はてなキーワード: 俎上とは
家に帰ると父の首に縄が巻き付いていた。目玉と舌はシンプソンズみたいに飛び出している。
俺が家を出る時はなにくわぬ顔でいってらっしゃいと声をかけていた父。そんな父は、今は糞尿と死後の煩瑣な手続きをまき散らすだけの厄介者となっている。いい気なもんだ。
俺はこれからのことを算段、実行。事は進み大学受験当日を迎える。一年前は難しく思えたこの学校の問題も今ではするすると解ける。なぜならそれらは代々川学園ゼミ高校講座でやったことがある問題だったからだ。
代々川学園ゼミは大学のサーバーにハッキングして入試情報を盗みそれを基にした教材を使い毎年大量の有名大学生を輩出する受験業界トップの企業だ。社長は青ペン先生という性別人種等一切不明の人だ。彼(と仮に言っておこう)は慈善事業にも興味があり、毎年複数の孤児を受け入れ自身の会社で死ぬまで働かせた。しかし世間は厳しくそんな彼を訴えた。訴えられた慈善者はテレビや週刊誌の俎上に上げられ社会的信用は無になった。
たまに「東大生で使えない奴がいた」「高学歴なのにコミュ障の奴がいた」みたいな話があるけどさ。
ぶっちゃけさ、高学歴(ここでは偏差値の高い大学という意味)でいらっしゃる人の方がコミュ力もあって機転が効く人が多いよ。それを認めようぜ。
低学歴でいらっしゃる方々は、こう話をしたらこういう展開になる、だとか、相手はこう思う、だとかに対して十全に頭が働かない。勉強できる奴と比較して。
もちろん個人差はある。だがここでは総体としての話をしたい。頭が先々・隅々まで働かないのだ。比較すると。
それとすぐ誰かと誰かを比較したり、そこから嫉妬したり焦ったり固執したりする。要するに余裕がないのだ。
こういう高学歴の方が優れているという話はなかなか俎上にのぼらない。
いってもしょうもないからだ。むしろ逆の、「東大生で使えない奴がいた」的論理の方が「受ける」。
多くの人は東大生ではないから、東大生がヘマすることに対して溜飲を下げる。そこに需要がある。
そうした点に真実というか実際というかは巧妙に隠されている。
もちろん、こんな真実・実際は隠されていていい。
だが舛田にたまに書いてリアクションをうかがってみたい話ではある、
その気持ち悪さを感じるのは自由だし表出ももちろんそうだ。個人的には気持ち悪い、ってのにも同意できる。
でもあそこに描かれてるのはその一歩先のものだろ。
ある個人が「俺の内面の問題、苦痛、絶望その解決は社会全体の存続や幸福に勝る」って考えた時、それを抑制する権利は社会側にはない。公共の福祉とやらの理念において、仮にそういう権利だか規制あったとしても現実的に抑制する手段がない。ある個人が個人暴力をもって優先を決意した場合、その暴力を止めることができない。警察が駆けつける前に5人やそこらは死傷できるってのが秋葉原の事件だし、同じく爆発テロの本質だろ。
そしてそう言った社会破壊は碇シンジだけの問題ではなく。気持ち悪く感じているマスダでさえ可能なんだ。「俺はそういうことはしないよ」と思うかもしれないけど、問題はそこじゃなく「可能だ」ということそのものが問題なんだ。俺たちは、そういう、つまり万民が万民に暴力をふるうことが可能な世界に住んでいるし、その地獄めいた世界をかろうじて現在の形に保っているのは、わずかな理性というより公平とか幸福の幻想なんだ。そういう幻想が壊れてしまったとき、俺たちは「自分自身を守るために社会に宣戦布告」をせざるを得なくなってしまう。つまりは碇シンジだ。あいつはエヴァンゲリオンを持ってるから大規模にできるけど、俺たちだって手持ちの包丁や自家用車で十人程度は殺せるだろ。
その気持ち悪さを感じるのは自由だし表出ももちろんそうだ。個人的には気持ち悪い、ってのにも同意できる。
でもあそこに描かれてるのはその一歩先のものだろ。
ある個人が「俺の内面の問題、苦痛、絶望その解決は社会全体の存続や幸福に勝る」って考えた時、それを抑制する権利は社会側にはない。公共の福祉とやらの理念において、仮にそういう権利だか規制あったとしても現実的に抑制する手段がない。ある個人が個人暴力をもって優先を決意した場合、その暴力を止めることができない。警察が駆けつける前に5人やそこらは死傷できるってのが秋葉原の事件だし、同じく爆発テロの本質だろ。
そしてそう言った社会破壊は碇シンジだけの問題ではなく。気持ち悪く感じているマスダでさえ可能なんだ。「俺はそういうことはしないよ」と思うかもしれないけど、問題はそこじゃなく「可能だ」ということそのものが問題なんだ。俺たちは、そういう、つまり万民が万民に暴力をふるうことが可能な世界に住んでいるし、その地獄めいた世界をかろうじて現在の形に保っているのは、わずかな理性というより公平とか幸福の幻想なんだ。そういう幻想が壊れてしまったとき、俺たちは「自分自身を守るために社会に宣戦布告」をせざるを得なくなってしまう。つまりは碇シンジだ。あいつはエヴァンゲリオンを持ってるから大規模にできるけど、俺たちだって手持ちの包丁や自家用車で十人程度は殺せるだろ。
ブコメ返信
id:Rlee1984 サン:その話題のどの部分を俎上に乗せてどの立場から語るか、っていう問題よ。語られたこと自身のコンスタディヴな(論理的な)正当性だけではないんよね、見るべきとこは。パフォーマティヴな効果が問題視されとるよ。
難解すぎてよく分かりません><ぱっと見反対派の意見に見えるからダメってこと?
