「仏教用語」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 仏教用語とは

2017-09-05

https://anond.hatelabo.jp/20170905135805

障碍というのは今の分類でしかいから。

そもそも、元々の障碍って、仏教用語よ。真理を妨げる心のこと。

から、よっぽどの知的障害でない限り関係ないと思う。

2017-08-03

https://anond.hatelabo.jp/20170803180725

常識」ってなんだか知ってるか?

関係ないけど、仏教用語無常って知ってるか?)


常識って家の外、プライベート空間から出た所で、たくさんの人が心地よくすごすためにある。

常識同士がぶつかると消えるっていうのはない。

2つ存在する以上、常識ではなく2つの別の価値観だと思う。だから残る。

2つの価値観の違いを認めて住み分けしましょうってことだと思う。

常識に変化が訪れようとしている。

公共交通機関の親子の扱い。


追記

価値観から常識は生まれ

公共交通機関の親子に対する価値観が変わって来ていて、常識が変わりつつあるかと。

価値観に基づく何かが2つ存立していたらそれはそれぞれ常識とは言わない。

2017-06-23

数年前に女友達数人で集まったときによくある美容の話になったんだけど

そのときに1人が「そんなことより内面磨いたほうがいいよ。」って言ったのね。

彼女は軽口で言ったんだろうけど、それからずーっと内面磨くってどうしたらいいのかわからなくて心に引っかかってる。

読書しても、勉強しても、仕事を頑張っても、人間関係機微に気をつけても内面を磨いたことにはならないような気がする。

仏教用語でいうような徳を積めばいいのだろうか。

寄付をするのだろうか。

困っている人に対して施しをすればよいのだろうか。

何日か寺にこもって読経をすればよいのであろうか。

徳の高そうな人で思い浮かぶのは杉良太郎だろうか。

でもわたし杉良太郎のように私財をなげうって炊き出しをしても内面は磨かれないどころか

ボランティアしてる暇があったら周りの人を大切にしたら?」と言われそう。

そもそも磨くって物理的には元々あるものを研磨することじゃないだろうか。

わたしの持って生まれた大したことのない内面を磨いたところでどうってこと無いんじゃないのかな。

ってことは内面を磨くって己を知るってことかな。

2017-04-24

仏教っぽいなにか

マツコ・デラックス仏像に似ている

断捨離→語感が仏教用語っぽい

……みたいに仏教っぽいなにかは広まりやすいと思うのだけど、ほかの類例が思い浮かばない。

2016-12-01

君の名は。」に潜む仕掛け―「無常」と「自我」の「対決」の物語

すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。

おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。

また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報パンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。

また、本文の後半でいくつかの仏教用語使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である

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君の名は。」は、大変すばらしい映画だった。

これまで、私は新海誠監督映像作品をいくつか観た(すべてテレビDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。

この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由である確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。

私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である

ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本構成必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。

しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。

さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。

 

夢の記憶は、実体験のそれよりはるかにもろい。

そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。

そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。

 

例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。

それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカである

それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。

 

では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。

それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験たかである

 

ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。

(つまりは、面白かったテレビドラマアニメDVDなどで保管しておこうという行為と同じである

しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。

「感動」は個人の心にとって極めて重要体験であり、その存在保証する「記憶」は、ある意味自分のもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。

すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものけが手元に残るのだ。

この感覚を、自覚している人は多いはずである

 

しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。

なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要からだ。

からこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。

たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。

 

**************

さて、ここまで、夢の「記憶」が本来記憶からレプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。

ここまで考えれば、人はもう一つの事実に思い至る。

 

多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。

実は、夢の「記憶」に限らず、人間実体から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。

「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカである可能性すらあるのだ。

 

記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。

そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。

仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。

そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。

 

そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分のものの「はかなさ」にたどり着く。

自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。

さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。

それは人間記憶システム限界であり、そのような「はかない」もの立脚している人間存在限界であり、どうにも抗えない無情な運命である

この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。

 

しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。

それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。

自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。

 

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さて、ひるがえって「君の名は。である

この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いもの体験する。

入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧ものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公祖母経験から示唆される。

また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。

この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしま焦燥感と苦しさを思い出させる。

 

しかさらにその後、この設定の巧妙さが控えている。

この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。

なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものからだ。

ここで視聴者は(特に視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。

そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。

 

 

この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。

この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。

 

そしてさらさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである

自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである普通人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。

 

この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。

確かに、ストーリー上はこの作品恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。

最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである

しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。

 

何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画エピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代視聴者体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常映画ではない。

この点で、私はこの映画日本アニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である

 

**************

 

この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。

今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである

海監督の特徴である映像意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。

しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。

 

そして、私はやはりこの映画は、10から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。

この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である

それに触れた経験というのは、おそらくそ若者にとってかけがえのないものになるだろう。

2016-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20161124064919

僕はクリスチャン信仰は良いものだと思います

なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます

なぜ胡散臭いのか

最初からいいますが、僕は新興宗教自体胡散臭いとは考えていません。

身も蓋もない言い方ですが、キリスト教ユダヤ教新興宗教ですし、仏教日蓮宗浄土宗臨済宗密教系とは重要教義が異なっています

私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます

基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います

ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります

そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります

布教のやりかた

宗教からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います

僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。

商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。

ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動宗教活動を通じてということになります

お金の使い方

代表的新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります

PL教団花火大会や、米ソルトレークシティモルモン教大寺院などはその代表的ものです。

このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教伝統的に文化芸能活動庇護者であったのです。

長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます

例えば東京観光京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値一般の方には庭園天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います

そのような文化活動信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います

新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由ちょっとわかりません。

ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。

教義の難しさ

教義信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。

本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。

ただ、いきなり相手ホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?

