をしていて、そんな生活が童貞の俺にはとても魅力的に感じたのだ。
自己正当化しようとするならば、いい年して童貞で燻ってる俺も女を知ることで視野が開けて活動的な男になれるんじゃないかという強引なこじつけの願望。実際その友人はかつてとは比べ物にならないほどエネルギッシュでギラついた男になっていたしな。
嬢の呼び方を調べて既に気持ちは十分すぎる盛り上がりをして、ムラムラっときて手慰みをして今に至る。
なんの出費もせずに数分で冷ますことのできる性的欲求を、2万円近く払って1時間かけて満たすことの虚しさを思った。しかも親の金だ。馬鹿馬鹿しくもなる。自己嫌悪に陥るだけだ。実際に店に行かないのならば先のネットサーフィンにしたって無駄な時間を過ごしたことになる。
という今のしめやかな感情も明日になったら忘れ去られ、風俗デビュー決行の日取りをまた検討しているに違いないのだ。この性欲。
年越しを契機に、365日のオナ禁に挑戦しようという、これまた別のベクトルの馬鹿らしい好奇心に駆られている自分もいる。俺の2015年の貞操の行方や如何に。
だらしない。朝、起きられない。部屋が片付けられない。
今やろうとしている仕事を後回しにして、ずっとネットウォッチ。
自分が抱えている問題はたくさんあって、これらはそのほんの一部だ。
そのこの問題はすべて関連したもので、最終的に、ひとつの大きな根本的な原因がある
…ような気がするのだけれど、それが何か分からなくて何から手をつければよいのかわからない。
でも、そのひとつをを解決さえすれば、多くの問題が芋づる式に解決して、私はもっと幸福になれるとどこかで信じている。
そもそも、“ひとつの根本的な原因ある”という考え方自体が幻想なのだろうか。
>外見
決して美人ではないが外見のせいではないと思う。
しいて言うなら運動できない・食べ過ぎるせいでコントロールできないことがちょっと自己嫌悪。
それは自分でも大いに疑って現在進行形で色々調べている。ADDとか愛着障害の傾向がありそう。
ただ、社会生活できないほどではないし、
自分が障害だと分かって腑に落ちて楽になる、という人もいると思うけど
会社勤めを始めて4年目の冬、今日どうしても辛くなり、今まで初めて会社を病欠した。
連休と連結したりとかで有給は使ったことがあるが、今日みたいに病欠するのは初めてだった。
朝起きた時、体は元気だった。
ふと、自分が休んでもいい状況か、何かこうなった原因があるのかが気になり、Evernoteにメモしているタスクリストを眺めてみた。タスク的には休んでも影響が無かった。やることでイライラすることが多く、並んでいるタスクは数は多いが、1つ1つのタスクの難易度自体は重くはなかった。
簡単に言うと「すこし頑張ればこなせるもの」だった。
これまでも、鼻風邪をひいたり頭痛とか腹痛で遅刻したことはあったものの、会社には行っていた。それで効率は多少落ちるものの、仕事は問題なくこなしていた。
「辛い」「会社に行きたくない」「毎日苦痛だ」「辛い」「休みたい」「プログラマ特有の面白いと思ってやってるクソみたいなジョークとか聞きたくもない」「行きたくない」「何も考えたくない」「辛い」「会話ができない人を相手にするのはもううんざりだ」「vimなんかもう見たくない、とか増田に書いたらどうせ『じゃあemacsにしよう』とかいう意味のわからないコメントがつくんだろうな、みんな死ね」「苦しい」「苦痛だ」「みんな死ね」「毎日辛い」「悲しい」「会社のメールボックスなんか見たくない」「もう嫌だ」と、労働を拒否していた。
「心の底から本当に辛いし、逃げ出したい」という感情がここ数週間前から最近芽生えていた。
大学受験以来忘れていた感情だった。そして、その感情は当たり前で、甘えであるとして蓋をして向き合わず愚痴を言いつつも黙々と仕事していた。
でも、ここまでいっていても休む勇気が無かった。
どの程度で休んでもいいのか明確な基準がなく、サボるのが怖かった。熱があればもちろんそれは別だが、体は元気なのだ。タスク自体はできないものじゃないし、もしかしたら月曜だから単にベッドから出たくないだけかもしれない。
そう、この気持ちを掘り下げるとただ1つ、ただ「行きたくない」だけなのだ。
毎日毎日、仕事は辛いと感じている。だが仕事は死ぬほど辛いからお金がもらえるし、その金で土日に美味いもの食ったりできるわけだ。
大学時代に学んだ労働経済学でも労働は苦役だと教わったし、実際に大半の日本の会社員もそう考えていると思う。
だから辛くて当たり前だし、辛いから休むのは甘えだと思って休めなかった。
でもそれはなかなか無いし、ある人にとっては仕事は楽しいし好きなことでお金がもらえて嬉しいとしても、同じ仕事をしている別の人はそうではないことは多いし、だいたいそういう時は「仕事が好きな人」はそうではない人に「仕事は楽しい」ことを前提に話をしてくる。
身体は元気、仕事はきつくはない。だから休むべきじゃないし、無理にでも起き上がって着替えて電車に乗るだけで全てが進むはず、難しい話ではない。
でもなぜか本当に辛かった。
思えば今まで病欠したことがなかった。中学生や高校生(中高一貫だった)のときは6年間壮絶ないじめに遭い、鬱病になりながらも実は休んだことが無かった。もちろん休むべきだった。
