はてなキーワード: 菜食主義とは
これは菜食主義やベジタリアニズムとは何の関係もない。たった1kgの肉を生産するのにどれだけの水が必要なのか、そしてなぜ私たちの食生活から肉の消費を減らすべきなのかを理解することである。これは持続可能性の問題のひとつであるが、実際には多くの側面があり、今日はそのひとつである「水」のみに焦点を当てる!
3,091,000リットルの水で何ができるのか?これは200kgの骨なし牛肉を生産するのに必要な水の量である。これによると、骨なし牛肉1kgを生産するのに必要な水の量は15,400Lである。
長さ8m、高さ40mの壁
15,400Lの水を実際に頭の中でイメージできるだろうか?1Lの水筒を思い浮かべてください。それを目の前に置いて、この1Lの水筒でできた長さ8m、高さ40mの壁を想像してみてください。これはステーキ1枚に含まれる水の量である(例えば、追加の調理工程は必要ない)。信じられないかもしれないが、私たちが使用する水のほとんど(実際には92%)は食料生産に使用されている。少なくともその一部を節約することで、ほんの一部でも大きな違いを生み出すことができる!
俺の理解は、「ヴィーガンは菜食主義が正しいという仮定の上で生きてるから、その仮定に沿って世の中に菜食主義を広める方が当たり前である。だが仮定が絶対に正しいと証明されているわけではない」ってことと近い。
「ある人が正義の原理に基づいた規範的主張をする」ってのは、「ある人が○○が正義だという『仮定』の上で議論を進める」ってのと近い。
そんで、議論での『仮定』ってのは、『とりあえず設定する前提』ってのと近い。
「ある事柄が本当に真実か証明されていないが、とりあえず真実だとした上で議論を進める」ってこと。
ヴィーガンは、菜食主義が正しいという仮定の上で人生を生きている。
資本主義者も資本主義が正しいと仮定して生きてるし、自由主義者も自由が正しいと仮定して生きてるし、キリスト教徒も仏教ともそれぞれの宗教が正しいと仮定して生きてるいる。
人はみな、自分の人生観や価値観や道徳観を持っていて、それが正しいと仮定しているからその考え方をしている。
ある人の価値観はその人にとって正しいのだから、善く生きようとすれば自分の正しい価値観を世界中に広めようとする方が当然だ。
そうしないのは、善く生きようとするのは面倒くさいという怠惰のためか、既に自分の正しいと信じる価値観が世の中に広まってるから行動する必要がないからのどっちかだ。
だから、勤勉なヴィーガンは正しいと信じる菜食主義を広めようとする方が誠実だし、勤勉な肉食主義者は正しいと信じる肉食主義を広めようとする(というかすでに広がってるから守る)方が誠実だし、勤勉な自由主義者は正しいと信じる自由主義を広めようとする方が誠実だ。
他人の生き方に口を出すべきでないという人も、「他人の生き方に口を出すべきでないという生き方」を広めようとしている。
しかし、我々がそれぞれ持っている正しさは仮定でしかないのだから、絶対に正しいというわけではない。
そして神ではない我々には、何が絶対に正しいかを解き明かすことはできない。
延々と議論をして意見をぶつけ合ってその中でちょっとでも正しそうな方向に向かうしかない。
議論対立を厭うのは知的怠惰である。……が、現実的には、宥和や共生というのは知的怠惰からの方が生まれやすいのかもしれない。
ヴィーガンやベジタリアンの菜食主義は「アメリカ・イギリス・台湾・インド」などで多くの人に支持されており、日本においてもたくさんのメディアで紹介され、今ではかなり認知度も上がったと思われます。
しかし、実際にヴィーガンまたはベジタリアンとして食生活を送っている人は、一体どれくらいいるのでしょうか。
以下のデータは、株式会社フレンバシーが2021年12月に行ったアンケート調査[※]の内容を参照しています。
調査人数:2,413人(男性1,208人・女性1,205人)
年代分布:20代480人・30代481人・40代483人・50代484人・60代以上485人
質問:「ご自身が取り組んでいる食生活はありますか?(複数回答可)」
出典:『日本のベジタリアン・ヴィーガン・フレキシタリアン人口調査 by Vegewel』
https://vegewel.com/ja/style/statistics3
・ベジタリアン「3.8%」
・ヴィーガン「2.2%」
・合計「6.0%」
・重複回答した割合「0.9%」
調査の結果、ヴィーガンまたはベジタリアンとして食生活を送っている人は全体の「5.1%」。
インドって菜食主義が浸透してるんだけど、バラモンは菜食で、カーストが低くなるほど肉とか卵とか食うんだわ
まあ牛は食わんけどさ、菜食主義って昔っから金持ちの特権なのよ
貧乏人は飢えちゃうから肉食うけど、なんかそれを金持ちが「あいつら汚れてるわ」とか「おまえら地獄行きだぞ」とか煽り倒してめちゃくちゃ差別して搾取してきたわけよ
現代の日本人はさすがに肉食わなくても飢えないけど、金持ちの道楽ってところは変わってないよね
この「金持ちの道楽じゃん」って、別に俺が考え出した俺独自の批判じゃないけど、君の提示してくれたビーガンFAQには回答が見当たらないので、回答を求めます。
まずIKEAはスウェーデン発の店で、世界各国に店舗があるので「1店舗もない県なんてザラだよ」ていう指摘は視野が狭すぎます。
そして「フレキシタリアン」は2014年『オックスフォード辞典』に追加された比較的新しい言葉ではあるものの、歴史的には菜食主義の様式の1つである「フレキシタリアニズム」に則った言葉・思想主義です。
flexitarian、フレキシタリアンなどで検索すれば分かることですが、事実そういう言葉があって、その言葉を知っている人、その言葉を使っている人、その思想主義に準じている人も大勢います。