元記事のコメでポジショントークと言っているところからすると「本当は反対派で、反対派を利するようなエントリを書いている」と評価してるという理解でおk?
私にはそうは読めなかったのですが、よければそのように判断した根拠を教えてください><
id:serio サン:ただでさえ文章が下手な上に、本筋とは関係ない与太話やおふざけがあれだけ混じれば、主旨を理解できなかったり、細かなところにツッコミを入れたりする読み手が多く出るのは仕方がない。書き手の責任が大きい
id:karaage280 サン:ロジックの正しさとは無関係に、ポジショントークしてるだけだと思う。
"ポジショントークしてる"の主語がブコメなら理解できるのですが元エントリの筆者を指しているなら解説ください><
http://b.hatena.ne.jp/entry/fromdusktildawn.hatenablog.jp/entry/2014/09/17/173721
( * これは、元記事のページではなく、はてブページです。お間違えなく。)
このページで、さまざまなコメントを見る限り、賛否両論ともあるようだ。「このくらいならいいんじゃない」という肯定的な見解も多い。
そこで、さまざまな見解を整理して、「このくらいならば利用してもいい」という基準をまとめてみた。(案)
① 星は一つだけ。
② たまにやるだけ。
③ 読者にとって何らかの有益性がある。具体的には:
※ 「判断される」というのは、星を付ける人自身が判断する。本人の責任。
①’ 星をたくさん連打する。
③’ 読者にとって有益性がないのに、単に目立ちたいだけで星を付ける。
この三つのうち、どれか一つでも該当すれば、許されない。
一方、先の ①②③ のすべてを満たせば、セルフスターは許される。
(ただし、うるさい はてなーから攻撃がかかることを覚悟すること。)
なお、③の点は簡単に判別ができる。「他の人からたくさん星が付いているか」を調べればいい。他の人からたくさん星が付いているようなブコメならば、有益性があると判定される。
────────────────
話は逆で、本土人が琉球人に由来する。南方系といってもいろいろある。台湾や東南アジアは否定されるが、中国南部は肯定される。Y染色体ハプロタイプの研究による。詳細は → http://j.mp/1oYoinS
なお、①② については満たしている。
────────────────────
こういうのは不毛な争いをもたらすので、避けたい。
はっきり言って「萌え」はもう古い。
使い古されてしまった。
損耗してしまった。
枯渇してしまった。
10年ほど前、はっきりと私たちの前に概念として現れた「萌え」。
(「萌え」の淵源はここでは措く。そうだな、翠星石がツンデレオブザイヤーを連覇したあたりの時期をここでは俎上としたい。)
「ツンデレ」と「メイド」とを引き連れて我々の前に現れた言語「萌え」。
これらはもう古い観念だ。
これらはもう、おじさん、おばさんと言ってしまって差し支えない。
たとえるなら家庭用ゲーム機のことを総じてファミコンと言ってしまうような古臭さ、時代錯誤に等しい。
勿論「萌え」を考えるなというのではない。柔軟性なく、「萌え」でしか考えられない人が多いのが問題だ。
おじさん、おばさんは自分がそうした事態にあるのに気付かず無自覚である。
おじさん、おばさんと表現したが年は問わない。
若くして「萌え」に硬直・拘泥している人間も多い。「萌え~」とか未だに言ってる。
古くせえんだよ、おじさん、おばさん。そこに留まるなよ。
「肩入れされてない方」に肩入れしてる人からすればそう見えるのかもしれないけど
どちらの意見にも興味はない
ただ見ていて不愉快なだけ
ちなみにこれまでの経緯なんかはまったく知らないからまとめを見て感じた事だけを述べている
実際はこれまで弱い者に暴力をふるってきた悪ガキがようやく学級会の俎上に載せられたという状態なの
いじめと同じどころかそいつこそがいじめの犯人で、そいつにやられた被害者が別にいて、しかも全く反省せず今でも暴力をふるい続けてるから何度も学級会が開かれるの
いつからいじめの犯人は手前勝手な判断で裁いていいことになったの?
日本は民主主義国家だしみんなが言ってたらそれでいいって考えなの?
自分は正義だから罰を与える権利を持っているという醜い傲慢さはどこからやって来るの?
