はてなキーワード: 事務的とは
私「私がS係長の後任になります。S係長から引き継ぎはまだ受けていませんが
T「はい。」
私「それでは、同じチームとなるHさんも誘っているので飲みに行きましょう」
あれあれ?聞いていたのと違う。きちんと話せるじゃないか?
事務的な話の後に、
S「部下のT君のこと知ってる?実はちょっと「困ったちゃん」なんだよね」
私「はぁ。噂ではなんとなく。でも、今日、挨拶したら普通でしたよ」
S「うん。新人研修でするような挨拶や対応は研修テキストを読んだり動画を見たりして
対応できるように訓練したようだ」
私「訓練ですか?」
S「そう。仕事も全然できなくてもやらせた。命令口調で接しているから俺の事を怖がっているよ。
俺のやり方を踏襲しろとは言わないけど、何かあったら相談にのるよ。
いろいろ問題を起こすと思うから、Tが上司のMさんを下に見てしゃべっているのわかる?」
私「Mさんは確かにPCもできないですけど、あからさまに馬鹿にするのはよくないですよね」
S「小学生感覚で自分より下の人をけなしたりするんだよね。動物と同じ。
それで俺が説教したんだよ。そしたら、すでに転職を考えていて、コンサルタント会社に
2社の内定をもらっているから、もうすぐ退職する予定ですと言ってきやがった。自分を
S「そう、能力が高い人じゃないと続かないから、Tなんてすぐにクビになっちゃうよ。
おれは、もう少し頑張ってみないかって引き留めたよ。いちおうね」
嘘だろ?なんで引き留めるんだよ。転職させたほうが組織のためにもTのためにも
いいじゃないかと思ったが、この後、計算高いS係長の本音が聞けた。
(次回に続く)
今年度はコロナ禍の影響による社内異動がありまして、同じ部署になった人と新たにコミュニケーションを深めようと思って元増田を書いた次第です。過去の人間関係の過ちを繰り返さない為にも、どうすればいいのか意見を募っています。辻褄が合わないことは無いのですが、どうしてそう思われるのでしょうか?
会社内での仕事のやり取りはもちろん簡潔な文章を心がけていますが、趣味やプライベートの話になるとどうしても文章が長くなってしまうのです。やはりそれはお互いのことを知り合うためには、まず自分のことを知ってもらわなければ始まらないからだと考えているのです。単に事務的に仕事の会話をすることを望んでいるのではなく、うまくコミュニケーションを深めて仲を深めたいというのがどうしてわかっていただけないのでしょうか?
生きるのを止めたいけど、クリーンにやめるための手続きがあまりに面倒で、とりあえず行きている方がまだ楽なのが辛い。
あんだけあれこれ苦労しながら生きるための制度や施設を整えるより、あきらめた人間はクリーンに人間処分できるようにするほうがずっと楽で安上がりなんんじゃないかと思う。
ペットとかでもあんだけ金かけて命が大切だとか啓蒙するより、ココロのケアとか無視してクリーンな機械的に事務的に処分できる処分施設作ったほうがもっと気楽で安上がりなんじゃないかと思う。
え?社会が荒むって?いや死にたい人間にその心配させる必要ないでしょう。社会適合者だけの世界になるんだよ。適合者ががんばって!
