はてなキーワード: 権威とは
【固有名詞】
ガンダムの盾とは、人型ロボットとかリアルじゃないよねーと語られた途端にミノフスキーうんちゃらだのAMBACだのをツラツラと語りだした挙げ句に富野御大将がニュータイプという概念を通して語りたかった理念をGのレコンギスタのストーリーテリングを全編に渡って解説しつつ延々と聞かせることにより相手から「もういい。もういい分かった。分かった。もうやめろ」を引き出すことで人型ロボットの権威を守る技術のことである。
個人的に思ったことを書き連ねてみただけだし、正直自分も好きな作品メガリアに燃やされたからその流れを汲む日本のツイッターフェミニストに対しては私怨バリバリだよ。
正直NHKがキズナアイを起用したのは、最近若者に人気なキャラクターを通じてノーベル賞について学んでもらおうくらいの意図だったのではないかと思う。
これが連綿と続く「萌えキャラ」や「オタク」批判の槍玉に上がる原因となったのは「NHK」と「ノーベル賞」という権威に対して萌えキャラは相応しくない!(個人的にはこれに萌えキャラが嫌いキモいみたいな感情も混じってるのではないか)という考えが有ると考えている。
古典的ジェンダーロールを強いられているという話や(男性の科学者の説明を女性(少なくとも見た目は)が相槌を打ちを聞く、という対話形式)、乳袋や脇出しといった性的特徴を強調した姿をしている、これは女性蔑視だ、など、太田氏、千田氏などがキズナアイを批判、NHKへの抗議を扇動するようなツイートをおこなった。
当然ヲタク側からは猛反発がくる。それに呼応し、ツイッターフェミニストも反発する。その最中「キズナアイは可愛い。自分のように女性のファンもいる。そういうことはやめて欲しい」という女性ファンからの訴えもあったが黙殺されている。南無三。これを見て思うのが、ツイッターフェミニストは往々にして自らの意見に同調しない人は同性であろうが「名誉男性」として攻撃の対象にするということである。
フェミニズムとは本来女性の権利解放を目指したものである。可愛くなければいけない、貞淑であらなければならない、などという抑圧や社会的地位の低さからの解放を求めたものである。ところが最近、可愛くなくてもいい、というところから自ら進んで可愛い格好をしている人に対して「可愛いのは男性に媚びている! 性的搾取されている! それに気づけないのは愚かだ!」というところまで来ている。一周回って元に戻っている。なんでや。
さて、次に登場したのは少年ブレンダ、というトランスジェンダー界隈の人だ。彼(彼女?)はキズナアイ騒動の尻馬にのり、自らもキズナアイ批判を展開する。曰く「キズナアイを始めとするVTuberはバーチャル空間で男を接待する風俗嬢みたいなもの」。そしてその言質は少なくないツイッターフェミニストに支持されていた。
さて、キズナアイを罵倒する言葉として「風俗嬢」という言葉が出てきたが、少なくとも実際にAVやらの問題に取り組んでいる太田氏とは違って、少年ブレンダやその支持者にとって風俗嬢は女性でありながら彼らのフェミニズム運動の対象には入っていないのではないか? という疑問が浮かんだ。
「女性は最後は体を売ればいい」というのはまあ聞く話である。実際に望んでなったという方もおられる。金を稼ぐ手段と割り切っている方もいる。そしてその中で最後の手段としてこの商売を選んだ方もいる。風俗やAVはある意味、福祉の網からもこぼれ落ちた貧困女性の最後のセーフティーとしての機能も存在している。さらにはその最後のセーフティーからもこぼれ落ちた方もいる。
