はてなキーワード: 権威とは
残念ながら出版することは誰でもできるんだ、金さえあれば。
たとえば適当な査読誌をでっち上げて査読してますと謳って実質無査読の論文を垂れ流すことは同じく金があれば誰でもできますが、そうやって出来上がったものが研究者コミュニティにおいて信用を得られるか、というとまた別の問題。
著者がこれまでアカデミックキャリアを積んでこなかった人だったりしたら、「あっ……(察し)」となって黙殺ルート一直線でしょうね。アカデミックキャリアを持つ人が書いたダメな本だったら、どこかの書評でフルボッコにされた後になかったこと認定かな。学術誌って書評欄ありますよね? あそこ見るといいですよ。雑誌によるけど、権威のある雑誌だったらあれが足りないこれが欠けてる○○語も読めねえのかとか言いたい放題してます。もちろん後発の論文や本の中で批判されまくることもあるでしょうね。当たり前ですけど先行研究の批判はちゃんとやるわけで。
出版社だって、長年良質な学術書を出版してきた、ある分野での定評のある出版社、みたいなやつがあるわけですよ(cf. anond:20180828185404)。日本語圏でも英語圏でもそうです。そういうとこは慣れた編集さんがきちんとチェックするし、まあたまに事故ることはありますが基本的に変なものを学術書であるかのように装って出したりはしないわけで。あと最近は科研費の出版助成とかもあるんで、あんまりにもダメな研究は助成されないし、単著の出版に際して査読を科す出版社さんも出てきてますね。
まー、こういう評価の仕方は数量化しにくいですねえ。権威主義とか職人芸とか言われても仕方ないかもしれない。
ただ、こんな当たり前のことを説明しなければいけないのかと若干徒労感があるのですが、文系にも研究の出来不出来による評価軸というものはあり、また信頼性を重み付けしようというインセンティブも存在するわけですよ。
査読論文なら盲目的に信奉する理系の人なんていないでしょ? それと同じですよ。単著だからって無条件でありがたがったりはしない。だいたい単著ほどのボリュームのものを書く以上はどこかに土台となるような論文(群)が存在し、それは何らかの形で人目にさらされていることが多いわけで(もちろんなんの予兆もなしに単著出しちゃう化物がいないわけじゃないですけど。あとはドイツとか特殊事情がある国もあるので、まあ……)、信頼に値する業績を挙げてきた著者なら「おっ! ついにアイツが単著を出すのか!」「あの研究ようやく本になったのか!」みたいに迎えられるでしょうし、怪しい著者はその段階でお察しな扱いを受けるんじゃないですか。実際に出来上がったものの出来は、それまでの研究の出来からある程度予想つくのはわかっていただけますよね。
もしもこれが日本だけの慣行なら、あるいは社会学だけの話なら、ガラパゴスと非難されても仕方ないかもしれない。けれど実際には、アカデミックな単著を業績にカウントするのは英語圏もロシア語圏も同じです。フランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが、単著や学術的論集の1章は立派な研究業績。私の本棚には英仏独語で出た外国人の著書が並んでますが、どれもそれぞれの国で研究業績として立派に通用しています。私は社会学だけじゃなく歴史学や文化人類学や政治学の学術書も読んだことがありますが、どれもちゃんと研究業績として扱われていますし、内容もまっとうな研究でしたよ(ハズレがないとは言いませんが)。
文系の出版したがりになんの問題もないかというとそれは違って、文系の中でも色々議論はあります。そしてその議論は非「文系」にも開かれているべきでしょう。ただ、そもそも論として、このへんの文系事情をろくに知らない人が自分野のローカルルールを振りかざして口を出してるのはほんとムカつきますね。文系の研究書を1冊でも読んだことがあるのかと。外国語の文系の論文を手に取ったことがあるのかと。文系の論文を読みもせず、英語やその他の言語での学術書を触ったこともない人たちに、文系の慣行をジャッジする資格なんてあるはずがない。
id:yuimoke ふむ。文系の論文の質的担保について。
id:n314 えっと、内容の正しさの保証は、つまりどういうこと?著書、どこかの書評、定評のある出版社、編集さん、出版助成、査読、土台の論文群、過去の業績、これらから総合的に判断するということかな?
