はてなキーワード: 社会運動とは
まず文脈というものが大事だよ。アメリカはとても人種差別の激しい国でつい数十年前まで平気で差別していたとんでもない人権後進国だよ。今でも差別してるよね。人種差別を人種差別で解決しようとするアホが考え出したのがアファーマティブ・アクションというものだよ。アメリカ社会は差別がダメなものだという空気感がどんどん強くなっていき反差別が一大勢力になったよ。反差別的な社会運動に関心が高いことをwokeと呼ぶようになり意識の高い人達はwokeを自称していたよ。
人間の世の常で、力を持った団体は悪い人にどんどん乗っ取られていくよ。もともと警察暴力反対からできたBLMも今や活動家の餌食になってとんでもない暴力団体になってしまったよ。言葉狩りもどんどん激しくなっていき例えば"master bedroom"という言葉のmasterが奴隷の主人masterを想起するから使うなと叫ぶ人達が出てきたりおかしなことになってきたよ。テック業界だとmasterブランチやblacklist、dummyなどが餌食になったよね!ディズニーの作品もだんだんと不自然なほどに黒人LGBTQ推しになっていき人々は完全に疲れ切っているよ。女子スポーツに男性を出すことが「正しい」ことになり幼い子供に積極的に性転換手術を推奨することが「正しい」ことになっていったよ。
だんだんとwokeという言葉の意味が変わってきたよ。今ではwokeという言葉はこのような行き過ぎたリベラルの暴走した頭のおかしいカルトを指すようになったよ。要するにwokeという言葉が悪口として使われるようになったんだね。
このようなwokeな団体やメディアに金を注ぎ込んでいる黒幕の一人がジョージ・ソロスというジジイだよ。彼の息子のアレックス・ソロスはカマラ・ハリスを含む民主党の政治家を買収していて恥ずかしげもなくツーショットの写真を公開しているね!
そんな文脈がありながらもカマラ・ハリスは「もっとwokeにならなきゃ!」などとバカなことをヘラヘラと酔っぱらいながら叫んでいたもんで、当然みんなから嫌われていたよ。
トランプが勝ったのは当然なんだよね。むしろカマラ・ハリスが思ったより善戦したことの方が驚きだというのが世の中の一般的な解釈だよ!
そもそもフェミニズムが問題にするのは個人の価値観ではなく社会の価値観であり、社会制度だよ。社会の変革が求められていて、あくまでそのための一歩として個人レベルでの意識向上を説いている。言うまでもなく、それは闘争だよ。戦い続けなければいけない。戦いもしないで世間がフェミニズム的な生き方をふんわり受け止めてくれたことなんてないし、たぶんこれから先もない。フェミニズムは社会運動だ。
あと、育児に関わる保障は「えらさ」の問題ではなく福祉の問題で、フェミニズム的には社会でより困難な立場にある人をカバーするような社会制度(要するに、強い者だけが救われるマッチョな社会とは違うあり方)が望まれていて、妊娠していたり育児をしていたりする人はサポートすべき対象なんだ。生まなきゃいけないとか生んだらえらいとかではないけれど、現に妊娠したり出産したりした人はケアを必要としているからそれは与えられるべき、という発想だ。
個人ではなく社会が主眼であること、弱い立場な者が適切にケアされる社会を目指していることは、たぶんフェミニストも男性学の論者も一致している点じゃないかな。
あとさ、一人で意識を入れ替えようとするより、仲間を見つけた方がいいと思うよ。フェミニストたちは互いに連絡を取り合ったり、イベントを開いたり、フェミニストが集まるような本屋を作ったりしている。仲間がいないと心が挫けるからね。たぶん男性学で同様の集まりは少ないけど、まずは同じような意識を持つ男性を探してみたらどうだろう?お互いの考えを語り合うことで気付けることもあると思うよ。
この意見は、クィア運動がポストモダン思想の影響下に生まれたとする認識に対する疑問や批判を述べており、歴史的な視点からいくつか妥当な点がありますが、若干の曖昧な表現や不正確な点も含まれています。
妥当な点
クィア運動がポストモダン思想と完全に依存関係にあるわけではなく、ポストモダン思想が現れる以前から同性愛者やトランスジェンダーなど、性的マイノリティが存在し、彼らの権利を求める運動も歴史的に展開されていた点は事実です。特に1969年のストーンウォールの反乱は、こうした運動の象徴的な瞬間とされ、以降のクィアコミュニティの活動に影響を与えました。
ジュディス・バトラーのようなクィア理論家がクィア運動の根底を形成したわけではなく、クィアコミュニティの中で自然発生的に進展した権利運動があり、それを学問としてまとめ上げた形がクィア理論とされています。バトラーもまた、既存の運動に触発されつつ、理論を構築しました。
フェミニズムやクィア運動の参加者が必ずしも関連する哲学や理論を学んでいるわけではない点も的を射ています。社会運動は必ずしも学術的理論に支えられているわけではなく、生活や経験に基づくリアルな問題解決からスタートすることが多いです。
クィア運動とポストモダン思想の関係を完全に否定している点は、若干極端に感じられます。ポストモダン思想、特にデリダやフーコーなどの影響を受け、1980年代から90年代にかけてクィア理論は発展しました。これにより「セクシュアリティ」や「ジェンダー」が社会構造や権力関係の一環として分析されるようになり、運動の理論的基盤が強化されました。クィア運動の実践が学問的に整理され、クィア理論が拡大したことで、社会に対する批判や改革のためのフレームワークが明確化した面もあります。この点で、ポストモダン思想をクィア運動の「産物」とまで言い切るのは誤りですが、関連性を無視するのも偏りがあるでしょう。
クィア当事者が社会的に疎外されても自由に生きられるという意見もありますが、現実には多くのクィア当事者が差別や偏見にさらされ、社会的支援を必要としています。孤立が深まると生活や精神面で困難を感じることも多いため、社会からの孤立が「普通に生きる」ために望ましい選択とは言えません。
