はてなキーワード: 追従とは
企業内保育園は本社勤務の一部の人だけだろ。各百貨店に派遣される美容部員たちには何の恩恵もない。
資生堂のような大企業が今まで「時短社員は戦力外」と考えていたことが明るみに出たことや、資生堂のほかの施策を知らない中小企業の経営者が、今後、「資生堂ほどの企業でさえこう言ってる!うちみたいな弱小では云々」言い出して、ただでさえ冷遇されがちな中小の育児中の社員をさらに締め上げていく構図しか見えないから反発してんだよ。
一営利企業に少子化対策をしてもらう必要はないかもしれんが、たくさんの中小企業は大企業に追従するので、彼らへの影響力が大きいことをよくよく自覚してほしいとは思うよ、資生堂さん。
さて...どうやって実現するかということですけども。
競合他社が4社以上あると、価格競争がすんごい勢いで進行するんですよ。
携帯にかぎらず。
イーモバとかあっさり買収して傘下のヤフモバにしちゃって、本体無料貸与型の超低価格キャリアの最低ラインをまさかの\2980という低価格とはいえない高値に設定して、そしらぬ顔してやがんの。
でもってD社もA社も都合がいいってんでやっぱりしらんふりしてやがんのな。
前例を孫がやってくれたもんだから、それに迎合して追従すればいいんだもの。
われわれからすれば、それじゃあ低価格っていえねーよって感じなんですけどね。
ちょっと前にトヨタがスバル自動車買収したりマツダと技術交換の形で提携したでしょ。
あれはプレスリリースや新聞には、販売の集中と選択とか、技術の向上とかカッコイイこといってますけど、要するに価格競争でお互い疲弊してつぶれないように、カルテル組んでるのと一緒なんですよ。
客の取り合いしなくてもいいように、作る車種やランクを各社でかち合わないようにする為の申し合わせみたいなものでしょうから。
おかげで車体価格は上がる傾向ですよね。
もっとも装備も性能もよくなってるからコスパで考えると安くなってると思うのですが、実際に客が企業に支払う額はトータルで上昇傾向にある。
安くならないんですよ。
どうやっても。
使いなれた商品やサービスの内容が横並びならば、年々価格が安くなるのが理想でしょ。
それなのに、ならないようにコントロールしやがっちゃってるんですよ。
ぐぬぬ。
女性解放運動の象徴であり窮屈な衣服しかなかった時代に画期的な運動着だった『ブルマー』が、後に「ブルセラ」として性消費の象徴になったことからも、「これはこれでアリ」順応力の高さを舐めちゃだめ
マジだ!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC
19世紀中頃、コルセットで腹を締めるような当時の下着に反発した女性解放運動家によって、自由度が高くゆとりのある下着として考案された。これは旧弊な拘束型衣服からの女性衣服の転換という革新的なものであった。
ショーツ型ブルマーをオリンピックで最初に採用した国は旧ソビエト連邦
大国化と近代化を目指していた戦前の日本で、ブルマーが普及するまでは教育現場や学校で体操時に女性が着用した運動着は従来からのもんぺぐらいであったため、新しいウェアは非常に斬新に映り、全国の学校の標準運動着として採用された。
ずり落ちたり引きつったりせず軽量で、動きに対しても体に密着したショーツ型のブルマーが、オリンピックや国際競技の場で公式に使用されたことで、女子体操服の代名詞としてブルマーの認識が広まり、小学校・中学校・高校・日本人学校などで、指定体操着として採用されるようになった。
化学繊維とニット素材の発達により、ブルマーは臀部にぴったりフィットしたショーツ型へと進化した。このタイプのブルマーが日本で普及していくのは、1964年東京オリンピック以降の1960年代後半からである。
ブルマーは下着のショーツに対し、概ね以下の相違点がみられる。素材はナイロンやポリエステル等の厚地で伸縮性がある。色が濃紺やえんじ色等の濃い色調の色が用いられる。腰のゴムが太く、裾にゴムが入っている。内側にショーツを穿いた上から重ねて穿く。クロッチが必要ないため、二枚布を股間で縫製する。股上が下着に比べて深い。
スポーティーで格好いいと好意的に受け止められる向きがあった反面、性的な羞恥心が強くなる思春期の女子にとっては潜在的な抵抗感もあったという。軽量で動きに対する追従性が良く、各種スポーツに好適であった。しかし、初経を挟む前後1年からヒップが大きくなり始めて、初経の1年後以降になるとヒップから殿溝にかけてボリュームが生じ、ブルマーの裾からヒップが露出したり、ヒップが露出しなくても臀部のラインが目立ったり、女子生徒・児童向けのジュニアショーツがフルバックタイプで、ブルマーの裾からショーツが露出するいわゆる「ハミパン」が生じやすいという問題もあった。そして、座るさらには座って開脚する際、下半身で股間周辺以外の部分が露出される問題もあった。