自分で読んで判断しましょうよ……理系だって、査読を通ったんだから正しいに違いない! なんて思わず、批判的検討するっしょ? それともそういうプロセスをサボって無批判に論文の内容を受け売りしてたひとたちが文系の慣行にケチつけてるってことなんですか?
文系基準でも出版社の編集によるチェックは査読とは呼ばないです(査読をする出版社もあります。たとえば→https://twitter.com/saisenreiha/status/1049653174045270021)。一度もそのプロセスを査読とは呼んでいないでしょ? 頼むからきちんと読んでください……
id:napsucks でも批判的な観点でチェックされてるかは疑問かな。堂々と立派なところから本出してた旧石器捏造みたいな例だってあるし。
そんなこと言ったら理系の査読だって小保方晴子や黄禹錫やヘンドリック・シェーンを見抜けなかったんだから、たいした意味ないんじゃないの? って話になりませんか。この3人、NatureやScienceに堂々と載ってたんですが。
id:junmk2 金だけで動く会社から出版し専門家からフルボッコにされても、そんな情報に一般人はアクセスしないので、論文があります単著があります権威は十分通用する。「まともな」専門家と形式的には変わらない。
たとえばJournal of Nutritional and Environmental Medicineみたいに?(cf. http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20150220#p1)
id:himakao この出版不況の中、論文の中身まで編集がしっかりチェックする余裕があるようにはとても思えないんだけど、文系研究者の論文本って界隈で質が高いと評価されるとそんなに売れるもんなのか?
売れるわけないでしょ(涙)……とだけ言うのはアレなので補足すると、もちろんこれは本の内容によります。現代思想とか戦国時代とか、一般の読書家にもファンが多いテーマならひょっとしたらワンチャンあるかもしれませんが、マニアックな文化人類学研究とかだったらまあまず売れないです。だから出版助成もらうわけですけど。著者にも金銭的負担が生じることは結構あると思いますよ。
id:Dragoonriders なるほど。徒労感はあろうかと思われるけど、畑が違えば、みんなよく知らないんですよ。
徒労感があるのは、文系の評価基準を知らない人が多いことに対してじゃなくて、文系の中にも研究の出来不出来があり論文や著書の信頼性を重み付けするメカニズムはある……という至極当然のことに思い至らない人が多いことに対してです。査読が重視されないならあらゆる研究がフラットということになりその中で優良な研究を見分ける作業に時間を取られるのだから非効率だ! みたいな論を立ててる人とかね。人間社会なんだから何らかの形で評価のシステムが生まれてくる、ってことくらい、別に具体的な事情を知らなくてもちょっと想像力があればわかりそうなもんだけどなぁ。
id:hisawooo その「お前らはよく調べて論文読んでからじゃないとジャッジしちゃいけないけど俺たちは見た目だけで判断して良い」という奢りはどっからくるの?
あのなー! 俺はキズナアイの服装なんて公共の場に出して全然オッケーな露出度だと思ってるわ! 特設サイトだけじゃなくてNHKの夜のニュースに出てても批判せんわ! ラノベの表紙におっぱいを強調したチャンネーがいて何が悪いって思ってるわ! 社会学全体や文系全般を叩くやつがいたから反論してるだけ!
