はてなキーワード: ごろごろとは
30手前の女。一人で部屋や駅前に散歩に行ったりして過ごす時間が必要。
さらに、仕事が好きなこともあり、土日は家で仕事をしたりする。
そんなやつに「別に好きなときに会えばいいじゃん」といってくれた人がいた。
つきあっているというのにはとってもふんわりした関係だ。
今は月に数回会うぐらい。ご飯を食べに行ったりする。
で、3カ月ぐらいがたった。
いつも空いているスケジュールを連絡をするのは私からになっている。
考えすぎなのかもだが、
向こうがスケジュールをおもんばかってくれているのか、
はたまた徐々に興味がなくなってきているのか謎。
会いたいなーと思ったときに連絡するのでいいのか、
できれば、一緒にDVDみながらごろごろしつつお酒を飲みたい。
それを連絡するだけだけどとっても勇気がいる。
仕事のときとかはいっつもにこにこして人当たりもよくてベラベラよくしゃべったりおどけたりして、
家に帰るとむっつりだんまりでろくに口も開かないし笑ったりもしない。
俺とか妹とかが小さかったときはまだよかったけど小学校高学年、中学生あたりになったころから完全にそんな感じだったから、父親に対していい感情は持ってなかった。
今も子どもが家を出たから母親と二人で暮らしてるけどやっぱり全然話さないから母親がそのうちどうにかなるんじゃねーかって感じ。
でもたまに母親が上京してきて話すきっかけがあると俺もいつの間にかそれに近いような感じになってた。
すげーぎこちないの。
話すことがないわけじゃないけどなんか話せないっていう、この感覚の延長線上にあの頃の父親もいたのかなと思うと、俺も一方的に父親を責められないなと思った。
俺の場合は気恥ずかしいっていうのと、現状がとても声を大にして話せるようなもんじゃないのと両方。
とりあえず働いて親のカネに頼らず生きてるってだけで、高収入でもないし、彼女もいないし、友達もろくにいないし、休日はひきこもってネットしたりごろごろしてるだけだし、部屋も汚いし。
今年もまた年末が近づいてきて昨日母親から「久しぶりに帰省しないか」と催促のメールがきた。
年末に帰省しても友達がいるわけでもなしやることないから結局パソコンやってるだけってなるんだよね。
一番はめんどいってのと足代が高いってのがあるんだけどね。
俺もいつのまにか親不孝のクソ息子だわ。
Dia好きだったよ!
北米版遊んでたわ。
個人的感想。
いいところ。
装備でグラフィックが変わるの最高!
びみょうなところ。
まず全体的に字がちっちぇえ!w
装備面、今装備してるものとこれから装備するものとのステータス比較が
装備個別画面の方で色が変わらないと見にくい。
ステータスが大杉、短時間で遊ぶゲーム目指すならだいぶ簡略化したほうがいいのでは(あるいは、ステータスこのままで凝る方向に行くか)
可能ならアイテム名の後にアイコン(ハートとか星とか、あるいはRやSなんかの文字でもOK)があったほうがいい。
※いや色分けされてるんで、好みの問題なんだけど。単に色分けだと、アイテム優劣が直感的じゃない気がする。
『生野区連続通り魔事件』の削除について 該記事は特筆性無しとの主張により数度の削除を経て、現在削除(白紙保護)という状態に陥っています。 経緯 ①(初版作成) ②Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130526(削除5、存続4)、管理者Muyo(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ③Wikipedia:削除の復帰依頼/生野区連続通り魔事件(復帰26、削除15)、管理者Freetrashbox(ノート/履歴/ログ)氏により復帰 ④Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130618(削除31、存続26)、管理者Triglav(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ⑤(復帰強行) ⑥Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件20130629(削除8、存続1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時削除、白紙保護 ⑦Wikipedia:削除の復帰依頼#生野区連続通り魔事件 - ノート(復帰1、反対1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下 ②③④ の段階では削除、存続意見が拮抗している状況が伺えます。つまり、特筆性無しでコミュニティでコンセンサスが得られている状況ではありません。しかし、④ の段階で削除が実施され、⑤にて手続きによらず復帰強行、⑥にて即時削除(白紙保護)がなされています。そこで、⑦にてわたしのほうから手続きに則り復帰 依頼をかけましたが、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下されてしまいました。事由としては<同じことを繰り返すな>ということですが、そもそもわたしの理解ではコンセンサスなき削除状態をただす依頼であったため、<同じこと>という認識は誤りだと考えています。 本件につきまして皆様のご意見、果たして特筆性無しというコンセンサスが得られているのかどうか、をお聞かせください。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月29日 (土) 14:54 (UTC) コメント ④の削除は、②の削除で合意不十分として③で復帰した経緯を全く無視したものに見える。よって⑦が提案されたものと考える。しかし、この経緯が理解されなかったらしく、⑦が即時却下されたため、まずここで認識の違いを埋める作業が必要だと考える。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月29日 (土) 16:23 (UTC) コメント この中で一番問題なのは⑤ですね。なので⑥は当然の処置、⑦は却下されて当然です。一方、②から④の判断が適切だったかどうかは削除依頼を隅から隅まで熟読していないので、判断は控えます。--JapaneseA(会話) 2013年6月30日 (日) 01:11 (UTC) コメント ②および④では、「特筆性あり。存続すべき」ということの妥当性を保証できるような情報がついに提示されなかった、ということでしょう。ですから、少なくとも④については、それぞれの経緯を踏まえた上での、問題のない判断だったと言えます。(個人的には、③では「復帰すべき」とするコンセンサスが得られていない状況だったので、復帰が適切だったのか、少々疑問に感じています。結果論ですが、あのまま「復帰せず」でも良かったのではないかと・・・)⑤は行為として最悪なので論外、⑥は当然の処置、⑦は却下されても仕方がないでしょう。⑦は、削除状態を「正す」のではなく「質す・糾す」依頼であったというふうに私の目には映っています。--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 02:26 (UTC) コメント 各依頼について、 ②の時点では存続意見より削除意見のほうが妥当(この時点から資料にニュースでは不十分、以後の経過次第では復帰可能と示唆されています)。 ③については削除依頼で不参加の利用者が多く参加した(何故最初の削除依頼で意見を言わなかった方々がこれほど参加したか原因は予想できますが)ため、意見の合意が出来てないという理由。 ④については意見が十分に出尽くしWP:DP#CLOSEで言うところの『審議がまとまった』(自分は削除意見と存続意見の大勢が出揃ったと解釈しております、意見がまとまったという意味ですと『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあります』と相反するものになるので)ところで、削除意見のほうが理にかなうという判断。 ⑥はGFDL違反が絡む案件。 ⑦は新たな材料が無いため③,④の焼き直しとなることは自明。 