自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。

元増田アプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質活動です。

wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います

完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教既存宗教派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、

一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものシンプルで良いものであると私は信じています

宗教政治

長い人類歴史の中では宗教歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。

それはさておき、宗教政治無視できないのは宗教が人の本質アプローチするものからです。

人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教政治に関わっていく要因でしょう。

宗教非科学的か

波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます

それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語因果因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。

これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学矛盾するものとしてキリスト教進化論地動説否定があります

私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球太陽の周りを回っていると思います

しかしその部分がどの程度まで宗教本質を損なうでしょうか。

非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います

これはどこの宗教もつものだと思います検証不可能なことは証明できませんし聖典多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。

聖典が正しければ寺院教会)・教義は正しい」そして「寺院教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。

これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています

2016-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20161124171730

真偽と命題のことを仏教用語で有無と空と呼ぶってことですか。

それとも命題のうち存在を問う物が空という名前なんですか。

後者っぽい気がするけど、それを科学というのは微妙違和感あるな。

述語の真偽を問うのがギリシャ名詞の有無を問うのがインドって感じなのかな。

論理学はもはや何年も前に入門書も捨ててしまったんですけど、論理学上で仏教の空論を扱うというのは私も過去やった事があります

残念ながら、今はもうほとんど忘れてしまいました。当時も付け焼き刃だったし。

どう言えばいいのかよくわかりませんけど、「ある」「ない」ってすっごく単純じゃないですか。

そういうものすごく単純なところで考えるとわかりやすいかもしれないって思うんですよ。

元増田になる記事の人は難しいと仰ってたし、確かに世に溢れる空とか縁起について書かれた本とかクソ難解に書いてあるので、単純なところで考えてもいいんじゃないかなぁと思った次第です。

釈迦さんとか昔の仏教の人だってただの人間ですよ。ただの人間が知恵絞って考えただけの話でしかないと思うんですけど、何であんなにクソ難しくするんでしょうね?

 

ともあれ、固定観念をできるだけ捨ててしまって、アホみたいに簡単に考えると吉だと思います

2016-05-03

池上彰氏の凄さ限界

池上氏関連のホッテントリがここ数日あがってたので、自分の思うところを書いてみる。

自分は一応、新卒池上氏と同じ業界就職(といっても、自分は紙媒体)し、記者という肩書をもらっていた経験がある。

7年ほど現場にいて、体壊して、ちょっと内勤の管理部門にいさせてもらったのだが、なんか、内側から会社を見ているうちに

もともと、あんまり向いていなかったかな?と思っていた業界さらに嫌になって転職して

10年ちょっとになる。

普通、あの業界では、最初の何年か地方修行して、いずれ東京大阪に戻ってくるパターンが多いが、

自分就職先は、いわゆる経済紙で(ってもう社名明かしたようなもんだが)地方支局が貧弱な会社だった故、

新卒地方支局に行くという制度がなく、入社から退社まで東京で過ごした。



池上氏の凄さは、なんといっても、情報を取捨選択してわかりやすく伝えるプレゼン能力と、守備範囲の広さだと思う。

で、あれだけのことを伝えられるには、背後に相当の知識があるのであろうと思われている。

その「相当」がどの程度なのか、というと、たぶん、世間一般の人が想像するよりは、かなり浅くて、

けっこうぎりぎりのラインでしゃべっているのではないか、という気がする。それでももちろん、かなりのレベルではあるだろうが。

いわゆる大手メディア企業記者にまず最初に求められるのは、

「昨日聞きかじったばかりのことを、あたかも以前から詳しく知っているかのようにしゃべったり書いたりする能力である

なにしろ、日々、いろんなことが起こるのだ。

なかなか深堀している暇などない。

そうこうして、キャリアを積んでいくうちに、それぞれの専門分野ができていくわけだが、

大半の人は、きちっと専門分野を確立する前に、デスク管理職になったりして、だんだん現場から離れていく。

記者職としてキャリアを全うする人(編集委員とか論説委員とか解説委員とか)は少数派だ。


池上氏の経歴を見ると、NHKで地方局通信部を回った後、東京社会部気象庁文部省宮内庁などを担当した、とある

まあ社会部記者として一般的コースという感じだ。

東京では、悪名高き日本の「記者クラブ」に所属し、最優遇される立場で、役人から懇切丁寧なレクを受けて、

それをニュース原稿に仕上げるのが、まず最初基本的仕事だったと推測する。

NHKの記者特に、「特ダネ」を取ってくることよりも、「報道されるべき情報を落とさない」ことをなにより求められるらしいので、

多分、想像以上に、定例記者会見に出席したり、資料をチェックしたり、他社の報道確認したり、

思いのほかルーティーンワークが多いのではないかと推測される。

(なお、NHKスペシャルなどのドキュメンタリー番組は、主にディレクター職の人が担当しているので、

つのテーマを深くじっくり追いかけるのは、あまり記者仕事ではないらしい。

実は自分もNスぺ作りたくてディレクターを第一志望にしてNHK受けたのだが、見事に落ちた)



で、そんなに知識が深くなくても記者が務まるのかといえば、そこそこ務まる。

自分は、そのさして長くない記者キャリアの大半を、メーカーを中心とした企業取材で過ごしたのだが、

正直、最初は、「貸方」「借方」もよくわかってなかった。(大学政治学選考だったし)