もうほんとふざけんな。どっち側もクソすぎて付き合ってられねえわ。
「人文学・社会科学の国際化について」(独立行政法人日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会 p.73-75)
https://www.jsps.go.jp/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf
http://sociology.jugem.jp/?eid=277
Laudanの研究伝統論による社会学理論発展法の考察 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_41/_pdf/-char/ja
日本の社会学には「学説研究」と「理論形成(構築、発展含む)」の2つがある。
「学説研究」とは優れた理論を適切に読み、解釈することである。
「社会学」を欧米から輸入した日本では、この「学説研究」が(すくなくとも2000年代まで)社会学の中心となってきた。
一方、「理論形成」は社会の諸問題(経験的問題)を「以前より効率よく解決する」ためのものである。
創造的で想像力が必要な仕事であり、歴史的にはフーコーやハーバーマスのような一部の天才的な英雄によってなされてきた(英雄史観)。
例えば、新しい人間観や社会観の創造・採用、適切な概念を作り出すことがこれに当たる。
日本でも「学説研究」から「理論形成」へと移行すべき時期なのだが、「どうすれば理論を形成できるようになるのか」というハウツーが世界中のどこにも未だ存在しない。
1970年代のアメリカでは理論構築のためのテキストが数冊出版されており、
1.学説の専門家ではなく,統計や数理モデルに詳しい研究者によって書かれており,
といったものであった。
データの収集・分析が重要であるという考えは社会学の「統計学化」として社会学者からは懸念されていた。
これは理論形成はデータから帰納や命題からの演繹によってのみなされるわけではないからである。
(「社会学の理論の役割」を考える際、統計学化された社会学では認識論や存在論、人間観や社会観などの哲学的な問題が脇に追いやられてしまう)
また、理論を発展させるためには「解くべき問題の発見(未解決問題の発見)」が必要である。
「なにが未解決であるか」「すでに言及している・使える学説はないのか」を知るためには、今までの学説の研究(研究伝統の基本的な文献)が結局のとこと必要となる。
まとめると、社会の諸問題(経験的問題)を解くにはデータの収集や分析が重要であるが、手法の問題(概念的問題)の解決への手掛かりは学説の研究の中にある。
凡人であればあるほど、二兎を追うべきなのである。
(まとめここまで)
他
https://twitter.com/kaya_hojo/status/1049257254552125440
私は研究者というよりコラムニストになりたかったんだな。もともと東浩紀と上野千鶴子、大塚英志や宮台真司に憧れて社会学を志したのだから、研究者というよりは表現者への憧憬が強かったんだろうな。でも社会学を学んだ6年間はすごくキラキラしていて充実していたよ。合掌。
論文を読めない素人さんあるいは専門外の人たちに何をベースに信頼を担保するのかという問題なのでは?
日本の学会誌に日本語で論文出したよって言っても、著者は偉い先生の弟子で、審査委員は全員その先生に逆らえない、あるいは論文の内容に関して政府から圧力が入ったって情報あるいは噂話が入ったら、論文の中身を自分で検証できない人は著者を信じることを躊躇しちゃうよね。理系で英語誌でもそういう贔屓の問題は起きないわけじゃない(実際米国でのコネが効くといわれている)けど、国際的に中立そうな権威から認められた論文のほうが大衆からの信用を勝ち得るというのは事実だと思う。
実際内容検証する人たちからすれば、それこそ全部arXivでいいし(分野によっては無名の学者がarXiv投稿しても読む人数が少ないのではという問題はあるが)、一つ一つの論文の重要性まで加味するなら、そもそも論文や発表の「件数」を数えること自体が無意味だよね。で結局は人間同士の信頼の話になるんだけどそれはコネと腐敗の温床であって、文系のアカデミアは今まさにその腐敗を指摘されてるんだと思う。