現状ではこういう解釈をしており、どの管理者の行為についても問題は無いものと考えます。そもそも特筆性を問題にされている案件なのに二次資料の提示がされないことが現状での特筆性の無さを示していると考えます。よそでも言ったのですが『現状では確認できる資料が新聞レベルでありその域を越える資料が提示されていないため、特筆性(WP:GNG)を担保する二次資料(WP:PSTS)がないためウィキニュースか最近の出来事止まりということです』。 ④において無効撤回も含め賛否コメントの内容を大分すると 削除意見「現状特筆性が無い、特筆性を裏付ける資料が無い、特筆性を担保する資料が出てきてからでも遅くは無い」27「ウィキニュースの範疇,報道量の不足」4「雑報である、単なる嫌韓感情」1 存続意見「犯行理由等が特異,人種にまつわる事件」10「特筆性の理由は不適」1「特筆性はある、資料は十分」11「ネットニュース,削除依頼などで多く関心を持たれている事が特筆性の証紙」3「発展性がある」3「削除に足る要件を満たさない」2「議論不十分」1「事件の大小は問題無く十分百科事典的」1--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) 分量が多いので若干見落としがある可能性などは否めませんが、だいたいこんなところです。加えて一度コメント入れて議論しない方もいますので編集者間の審議の合意は無理です、審議の内容であるコメントや議論に基づき管理者・削除者が削除の提案に合意をすることはあるでしょうが。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) コメント 大勢という文言を使ってらっしゃる方がいますが、基本的にWikipediaは多数決ではないと思っています。ですので、④の時点で「削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています。この間違いを糺そうとしたのが⑦の当方依頼および今次の議論提起です。削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です。多数決ではないんです、コンセンサスが取れているかどうかなんです。何回も書いているんですが、ここの観点でのご意見を伺っているのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:21 (UTC) コメント ヒートアップしすぎです。お茶でも飲みましょう。いま、生野の件の参加者を平等に招集したところでありますから、皆さんの意見を聞きましょう。 もう一点。返信を乱発するのはよくないので、私のコメントの一部を撤回しました。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月30日 (日) 05:30 (UTC) 仰ることはわからないでもないのですが、本議論を提起したことによりこちらWikipedia:投稿ブロック依頼/BlueSkyWhiteSunでわたしにブロック依頼がかけられています。わたしがブロックと決したならば、本議論も自動的にクローズとされてしまうでしょう。あまり時間は残っていません。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:37 (UTC) 『大勢』は『たいせい』であり大体の状況という意味です。すなわち削除意見、存続意見が大方出揃いコメントの傾向が定まったということです。 元々の英語版の『Wikipedia:Deletion policy』にある『Deletion discussion』によると「削除依頼に参加する編集者は削除するか否か見解を出せる」「可否は多数決により決まるわけではない」「参加者は各々が自分の見解について説明し方針を参照する」といった内容であり、利用者の間で合意形成をするのではなく、利用者各自が見解を述べ管理者・削除者に対し合意を得るというのが本義であると考えます。そういった意味ではWikipedia:削除の方針の削除依頼のところは主語が省略されており誤解を招きやすい表現です。 自分は削除依頼は利用者の間で合意形成をするものでは無く、個々人の意見が集まったところで管理者・削除者が判断し閉じるものであると解釈しております。今回の件に関しては存続方の見解が削除方の見解に比べ具体的な証左に欠けていたのではないかと考えます(特に資料が新聞・ニュース止まりで特筆性を押し出すには力不足であったと見ております)。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 08:03 (UTC) すべての合意は利用者間でなされるものと理解しています。管理者等は利用者間の合意に背くことはできないと存じます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 09:47 (UTC) 特筆性という『弱い』制約にしたがって削除するには合意のレベルが低い。合意が取れているのか自体も明瞭でない。--60.34.102.131 2013年6月30日 (日) 07:46 (UTC) コメント 「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています」とおっしゃられている方がいらっしゃるのでコメントします。そもそも、④の時点で「削除票が存続票より5票多いから削除しました」などという低レベルな判断・処置が行なわれたのではなく、削除票、存続票の中身をよく吟味し、検討して、総合的な判断の結果として、④で対処なさった管理者の方は「それぞれの投票時のコメント内容を見る限り、削除が妥当」と判断なさった、ということです。ですから、「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当』という解釈」があったかどうかということは問題になりませんし、④の時点での管理者の方の判断には「糾す・糺す」必要のあるような間違いもありません。「削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です」とのご意見については、結局のところ、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんから見た場合に、意地悪な言い方をすれば「全有効投票数における削除票の占める割合がある一定量以上でないと『削除』という判断を下せない」ということになってしまいます。そもそも、「削除票が相当な大勢を占めねばならない」とする根拠が不明です。ウィキペディアでは票の数でコミュニティのコンセンサスが得られたかどうかが決まるわけではありません。投票の際に、どのような理由を述べるか、が重要なのです。ぶっちゃけた話、仮定の話として「方針文書・ガイドライン文書と照合した上で、具体的に理由を述べた削除票5票」と「個人的・主観的な理由を述べているだけの、適当な理由付けの存続票5票」があったとした場合、表面的には「票が同数」ですが、これは「存続」以外では判断できないということなのでしょうか。そういう事ではないと思うのですが・・・。「多数決ではないんです、コミュニティのコンセンサスが得られているかどうかなんです」との仰せですが、一連のコメントを拝見する限り、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めねばならない。大勢を占めていなければ「削除が妥当」とするコンセンサスが得られたことにならない」という意見は、削除票を不当に軽く扱うものであると思います。その理屈ですと、「票の中身を検討する必要性」が度外視されているように感じますし、何よりもまず、「削除票と存続票の扱いや重さに極端な差をつけている」ように感じますが、ウィキペディアにおける「票」の重みは、「投票時のコメントの中身」によって決まるのであって、「削除票だから軽い」「存続票だから重い」というわけではありません。削除票が相当な大勢を占めていたわけではないことをもってコミュニティのコンセンサスが得られていないとするのはかなり無理があるのではないでしょうか。