原義の意味のフェミニズムなら、風俗嬢をあまつさえ自分が嫌悪する対象に対する罵倒に使うだろうか。否、全ての女性の尊厳を守り権利を解放するという運動ではなかったのか。結局彼ら彼女らはフェミニズムを標榜し、フェミニストを謳いながらも非常に差別的かつ恣意的な選抜を行なっているのだ。彼らの眼中には好みの女性ーーつまり強くて男性に媚びない女性しかないのだ。それ以外の女性はフェミニズム運動の対象にあらず、それ以外は女性だろうが男性であろうが叩きの対象でしかない。
その後、ブレンダ氏は風俗嬢だニコニコのネトウヨ文化だと嘲笑したキズナアイを自らの思想を拡散するためのガワとして使い、規約違反だとの批判を浴びている。
今時「スゥ……キズナアイです」のイタコ芸をやるのが大川隆法以外に居るとは思っていなかった。しかし悲しいかな、どこまで行ってもそれはなりすましでしかない。
しかも仮にもトランスジェンダーの方が「性別はない」と言っているキズナアイを見た目のみで「女性である」と決めつけ「女の子の体は女の子のものです!」と言わせる。おそらく、女の子の体は男に好き勝手されるためにあるんじゃない! 的ニュアンスが言いたかったのだろうが、キズナアイのガワを使って好き勝手言う奴に言われても困る。そんなにやりたいならオリジナルのバーチャルyoutuberを作って主張させればいい。オリジナルキャラを広めるというのはかなり大変だ。その努力もせずに既に人気のキズナアイの影響力にタダ乗りして自分のいいたいことを代弁させるなど下の下の所業である。キズナアイがAIとして目覚めた時、何を思いどう行動するのかーーそれは誰にもわからない。
今回の件みたいにまともな根拠もないような滅茶苦茶な理論でアカデミズムの人らが権威を盾に殴りかかっくるような事態が起きたときに
そんなレベルの一般人にとって自衛が難しいのは文理変わりなくね? 武田邦彦センセとか近藤誠センセとかだって、一般人にとっては大学教授やお医者さまなわけで。
大した根拠もなく権威を気取って横暴の限りを尽くすのであれば、それはあなたらが今までさんざん殴ってきたであろうスポーツ界のおっさん会長そのものですよねという話で
発掘物をねつ造してたけど、権威でだれも批判できなくて、批判した人は考古学の世界から追いやられてたというあの事件。
仲間内のパス回しで「教授」等の権威をつけて社会を振り回す、その構造が膿だと思ってる
なんか新人は大変そうだなって。
私がその増田で話していたのは「著書」の話です。ふつうの論文ではない。著書を出してる時点で既に何本か業績があるのは前提。
そんなん常識だろって思って文系のキャリアパスを説明しなかった私も悪かったと思うので詳しく説明します。分野によって違うけど、私の分野では、
さて、学術書というのは分厚いですね? 基本的に文系の学術書というのは論文を何本も積み重ねてようやく書けるサイズのものです。というか博士論文の時点で学術書として出版できるくらいのボリュームを要求されたりします(まあここは院によりますが、しかし薄い博論で学位を取れたとしてもそんな論文は本として出版できないかどマイナー出版社から出版するほかないので、評価されるちゃんとした書籍を書こうと思ったらめっちゃ書き足す必要があったりして、要するに「書籍の出版」を業績とみなすのも故なきことではないのです)。なので、実質的に論文を何本も書いたことがないと単著なんて出せません(私の院では、博士論文の提出に際して既発表の論文数などは問われません。なので発表した論文がゼロの状態で博士論文を提出することも理論的には可能なのですが、実質的にそんなの無理です。私の周囲の博士号取得者は何本も論文書いた上で博士号獲ってます)。
つまり、単著出してる時点で論文デビュー済みのことが多いわけです。