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
2年前友人が自殺未遂をした。
2年間ずっとこのことが心のおもりのようになっていたが、ようやく少しだけ吐き出して身軽になれそうなのでここに書くことにする。
ずっと気持ちの整理がつかなくてこのように文章にすることすらもできなかった。
特定を避けるためにところどころ虚偽の情報を入れている。それによって多少不自然なところがあるかもしれない。
その友人とはすごく仲がいいというわけではなかったが、近所に住んでいて会えばそれなりに話すような仲ではあった。
事が起きる数日前には「もうすぐ重要なプレゼンがあるから頑張らないといけない」などと話す友人に、「がんばれよ」などと言った。
本当にたまたま事務的な用事があり、その日はその友人の家に行った。
細かいことは省略するが、「ドン」という音がして、見てみると友人が真っ青な顔になって横たわっていた。
あまりにも肌の色が真っ青だったので、見つけてすぐはその青い人が自分の知っている友人だとは思えなかったほどだ。
自分は急いで119番通報をして、近所の人に協力を仰いで一緒に軽い応急手当や救急隊の誘導などを行った。
初めて119番通報をしたのだが、焦りのあまり「火事ですか?救急ですか?」などと聞かれても一瞬何のことだか分からず「人が~して倒れていて・・」などとモゴモゴと要領を得ない返事をしてしまった。そして見るからに状況は自殺(未遂)なのに、自分はひたすら「自殺とかではないと思うんですけど」と聞かれてもいないのに繰り返していた。
呼吸はしっかりしていたが体の一部が痙攣していて、こういうときってAEDを使うのだろうかなど迷いつつも見つからないうちに救急車が来た。
一応救急車には同乗したが、何をしていいのか分からずただちょこんと座っていた。このような状況で「頑張って!」などと言うのも違う気がする。救急車でも何度か「悲鳴みたいなのが聞こえたので、自殺とかではないと思うんですけど」とうわ言のように繰り返した。
一応怪我をした経緯を訊かれたが、それすら形だけという様子で、医療者は友人の怪我しか見ていないようだった。
友人はかなり危ない怪我をしたようだったが、幸い命は助かったらしい。重度の後遺症も残っていないということを風の便りで聞いた。
友人は引っ越してどこかに行ってしまった。休職か退職なのかは分からないが、とりあえず仕事からも離れているようだ。
もう二度とその友人に会うことはないだろう。自分の中で、その友人は驚くほど青白かったその日のままだ。
自分はというと、その日の光景のフラッシュバックに何回か悩まされた。また、友人の件以外にもいろいろな負荷がかかって、しばらくメンタルクリニックに通っていたこともあった。今ではほぼ完全に回復して普段通りに過ごしている。
しかし、今でもその友人の自殺未遂と同じようなシチュエーションに出くわすと、心にざらっと鳥肌が立つことがある。これは一生かもしれない。
4か月以上前に別れを告げられた元カノのことで気持ち悪さがずっと残っている
2017年春、彼女が高校3年生になったばかりのころにTwitter経由で友達になる
彼女はお絵かきが趣味でツイキャス作業配信をしていたので頻繁に訪れてコメントしてた
他に常連と呼ぶようなリスナーもいなく、大半は彼女が喋りながら作業するのに僕がコメントをするだけの日々
その時に彼女が高校3年生であること、自分と同じ県に住んでいることを初めて知った
夏になり仕事の都合により俺がTwitterで浮上できなかったりする中で、彼女はふとした理由からTwitterをやめてしまい連絡が取れなくなる
翌2018年夏、色々あった彼女がTwitterに戻ってきて再度やり取りするようになった。彼女は専門学校へ進学していた
そこから再び友達としての付き合いが始まり、学校の文化祭で同人誌を売るということでその年の秋にリアルで初対面
正直これまでのやり取りとかで彼女のことを好きになっていた自分がいたが、相手は未成年だという考えで想いを伝えないでいた
僕は在宅勤務で日中から暇というか通話しながらでも進められるような仕事なので二人で作業通話をするようになった
作業通話ってのは建前で、一緒にアマプラで映画を見たりしてなんというか友達以上恋人未満、ってのはこんな感じなのかなァと感じていた