投票時のコメントの中身や説得力次第では、表面上の票数とは関係なしに、票数が少ない側(④のケースだと、「削除」側)の主張が通るケースもあるでしょう。しかし、④のケースでは残念ながらそうではなかった、ということでしょう。長文失礼いたしました。(結局のところ、「④の判断は誰が何と言おうと間違っていた。④の削除処置を糺し、正すために、記事を復帰すべきだ」ということなのでしょうか)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 08:18 (UTC) コメント そういうあなた自身が存続票の存在を不当に軽くみているとしか思えません。中身中身と仰いますが、一体どこで削除票には中身があり、存続票には中身がないということがあきらかになったのでしょうか。存続票に中身がないといっているのはあなた個人であってコミュニティはそのような判断はくだしていません。くだしていない以上、双方の見解票は同等の重みをもって扱われるべきでしょう。なお、「正す」「糺す」論については本論とは無関係なため割愛させていただきます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) 返信 (BlueSkyWhiteSunさん宛) 票の「中身」は管理者の方が判断材料としてよく読むわけです。そして、その結果として、記事は削除になったり存続になったりする、ということです。私は「存続票に中身がない」とは一言も申し上げておりません。強いて言うならば、存続票が削除審議に与えた影響力の結果は、管理者の方々のご判断(処置)に現れているのではないでしょうか。なお、「(存続票の中身についての判断をコミュニティが下していない以上)双方の見解は同等の重みを持って扱われるべき」とおっしゃられていますが、そうであれば「(削除票の中身についてもコミュニティが判断を下していない以上)存続票と削除票は同等の重みをもって扱われるべき」ということです。ということは、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という意見は説得力を失います。なぜなら、票の重みについていかなる予断もないはずの状況で、最初から「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」(語釈に忠実に言うならば「削除票は議論において相当な力を持つ中心勢力・メインストリームとならねばならない」となるでしょうか)とすることは妥当性がないからです。「相当な大勢を占めない限り、『削除票』を投じても記事は削除にならない」ということであれば、存続票に比して、削除票がクリアすべきハードルが高い(「相当な大勢」を占めねば考慮されない)という状況を招きます。しかしながら、「双方の見解は同等の重みをもって扱われるべき」であるおっしゃれたということは、「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という見解は撤回又は否定されたものと考えられます。なぜなら、「削除票の側だけ、クリアすべきハードルが高い」ということはなくなるからです。(翻って、存続票について考えた場合、存続票も「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」とお考えなのであれば、まだ話はわかりますが、一連のコメントを拝見する限りはそのようなお考えは読み取れませんでした)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 11:06 (UTC) あー、ごめんなさい。同等に扱われなければいけないのは「双方の見解」ではなく、「双方の票」ですね。これはわたしの2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC)のコメントを読んでもらえればわかると思います。それと作成された記事はWikipediaでは存続が基本です(誰でも勝手に記事作成はできますが、誰でも勝手に記事削除はできませんよね)。記事に対して削除すべきというのであればそれ相応の根拠がなければいけない。その根拠をまとめたのが削除の方針です。削除の方針を適用するためには根拠を述べて審議を通さなければいけないのです。なかでも削除方針ケースE(特筆性)は立証が難しい、というかほぼ不可能。であるならば、コミュニティの大勢を以って判断するしかないわけです。それが最前から繰り返しているコミュニティのコンセンサスです。もし、コミュニティの大勢が一致していない場合、つまりはコンセンサスがない場合、ケースEについては削除主張者は根拠立証不可であり、作成された記事は基本存続の原則に立ち戻るわけです。つまり、「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」ということはないのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 11:36 (UTC) コメント 私はもう、この事件に関連する議論はもう疲れたのであまり参加したくないのですが、会話ページにお知らせがありましたので、お知らせがあったら必ずコメントする義務はないのですが、一応コメント残しておきます。あと機種依存文字である丸囲み数字は代替できる時には使用を控えるべきかと思いますが・・・。 まず私からすれば、②の削除措置は私個人としては問題のない事だと思っていましたが、まぁ仮に合意が取れていなかったとしましょう。そのための③があり、現に復帰しました。私からすれば、復帰する合意も取れていないので、削除の合意が得られていないとする意見に対して復帰の合意が得られていない意見が出なかったの不思議なのですが、復帰依頼で十分な人数と期間を持って議論をすべきという意味合いがあったのかもしれません。では、その間で特筆性を有する資料をどなたか提示したでしょうか?私は無かったと考えています。特筆性が「ない」の証明は複数の状況から総合的に判断するしかないですが、特筆性が「ある」と証明するのは、たった1つの資料を提示すれば済むことです。それを悪魔の証明というかヘンペルのカラスというかは分かりませんが、そういうことです。 なお、⑤に関しては論外です。仮に前の復帰依頼で削除の合意が得られていなかったとしても、それは復帰の合意が得られている事と同義ではありません。議論を無視した復帰は方針に反します。したがって⑥の削除は全く問題ありません。 そして⑦についても問題ありません。というか、この議論もほぼ同義かと思います。④の削除でも言われていますが、記事の復帰にはこれまでに挙げられたもの以外の、全員とは言わずとも10人中8人くらいが「この事件には特筆性がある」と言える資料を提示すべきです。私はこの議論に対して最初から削除派を貫いていますが、そのような資料が提示されれば考えを変えますし、提示されても尚考えを変える気がないと判断するのでしたらいつまでも納得しない人としてコメント依頼を提出するなどの事は構いません。ですが現状では、はっきり言ってしまえばそういう現状を変えるような客観的な根拠を提示せずに復帰に固執する方が納得しない人に該当するのではないでしょうか?そして、各議論で「削除票と存続票は拮抗している」という意見が散見されますが、多数決主義ではないという方針は何度も述べられていますが、仮に票数を数えるとして、存続票のどの程度が中身の濃い、具体的な意見を述べていたでしょうか?依然出た意見とかぶるものもありますが、存続票が多いのに削除を断ずるのは不当だという意見は、中身の濃さを見ずに存続票と削除票のそれぞれの重さをないがしろにする意見かと思います。 --Kiruria281(会話) 2013年6月30日 (日) 08:33 (UTC) コメント 票の中身論については上にコメントしましたので割愛します。特筆性においての削除(削除ケースE)やその他の削除ケースは、削除要件によって削除を行うものです。そして、そのケースに該当しない場合、多くの記事同様、存続が適用されるわけです。削除を訴える側は自らの主張にともない、削除要件を立証する必要があると理解します。立証が不可能であれば削除を申請することは不可能です。