中1のとき「6ヵ年皆勤賞とるぞ!」と意気込んでいたのでそれを曲げる勇気が無かったのと、休んだことで皆勤賞が無くなるのが怖かったのだ。
結果、6ヵ年皆勤賞は取れたが、その時は精神的にボロボロで失ったものは大きく、今も生きる上で大きく足を引っ張っている要素になっている。
子供の時は病気以外で休んだことが無いし、今も年末年始や夏休み、インフルエンザとかそういった「休め!」と強制されるもの以外で、自分の判断で休んだ経験が無い。
だから今でもどれぐらいのレベルから休むべきかがわからなかった。
仕事自体も、辛いという事に対して誰も理解してくれなかった。一番身近な相談相手であるはずの同期は全員が意識が高く、好きでこの仕事をやっているという感じだった。その中で「仕事だから仕方なくやっている」という大変低いモチベーションでやっている自分には、辛いという感情自体が許されなかったのだ。
「仕事が辛い、辛くてたまらない」ということを同期に漏らしたら
「それはお前のワクワク度が足りないんだ」というアドバイスを貰った。正直意味がわからなかった。自分の意識が低いのが一番悪いのは知っている。だが、それ以前に同期に仕事の悩みを相談するのは間違っていた。
そんなこんなで、休もうと思ってもなかなか踏ん切りがつかないので、休む根拠や休んでも問題ない保証が欲しくなった。さっきも書いたが、タスクリストを見ると、今日休んでも明日十分巻き返しが効くレベルだった。
東京都のこのページ(http://www.kenkou-hataraku.metro.tokyo.jp/mental/self_care/check.html)を見て自己診断してみたらその1は36点、その2は9点。総合判定は7だった。一番悪い奴だ。そういえば常にイライラしているし、最近はよくモノに当たるし、どうでもいいことで松屋の店員にクレームをつけて怒鳴っている。
色々休むための根拠や自信をつけるためにやっていて、気がついたら、目を閉じ勇気を振り絞って体調不良で会社に休むメールの送信ボタンを「うりゃー!」と言いながら押していた。
見事会社を休んだ瞬間、それまでの重くのしかかっていた気持ちがふっと一点の曇も無く晴れ上がって、ベッドから出た瞬間清々しい気持ちになった。
「こんなんだったら休まないほうがよかったのでは…」と罪悪感を感じた。でも多分休んだから気が楽になって元気になったんだろう。
ふと外を見たら、綺麗に冬空が晴れていた。
久々に心の底から綺麗な気持ちで
「ああ、空が綺麗だ」と感じ、それを実際に声に出した。
「うわー空が綺麗!」という感情や表現は、フィクションの中だけの現象だと思っていた。空を見て綺麗だと思う余裕が、子供時代以来に久々に生まれていた。どうやら、物質的なものや、性的なもの以外で気持ちよさを感じる事は、フィクションの世界だけの現象じゃなかったらしい。
その後は、一日じゅうラーメンズの動画を見たり、平日しかやってないようなテレビ番組を見ていた。
そんなことをしながら夜(ちょうど今ごろ)になると、
「明日から仕事がんばるぞ!」という、なんだか根拠のないやる気が数年ぶりに湧いてきていた。そう考えることってあるんだな、と思った。
結論としては、休んでよかった。多分休まずいつものように会社に行ってたら、今頃は耐えきれず1人トイレで泣いていた。
熱があろうがなかろうが、辛い時は勇気を出して休むべきだ。
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その後
なんかいつの間にかホットエントリー入りしてたので、その後の報告も兼ねて追記。
昨日は↑みたいな感じで休んだけど、今日起きたら「あー会社いやだなー」とは思った。
でも、今までの「嫌だ」は
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ仕事辛い仕事辛い仕事辛い仕事辛い」って感じだったけど、
今日は「あーめんどくせー」って感じだった。
「辛い」が「めんどくさい」に変わった。
普通(?)になったのでよかった。これは大きい。
皆様のブコメは1件ずつ読みました。今後は辛い時はスパッと休んで、無理せず仕事頑張ります。
あと、「松屋の店員がかわいそうだろ」っていうコメントがちらほら見られますが、自分も全く同感です。
ただただ申し訳ないし、以来自分の人間の小ささを痛感してます。自己嫌悪しかない。
あとは「根本的な部分を治さなければまた再発するのでは」というコメントもいただきました。その考えは昨日休んでハイになった時に完全に抜けてました。とりあえず、会社内、あるいは社外に「何でも相談できる人」を見つける所から始めようと思います。
色々書きましたが、自分がここで言いたかったのは「大人はサボってもいい」ということに気がつくまで本当に大変だったけど、実際休むのは本当に簡単でメリットがありまくりだったので、同じように悩んでる人は一緒にサボろうぜ!ということでした。
家の布団でぼーっとする時間も増え,
私は研究室に配属されてから1度も研究の成果が上がったことはない.