個人的な印象を言うと言語学なんかは何語でやっても比較的大衆から信頼されると思うよ。良くも悪くも金にならない学問だし。でも政治思想と関わる社会学なんかはどうやって陰謀論が出てくる。御用学者もいれば、マルクス主義の流れだってある。そんな党派性が当たり前にあるなかで自分の大学教員としての学問性を担保できるのは海外査読の英語論文だけなんじゃないだろうか。
あとついでに言うと経済と国際関係は絶対英語でやってくれ。自国経済や外交政策の運営が世界の潮流に裏打ちされてないなんて知ったら国民が不安になるじゃないか。
言語とか文化はいいんだよ。そういったものに国民はある程度の税金投入の必要性を感じてる。でも対立する社会政策や怪しい経済や国際論争に税金が投入されているのではないかと懐疑的になって税金を出すのをやめろという勢力が出てくるのは止められない。「自分たちは正しい」と居座るのでなしに、そういうのに答えていくのも科学者の仕事なのでは。
市民的公共性なる概念で…https://togetter.com/li/1273256?page=3
そのブクマhttp://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1273256
なんというか「市民的公共性って何だよ!」と吹き上がっている人、まず検索しような。中には「そんな義務教育で習わない人の話を」とか切れてる奴もいて吹いた。twitterに何を求めてんのか分からんが、端的に言って地獄絵図。別にこの千田某という教授がどんな人かは知らんけど、大学教授の私的なつぶやきに対して「一言一句中卒に分かるように喋れ」って、何アホなこと抜かしとんねんとしか思わんな。そもそも子供が分かってもない話に無理に口突っ込んで大人に逆ギレしてる図がアンタやろって話。だいたい理性的に話ができている人が一人もいない。だって千田は市民的公共性「で」表現「を」規制する、なんて一言も言ってないやろ? 素直に読む限り、これは「表現規制」よりも「市民的公共性」が「必要だ」という話なわけだが、そういう捉え方をしてる人が一人も見あたらない。まあ、これは、タイトル自体で完全にミスリードしてるまとめの人の力量の問題でもあるだろうが。
別にキズナアイの話でもこの話でも、千田さんの言ってることは別におかしくないよ。まさに「一般には見えない物事の構図(モデル)」を捉えるところに学者の値打ちがあるわけだから「誰もそんなこと思ってない/考えすぎ乙」というのは何の反論にもならない。100万人の批判があっても、それが他の学説よりもより多くのことを説明できるモデルであればそのモデルの学問的価値は揺らがない。こういう事例見ても、まあ文系学問というのはホント尊重されてないなーと思う。気の毒な話だ。
千田の言ってることをごくかみ砕いて言えば、「政府が性器描いたらあかんとか乳首はセーフとか、でもこの雑誌ではアウトとか、そういうことするのおかしいでしょ。それより、自分らで考えて『あんたこないだ描いた画なあ、あれカワイイけどちょっとエロいから子供には見せたくないわ』『何言うてんの、あんなん健康なお色気やん。セーフやん。』『いやいや、これこれこういう理由でイヤな思いをする人もいるんやで』『そうかなあ。でもあれがああいう表現になるんは理由のあることなんやで、つまりな…』『なるほどなあ、そしたらせめてこういう風にしたら、お互いうまくいくんちゃうかなあ』『ふむふむ、それも一理あるな。その方が売れるかもやし版元といっぺん相談してみるわー』」みたいなことでしょ。こないだキズナアイにもの申したのも、そういう「言論」の一貫としてでしょ。政府機関による規制でなく、合理的な言論の交換によってあるべき姿が生み出される公共空間を創出する、ってのはこういうことで、これは「規制」とは真逆な発想なんよ。まあ、コミュニケーション力の低さを自慢げに振りかざす連中の暴れるtwitterや、それを更に恣意的にまとめてあおるtogetterが盛んな状況では、百年経ってもこうなりえないのは目に見えているから、千田の見通しが現実的ではないという点については一応同意するけれども、それが理想だよねという意味では、オレは千田に一抹の同情を感じるね。
(追記)