ケースEについてはもっとも立証が難しいものでしょうが、コミュニティとして記事の特筆性がないという判断がくだれば、立証に代えることも可能でしょう。コミュニティとしての特筆性がないという判断、すなわち、コミュニティのコンセンサスが得られるかどうかが、ケースEの適用是非を決定するということになると考えます。しかるに本件の数次にわたる投票がなされている現況を顧みれば、コミュニティのコンセンサスが得られていないのはあきらかです。それを問うているのが本議論です。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 私は②には参加してませんが、読み返すと④の時以上に、②の存続票が酷過ぎるなと感じました。5対4と言ってもスピード違反の論理な意見が二つにそれと同調する意見だけでは、他の削除票と同価値と呼べるものではないでしょう。②の時点で削除で決着ついたと言わざる得ないでしょう。その後状況の変化があったわけでも、加筆されたわけでもない④の削除が正当か不当かなんて論じるまでも有りません。⑤⑦に至っては問題外でしょう。加筆さえされて充分量の内容になったのであれば、復帰に協力でもしますが、現時点ではあり得ない話です。--あな34(須魔寺横行)(会話) 2013年6月30日 (日) 09:25 (UTC) コメント 票の中身論については上に述べましたので割愛します。充分量の内容というのはどの程度の量か、具体的にご提示いただけますか。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 論点を整理します。ケースE(特筆性)による削除は立証は難しい(これは削除側にとっても存続側にとっても同様)、したがってコミュニティのコンセンサスを以ってその有無を判断せざるを得ない。本件については長期にわたってその特筆性の有無が審議されており、直近の正常審議の行われた④の投票においてもコミュニティとしてのコンセンサスが得られている状況ではない。票の中身云々については立場によってお互いが相手の票の中身を判断して良いものではなく、基本的にその票の重さはいずれのものであっても同等に扱うべきである。なお、わたし自身の特筆性を有りとする論拠は日本では稀有(初?)なヘイトクライムであること、外部のニュース媒体からWikipedia編集に関して報道があった、こちらも稀有(初?)なケースであることです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC) コメント 二度同じことを言うのもなんですが、削除の方針について日本語版のベースとなっている英語版では利用者各自が方針に則り削除すべきか存続すべきか意見しその審議内容から削除者・管理者が判断するようです。日本語版でもWP:DP#CLOSEに『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあり
この増田見てて、この前の夏休みに大学研究室で体験科学教室のTAをやったときのことを思い出した。
毎年大学が主催して高校生に研究室の体験?というかちょっとおもしろい内容だけかじるみたいなことをしてもらう。
んで、今年は相当応募が多かったらしく、定員を拡張するほどだった。日本の理科離れ、とかいうけどそうでもないなーと思ったんだ。
ところが実際に高校生たちが来てみると、なんか楽しそうじゃない。
ぼんやりした顔で、「早く帰りたい」みたいな雰囲気を醸し出している。なんかもう最初から疲れ切っちゃってるみたいな。
こっちが話しかけるとにっこりはして話してくれる。でも話が終わると心ここにあらずに戻る。
教授が話している内容はたしかに眠くなるものではあったとは思うが、その後の手を動かす実習中まで居眠りしている子もいた。
中にはすごい科学オタクみたいな子も一人いたけど(大学レベルの知識を持っていてすげーと思った)、それ以外はあまり乗り気じゃないみたいだった。
うちの研究室は専攻の中ではかなり地味な部類で人気が無いというのもわかる。しかし去年まではそこまでつまらなそうではなかったと思うのだ。それなりに楽しそうに受けていってくれた。
ふと、彼らがどういう経緯でこの科学教室に応募したのか気になって聞いてみた。
そしたら聞いた子はみんな「親がこういう体験授業のリスト作ってて…」「親がどれか行けっていろいろ探してきてたんで…」と、自主的に来た感じが全くない。
それじゃあ楽しくもないよなあと。貴重な夏休みの時間を、興味も無い謎の研究室で過ごさなければならないのだ。本当なら友達と遊んだり、家でごろごろしたり、部活したりしたいのに。
これって本当に理科離れ解消と言えるのだろうか、子供たちに科学に興味を持つことを強制しているだけじゃないのかと少し不安になる出来事だった。
いや、件の増田が子供に強制しているとは全く書いていないのでわからないが、子供の気持ちが一つも描かれていないことに同じ不安を感じる。親の独りよがりではないか?と。
受験はしたくなかったから内部進学して、低偏差値の中高一貫校に入って、そこでは6年間主席だった。
すごく偏差値が高いところをめざした。
一浪したけど、第一志望には受からなくって、文転して、難関大学?の文系学部に入った。
最近になって、それも受かりそうにないなあとやっと思ってきた。
でもひくにひけないし。
なりたい気持ちはあるし。すごくある。
でも、もっと徹底的に勉強ができなかったら(成績が悪かったら)、勘違いしてこんな道をすすまずに、身の丈にあった道をすすんで、幸せになれてたのかなあと思って、かなしくなる。
もちろん身の丈にあった道だって、いろいろ辛かったりするんだろうとは思うけど。
もしかしたら、今以上に辛いかもしれないけど。幸せじゃないかもしれないけど。
書き出してみたらありがちで、そこらへんにごろごろある悩みすぎて、少しすっきりした。
高学歴低学歴の溝が話題に上るようになったのはネットの普及によってそういう違う世界の人が頻繁にふれあうようになったからなんだろうな(今更)。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた この増田でもリアルの彼氏ではあるけれど、きっかけはtwitterだ。
インターネットってすげー。良くも悪くも。
一族の中に大学に行った者は自分以外には一人しかいない。それもFラン大学で中退してしまった。
父母も高卒。母はまあ、頭はそこまで悪くなかったのかもしれない。父は分数の計算が難しいといっていた。(一応言っておくけど勉強できなくても両親もそれぞれすごいところはあるよ。)
地元もまともに大学行く方が珍しい地域。行ってもいわゆるFラン大学がほとんど。
んで、自分自身は素性を無視して学歴だけ見ればいわゆる「高学歴」で、高学歴側の人間にまみれている。
すると結構びっくりするね。うちの一族が大卒ほぼいないのに対して、一族ほぼすべて学者とか、一等地の大きな旧家とかごろごろいる。
あと大きな会社の株券を持っていて、長いこと運用しているというのも低学歴社会的にはすごい。
もちろん自分みたいに一族の異端もたまにいるんだけど、割合的には良い家の方が多いね。
やっぱり生まれが違うってあるんだろうなあって思ってしまうよ。
ま、そんなこと気にしないのが賢いんだろうけどね。ちょっとコンプレックスだね。家族や親戚の中でも話が通じそうでうらやましい。血統書付きと野良みたいな勝手なイメージを持っている。
ただ高学歴側の人もつらいだろうと思う。たとえばもし高学歴一族の中で自分だけ低学歴だったら?とか想像するとかなりつらいだろうと思う。自分みたいな一族郎党阿呆ばかりな中なら国立大学行くだけで天才扱いだから自尊心の見たされ方は同じレベルでもかなり違いそうだ。
さて、創作(メインはライト系のノベル、たまに作曲)活動を趣味としているわたしですが、
人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと
『時間をあっという間に吸い尽くす』というのを悪いほうにとらえがち。
そりゃあ、家庭崩壊とか、仕事に支障をきたすとか、睡眠時間が~~!! ってなったら問題ですよ。
でも、生きててさあ、趣味に費やす時間がさあ、余ったとしてどうすんの?