本当に良い結果が出ることはなかった.
毎週行われる進捗報告会は,辛いものになっていった
同期や後輩の研究が順調に進む中,私一人残されていった
そして進捗報告会は私の中で「晒し首会」と呼ぶようになった.
晒し首会は,本当に辛い
停滞気味の研究は,最初はアドバイスが多いものの,次第に言葉少なげになっていく
立派なひきこもりの完成だ
家にいたって辛い
と考えて,責任を色んなところにぶつけては
結局自分に帰ってくるの繰り返し
これが鬱なのかなと思ったりするけど
鬱と認めたら本当に立ち上がれなくなりそうで怖い
あたりまえだけど,成果の上がっていない私は題目未定
修論を書き始めている友人を見ると泣ける
先輩方の修論を読んで素晴らしすぎて泣ける
泣いてばっかりだ
自宅の布団の中で新しいアプローチを試すのだ
◆第1段階「否認」
ぼっちになりつつあることに気がついたり、友人が残り少ないと周囲から認識されたときに、まず現れるのがこの「否認」です。
「これは何かの間違いに違いない」
「自分に限ってそんなことは起こりえない」
なんとかぼっちから脱出しようとしてキョロ充になりかけるのもこの頃。
一緒にいて楽しくないのに無理にクラスメイトと一緒にいたりして…今から思えば無駄な時間を過ごしたなと感じます。
◆第2段階「怒り」
「否認」が維持できなくなると、次第に自分の命が短いことを認めざるを得なくなります。
すると、「怒り」が現れます。
「なぜ自分がこんな目にあうんだ!」
「一体私が何をしたというのか!」
というように、あらゆることに対して「怒り」が向けられます。
楽しくない相手と無理に一緒にいるので当然人間関係は広がりません。自分も楽しくないということは相手も対して自分のことを大事に思ってはいないのです。
本当は無理して一緒にいるのが間違いなのですが、自分がぼっちになることを受け入れられないので周りに怒りをふりまきます。
自分が楽しいと感じられないのは周りが悪い、周りが悪いから楽しい友達ができないと思い込み、ストレスをためます。
◆第3段階「取引」
十分な「怒り」を体験した後は、もはや避けられない今の現実を少しでも先延ばしにできないものかと、交渉する段階に入っていきます。これが「取引」です。
「何か人々の役に立つようなことをするから、友達になってほしい。ぼっちを避けたい」
「もう2度と悪い行いはしないから、ぼっちだけはやめてほしい」
このような「取引」は、主に個人が勝手に決めている「友達になれそうな人(実際は相手はなりたいと思っていないし、本人も大して好きな相手ではない)」にむりやり押し付けるようになります。このあたりになると大抵の人は逆に孤立します。
◆第4段階「抑うつ」
周囲との「取引」が成立しない、自分はもうぼっちになるしかないのだ、という心理状態にたどり着くと、「抑うつ」という段階に移行します。
「ぼっちとして生きていかなくてはならないのか・・・」というぼっちへの”準備的な抑うつ”と、自己の性格を批判する”反応的な抑うつ”があります。
傍目から見るとすでにぼっちになっている上に思い悩んでいるという、どう考えても更に人を遠ざける状態になります。
ひとりで暗い顔をしている人に進んで声をかける奇遇な人は宗教団体の勧誘くらいなものです。
◆第5段階「受容」
この段階まで来ると、自分のぼっちを「受容」できるようになってきます。ゆったりとした平安な気持ちになり、ぼっちに向けて気持ちが整ったような状態になります。
自己嫌悪もなくなり、周囲へのストレスもなくなり、「もうぼっちでいいや」と割り切るようになります。
ここまでくると一人焼き肉、一人カラオケ、一人温泉、一人酒、などなどの「おひとりさま」を堪能するようになり、
周囲から見ると逆に楽しそうに見えてきますし、本人も今まで無理に人間関係を保とうとしてたのは一体何だったんだ?とやたらスッキリした表情をしはじめます。
集団心理が強い人たちから見れば奇人変人に見えますが、人によっては楽しそうでいいな、と思う人も出てきます。
逆に楽しそうにしているので人に誘われることも増えてくることもありますが、
一人の楽しさを堪能してしまっているので往々にして断ることが多くなります。
たまに断りきれずに食事をとったりすることもありますが、逆に疲れてしまい後悔することも多い。
「ぼっちになりたくない」と気をもんでいたというのに、気がついたら「ぼっちのほうが楽しい」にシフトチェンジするのです。
ウィキペディアの死の受容から改変追記してぼっちエンジョイの自分に至るまでを書いてみたが本当にこんな感じだった。
かつてはぼっちになりたくないともがいていたのに、もういいや、と思った瞬間にぼっちが楽しくなります。
今はもはや楽しそうなリア充を見ても爆発しろとは思わなくなりました。
私は一人で楽しむから、いいやと。
とはいえずっと一緒にいるわけではないのでぼっちで過ごすことも多いです。
つい1ヶ月半ほど前、宗教+彼毒親+転勤の理由から彼氏と別れ、直後に友達に誘われた飲み会で、知り合った3歳年下の人がいてます。