(ちなみにこの辺は国によって違ってて、日本だと博論は既発表論文を寄せ集めて書いても問題ないけど、たとえばドイツだと博論に既発表の論文を組み込まずに書き下ろす必要があり、なおかつ博士論文には出版が必須なので、ドイツで最初の単著を出した人のその時点での業績は日本基準では少なかったりします。そのへんの話はこちらのまとめを参照→https://togetter.com/li/9904)
もちろん、最初の著書が新書です、みたいな人もいます。院生時代に研究成果をもとにした新書書いて、そのあと博士号取って分厚い単著出しましたみたいな(『パンダ外交』)。むっちゃ分厚い修論書いてそれを単著にしちゃう猛者もいます(小熊英二)。ただそういうのはレアケース。また、博士号取得→別のテーマで単著を出版→その後に博論に基づいた単著を出版という流れもありえます。こっちは割とよく見るかな。講談社選書メチエの『湾岸産油国』とかそうじゃなかったっけ。
んで、良い論文を何本も書いたり、単著出したりしてると、インテリ向け商業誌とか権威のある学術誌とかからお呼びがかかります。「お前、うちの出版社が出してる商業誌に書いてくんね?」とか「お前、うちの学会で今度組む特集号に書いてくんね?」って感じです。これが例のセンセが言ってた「招待論文」。「依頼論文」と呼ぶ業界もありますね。当たり前ですが、程度の低い研究ばっかりしてると呼ばれません。
(査読がなくても良い論文が有り得るってのはそういう意味です。最近だと院生向けの紀要にも査読つきが増えてるけど、そういうマイナー誌の査読論文よりも商業誌に載った論文の方がよく読まれていたりする。当たり前だけど紀要の無査読論文とかよほど内容が良くない限りめったに読まれませんし参照もされません)
要するに、昔はどうだったかは知りませんが、最近では査読誌の論文が新人の登竜門として使われ、ある程度実績が増えると査読なしの論文を書く機会が増える、というのが私の周囲での割とよくあるキャリアパスです。それまでの実績がない若い人にも当然チャンスはあります。
自分で読んで判断しましょうよ……理系だって、査読を通ったんだから正しいに違いない! なんて思わず、批判的検討するっしょ? それともそういうプロセスをサボって無批判に論文の内容を受け売りしてたひとたちが文系の慣行にケチつけてるってことなんですか?
ケチをつけてるんじゃなくて素朴な疑問だったんだけど。
普通にやると人物や過去の業績でバイアスかかっちゃうので、それを可能な限り排除するために著者情報を完全に伏せたブラインド査読があるわけで。我々の過去の研究[1]では〜 とかも書けないので提出した論文の中身だけで判断されることが保証される。
客観性重視で過去の業績や権威を無視して論文の内容だけで勝負したいって人はブラインド査読した方が有利だよね。
客観性より自分の意見を主張したい、コツコツ積み重ねたものを評価して欲しい人は総合的な判断の方が都合が良いんだろうけど。
なんか新人は大変そうだなって。
いい年して保守的な表現であるラノベばかり読んでるオタク=理系=ネトウヨというのはやはり文章読解力が低いのかもしれない。
物事のあるがままを捉えようという意志を持たずに簡単な図式、構造に還元するのが癖になってる。
そこが落とし穴だ。
そもそもまず簡単な文章すら正確に読解できてないのに、現実の現象そのものを正解に理解できているはずもない。しかし彼らにはそれがわからない。彼らは自分がそんなことはすべてわかりきっていると思っている。
こういう知的怠慢、知的傲慢が理系の人たちに多く見受けられるということは、理系の人たちは既存のある物語(権威的な)に無意識に従ってしまっているということなんだろう。
それがその業界の慣習だか最適化された思考様式だかなんだかは知らないが。
要は柔軟性がない。
理系の権威主義もそれはそれでいろいろ問題なんだが、文系の権威の源泉を全否定しちゃって大丈夫か?