みなさんご意見ありがとうねー。「言及」でついてるツリーの内容はおおむねTogetterと同様にすとろーまんな内容でこれはまあ想定内だったんだけど、ブクマのコメントがどれも、賛意も批判も「なるほどなあ」とか「せやな」というところが突かれていて、とても読んでいて楽しかったです。ブクマの皆さんとはもう少し長文でやりとりしたいですね。
二点だけコメント
1つめ。メディアに載った学者のコメントを「権力」視するのは違うんじゃないか、と思いました。学者だろうが一般人だろうが、問題はコメントの質だと僕は思います。学者を名乗る愚者(そういう方は、たいていの場合ご自分の専門外について恥ずかしげもなく肩書きつけてコメントしておられるケースが多いですが)のコメントなんて世の中にあふれているし、増田の名もなきコメントが世の中を動かすことだってあるでしょう。むしろ「学者のコメントであればそれは権威だ」という思い込みこそが、メディアに対するリテラシーを欠き、存在しないところに無意味に権力を構築する考え方ではないかと思うのです。
2つめ。PCは「価値観の計画経済」だ、価値観の自由競争(市場)という概念を理解せよ、と独自な概念を推しておられる某氏。よくわからないのですが、千田氏はPCをかざして表現を弾圧する「主体」ですか? あくまである「見方」に基づいて「議論」をしているだけでは。それはあなたのいう「価値観の自由競争」そのものではないでしょうか? 多くの方へのブックマークを拝見しましたが、千田氏のような意見を言論封殺だと「決めつけ」て、自由な言論の交換を拒んでおられるのはあなたの方に見えました。根拠ある合理的な批判を「弾圧だ!」と切って捨てるのは、それ自体が「言論封殺」的で、とてもじゃないけど「価値観の自由な競争」を標榜される方の態度ではないと思いますよ。
親と仲良くとか、友だちと仲良くあたりがあるから普遍的だというが、
万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。
かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。
かようにすることは、ただ朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。
あたりはガン無視するね。教育勅語は素晴らしいんだという連中は。
で、お偉方は「俺は天皇の名代だから、名代の俺に従え」というのをやりたいんよ。陛下はそれに危機を抱いたからボケる前に生前譲渡をする判断をした。
それでも、天皇の権威やらなんやらかんやらで新元号の発表を改正1ヶ月前まで遅らすみたいな「天皇陛下を崇めて直近の部下の俺様たちの指示に従え」みたいなのをやるスキを伺ってる。
お前、どうしても「教育勅語反対 = 軍国主義復活反対」に結び付けたいみたいだな。
そんな事どこにも書いてないのに。
人の話を聞かないって、お父さんお母さんに注意された事ない?
ほれ、「父母ニ孝」だよ。「父母ニ孝」。
それとも、お父さんお母さんもお前と同じく教育勅語大好き派かな?
まあそんな事はどうでもいいとして、
物分かりの悪いお前にもわかるように言うと、俺は教育勅語を復活させた所で軍国主義が復活するなんて思ってないし、
勝てない相手との戦争を回避できなかったのは馬鹿だし、そもそも軍が統帥権干犯を楯に政府の外交を邪魔したのは問題外だとは思ってるが、
帝国主義自体は当時どこの国でも普通だったから非難される謂れはないと思っている。
嫌なのは、責任も取れない卑怯者を現人神として崇め奉った挙句、そんなやつの言葉を陛下の言葉などと権威付けしてバイブル扱いした事だ。
例を上げればキリなどないが、とかくこの世の仕事とは犯罪の片棒を担がされてばかりだ。
自分が犯罪者になることも取引先や上司が犯罪者であることもない平和な職場は何処かにないものか。
社会主義においては権威に媚び諂わぬことは規約違反よりも重い罪となる。
原始共同体社会においては法などというものは慣例の言語化に過ぎず目先の感情論によりいくらでも書き換えられる。
幼い。
我々は幼い。
逃げるも何も同じことの繰り返しは飽きるし面倒なのよ
同じことの繰り返しも何も、お前全部逃げてるから一度も答えてないぞ。
ほぼ一年に渡る身体の拘束に加え、失敗すれば臓器の永続的な損傷すら伴う行為を売買する。これが人身売買でないと言う根拠は?