「もし付き合ってる相手とかいるんだったら申し訳ないし、こういう通話は程々にしない?」
「付き合ってる人はいないですよ?」
こんな会話もした。正直一度会った時に素朴ながら可愛らしい外見をしていてモテるだろうと思っていたので予想外だった
そしてホッとした。裏で彼女のことをコッソリ狙ってる同級生男子とかいっぱいいただろうに
作業通話、そんな建前で二人とも会話がしたかっただけなのかもしれない
お酒を飲んだのは20歳の誕生日以来、という彼女と通話越しでお酒を飲みながら会話したりと楽しく過ごしていた
ある作業通話の際に「今まで黙っていたことがあります」と彼女に告げられた
要点だけ書くと
・実は2019年の春に男性から交際をもちかけられて付き合っている
まぁ、ショックだった
彼氏いませんなんて話を鵜呑みにして僕は彼女に散々アピールしていたのだから
そして自分ルールとはいえ、彼女が成人するのを待とうと思って想いを告げずにいたのに、あろうことか学校の先生が未成年だった彼女に手を出していたなんて
しかも内縁の妻がいるので彼女に対して将来を誓うようなつもりもない、そんな男相手にだ
「他にいい男がいたら、そっちに行きなよ」
そんなセリフを常日頃彼女に聞かせていたらしい。僕はその先生だけでなく、世の中の教師という存在が一気に嫌いになった
自分が課したルールで何もかもが手遅れになったことを知った僕は彼女に今の関係を終わりにしようと告げた
しかし彼女から帰ってきた答えは「終わりにしたくない」そんな一言だった
「どうせ卒業したら先生との関係は終わりになってしまう。だから貴方から私に告白してほしい。恋人として関係を続けたい」
涙ながらに彼女から訴えられた僕は、「今までずっと好きでした。僕と付き合ってください」と告白してしまった
そしてここで問題が発生する
元から忙しいを理由に頻繁に会ったりはせず、自分の都合のいい時にデートに連れて行くような人らしい
更に年に数回体調を大きく崩す人であり、恋人が出来たと告げたらショックで体調を崩すのではないか?彼女はそれを懸念していつ告げようか悩んでいた
僕は悩んだ末、彼女に「今すぐでなくてもいいよ。待ってるから」そう言った
それからは晴れて恋人同士ということで仲をゆっくりと進展させていった
恥ずかしくて最初の頃は手を繋ぐのを苦手としていた彼女が、自分から僕の手を握ってくれた日はとても嬉しかった
歪な形ながらも3年越しの片思いがようやく実ったのだ
年が明けた
そして僕の大好きだった祖母が死んだ
そして葬儀から帰ってきた僕は彼女に自分のトラウマを打ち明けた
これまで断片的に伝えていた出来事を
あまりこういった場でも書きにくい僕の根っこにある弱い部分だ
20年以上自分を苦しめてきて、何度も死んでしまいたいと思わせてきた弱みだ
これを読んでくれてるあなたに伝わるかわからないが、人生で最も僕を救ってくれた一言で、この子と巡り合えてよかったなと心から思った
2月、ちょっとずつ仲を深めていった僕たちの関係が急速に進展した
彼女は前述の先生とのことで性行為に対して少しトラウマに近いものを抱えていた
先生から「ゴムがあるとイケない」と言われ生でセックスしたことが原因で、その話を聞かされていた僕は慎重になっていた
「怖かったりしたら、断っていいから。でも僕はキミを抱きたい」そう彼女に伝え、彼女からもOKサインがでた
2月というのは僕にとって1年を通じて最もつらい時期で、どうしても母親の命日が近づくと苦しくて仕方なくなるのだ
「貴方のせいじゃない」そう言ってくれた彼女に気分が沈んでることで心配をかけてしまった
この頃にはもうコロナが流行っていて、どこに行くにもマスクが欠かせない時期だったのに彼女は休みを利用したり学校帰りに僕とデートをしてくれた
気分が沈むのは、母親の命日だけじゃない、もっと他に理由があると気が付きながらも
まだ彼女は先生に対して付き合っている人がいることを告げていなかった
忙しくて夏以降一度も会ってないとは言っていたけども、僕はそれが真実なのかわからない
デートに誘うと「そこはやめた方がいいと思うよ。先生と行ったことあるから…」
「先生は悩みを抱え込む人だから、別れてからも相談役として支えてあげたい」
「ごめんなさい。私が先生に思う好きと貴方に思う好きは別のものだから、貴方を一番好きにできない。順位付けができない」