1993年、広島県立井口高校や東京都立F中学校の体育祭のビデオが市場に隆注していることが判明する。1990年代に入ると、それまでは一部のマニアのものであったブルセラ趣味が商業的に展開され、女子生徒から着用済みのブルマーやセーラー服などを買取り販売するブルセラショップが誕生した。ブルマーが性的好奇心の対象として一般に認知されるようになると、運動会などの学校行事においてブルマー姿の女子生徒を盗撮したり、校舎に侵入してブルマーの窃盗をはたらいて逮捕されるといった事件が、社会問題として取り上げられるようになっていった。
ジェンダーフリー教育論者の中からは、通常体育の授業時は男女別服装である合理的理由はなく、男女平等教育の観点に照らして男子・女子とも同じ運動着を着るべきであると主張する人々も現れた。
公立校は2004年、私立校でも2005年を最後に、女子の体操着としてブルマーを指定する学校は日本から消滅した。2000年代後半あたりまで9割以上が生産を打ち切っており、現在は店頭をはじめネット通販でさえ入手困難な状態となっている。しかしオーバーパンツ(見せパン)としての用途や保温性の高さにより、現在でも生産され、利用されている。
取るに足らない雑談だ。
「色々あるけど……安く買い叩く対象が人間。つまり搾取で経営を成り立たせていることかな」
「模範解答。で、そんなもので成り立たせているもんは失敗すべきっちゅう話やな」
僕の丼にも乗せようとしてくれたが、手を振って「いや、いい」という意思を示した。
「更に歪なんは、経営としては失敗やのに、事業としては失敗してへんのよ」
「何でやと思う?」
「何で?……まあ、経営の正しさが、事業の成否とは関係ないってこと?」
「もうちょい狙い撃ちした答えでもええんやけど。まあ、そういうこっちゃ。やったら、事業の成否を何より優先するっちゅうやり方は、企業としては正義なわけや」
「それは……どうなんだろう?」
「やから、歪やっちゅうとんねん。経営として歪やのに、歪やない経営を重んじた企業より上になるという事実が」
「まあ、僕もそう思うけど。事業的に成功している以上、経営に成功していると言うしかない」
僕は手元にあったポットを掴むと、空になった友人の湯飲みへとお茶を注ぎながらそれを聞いた。
「そうや。つまり経営として歪やのに、事実上は認められとんねん」
「認められているって……だったらこんな風に『ブラックやブラックや』と騒がれてないだろ」
友達は沈黙すると、牛飯をかきこむ。僕も牛丼に手をつけ始め、友達が次を答えるのを待つ。
僕自身に答えを言わせたいのだ。
「あっ……分かった」
友達は、租借していた牛飯をゴクリと飲み込むと、箸で丼をチンと鳴らした。
僕はその答えをまだ言葉にしていなかったが、友達は答え合わせをするまでもなく、理解して話を進めた。
「ま、アレやな。まとめとしましては、ブラック企業が歪なんは、人間そのものが歪やからっちゅうことで」
「その無理やりな纏め方やめい」
牛丼を食べ終えて店を後にする。すっかり真夜中になっていた。
友達は「甘いものが欲しい」とコンビニに寄ることを提案し、僕もそれに追従する。
友達がスイーツを選ぶのを待ちながら、僕は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。
ふと、そんなことを考えている間に、友達の買い物は終わっていたようだ。
「え、何が?」
「古今東西、社会的弱者の搾取で成り立ってきた歴史があるわけやん。ええか悪いかでいえば、間違いなく悪いけど。日本かて、他国から搾取してたし、してるやん。その恩恵を享受しておいて、何で今さら糾弾するんやろ」
僕が答えようとすると、それを静止するため、袋を持っていない方の手を僕の前に突き出した。
「……あ~、言わんでいい。それ、たぶん言葉にすると結構キツいやつやわ。直視したない」
その後、ふと上を向きながらつぶやく。
「コンビニみたいに便利なものの弊害が取り沙汰される反面、人を殺す車は今でも道路を走って、人を依存させるスマホが普及して。みんな、どう自分の中で必要なものとそうじゃないものの線引きしてるんやろなあ」