ネットゲームは時間喰うから封印しよう! 普通のゲームしよう! やった! 毎日5時間ゲームしてた当時と比べたら、ゲームは一日一時間って決めたから4時間も余った~!!
で?
余った四時間をどうするのさ?
好きにすりゃいいさ。
だけどね、
こちとら、人生に疲れて、一切の趣味を失い、うつで職も失い、無趣味な期間、それも、人生的な喜びも何にも感じられない人生を数年送ってきたのですよ。
現状まで回復するのに沢山時間がかかりました。数年レベル。悪化しない早めの段階で治療に入ったのにね。
その復帰プロセスなんだけど、テレビが楽しめるようになった。プロ野球の勝敗とか気になるようになった。
ゲームができるようになった。おでかけできるようになった。人と関われるようになった。なんとか普通に寝起きできるようになった。
でもいまいち何か物足りない。
やる気が起きない。うつの症状そのまま。
気分が沈む。
最近ようやく、ジョギングしたり、ギターをつまびいたり、創作できるようになってきた。
前向きに考えられるようになったから趣味が楽しめるようになったのか、
趣味に時間を使いだしたから意欲がでてきたのか、それは知らない。
だけど、生きていく上で、絶対に必要なのが余暇の充実した過ごし方だと思う。
人付き合いって波がありますよ。リア充続けるのだって大変だ。ストレスもたまる。
その逃避先が趣味でしょ?
何? 時間が惜しい?
資格? 金?
死ぬ間際に考えてみたらいい。
家族や友人、ひいては知人は大事にしなさいよ。それは飲み屋の親父の小言みたいだけど口を酸っぱくして言う。
だけどね、趣味に時間を掛けられない人って可哀そうだと思う。自分がそうだったから。
アニメをみたり漫画を読んだり……気楽だけどね、消費するだけの趣味って結局何も得ていないんだから、スキルレベルがアップしてないんだから。
体鍛えたり、何かを作り出したり……、よっぽどそういう方が趣味として健全だとおもふ。
たとえ、ネット上にゴミ屑を散らかしてたり、チラシの裏にでも描いとけというような駄作でもね。
情熱を叩き込めなくなったら人間おしまいよ。生きる意味がないよ。
そういう意味では、資格とったり、お金稼いだりってのも趣味の一環なんじゃない?
余暇をわざわざ潰してるんだから。そういう人には非難はしないよ。好きでやってんだからいいじゃん。
好きなら、アニメ見続けてもいいさ。
よく「フリーター/ニート」って括られてるのを見るんだけど納得がいかない
普通に考えて、フリーターは働いていて、ニートは働いてないよね?
なんで働いてるやつが、働いてないやつと同列に語られてんの?
色々な雇用形態があると思うんだけど、正規雇用と非正規雇用に大きくわけられるなら
正社員、契約社員、派遣社員、アルバイト、パートは正社員以外は非正規雇用にあたるよね
そしてフリーターが働いていないニートと同じなら、正社員以外はニートってことなの?