それでも、入門書片手に勉強しながら記事書いて何とかなっていたし、

そもそも「大手メディア記者」が企業広報部を訪ねると、結構いろいろ懇切丁寧に教えてくれるのである

そりゃ、変な記事書かれたくないからね。

多分、NHKの記者というのも、それなりの対応を受けるはずである

もちろん、伝えてほしいことは積極的かつ懇切丁寧に伝え、触れられたくないことは隠しながら、だが。

中には、「たいてい経験の浅い若手が担当する企業」というのがあって、そういう会社古参広報さんの中には

「今、編集委員の何々さんねえ、あの人が新人のころ、私がいろいろ教えてあげたものだよ、わっはっは」なんて言ってたりした。

もし、あなた会社広報部に、なんだか大学出たての記者ばっかりくるようだったら、

それは、メディアから軽んじられている証拠である


もちろん、教わってばっかりでは舐められるので、こっちも勉強していくわけだが、

しろこちらは早いと一年担当が変わってしまうが、

相手はその会社一筋なわけで、知識の深さでは、敵わないのが通常だ。

知識を深めるのは、そこそこにしておいて、知らなくてもはったりかませる胆力をつけたほうが役に立つ。

そうこうしているうちに、正面から取材を申し込んだり、正規記者会見に出席したり、

ニュースリリース原稿に仕立て上げているばっかりでは通り一遍記事しか書けず、

社内的にもマイナス点はつかないものの、プラス点がつけられることもないので、

独自夜討ち朝駆けアポなしで取材対象のところに押しかける)したり、独自ルート作ったりし始めるのである

そんなことをしているうちに、自分のような、結局途中で業界を去ってしまうような木っ端記者でも、

ごくごくたまには、取材担当企業株価ストップ安にしちゃうような記事を書くチャンスが巡ってくることもある。


まあでも、ぶっちゃけいえば、そこそこキャリアを積んでいる先輩の中でも

減価償却費資金繰りにどういう影響を与えるのかよくわかっていないまま、

それでも企業経営危機について記事を書いているような人はざらにいた。

(まあ、自分経験積みながらようやくわかるようになったクチで、

当初はなんのことやらわからなかったのだから、偉そうなことは言えないが)

それでも、首にはなりはしない。



そういえば、思い出したことがある。

今の若い人にほ想像もつかないだろうが、その昔、世界エレクトロニクス業界リードし、

今でいえばappleと同じくらいのブランド力で各種製品を生み出していたSONYという会社があった(今もある)。

当時はまだまだ、かつての威光が残っていた。

自分は、そこのメイン担当になるほどの能力キャリアもなかったが、

たまたまSONY会社が取り組んでいる内容が、自分取材テーマに関わっていたことがあって

取材を申し込んだことがある。

いわゆるストレートニュースではなくて、連載コラムのような記事を書くためである

で、SONYに行ってみて驚いた。

美人広報さんが、それまでの取材で見たことないような、

膨大でかつ、非常にわかりやすくまとまった資料をお持ち帰り用に用意していたのである

なんかもう、取材しなくても、この資料キトーにまとめたら記事書けちゃいそうな。

もちろん、そんな手抜き仕事をして相手の思うツボにはまってはいかんので、

きちんと担当者さんに話を聞いて、自分なりの記事を書いてみたのだが、

やっぱり資料に引きずられなかったかといえば、影響はあったわけで、

まあ、恐ろしい会社であった。

かつて「メイド・イン・ジャパン」の強さの象徴として流布されたSONY伝説は、

もちろん実力の部分もあったけれど、伝説伝説たらしめようという広報戦略によって

かさを増されていた側面も多かったというのは、そこそこ業界で有名な話である

なんだか、大分、話がそれた。



多分、池上氏は、NHKでそこそこの社会部記者だったのだろうと思われる。

そんな彼の経歴の中で異彩を放っているのは、そろそろ管理職か専門記者か、という分岐点にさしかかったあたりで

キャスターに転身し、その後10年以上にわたって「週刊こどもニュース」を担当していたことだろう。

(すごい優秀な記者と認められていたら、ここいらで、海外支局あたりで経験つんでいるはずである

そこそこの取材経験を積んだ後で、

衆議院参議院って、どう違うのですか?」とか「比例代表制ってなんですか?」とか、

「どうして輸出が中心の企業は、円高ドル安になると困るんですか?」とか

あらためて、そういうレベルからニュース解説する仕事を10年以上も続けたジャーナリストは、

少なくとも今の日本では皆無に等しいんではなかろうか?



普通、そこそこキャリアを積んだ記者は、あらためてそんな仕事をしたがらないし、

そもそも、そんなレベルことは、真っ当な社会人ならば学校で習っているはず、というのが日本社会の建前で、

読者や視聴者を、そんなこともわからないヤツらと想定して記事番組を作っていたら、

ある意味、「お客様をバカにしている」ことにもなりかねない(と、みんな考えていたのだろうと思う)。

まあ実際、そのレベル作ってみたら、予想以上に受けたわけだが。


「こども向け」の番組というフォーマットを得ることで、池上氏はそういう稀有仕事を追及していった。

その結果、得たのが、あのたぐいまれなるプレゼン能力だと思うのだ。

多分、池上氏程度の知識や取材能力をもった記者は、NHKや全国紙にはゴロゴロしていると思う。

自分のかつての勤め先でも、そこそこキャリアがあって、東京でそれなりに仕事している先輩は、皆さんそれなりに凄かった)

でも、その知識や取材結果を子供にわかレベルでよどみなくしゃべれる人は、そうはいない。


池上氏のニュース解説番組をたまに拝見すると、自然災害メカニズムから、最新の科学上の発見、日本選挙から世界経済まで

あらゆる森羅万象を斬っておられるようである

だが、自分が見る限り、その解説一般紙新書本で得られる知見を超えるものほとんど見ない。

「いや、それは、視聴者に分かりやすいレベルにしているからで、その背後には物凄い知識が・・・」という見方もあるが、

果たしてどうだろうか?