私のことをかなり気に入ってくださっているようで、とてもうれしいことなのですが、
じりじりと押されてきていることで、少し居心地の悪さも感じ始めています(4回ほど遊びに行きました)
がしかしです。
もうギリアラサーです。焦る。
さらに彼のスペック的にはかなり良い方でもう2度とこんな人が自分を気に入ってもらえないかも。
なんてことも思うわけです。
打算的だなと思うのですが、結婚をしたいなーと思うので、すぐにこういうスペック目線で見てしまう自分にも嫌気が差しつつも
私個人は総合職なので同年代の女性の平均年収より多くいただいていると思います。そして、仕事は定年まで続けるつもりです(働ければの話ですが)
なので、結婚後は家事はお手伝いではなく分担ができる人、または、家事はお金で解決をしてくれる人を望んでいます。
今遊びに行っている彼は出張、残業が私より多く、家事分担は難しそうなので、お金で解決するしかなさそうな感じです。
ってこんなどうにもならない、付き合うかわからない先のことまで妄想して気持ち悪いなとか思ってしまうわけです。
なんかもう色んな情報や過去の経験が頭の中を錯綜し、整理がつかない。
元彼氏をひきずっているからか、向き合っていない気がする(嫌いで別れたわけでないので、まだ毎日連絡を取り続けています)
さらにこんなことを考えているようじゃ、自分のことしか考えてないなと思い、自己嫌悪に陥ってるんです
それに比べ仕事ってなぜ、ちゃんとベストな方向にことを進めれるのでしょうか。本当に謎で仕方ありません。
この文章読み返すとスイーツ(笑)のおばはんが脳内恋愛しているとしか思えない文章ですね。
ま、そう思われても仕方ないのですが、書き出すことで頭の中を整理したかった自己満足なのです。
ちなみに彼といて楽しいところは、お互いが本好き、お風呂好き、美味しいもの好きってところで話が合い
昔みたいに、必要以上に女性をアピールしなくても、素な自分でいれるところです。
緊張とか全く無し。ふわふわした気持ちとかもなし。
ただ先週ご飯を食べていたときに、こんな風に付き合っていくのかなーなんて勝手に妄想してなんとなくふっと心が温かくなる瞬間がありました。
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2014/11/09/023918
ここのブクマで、「鬱は詐病が問題」といっている人がいて、すごくいたたまれない気分になった。
鬱の詐病排除の問題は、生活保護の不正需給の問題と似ていると感じる。
どちらも、「不正に利益を得ている人を判別する」のにコストをかける前に「苦しんでいる人を救う」のにコストをかける事のほうが優先順位が高いはずなのに、前者を優先しろと叫ぶ人の声がでかい
(そういや柏木ハルコの生活保護を扱った漫画のレビューにも「ちゃんと不正受給について書いてるんだろうな」とかぬかしてるアホがいてウンザリした)。
結局、みんな、誰かが救われる事よりも、誰かがズルしない事のほうが大事なんだ。
誰かが死なずに済む事よりも、誰かが不労所得を得ない事の方が大事なんだ。
ここは地獄だ。
不正を暴くのだってタダじゃないのに。
その不正を暴くコストを誰かを救うことに回せば誰か死なずに済むかもしれないのに。
不正と誰かの死。ちゃんと天秤にかけられない人のどれだけ多いことか
(もちろん不正を暴く行為全ての優勢順位を下げるべきというようなか暴論をいう気はない。金のかけ方がそれで正しいのかちゃんと疑えているのか俺らは、って話だ)。
地獄だ。地獄だよ。ここは。
(追記)
一晩たって見返すと煽り度の高い文章を書いた感じがあってやや自己嫌悪。
id:camellow様、あなたが"別に詐病排除を「優先せよ」なんて言ってない"というのはおっしゃる通りだと思います。普段感じてるモヤモヤを言語化するための生贄にするような真似をしたことをお詫びします。
ただ、例えば風邪をひく人なんてそれこそ大量にいるし、仮病の人もそれなりにいると推測されるわけですけど、"仮病の人がテキトーなことをするせいで本当に苦しんでる人への無理解・誤解が進んじゃうんじゃないの?"という意見はあんまり見ない。
そういう、「ズルするやつのせいで誤解があるいは不利益がでる」という言説が出てきて、そしてそれがたやすく「無理解・誤解」を正当化する大義名分になりうる(もちろんcamellow様がそうしている、という意味ではありません)事が私は問題だと思うのです。
要するに、そもそも「無理解・誤解」があって、それを正当化する論理として「詐病」が持ち出されるのが現状ではないのか、と私は思っています。
このあたりも、生活保護への偏見がまずあって、「本当に」困窮している人(こういう「本当」の用法っておおむね恣意的と同義なので個人的には大嫌いだ)を救うためという論理で不正受給の追及を持ち出す人がいる構図と似ているように見えます。
id:eirun様 自分のいる場所を「ここは地獄だ」と声を上げることが、"局外者感覚に浸れる"事だとは私は思いません。