「ノーベルはニトロの運搬とか、ダイナマイトが戦争で使われてたくさんの人を死なせてしまった。でも、それはニトロやダイナマイトが悪いわけでも、ノーベルが悪いわけでもない。まあ、彼に責任がないとは言うつもりはないけれど、要は『人による』、『ケースバイケース』ということ」
「便利な言葉やな~。今どき学生でも使うの躊躇うで。そんな月並みなん」
「いいんだって、月並みで。間違ってはいないんだ。便利なのがあれば、使ってしまうのは人間の性だろう」
僕の笑みに友達も追随し、酒も入っていないのに高いテンションで天に両手を突き出し、変なポーズで声を張り上げる。
「せやな。ワシらみたいな一般ピーポーはそれでええんや。何もかんも企業が悪い! 政治が悪いんや! 敵は企業と政治や!」
「ははは、当面はな。つうか、真夜中やから静かにせい」
松信章子
最近、心底残念に思った事件は、田中元外相の涙をめぐるコメントの数々です。小泉首相の「涙は女の最大の武器」という時代錯誤もはなはだしい言葉。改革を唱える小泉さんにしてこの言葉とは、天を仰いでため息をつくばかり。そしてこの発言に対し、バカにされおちょくられた女性側をふくめて、誰も深く追求しなかったことは情けないかぎり。反論しなかったことは認めたことと等しいと思えば、女性側の鈍感さと責任を問われても返す言葉もありません。まして数ある小泉内閣の女性閣僚の誰一人、この侮辱的発言に対し毅然として問題点を指摘しなかったことは残念無念の一言に尽きます。
「私も素晴らしい男性の前で涙を流し『武器だ』といわれてみたい」とおっしゃる川口新外相。百歩ゆずって不用意に出てしまった言葉だとしても、この言葉を聞いて裏切られた気持ちになった女性は多いはず。こういう言葉は、普通、一人前の女性なら絶対に言いたくないほど恥ずかしい言葉だと思うので。まして川口さんには古い体質を引きずった外務省たてなおしに国民の期待が高いのです。それなのに、ボケと突っ込みのようなこの首相お追従の言葉は、古い女性観、社会観を変えるのに何の役にも立ちはしないばかりか、女性は所詮こんなもの、という偏見を女性自らが追認したと同じこと。田中さんにしても、もし涙を「武器」として使ったのでなかったならば、小泉発言にきちんと異議を申し立てるべきではなかったでしょうか。どこぞのパーティに呼ばれた、呼ばれなかったという話より、こちらの方がよほど重要な問題です。なぜならこの問題は日本社会のゆがんだ女性観と深く関わっているので。これぞ本質的な「スカート踏みつけ」発言だと思うのですが。
いったい、女性の涙は何に対する武器なのですか。はっきりさせてもらいたいものです。田中さんの涙は小泉首相の決断に何らかの影響を与えたのですか。そんな様子はチラとも見えませでしたが。小泉さんは自分にとってなんら「武器」と思っていない田中さんの涙を「あの人は武器として涙を使っている」とおもしろおかしく論理を捻じ曲げることで、問題の本質をそらし、ワイドショー的な全く次元の違う話におとしめてしまったのです。ワイドショー的な事件となったために、田中人気が盛り上がり、小泉さんは墓穴を掘ったような結果になったのは皮肉としか言いようがありませんが。まったく演歌の世界じゃあるまいし、公の場で女の涙が本当に武器として有効であるならば、話は簡単。私たちは女性を一万人くらい国会の前に召集し、みんなで泣いてやろうではないですか。政、官、財をもっぱら牛耳ってきた男たちが作り上げた日本社会の構造的問題と無責任体制を嘆いて、泣き女に変身するくらいはお茶の子さいさいの話です。
泣くのは女だけではありません。男ももちろん泣きます。そう、鈴木宗男氏は、田中元外相よりもよほど派手に泣いたではありませんか。田中さんは「武器」として涙を使い、鈴木さんはそうではなかったと言うのでしょうか。あの二人の涙が、不随意筋の作用によるものであったのか、あるいは意図的な「武器」であったのか、真相は誰にも分かるはずもありませんし、どちらでもいいことです。首相たるもの自分の閣僚が大泣きをしようが、ウソ泣きをしようが、そんなことは一切無視すべきだったのです。それが「武器」を無効化するのに一番有効な手であるはずですから。そして、一国民として言わせていただければ、どんな涙を流そうが、涙だけであの二人に対する評価に何の変化もありはしないのです。