多分、毎日6紙読むという新聞ベースに、ひたすら横に広くいろいろな情報を取り入れておられるように見える。

海外取材などの映像を見ることもあるが、どうも、テレビ局とコーディネータによるセッティングが透けて見えてしょうがない。

多分、その経歴からいっても、海外取材独自ルートなどはそんなにお持ちではなさそうだ。

やはり、「あまり深くないレベルで次々とあらゆる分野に取り組んでいく」ことがこの人の真骨頂だと思う。

それが悪い、ということではなくて、それがこなせる凄さがある、ということである


著書を読んでも(といっても、ほんの数冊目を通しただけだが)、たとえば同じNHK出身の元ワシントン支局長の手島龍一氏とか、

あるいは日経の元スター記者週刊ニュース新書田勢康弘氏の著書のような、深い取材と鋭い洞察に支えられた

凄みのようなものは感じられない。

そのかわり、入門書としてのわかりやすさはピカイチだ。

やはり、この人の存在価値は「広く入門レベルの知識を提供する」以上でも以下でもないのだろうと思う。

(なお、今、軽く検索してみたらどうやらニュース英語の本まで出されているようだが、

膨大な著書のどこまでご自分で書かれているのだろうか?という疑問は置いておく。

出版業界では、驚くほど「著者が適当にしゃべったことを編集者ライターがまとめた本」というのが、世間で思われている以上に多い。

あと、池上氏が英語を話しているところって、あんまり見たことないような。

NHKの採用試験突破するくらいだから、読むことに関しては、そこそこのレベルと推察できるが)




さらに、分かりやすさの理由の一つとして、「子供のような素朴な疑問にも正面から取り組む」というのがあるように思う。

巷間よくいわれる、選挙特番の「池上無双」の象徴ともいわれる「創価学会話題」についても、

タブーへの果敢な挑戦というより、素朴な疑問を追求していった結果なのかもしれない。

「どうして自民党公明党と組んでいるんですか?」という質問は、大人あんまりしない。

それは何となくタブーであると感じているせいでもあるが、一方で「そりゃ、理由はみんな知っている」からである

ましてや、「政治記者歴何十年」を売りにするような政治ジャーナリスト諸氏は、

そんなことよりも、自分の掴んできた独自情報を話したくて仕方なかろう。


だが、池上氏はそういう疑問をスルーしたりしない。

「それは、公明党には創価学会という支持母体があって、固定票が見込めるからですよ」と優しく語りかけるのだ。

で、「では、公明党創価学会本部がある信濃町に行ってみましょう!」と、女子アナを連れてツアーを組んだりする。

実際、やってみれば、放送しちゃいけないタブーというほどのこともない。

そりゃそうだ。

ある程度、日本の政治に関心を持っている人ならば、普通に知っていることなのだから


公明党の側だって、連立与党として大臣まで出す立場になった以上、その程度の取材拒否するはずもなく、

ちゃんと「公式な答え」だって用意している。


から池上氏が

創価学会の人たちが、選挙は功徳だなんていう仏教用語を使っていたりしますが、政教分離観点からみて

問題があると思われませんか?」と質問しても、

創価学会は、大切な支持団体ではありますが、創価学会公明党は全く別個の組織です。

政教分離というのは、政府宗教活動を行ったり、宗教活動に介入したり、宗教団体政治に介入することを禁じております

宗教団体政党を支持することを禁じるものではなく、現在公明党創価学会関係問題と思っておりませんが云々」

といった、きちっと理論武装した答えしか返ってこない。


「そうはおっしゃいますけれども、ここに創価学会名誉会長が、公明党に指示した文書がありましてね・・・

などと、爆弾情報でもぶっこんで来たら、それは多少「タブーに斬り込んだ」ことになるだろうが、

そこまでのことはしない。

多分、そこまでの取材もしていないと思う。そもそもが、そういう役割の人ではなくて、そこは、

政治を専門する別のジャーナリスト役割だろう。

池上氏はただ、意味ありげに

はい、そうですか、よくわかりました」と視線を投げかけるという、

きわめてテレビキャスター的な技術を見せるのみだ。


で、こう考えてみると、やはり池上氏の凄さでは

子供にも分かるように語ること」「子供の持つような素朴な疑問をゆるがせにしないこと」

を常に追求し実践してきた所にあるように思われる。

これは、なかなかに難しい。

多分、そこには、「相手子供)が、何がわかって何がわからないのか」を推察する想像力共感力

「限られた言葉で複雑なことを説明する」ことを可能にする、優れた言語能力必要なのではないかと思っている。

ただし、限られた言葉で語りえることは、やはり、ある程度、限られているわけで、

その辺が、池上氏の限界ではないかと考えている。

2015-12-25

[]希死念慮

読みは「きしねんりょ」

自殺願望」とも置換え可。

語釈

一見むずかしい字面だが、「念慮」の意味を読みとると理解が深まる。

デジタル大辞林によれば、「念慮」は仏教用語ひとつで、

凡夫の浅い智慧であれこれと思いめぐらすこと」の意味

すなわち「死を希う思いとは、凡夫の浅知恵に過ぎない」として、

実は自殺願望批判的に見た表現だということがわかる。

2015-10-07

[] 天人五衰

仏教用語

六道の最高位である天道の住人は天人と呼ばれ、人道の住人である人間に比べて全てにおいて優れ非常に長寿であるが、

それでも生物としての限界は超えられずいずれ死を迎える。その死の前兆天人五衰と言う。

天人五衰経典によって多少の違いはあるものの、大槃涅槃経によれば、

1衣裳垢膩(衣服が垢で油染みる)、

2頭上華萎(頭上の華鬘が萎える)、

3身体臭穢(体が薄汚れて臭くなる)、

4脇下汗出(脇の下から汗が流れ出る)、

5下楽本座(自分の席に戻るのを嫌がる)