実際にその国々でも議論になってる訳だが。
権威にすがるだけか?
「既存の法律の上のことは一切変えない」と言うのはお前の建てた勝手な前提で、誰の同意も得てないんだけど?
勝手に前提作るわ話に割り込みかけるわ質問から逃げる癖に相手にはどんどん意味不明な質問投げるわ
行儀悪いというのも烏滸がましい酷さ。
Q3にここで答えてる。
Q3. インドの所得税納税者は1〜1.5%程度である。残念ながら人の売り買いがこっそりあったりする圧倒格差社会である。しかし代理母の代理出産を禁止した。なぜだと思う?
認めてるという事実を指摘してる。
寧ろなぜ「人身売買ではない」と言えるんですかね?
しつこい権威主義者だな。
以後、お前は逃走した。
でもお前みたいなのは結局匿名でイキってるだけで、現実はLGBT容認が世界的な潮流だし、逆らった杉田や新潮45は敗北したじゃん
はい、出ました論理的に考えられない奴の常套手段。力や数、権威に頼る。
それは正しさを少しも証明しない。
社会が認めるかどうかなんてしょせん理屈じゃなくて感覚的なものなんだから、PZNも認められたいならそういう運動をすればいいんじゃない?
論理的でない訴えは通らない。
逆に認められないのは「そういう運動をしてないから。現状はLGBTを叩きたい匿名連中が神輿として持ち出してるだけだから」でファイナルアンサーじゃない?
違います。
クソゲーとかスマホゲーとかそういう話じゃなく(いやクソゲーだけど)
年間作品部門の対象作品のところに「2017年4月1日から2018年3月31日の間に日本国内でリリースされた全作品」って書いてあるじゃないですか。
(http://awards.cesa.or.jp/overview/division/year.html)
いったいどういうことなんですか。
ちなみにゼルダのブレスオブワイルドも2017年3月3日リリースで受賞してるけどこれは言い訳が書いてあるんですよ。
グローバル賞の対象作品(2017年1月1日から2018年12月31日)って。
(http://awards.cesa.or.jp/prize/year/13.html)
横だが
フェミニズム運動理論によれば、ある人物が性的に搾取されている/されていないの基準は、外形的に判断されるようなものではない、らしい。
「搾取されている」と被害者(といってもフェミニストは女性を想定している場合が多いが)が感じたら、それが基準となる。
だからセクハラや暴力を受けた場合だけでなく、アニメ・漫画・ラノベなどで自分と同じ性別(女性)のふしだらなイラストが描かれただけでも、
それが「搾取」だと感じる女性がいれば、それは搾取であり、倫理道徳的に「アウト」な表現だと判定できる。
なお、その増田自身はこの論理を批判的に見ているので、「妄想」と呼んでいる。
大人しく殴られとけよ
ここは、フェミニズム理論が成り立つのなら、逆に女性が好む表現について男性が「搾取だ」と感じた場合でも搾取と認定できるはずだから、
そのルールに従って、その表現も禁止されて当然だよな?という皮肉。
もちろん、フェミニズムを全く支持していない女性も多いだろうが、フェミニストが自分達のことを勝手に女性代表としてあれこれ主張しているので、
それに対抗するために一般女性にも犠牲になっていただくしかないのだ。
異常者が好き放題暴れるのが許容される
「妄想」とも言うべきフェミニズム運動理論が、なぜか正当な権威として社会的に受容されており、
フェミニストの主張のままに様々な作品が放送中止や撤去に追い込まれている。
だから、同じ基準を適用されたら、女性側の表現も禁止になってしまうけど、我慢しろよ?
恨むならフェミニストを恨めよ?
という皮肉だ。
しかし私見では、フェミニストは「権力勾配」「非対称性」という別のロジックを持ち出して女性の好む表現だけは守ろうとすると予想される。