社会運動と学問的な理論の関わりを一部の「知的エリート」に限定する点も、一面的です。学問的な理論は運動において重要な役割を果たし、政策提言や社会への理解促進に寄与しています。運動の根拠や道筋が理論によって補強されることで、社会的な認知度や影響力が増すことも少なくありません。
まとめ
この意見は、クィア運動がポストモダン思想の「産物」であると単純化する見方に対しての反論として、一定の妥当性を持っています。とはいえ、ポストモダン思想が運動に与えた影響も確かに存在し、運動と学問が互いに影響し合いながら発展してきたことを踏まえると、双方の関係を単純化せずに捉えることが重要です。
この意見にはいくつか現実に即していない点や誤解が含まれている可能性があります。
• 現実に即していない点: 意見では「弱者男性陣営なんて草の根ですらないのであらゆる陣営から無視されている」と述べられていますが、実際にはこのような立場の人々の声も社会的に注目されつつあります。たとえば、社会問題としての「弱者男性」への支援や平等な機会の提供が一部の政策議論に取り上げられることも増えています。
• 弱者男性の問題は、必ずしも完全に無視されているわけではなく、特定の政策や社会運動においては一部の関心を集めていることがあるため、このような断定はやや極端です。
• 現実に即していない点: 「立憲共産党支持者のリベラルとフェミニストにとっては極めて重大な事項で毎日喧嘩してる上に活動家の意見を重視してる政党」と述べていますが、これは一般化が過ぎていると言えます。リベラルやフェミニストの立場は多様であり、すべての立憲民主党や共産党支持者が同じ意見や行動を取るわけではありません。また、政党内でも多様な意見が存在し、必ずしも活動家の意見がすべて優先されるわけではありません。
• 政党は複数の要素を考慮して政策を決定しており、特定のグループの意見が全面的に反映されるとは限らないため、これも現実の政治状況に即していないといえます。
3. 表現規制に対する誤解
• 問題点: 「立憲共産党ならほぼ確実に規制に傾くし規制も重たい」という意見は、党の立場について過度に単純化しています。立憲民主党や共産党の政策において、必ずしも表現規制を強化する方向に向かうというわけではなく、表現の自由や人権の保護に配慮する立場も存在します。
• 政党の表現規制に関するスタンスは、議論の内容や社会状況により変わることがあるため、必ずしも一方向に進むと断言するのは難しいでしょう。
• 現実に即していない点: 「自民党は規制強化する可能性は結構高いが」という部分についても、一部正しい側面はあるものの、これもまた自民党の全体的な立場を一面的に捉えすぎています。自民党も内部で意見が分かれており、表現の自由に対して一定の配慮を求める声があるため、必ずしも強化のみを目指しているとは限りません。
この意見は、現実の政治状況を過度に単純化し、主観的な偏見に基づいています。政党の政策や立場は多様であり、表現規制のような問題についても議論や状況に応じて異なる立場を取ることが多いため、より多面的かつ冷静な視点が必要です。
語源は、1986年公開のホラー映画『バタリアン』であり、「おばさん」と「バタリアン」のかばん語である。「Battalion」は英語で「大隊」や「大群」を意味しており、オバサンの大群という意味合いもある。 庶民的で羞恥心のない中年女性を風刺したもので、特に世間に対し無神経に迷惑をかける姿を描いたものが多く、中には犯罪に等しいような悪質な行為もある。
参考:フェミニストとは
フェミニズム(英語: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称である。政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差や性差別に影響されず、男女が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動である。男女同権主義に基づく、女権拡張主義、女性尊重主義ともいう。 (中略) フェミニズムの推進者や同調者は「フェミニスト」という。
ツイッターに画像を投稿する際はAI学習のために利用されることに同意しなければならないというものだけど、一部絵師様が「ツイッターやめる!移住だ!」などと言ってるらしい
別に違うSNSに移住したところでそこに投稿された画像をAI学習に利用するのは法律上完全に合法なんだから意味ないんじゃねーのと思うけど、まぁとにかくAIに反対しているというポーズをとるのが重要なんだろうな
移住先のSNSだってAIの学習目的での利用を禁止する規約を用意しているところなんてないし、仮にあったとしても法的には合法なんだから意味がないのにご足労なことだと思う
マジで生きづらそう
これは皮肉で言ってるんじゃないよ
最近ワンピースの作者がAIを利用したコンテンツを提供したり、ぷにるは可愛いスライムの作者が背景にAIを使ったりとクリエイターの中にもAIを利用する人が増えている
AI嫌いの人って自分の好きなクリエイターがAI使ったらそれだけで嫌いになるのかな
だとしたらあと5年後にはあらゆる作者のことが嫌いで嫌いで仕方なくなるだろう
ここ最近のエロ系の同人とかよく目を凝らして読んでみるといいよ
やぶ蛇になるからわざわざ作者が言及していないだけで実はもう効率化の一つとしてAIの利用は浸透していってる
AI自体のクリエイターに対する支援機能の進化もめざましくて、あと数年もすれば背景アシスタントなんていらなくなるんじゃないか?ってレベルだ
Adobeに生成AIが搭載されたのだってもう1年も前の話だからね
ユーチューブの広告でAI生成の合成音声を耳にしない日ってある?