問題は「女の涙」のみ特別視されることです。そして「女の涙」を特別視し、それが「武器」だと思っている男の考え方なのです。いや、もしかして本心は「武器」とすら思っていないのにもかかわらず、「武器」だと言い張っているだけかもしれません。いずれにしてもこういう言葉が、公の場で国の指導者から出るということはなんとも許しがたい話です。なぜかと言うと「女の涙」発言の裏には「女は感情の動物で論理的ではない」、そして感情に訴えられたら「論理的」であるべき男は太刀打ちできない、といった思想が流れているのは明らかですから。小泉首相的な発言は、極論すれば「涙」くらいしか、女は男とわたり合う能力がないと言っているのと同じこと。まったく、小泉さんの女性閣僚は本心ではどういう気持ちでこの侮辱的発言を聞いたのでしょうか。そして、この偏った視点を全然問題にしなかった日本のメディアの鈍感さをいったいどうしたらいいのでしょうか。
残念ながらゆがんだ女性観は社会に蔓延し、仕事場であれ家庭であれ、日本の女性が始終直面している問題です。ですから、言葉尻を捕えているように思われようとも、「涙は女の武器」発言にきちんと異議を申し立てないわけにはいかないと思うのです。なぜって「女は感情的だ」という思想の延長線上には「だから、女と一緒に仕事はしづらい。女は仕事には向かない。女が組織をまとめるなんてとんでもない。」というような思想が展開するのはごく自然のことですから。女性が心しておかなくてはならないことは、こういう考え方は男性にとっては古着のように馴染んだもので、違和感なく受け入れやすい結論だということ。そして、こういう言葉は無意識のうちに、女性自身の視点、考え方にも影響を与えてしまうということです。でも、涙が「女の武器」だと信じられている間は、私たちは「泣く子と地頭」なみに厄介な存在だと思われていて、決して一人前の人間として対等に扱ってもらっていないと言うことをお忘れなく。まかり間違っても、涙を「武器」に社会をわたっていこうなんて思っても、必ず馬脚をあらわして、人の尊敬を勝ち得ることはまず難しいということもお忘れなく。
「4コマ漫画」は「コマが4個並んでいる漫画」とは違うんです!
俳句が、ただ五七五のフォーマットに従っているだけでは駄目で、季語を伴っていないと俳句と呼べないように、4コマ漫画も「起承転結」を土台に組み上げられることではじめて「4コマ漫画」と呼べるというのが私の考えです!
じゃあそもそも「起承転結」って何なのよ、と言われそうなので、私の考える「起承転結」を説明したいと思います。
例えば
{1, 2, 3, 4, 5}
という数列があったとします。皆さんはこの後に 6 が続くだろうと予想しますよね?
そこで
{1, 2, 3, 4, 5, 8, 9, 15 ...}
と続きを見せることで、読者に「あれ?予想と違うぞ?」と思わせます。これが「転」です。
事前のストーリーの流れで何らかのパターンを作っておいて、そのパターンをがらっと変えるのが「転」の役割です。
「承」で「{1, 2, 3, 4, 5} と来れば次は 6 だろう」と思わせておき、「転」で 8, 9, 15 と流れを変えて「あれ、おかしいな?」と思わせて、最後に
「実はこの数列は、A(n) = n ではありません。正解は
『n および n + 1 の約数がすべて 5 以下となるような自然数 n を小さいものから順に並べたもの』
でした!」
という種明かしをして「なるほど!(スッキリ)」とさせる、これが「結」の役割です。
和音進行で例えると、ドミナントコードの不安定な状態から、トニックに推移して解決するという構造に似ています。
もしも「転」で「あれ、おかしいな?」と思わせなければ「結」の種明かしのオチが活きてきませんよね。
「転」が充分に機能することで、はじめて「結」の面白さが出てくるのです。
もしも初めに見せられた部分数列が {4, 5} の二つだけだったら、
{4, 5, 8, 9} ... と続きの数列を見せても、あまり「あれ?」という感じにはならないですよね。頭の中でパターンが出来ていないためです。
はじめに {1, 2, 3, 4, 5 ...} というまとまった長さの数列を見せることで、はじめて読者に「次は 6 が来そうだな」と思わせることが出来て、「転」に繋げることが出来るのです。
このように、読者の頭の中に何らかのパターンを想起させるのが「承」の役割となります。
「承」が充分な力を持っていないと「転」が死んでしまいます。当然、それにつられて「結」も死ぬことになります。
なお、一番シンプルで分かりやすい「承」の作り方は、「似たような場面のコマを2つ連続させる」などが挙げられます。(サザエさんによくある)