稼ぐ金だってそのへんの正社員より稼いでるフリーターなんてごまんといるだろうに
最近、私のまわりの会社は求人難だと言う。まともなスキルをもっている人は給料の高い劇団に転職してしまうので、もはや求人市場にはカスしか残っていないとその経営者たちは言う。
毎日、毎日、何十人も面接するが、とんでもないレベルの奴らが大挙して押し寄せてくる。ボイストレーニング歴2年とか3年ぐらいの奴ら。純粋に演劇の勉強に費やした時間数で言うと500時間とか1000時間とかその程度の。ピアノで言ったらバイエルすら終わってないレベル。そんな奴らがほとんどだと彼らは言う。
ピアノのリサイタルで金取って演奏するのに、バイエルレベルの奴が来たらブーイングの嵐で金返せーって誰でも思うだろう。しかし、アニメ業界に至っては最近は開発環境が整っているので生産性が高く、そのレベルの人たちでも出来る仕事がなくもない。だからそんな無茶苦茶がまかり通っているのだ。
私は先日、***という賞金つきのオーディションの参加者が少なすぎることについて書いたが*1、賞金総額100万円 + 本戦参加者への交通費全額支給なのに、それにしても参加者が少なすぎる。世のなかの声優たちは一体どこへ行ってしまったのか。
思えば、30年ぐらい前は、アニメ雑誌は数少なく、(このへん改変めんどさかった、省略)
いまにして思えば当時のアニメは非力で、同人シーンなども非常に貧弱だったため、その市場環境でまともな演技をするには相当の能力が必要であった。千人に一人、一万人に一人ぐらいの逸材ばかりであった。当時の声優人口からしてみれば、彼らがのちの日本を代表する声優のすべて(全員)だったと言っても過言ではなかった。
当時のxx社長だったxxさんは「(以降、コンテストを開催していない件について)もう才能ある人はだいたい知っちゃってるから、あとは直接仕事頼めばいいや」*2との考えだったようだ。
そこから現代まではずいぶん長い時間があるのでここには書ききれないが、ともかくそういう求人を兼ねたオーディションというのはなかなかビジネスとしては成立しにくかった。プログラマの誰もが目にするようなメディアは存在しなくなったからというのもあるし、「求む!天才声優」の時代は終焉を告げていたというのもある。
いまや普通の企業にとって欲しい人材は千人に一人、一万人に一人というぐらいの希少性の高い人材ではなく、十人に一人か百人に一人ぐらいの、そんじょそこらにごろごろ居るようなレベルで十分だから、その求人のために高い費用を賞金に費やすのは割に合わない。
しかしそのパワーバランスが崩れはじめたのが深夜アニメがブームになりだしたころからで、優秀な声優がこぞって
あんまり歴史とかに通暁しないまま構造が似通ってるなと思っただけで碌に調べもしないで改変してたけど力尽きた。どこの縦割り部門でも似たような雇用ミスマッチがあるように感じる。よかったら詳しい人続きやっといてください。
最近、前からずっとあるのかもしれないが、ビギナープログラマへ向けた教訓めいたエントリなどを
よく見かける。
やれフレームワークから始めるなだとか、なんとかかんとかというものだ。
同時に、これは昔から変わらないが、プログラムを勉強したいけどどうしたら良いのかというような
質問などもよく見かける。
こういった数多のやり取りを見ていて、自身もプログラマとしての一面をもつ限りは
頑張っての一声もかけてやりたいと思うし、辛辣な内容のエントリに頷くこともあれば苦い顔をすることもある。
自分がプログラムの勉強を始めた当時は、プログラマを目指す者にとってはイバラの道だったと思う。
はいはい、懐古厨おつと言われてしまいそうだが、実際そうだったのだ。
まずなんたって、パソコンを手に入れるのが容易でない。
当時PC-9821全盛期であったが、1台40万くらいはした。
容量1.2MBしかないフロッピーにしこしこデータを保存していた。
そしてパソコンを手に入れたとしても、情報を調べる手段というのが確立されていない。
今でこそ、ブラウザを開いてGoogleで検索すれば、どんな情報だって手に入る。
ブロードバンドという言葉がまだなかった頃は、そうではなかった。
インターネットへ接続するのも、お金持ちの家はISDNだが、自分の家はモデムでピーがが~とつないでいた。
そのため、当時はWebサイトのページ容量は画像も含めて数キロバイト以内に収めましょうという
慣習があったように思う。
NTTのテレホーダイというサービスがあり、夜11時から朝の7時までは
特定の番号にかけ続けても一定料金でかけられるサービスがあり、みなそれを
利用していた。自然とパソコンを利用する人々の活動タイミングは夜間となった。
当時はまだGoogleがなかった。
なにより検索で情報にたどり着くということはほとんど概念としてなかったんじゃないかと思う。
Yahoo!が用意したカテゴリを元に、登録されたWebサイトへアクセスし、
サイトからのリンクで新しいサイトを発見するという、本当のインターネットサーフィンを
IntetnetExplorerはまだバージョン3くらいで、脆弱性がありまくり、危険なサイトへ
一番陰気な雰囲気を持っていたんじゃないでしょうか。
NetscapeNavigator(今のFirefoxの前身)が人気を博していた時代の話である。
さて、情報にアクセスできたとして、次に問題になるのは開発環境の話である。
昔の昔、基本ソフトがBASICだった時代は、パソコンを起ち上げるとBASIC言語を使って
プログラミングが出来たが、Windows95はそうではなかった。
開発環境、そしてコンパイラをまず準備できないと、そもそもプログラムの勉強が難しかった。
当時からMicrosoftの統合開発環境として、VisualStudioが存在したが、よほどの金持ちでないと
買えない値段がした。
そこで、LSI-C試食版であるとか、Borlandの無料開発環境であるとか、N-88互換BASICなどの
無料開発環境を探しだして、しこしことコマンドライン上で動く基本動作だけを勉強したものなのだ。
自マシン上に、Apache+PHP+MySQLをインストールする、なんて手法は夢のまた夢だった。
Webプログラムを勉強するには、自分でLinuxサーバーを起ち上げるか、CGIが利用できる
CGIで利用できる言語も、CかPerlかくらいしかなかった。
JavaScriptもまだまだ発展途上で、今のようにあれこれと使えるようになるのは
まだまだ数年先の話だった。
それが今やどうだろう。
パソコンも一家に1台あるだろう。それどころか職場の自分の机の上にも1台あるだろうし、
学校にいってもいくらでも使えるだろう。
開発環境なんて、よりどりみどり。メモ帳ソフトがあれば、もう勉強を始めることができる。
Windows上で動くアプリだって、VisualStudioが無料で手に入る。
それで敷居が高ければ、Excelを使ってもいい。VBAを使えば、Windowsアプリの勉強もできるだろう。
これだけ情報も溢れ、環境もどれを選ぶか難しいほどの状態になってしまっているのだ。
もはや、プログラムを勉強するには、必要以上のものが用意されている環境にあるといっても過言ではない。
がんばってください。
年収350万、手取り250万、大卒27歳男、独身、東京住み(会社寮じゃなくて一人暮らし)。
なんとか勤続5年目の本年度中までに1000万いけそうだ!