そんな歪な理由だった
顔も名前も知らぬ、彼女にとって今も大切な存在であるおじさんに負けたくないと空回りばかりしていた
眠れぬ日々が続いた
本当は都合のいい相手としてキープされてるだけなんじゃないかって、そんな考えばかりが頭をグルグルとよぎる
次第に体調を崩し始めた。不眠と食欲不振、そして胃の痛みばかりが続く
「もう待ってるのは辛い。先生にハッキリと話をしてくれないか」
『待ってるから』あの日そう言ったのは自分だったのに、僕は約束を反故にしてしまった
一日かけて彼女から先生へと別れを告げたという内容のLINEがきた
まるで親から叱られた子供がしぶしぶと宿題をこなしたような、そんな不服さを文面から受け取ってしまった
『しんどいので1~2週間放っておいてください』
望まぬ形で別れを告げさせられ、気持ちの整理がつかないであろう彼女からそう送られてきた
そして1週間もせずに僕は別れを告げられた
今もどこで道を誤ってしまったのか、正直そう考えてしまう自分がいる
別れてから僕は自分を見失い、とても彼女を傷つけるようなことをしたし、カフェイン錠剤で自殺を図り失敗した
振られたぐらいで死のうとするなよ、そう思う人がいるかもしれない
ただ、20数年抱えていたトラウマを受け止めてくれた相手から突然見捨てられてしまったのだ
彼女によって心の隙間に流し込まれたセメントを、すべて取り除かれ、元あった穴より広がってしまったような気分だ
僕が彼女に対して甘え過ぎていたのかもしれない
今も答えが出ないでいる
そして僕は今日も心の傷跡を掻きむしっている
周りの人間が「あっこいつは雑に扱っていい人間なんやな」ってなって別にいじめ受けてる(に近い疎外を受けてる)人をなんとも思ってない人たちも雑に扱っていくこと。
ギリそのいじめられてるやつをいじめてる、又、嫌ってる人のグループにいる人間ならわかるけど(そこの中の人間関係もあるだろうしね)、同コミュニティのほぼほぼ関係ない人まで挨拶しなかったり悪意あるイジリみたいなのし出すのほんとキッツイ。
帰り際とかに誰にアピールするわけでなく、ナチュラルに挨拶無視したりわざと配ってるお菓子あげなかったりするあれよ。
ほんまキッツイ。別の職場でされたこともあるし、今はまた見てる。
いやほんとさ、そんな一貫してツンケンできるやつ本当体力とか気力とかあんなぁ…と思うわけですわ。
事務的に全体的に「お疲れさまでーす」には「お疲れさまでーす」ってやまびこみたいに返してる方が楽じゃん。
そういうやつが保護犬やら保護猫やら子供の権利やら弱者に寄り添う、的な話してる時「そういうのもいいけど、挨拶くらい返してやれよ」って言いたいんだけどね。
でも言ったら次私でしょ。それは避けたい。
何度も言うけど体力気力ないからさ。
私にできんのはこの胸くそ悪い感覚を感じつつにやまびこ挨拶続けるくらいだよ。
何なの?あのアンタッチャブルな存在にあえてしていくいじめの燃料的な人。
いじめ自体が低レベルで唾棄すべき行為なのは当たり前の話だけど、ほんとに理解不能なのはこういうタイプの人間よ。
別にさ~仲良く飯食えとまで言わないけど挨拶くらいしようや。もうそんなの努力とすら言えないじゃんよ。お菓子もグループ内だけで回すか箱でおいといて取ってくださいって書いとけ。
私服はユニクロはおろか高校の頃母親がスーパーで買ってきた謎のメーカーのシャツすら現役。
気温が15度を超えたくらいから靴は完全にサンダルに移行、ズボンも全部短パンにする。スネ毛は剃ってない。
冬場はダウンジャケット(安物で、毛羽立ってきつつある)で上半身を覆い隠す。
スキンケアはスーパーで一番安い洗顔剤(すげえくさい。マジでなんの臭いかわからなくて不気味)を買って使ってる以外はなにもしてない。肌は普通に汚い。
●お金の使い方
趣味はゲーム、映画鑑賞あたり。といってもゲームはどんどんやる体力が無くなってきて、積みゲーをするタチでもないのでやらない分だけ買わなくなってる。PCゲームもちょっと嗜むが、パソコンが低スペックなので遊べるのはごく限られた作品のみ。
映画も好きだけど、映画館は高いし遠いのでNetflixに頼りきり。引越しを機にテレビを廃したので地上波でやってる映画番組を観なくなってしまった。近所のTSUTAYAが潰れたというのもあり、映画は専らパソコンの画面で観ている。ボーッとしていて聞き逃してもすぐ巻き戻せるのがいいね。英語字幕と翻訳字幕を比べやすいのもいい。