たぶん無自覚なんだろうけど、お前みたいなのは「妖怪どっちもどっち」つって、自称中立のくせに常に理で負けている側にのみ得となるような口を挟み、議論には何も貢献せず、ただ引っかき回して解決を遠のかせるだけの有害な存在
議論を特定の人間を袋叩き,晒し首にすることが目的の出来レースと定義するのであれば真
こいつの言う事を要約すれば「俺たちが楽しく正しく悪を成敗してるんだから水を差すな」という所か
こんな奴ばっかだから嫌いなんだよ
「肩入れされてない方」に肩入れしてる人からすればそう見えるのかもしれないけど
実際はこれまで弱い者に暴力をふるってきた悪ガキがようやく学級会の俎上に載せられたという状態なの
いじめと同じどころかそいつこそがいじめの犯人で、そいつにやられた被害者が別にいて、しかも全く反省せず今でも暴力をふるい続けてるから何度も学級会が開かれるの
まあ産経新聞の話は知らないけどオノデキタについては完全にそういうケースな
たぶん無自覚なんだろうけど、お前みたいなのは「妖怪どっちもどっち」つって、自称中立のくせに常に理で負けている側にのみ得となるような口を挟み、議論には何も貢献せず、ただ引っかき回して解決を遠のかせるだけの有害な存在
新幹線問題についてFacebookで見つけた批判にとても共感を覚えたので紹介します。
https://www.facebook.com/naoto.hori/posts/574178189324382
まずこの発端なった社会起業家とか言われて有名な人の発言だけど、「公共圏は、我々が当事者意識と寛容によって生み出すもの」という言い方からは寛容性が感じられないし、「そういう人は新幹線自由席じゃなく、車で移動すべきだ」というように、〝べき論〟からも寛容性は生まれない。
僕は思うけど、ぼくらはどうしようもなくて、感情もコントロールできず、うっかり喧嘩もするし、そうこうしてるうちに戦争が起きるかもしんないし、そんなんだから機嫌によっては些細なことで腹も立つし、閉塞感を感じることで免罪符を得て、ダラダラ過ごし誰かの批判を呟く毎日の残念な生き物なんですっ、という残念さを前提にテーブルにつかないと有効な議論にならないと感じる。
いつも多様性を認めろという主張には、多様性がなかった。「みんなちがって、みんないい」という言葉の真意は、僕たちが思う以上に深い。多様性について話すときは、多様性と向き合う、つまり現実を直視するというしんどい作業ということを認知しないと、議論が上滑りすると感じる。
私見ですが、新幹線問題の議論が全く異なる他者を認めない排除する全体主義の元で行われていることに恐怖を覚えてこのポストをされたのではないかと思います。
つまり社会起業家の方が「寛容さ」を根拠として、「寛容でない」人物を公共の場から排除しようと発言すること、議論の俎上に加わっていく人々も彼の始めた他者を排除するゼロサム・ゲームに違和感を抱かないこと、それがとても怖いことなのです。
PC遠隔操作事件の記事のブコメがあまりにひどいので、ちょっと突っ込みいれとく。
なんか検索履歴だけで、有罪確定なんて!みたいな馬鹿なブコメが目立つから言っとくと、それだけで、有罪なんて記事のどこにも書いてないからね。
なんの謂われもない人が、江ノ島 猫 首輪って調べただけで有罪確定されたら、そら困るけど。
今回の状況証拠を積み上げてみると、そこまで筋の悪い証拠とは思えないし、裁判の俎上にはあげてもいいんじゃないかなと思うけど。
今回の状況証拠をまとめると、
①検察を恨んでいたという動機があり
②同じような罪を犯した前科があり
③一般の人よりかはプログラムの知識はあり
これからの条件を満たしてた人で、犯行宣言メールが送られる直前、報道される前に、 江ノ島 猫 首輪って調べてた人ってなかなかに怪しいと思うのだけど。
そんな偶然って重なるもんかね?
もちろん疑わしきは罰せずなのは重々わかってるけど、とはいえある程度高い可能性があるなら裁いていかないと司法は成り立たないよ。
その観点で考えても、十分検察として訴える証拠は揃ってると思うけど。
検察の横暴がらみで、みんなナーバスになってる気持ちもわかるけど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い方式で過剰反応するのはどうかと思うよ。
もし、片山被告が犯人で、そのまま無罪放免で社会出たらどうなるの?また犯行を繰り返すよ。それももっと巧妙な手口で。今回は犯行声明なんて馬鹿なことはしないかもしれない。そうなりゃ社会は大混乱だよ。
だからこそ、その危険性があるからこそ、片山氏を被告として裁判は開かれる必要はあるよ。
もし無罪なら不運でここまで疑わしい偶然が続いてしまうと申し訳ないけど、やっぱり裁判で弁明してもらう必要はあると思う。
ここらへんは、個人差の出てくるところだから、差があるだろうなとは思う。
でも奇妙な時期的一致(マスコミに検察挑発メールが届き報道される2、3日前に、写真の猫に近づく片山被告の姿が防犯カメラに映っていたリ、「江の島」「猫 首輪」という言葉を検索してたり、USBを埋めたとほのめかした東京近郊の雲取山に、片山被告はその1カ月ほど前に登っていたこと)をしっかり考慮したうえでの判断なのだろうか?
論理的でないというなら、論理的に本記事に反論すればよいのでは?
前科の内容にもよりますが、片山被告の前科は再犯の可能性が十分あると思うので、普通の人よりも疑われても仕方ないと思います。
よく意味が分かりません。演じろなんてどこにも書いてませんが。
えぇ肝心なところは主観ですが。
ですが、この主観は、同じように検察も持っていて、その主観がいかに客観性を持つか、そのことについて裁判で争われるわけで、僕の主観が客観性を持つかどうかは裁判次第ですね。
どこにそんなことを書いてあるのか?有罪と疑うに十分な状況であると書いたまでですが。
僕の知らない超未来では、司法機関に犯罪を疑う権利すらないのかもしれませんが、
現世では、犯罪の疑いがあれば逮捕され、有罪であると検察で判断されれば起訴され、実際に無罪であるか有罪であるかは、裁判所で判断されます。
これのどこが中世なのか?よく分かりません。
なぜ限定的にとらえるのかわかりません。状況証拠は、積み上げです。元記事にもなぜか検索だけで起訴されるなんて!みたいに一部証拠だけを限定的に取り上げて、起訴は不当だと書く人が多かったので、この記事を書いたのに、いまだにいるとは……。本文を読まれなかったとしか思えない。
放火の現場にいつも彼がいただけでは、もちろん起訴には至りませんが、彼に放火の前科があり、かつ犯人に関連するような検索をたまたま放火の直前に行っていたら、十分起訴されると思います。
その通りですが、かといって検察も裁判員、裁判官も神ではありません。自分が無罪だと確信していれば黙っていても無罪になるというわけでもなく
(漫画名と作者名とで比較の俎上に挙げているのは勿論敢えてだ)
どっちかを否定するのではなくどちらも楽しめる身体であることが、漫画を読むうえでは重要なんではないだろうか。
何が言いたいかというと、漫画を読んでいる人の中には「市川春子」的なものを崇めて、ことさらに「テラフォーマーズ」的なものを否定する向きが結構あるということだ。
まぁわかる。それはまぁわかるんだ。どちらが芸術的か、高尚か、商業主義的か、俗っぽいか…こういう議論は結構目にする。ただこれに関してはこの文では措く。超措く。措いておく。
でだ。どっちも楽しめたほうが最強ではないか、と思うのだ。
二つの漫画は、どっちがいいとかどうとかあるだろうが、まぁかなりタイプの違う漫画だと思う。漫画の宇宙のかなり離れたところというか、全然違う物質で形成されているというか。
だからこそ、二つの漫画をちゃんと読める身体を持っていないと、漫画宇宙の統一理論にはたどり着けないのではないだろうか。
漫画通(漫画読みというのか?)を気取る、装うのならば「市川春子」的なものを崇めるだけの身体では不充分なのだ。同時に「テラフォーマーズ」を充分に楽しめる身体が必要なのだ!