既に「承」「転」「結」で言いたいことをほとんど言ってしまったので、「起」について特筆すべきことはないのですが、敢えて役割を定義すると
と言えます。さきほど、与えられた部分数列が {4, 5} だけだと「承」が活きてこないということを説明しましたが、「承」を活かすための情報({1, 2, 3})を渡してやるという重要な役割を担っています。
以上で起承転結それぞれの役割について解説しましたが、これらの要素がそれぞれ独立して生きているわけではなく、相互作用をすることではじめて全体として意味をなすこと、どれか一つでも欠けるとその他の要素がすべて死んでしまうことがお分かりになるでしょうか。
この考え方を意識しながら、あらためてサザエさんやコボちゃん等を読んでみてください。話そのものが面白いかどうかは別として、構成がきちんと「起承転結」を意識して練られていることが分かるのではないかと思います。
このエントリで言いたいのは「もっと起承転結を意識して4コマ漫画を構成してほしい」ということであって
ということでは決してありません。
また、起承転結のいろはを充分に理解した上で、敢えてそれを崩す(守破離)という手法も全然ありです。
例えば1コマだけでストーリーのコンテキストを読者に存分に伝えられる能力を持つ漫画家であれば、「起・承」を一つにまとめた3コマ漫画というフォーマットを確立することも出来るでしょう。
最終的には面白ければ何でもありなのですが、少なくとも基本的な型はマスターしていて欲しいです!
クラシックでは、ハイドンやモーツァルトが交響曲の型(ソナタ形式・緩徐楽章・メヌエット・ソナタ形式からなる四楽章構成)を作り、ベートーヴェンなどがその形式を追従しつつ声楽など新しい要素を取り入れ、マーラーが交響曲の体裁を保ちつつフォーマットを大胆に崩す、といった歴史がありますが、それは交響曲というフォーマットが充分に確立されていたからこそ出来たことなのです。
凶悪犯罪の件数の推移だけ見て「犯罪減ってます、はい論破!」は無意味。
そして、私たちの実感からいえば、凶悪犯罪は間違いなく増えてる。
では、犯罪の件数自体は減っているのに、なぜ私たちはそのように感じるか?
これは地球規模で、そして歴史的な規模で進行していることであるが、
病気で死ななくなった。事故で死ななくなった。そして、事件で死ななくなった。
私たちは、人類の歴史上、もっとも死から遠ざかった不死に近い人類なのである。
凶悪犯罪という行為は、そんな死ななくなった私たちを殺す行為なのである。
誰も死なない時代に、人の手で、残酷に誰かを嬲り殺す行為なのである。
それが、凶悪でなくてなんというか?これは、神殺しにも等しい行為だ。
誰もが簡単に死に殺す時代の凶悪犯罪というのは、凶悪ではなかった。
凡人でも、用意に出来ることだったのだ。当然、凶悪犯罪が多いという実感もない。
現代日本と古代ギリシャで奴隷を持つという行為がイコールでないように、
行為を評価するには、時代の背景や、もろもろの影響もコミコミで考えるべきなのである。
もう一度いう、若者による凶悪犯罪が増えてるという認識は100%正しい
<追記>
マスコミの影響を指摘してるコメントがいくつかあるが、因果関係が逆だぞ。
マスコミの報道によって私たちが凶悪犯罪を凶悪だと感じるようになったんじゃなく、
私たちが凶悪犯罪を凶悪だと感じるようになったから、ニュースバリューが生まれて、
ここ最近で議論してる業務システムの権限周りについてのこと・・・
らしいようだが、パッと見してから少し読み込んでみたけどさっぱりわからん。
「こうやってまとめてみました。ドヤァ!!!!」
ということなんだけど、
残念ながら・・・・
「いいたいことはわかります、部長の目線でこういう風に整理されたんですねー」
「部長の頭ってこうなってるんだー」
個々人の思考や記憶が並列化できている状態なら、このマインドマップは簡単にメンバー間で共有化され、
作成者の思考や意図を寸分たがわずに全員が瞬時に共有できただろう。
誰もが部長の思いを齟齬なく受け入れられる[評価はまた別です]だろう・・・
でもね、そんなことまだまだ無理なんです。
脳みそにナノマシンをたぷんたぷんに注入できないし、義体化とかしてないし・・・・
だから、マインドマップみたいな自己満で「意識高くなりたい系」のツールをぶっこんできて思考や意識、集団の記憶の統制をはかろうとする、
カスなアイデアを当て馬で挙げといた後で、これまで上がった案のいいとこどりをスナッチする
経費削減だとか言って安物PCを購入させる上司はほとんどの場合が無能.