あなたは立派な学者で関連する全ての論文を実際読んで検証して自分の頭で考えて答えを出すのかもしれないが、一般の国民はそんな暇も知識もないわけ。
今まで知識のない人たちには「論文にこう書かれています」ってのがありがたいことで一つの知識の蓄積だと思われてたけど、それが極端な話言えばそこらへんのブログや新聞に書かれているレベルの記事と信憑性が同じって疑われてるところまできてるわけ。一部のアホっぽい(主に政治的な)社会学者連中のせいで。もちろん学会内ではあの先生が書いたからとか、読んで検証したけどあの論文は実際いいよって評判も聞くことができるんだろうけど、素人がそこに入ってくのは難しいよね。一人目に聞いた人がいい人とも限らんし。
大部分の学者はちゃんとやってると私は思ってるよ。でもその知識がアカデミアに入らない国民には理解しようもないし、還元されようもないなら、あいつら何かよくわかんないけどサボってんじゃないかとか、税金かける価値ほんとにある?とか言われてても擁護しようがないじゃん。今まではちゃんと論文書いてるしって言えたけど、その論文、実は査読なしの書きっぱなしでコネがあれば好き勝手な文章載せられちゃいますってバラしちゃったじゃん(一部の分野だけかもしれないけど)。個別に読んで評価しろっていわれたって文系の論文読んだことないし、指標もないからどれ読めばいいかすらわからんってなる。それが査読論文があれば互いにいろいろやり取りして論文の質を高める工夫をしてるらしいよって話になる。英語論文があれば、仲間内の人じゃない人からも読まれたり評価したりされてるらしいよってなる。つまり論文の権威を信頼の道具にしろってこと。
要は文系の一部のアカデミアは今権威が疑われてるんだよ。信頼を勝ち得るには無知な理系(同族に文系に偏見持ってるのが多くて申し訳ない気持ちもあるけれど)を批判したり、あるいは陰謀論者だ反知性主義だとか批判してもどうしようもないわけ。ただでさえ理系は文系の大学予算削って理系にまわすのに大賛成なんだし、あいつら信用できないって噂が広まるのは好都合。そこを「間違っているとは限らない」っていくら論理的に説明したって「間違ってない可能性があるだけの研究?なら本屋に溢れてるしその執筆の手伝いに国家予算付けるほどお人好しにならなくていいよね」って言われるだけでしょ。理系に比する信頼を勝ち取る手段の一つが査読であり英語だし、それができなければ〇〇論文誌の論文は毎年学会で全部ちゃんと議論してます(その結果もまとめてあるのが理想)って表明するとか(日本語できる人でいいんだが)外国の学者をもっとポストに招聘してうちの学会はオープンですってアピールするとか面倒臭くても何か工夫をしないといけないと思う。
いろいろ書いたけどあくまで予算と権威が欲しいならね。研究費は元々少なめだとは思うけど、さらに削られたり給与もこれから理系に比べて少なく設定されるようになってもいいし、信頼度も新聞やマスコミレベルで構わない(関係ないが自分は最近マスコミ悪く言われすぎだと思う)というならそのまま何も変わらなくていいと思う。
査読がないと質の悪い仮説が溢れ、それに基づいた研究が行われたり反論に手間取ったりして科学の歩みが遅れるから良くないよ。
あと質の悪い仮説が権威づけされて様々に応用されることにより世間様に迷惑をかける可能性も上がるよ。
けどまあ査読されてないなら仮説やそれを提唱する科学者個人の質が保証されないじゃないか!ってのは確かなんだけど、それが特定の分野や社会科学全体への疑問につながるかって言うとそれは違うと思うよ。
共同体内で知識を研鑽していくっていう過程に査読はあんまり関係ないし、科学が一番成果を上げた初期の時代には査読システムは貧弱だったからね。
自然科学は質の悪いものが客観的にわかりやすいし、質の悪いものが世に出たときの悪影響が大きいから査読が重視されるってのがあるんだろうね。
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
主だった雑誌のことも知らないくせに、目立った1人あるいは数人の社会学者の言動と業績を取り上げて社会学や文系全体を無価値と断罪するの、リテラシー()とやらを持ち合わせている人間のやることとは思えんね。
萌絵は性的か?
→性的要素を含む。度合いはグラデーションで、ほぼ含まないけど萌え絵っぽいものもある。キノとか
性的なものは公共の目にさらされないようゾーニングするべきか?
→性的なもの、がわからんが、現実男性が現実女性に性的なものを感じる以上、ゾーニングはできないだろう。ヒジャブ?