――この文章を21位の開紀に捧げる。
コメの価格は、「1キロ467円」みたいに、端数なケースが多い。
これを逆の発想で、
「なら、それを3,000円ジャストにするなら、6.42キロにすればいい」と
価格じゃなく重量の方を端数にしてコメを売っている商法があるらしい。
決裁には基準があって、例えば3,000円以内の相当なら課長決裁、
10,000円以内の贈答なら部長決裁、てな感じで、ジャスト価格で決裁基準が変わる。
では、お得意さんに何か贈答したい、という場合、
実際に贈答品目を選ぶ部員は、「できるだけ、社内決裁基準の上限まで、使い切りたい」と考える。
「決裁枠を使い切れて、より贈答効果が高まる」と考え、そっちを選んでしまう。
つまり、端数価格な商品は、「決裁枠を使い切れないが為に、贈答商品から外れてしまう」のである。
⇒重量の方を調整して、価格ジャストな商品に仕立て直すことで、贈答商品の俎上に上がることが出来る、という次第。
言われてみれば当たり前の話だが、これを思いついた人は、正直スゴイと思う。
あと、先日日経に、「500円で特技を登録するナレッジマーケット、ココナラ」の紹介があった。
これも「人力検索はてな」みたいに「報酬額が不定」なんじゃなく、
「報酬額、見返り額がワンコイン」とポッキリ価格なのが、メリットな気がする。
500円程度だったら、仮に返ってきた回答が大した回答じゃなくて
「こりゃ失敗だったな」というケースでも、そんなに「痛く」はないし。
http://anond.hatelabo.jp/20130520191133
なので気が向いたら書きます…
見てくれる人がまだいるかどうか知らんけど…
色々な角度から感想、意見、推測をもらってとても勉強になった。
自分の出来事や考えを出してみるって言うのも悪くなかった。
アドバイスは勿論のこと
それにしてもはてなユーザーはモテ・非モテの話題には食いつくなあ。
それは自分と同じように勉強できるけど運動できないインドア系だった
コンプレックスの固まりの非モテが多いからだと推測する…カワイソス(´・ω・)
特に今回の話題が伸びたのは
書いた本人も一夜明けて読み返してびっくりの驚きのキモさよりも、
何よりも皆様のトラウマとコンプレックス、古傷をえぐってしまった事だと分析
それからブコメとか見てたら、外見以外に原因を帰結させようとしている人は
色々思う所あった。
そこから考えられるユーザ像を超勝手な思い込みと妄想で分析してみたwww
もしくは167cm以下の男性
身長以外に問題を帰結させないと
恐ろしい…こいつと同じ痛みを共有したくない……
現実を認めたくない…と思っている
あなたが待ち合わせに行っても
もしくは身長がそこまでキーにはならないと本当にそう思ってる人
それ以外には職業柄
性格がひねくれている人
上と重複するけど
全体的に外見にコンプレックスがある人
(内面にはそれなりに自信がある?)