月1回だけ誰かが使用する何かの専用システムコンソールとかなら安物でも構わない.
まず,CPUは一番高いのを必ず選ぶ.
少し考えれば分かる.いつも開いているWordやExcelの起動が2,3秒早くなるだけで,一年を通してどれだけ作業が効率することか.
作業中のイライラが低減するだけでどれだけ会社の雰囲気がよくなることか.
コアが増えても速くはならない可能性もあるが,今後のソフトウェア進化に追従するためにも一番高いのを買っておくべき.
もちろん,普通に使っていれば使用することはないが,ディスクキャッシュとして使用すれば,やっぱりWordやExcelの起動が速くなる.
VMを使用することで作業効率を向上することも考えられるだろう.メモリが大いに越したことは無い.
ただ,容量を多くする必要はない.
大切なのは速度であって容量ではない.容量が多くなるとロストしたときのダメージがでかい.
別途NASなりクラウドストレージを用意してバックアップすることが基本.
注意するのはメーカー.怪しいメーカーのSSDはスピードが出ない場合もある.
安心のIntelを買うか,ベンチの情報をしっかりチェックする.
一般的な職種の人でも最近だとビデオ・写真の編集を行う場合がある.ただ,安物やチップ内蔵でも最近は余裕の性能がある.
ここだけは値段を確認しながら選ぶ.高すぎる物は買っても意味が無いし,消費電力が増えるだけである.
馬を乗り換えることはあっても鞍を乗り換えることはない.
その人にあったインタフェースを長く使うことでより作業が効率化する.
http://b.hatena.ne.jp/entry/kyoumoe.hatenablog.com/entry/20150211/1423580651
id:wideangle 当事者が実際の生活や書籍で得てきた知見に対しGoogleで調べてみますた知識で腕ブンブンしてるんだからタチ悪いし、自分の言葉が他人に受けとられるときどうなるかの自覚もないの、本当にどうにもならん……。
id:kyoumoe 当事者じゃないので調べる以外の知識は一生蓄積されないです、申し訳ありませんね/「書籍に当たってないことの正当性」とか書いてないことを言ってる奴がいるので非表示にしますね
まずい事になってしまった
このまま行けばid:kanoseが「これはid:kyoumoeさんが悪いなあ」的なコメをするだろう(村長は間違ってるとあれば相手が島国大和でもきちんと言う)
そうしたらid:kyoumoeさんは逆上して村長までブロックしてしまうだろう
そうなったが最後、相乗効果でid:kyoumoeさんを味方するものは居なくなってしまうだろう
僕はid:kyoumoeさんのファンだ。常人ならWEB隠遁してもおかしくないようなある状況下に置かれても己を崩さず貫き通す姿勢が好きだ。
それはすなわち意志力の強さだ。腐ったWEB社会にはid:kyoumoeさんのような人が必要だと思っている。
だから僕はid:kyoumoeさんには一定の影響力を持っていて欲しい。だが権威id:kanoseにこのタイミングで見限られたら、id:kanose追従でしか物を考えない全はてな住民から見下されるハメになり、居場所が無くなってしまうのは明白だ。TM2501のように。
そうなった時の事を考えて僕はid:kyoumoeさんに新しいステージを用意したいと思っている
■本流
http://mastiff.2ch.net/nanmin/
作画を語るスレ避難所354 [転載禁止](c)2ch.net
http://mastiff.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1423658884/(現時点最新)
■サブ
http://yomogi.2ch.net/asaloon/
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/asaloon/1421591746/(現時点最新)
作画を語るスレはインターネットの歴史上見ても特異中の特異とも言える独自のコミニュティを形成し、それはどの世界のどの分野にも類しないものになっている