ブラック企業に勤める人が「ここはブラックだ」とブログに書いたら「そんな記事を書くよりお前の勤務先をなんとかしろ」と"局外者感覚に浸っている"事を叩くべきなのでしょうか。
1年まえくらいに書いた本のことがまだ心に残っているので、そのことについて書こうと思う。
本の題名は「フラニーとズーイ」。村上春樹版の新訳という触れ込みで本屋に平積みにされていたので買ったのがきっかけだったと思う。
作者のサリンジャーのことはもちろんしっていてキャッチャーインザライとナインストーリーズは読んでいた。キャッチャーインザライの方は4回ほど読み返すぐらいには好きだったけど、ナインストーリーズの方はあまりはまらなかった。
で、「フラニーとズーイ」に戻る。未読の人もいるだろうからオチに関するネタばらしはなし。
この本は2個の中短編から構成されて、前半はフラニー、後半はズーイに関する話となる。ちなみにこの二人は兄妹。
「フラニー」篇はフラニーとその彼氏とのデート模様を記したもので、基本的に彼氏目線で進んで行く。
こじゃれたレストランでカエルのサラダ!を食べながら、エリート大学生の彼氏はいくつかの事柄についてご高説を垂れるんだけど、フラニーにはその薄っぺらさ・自意識の強さを瞬時に見抜く。だけどフラニーはそう思う自分自身の自意識を認識しすぎて自己嫌悪に陥ってしまう。
まあこのパートの事はどうでもいい。
「ズーイ」篇は「フラニー」での出来事の少しあと、舞台は家族の家で語られる。フラニーが「フラニー」篇での事件で精神的につらくなってしまい、何も食べずに実家のソファーに引きこもってしまっていて、そのことを母親がいかにも母親的な心配の仕方をしてズーイになんとか助けてやってくれないかとなぜか風呂場で延々と語るところからはじまる。
で、そのしつこすぎる要請をうけて(あるいは何もしなくても自分から動くつもりだったのかもしれないけど)ズーイは妹のところに赴きなんとかその状態から脱するよう説得する。だけどズーイの上から目線で辛辣でしかしあまりにも正確すぎる意見を言われ、フラニーはより深く傷ついてしまう。自分が今まで何度もやったように、また妹を傷つけてしまったことに気づいたズーイは自分の非を自覚しショックを受け一旦妹の元からはなれる。しかしその後、少しトリッキーな方法により兄妹間で再度対話がなされる。
はっきりいってこの導入はだらだらしていて話の筋をつかみにくい。その傾向は一度目のフラニーとの会話でも続いていくが、2人が議論を進めるうちにだんだんと誰しもが一度は感じたことがあるだろう繊細すぎる問題が2人の共通の核となる問題であることが明確になってくる。ここで「繊細すぎる問題」とは非常に言葉にしづらいが、あえて言うなら「『自意識が高く、そのためいつも人を見下してしまう』ことに自分で気づき、自己嫌悪に陥る」ということになるだろうか。
はっきりいってこの時点までは本を読んでいてあまりおもしろいとは思わなかった。
しかし、最後の対話部分を読んでいて、本当に奇跡的な読書体験ができた。それまでズーイは延々とフラニーに対して徹頭徹尾ロジカルなアドバイス(というよりは精神的なえぐりだし)を行ってきたんだけど、最後の5ページあたりから、まったく違うアプローチでの対話を試みる。
その部分は本当に奇跡じみていて、自分はなにか大きな予感を感じながらページをめくっていった。読み進めるうち自然と鳥肌が立った。そして、本当にその予感は的中し、ズーイの言葉によってフラニーも、そして読んでいる自分も圧倒的な力で救われた。自分は信者ではないけど、聖書の中で神が起こす奇跡を体験したら、まさにこのような感じ方になるんじゃないだろうか。その感覚はあまりに言語化しにくいし、自分がなぜこんなに感動したのかもよく分からなかったけど、ただただ昂揚感があった。
なんというか、本を読んでいてこんな体験をしたのは初めてかもしれない。
とボヤいているあなた!
気持ちは分かります。
自分もいまいち痴漢の何がそんなに不快なのか分からない一人でした。
だけど、色んな女性の意見を聞くうちに(主にツイッターで)どうやら、何に反感を覚えているのかが分かりました。
つまるところ、彼女たちは暴力に屈服させられるのが嫌なのです。
学生時代、DQNに逆らえなかった自分を思い出してみてください。
思い出したくもない人はこんな想像をしてみてください。
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廊下を歩いていると向こうから恐い先輩が大股でドッカドッカと周囲を威嚇するように歩いてきます。
あなたは身を隠すべくそっと廊下の隅に寄りましたが、運悪く肩がぶつかってしまいました。
「ぁあ゛?なにすんだォラ」
怒っています。
今にも殴りかかってきそうです。
「なんか言えよォラ」
泣きそうになりながら、場を和ませようと愛想笑いをしてみます。
「笑ってんじゃねえぞオメェ!!!」
火に油でした。
3センチの距離まで顔を近づけてメンチきってきました。
ガチギレです。
「謝れや」
すみやかに謝りましょう。
「ごっごっごっ」
しかし声が震えてうまく出ません!