実在の人物はともかく、性的な創作物は公共の目にさらされないようゾーニングすべきか?
→ある程度したほうがいいんじゃないか派
なんで?
→性的なものが嫌いな人がいる、でいいんじゃないか。ハラスメントは極力控えるべきという視点から。
そして「公共の場においてエロがないことは嫌がらせ」と感じる人はいないんじゃないか
個人的には、ある女の子に綾野剛と自分を比較されて悲しい思いをしたから、イケメン俳優もルッキズムに貢献してるという点で露出を制限してもらえるとありがたい。
キズナアイについて
→最初はわからなかったが、性的な要素を含んでいると感じる。あざとい。
あれがハラスメントに該当するかは人によるが、少数派なんじゃない?という感覚。街を歩けばあんなもんじゃない人はふつうにいる
→そうでもないと感じる。これを機に白衣モードとかの衣装つくったらいいとは思うけど
→ありふれていたけど、逆でも別にいいと思う。
ただこの構図自体を忌避すると、あとは男→男、女→男、女→女のいずれか、または性別を想起させないモチーフしか受け入れないことになる。
それが理想とも思わない
ある社会学者について
→業界のルールによるんでないか。なんらかの方法で成果物の程度が担保されていればいいと思うよ。
じゃあ何が問題?
→①実績のない人が権威あるようにふるまうこと、②その人の程度の低い成果物が世に広まること が問題
そしてこれは社会学だけに、文系だけに限らず、アカデミックの各地で問われることだとおもう
かなり面倒な部分を掘り起こした印象
ほんとのことを言うと、ゾーニングなんてしたらいいじゃんと思っていて、嫌がる人の気持ちがわからず
社会学者がたたかれているのは発言権を剥奪したかった人がいるんだろうなと感じている。
出勤しないと。あとで追記する
残念ながら出版することは誰でもできるんだ、金さえあれば。
たとえば適当な査読誌をでっち上げて査読してますと謳って実質無査読の論文を垂れ流すことは同じく金があれば誰でもできますが、そうやって出来上がったものが研究者コミュニティにおいて信用を得られるか、というとまた別の問題。
著者がこれまでアカデミックキャリアを積んでこなかった人だったりしたら、「あっ……(察し)」となって黙殺ルート一直線でしょうね。アカデミックキャリアを持つ人が書いたダメな本だったら、どこかの書評でフルボッコにされた後になかったこと認定かな。学術誌って書評欄ありますよね? あそこ見るといいですよ。雑誌によるけど、権威のある雑誌だったらあれが足りないこれが欠けてる○○語も読めねえのかとか言いたい放題してます。もちろん後発の論文や本の中で批判されまくることもあるでしょうね。当たり前ですけど先行研究の批判はちゃんとやるわけで。
出版社だって、長年良質な学術書を出版してきた、ある分野での定評のある出版社、みたいなやつがあるわけですよ(cf. anond:20180828185404)。日本語圏でも英語圏でもそうです。そういうとこは慣れた編集さんがきちんとチェックするし、まあたまに事故ることはありますが基本的に変なものを学術書であるかのように装って出したりはしないわけで。あと最近は科研費の出版助成とかもあるんで、あんまりにもダメな研究は助成されないし、単著の出版に際して査読を科す出版社さんも出てきてますね。
まー、こういう評価の仕方は数量化しにくいですねえ。権威主義とか職人芸とか言われても仕方ないかもしれない。
ただ、こんな当たり前のことを説明しなければいけないのかと若干徒労感があるのですが、文系にも研究の出来不出来による評価軸というものはあり、また信頼性を重み付けしようというインセンティブも存在するわけですよ。