こちらも内面に問題を帰結させないと
もしくは本当にキモいと思ってる人
ただ感想を述べただけの人
メールの時点で落とされるはずなので、
自分の外見に自信がある人
(自己申告なので怪しいが…)
最終的には異性と上手くいかない人
落ち込んでる人を攻撃するという点から
アレな感じ
でもこういうサイコパス的な人の方が
世の中うまく渡るんだよなあ…
この人は相当痛々しく、
この世の色んな事に絶望している…
いわゆる地雷
クソ長いため、途中で読んでて心折れた人ww
または時間ない人、人並みの読解力がない人、忍耐力がない人、そこまで興味ない人、極めて浅いレベルの評論家
もしくは増田と読者は対等で
頭の悪い勘違い野郎
ニートかもしれない
俺とあんたは対等だよ
俺は書きたいこと書いてるだけ
あんたは客じゃない
どちらにも義務は無いんだから
長いと思って嫌ならタブ閉じて見なければいいだけだよ
素で思ってんなら
って言ってもらったほうがいいよ
思慮の浅い2ちゃんねらーかな
残念ながら釣りじゃありません
それをやらないってことは
つまりそういうことだ
釣りとか言っている人いたけど逆だろ
訂正する方が釣り臭がしない
わざと間違えてヒントにしているとか
高度なことやってるなら
それこそ最後まで間違えたままにするだろ
こいつらの中に
もちろんただ何となく言ってみただけの人もいる
優しい人、まともな人
余裕が感じられる
今上手く行っている人は
元増田の俺に対して同情的で優しい傾向がありそう
上手く行っていないけど同情的な人は
相手の痛みに共感できる本当に根が優しい人
でも多分俺と同じように虐げられる側の人でもあるんだろうな…
紛うことなきペルソナファンww(おそらく真・女神転生はそんなにやってない)
この文章でまずそこに突っ込むかwww
深層心理は
メディアミックスまでされた大好きなJRPGなので、認めてほしいです…(震え声)
ちなみにネット弁慶でリアルで言われると何も言えない人だろう、多分
なおどちらかというと
マニアック、知る人ぞ知ると言われた方が嬉しいはずなので、
残念ながら分析が当たっちゃた人、ただ単に性格がひねくれている人
いじめを拡大解釈をする輩がむかつく。ある問題が俎上に上がっていたとして、そこに無遠慮にいじめの文脈を持ち込んでくる人間が本当に腹立たしい。
反論の口上として成り立っているつもりなんだろうけど、問題を複雑にしているだけってことに気がついてないから厄介なのだ。
そりゃ延々と問題を取り上げていたい人たちからしたら、素敵な着眼点かもしれない。でもその着眼点を持ち出したことによって解決への足がかりが閉ざされてしまっている。
話し合いは、すればするほど膠着してしまうことが多いのだ。最終的に、妥協せざるを得ないことが多々出てきてしまう。
妥協。この選択こそ、何よりも苦しいのだ。善悪を二分し、正義の名の元に判断を決する方がよっぽどストレスがないし、楽だし、気持ちがいいのだ。
苦しみばかりを重ねた議論の末に着地する結論なんだ、わだかまりなく、すがすがしく終わりたいものじゃないのか。
いじめを議論に持ち込んでいたずらに場を混乱させる輩は、何を持って結論とするのか。もっとよく考えてみた方がいいんじゃないかと思う。
もちろん、複雑だからといって考えることが無駄だとは言わない。結論が両極に振れないからといって、その議論の意味がないとは断じて思わない。
たとえ根本的に解決できなくても、多大な問題を、端緒だけでも切り崩せたのなら微細ながらも成果は上がっているのだから。
ただ、だからといって氷山を持ち上げてどう砕こうか語る必要はないはずなのだ。それぞれの側面から切り崩していければ、それでいいじゃないか。
あるいは、もう問題そのものが崩しに崩しきった氷山の残骸なのかもしれないな。だから切り口がぶつかり合いのだし、複雑な思考をして妥協点を見出さないといけないのかもしれない。
そういうのが苦手な馬鹿は、俎上に向かい合わなければいいんだよ。きっと、熱意ある賢い人たちが綺麗に切ってくれるはずだもの。
官民ともに現在の日本の状況を見るにつけ、東大とか東工大卒がそれほど優秀だと思えないというのは置くとして、大筋には同意できる話だと思います。
今回の選挙はほとんど政治家から提供されたA定食B定食から不味くなさそうなものを選んで投票するような選挙でしょう。
民意から取り上げて争点にされている政策といえば、脱原発と、ちょっと強引に言えば自民の経済政策くらいだと思います。
おそらくこの2つは相反する層からの意見で、それゆえ争点としやすいという特徴があります。
民主主義を効果的に機能させようと考えた時、「選挙に行く」こと自体は手段でもなんでもなく、最終的な手続きの問題でしかありません。
ある政策を本当に実行してもらいたいなら、まず自分たちでオピニオンをまとめ、それを議論の俎上に乗せる必要があるでしょう。
その後、デモなり討論会なりでそのオピニオンにどれだけの支持者が集まっているかを明示し、親和性の高い政治家に対してオープンな形でロビー活動を行います。
こうした活動を行わず、「日本をこんなにしたのは誰だ!」と言ってみたところで説得力がありません。
有効と思える施策が政治家から提案されないのは、人々からそのようなオピニオンが上がってこないからです。
政治家はあくまで国民の代表です。シンクタンクではありません。本当に政治を良くしたいなら、まずは意見を形成するところから始めなくてはならないと思います。
先に断っておくが、このエントリでは当事件の事実関係や市や学校の対応、ネット上の意見などに一切関与せず、「いじめ」と「自殺」について個人的な意見を述べるものである。
滋賀県大津市で起きた男子中学生の自殺を巡って世間に様々な声が上がっている。
Twitterを眺めていても、数は少ないながらも多種多様な人たちが共存する僕のTL上ではこの件を巡って、「いじめ」あるいは「いじめと自殺」を巡って活発な意見交換が行われており、日々感服するばかりである。インターネット上において「いじめ事件」が大々的に取り上げられるのは何も昨今に限った話ではない。何年も前から日本の各地で痛ましい「いじめ」についての事件が起こるたびにインターネットではそれについて激しいレスポンスが生まれてきた。それらは基本的に「いじめ」について批判的な意見なのだが、時にそれらは過剰すぎるといっていい反応に発展し、自称「正義の味方」たちが暴走したりすることはあるいみネット界隈においては日常茶飯事であった。僕自身は事件の経緯や事実関係などとはまったく別に、それらの激しい反応が巻き起こるたびに辟易したことを覚えているが、ここ数年でその状況は大きく、とは言わずともかなり変化したと考える。一昔前なら、こういった痛ましい事件が起きた場合、インターネット上での反応はほぼほぼ一種類だった。すなわち、「いじめた奴をぶっ殺せ」である。もちろん、言葉や表現、論調や論点の違えど、その大体は「いじめた奴をぶっ殺せ」だった。もちろん、感情論で言えば、そうだ。だが、はっきり言ってしまうが、今回のような「自殺」というキーワードが俎上に上がるほど苛烈で、悲惨な「いじめ」の事例に関して言えば、そんな短絡的な方法では問題の根は解決しない。
それはなぜか?