の五つとされている。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%B7%BF%CD%B8%DE%BF%EA

2014-09-08

anond:20140907111202

まず、IQというのは常識テストのようなものなので、

知能の尺度としては今となってはあまり意味がないです。

少なくとも物理数学物差しにはならない。IQ200は東大卒みたいな言い伝えも、全然嘘です。東京特許許可局くらいの嘘。

 

一方で、人道的な問題を解決する能力の高さのことを、仏教用語で「徳」といいます

徳と理数系の純粋化された問題解決能力とは、

若いうちにはあまり同じ人には宿りません。

人道的な問題は、カリスマがあれば一番よいのですが、

全然なくてむしろ迷惑若者だった人も社会で生きて経験値をためることで「徳」が「積」まれることによりかなり解きやすくなります

なので、「お年寄り大事にしよう(知恵があるから)」という言い伝えがありました。

で、宇宙飛行士とかは、いきなり徳を積みすぎて宗教家転向しちゃったりする人が多いのも知られています

このことから、いいたいのは、若い人は若いうちだけしかできない人生勉強をがんばってください。ということです。

がんばったか流されてるだけか、流されつつも方向を見極めようとやっぱりがんばってきょろきょろしていたか、で、

経験値の溜まるスピード全然違うのですよ。

2014-07-04

http://anond.hatelabo.jp/20140704100555

なおネットで「利己」の対義語として「利他」という言葉を紹介したのは

わ た し で す

あっという間に偉そうな坊や・嬢ちゃんたちの間に広まったのを、ぼんやりしながらみてたっけな。

仏教用語認識してるが。私自身はあまり宗教に関心はない増田

2014-01-17

「ごちそうさま」は卑しいのか

飲食店での「ごちそうさま」は誤用

私はブログを見てからtwitterの反応を見たので件のブログの著者に感想が偏っていることを前置きした上で

  • 「ごちそうさま」の由来が仏教用語だったのを初めて知った
  • 「ごちそうさま」はいやしいのか
  • 件の記事の著者に「飲食店で使う言葉としておかしい」という前提があったように感じない

「ごちそうさま」の由来が仏教用語だったのを初めて知った

へぇーそうなんだと、ネットで調べられる範囲で確認してみると、確かに仏教用語漢字で書く「馳走」の意味合いが含まれる事がわかった。

ただ、増田のいう「無償で」という意味合いは必ずしも強く含まれているようには感じなかった。

もちろん、「馳走する」「もてなす」「振る舞うニュアンスに「無償で」の意味が含まれなくもない感じはあるけど、それでも由来が「馳走」であってここでいう「ごちそうさま」という言葉に「無償で」というのは強くは含まれないような感じをうける

これについては増田

もちろん、現在ではこうした意味合いは薄れ、提供された食事に対する汎用性の高い感謝言葉として通用していることは承知している。

と、あるので重箱の隅をつつくようでもうしわけないが揚げ足をとるつもりはない。

「ごちそうさま」はいやしいのか

結構、驚いたのが増田のこの感覚

しかに、世代によっては「無償で」という意味合いが含まれるものに関して「下卑た」イメージがつきまとう節はあると思う。

ただ、それこそ元の由来を踏まえるな「腐心して馳走」してくれたものにそのイメージは持たないだろうと思う。

件の記事の著者に「飲食店で使う言葉としておかしい」という前提があったように感じない

増田

記事の筆者はどうも「本来的には、飲食店でこの言葉を使うのはおかしい」という前提を崩していないように思えた。

とあるが、私はそうは感じなかった。

どちらかというと

どんな時でもごちそうさまという食事への感謝を表す言葉を著者がイメージするマナー教養を持ちあわせいるであろう、そこそこの所得があるであろう人たちよりも、著者やがイメージするマナー教養を持っていなさそうな低所得者層に見える人たちの口から発せられているのに著者の今までの先入観を崩され『悪くない風景だ』

という風に読めた。

日本語の作文技術」で書かれていた要素に分解した書き方をすると

この時の「ごちそうさま」という言葉にはたぶん、増田のいう「無償」「下卑た」という意味合いは含まれいないと思う。

このあたりは増田も書く通り、

実際のところは筆者の胸の中のことなので、わからない。

ので、私の憶測なのだが元のブログの著者が最後に書いていたように増田のような取り方の人もいれば私のような取り方の人もいるのだろうと思う。

2013-11-04

宗教無自覚馬鹿けが安易に愛を口にする

http://www.nonsensecorner.com/wp25/?p=4540

「愛」という言葉仏教用語から来ているそうだが、今現在日本一般的に使われている「愛」という概念宗教概念である

2013-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20130429082858

だいたいあってます

普通の人もそれ以上のものは感じていませんから、当面それ以上考えないでいいです。

仏教用語ではそのものずばり愛=執着と定義してます

2012-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20121012144108

はぃ?