「私や私の周りの人たちは知らなかったしそんな言葉使っていない、だからありえない」と言ったところで事実は覆りません。
そもそも認知率の多寡で思想主義の妥当性を語るのも論理的ではありません。どれだけの人が知っているかどうかと、思想主義の確かさはイコールではないからです。無論その言葉が現在進行形でどれだけ使われているかどうかで語るのもナンセンスです。
仏教は狂信的な完全主義を嫌います。釈尊は、極端な修行や意見の間に中道を見出すことを信奉者に教えました。このため、菜食主義を実践する仏教徒は、菜食主義者と丁重に付き合うことが奨励されています。
仏教の「メッタ」という儀式は、自己執着することなく、すべての生き物を愛する優しさです。仏教徒が肉食を控えるのは、生きている動物に対する優しさと親切心からです。動物の体には汚れも腐敗もない。つまり、肉そのものが問題なのではなく、仏教徒が慈悲の心でルールを破ることもあるのです。
例えば、何年も会っていない年老いた祖母を訪ねたとする。祖母の家に着くと、子供たちがポークチョップを詰めていたころに一番好きだった料理を作っているところだった。
老人の体はキッチンの周りをうまく動かせないので、彼女はもうあまり料理をしない。しかし、あなたに何か特別なものを与え、あなたが昔のように豚の角煮をほおばるのを見るのが、彼女の心からの願いなのです。彼女は何週間も前からこれを楽しみにしていたのだ。
無いと言うには語弊があるかもしれない
好んで食べるのは豆腐、玉こんにゃく、ボイルえび、カクテキ、ヨーグルト、塩キャベツ、蒲焼さん太郎、えびせんべい。
好んで、というよりこのあたりしか買わないし食べない(一人暮らしなので好き勝手やってる)。
まあ面倒くさいけど食べないと死ぬし、食べなきゃいけないなら、まあこれならいいか・・・ってカゴに入れるくらいの。
菜食主義とかいうわけではなく、ローストビーフとか鶏ささみとかは食べられる。面倒だから外食でしか食べないけど。
ハンバーグは「こういうのならいける(玉ねぎはざくざくか、肉は固くないか、ソースはデミグラスではないかとか)」という許容範囲が狭い自覚があるので基本食べない。豆腐ハンバーグはおいしい。
魚は比較的好きかもしれない。面倒だから買わないだけで。面倒な思いをしてまで食べたいかと言われるとそこまでではないので、回転寿司以外で魚を食べることもない。
絶対に食べないのは揚げ物。面倒くささの極み。食べ物としても好きじゃないので外食であっても食べたくない。
子どものころから唐揚げとかコロッケ、カツといったお子さん大好きメニューが軒並み苦手だったので、歳のせいではない、と思う。まだ20代だし(震え)
揚げ物だけど天ぷらは食べられる。わさび塩につけて食うとうまいよね。まあでも好んで食べるかというとry
時流に乗るとカツ丼は絶対食べられる気がしない。見ただけで食欲減退する。親子丼も無理。
根本的に食べることがそんなに好きじゃないんだと思う。その上好き嫌いが多いので何食べたらいいのか分からん
早死にとか病気とか覚悟の上で、それでも嫌いなものを無理して食べる生活がイヤすぎる
教養になったは、さんきゅー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、本物の」など感情に訴えかけるだけで本質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]。
目次
1 例
2 使われる例
4 脚注
5 関連項目
例
哲学教授のブラッドリー・ダウデン(英語版)は、反駁された汎化の試みに対する「アドホックな救助」としてこの誤謬を説明している[1]。以下はこの誤謬の簡略化された一例である[6]。
B: 「私の叔父はスコットランド人だけど、粥に砂糖を入れていたよ。」
A: 「でも、真のスコットランド人は粥に砂糖を入れないんだよ。(But no true Scotsman puts sugar on his porridge.)」
使われる例
真のスコットランド人論法は主張者が以下の条件を満たしたときに使われたといえる[7] [3] [4]。
特定の都合の悪い反例を定義的に除外するよう変更した主張をする
レトリックを用いてその変更を隠す
純粋さへの訴えは、一般的に、肩入れしている集団の擁護に関連している。スコットランド人と見なされている誰かが凶悪な犯罪を犯した場合、スコットランドの国民の誇りの問題が危機に瀕していると想像できる。このとき、あるスコットランド人が犯した罪が他のスコットランド人と関連付けられる(これは関連性の誤謬である)ことを恐れ、この特定の構成員や行動がグループに所属することを否認する動きが出てくるかもしれない。「真のスコットランド人はそのようなことはしないはずだ」というのである。すなわち、「そのようなこと」をする人はトートロジー的に(定義的に)グループから除外され、そのグループのよい性質に対する反例にならないようにするのである[4]。
ロバート・アンダーソンは、「真のスコットランド人は……」というフレーズは必ずしも誤謬ではないと主張している。それは、このフレーズに含まれる「真」という用語の構文的文脈に依存するのだという[7]。
一般に、「真のスコットランド人」論法は「スコットランド人」にあたるものが文が指す対象と相容れない場合には正しい可能性がある。例えば、菜食主義は肉を食べないことであると明白に定義されている。したがって、「真の菜食主義者は肉を食べない」は「私の友達は菜食主義者だが、肉を食べる」に対する間違ってはいない応答になりうる。肉を食べることはベジタリアンであることと語義からして相容れないからである[8]。