「きぃこえねええぞ!!!!」
汗と涙と鼻水がとめどなく出てきます。
「ごめんなしゃい」
DQN先輩も満足したようです。
「ふん」
踵を返して歩き出そうとした先輩は、その前になぜかもう一度こっちを向きました。
途端に泣きそうな顔になったとおもいきや、
「ごっごっごっ…ギャハハハ!!!」
先輩はどうやら機嫌が良いようで、殴られる心配はなさそうです。
そのまま先輩は大笑いしながら歩いて行きました。
先輩が廊下の角を曲がって見えなくなりました。
あなたは石になったように突っ立ってましたが、全身を弛緩させてほーっとため息をつきます。
「だっさ」
女の子の声です。
目を向けると、あなたが片思いしているクラスのヒロインがいるではありませんか!
一部始終を見られていました!
完全に軽蔑されました。
彼女は一生、あなたをDQNに絡まれたら鼻水垂らして許しを請うマヌケと認識することでしょう!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いかがでしたでしょうか?
なんとも言えない、いやーな気持ちになったことでしょう。
自分の存在意義だとか、価値だとかが全否定されて、こんな思いするぐらいなら今すぐ死にたいと思いませんでしたか?
ギークはてなーな男性諸君になら、この感覚を理解してもらえると思います。
でもちょっと待ってください。
このDQN、別に人に手を出したわけでもなければ、理由もなく絡んできたわけでもないですよ?
歩いていたら後輩がぶつかってきてムカついたから、謝らせただけです。
さっきのやり取りを少しスマートにするなら、こんな感じでしょうか。
(肩がぶつかる)「いたっ」
「いたた…ちょっと、気をつけてくださいよ」
「え?すいません」
「なにそれ、ちゃんと謝ってください」
「まったく…」(歩き去る)
これならそう反感を買うこともないでしょう。
さて、何が違うのでしょうか。
プライドを傷付けられるかどうかが決定的に違うのです。
痴漢にあって、犯人を警察に突き出せるようなら、ちょっと触られるといった程度の話です。
セクハラも同じです。
ただ、多くの女性は痴漢にあっていながら、自分の力で犯人と戦うことはできません。
痴漢は冤罪でも問答無用で有罪になるほど、女性側に圧倒的に有利な状況でも、何もできません。
恐いからです。
多くの女性は本能的に男には逆らえないようになっているのです。
そして、後から、自分の大事なプライドをいいように弄ばれた記憶に悩まされるのです。
自尊心が根こそぎ奪われていくのです。
ただちょっと声を出すとか、手をつかむとか、その程度のことすらできなかった自分に自己嫌悪するのです。
これで女性がなぜああまで痴漢という犯罪を憎悪するのか分かっていただけたのではないでしょうか。
痴漢冤罪や女性専用車両は男性差別か、など、様々な問題が論じられていますが、そこで女性の側の気持ちが分からなくなった時に、この話を思い出していただけたらと思います。
3年前ぐらいに一度禁煙成功したのに、去年ぐらいからまた吸いだした。
吸うのは職場&飲みの席でのみ、通勤時も吸わないし家でも一切吸わなかった。
まぁ隠してるつもりでも多分バレてるだろうなと思いつつも、吸ってますよとも言えないしそのまま喫煙継続。
それが昨日、急転直下でバレた。
嫁「いつから吸ってるの?」
俺「1年ぐらい前からです...」
嫁「全く気づかなかった」
俺「ごめんなさい...」
嫁「家でのストレスが原因?」
俺「それはないです。仕事のストレス...かな。実際家では吸おうとも思わないし...」
俺「ほんとスイマセンでした...」
嫁「なんで謝るの?」
俺「いや...なんというか...ごめんなさい」
その間嫁はずーっと泣いてるし、謝ってもリアクションなし...。
結局俺は自分のストレス解消という言い訳で、嫁を裏切ってしまったのかなぁと自己嫌悪。
吸ったお前が悪いって言われたら何も言い返せないけど、こういう時どう対応したらいいんだろう...。
【追記】
最近セックスレスというか、嫁の性欲が落ちたことによるセックスの減少もあったので、嫁の方も自分にも原因が
あったのではないかと自己嫌悪に陥ったのではないかと。
おそらくそれが「家でのストレスが原因?」という嫁のセリフに反映されていると、個人的には推測しております。
ただそれと喫煙との因果関係はないと頭では思ってるつもりですが、自分の心のなかまではよくわかりませぬ。
面倒くさいと片付けてしまうのは簡単だけど、嫁を愛しているのは事実ですので離婚云々は全く考えてもいません。
ただ今の状況を打破しないと前に進まないので、何らかの着地点を模索せねば...。
【追記2】
泣いたことに対するコメントが多いですね。たしかに通常であればなんで泣くのかって思いますよねやっぱり。
ただ嫁に対する自分の感覚的には、泣いたことに対する驚きや疑問はなかったです。この辺は嫁と自分のこれまでの
夫婦生活や、お互いの感性のことなのでうまく説明は出来ませんが。
まだまだ休みなので昼からウォツカを舐めながら最高にハイなかんじで若干独り言を液晶ディスプレイに吐きかけながらうるさいメカニカルキーボードを叩いているので意味不明なところは勘弁してもらいたい。