昨今のアベノミクスで実質的にちょっと目減りしたようにも感じるけど、長い目でみればコツコツ貯めとくに越したことはないと思って、株とかにちょっと手を出したくなったりもしたけど我慢してる。
貯まった理由。
休日は引きこもってごろごろ+ネット、平日も食費は最低限、たまーーーーーーーーーに贅沢するくらいで、引っ越してからスーパーも近くにない+帰宅途中にないから半額弁当とかお菓子とか買ったりもまったくなくなったことだと思う。
お菓子って、安かったりあれば食べるけど、なければないでどうにかなるもんだということにようやく気づいた。
家賃6万
水光熱費0.6万
医療保険0.2万
食費1.5万
雑費1万
早くセミリタイアしたいけど、このペースだとセミリタイアするに足るカネたまる=定年退職とかになりそうだわ。。。
でも今の会社が若い人間使い捨ての会社で、年取ったらほぼ確実に転職する必要があって、その転職期間中に目減りすることもほぼ確定してるから今から憂鬱。
まあ一人だったらなんとかなるかなーと楽観してる。
生きていくだけなら。
でもそれって生きてて楽しいの? 生きてる意味あんの? と考えると怖くなるので考えないようにしている。
とりあえずカネさえあれば。
最近のファンタジーは現世からの転生や召喚モノが多い気がする。
90年代の多くの作品は
2000年台以降の多くの作品は
異世界の中だけで物語が進行していくというものが少数派になったといってよい。
更に最近では日常ものといわれるストーリーに山も谷もないモノが
持て囃されているが想像力の欠如に繋がらないか不安に感じるほどである。
追記
異世界だけで繰り広げられる作品が減ったよなという点です。
追記2
ラノベにおける現代人のいないファンタジー作品の受けの悪さは異常 - アニメ見ながらごろごろしたい
http://d.hatena.ne.jp/taida5656/20130330/1364572827
検索したら他の人も書いてた。
追記3
マーケティングの関係や導入部での世界観の引っ掛かりを無くす為のナビゲータ役、
主人公に共感・感情移入しやすくする為、あとはアニメ化した時に一期で世界観が理解出来る、尺の関係、
アニメ化のしやすさの問題(テンプレ化で共通認識があれば導入部を省ける)
があるように思える。
(5分アニメや二時間映画が成り立つのも多くはテンプレや共通認識が出来上がってるからではないか)
追記4
その世界だけで完結した物語が多く生まれたという意見がありました。
多分その通りだと思いますが2000年代に学園物が流行ったのは
ToHeartやラブひな→恋愛物からの萌えへの転化と繁栄によって
ファンタジーの層が薄くなった結果、世界完結型の作品も少なくなったと見るべきか。
追記5
【小説家になろう】誰でも主人公になれる制度。なぜ異世界召喚や転生ものが流行るのか? | サブカル・カムカム
ラノベは、日常ものばかりで、ハレコメばかりで、転生召喚ものばかりなのか - REVの日記 @はてな
http://d.hatena.ne.jp/REV/20130704/p1
スコッパー速報 小説家になろう:転生とか召喚モノでなくおもしろい異世界ファンタジーってない?
http://scoopersokuhou.blog.fc2.com/blog-entry-455.html
義祖母88才。棺桶に片足つっこみつつ全く死ぬ気配はない。
何をするにもめんどくさい、みっともない、一人は気楽といってごろごろ寝てテレビを見ては昼寝。
夜になると昼間寝すぎて眠れないので「あたしは毎日眠れない」自慢をする。
長生きをすることは、たとえ健康であろうとも孤独で不幸なことだと彼女をみていると感じる。
そして、そんな老婆を端から見ていて思うのは年老いた人ほど恋をすべきだということだ。
貯めこんだお金もドンドン使ってしまえ。好きな人と会うために、会話をして頭を使え。
30年も40年も前の服ではなく新しい服を買え。
人の目なんて気にせず、どんどん恋愛すればいいんだ老人は。
どうせテレビをみている世代なんて中高年なんだから、いっそのこと電通と国が一緒になって老人恋愛キャンペーンをテレビで大々的に始めればいい。
月9の主人公は毎回70代で。CMは全部テレビショッピングにすればいい。PM9時まで起きてられないならPM6時に老人ドラマを放映すればいい。
お店の継続性(http://anond.hatelabo.jp/20130608135515)を見て思ったこと。
的外れかもしれないが、以前から気になっていることがある。こちらは田舎住み。
蕎麦が好きなのだが、最近近所には「脱サラして飲食店をやりたいんだ!」的な感じで開店したプチ本格風な手打ち蕎麦屋が増えた。「プチ本格風」という変な表現をするのは、なんかいかにもコンサルか何かに吹き込まれみたいに妙に店構えの似た、十割手打ちとかをうたい文句に幟をあげて、確かに本格的な店っぽく見えるし、一応いい材料を使っているようで味もまあまあなのだけれど、老舗の本格店とはいくつかの点で異なるから。
そして、その「異なる点」というのが、「お店の継続性」という観点で、非常に問題なのではないかと思っているからだ。
そういう店には、大体以下のような特徴がある。
・そこそこ余裕のあった(蕎麦とか好きな)会社員が、「残りの人生を好きに過ごす」ために、脱サラして始めたようだ。
・店構えやメニュー内容など、いちいち「こだわり」があるようで、それを全面的にうたったり雑誌記事の切り抜きを嬉しそうに貼ってたりする。
・店主はたいてい50代後半で、いまのところは元気。店員はたいてい身内で、バイトはほぼ使わない。蕎麦打ち、茹で等すべて店主一人でやる。
・客筋も、ゆくゆくは似たようなことをしたいと思っていそうな連中が多い。
・いかにも高そうな、そしていかにも買わされたぽい年期の入ってない一枚板のテーブル・カウンター。
・やたら三立て(挽き立て・打ち立て・湯がき立て)とか、半可通の用語を強調する。当たり前のことに過ぎないのに得意げに強調する。
・高い。確かに、まっとうな蕎麦はそれほど安く提供できないことは分かっているが、同ランクの老舗と比較しても2~3割高い印象。
・蕎麦湯を「ゆで汁」でなく、わざわざそば粉をお湯で溶いたもので出してくる。量が少ない。
・基本的に駅などから遠く、車でないと来にくい場所にある。その割には駐車場がそれほど大きくない。
・3~4年くらいで経営方針が変化する。なんか利用しにくい感じになる。気がつくと潰れている。