朴は朴訥などにつかわれるように 素朴な という意味で 悪意はないし

念はそもそも仏教用語で 一生懸命意味も含まれた肯定語だし

仁 は仁徳 のように 褒める意味合いだ。

 

本来この単語の並びを見て、悪意である解釈する方がどうにかしてる。

そもそも この単語 坊ちゃん以前で 由来がよくわかっていないんだよね。

それに、昔の日本は 頑固者は必ずしも悪い意味ではないし。

今みたいに コミュニケーション能力重視の社会になって 元来の意味が変わったんだろ。

 

全然ある みたいに 辞書の方が間違ってるという説だってよくある。辞書に書いてあるから正しいとは限らん。

 

無念人 ならともかく  朴念人 ですらなく 朴念仁 なら オリジナルは肯定したかったんだろ。

2012-07-20

日記

 児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学読了。読みやすく、しかも、勉強になった。私は今年度初めに、「意味の分からない本は読まない」と決めたため、哲学系の本は一切読まなくなったのだけど、本書は、功利主義を理解するための知識がきちんとまとめられているにもかかわらず、倫理学素人である私にも意味の分かる本であった。

 とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。

 逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が提示されている。単に昔の人の思想を勉強するのでなく、論争(と現実的事例への適用)を通じて倫理学に触れられる本書には、「はじめての倫理学」という副題がよく似合うと思う。

 功利主義(と功利主義批判)そのものの解説以外にも、公衆衛生に関する政策、幸福論、心理学や脳神経科学による研究ビルゲイツ寄付先の決め方など、色々と興味深い話題が盛り込まれ、また、倫理学武道になぞらえた説明にも色々な点でとても納得できた(日常会話で友人の意見を批判するのは、通行人大外刈をかけるのと同様に危険!)。J美の出番がもっと多ければより楽しい本になっていたと思うが、それを望むのは欲張りだろう。

 以下、思ったことのメモ

p.20)食事のときに音をたててよい文化ルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?

pp.154-155)選好充足と幸福のつながりを疑うための2つの思考実験から、「すべての選好を充足させることが幸福につながるわけではな」いということになりそう、という結論が導かれている。つまりここでは、「選好充足しても幸福にならない」感じのするケースが挙げられているわけだ。しかし、これら2つのケースで想定されている選好充足は、選好充足とは思えない。例えば、ある学者が「ノーベル賞をほしい」と思っていて、その後に政治的理由で「ノーベル賞なんか欲しくない」と思い直して、その直後にノーベル賞受賞発表があった場合、それは明らかに(かつての彼の選好に合致するものではあるが)彼の選好充足にはならないだろう。それと同様で、1つ目のケースでは、現在の妻の選好はかつての彼女の選好とは異なるし、2つ目のケースでは、受賞者発表の時点でカナダ研究者は(死んでいたので)ノーベル賞受賞を選好しておらず、受賞発表は選好を満たさない。したがって、これらは「選好充足しても幸福にならない」ケースではないのではないか。…と書いてる途中で、「じゃあたった今の選好しかその人の選好として認めないの? それ色々まずくね」という批判が浮かんだ。まあだから、どちらにしても、幸福につながる選好の定義は難しい、ということなんだろう。

p.204)「カント引用は…」。どこに引用されてるのか、本気で見つからない。

p.219)「同時に日常底に用いたりするのでなければ」。「日常的」の誤植?…と思ったら、仏教用語で「日常底」という言葉がある模様。あとで調べる。

以上。

 

 ところで、最近私が(本書とは無関係に)手に取ったいくつかの本によれば、功利主義者は必ず利己主義的傾向を持っていて、極端な場合世界は亡びても自分だけ助かればいいというところまで至る(*1)、のであり、また、ベンタムの思想は、ヨーロッパの恥ずべき日々に確立された「快楽苦痛に関する皮肉簿記学」であり(*2)、もはや、日本精神界では「浅薄」なものとしてあまり顧みられず英国でもムーアによる批判以来(理論倫理学説としては)過去の思想となっている(*3)、のであった。そんな中で、私が本書によって功利主義に入門できたのは、幸運だったと言えるだろう。

==========

(*1)井上哲次郎日本魂と米・英の功利主義」、『日本公論』1943年8月号所収、p.6。なお井上によれば、ベンタム・J.S.ミル・シジウィク・墨子荀子荻生徂徠・太宰春台などが功利主義である

(*2)アンドレ・ブルトン澁澤龍彦訳)「ルイス・キャロル」、『澁澤龍彦翻訳全集12』所収、1997年(仏語底本は1950年)、pp.313-314。ベンタムへの言及は、ルイ・アラゴン言葉としてブルトン引用しているもの

(*3)『世界古典名著:総解説 改訂新版』自由国民社2001年、p.204。

2011-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20111128165626

あのさ、「仏陀の方」の彼岸に行けず、「妄想産物の方」の彼岸に行く、って書いてるでしょ?

釈迦が「仏陀の方」の彼岸に行けないわけがないじゃん…。

そうねw

でも釈迦の話をしていないんだったらその旨始めに明記しとくべきだと思うわー。

「誰の妄想産物だよ。お前のか? 釈迦のか。」に対して、「自分釈迦だと思い込んでる人のだよ」と。

煩悩とか衆生とか仏教用語を持ち出すならなおさらね。紛らわしんだよ。

そして、じゃあやっぱり話は簡単だ。精神疾患者の憎悪は全方位の慈悲慈愛には成りえない。

なぜなら彼らは精神バランスを著しく崩しており、憎悪を慈悲に完全に変換するといった無茶苦茶行為に耐えられない。

人格障害者はやれるだろうか? たぶんやれない。つうかやれるやつがいたとして、そいつ人格障害定義から外れているので人格障害者ではない。

裏切った女を殺すことができるけど、その代わりに両親のどちらかを殺さなければいけない、というのと一緒だから無差別殺しをやった奴は殺された遺族の憎悪によって殺される可能性があるので勝ち組はいえない。

そこでその遺族が殺した奴を殺そうとするのを抑止できなきゃその武器コンセプト的に意味ねーんじゃね?

どんどん連鎖する。つうかむしろ連鎖を促進する。まるで的外れ平和が聞いて呆れる。

2011-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20110610175628

今の苦痛が、これからもずっと続くと思うから病むわけで、今この一瞬のことだけ考えればいい。

ずっと苦痛が続くなんて考えると、風俗嬢どころか、工員だってできないと思う。

毎日ネジを締める日々が続いて私の人生になんの価値があるんだろう?とか

毎日牛や豚を殺して解体する人生になんの価値があるんだろう?とか

毎日ごみ収集

毎日葬式

毎日キチガイの相手

毎日酔っぱらいの相手

etc...