●落ち着き
常にひとりでいるから落ち着きもクソもない。職場は事務的やりとりで終わる雰囲気だし、飯もひとりで食ってる。会話というものをしないので自分の口調すらよくわからん。(この文章は意図的にぶっきらぼう感みたいなものを出しながら書いています。なぜ?俺にもわからない)
Twitterは一応やってるが、リプライはほとんどしない。まれに誰かが飛ばしてきたら「その通りですね」みたいに適当に同調するか、ファボだけつけて終わりにする。
32歳腐女子のエントリをみて「うわ、俺もアカンやんけ!」と思ったものの、恥じらうべき対象が特にいない。学生時代の友達とはもう何年も連絡をとってないし、職場では会話らしい会話をしないし、ネット友達もいない。
マジな話、俺にとって社交の場は増田だけだったりする。この匿名の後腐れのない感じが肌に合うし、逆に他のあらゆる顕名サービスは肌に合わないような気さえする。
なにが言いたいかわからなくなってきた。つまり、俺は中学生みたいなファッション・無趣味・無コミュニケーションっていう結構アカン暮らしをしてるんだが、友達が全然いないせいでそのヤバさというものを実感していないってことだ。
というか、別に気にしなけりゃいいよな。汚ねえオッサンだと思われるなら思われればいいし、孤独死する異常独身男性と哀れまれようと俺がいまの暮らしの中で感じている楽しみは(少ないが…)揺らがないわけだ。
友達がいなくて良かったと思う。自分を客観視する社会的な視点というものがないから特に危機感なく暮らすことができている。寂しさは増田が癒してくれる。ありがとう増田。愛してるぜ!
友人達が私の目の前を歩いている。楽しそうに話しながら。私はその後をついていく。広い歩道に出たので、反対方向への歩行者を確認してから横に並ぶ。会話に相槌を打つ。ねえ邪魔になるよと言われる。私は後ろに下がる。2人が並ぶうしろを歩く。
私はどこでも通行者の邪魔をしてしまうらしい。博物館や美術館へ行く。列に並んで展示物を見る。導線を遮っていると注意される。あれすごいねと胸の前あたりで展示物を指差してみる。指なんか出してつつく気?触っちゃだめじゃんと注意される。
また別の友人だが、待ち合わせで人混みの中にその人を見つけて手を挙げて合図した。なんどか待ち合わせして、ナチ式敬礼の真似をやめろと言われた。
以来、手を振るのがこわい。
何故だかいつもひとりになる。いつの間にか会話から弾かれてしまう。いつの間にかフォローが切られる。いつの間にか誘っても断られ、同じ場所を別のひとと訪問される。目の前で、極端なときには私を挟んですわって頭越しに、私には分からない会話をされる。私が薦めても本も映画も舞台も展示も流されるが、別の人からだとすぐに反応する。
特定のひとりではない。私の友人は皆が皆、知り合った当初はともかく、いずれこうなる。そして、互いに面識もないのに、××さんだから仕方ない。と口を揃えて言う。こうも大勢が言うのだから、私に非があり、原因があるのだろう。そこははっきりと明確だ。
レスポンスが返らなくなった友人に、まただ。とまず思った。なにを私はやったんだろう。質問に答えた。不明な点があったからこちらから質問した。そこで途切れた。事務的なやりとりだったはずだ。どこがおかしいのか。DMのログを見てもわからない。
最近、他人と話すのがおそろしい。このひとだっていつか半笑いで××さんだから。と言うのだろう。私を介して別の私の友人と仲良くなって、その友人とふたりで談笑しながら歩くのだろう。ある日突然、Twitterのアカウントをブロ解するのだろう。そのたびにいいとしをして泣きたくなって途方に暮れるとわかっているのに、それでもあのひとと話したい。怖くてさみしくてどうしてよいのかわからない。
彼女は何かに対して根拠のある価値判断を下せることを知っている(匿名でそうしているのをうっかり見たことがあるからだ)。
一方で、自分の意見をSNS等の知り合いが見れる場所で表明しているところを見たことがない。それどころか、意見表明ですらない事務的な文章でさえみられるのを嫌がる。
文章作成に対してコンプレックスがあるのだろうか?意見を言うことにダサさを感じているのだろうか?