答えは単純である。
たとえ「その子」をいじめた連中が全員死のうが、少年院送りになろうが、ネットで晒し者になろうが、
いじめられた「その子」はもう大概「普通の人生を普通に生きる権利」を奪われているからだ。
何年か前に話題になった「いじめられているキミへ」の寄稿文らしいのだが、思うところあるので引用させていただく。
死なないで、逃げて逃げて
あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。
あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。大人だって、会社がいやになったら、会社から逃げているのです。
次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。
そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。 それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。
はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために、「遺書」を送るのです。
死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。
だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。
あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。
僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。
どうか、勇気を持って逃げてください。
「いじめられる方に問題がある」
最早時代錯誤過ぎて目が泳いでしまうようなおサムい台詞だが、これはわりと最近まで(ここ重要)いじめられっ子に対する教師や親の言葉として一定の説得力を持っていたことは悲しいことながら事実である。
んなワケねーだろボケ!!
「いじめられる方に問題がある」
→まず、これは最も頭が悪い意見だ。が、実際のところ「なぜいじめが起きるのか?」という答えに対して、ほとんどの人間がこの馬鹿みたいな空虚な言葉を目を伏しがちに言うのである。いいか、それは断じて違う。なぜかといえば、この論理は、「いじめられる」と「問題がある」というふたつの出来事が、あたかも因果関係があるかのように触れられているという点だ。「あの子には問題がある」→「だからいじめられる」という理屈だ。だが、こんな馬鹿な理屈があってたまるだろうか。確かに、人間だれしも社会的な人間関係を営むに際して「問題」を抱えているものだ。「空気が読めない」とか「性格が悪い」だとか「ええかっこしぃ」だの、はっきり言って枚挙に暇なんかない。そして、その「問題」を抱えていない人間も、この世界には一人もいない。誰だってできる限息がしやすい場所、陽の光があたりやすい場所にいたいと思うし、少なからず利己的になることだってある。もしくは、そもそも人間関係を営むことについて不得手だったり、嫌いな人間だっている。それは「社会的な(笑)」観点から言えば問題なのかもしれない。気に入らない人間だっているかもしれない。はっきり言えばムカつくかもしれない。だが、それだって仕方のないことだ。どうやっても自分には受け入れられない性格の人間というのは存在するし、そういう人間とどうしてか同じ空間で過ごさなくてはいけない場合だってある。そういう場合はもう、仕方のないことだから、適度な距離をとって「うまくやる」しかない。それはもう、どうしようもないことだ。だが。だが、である。
「(自分にとって)その人に何らかの問題があったから」といって、その人をいじめていい理屈なんかこの世界のどこにもないんだよ。
仮に、ものすごく性格がよろしくなくて、みんなに鼻つまみ者にされている人がいたしても、それははっきり言ってしまえばその人の「問題」だ。
社会的な営みをする以上、共同体において「邪魔」な存在というのはどうしても出てくる。それも仕方のないことだ。
もっと具体的に言えば、共同体において「ぼっち」の存在が生まれてしまうのはごく自然なことであり、それ自体は何の問題もない。
何のことはない、単にその人がその共同体に「合わなかった」だけの話だ。その「問題」ということについてだって、現実世界側のインターフェースが引き起こしたバグのようなものだと考えればたいしたことはない。コミュ障? キモメン? んなことは別に「問題」じゃない。もしそれで自分にコンプレックスやルサンチマンを抱えている人たちがいるのならば、もう素直に意識を別に向けるべきだ。今はインターネットという素晴らしい道具があり、その他にも数えきれないほどの環境や世界がある。はっきりいって現実世界なんかあまたある世界の表層のひとつにすぎず、僕達が保持している肉体はたんなるいちインターフェースに過ぎないわけである。だから、「あ、ここ自分には合わないな」と思ったらさっさと身を引いて別のコミュニティなり世界なりを探すことが自分にとっても相手にとっても健全だ。
だから、もし「いじめ」られている子がいるのであれば、その場から黙って去ることが最善の索なわけである。
僕は、「いじめられる方に問題がある」とも、「いじめる方に問題がある」とも思っていないので、「いじめ」が起こりそうな状況になったらデウス・エクス・マキナよろしく「席替えたーいむっ!」とする方がいいと思っている。
ならばこそ、すべての「いじめ」は上記の引用文のように「逃げて逃げて生きる」ことをすればある意味解決するのではないかと思われる方もいるだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。というか、そんなにこの問題が単純であればこんなに酒によった勢いでエントリを書いていないわけで、ここからが本題である。
問題は、「逃げて逃げて生きた」として、その子が「普通の人生を普通に生きる権利」は依然として不当に奪われたままであるという点にある。