あとゲーム系のクリエイターなんかはAIに対しても親和的だよね
例えば同人ゲームについてはAIを完全に排斥したゲームを探す方が難しいくらいになっている
企業系のゲームだって荒れるからいちいち言わないだけでAIの利用には積極的だよ
別にAIなんてのはただの道具に過ぎないわけで、自分の脳内にある作品を効率よく出力できるならクリエイターは合法な範囲で何でも使うに決まってるだろ
っていうか、AIに反対しているクリエイターって自分の作品を褒められたいんじゃなくて自分の技術を褒められたいだけなんじゃないか?
それってクリエイターとしては異端というか、結構いびつだと思うんだよね
俺は反AIに傾倒してフォロワーや友人を失っていく絵師を何人も見てきたよ
かわいそうに、反AI活動で増えたフォロワーって別に手描きのイラストそれ自体にはあまり興味がないようで、せっかく手で描いたイラストにも感想を寄越してくれないんだよね
人権とはなんぞや
守るべきはなにか
女は損してる、男の営業の人たちは接待とか言って会社のお金で美味しいもの食べてる
ずるーい、私達事務職の女子も会社のお金でグルメしたーい、平等!人権!
これじゃん
キミらの言うてる人権ってこーゆーはなしじゃん
歩いてたら拉致られて輪姦された
こーゆーのじゃないじゃん
結果としてリアル女の性被害は増えるよ?レイプ犯罪は確実に増える。
いいの?
エッチな絵を見なければ男はエッチな事を考えなくなるとか思ってる?
エッチな絵どころか映画館すら無い、エロ徹底排除のサウジアラビアが
性犯罪多すぎでどうにかせぇと国連から繰り返し勧告受けてるのはどう理解するの?
まぁ性犯罪統計は基準や暗数が違いすぎてあまりアテにはならんのだが
それにしてもエロコンテンツ天国の日本が良スコアであることは間違いない
なんで?
男はこうあるべきの圧も強い、自由が無い国だから奴らは事あるごとに自由だ自由だと言う
めちゃくちゃ抑圧社会なんだよ
で、性犯罪がクッソ多い
キミ等が目指してる社会ってこれなんだが
覚悟してる?
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
議論がとっ散らかってるけど、この四つを許容するのならアリだし、どれか一つでも許容できないのならナシ。もちろんそれぞれ独立してるわけじゃなく相互に絡み合ってるけどね。
民間企業の行うものは差別ではないとするもの。レディースデーや保険料など。
当然、採用や給与で差異を設けることを含みうる。(辞める可能性が高いから採用しない、という判断を認めるか)
スポーツの男女分けや医大の男性優遇合格枠(事前に公表すること前提だが)はここ。
加えてその一に絡むけど企業の採用や給与、保険料はここにも該当する。
差別されている側(女性)が利益を得るものだからアリとするもの。アファーマティブアクションなど。学割も学生の所得が低いことを理由とするならここか。
実はスポーツの男女分けも元々はここに入る。
同等の権利の主体(正確には意志能力)とみなされていないので差異を設けて良いとするもの。子供割引など。
例示を見てもらえばわかるが明らかに程度問題なことがわかる。(自民党が「差別」を「不当な差別」と書き換えたときは批判一色だったが妥当な書き換えだったと思う)
そして、スポーツを除いて、性別による差異を設けることってのは世論として認められにくくなってる感覚がある。
女性枠(アファーマティブアクション)も時代遅れになりつつあるしね、時代遅れになってから採用するのがいかにも日本的。
合法だろうが差別はダメだし、そうやって社会運動は進んできたはずだ。
アホなブコメがあったので
保険料、特に自動車保険に代表される損保は一応統計的裏付けがあることになってるのを知らないって言うのはさすがに増田が適当に書いているだけって言う証左(´・_・`)恥ずかしい