世の中のほとんどの職業がなくなってしまます

極論を言えば、一回のプレイをそれほど苦がなく我慢できること、感情移入しないこと、過去未来をうじうじ考えないこと、それが出来ればやれると思う。

未来の心配は未来にすればいい。

過去のことは過ぎ去ったことだから考える必要はない。

今のこと以外を考える事、過去を悔いたり未来の心配をしたり、考えても答えの出ないことを考えたり、それを仏教用語では『妄想』というのだそうです

ミヒャエル・エンデも『モモ』でベッポじいさんに言わせています

とっても長い道路を受けもつことがよくあるんだ。

おそっろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。

・・・

いちどに全部の道路のことを考えてはいかん、わかるかな?

つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、

つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。

いつもただつぎのことだけをな。

するとたのしくなってくる。

そうはいっても、年齢と共に稼げなくなってくる職業であることは『妄想』でなく『事実』なので、ちゃんとプランニングはありますけども。

2010-06-05

ナイーブなエコとナイーブな反エコ

切込隊長ブログ記事「なんかエコ活動とかやってる奴がいるけどさ」に、ブクマを見るとほぼ全面支持なのに驚いたのでちょっと書いてみる。「エコ」がこれほど不人気となると正直、日本人類未来は暗いと思わざるを得ないからだ。またその一方で、そうなるのも仕方がないのかなと諦観する気持ちもある。理由は、グリーンピースをはじめとする「環境保護団体」には確かに、隊長が指摘するような非合理性と偽善性がつきまとっており、一般人が不信感を抱いて当然だからだ。

なお、私は環境問題専門家ではなく、市井の理工系の人間に過ぎない。ただ、多少の科学知識があればこの程度のことはわかるはずだということを示すためにこの記事を書いている。

物理のセンスのない「エコ」活動

隊長曰く、

なんかみんな、エコバッグ持ってたり、スタバとか逝ってマイカップ持ち込んで飲んでたり、してるけどさ。

本当にエコとか考えてるなら、風呂の回数減らせよ。一日おきでいいだろ。ドライヤーも使うなって話だ。マイカーぶんぶん通勤してる奴が、得意げになって使用済み天ぷら油の再利用とか言ってて馬鹿なんだろうかと思う。

これは全くその通りと言わざるを得ない。ここでは話を単純化してCO2の削減についてのみ考えることにすると、生活の中でCO2を直接的・間接的に最も排出しているのは自動車光熱費(特にエアコン)であるのは余りにも明らかなのだ。CO2は基本的に炭素を含むものを燃やしてエネルギーを取り出したときに排出される。そして、物理を少し学んだことがあれば自明のことなのだが、日常生活の中ではものを動かしたり熱したりというのが圧倒的にたくさんエネルギーを使うことなのだ。そして、50kgぐらいの人間1人を動かすために、1tぐらいの乗り物を使い、そしてゴムタイヤでアスファルトの上を走る自家用車というものがいかに、たとえば鉄道と比べればエネルギー効率が悪いかは明らかなわけで、エコバッグとかマイカップとかをやっていても車通勤をしているだけでおつりが来るぐらいのCO2を排出することになる。

つまり、個々人が「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」るような「エコ」活動は自己満足以外の意味はほとんどないのだ。

本来の「エコ」とは何か

では、本当の「エコ」とはなにか。上に書いたことからおわかりだろうが、エアコン冷蔵庫を高効率のものに買い換えさせ、人間やものが移動する必要を減らしつつ、できるだけ自動車依存しないように路面電車の整備や業務のIT化を進めていくといった社会構造の改革をするほかない。同時に、エネルギー源をできるだけ化石燃料依存しないように、その方面での技術開発も進めていくことだ。

要するに、「エコ」とはどこまでも今後のエネルギー資源戦略の話であり、マクロ経済都市工学、そしてエネルギー工学といった堅い分野の成果を積み上げていく話なのだ。本質的に、「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」たり、経済成長を否定したり、科学技術を悪と糾弾したりするような話ではない。

ちなみについでに言うと、温暖化CO2原因論に対する懐疑論跋扈している(どういうわけか、池田信夫氏を筆頭にラディカルなリバタリアンは判をついたようにそうなのだが)が、化石燃料の枯渇を見据えればどのみち取らねばならない対策は同じである。だからそのことは考えなくてよい。

もう一つ、隊長の書いている

環境を考えて、太陽電池パネルをつけました」とかさ。太陽電池パネル生産するのにまず二酸化炭素エネルギーロスがかかるっつーの。

はよくある誤解で、最近では太陽電池では余裕でエネルギーの元が取れるようになっている。

ニューエイジ運動による「エコ」の簒奪

ではなぜ、このような誤った「エコ」のイメージとそれにたいする反感がここまで広まってしまったのか。それは、グリーンピースに代表される環境保護団体の姿を考えてみるとわかりやすい。彼らの中には菜食主義、呆れるほど不合理な反捕鯨運動経済成長科学技術物質文明への否定的評価、そしてオカルトじみた「スピリチュアル」といったイデオロギーへの親和性が強く見受けられる。これは本来、上に述べたように「エコ」と必然的な結びつきはどこにもない。にもかかわらず、世間では「エコ」というと、もっぱらこうした偽善的で胡散臭い印象ばかりがはびこってしまっている。これはなぜなのか。