査読論文なら盲目的に信奉する理系の人なんていないでしょ? それと同じですよ。単著だからって無条件でありがたがったりはしない。だいたい単著ほどのボリュームのものを書く以上はどこかに土台となるような論文(群)が存在し、それは何らかの形で人目にさらされていることが多いわけで(もちろんなんの予兆もなしに単著出しちゃう化物がいないわけじゃないですけど。あとはドイツとか特殊事情がある国もあるので、まあ……)、信頼に値する業績を挙げてきた著者なら「おっ! ついにアイツが単著を出すのか!」「あの研究ようやく本になったのか!」みたいに迎えられるでしょうし、怪しい著者はその段階でお察しな扱いを受けるんじゃないですか。実際に出来上がったものの出来は、それまでの研究の出来からある程度予想つくのはわかっていただけますよね。
もしもこれが日本だけの慣行なら、あるいは社会学だけの話なら、ガラパゴスと非難されても仕方ないかもしれない。けれど実際には、アカデミックな単著を業績にカウントするのは英語圏もロシア語圏も同じです。フランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが、単著や学術的論集の1章は立派な研究業績。私の本棚には英仏独語で出た外国人の著書が並んでますが、どれもそれぞれの国で研究業績として立派に通用しています。私は社会学だけじゃなく歴史学や文化人類学や政治学の学術書も読んだことがありますが、どれもちゃんと研究業績として扱われていますし、内容もまっとうな研究でしたよ(ハズレがないとは言いませんが)。
文系の出版したがりになんの問題もないかというとそれは違って、文系の中でも色々議論はあります。そしてその議論は非「文系」にも開かれているべきでしょう。ただ、そもそも論として、このへんの文系事情をろくに知らない人が自分野のローカルルールを振りかざして口を出してるのはほんとムカつきますね。文系の研究書を1冊でも読んだことがあるのかと。外国語の文系の論文を手に取ったことがあるのかと。文系の論文を読みもせず、英語やその他の言語での学術書を触ったこともない人たちに、文系の慣行をジャッジする資格なんてあるはずがない。
id:yuimoke ふむ。文系の論文の質的担保について。
id:n314 えっと、内容の正しさの保証は、つまりどういうこと?著書、どこかの書評、定評のある出版社、編集さん、出版助成、査読、土台の論文群、過去の業績、これらから総合的に判断するということかな?
自分で読んで判断しましょうよ……理系だって、査読を通ったんだから正しいに違いない! なんて思わず、批判的検討するっしょ? それともそういうプロセスをサボって無批判に論文の内容を受け売りしてたひとたちが文系の慣行にケチつけてるってことなんですか?
文系基準でも出版社の編集によるチェックは査読とは呼ばないです(査読をする出版社もあります。たとえば→https://twitter.com/saisenreiha/status/1049653174045270021)。一度もそのプロセスを査読とは呼んでいないでしょ? 頼むからきちんと読んでください……
id:napsucks でも批判的な観点でチェックされてるかは疑問かな。堂々と立派なところから本出してた旧石器捏造みたいな例だってあるし。
そんなこと言ったら理系の査読だって小保方晴子や黄禹錫やヘンドリック・シェーンを見抜けなかったんだから、たいした意味ないんじゃないの? って話になりませんか。この3人、NatureやScienceに堂々と載ってたんですが。
id:junmk2 金だけで動く会社から出版し専門家からフルボッコにされても、そんな情報に一般人はアクセスしないので、論文があります単著があります権威は十分通用する。「まともな」専門家と形式的には変わらない。
たとえばJournal of Nutritional and Environmental Medicineみたいに?(cf. http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20150220#p1)
id:himakao この出版不況の中、論文の中身まで編集がしっかりチェックする余裕があるようにはとても思えないんだけど、文系研究者の論文本って界隈で質が高いと評価されるとそんなに売れるもんなのか?