確かに、いじめられて、その結果自ら命を絶ってしまう事例があったとしたら、そんな悲しい話はない。
だが、それにもまして「逃げて逃げて生き抜いた」としても、そんなものは「死ぬ」のちょっと手前くらいの選択肢であり、最後の手段なわけである。
一口に「逃げる」と言っても実に様々な手段がある。
不登校になる、引きこもる、グレる、転校する、引っ越す、留学する……いろいろだ。
だが、どれにも共通しているのは「確実に人生が狂った」という厳然たる事実だ。
もし「いじめ」なんかがなければ、「その子」の人生が外的要因によって狂うことはほとんど無かったはずだ。
自分の命に対する自衛手段として、上記のどの手段をとったとしても、その子の人生はその時点を以てルナティック・モードにとつぜんモードチェンジする。
不登校にしろ引きこもりにしろ、その延長線上にあるのは学校の中退であり、すなわち人生の落伍である。「学校を辞めたくらいで『人生\(^o^)/オワタ』だなんてとんでもない!」とおっしゃるかたもいるだろう。じゃあ逆に言ってやる。あなたも、今の仕事なり学校なりを今すぐ辞めてみろ。転職のあても、転校のあてもなく、たったひとり殺伐とした世界に取り残されたとして、「よーし! 人生これからだぜ!」と思えるというのか。ただでさえどん詰まりの袋小路に迷い込んだこの現代日本で、大卒の就職率が5割だとか6割だとか言われている時代に、無職の高校(中学)中退者が「普通の人生を普通に生きる」ことができるというのか? 立場を変えて発言しよう。僕が中小企業の採用担当だったのなら、昼食無職職歴なしの人間なんか、なにがどうあっても採用したくない。感情論なんかじゃない、ごく合理的な数理的な判断だ。
転校だって引越しだって、かなりハードルの高い「逃走手段」である。というのも、なによりもまず、家族の協力が必要不可欠だから。
親御さんだって、もしかしたら仕事を辞めざるを得ないかもしれないし、お金の問題だってある。少なくとも「普通の人生を普通に生きていたら」かかる必要のなかった負担を負わなくてはならない。要するに、この時点で「いじめ」というのは「いじめっ子」と「いじめられっ子」の問題ではなくなるのである。ちょっとした「ムカつき」や「面白半分」が、一人、ないし数人、いや、ともすればもっと大規模な人間の「普通の人生」を狂わせるのだ。これが「いじめ」が「普通の犯罪」なんかよりも数段質の悪い点だ。「窃盗」であれば、早い話盗まれたお金が戻ってきて、犯人が警察に検挙されればひとまずは解決する。「器物損壊」だって、家裁か何かで妥当な損害賠償が請求されればそれ以上の発展はない。被害者にとってはたまったものではないが、少なくともそれ以降は「普通の人生」を送ることは可能だ。だが、「いじめ」に関しては――はっきり言ってしまうが――いかなる手段をもってしても、すでに起こってしまった「いじめ」を、それが発生するより前の状態に復元するのは不可能だ。いや、これについては語弊がある。「いかなる外部からの干渉をもってしても」いじめの根本的な問題は解決などしないのである。教師がいじめっ子に謝罪をさせたり、クラス替えをしたり、退学や停学処分をしたとしても、「いじめっ子」が「いじめ」たという事実は消えやしないし、「いじめられた子」が「いじめられた」という事実だけは覆しのしようがないし、取り返しも、補填も、まったくできやしないのだ。
「いじめた側が、本気で反省して、その後の人生のすべてをかけていじめた子が『普通の人生を普通に生きられる』ように全力で奉仕する」
より陰湿化が進む現代のいじめにおいてこんな奇跡みたいなことが果たして起こるのかどうか、僕は知らん。多分、99%の確率で起こらないだろう。
世の中の90%のいじめは、「なんとなく」「特に理由なく」「おざなりに」して、審判のホイッスルなくして「終わったっぽい」感じで終わる。
理由は分からない。とりあえず、台風が温帯低気圧になって北海道の上の方に消えて行くように、いつの間にかなくなってたりする。
残りの9%は「いじめられた子」の自殺なり「逃走」によって終わる。なんとも救いのない話である。
もしあなたがいじめられていることに対して何か負い目を感じているのであれば、とりあえずそれは忘れてください。
自分がいじめられることに対して、「仕方ない」だとか決して思わないでください。
あなたも生きている人間ですから、人間関係について至らない点、至らなかった点だっていくつかあるでしょう。
ですが、はっきり言いますが、そんなことで、地球上の誰一人だってあなたをいじめていい理由なんかにはならない。
あなたが、あなたの人格や過去の行動、家庭環境や趣味嗜好、思想信条によって、いじめれていい理由など、これっぽっちも、ありません。
そして何より、あなたは、「普通の人生を普通に生きる」権利を持っています。
そりゃあ、誰もがオリンピックに出たり、アイドルになったり、東大に入ったりはできないのも事実です。
ですが、本当はそんなことはどうだっていいんですよ。
あなたは、学校帰りに友達とマックに行ってダベっていいし、家に集まってモンハンをみんなでやっていい。
絵を描いて褒められていいし、ご飯が美味しいと感じていい。かわいい女の子を、かっこいい男の子を好きになっていいし、告白して振られて泣いたっていい。
好きなアニメを見て、好きな本を読んで、好きな場所へ行って、眠くなったら寝て、眠くなくなったら起きて、生きて、生きていいんです。
普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供ができて、普通に生きて、普通に生きて、普通に死んでいいんです。
もし普通が嫌なら、人一倍頑張って、自分が特別だと思える人生を手にいいれればいい。
ですが、それ以前に、あなたは、およそこの国の人間が「普通だ」と感じているあらゆることを手にする権利を持っています。
だから、あなたは自分を責める必要などまったくない。あなたは何も悪くない。もっと言えば、あなたをいじめた人間すら、悪くないのかもしれない。