答えを書いてしまうと、これは近代現代欧米に特徴的な「ニューエイジ」と呼ばれるある種の疑似宗教社会運動の産物なのだ。ダーウィン進化論などの影響によりキリスト教的思想基盤が揺らいだ後、既存の価値観を否定し、オルタナティブを「東洋」に求める動きが西洋社会には発達した。それが「ニューエイジ」なのだ。西洋にはなぜか、日本のあらゆる事物を「禅」に結びつけ、むやみやたらと親日的な人(それでいて捕鯨のこととなると途端に北朝鮮まがいの反日戦士になる)が多いが、これも一つには「ニューエイジ」の影響である(日本がそれを利用した面も多分にある)。このほか、北京オリンピックへの反対運動の旗印がなぜ「チベット解放」ばかりで「ウイグル解放」ではなかったか、本質的に同じ宗教の分派であるイスラム教があれほど嫌われる一方で紛れもない異教徒であるダライ=ラマがなぜあれほど尊敬されるのか、そういったことにもこの「ニューエイジ」が背景にある。そしてついでに言えば、オウム真理教とか船井幸雄とかはたまた「水からの伝言」といった訳のわからないものは、日本にこうした「ニューエイジ」が「逆輸入」された結果であるといっても間違いではない(早い話、オウム真理教伝統的な漢訳の仏教用語ではなくサンスクリット語やパーリ語をカタカナ書きした用語を使っていたのはこのためだ。これが「阿吽真理教」であったり、ホーリーネームが「マイトレーヤ」や「マンジシュリー」ではなく「弥勒」や「文殊」だったらあれほど信者を集めたかどうか想像してみるとよい。オウム仏教原理主義でありつつ、伝統回帰ではなく伝統否定なのだ)。

少し脱線気味になったが、要するに「エコ」を敵視している人は戦う相手を間違えているのである。グリーンピースをはじめとする「ニューエイジ運動キモいことには何の疑いもない。ああいう偽善的かつカルト的なものは叩いておくべきだと私も思う。しかし、「エコ」全体を一緒くたに攻撃するのは誤爆もよいところなのだ。

おわりに

鳩山内閣エコ政策が嫌悪されたのはこう見ると当然の話だ。鳩山氏の「いのちを守りたい」というエコ政策は、本物の「エコ」のような国家戦略ではなく、もっとナイーブな感情に端を発していて説得力がまるでなかったからだ。鳩山夫人のオカルト嗜好ともども、これも「ニューエイジ」の影響の産物である面が多分にあり、国民偽善臭を嗅ぎ取ったのはおそらく当たっている。

しかし、エコは本来国家戦略であり、未来にわたる豊かな生活を保つために不可欠である一方で、日本国益にも繋がる可能性をも秘めているのだ。上に述べたように「エコ」のためには重工業技術力が強く求められるのだが、これは日本の得意分野であって、中国韓国といった新興国に対して優位を比較的強く持っている分野でもある。同様の事情を抱える独仏が「エコ」に梶を切り、オバマも「グリーン・ニューディール」を提唱しようとしているのはこのためなのだ。日本政府がこの方面に消極的なのは、重電産業に身を置くものとして実に歯痒いものがある。どうか、もっと事実を冷静に理解し、お涙頂戴物語としてではなく国家戦略としての硬派な「エコ」の推進の世論の形成に手助けをしてくれる人が一人でも増えて欲しいものだ。

追記

誤植訂正。b:id:yoh596さんご指摘どうも。

2010-02-24

体臭文学

体臭心理

臭愚政治

貸せ体臭

体臭文化

体臭羞恥されるようになる

余談だが体臭は元は仏教用語らしい。由緒正しい唯識用語だ。

唯識 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを体臭(ていじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行体臭子 げんぎょうていじゅうじ)。

2009-10-20

株式会社せつなとかセツナプロジェクトとか

http://anond.hatelabo.jp/20091020134345

「せつな」という言葉日本語変換しようとすると「切な」「拙な」「刹那」になるわけで、

多分ネーミング的には「刹那」が一番それらしいんだろうけど、

言葉意味としてはいずれであってもあまりよい会社名とは言えないよね。

元は仏教用語から発生したものすごく小さい単位を言う言葉だと思ったけど。

刹那的とかいうと「一時的」「泡沫的」みたいな言葉シソーラス的には近いわけで、

株式会社せつなが「株式会社刹那」。セツナプロジェクトが「刹那プロジェクト」だとしたら、

刹那的会社とか刹那的プロジェクトって感じに思えてしまって、

ネーミングした人は「せつな」という言葉がどういう意味になるかわかってなくて付けたんじゃないかな、と思った。

昔「コミューンと名の付いた政体は長続きしたことがない」とか「○○企画という会社名の会社大企業になったことがない」

だから会社名や組織名のセンスは重要って聞いたけど、「せつな」なんて付けちゃうのは会社名としてもプロジェクト名としてもは「うーん…」なかんじ。

2008-12-19

http://anond.hatelabo.jp/20081219062856

畜生ちくしょう、Skt:Tiryagyoni、漢訳:横生=おうしょう、傍生=ぼうしょう)とは、仏教において、人間以外の生物のことをいう。六道また十界の1つである。十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%9C%E7%94%9F

「ちくしょー」も、元々は仏教用語だというのは瑣末ですが。

2008-10-06

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諸行無常 - Wikipedia

諸行無常(しょぎょうむじょう、sabbe-saMkhaaraa-aniccaa)とは、

仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、

一瞬といえども存在同一性を保持することができないことをいう。

陽子 - Wikipedia

標準模型によれば、陽子寿命無限であるとされているが、

大統一理論によると、非常に長い時間をかけて崩壊することが予言されている。

これを陽子崩壊(ようしほうかい)という。


[無功徳][むくどく][本来無一物]

変わらぬ友を求める者は墓へ行け!

[友人][友達][友情]大学時代から20年に亘って親友

知人・友人・友達・親友・心友・莫逆の友・友情

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