私は「悪人」です。…といったら少し語弊があるかもしれません。どの程度で悪人と呼ぶのが適切かわかりませんが、とりあえず今のところ法を犯したことはなく、今後犯す予定もありません。ですが、良心と呼ばれるようなものはあまり持ちあわせておりません。少なくとも「善人」でないことはほぼ間違いないと思っています。
小さい頃、他人が「善人」みたいなことを言っていると、その大部分はただの建前なのだと思っていました。たとえば人が死んだことに対する「悲しい」だとか、外で困っている人を見かけての「大変そう」という言葉、そしてそれを助けようとする行動など。それらはすべて「善人」を演じようとするものであり、心からそうしようと思ってやっている人がいるわけないと、そんなふうに思っていました。私にはそういった善人らしい感情がまったくわからなかったからです。そして私も、基本的には善人のように振舞っていました。
それから少し成長すると、少なくとも彼らが意識的に「善人」を演じてわけではないということがわかってきました。
もちろん中には人から見て「善人」とは呼びがたいような人もたくさんいます。しかし彼らはいずれも、自身を「善人」だと思いこんでいました。たとえば彼らは、実際の心情はどうであれ、言葉の上では殺人者を批難してみせたりしていました。(こういった人のことを仮にエセ善人と呼ぶことにします)
そして私は善人に対しても、そのエセ善人のような人に対しても、疎外感を覚えてきました。
あまり不幸を見て「悲しい」と思えません。殺人などに対して特に嫌悪感を抱くこともできません。テレビで報道される殺人事件などを見て、面白い事件だな、なんて思うこともあります。(当然、私は殺されたくありません。しかし私が殺されたくないことと、私が殺人者に嫌悪感を抱くかどうかは別の問題です。)
そしてエセ善人のように、自分の非善人性を自覚した上で自分を善人だと思い込むようなこともできません。
もっとも私が善人ではないこと、そして自身を善人だと勘違いできないことそれ自体はたいしたことではないのです。トートロジーのようになってしまいますが、なぜなら私は善人ではなくそのためそれについて自己嫌悪することもないからです。
それよりも私にとっての問題は、私が彼らに対して疎外感を覚えていること、そして彼らからの迫害におびえているということです。
友人があまりいないこと。これ自体は仕方のないことかもしれません(とはいえ、少しさびしくはあります)。人が人を嫌う権利は決して制限してはいけないものだとも思います。
罵りを受けること。これも仕方のないことだと思いつつも、辛い気持ちにはなります。たとえば「人でなし」と言われても、反論のしようがないだけにどうすればよいのかわかりません。
差別を受けること。これには耐え難い苦しみを感じます。法を犯したわけでもないのに善人ではないというだけで言葉や体の暴力を受けること、犯罪者予備軍として攻撃されること…。
たとえば先日、こんなものを読みました。
http://matome.naver.jp/odai/2140989315783699801
他人を死傷させたり性犯罪を行ったりした凶悪犯罪者については、心を入れかえたというふうに刑務所でといいますか法務省が判断してからでなければ世の中に出してはいけない、私はそういう思いを持っている人間でございます
これには大変な恐怖をいだきました。心を入れかえるとは、どういうことなのでしょうか。たとえば私がどんなに頑張っても…どんなに心を入れ替えたいと思っても入れ替えられなかったとき、私はずっと公権力からの暴力を受け続けるのでしょうか。
私のこの非善人として性質が持って生まれたものか、あるいは環境の中で育まれてきたものかはわかりません。しかしこれは、私にはほとんどどうしようもないことなのです。人の死を見て「悲しい」と思えないことを、いったいどうすればいいのでしょうか。
いや、あるいはどうにかする方法があったとしても、私はそれを拒むかもしれません。それがなぜかと問われると…非常に答えるのが難しいですが、価値観を塗り替えられることへの恐怖、プライドなのかもしれません。
私はどうか、一人の人間として、国民として差別を受けることなく生きていきたいと願っております。
それを願いここにこうして書くのは、私が現代の国家の根本理念に希望を抱いているためです。たとえばこれが、中世以前の、一部の宗教に支配されたような国であれば私はまともに生きることなどかなわなかったと思います。しかしながら現代においては、憲法は、法律は、決して悪を見つけ裁くためのものではないはずです。国家とは、人々が互いの幸福のためにこういったルールを守ろうという契約だと思っています。そのように理解しています。
私は法を犯したことはありませんし、これから法を犯す予定も特にありません。人を殺すつもりもありません。私はテロリストではありません。私は私の幸福を願っており、そのために国家の契約の範囲で他人の権利も尊重します。いわゆる政治信条だってあります。先に述べたように私個人として殺人事件などを面白く思うことはありますが、国家という共同体としてどうすべきかということはそれとは別に考えられます。
他人の情を感じ取れない自分が、こうして人の情に訴えかけることを滑稽にも思います。ですがその上で書きます。
どうか、どうか私を生きさせてください。一人の人間として幸福になる権利を認めてください。
ルールを守っている限りは「悪人」にも生きやすい世の中になっていくことを、私は願っております。
(ということをなんとなく増田に吐き出したくなったので書きました。以上です。)
悪人は、自分自身で世の中、住みぬくくしてるだけだよ。 法律で決められた範囲内でルールを守っているといっても、 他人に迷惑を掛けたら、その反作用で、迷惑を掛けられた相手...
元増田です。 まず前提として、私は無闇やたらと人に迷惑をかけることはしません。 これは悪人かどうかとは別の話で、たいていの場面で人を殴ればその場の関係として不利になりま...
>。法律から逸脱したところで人に迷惑をかけたとして、そのことで相手からまた「法律から逸脱したところで」やり返されることについて、特に私はなんとも思っていません。 これ...
嫌われ者は苦労するだろうね。 嫌われない術をみつけるんだな。