地元民として、蕎麦屋のレベルを上げてくれるのは歓迎だが、同時にこういう店は「後進の育成」という、店の継続性において重要な費用を切り捨てることで、価格ダンピングをしているという側面があるのではないか。いかにも年配の主人、あるいは奥さんが体ナリを壊したり調子を崩しただけで、経営が立ち行かなくなって、店を畳むことになる。後を継いでくれそうな職人さんやら弟子やらはいない。
要するに、そもそも「自分らの趣味」と割り切って店をやっていて、たとえば自分たちの店が地域の食文化なりの一端を担っているという発想がない。店を開くのも勝手だし畳むのも勝手だと思っているのだろう。しかし、こういう店が「ダンピング」によって売り上げを出す陰には、「継続性」を考慮してきちんと商売をしている地元の老舗の被害があるという可能性を忘れるべきではないのではないか。
わずか10年やそこらだけ繁栄すればいいや、あとはそこがどうなっても知らね、というやり方で店を運営するのは、とても不道徳なことなのではないだろうか。そういうことを考えると、最近その手の店で蕎麦を食う度、微妙な気分になる自分が居る。
(追記)
「高いのにダンピングとはこれいかに」というブクマコメントを見て、少し反省して追記。
いや、つまりさ。普通の老舗は、その辺上手に手を抜いて、ぶっちゃけ「少し悪いものをうまく調理して」出してるのね。言わせんなよ。
それは、普通に経営していこうと思うと、仕方ないことで、それはそうなんだよ。しっかりツユ作って、粉もいいのつかって、それなりの職人が打って茹でて、そこそこ便利なところにそれなりに広い店だして…そんなの1,000円そこそこで客に出して引き合うわけないでしょ。かといって、さすがに蕎麦一食に数千円出せる人がごろごろいるわけでもないと思うんだよ。
ところが、そういう「プチ本格」の脱サラ店は、腕こそ劣るものの、それなりにいい材料で作る蕎麦を1,500円くらいの値段付けて出すわけさ。「蕎麦として素晴らしいか」と言われれば若干微妙だけど、蕎麦食いなんておおむねジャンキーだから、ぶっちゃけ粉がよければ蕎麦掻きだって食いたいわけさ。同じ材料で老舗が作れば、多分倍の値段をつけなきゃ引き合わないだろうなと思う。けど、そもそもそんな値段つけたら売れやしない。
脱サラ店は、そういう具合にして、老舗店に対抗し「競争」しているつもりなんだろう。けど、その実態は必要なコストを計上していないも同然の価格ダンピングであり、公正な競争ではないんじゃないかね、という話。「高い」というのは絶対的な値段の話で「ダンピング」というのは相対的なコストに対して付いてる価格の話。
そういうことをしてて、その老舗の経営が傾いて潰れたとして、10年後どうなんのかというと、残った脱サラ店も後継者いなくて潰れて、結局誰も得しない。そういう商売が一時的にでも成り立ってしまうのは、みんな(店もユーザーも含め)で「将来にわたっての利益(店、地域にとっての)」を、わずか10年で食いつぶすから。要するに焼き畑商法。ユーザーとしては、「今食ってる蕎麦はそれなりにコスパいい」「けど、これ続けてたらダメくね?」「かといってこれ規制のしようもないわ」で、もやもやする、ということです。分かりにくくてごめんね。
博打もしない、酒も飲まない、仕事はカラオケ屋、極端に寂しがりや。
生きててなにが楽しいの?
-------
つまりまとめると、
「誰が見ても楽しくはない」けど
「状況を打開したい」とは思わないでオナニーしてだましだまし生きてるってこと?
実家暮らしニートとかほんと謎。ニートじゃ結婚の可能性もないのに。
友達のフェイスブックみて深夜に「あああああああ」とかならないのだろうか。
-------
誰が見ても~
断言しすぎでしたか。「楽しいよ」という意見が最初は皆無だったので。
ちょっと貴方とは違いすぎているのかもな、と思いました。
(煽りじゃないです)
-------
>この手の一見訳の分からない諦め切った奴からいろいろ聞き出したりすると、
すごい楽しい時間の使い方してたり、波乱万丈の人生を送ってたりする。
-------
あ、私もさすがに本気で「なんで生きてるの?」なんて思ってませんよ。
こんな条件の人ならその辺にごろごろいるでしょうし。
ただなんというか、なんでもっと頑張りたいとか
満たされない野心とかを持たずに生きていけるんだろう?
って思ってたんですよね。
ちょっと確認するけど、それ、双方のカップルとも「異性」には恋愛感情を抱かないって前提だよね?
だったら真実を隠しておけば済む話。
戦前から戦後すぐくらいのころは、兄弟姉妹で同じ家に同居なんて、ごくごく当たり前にあった。つまり、1軒の家に3組も4組も夫婦がいることも珍しくなかった。
古民家みたいな、ふすま開けたら大広間になるような家に住んで、そこで大家族みたいに、みんなでごろごろ寝てれば、誰と誰が「夫婦」なのか、なんて、子どもは気にもしないよ。
どのみち、子どもがいたら、夫婦でもラブホとか行かないと、落ち着いてセックス出来ないから、外ですることになるだろうし。
お父さん同士で出かけても、お母さん同士で出かけても、子どもは不審には思わないだろし。どのみち、子どもってのは、親から離れていくもんなんだから、そのうち居なくなるし。
どうして、他人同士で住んでるのか聞かれたら「ルームシェアだ」と言えば済むし。対外的には「いとこ」くらいに言っておけばいい。珍しいと思われるかも知れないが、ゲイのカップルほどレアじゃない。
・27歳男。
・低身長
・金銭面から結婚しても子ども持つなんて無理。共働き必須になる。
・子ども持てないなら今から相手を探して結婚する積極的な意味がないと考えている。
・結婚するために相手を探すのがめんどくさい。土日はひきこもってごろごろして家事してるだけ。
・そもそも結婚がめんどくさい。一人が気楽。
・現状一人で問題ない。
自分にとって結婚ってものがどんだけ縁遠いかがよくわかっただけだった。
でも自分の場合は結婚「できない」っていうのがやっぱり第一にあるとも思う。
結婚できる年収なりアクティブさなりがないから無理という感じで。
あと仮に年収とかの条件が満たせてたとしても、すっげーロマンチックで恥ずかしいけど、結婚のために相手を探すってなんか違う気がする。
もちろんいまさら運命の相手と偶然巡り会えるなんて思っちゃいないけど、結婚するために結婚してもその先に幸せがあるかどうかっていうのはかなりの博打になる気がして、絶対にそんな迂闊なことをしようなんて思えない。
皮算用以外の何物でもないけどね。。。
つかそんな考え方だから結婚できないんだよとわかっちゃいるけど。。。の堂々巡り。
心配しなくてもお前の条件だったら十分一人のまま過ごせるよとなりそうだけど、問題は親の老後かなあ。。。
考えたくないなあ。。。