そのスレッド文化と歴史は一つの思想であると言っても過言ではない
何も意味なくid:kyoumoeさんを作スレに誘うわけではない。きちんとした理由はある。
以前「惡の華の動きが気持ち悪すぎる」という記事を書いた時、煽りのつもりでTHE八犬伝~新章~の第4話「浜路再臨」の動画をコメント欄に貼ったのは自分だ。→https://www.youtube.com/watch?v=ANc7jZy-TzU
ニワカコメントを引き出すための誘導尋問的な行為であったが、id:kyoumoeさんはこちらの意に反して「それ(浜路)の動きはちゃんとしてるからいいんですよ」という返しを頂いた。
この件だけでもid:kyoumoeさんは、潜在的に正しい作画観を持っていると確信しているのだ。
作画を語るスレはただの井戸端アニメコミュニティではない。インターネット文化を動かす熱量と重みを備わっている
売り上げを見守るスレや新番組を評価するスレ等といった百害あって一利なしのゴミスレッドとはわけが違うのだ
しかし不遇にもインターネットは作画を語るスレを軽視しすぎている。あまりにも無理解だ。
ちゆ12歳にまとめられてもおかしくないエネルギーを持ち合わせたコミニュティであるのにも関わらず現在まで軽んじられてしまっている
その現状を打破するためにもid:kyoumoeさんの力が必要なんだ
少しでも苛立つことがあったら、遠慮せず記事にして報復するのがやらおん
それに加えて、作画スレはやらおんの情報源として継続的に監視されている
アニメ-ターのゴシップ掲載はPVを稼ぐと同時に作豚への嫌がらせでもある
そしてお前ら作豚はそれを分かった上で、煽り貶しとセットでやらおんやらおんと連呼する
完全に無視を決め込むのが得策。けれど義憤から挑発してしまう作豚
「ほら、ここに餌置いといてやるよ。けけけネタに出来るもんならやってみろ」
やらおんが反吐が出るくらい嫌いすぎるのに記事の掲載を止められない無力感
だから記事のネタを自ら投下して、少しでも相手側をコントロールした気になってる
知らない内に好きな人を傷つけられるのはもう辛い
それぐらいしか反抗の手がないから、誰かが一旦やり始めると追従する者も現れた
現状、複雑な思考が面倒になっている作豚たちは
やらおんにレイプされる可能性が低いアニメ-ターまで進んで差し出してしまうようになった
こんな馬鹿な話があるか??
寝取らせて興奮してんだ。最初の痛み忘れてんだ
今日もラノベを1冊読んだ。最近感じていたのだけれど、今日の一冊を読み終わった余韻から自分の中でラノベが一区切りついたのだと明確に体験できた。
触れ始めたころが一番面白かったのは当然なのだけれど、2008年くらいが一番面白かった。そのあとは電撃が拓いて他が追従する展開が目立ってきて楽しめなくなった。自分の中ではスニーカー+電撃の2巨頭時代が一番おもしろかった。そんな時代なかっただろ、と言われるのは承知だけれど。ひな形ができる前とでもい言えばいいのかな。いろんな文芸がラノベフォーマットに変換されて供給されていたと今は判る。
2010年くらいからネット小説経由の出版が目立ってきた。これは歓迎だった。そのころの「なろう」はまだむちゃくちゃでジャンルはいろいろあった。時間とともに淘汰されていってネット小説に求めているモノが確定した今では想像もできない。「楽園」どこいった。今なら「ReadME!」でも出版されるんじゃないかな。
で、粒ぞろいになったなと感じ始めたのが昨年くらい。ぼこぼこレーベルが湧いてきたころだ。自分をみつめると「拗ねた」んだと思っている。以前なら新刊の半分くらいは読んでいた。ジャンルを知悉している手ごたえが面白かった。そのうちに読んでない本が増えていって、その中からアニメ化がでてきて、このラノで上位を取る。読んでない本が流行りはじめると、どれだけ読んでも読んでもついていけない。
そして俺は拗ねてしまった。いわゆる「デビュー前からのファンなんだけどメジャーデビューして離れていった」層だ。特別扱いされていないと感じて拗ねるのだ。
いまラノベは夏なんだろう。やがて秋になり冬になる。私の中でラノベは季節が移ろった。それだけのことだ。楽しかったよ、ライトノベル。