おれはまた男の娘と寝てしまった。ある街のラブホテルで,朝気が付いたらかわいい男の子が隣に寝ていた。その前夜はオフ会で居酒屋に行ってた。無くなりかけの記憶の鱗片を掴みとるに酔った勢いで連れ込んでしまったらしい。stayは前払いなホテルだったようで財布からは一万円が消えていた。給料日だからといって奮発しすぎなのではないかというちょっとした後悔はある。相手は心は女の子だが体は男の子だ。正確に男の娘と呼ぶのかどうかはわからない。男の娘という言葉を示す範囲については沢山議論されているだろう。ただ俺の主観による解釈では男の娘だと認識しているしおれは男の娘という言葉が好きでとても興奮するし股間が反応する。
この記事を相手に読まれたら少し恥ずかしいような悲しいような気持ちになる。ただおれは後悔していない。またしたい。
おれは男の娘とも女の子とも寝るのが好きだ。いちゃいちゃするのが好きだ。セックスするのがすきだ。男の娘とえっちするのはいけないことなのだろうか。かわいければナニがついてようがついていまいがかわいいのである。一緒に寝たいのである。ホモセクシャル?バイセクシャル?性同一性障害?は?なにそれ?ちなみにバイセクシャルであると公言している女装子さんと致したこともあるし,バイセクシャルのひととも,性同一性障害の相手ともしたことがある。しかし至って普通におれはノーマルなのだ。おれがおれのことをノーマルだと思ってるからノーマルなのだ。古のオッサンの言葉を借りるに我ノーマルだと思う故に我ノーマル,だが本当にそうなのだろうか,実際のジャンル分けでは何なるのだろうか。あと一つきになるのが何故他の男連中はナニの有る無しで相手を選ぶのかということだ。可愛ければそれでいい的思考に何故ならない。最近はほんと磨けばかなりかわいくなれるような男の子がたくさんいる。一方いくら磨いてももう対象として見れなさそうなクソマxコもたくさんいる。男の娘のほうがどうされれば気持いいかわかってて優しくやってくれるしかわいいし最高だ。女の体もやわらかかったりメリットがあるがそれと同じほど男の娘もメリットがある。みんなも視野をひろくもっていこうな。
ともかくおれは男の娘も女の子が好きだ。寝るのが好きだ。寝るのがすきなので行きあたりばったりで遊べるだけ遊んでる。若いから仕方ないのだろうか。偶然にも今までの相手は割と簡単にさせてもらえた。おれの顔とスタイルとセンスはマシな方なのだろうかもしれない。今回ついに経験人数が4bitの上限を超えた。セックス依存症なのではないかと自己嫌悪していまう。酒を飲んで酔っているときとだれかを抱いているときしか気持ちが存在しない。それ以外の日常は無のまま過ごしているような気がする。クソみたいな18歳だ。客観的にみて自分はクソだ。本当にクソだ。自己嫌悪しかでてこない。死ね。自分が小学生のころにみた某深夜アニメのOPの歌詞のように,大嫌いな僕19歳になってしまうのか。おれはバイセクシャルなのか,一体なんなのかというのも若干疑問に感じている。
でもどうすればいいのかわからない。
この瓶が空くまで録り溜まったアニメを観て
寝よう。
昔はコミュ力があった。
相手が言われたら嫌だろうな、苦しいだろうなという言葉は絶対言わなかった。
話の流れから2手、3手前に分かりそこに行かないように会話の誘導もできた。
会話をしなくなったというか、盛り上がるグループから少し距離を置くようになった。
その結果コミュ障になった。
コミュ障にはいろいろあるがその中でも自分は事務的な会話はできるが雑談はできないタイプになってしまった。
先日、同年代の人たちと一緒にとある作業をこなすということがあった。
そして最終日まで無難に終わり、飲み会に行こうという流れになった。
・・・。
まあそしてやってしまった。
飲み会は苦手だ。
笑いが取れない。会話が続かない。困った末についに伝家の宝刀を抜いてしまった。
そう悪口だ。
悪口は盛り上がる。
笑いも生まれる。
しかし、悪口を言われた人は傷つく。
その人には聞こえないように発言しても、いつかはその人に届いてしまうものだ。
仮に相手に気づかれなくても、後々自分を傷つける。
本当は言うつもりはなかった。
昔の自分だったら絶対言わなかっただろう。
それどころか、まあまあと諌めてすぐに別の話題を振って盛り上げただろう。
本当にそんな理由なのか。
違う。自分を守るためだ。
他人の口撃される前に、先制攻撃してしまおうという考えがあるのだろう。
糞だ。
わかってる。
他人を傷つけた時はいつもこうやって後々自己嫌悪に陥ることになるのはわかってるのに。
言われた人がどんな気持ちになるのか考えた時、胸がえぐられる。
あぁ、やってしまった。
何やってんだ俺。
コミュ力がほしい。
コミュ力がほしい。
悪口は言わないようにしよう。
しかし、また人を傷つけるだろう。
私は「悪人」です。…といったら少し語弊があるかもしれません。どの程度で悪人と呼ぶのが適切かわかりませんが、とりあえず今のところ法を犯したことはなく、今後犯す予定もありません。ですが、良心と呼ばれるようなものはあまり持ちあわせておりません。少なくとも「善人」でないことはほぼ間違いないと思っています。