僕には起こってしまった「いじめ」を解決する魔法のような手段はしらないし、これから起こるであろう「いじめ」を未然に防ぐ奇跡のような手段も知らない。
だけど、あなたが、「いじめられて損なわれた」からといってあなたが「普通に幸せと感じられるような人生」を生きる権利を失ってしまったわけではありません。
だから、自分勝手なことを言えば、本当はあなたは「逃げて、逃げる」必要なんてないんだ。表面上は「戦略的撤退」をする必要があるかもしれないとしても、
あなたの人生が「嵐のような不運」によって損なわれ、汚され、失われる必要などない。
それどころか、あなたは、その「普通の人生を普通に生きる権利」を人一倍、もっともっと今まで以上に傲慢に、尊大に主張していいんですよ。
「いじめられた」ことを理由に、あなたが自ら自分の可能性を閉じてしまう必要なありません。
もっと自分勝手に、生きればいい。でも、引きこもってもいいことは「何も」ないので、何かしらのキッカケで外にでるといいと思うよ。
そんでいまいじめてるお前。
まー今のお前なんかには分からないだろうけど、お前のやってることはおよそ人間がなす行動のうち、もっとも悪辣で、非道で、無意味なことだからな。しかし人間ってのは残酷だよな。自分の利益にならないことでも、何かのキッカケさえあれば、人を嬉々として苦しめることができるんだからな。俺はお前のことなんか知らないし、お前の生い立ちや人生観なんか知らない。お前が何かお前の中で正当な理由をもって「それ(とあえて言う)」をやってるとしても、それも知らん。だが、結果としてお前はお前と同じ、一人の人間の「普通の人生を普通に生きる権利」を「奪いかけて」いるということを考えろ。今日お前が美味しいと感じた夕食、今日お前が面白いと感じたテレビ番組、今日お前が楽しいと感じた帰り道。その子のそれら全部を、他ならぬお前が奪おうとしているっていうことを考えてみろ。俺はお前なんかに同情しない。お前の中にどんな理由があるにせよ、それはお前が「それ」をやる理由にはなりえない。なんの妥当性もないし、なんの解決手段にもならない。だからといって、お前が考えてること、感じていることがまったくの間違いであるとも言えない。だが、「それ」と「これ」とは別問題だ。お前の中でいかなる繋がりを持っていたとしても、それは、本質的なところで無関係だ。だから、やめとけ。お前がそいつのことを嫌いならそれはそれでいい。だったら関わるな。何もするな。意識を別のところに集中させろ。暇だったら黙ってオナニーでもして寝ろ。そんで、もしお前がかつていじめられっ子だったのなら、なおさら、やめろ。お前にも色々な事情があるのか知らないが、それはもう忘れろ。許さなくて良い。ただ、忘れろ。それ以外は何もするな。そんで、自分の好きなことだけ考えてろ。好きな本だけ読め。好きな音楽だけ聞け。好きな場所にだけ行け。好きなやつとだけ絡め。だから、決して「それ」を生きるモチベーションなんかにするな。そんな人生、悲しすぎる。
どうか気負わないでください。それを自分のせいだと思わないでください。
自分を無力だと嘆かないでください。自分を卑怯者だと罵らないでください。
何か特別なことをする必要なんかないんです。ただ、黙って、普通に、普通に接してあげてください。
いじめられている子が何より苛まれているのが、「ひとりぼっち」という孤独感です。
どんな暴力や陵辱よりも、「ひとりぼっち」というのは辛いです。
誰も味方がいない、誰も自分のことを助けてくれない、そういう状況こそ、危険です。
過剰なことなど何も必要ありません。ただ、声をかけてあげてください。
人の目が気になるのであれば、メールでも、なんでもいいです。
とにかく、その子を孤独にさせないでください。その子が、そこにいていいことを、示してあげてください。
http://anond.hatelabo.jp/20120601011200
なんか法律の手続き論と中身の話、経営上の問題がごちゃごちゃな気がするので勝手に整理するけど
<法内容の問題>
床面積規制なんかは犯罪防止という立法目的との間に合理性があるか、大いに議論の余地がありそう。
(実際の裁判とか法改正の上では、ここが一番の争点となりそう)
<法的手続の問題>
司法の俎上に乗せるならば、それは誰かがお縄についた上でとなるし、時間もかかるわな。
ちなみに警察は法律を執行する人なんだから、「現に存在する」法律に基づいて捕まえるのが仕事。
(未だ立法化されていない非実在青少年の規制とは、ここが大きく異なる)
ましてやお目こぼしなんて職務怠慢だし(今までがそうだった)、それをクラブ側が求めるのも筋違い。
猶予期間なんてのも、どこにも法的根拠ないしね。
<経営上の問題>
んで、現に法律があって違法状態で経営している以上、クラブ側としては
1.お店としては犯罪者になるのを覚悟で(その後の裁判で法律が違憲無効になる方に掛けつつ)営業続けるか
2.お店を閉める。もしくは踊らせない店として法改正まで様子見する
<文化上の問題>
一旦クラブは全滅するんだろうけど、法律的にクリアになった上でまたやればいいんじゃね?
本当に求められているものなら、なくならないでしょ。
法律で規制がかかるということは誰かに迷惑をかける可能性があるからで
他人に迷惑かけても守るべきと言える程の説得力が現行のクラブ文化にあるのか甚だ疑問。
それに現行のクラブ文化が廃れても、また形を変えて似たようなものが生まれるだろうし、それはある意味進化と言えるのではないかと。
対面や、利害関係がある相手なら、「人間性」で「権威」で「暴力」で「金銭」で「権力」で、コントロールできるのに、ネット上ではそれらと切り離されて「事象単独」で広まるからね。
やくざの親分だろうが、大地主だろうが、企業の社長だろうが関係なく、「事象が単独で」俎上にあがる。
声が大きい人間にしてみれば、「勝手正義」が暴走してるように見えるかもね。
今まで、マイノリティーを、小心者を、対立する相手を、「村」や「学校」や「会社」などの限定された空間で殺してきたわけだけれども、自分がされたらムカつくよね。
だから「ネット」という【特殊な】空間で起こった【異常な】事象にしたいんさ。
わかるわかる。