どういう心理でそうしているのか聞いてもなんとなく嫌としか言われない。自分はそういうスタンスをまったく取らないので、正直理解しがたい。
彼女にその態度を改めさせたいわけではないが、いろんな事物に対して何を思っているかは知りたいし、意見を交わしてみたいと思っている。
機械的に生成されたものでなく、他人が自分のために手を使って書いてくれたメールとか特に
別に数独がやりたいわけじゃない。メールを開きたくなくてそれ以外のことも何もしたくないだけだ。
スリップダメージがずーっと続いているような感覚でただただ胸がチリチリする
細かい感情とか抜きにして事務的にメールを開き、事務的にわかっていることを書き、わからないことはわからないと書いて返信すればよいのだ。
でも胸がチリチリして体が動かないんだ。多分発達障害的な何かなんだろうな。
望んでやっていることなのに、手続きが少しでもイレギュラーになった途端すべて投げ出したくなるこの感じ。
お笑いは好きだが関東在住のため、俗に言う「関西お笑い」にはあまり触れていなかった
賞レースで決勝に行った大阪よしもとの芸人をテレビで見たり、そこからYouTubeで周りの芸人のネタを発掘してみたりするぐらいだった
「てんしとあくま」の存在自体は多分6、7年前くらいからぼんやりと知っていた
M-1やキングオブコント、上方漫才大賞などの賞レースでちょいちょい名前見るな〜という程度の認識だった
2015年の「おもしろ荘」で初めて地上波でネタを見た 面白かったという記憶はあったがどんなネタだったかは忘れた
今年3月の「ザ・ベストワン」でもネタを見た これも面白かったんだけど次の日にはもう忘れていた
漫才劇場(俗に言うマンゲキ)にレギュラーで出演されていたらしいから、関西の劇場に通うファンならお馴染みの存在だったのかもしれない
関西のよしもと芸人によくいるネタはどれも水準を保って面白い優等生タイプ、でも平場を見なければインパクトに欠ける、ただハマる人はめちゃくちゃハマる、ハマらない人にはすぐ忘れられるという印象だった
最近の若手芸人にいるような「チャラ男で派手なパリピ」「元消防士から芸人に転身」「芸人と並行して税理士をやっている」といったキャラ付けも無かった
そんな芸人はごまんといる そういう人らに限ってネタは面白くて、でも世間に評価はされない
だから二日前、ツッコミの川口さんの訃報をネットニュースで知るまで久しく「てんしとあくま」の存在は頭からサッパリ無くなっていた
サッパリ無くなっていたというのに、衝撃だった
てんしとあくまがそんなに印象に残っていなかったただの一お笑いファンだったはずなのに、泣けて泣けてしかたなかった
てんしとあくまを真剣に応援していたファンの方の気持ちなんてこんなもんじゃないだろう
他の芸人のTwitterの呟きも見たが、「まだどう受け入れていいのかわからない」というものが大半だった
訃報が出たその日に行う予定だったZOOM配信や生放送が次々と中止になった 「諸事情により急遽中止します」という事務的な連絡で
なんだろう、対して追ってなかったはずだったのにこの喪失感は
心にぽっかりと穴が開いたような、ってこういうことか
ああそうだそうだ見たことある、と思い出せるものばかりだった チューリップの漫才や椅子のコント
面白いなあ
今まで頭の片隅にぼんやりと存在していたてんしとあくまの存在が急激にはっきりとした輪郭を持ち始めている
いやなんでだよ M-1決勝進出とかにしてくれよそういうのは なんで訃報なんかで初めててんしとあくまの存在をはっきり意識しなきゃいけないんだよ
今も頭の中が川口さんのことで埋め尽くされている 対して好きじゃなかったくせに
36歳なんてまだこれからだよ
一人の芸人が亡くなったんだなあ
うわなんかすごいやだな