売れるわけないでしょ(涙)……とだけ言うのはアレなので補足すると、もちろんこれは本の内容によります。現代思想とか戦国時代とか、一般の読書家にもファンが多いテーマならひょっとしたらワンチャンあるかもしれませんが、マニアックな文化人類学研究とかだったらまあまず売れないです。だから出版助成もらうわけですけど。著者にも金銭的負担が生じることは結構あると思いますよ。
id:Dragoonriders なるほど。徒労感はあろうかと思われるけど、畑が違えば、みんなよく知らないんですよ。
徒労感があるのは、文系の評価基準を知らない人が多いことに対してじゃなくて、文系の中にも研究の出来不出来があり論文や著書の信頼性を重み付けするメカニズムはある……という至極当然のことに思い至らない人が多いことに対してです。査読が重視されないならあらゆる研究がフラットということになりその中で優良な研究を見分ける作業に時間を取られるのだから非効率だ! みたいな論を立ててる人とかね。人間社会なんだから何らかの形で評価のシステムが生まれてくる、ってことくらい、別に具体的な事情を知らなくてもちょっと想像力があればわかりそうなもんだけどなぁ。
id:hisawooo その「お前らはよく調べて論文読んでからじゃないとジャッジしちゃいけないけど俺たちは見た目だけで判断して良い」という奢りはどっからくるの?
あのなー! 俺はキズナアイの服装なんて公共の場に出して全然オッケーな露出度だと思ってるわ! 特設サイトだけじゃなくてNHKの夜のニュースに出てても批判せんわ! ラノベの表紙におっぱいを強調したチャンネーがいて何が悪いって思ってるわ! 社会学全体や文系全般を叩くやつがいたから反論してるだけ!
もうほんとふざけんな。どっち側もクソすぎて付き合ってられねえわ。
「人文学・社会科学の国際化について」(独立行政法人日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会 p.73-75)
https://www.jsps.go.jp/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf
http://sociology.jugem.jp/?eid=277
Laudanの研究伝統論による社会学理論発展法の考察 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_41/_pdf/-char/ja
日本の社会学には「学説研究」と「理論形成(構築、発展含む)」の2つがある。
「学説研究」とは優れた理論を適切に読み、解釈することである。
「社会学」を欧米から輸入した日本では、この「学説研究」が(すくなくとも2000年代まで)社会学の中心となってきた。
一方、「理論形成」は社会の諸問題(経験的問題)を「以前より効率よく解決する」ためのものである。
創造的で想像力が必要な仕事であり、歴史的にはフーコーやハーバーマスのような一部の天才的な英雄によってなされてきた(英雄史観)。
例えば、新しい人間観や社会観の創造・採用、適切な概念を作り出すことがこれに当たる。
日本でも「学説研究」から「理論形成」へと移行すべき時期なのだが、「どうすれば理論を形成できるようになるのか」というハウツーが世界中のどこにも未だ存在しない。
1970年代のアメリカでは理論構築のためのテキストが数冊出版されており、
1.学説の専門家ではなく,統計や数理モデルに詳しい研究者によって書かれており,
といったものであった。
データの収集・分析が重要であるという考えは社会学の「統計学化」として社会学者からは懸念されていた。
これは理論形成はデータから帰納や命題からの演繹によってのみなされるわけではないからである。
(「社会学の理論の役割」を考える際、統計学化された社会学では認識論や存在論、人間観や社会観などの哲学的な問題が脇に追いやられてしまう)
また、理論を発展させるためには「解くべき問題の発見(未解決問題の発見)」が必要である。
「なにが未解決であるか」「すでに言及している・使える学説はないのか」を知るためには、今までの学説の研究(研究伝統の基本的な文献)が結局のとこと必要となる。
まとめると、社会の諸問題(経験的問題)を解くにはデータの収集や分析が重要であるが、手法の問題(概念的問題)の解決への手掛かりは学説の研究の中にある。
凡人であればあるほど、二兎を追うべきなのである。
(まとめここまで)
他
https://twitter.com/kaya_hojo/status/1049257254552125440
私は研究者というよりコラムニストになりたかったんだな。もともと東浩紀と上野千鶴子、大塚英志や宮台真司に憧れて社会学を志したのだから、研究者というよりは表現者への憧憬が強かったんだろうな。でも社会学を学んだ6年間はすごくキラキラしていて充実していたよ。合掌。