小さい頃、他人が「善人」みたいなことを言っていると、その大部分はただの建前なのだと思っていました。たとえば人が死んだことに対する「悲しい」だとか、外で困っている人を見かけての「大変そう」という言葉、そしてそれを助けようとする行動など。それらはすべて「善人」を演じようとするものであり、心からそうしようと思ってやっている人がいるわけないと、そんなふうに思っていました。私にはそういった善人らしい感情がまったくわからなかったからです。そして私も、基本的には善人のように振舞っていました。
それから少し成長すると、少なくとも彼らが意識的に「善人」を演じてわけではないということがわかってきました。
もちろん中には人から見て「善人」とは呼びがたいような人もたくさんいます。しかし彼らはいずれも、自身を「善人」だと思いこんでいました。たとえば彼らは、実際の心情はどうであれ、言葉の上では殺人者を批難してみせたりしていました。(こういった人のことを仮にエセ善人と呼ぶことにします)
そして私は善人に対しても、そのエセ善人のような人に対しても、疎外感を覚えてきました。
あまり不幸を見て「悲しい」と思えません。殺人などに対して特に嫌悪感を抱くこともできません。テレビで報道される殺人事件などを見て、面白い事件だな、なんて思うこともあります。(当然、私は殺されたくありません。しかし私が殺されたくないことと、私が殺人者に嫌悪感を抱くかどうかは別の問題です。)
そしてエセ善人のように、自分の非善人性を自覚した上で自分を善人だと思い込むようなこともできません。
もっとも私が善人ではないこと、そして自身を善人だと勘違いできないことそれ自体はたいしたことではないのです。トートロジーのようになってしまいますが、なぜなら私は善人ではなくそのためそれについて自己嫌悪することもないからです。
それよりも私にとっての問題は、私が彼らに対して疎外感を覚えていること、そして彼らからの迫害におびえているということです。
友人があまりいないこと。これ自体は仕方のないことかもしれません(とはいえ、少しさびしくはあります)。人が人を嫌う権利は決して制限してはいけないものだとも思います。
罵りを受けること。これも仕方のないことだと思いつつも、辛い気持ちにはなります。たとえば「人でなし」と言われても、反論のしようがないだけにどうすればよいのかわかりません。
差別を受けること。これには耐え難い苦しみを感じます。法を犯したわけでもないのに善人ではないというだけで言葉や体の暴力を受けること、犯罪者予備軍として攻撃されること…。
たとえば先日、こんなものを読みました。
http://matome.naver.jp/odai/2140989315783699801
他人を死傷させたり性犯罪を行ったりした凶悪犯罪者については、心を入れかえたというふうに刑務所でといいますか法務省が判断してからでなければ世の中に出してはいけない、私はそういう思いを持っている人間でございます
これには大変な恐怖をいだきました。心を入れかえるとは、どういうことなのでしょうか。たとえば私がどんなに頑張っても…どんなに心を入れ替えたいと思っても入れ替えられなかったとき、私はずっと公権力からの暴力を受け続けるのでしょうか。
私のこの非善人として性質が持って生まれたものか、あるいは環境の中で育まれてきたものかはわかりません。しかしこれは、私にはほとんどどうしようもないことなのです。人の死を見て「悲しい」と思えないことを、いったいどうすればいいのでしょうか。
いや、あるいはどうにかする方法があったとしても、私はそれを拒むかもしれません。それがなぜかと問われると…非常に答えるのが難しいですが、価値観を塗り替えられることへの恐怖、プライドなのかもしれません。
私はどうか、一人の人間として、国民として差別を受けることなく生きていきたいと願っております。
それを願いここにこうして書くのは、私が現代の国家の根本理念に希望を抱いているためです。たとえばこれが、中世以前の、一部の宗教に支配されたような国であれば私はまともに生きることなどかなわなかったと思います。しかしながら現代においては、憲法は、法律は、決して悪を見つけ裁くためのものではないはずです。国家とは、人々が互いの幸福のためにこういったルールを守ろうという契約だと思っています。そのように理解しています。
私は法を犯したことはありませんし、これから法を犯す予定も特にありません。人を殺すつもりもありません。私はテロリストではありません。私は私の幸福を願っており、そのために国家の契約の範囲で他人の権利も尊重します。いわゆる政治信条だってあります。先に述べたように私個人として殺人事件などを面白く思うことはありますが、国家という共同体としてどうすべきかということはそれとは別に考えられます。
他人の情を感じ取れない自分が、こうして人の情に訴えかけることを滑稽にも思います。ですがその上で書きます。
どうか、どうか私を生きさせてください。一人の人間として幸福になる権利を認めてください。
ルールを守っている限りは「悪人」にも生きやすい世の中になっていくことを、私は願っております。
(ということをなんとなく増田に吐き出したくなったので書きました。以上です。)